これやりながらなんとなく考えてたことですが。
図書館総合展(横浜のほう)がどんだけ盛り上がって、人が集まった、ってゆっても、全国の図書館関係者のほとんどは、行ってないんですよね。行かなかったし、行けなかったし。
どんだけいろんな企業のブースがあり、どんだけ最新の機器機材類が立ち並び、どんだけ有名な先生なりスピーカーなりが集まり、どんだけ練られたパワポやレジュメが披露され、どんだけ熱のこもったディスカッションが繰り広げられ、そこで知り合えた人たちがどれだけ有用な人的ネットワークを形成できてたとしても、残念ながらそれらをいっさい見聞することなくスルーしてしまってる図書館関係者のほうが、圧倒的に多い。
これ、どうしたことだ、と思うわけですよ。
もったいなさすぎやせんか、と。
あるいは、閉ざされすぎてやせんか、と。エンクロージャーか、と。
いや、そりゃ当り前だろう、仕方なかろう、そういうもんじゃないか、と。おっしゃられるかもしれない。図書館総合展に限らず、ALAも日図協も大図研もIFLAも、どれもこれもが、そういうもんじゃないか、と。
そういうもんかもしれないけども、それを仕方ないだけでスルーすることにかなりの違和感を感じるのですが、それはあたしだけでしょうか。
それをスルーさせずにアクションを起こせるような、もっとこう、横浜の何某会場からどばぁっと開放できるような便利なツールが、もはやいまどきweb上にはガラクタ山の如く転がってるじゃないか、と。ちょっと思ってしまう。
いまや図書館系blogが百花繚乱で、総合展に関するレビュー記事も、ひとつひとつなんて追っていけやしないくらいに書いてくださってて、ありがたい限りではあるんだけど、そうなんだけど、んー、なんていうんだろう、参加者の「行ってきたレポ」としてではなくて、この、集まり自体、そこで起こっていることそのものが、どばぁっと放出される、ていう。リアルとヴァーチャルが入り乱れて、全国各地にいるめちゃめちゃ多くの図書館業界者が巻き込まれるような。
それはもはや”展”ではなく、”運動”のようなもの。
”渦”。
”ムーブメント”。
そして、”祭り”。
・・・・・・あかん、なんかめずらしく、岡本太朗みたいになってきた(笑)。
まあなんてんでしょう、自分自身にそんなものを興す力量なんかこれっぽちもないんだけど、ただ、そんな夢想すら非現実的とは思えないくらいに、web関係のツールっていろんなのがあって便利だね、ていう話でしたよ。
wikiとかtwitterとかflickerとかRSSリーダとか、クリエイティブコモンズとかAmazonとかdelisiousとか、チャットとかインスタントメッセンジャーとかmixiとかfacebookとかねとらじとかYoutubeとかニコ動とかSkypeとかLibraryThingsとかPortaとか文書共有サービスとか写真共有サービスとかスライド共有サービスとかはてなとかYahooとかGoogleとかはてなとかGoogleとかGoogleとかGoogleとか。
一応フォローしておくと、もちろん、リアルでその場に身を置いて、リアルで人に会って話して、ということの効用がヴァーチャルとはまったく違った意味で美味い、ということについては、↓こちら。
「ARGカフェ再録--ネットとリアルの境界線」(HVUday)
http://hvuday.seesaa.net/article/110227646.html
ロングコントとしてもあまり成り立ってなかったけど、極々私的にはなんとなくおもろかったし、いろいろ考えることができたので、気が向いたら来年とかにまた考えてみまぅす。
・・・・・・・・・ちがう、来年は本家に行きたい。
2008年11月30日
「極私的図書館総合展2008」をレビューする。(2)各論編
[twitter]
・軽いコメントを連続してつぶやいて、それをweb上に吐き出せる、という機能なのはわかった。
・それを使って、複数人と会話しているらしき人たちがいるんだけど、あれがどうもよくわかっていない。
・↑それをうまくまわしていけば(特定の複数人の会話がリアルタイムにblog上に表示されるとか)、ディスカッションとか懇親会とかの機能を持たせることができるんだろうな。twitterじゃなく、その他の、たぶん名前だけは既に知っている何かとかで。
・・・・・・・あれ、それってチャットじゃない?
[flicker]
http://oleo2008.seesaa.net/article/110265947.html
・色を添えるため、ビジュアルな企画が必要だろうと思う。
・こういう場所には展示会がつきものだろうと思う。
・公開できるようなビジュアルなコンテンツを自分が持っているとするならば、唯一あるのは、海外の図書館の写真でしょう、と。これはゆっちゃうけど、持ってますよ。ていうか、ここ何年かで何ヶ国の図書館に行ったことか。何ヶ国立図書館に行ったことか。(6-7くらいかな、国立は)
↓
・写真共有サービスとしてflickerを初体験。
・アップロードするシステムと、それにすぐさまタイトル・記述・タグというメタデータを入力できるというシステムが、存外にわかりやすく使いやすい。写真の整理なんか正直うっとうしいだけだろう、とこれまで毛嫌いしていたのだけど、システムとしてはだいぶ使いやすくできてはいるんだな、ということを体験する。
↓
・但し、残念ながらシステムがどんなに使いやすかろうと、写真を見てタイトルを、記述を、タグをひねりだすという作業そのものは、やっぱりとてつもなく面倒くさかった。写真のカタロギング、
・アップロードしたはいいが、そのたくさんの写真をどうグルーピングし、配列したらいいかの操作が、いまいちよくわからず、それを理解するのが面倒くさかった。
・もともと一切整理整頓しておらず、フォルダに日付だけ書いてつっこんでいたため、すべてゼロからの出発となってしまい、とてつもなく面倒くさかった。
・そして、そのフォルダをあさってみると、海外図書館写真を実はそんなにたくさん撮っていなかったことが判明。理由はたくさんあって、例えば、内部を勝手に撮影するのは礼儀として気がひけるため、あまり撮ってない。いくつか撮ってあるけどもたいていピンボケしている(腕が悪い)。ヨーロッパの各国の写真とかいかにも絵になりそうなんだけど、実はそのほとんどを写真ではなくムービーで撮影してしまっているので、展示しようとするとその中からひとつひとつシーンを切り出してやらなくちゃいけなくて、めちゃめちゃ面倒くさかった。
・結果、「火を噴くぜ」とかどっかで見たような惹句を掲げておきながら、不発弾にもほどがあるというていたらくで終わった。
↓
教訓。
写真共有サービスがどんなに使いやすかろうが、そもそも写真資料というもの自体、メタデータとりにくいわ、編集しづらいわで、よっぽど時間のかかるものであるから、その旨、心得ておくように。
[wiki]
http://oleo2008.seesaa.net/article/110300249.html
・えらそうなことゆってるわりに、これまでwikiを自分で使った事がなかった。
・とある理由で最近、「図書館におけるICタグ利用」について集中的に勉強し、その勉強メモがいい具合にあった。
↓
・@wikiを使用。ほかにどんなサービスがあるかは、残念ながら知らない。
・これまで食わず嫌いしてたけれども、実際に使ってみると、驚くほどすぐに慣れてしまった。
・但し、すぐに慣れることができたのは、すでに章立てまで終わってるほどに手持ちの勉強メモが整理済みだったおかげ、という説。
・あと、わかりやすさを覚えているのがひとえに@wiki専用タグのおかげであると思われ、ということはよそでは使えないのか、というおそれ。
↓
結論。
これからちょくちょく使わせてもらいます。
[ブログ検索とRSSリーダ]
http://oleo2008.seesaa.net/article/110383554.html
そういえば、去年ALA2007に参加したときに、「みなさんブログに記事書くときに、”ALA2007”ていうタグをつけてくれたら、その記事を自動収集してくれるwebサービスがありますよ」、ていうのがあったっけな。
↓これですわ。
「ALA2007+Web2.0=」(HVUday)
http://hvuday.seesaa.net/article/42817275.html
-----------------------------------------------------
・HitchHikr Page for ALA 2007 Annual Conference
http://hitchhikr.com/index.php?conf_id=212
なんやようわからんかったのですが、読めば、blogの記事やFrickrでの写真投稿の際に「ala2007」のタグをつけてやれば、このページがそれを自動的に集めてくれる、という仕組みらしいのですよ、江上の理解が正しければ。
-----------------------------------------------------
これ結局どういう仕組みだったんだろう。よくわかんないけども、でもまあ、こういうこともできる、ということで。
[やりたかったけどやり残したこと]
・自主制作演劇
・webラジオ
・次世代OPAC分科会
・Googleマップを使った何か
・軽いコメントを連続してつぶやいて、それをweb上に吐き出せる、という機能なのはわかった。
・それを使って、複数人と会話しているらしき人たちがいるんだけど、あれがどうもよくわかっていない。
・↑それをうまくまわしていけば(特定の複数人の会話がリアルタイムにblog上に表示されるとか)、ディスカッションとか懇親会とかの機能を持たせることができるんだろうな。twitterじゃなく、その他の、たぶん名前だけは既に知っている何かとかで。
・・・・・・・あれ、それってチャットじゃない?
[flicker]
http://oleo2008.seesaa.net/article/110265947.html
・色を添えるため、ビジュアルな企画が必要だろうと思う。
・こういう場所には展示会がつきものだろうと思う。
・公開できるようなビジュアルなコンテンツを自分が持っているとするならば、唯一あるのは、海外の図書館の写真でしょう、と。これはゆっちゃうけど、持ってますよ。ていうか、ここ何年かで何ヶ国の図書館に行ったことか。何ヶ国立図書館に行ったことか。(6-7くらいかな、国立は)
↓
・写真共有サービスとしてflickerを初体験。
・アップロードするシステムと、それにすぐさまタイトル・記述・タグというメタデータを入力できるというシステムが、存外にわかりやすく使いやすい。写真の整理なんか正直うっとうしいだけだろう、とこれまで毛嫌いしていたのだけど、システムとしてはだいぶ使いやすくできてはいるんだな、ということを体験する。
↓
・但し、残念ながらシステムがどんなに使いやすかろうと、写真を見てタイトルを、記述を、タグをひねりだすという作業そのものは、やっぱりとてつもなく面倒くさかった。写真のカタロギング、
・アップロードしたはいいが、そのたくさんの写真をどうグルーピングし、配列したらいいかの操作が、いまいちよくわからず、それを理解するのが面倒くさかった。
・もともと一切整理整頓しておらず、フォルダに日付だけ書いてつっこんでいたため、すべてゼロからの出発となってしまい、とてつもなく面倒くさかった。
・そして、そのフォルダをあさってみると、海外図書館写真を実はそんなにたくさん撮っていなかったことが判明。理由はたくさんあって、例えば、内部を勝手に撮影するのは礼儀として気がひけるため、あまり撮ってない。いくつか撮ってあるけどもたいていピンボケしている(腕が悪い)。ヨーロッパの各国の写真とかいかにも絵になりそうなんだけど、実はそのほとんどを写真ではなくムービーで撮影してしまっているので、展示しようとするとその中からひとつひとつシーンを切り出してやらなくちゃいけなくて、めちゃめちゃ面倒くさかった。
・結果、「火を噴くぜ」とかどっかで見たような惹句を掲げておきながら、不発弾にもほどがあるというていたらくで終わった。
↓
教訓。
写真共有サービスがどんなに使いやすかろうが、そもそも写真資料というもの自体、メタデータとりにくいわ、編集しづらいわで、よっぽど時間のかかるものであるから、その旨、心得ておくように。
[wiki]
http://oleo2008.seesaa.net/article/110300249.html
・えらそうなことゆってるわりに、これまでwikiを自分で使った事がなかった。
・とある理由で最近、「図書館におけるICタグ利用」について集中的に勉強し、その勉強メモがいい具合にあった。
↓
・@wikiを使用。ほかにどんなサービスがあるかは、残念ながら知らない。
・これまで食わず嫌いしてたけれども、実際に使ってみると、驚くほどすぐに慣れてしまった。
・但し、すぐに慣れることができたのは、すでに章立てまで終わってるほどに手持ちの勉強メモが整理済みだったおかげ、という説。
・あと、わかりやすさを覚えているのがひとえに@wiki専用タグのおかげであると思われ、ということはよそでは使えないのか、というおそれ。
↓
結論。
これからちょくちょく使わせてもらいます。
[ブログ検索とRSSリーダ]
http://oleo2008.seesaa.net/article/110383554.html
そういえば、去年ALA2007に参加したときに、「みなさんブログに記事書くときに、”ALA2007”ていうタグをつけてくれたら、その記事を自動収集してくれるwebサービスがありますよ」、ていうのがあったっけな。
↓これですわ。
「ALA2007+Web2.0=」(HVUday)
http://hvuday.seesaa.net/article/42817275.html
-----------------------------------------------------
・HitchHikr Page for ALA 2007 Annual Conference
http://hitchhikr.com/index.php?conf_id=212
なんやようわからんかったのですが、読めば、blogの記事やFrickrでの写真投稿の際に「ala2007」のタグをつけてやれば、このページがそれを自動的に集めてくれる、という仕組みらしいのですよ、江上の理解が正しければ。
-----------------------------------------------------
これ結局どういう仕組みだったんだろう。よくわかんないけども、でもまあ、こういうこともできる、ということで。
[やりたかったけどやり残したこと]
・自主制作演劇
・webラジオ
・次世代OPAC分科会
・Googleマップを使った何か
「極私的図書館総合展2008」をレビューする。(1)総論編
今週開催された、「極私的図書館総合展2008」(http://oleo2008.seesaa.net/)のレビューを書いておこうと思いますよ。
念のため。
極私的な「図書館総合展」のレビュー、ではないです。
「極私的図書館総合展」のレビュー、です。
行ってないし、横浜。
[発端]
・横浜の図書館総合展に、行けない。出張でとかではなく、私費・休暇ででも行けない。業務がサービス系で、穴を開けるわけにいかなかったため。
・横浜の図書館総合展が近づくにつれて、各所各者のblog・ML類の記事がどんどんと図書館総合展の話題一色に染め上げられていく。行きたくても行けない身として、悔しいというか、軽くイラッ☆彡とする。
・前週末にNF(京大の大学祭)に行って、ひさしぶりに教室展示とかをゆっくり見て回って、ああ、自主企画的なことっていいもんだなあ、という気分が熟成されてたっていうのがある。
・なんかだいぶ、書こうとして書いてなかったblog用のネタみたいなのがたまってきてた。
・世の中にいまだいぶ普及しているwebサービスってたくさんあるけど、そのうちの大半をまだ実体験してないし、ちゃんとわかってないなあ、ということを、最近twitterというものを経験することで、気付かされた。
↓
図書館総合展に行けない悔しさをバネとして、blogだけでなくまだ経験していないwebサービスを試しに使ってみながら、無精してたまっているネタをできる限りさらって集中的に更新するという振る舞いを、web上の自主企画のようにしつらえて「総合展」に見立ててみたら、なんかこう、わちゃっとしたロングコントのようなものになってくれるんじゃないか、という淡い思いつきに至る。
[経緯]
・ポータル的なのとして、「極私的図書館総合展2008」blogを設置する。
・経過を記録する簡便な投稿装置として、「場内FM」(twitter)を設置する。
・ベースを構成してくれるものとして、各blogにこれまで通りの記事を投稿する。それらをブースや分科会等に見立て、総合展blog上に「プログラム」として掲載する。←他所に既にあるものをヴァーチャルに再構成することで、あたかもひとつのまとまったコンテンツであるかのようにとらまえる。
・「企画展示」をflickerを使って設置する。
・「テクニカル・ブース」(ICタグ)を@wikiを使って設置する。
・「記者クラブ」と題し、横浜のほうの総合展のレビュー記事を収集できるRSSリーダーを、GoogleBlogSearchとGoogleRSSリーダーを使って設置する。
↓
以下、敗因。(「敗」!?(笑))
・思いついたのがあまりにも直前過ぎて、コンテンツの準備がぜんぜんできていなかった。
・思いついたのがあまりにも直前過ぎて、他者の協賛とか、考えるべうもなかった。
・ていうか、いい社会人が、仕事終わらしてへとへとになって帰宅して、そのあとできることっていったら、そんなに多かぁないよね。
・会期中に外出する予定が既にいくつも入っていて、更新する暇とか、実際あんまなかった。
念のため。
極私的な「図書館総合展」のレビュー、ではないです。
「極私的図書館総合展」のレビュー、です。
行ってないし、横浜。
[発端]
・横浜の図書館総合展に、行けない。出張でとかではなく、私費・休暇ででも行けない。業務がサービス系で、穴を開けるわけにいかなかったため。
・横浜の図書館総合展が近づくにつれて、各所各者のblog・ML類の記事がどんどんと図書館総合展の話題一色に染め上げられていく。行きたくても行けない身として、悔しいというか、軽くイラッ☆彡とする。
・前週末にNF(京大の大学祭)に行って、ひさしぶりに教室展示とかをゆっくり見て回って、ああ、自主企画的なことっていいもんだなあ、という気分が熟成されてたっていうのがある。
・なんかだいぶ、書こうとして書いてなかったblog用のネタみたいなのがたまってきてた。
・世の中にいまだいぶ普及しているwebサービスってたくさんあるけど、そのうちの大半をまだ実体験してないし、ちゃんとわかってないなあ、ということを、最近twitterというものを経験することで、気付かされた。
↓
図書館総合展に行けない悔しさをバネとして、blogだけでなくまだ経験していないwebサービスを試しに使ってみながら、無精してたまっているネタをできる限りさらって集中的に更新するという振る舞いを、web上の自主企画のようにしつらえて「総合展」に見立ててみたら、なんかこう、わちゃっとしたロングコントのようなものになってくれるんじゃないか、という淡い思いつきに至る。
[経緯]
・ポータル的なのとして、「極私的図書館総合展2008」blogを設置する。
・経過を記録する簡便な投稿装置として、「場内FM」(twitter)を設置する。
・ベースを構成してくれるものとして、各blogにこれまで通りの記事を投稿する。それらをブースや分科会等に見立て、総合展blog上に「プログラム」として掲載する。←他所に既にあるものをヴァーチャルに再構成することで、あたかもひとつのまとまったコンテンツであるかのようにとらまえる。
・「企画展示」をflickerを使って設置する。
・「テクニカル・ブース」(ICタグ)を@wikiを使って設置する。
・「記者クラブ」と題し、横浜のほうの総合展のレビュー記事を収集できるRSSリーダーを、GoogleBlogSearchとGoogleRSSリーダーを使って設置する。
↓
以下、敗因。(「敗」!?(笑))
・思いついたのがあまりにも直前過ぎて、コンテンツの準備がぜんぜんできていなかった。
・思いついたのがあまりにも直前過ぎて、他者の協賛とか、考えるべうもなかった。
・ていうか、いい社会人が、仕事終わらしてへとへとになって帰宅して、そのあとできることっていったら、そんなに多かぁないよね。
・会期中に外出する予定が既にいくつも入っていて、更新する暇とか、実際あんまなかった。
Amazon・wishlistは、例えばラーニング・コモンズの夢を見るとか見ないとか
(「欲しいもの(wish)はたいていAmazonにある。」から改題しました。)
ハーバードにいた頃の話。
文化風習のちがいを強く感じたことのひとつとして、この国の人たちの「人にプレゼントを贈る」ということに対するテンションの昂ぶり様、これは、ちょっとひとステップちがうな、という印象を受けましたよ。
ちょっとした記念日、誕生日、歓迎会、送別会、年中行事、宗教行事。何かにつけて、何かしらを、贈る。こまめに、頻繁に、そして楽しげに。
楽しげにっていうのがわりとキーで、そりゃもちろん、どんなものを相手に贈ろうか、相手にこれを贈ったらどんなに喜んでもらえるか、そういう贈る行為について贈り手側が楽しむ、ということ、これは日本でだってアメリカでだって同じくあると思うんですよ。ただ、同じ”ある”にしても、その”強さ”についていえば、アメリカさんのそれはだいぶ強いなどうも、ていう。例えば逆に、これを贈ったら逆に迷惑かしら、もう持ってるかしら、ちょっと高すぎて/安すぎてふさわしくないと思われちゃんわないかしら。そっちの感情だって、日本にもアメリカにも同じくあるとは思うんだけど、その強弱を比べ眺めてみると、アメリカさんのそれは言うほど強くないように見える。
贈り手側”も”楽しい・嬉しいではなく、贈り手側”が”楽しい・嬉しい。自分が贈りたいから、贈る。自分が、相手の驚き喜ぶ顔を見たいがために、贈る。しかも贈る品だってたぶん、「自分がこれを贈りたい」から、贈る。そっち方面のベクトルが存外に強いお国柄なんだな、というふうに感じておりましたよね。
加えて、そのこと↑の”裏っ返し”じゃないかと思えるのが、贈り物についての意外なまでのドライさ、というか合理主義的なところがあるなあ、ていう。
「ギフト・レシート」だかなんだかいうシステムがあちらにはある。これどうなんだろう、日本にもあるところにはあるのかな、あまりよくわかんないんだけど、たぶん日本よりはずっと浸透度がちがうんでしょう。例えば江上が誕生日か何かのタイミングで、Tシャツをプレゼントされて、当り前のようにレシートを渡されて、きょとんと見ていると、これをもってこのお店へ行けば、いつでもちがうものと交換してもらえるから、とおっしゃる。これが、例えば「サイズが合わない」という理由で同じもののサイズ違いと交換してくれる、ていうのなら納得できるのだけど、いや、贈られた側がそれを既に持ってるとか、他の人からのとかぶっちゃったとか、ていうかその贈り物自体そもそも気に入らないとか、理由一切関係なく、そのお店の商品で同額以下のものとだったらどれでも交換してもらえる、とおっしゃるので、これにはちょっと驚いたのですよ。
これってもうさ、贈る側が一切のノイズに悩まされずにすむってことですよね。相手の趣味はどんなんだろう、サイズや好きな色をそれとなく聞き出すにはどうしたらいいだろう、いや、あの人のことだからもう既に持ってるんじゃないか、そういえば仲の良いナンシーも(註:誰だよ(笑))プレゼントするってゆってたから、同じのになっちゃうんじゃないか。そういうことを木っ端微塵ひとかけらも考慮することなく、ただただ純然に、自分が贈りたい、贈った相手の喜ぶ顔を見たいという、贈り手側の気持ちだけを快く昇天させることができる、ていう。
だから、半年くらい前ですか、Amazonさんの「wishlist問題」が日本で浮上したとき、あ、これはもう単純に文化の違いから発生したズレだな、とふつーの目で見てましたよね。人によっては激しく、個人情報の流出の問題として、システム設計の甘さの問題として、公開がデフォルトとか頭おかしいんじゃないの、不祥事以外の何物でもない、みたいな勢いで、叩いたり叩かれたりしておられたのだけど、Amazonさんがアメリカから来た企業であり、そのサービスがアメリカ発信のものであり、そして、アメリカさんのプレゼント文化における”贈る側中心目線”と”ドライな合理主義”とを考えれば、なるほどこの「wishlist」というwebサービスは、贈答シーンのためのものであり、贈る側が、ミシェルの(註:だから誰?(笑))誕生日が近いんだけど、何を贈ったら喜ぶかしらと思ったときに、当人からそれとなく聞き出すとかをせずに、Amazonさんのサイトでミシェルの名前を検索してみると、うまい具合に当のミシェルが「あたしは**が欲しいと思ってるの」と情報発信してるわ、ヤフー!じゃあこのリンクをぽちっと押してお買い上げすれば、当日ミシェルの驚き喜ぶ顔が見られること請け合いね!となる、そういうことのための機能であって、決して、日本人の大半が思ってたような”ブックマーク”機能なんかではない、ということは、たぶんこれはあちらの人にとっては理解云々以前に肌で理解してはることなんじゃなかろうか、と思うたのでしたよ。
そういう機能だからこそ、デフォルトが「公開」なのは当然だし、本名なりメアドなりで不特定多数の人が検索できるようになってるのもまた当然なんだけども、残念ながらそういう文化のなかった、というかズレのあった日本では「自分がこれから買うことをwish(註:ていうか、自分が買いたいときに英語でwishは使わないんじゃなかろうか)するリスト」として使っている人が続出していた、と。なので、この問題が顕在化したときに、「Amazonがこんな実装をしているとは夢にも思ってなかった」とか「なぜ注意を促す文言のひとつもないんだ」とかになってしまう。
註:先の日本での問題化が、そのことをわかった上で、なおこれこれの問題がある、ということもあったんだろうとは思うけれども。
ていうかさ、その、アメリカの贈答文化を知ろうと知るまいと、この機能使う前にちらっとヘルプ的なところを見たら、ああ、こういう機能なんだねってのはわかるはずでし、実際自分もそう理解したうえで使ったり使ってなかったりしたから、そのへんは、せめて書いてあることくらいは確認しようよね、各自でね、と。
このことから得られる教訓として。
アメリカの大学図書館で、最新かつ成功をおさめているサービスなり制度なりがあるからといって、安易に直輸入とかできるわけじゃないよ、ていう、江上お得意のパターンに落ち着く。その好例ですよ、たぶん。ラーニング・コモンズ、とかね。
で、ここから先がこの記事でもっとも肝心なところなのですが。
江上がいまwishなのは、以下の通りです。よろしくね、っと。
ハーバードにいた頃の話。
文化風習のちがいを強く感じたことのひとつとして、この国の人たちの「人にプレゼントを贈る」ということに対するテンションの昂ぶり様、これは、ちょっとひとステップちがうな、という印象を受けましたよ。
ちょっとした記念日、誕生日、歓迎会、送別会、年中行事、宗教行事。何かにつけて、何かしらを、贈る。こまめに、頻繁に、そして楽しげに。
楽しげにっていうのがわりとキーで、そりゃもちろん、どんなものを相手に贈ろうか、相手にこれを贈ったらどんなに喜んでもらえるか、そういう贈る行為について贈り手側が楽しむ、ということ、これは日本でだってアメリカでだって同じくあると思うんですよ。ただ、同じ”ある”にしても、その”強さ”についていえば、アメリカさんのそれはだいぶ強いなどうも、ていう。例えば逆に、これを贈ったら逆に迷惑かしら、もう持ってるかしら、ちょっと高すぎて/安すぎてふさわしくないと思われちゃんわないかしら。そっちの感情だって、日本にもアメリカにも同じくあるとは思うんだけど、その強弱を比べ眺めてみると、アメリカさんのそれは言うほど強くないように見える。
贈り手側”も”楽しい・嬉しいではなく、贈り手側”が”楽しい・嬉しい。自分が贈りたいから、贈る。自分が、相手の驚き喜ぶ顔を見たいがために、贈る。しかも贈る品だってたぶん、「自分がこれを贈りたい」から、贈る。そっち方面のベクトルが存外に強いお国柄なんだな、というふうに感じておりましたよね。
加えて、そのこと↑の”裏っ返し”じゃないかと思えるのが、贈り物についての意外なまでのドライさ、というか合理主義的なところがあるなあ、ていう。
「ギフト・レシート」だかなんだかいうシステムがあちらにはある。これどうなんだろう、日本にもあるところにはあるのかな、あまりよくわかんないんだけど、たぶん日本よりはずっと浸透度がちがうんでしょう。例えば江上が誕生日か何かのタイミングで、Tシャツをプレゼントされて、当り前のようにレシートを渡されて、きょとんと見ていると、これをもってこのお店へ行けば、いつでもちがうものと交換してもらえるから、とおっしゃる。これが、例えば「サイズが合わない」という理由で同じもののサイズ違いと交換してくれる、ていうのなら納得できるのだけど、いや、贈られた側がそれを既に持ってるとか、他の人からのとかぶっちゃったとか、ていうかその贈り物自体そもそも気に入らないとか、理由一切関係なく、そのお店の商品で同額以下のものとだったらどれでも交換してもらえる、とおっしゃるので、これにはちょっと驚いたのですよ。
これってもうさ、贈る側が一切のノイズに悩まされずにすむってことですよね。相手の趣味はどんなんだろう、サイズや好きな色をそれとなく聞き出すにはどうしたらいいだろう、いや、あの人のことだからもう既に持ってるんじゃないか、そういえば仲の良いナンシーも(註:誰だよ(笑))プレゼントするってゆってたから、同じのになっちゃうんじゃないか。そういうことを木っ端微塵ひとかけらも考慮することなく、ただただ純然に、自分が贈りたい、贈った相手の喜ぶ顔を見たいという、贈り手側の気持ちだけを快く昇天させることができる、ていう。
だから、半年くらい前ですか、Amazonさんの「wishlist問題」が日本で浮上したとき、あ、これはもう単純に文化の違いから発生したズレだな、とふつーの目で見てましたよね。人によっては激しく、個人情報の流出の問題として、システム設計の甘さの問題として、公開がデフォルトとか頭おかしいんじゃないの、不祥事以外の何物でもない、みたいな勢いで、叩いたり叩かれたりしておられたのだけど、Amazonさんがアメリカから来た企業であり、そのサービスがアメリカ発信のものであり、そして、アメリカさんのプレゼント文化における”贈る側中心目線”と”ドライな合理主義”とを考えれば、なるほどこの「wishlist」というwebサービスは、贈答シーンのためのものであり、贈る側が、ミシェルの(註:だから誰?(笑))誕生日が近いんだけど、何を贈ったら喜ぶかしらと思ったときに、当人からそれとなく聞き出すとかをせずに、Amazonさんのサイトでミシェルの名前を検索してみると、うまい具合に当のミシェルが「あたしは**が欲しいと思ってるの」と情報発信してるわ、ヤフー!じゃあこのリンクをぽちっと押してお買い上げすれば、当日ミシェルの驚き喜ぶ顔が見られること請け合いね!となる、そういうことのための機能であって、決して、日本人の大半が思ってたような”ブックマーク”機能なんかではない、ということは、たぶんこれはあちらの人にとっては理解云々以前に肌で理解してはることなんじゃなかろうか、と思うたのでしたよ。
そういう機能だからこそ、デフォルトが「公開」なのは当然だし、本名なりメアドなりで不特定多数の人が検索できるようになってるのもまた当然なんだけども、残念ながらそういう文化のなかった、というかズレのあった日本では「自分がこれから買うことをwish(註:ていうか、自分が買いたいときに英語でwishは使わないんじゃなかろうか)するリスト」として使っている人が続出していた、と。なので、この問題が顕在化したときに、「Amazonがこんな実装をしているとは夢にも思ってなかった」とか「なぜ注意を促す文言のひとつもないんだ」とかになってしまう。
註:先の日本での問題化が、そのことをわかった上で、なおこれこれの問題がある、ということもあったんだろうとは思うけれども。
ていうかさ、その、アメリカの贈答文化を知ろうと知るまいと、この機能使う前にちらっとヘルプ的なところを見たら、ああ、こういう機能なんだねってのはわかるはずでし、実際自分もそう理解したうえで使ったり使ってなかったりしたから、そのへんは、せめて書いてあることくらいは確認しようよね、各自でね、と。
このことから得られる教訓として。
アメリカの大学図書館で、最新かつ成功をおさめているサービスなり制度なりがあるからといって、安易に直輸入とかできるわけじゃないよ、ていう、江上お得意のパターンに落ち着く。その好例ですよ、たぶん。ラーニング・コモンズ、とかね。
で、ここから先がこの記事でもっとも肝心なところなのですが。
江上がいまwishなのは、以下の通りです。よろしくね、っと。
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2008年11月27日
「英語ができない」。
例えば、海外の図書館に見学・研修に行くことに、興味がないわけではない。けど、いまいち自信がない。主に、英語に自信がない。
例えば、英語ができない(しゃべれない、聴き取れない)のに訪問しても、相手に迷惑がかかる。
例えば、英語もうちょっと勉強して、もうちょっと自信が持てるようになったら、行こうと思う。
↑行けませんよね、いつまでたってもね。
のび太の、スキーとかプールとかのパターンですよね。
もちろん、当の江上だって、いっさい偉そうなことは言えないわけで、英語のできなさたるやまあちょっと驚くくらいではある。こんなんでようハーバードに1年おったな。いやさ、こんなんでようハーバードに1年行こうと手を挙げたな。しかも、1年おって、ここまで成長してへんのって逆に奇跡やな、と。しかも、そもそも最初に海外図書館見学を企画したときに「日本研究図書館」をセレクトしたのって、完全に英語から逃げてるし。逃げてる目的の企画やし。
なんだけど、そんな英語ダメダメ江上が、2008年歳末を前にしてしみじみと思うことには。
まずひとつ。英語できないことを理由にしてたら、いつまでたってもどこにも行けてなかったろうな。
もうひとつ。英語できない状態で身を置いてみたら、それなりに準備対策やりきれるもんやな。
もうひとつ。英語できなくっても、まあそれほど、誰が困るってわけでも迷惑かかるってわけでもないな。
今回は、とりあえずひとつ目の話。
もし、海外の図書館に見学・研修に行くことを躊躇している理由が、英語ただひとつなんだったら、とりあえずその”躊躇理由リスト”に載ってる「英語」項に二重取り消し線ひいたほうがいいと思いますよね。
例えば、向こうに行って英語できなかったからといって、それで恥をかくことでかかる(と仮定する)コスト、取材・調査が不発に終わることでムダになったコスト、先方にかけた迷惑というコスト。それらを回避したい、忌み嫌う気持ちはもちろんあたしにだって痛いほどわかりますけど、でもそれら全部ひっくるめたとしてもですよ。英語の成長を待つために1年なり2年なり先延ばしにしたことによる、時間という名のコスト。そっちのほうがどう考えたって圧倒的に大きいし、大きいどころか取り返しつかへんでしょう、1年2年ていう時間。若かろうと若かるまいと、もったいなさすぎるでしょう。
しかもじゃあ、1年2年経ったら自分はどんだけ英語力成長してくれてるだろうかって、考えてみたらいいと思う。これを言ったら全国1億3000万人の英語コンプレックスのみなさんから袋叩きにあうかもしれんけどそれを覚悟でいうと、自分の英語力なんかまあそうそう上がらへんって。人間の成長力なんか、そう目覚しくなんかないって。1年2年で身に付く英語力なんて、そんなんたかが知れてるって。中学3年高校3年、大学行った人ならもう4年英語勉強した人が、英語できないってゆってるんでしょ。そんなもん1年2年で英語力なんか上がりますかいな。
もちろん、まったくいないわけじゃない、そりゃいるでしょう、1年2年で飛躍的に英語力上がる人。それってじゃあどういう人かといえば、例えば、ほんまにめっちゃ時間とコストをかけて努力した人。仕事・本業へのエネルギーだとかプライベートの時間だとかを思いっきり削減して、思いっきり努力できる人はしたらいい、でも、そんなこと誰も彼もができるわけではないし、そのコストがかけられるくらいなら、英語できないままに行ってかかるコストだってかけたらいいわけで、やっぱり、できるようになるまで待つこたぁない。
例えば、めっちゃ自分にぴったりの勉強法が見つかった人。もちろん、見つかるにこしたことはないし、見つけるのに右往左往するのは実に意味のあることではある、江上自身まだその夢の途中だし、なんだけど、じゃあいつまで待てばそれに出会えるかもわからんのに、ずっと探してて、その間に何年か失うくらいだったら、やっぱり待つこたぁない。一方で探しつつも、見つからないうちにでも行ったらいい。
例えば、もともと素質があった人。自分が素質があるかどうかにかけて、その結果がわかるようになるまでに何年か失うくらいだったら以下同文。
しかももうひとつ問題なのは、じゃあ、どこまで英語力が上がったら「上がった」ことになるか、という件。ちょっと勉強して、いまよりも英語力が上がったとする、そして海外の図書館に行ってみる。十中八九、ああ、まだ足りてなかった、て思うことになりますよね、よっぽどできる人でない限り。だったらじゃあ、どんなに勉強したところで延々「まだ足りない」が続くことになるわけで、「上がった」なんかいつまでたっても来ないですから。
結局は、いま自分が持ってる貯金の範囲で、どれだけ上手に切り盛りして、運用して、やりくりしていこうか。いま持ってる英語力の範囲で、それをどれだけ割り切りながら上手に操って、コミュニケーションをとっていったらいいか、ていうほうに話を切り替えないと、いつまでたっても「金がない、貯金しなきゃ」が続くだけでは先に進まないですよね、その、よっぽど限定的・具体的な目的とか達成目標みたいなんがあるとかなら別ですけど。
というわけなんで、ここはじゃあひとつ腹をくくって、”躊躇理由リスト”に載ってる「英語」項に二重取り消し線ひいちゃいましょう。そっからまず話をスタートさせましょう。
・・・・・・だってね、あれですよ。
「いやあ、英語もうちょっとできたら、行きたいんですけどねぇ」。
なんつってる人のなんと多いことか。実際会ったら。
できませんよ、あたしだって。できなくて、行きましたよ。
それでいいじゃん。それで行ったって、誰も文句言わねぇっつぅの。
英語できなきゃ行っちゃいけないって、誰が決めたんですか。(←津川雅彦の回の古畑任三郎)
でもじゃあ、行ったはいいが何もわからんじゃ取材も調査もできんではないか、とか、何もわからんとおろおろしてたら相手に迷惑かかるじゃないか、とかいう問題がもちろんあって、じゃあどうしようかっていうのを、また気が向いたら書くよね。
いや、あのー、なんていうでしょう。帰国して半年強?1年弱?経ってみて、落ち着いて考えてみたら、自分って、英語こんだけできなかったくせにいったいあの国で何してたんだろう、って思うようになって、じゃあそんな自分がいませめてできることはと言えば、英語できない輩が、できないままに、どうやりくりしてったか、ていうことを、あれだ、お金持ってない人の生活やりくり・節約術の英語版みたいなやつだ。そんなんを、これはまあ図書館総合展の会期とかとは関係なしに、ちまちまとメモしていけたらいいな。
例えば、英語ができない(しゃべれない、聴き取れない)のに訪問しても、相手に迷惑がかかる。
例えば、英語もうちょっと勉強して、もうちょっと自信が持てるようになったら、行こうと思う。
↑行けませんよね、いつまでたってもね。
のび太の、スキーとかプールとかのパターンですよね。
もちろん、当の江上だって、いっさい偉そうなことは言えないわけで、英語のできなさたるやまあちょっと驚くくらいではある。こんなんでようハーバードに1年おったな。いやさ、こんなんでようハーバードに1年行こうと手を挙げたな。しかも、1年おって、ここまで成長してへんのって逆に奇跡やな、と。しかも、そもそも最初に海外図書館見学を企画したときに「日本研究図書館」をセレクトしたのって、完全に英語から逃げてるし。逃げてる目的の企画やし。
なんだけど、そんな英語ダメダメ江上が、2008年歳末を前にしてしみじみと思うことには。
まずひとつ。英語できないことを理由にしてたら、いつまでたってもどこにも行けてなかったろうな。
もうひとつ。英語できない状態で身を置いてみたら、それなりに準備対策やりきれるもんやな。
もうひとつ。英語できなくっても、まあそれほど、誰が困るってわけでも迷惑かかるってわけでもないな。
今回は、とりあえずひとつ目の話。
もし、海外の図書館に見学・研修に行くことを躊躇している理由が、英語ただひとつなんだったら、とりあえずその”躊躇理由リスト”に載ってる「英語」項に二重取り消し線ひいたほうがいいと思いますよね。
例えば、向こうに行って英語できなかったからといって、それで恥をかくことでかかる(と仮定する)コスト、取材・調査が不発に終わることでムダになったコスト、先方にかけた迷惑というコスト。それらを回避したい、忌み嫌う気持ちはもちろんあたしにだって痛いほどわかりますけど、でもそれら全部ひっくるめたとしてもですよ。英語の成長を待つために1年なり2年なり先延ばしにしたことによる、時間という名のコスト。そっちのほうがどう考えたって圧倒的に大きいし、大きいどころか取り返しつかへんでしょう、1年2年ていう時間。若かろうと若かるまいと、もったいなさすぎるでしょう。
しかもじゃあ、1年2年経ったら自分はどんだけ英語力成長してくれてるだろうかって、考えてみたらいいと思う。これを言ったら全国1億3000万人の英語コンプレックスのみなさんから袋叩きにあうかもしれんけどそれを覚悟でいうと、自分の英語力なんかまあそうそう上がらへんって。人間の成長力なんか、そう目覚しくなんかないって。1年2年で身に付く英語力なんて、そんなんたかが知れてるって。中学3年高校3年、大学行った人ならもう4年英語勉強した人が、英語できないってゆってるんでしょ。そんなもん1年2年で英語力なんか上がりますかいな。
もちろん、まったくいないわけじゃない、そりゃいるでしょう、1年2年で飛躍的に英語力上がる人。それってじゃあどういう人かといえば、例えば、ほんまにめっちゃ時間とコストをかけて努力した人。仕事・本業へのエネルギーだとかプライベートの時間だとかを思いっきり削減して、思いっきり努力できる人はしたらいい、でも、そんなこと誰も彼もができるわけではないし、そのコストがかけられるくらいなら、英語できないままに行ってかかるコストだってかけたらいいわけで、やっぱり、できるようになるまで待つこたぁない。
例えば、めっちゃ自分にぴったりの勉強法が見つかった人。もちろん、見つかるにこしたことはないし、見つけるのに右往左往するのは実に意味のあることではある、江上自身まだその夢の途中だし、なんだけど、じゃあいつまで待てばそれに出会えるかもわからんのに、ずっと探してて、その間に何年か失うくらいだったら、やっぱり待つこたぁない。一方で探しつつも、見つからないうちにでも行ったらいい。
例えば、もともと素質があった人。自分が素質があるかどうかにかけて、その結果がわかるようになるまでに何年か失うくらいだったら以下同文。
しかももうひとつ問題なのは、じゃあ、どこまで英語力が上がったら「上がった」ことになるか、という件。ちょっと勉強して、いまよりも英語力が上がったとする、そして海外の図書館に行ってみる。十中八九、ああ、まだ足りてなかった、て思うことになりますよね、よっぽどできる人でない限り。だったらじゃあ、どんなに勉強したところで延々「まだ足りない」が続くことになるわけで、「上がった」なんかいつまでたっても来ないですから。
結局は、いま自分が持ってる貯金の範囲で、どれだけ上手に切り盛りして、運用して、やりくりしていこうか。いま持ってる英語力の範囲で、それをどれだけ割り切りながら上手に操って、コミュニケーションをとっていったらいいか、ていうほうに話を切り替えないと、いつまでたっても「金がない、貯金しなきゃ」が続くだけでは先に進まないですよね、その、よっぽど限定的・具体的な目的とか達成目標みたいなんがあるとかなら別ですけど。
というわけなんで、ここはじゃあひとつ腹をくくって、”躊躇理由リスト”に載ってる「英語」項に二重取り消し線ひいちゃいましょう。そっからまず話をスタートさせましょう。
・・・・・・だってね、あれですよ。
「いやあ、英語もうちょっとできたら、行きたいんですけどねぇ」。
なんつってる人のなんと多いことか。実際会ったら。
できませんよ、あたしだって。できなくて、行きましたよ。
それでいいじゃん。それで行ったって、誰も文句言わねぇっつぅの。
英語できなきゃ行っちゃいけないって、誰が決めたんですか。(←津川雅彦の回の古畑任三郎)
でもじゃあ、行ったはいいが何もわからんじゃ取材も調査もできんではないか、とか、何もわからんとおろおろしてたら相手に迷惑かかるじゃないか、とかいう問題がもちろんあって、じゃあどうしようかっていうのを、また気が向いたら書くよね。
いや、あのー、なんていうでしょう。帰国して半年強?1年弱?経ってみて、落ち着いて考えてみたら、自分って、英語こんだけできなかったくせにいったいあの国で何してたんだろう、って思うようになって、じゃあそんな自分がいませめてできることはと言えば、英語できない輩が、できないままに、どうやりくりしてったか、ていうことを、あれだ、お金持ってない人の生活やりくり・節約術の英語版みたいなやつだ。そんなんを、これはまあ図書館総合展の会期とかとは関係なしに、ちまちまとメモしていけたらいいな。
図書館書架の、すべらない話。
先日、新しい書架をちょびっとだけ増設してもらい、そこに長年置けなかった製本雑誌を置いてあげようということになり、ブックトラックでちまちま運んではそこに配架する、という作業を数日行なっていたのですが、そのときの話。
新しい書架はピカピカしててよろしおすなあ、配架しやすいなあ、まあだいぶのっぽの書架だから面倒なんだけど、とか思いながらえっちらおっちら製本雑誌を運んでは、とすんとすんと配架していくわけなんですが、ひとトラック配架し終えて、また次の山を取りに戻ろうというんで、書架前を離れて7歩くらい進むと、背後で、ドタンっと鈍い音が響くわけです。
振り返ると、最後の1冊が端っこで横倒しになって倒れている。
・・・・・・え、倒れたの?
え、なんで、そこで倒れるの、おかしくない?
ひとトラック終えては、次、というふうに連続して移動させているので、無精してブックエンドをかませることなく書架を離れた、というのが原因なのはわかります、だから倒れるんだよ、と言われればぐぅの音もない。なんだけどでも、いま倒れたその製本雑誌というのは、元の配架場所でも同じようにブックエンドなしで列の端っこに並んでたわけです、←連続して移動させてるからブックエンドなしの放置プレイをされている、ことにかわりはない。ところが、元の書架の棚板の上では5分ほどそのまま放っといて、戻ってきてもまだ元の状態で立っている、しゃんと胸を張っている。
それなのに僕ら人間は、ちがう、それなのに移動先の新書架の上では、10秒と持たずにドタンっと倒れてしまっておるわけです。そんなたいして薄いわけでもないくせに。机上でだってブックエンドなしにそのまま立ててそうなくらいなのに。
そう思って、あらためて新書架をにらんでみると。
ピカピカしてて、配架しやすい。
あれ、これ棚板表面の摩擦的なのがだいぶちがっておるな、ということに気付くわけですよね。
ピカピカしてて、つるつるしてて、製本雑誌のような重いものもするぅっと滑り込むように入ってくれる。あのクロス製本特有の、棚板にきゅって引っかかる肌感触がまったくなく、驚くほどのさらさら感、なめらかさ、そして白さ。それが配架しやすい!につながってるんだなということは納得できる反面、つるつるしてるせいで倒れやすい、危なっかしい。元の書架だと製本雑誌はもとより、ちょっと根性のある未製本雑誌なら隣のクロス表紙によっかかってがんばってくれてたものを、ここへきてまさかの全戦全敗、全線全廃ですよ。
ということを、この書架をいれてくれはった業者さんに話してみたところ、さもありなん、ここ最近の新しい技術によりて表面加工を改善し、光沢を持たせ、傷もつき難い上に、図書資料を取り出しやすく入れやすきものとせしめたものなり(註:気にしないでください)、とおっしゃる。つまり、素材の種類が違う、別パターンの書架、とかではなくて、技術向上による改善の賜物である、と。いうことは、今後やってくるであろうあらゆる種類の書架の棚板が、こうである、と。驚くほどのさらさら感、なめらかさ、そして白さ、パチパチくんさようなら(註:もとからいません)。
これって、どうなんだろう。
取り出しやすく入れやすいようにしてくれはったのは、喜ばしい、と思うべきなんだろうけど、反面、滑りやすく倒れやすいことになった。これは、資料を傷める原因ともなってしまうし、何よりも、棚から落ちやすくなってしまった、というのが一番の心配事項であるのですよ。新しいのっぽの書架の、てっぺんの棚に、重い製本雑誌を配架したところ、滑りやすく倒れやすい。いやこれは、のっぽの書架に製本雑誌、という戦略自体がそもそも誤りだったのかもしれんのですが、それはそれとしても、この棚板の滑りやすさはいかがなものか、ということで、急遽、ブックエンドを大幅に増加投入しましたよね。じゃないと、微震で落ちてきそうな勢いだし。
取り出しやすく入れやすい、けど、倒れやすい棚。
取り出しにくくひっかかる、けど、倒れにくい棚。
難しいな。
2008年11月26日
CiNiiになくて、雑索にある。余録
先日、「CiNiiになくて、雑索にある」という言いがかり(でもないか)でもって、最終的に「NDLの収録範囲ってどうだっけ」とパニクって終わったという、わりとやっつけな記事を書いて出したところ、何人かの方からメールをいただきました。すみません、ありがとうございました。
NDL-OPACにおける自然系の遡及入力について。
・「『雑誌記事索引 科学技術編』の遡及入力について」(2007.3.2)
http://www.ndl.go.jp/jp/library/lib_news_htry.html#070302-02
-----------------------------------------------------
当館では、『雑誌記事索引 科学技術編*』冊子体(1950〜1974年、全25巻、約145万件の雑誌記事の索引を収録)の遡及入力を、平成16年度から実施しています。
平成17年度には、1972〜1974年(第23〜25巻)に収録された約18万件のデータをNDL-OPACに搭載しインターネットで公開しました。今年度は、2月26日までに、1965〜1971年(第16〜22巻)に収録されたデータを整備し、約42万件を追加搭載、合わせて約60万件の科学技術分野の遡及データ公開を行いました。雑誌記事索引全分野では、2月末現在、総データ件数約781万件となっています。
搭載されたデータは、NDL-OPACの「雑誌記事索引の検索/申込み」から検索いただけます。また、登録利用者制度をご利用いただければ、来館されなくともNDL-OPACから郵送複写の申込みも可能ですので、調査研究等に広くご活用いただけるものと思います。
今後は、平成19年度に1959〜1964年(第10〜15巻)収録の約40万件、平成20年度に1950〜1958年(第1〜9巻)収録の約42万件のNDL-OPACへの搭載を目指しています。この作業が終了すれば、冊子体の遡及入力は完了(『雑誌記事索引 人文社会編』は平成9〜11年に入力済)し、すべての雑誌記事索引情報がデータベース化されることになります。
*1950〜1964年(第1〜15巻)は『雑誌記事索引 自然科学編』
-----------------------------------------------------
・「NDL-OPACへの『雑誌記事索引 自然科学編』データの搭載」
(NDL書誌情報ニュースレター 2007年3号)
http://www.ndl.go.jp/jp/library/data/
bib_newsletter/backnumber/003/index.html#04
-----------------------------------------------------
冊子体で刊行した『雑誌記事索引 自然科学編』10巻〜15巻(1959〜1964年刊行分)掲載のデータについて、平成19年12月24日からNDL-OPACでの検索が可能になります。
『雑誌記事索引』の1948年、1949年刊行分と、『同 人文社会編』の1974年までの刊行分は、平成9年〜11年度に遡及入力作業を実施し、既に約133万件の記事データがOPACで検索できます。『人文社会編』と並行して刊行されてきた『自然科学編』および『科学技術編』についても、表のとおり4期に分けて遡及入力を進めています。1965年〜1974年刊行の『科学技術編』は平成18年までに終了し、約60万件のデータをOPACに搭載しました(第1期、第2期)。残る『自然科学編』のうち、平成19年度には1959〜1964年刊行分を搭載し(第3期)、平成20年度には1950〜1958年刊行分の入力作業を予定しています(第4期)。第4期をもって冊子体『雑誌記事索引』の遡及入力は終了します。
今回の第3期作業は、冊子体の10巻から15巻までの6巻60冊が対象でした。入力原稿の冊子体目録の上では、記事件数にして約40万件になりますが、排列上、分類や件名の重出等による重複掲載記事を除いた約26万件を搭載します(注)。
今回搭載対象の期間内(1959〜1964、昭和34〜39年)に創刊され、採録誌となった雑誌には、Japanese Journal of Applied Physics (昭和37年創刊、当館請求記号 Z53-A375)等があります。昭和39年は東京オリンピック開催の年でもあり、高度成長期の中で、様々な分野の科学技術が発展した時期です。今回搭載する約26万件の記事から、当時の発展の様子を感じ取って頂ければ幸いです。
表 『雑誌記事索引 自然科学編』および『同 科学技術編』の遡及入力状況
対象の巻/刊行年/誌名/データ搭載時期・作業予定
1期 23〜25巻/1972〜1974/『雑誌記事索引 科学技術編』/平成17〜18年に搭載済み(約60万件)
2期 16〜22巻/1965〜1971
3期 10〜15巻/1959〜1964/『雑誌記事索引 自然科学編』/※平成19年12月24日に搭載完了予定(約26万件)
4期 1〜9巻/1950〜1958/平成20年入力予定
(注) 作業の概要については、逐次刊行物課索引係「NDL-OPACへの『雑誌記事索引 自然科学編』データの搭載」『全国書誌通信』No.127, 2007.5.31, p5をご覧ください(本誌創刊準備号に一部転載)。
(逐次刊行物課索引係)
-----------------------------------------------------
でも、これってわりと知られてないんじゃなかろうかと思うのが、意外に多くの図書館サイト・雑索解説ページにおいて、いまだに「1975〜」というふうに書かれてあって、知られてないんだろうか、ないだろうな、だってヘルプとか見てもそのへんあんまよくわかんないしな、と思うた。
さて、収録範囲にちがいのあることははっきりしたようなのですが、それはそれとして、じゃあ「検索語が同じでも、検索エンジン的なのやインデクス的なのの差で、結果が異なる」ということはまったくないのだろうか、という疑念はやっぱりまだちょっと自分の中で根強くて、これはゆっちゃうと、江上個人の「データベースって所詮はブラックボックスだからいまいち信じられん」という”念”のようなものに根差してるところがあって、かつて、まったく同じ検索語でCiNiiさんとNDLさんとを検索して、んー、30件か50件に1件くらいの割合で、あっ、ほら、NDLさんにあるこれ、CiNiiさんにないじゃん、ていう思いをしたのが3-4回くらいはあったような気がしてて、なんだけどもでも、その検索語が何で、差異にあたる文献が何だったかなんてぜんぜん覚えちゃいないし、その原因が既知となった収録範囲であるのかどうかも検証しようがないしで、んーと、じゃあこれは、しばらくちまちまと適当な検索語での検索結果を比較してみて、差異を探す、ということをやるパターンか?どうか?という感じなのですけど、まあそれで何かわかればよし、何もわかんなくてもよし、くらいのノリでもいいかな、そのうち気が向いたらやってみて、図書館総合展の会期中にでも何かわかればまた報告しまぅす。
NDL-OPACにおける自然系の遡及入力について。
・「『雑誌記事索引 科学技術編』の遡及入力について」(2007.3.2)
http://www.ndl.go.jp/jp/library/lib_news_htry.html#070302-02
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当館では、『雑誌記事索引 科学技術編*』冊子体(1950〜1974年、全25巻、約145万件の雑誌記事の索引を収録)の遡及入力を、平成16年度から実施しています。
平成17年度には、1972〜1974年(第23〜25巻)に収録された約18万件のデータをNDL-OPACに搭載しインターネットで公開しました。今年度は、2月26日までに、1965〜1971年(第16〜22巻)に収録されたデータを整備し、約42万件を追加搭載、合わせて約60万件の科学技術分野の遡及データ公開を行いました。雑誌記事索引全分野では、2月末現在、総データ件数約781万件となっています。
搭載されたデータは、NDL-OPACの「雑誌記事索引の検索/申込み」から検索いただけます。また、登録利用者制度をご利用いただければ、来館されなくともNDL-OPACから郵送複写の申込みも可能ですので、調査研究等に広くご活用いただけるものと思います。
今後は、平成19年度に1959〜1964年(第10〜15巻)収録の約40万件、平成20年度に1950〜1958年(第1〜9巻)収録の約42万件のNDL-OPACへの搭載を目指しています。この作業が終了すれば、冊子体の遡及入力は完了(『雑誌記事索引 人文社会編』は平成9〜11年に入力済)し、すべての雑誌記事索引情報がデータベース化されることになります。
*1950〜1964年(第1〜15巻)は『雑誌記事索引 自然科学編』
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・「NDL-OPACへの『雑誌記事索引 自然科学編』データの搭載」
(NDL書誌情報ニュースレター 2007年3号)
http://www.ndl.go.jp/jp/library/data/
bib_newsletter/backnumber/003/index.html#04
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冊子体で刊行した『雑誌記事索引 自然科学編』10巻〜15巻(1959〜1964年刊行分)掲載のデータについて、平成19年12月24日からNDL-OPACでの検索が可能になります。
『雑誌記事索引』の1948年、1949年刊行分と、『同 人文社会編』の1974年までの刊行分は、平成9年〜11年度に遡及入力作業を実施し、既に約133万件の記事データがOPACで検索できます。『人文社会編』と並行して刊行されてきた『自然科学編』および『科学技術編』についても、表のとおり4期に分けて遡及入力を進めています。1965年〜1974年刊行の『科学技術編』は平成18年までに終了し、約60万件のデータをOPACに搭載しました(第1期、第2期)。残る『自然科学編』のうち、平成19年度には1959〜1964年刊行分を搭載し(第3期)、平成20年度には1950〜1958年刊行分の入力作業を予定しています(第4期)。第4期をもって冊子体『雑誌記事索引』の遡及入力は終了します。
今回の第3期作業は、冊子体の10巻から15巻までの6巻60冊が対象でした。入力原稿の冊子体目録の上では、記事件数にして約40万件になりますが、排列上、分類や件名の重出等による重複掲載記事を除いた約26万件を搭載します(注)。
今回搭載対象の期間内(1959〜1964、昭和34〜39年)に創刊され、採録誌となった雑誌には、Japanese Journal of Applied Physics (昭和37年創刊、当館請求記号 Z53-A375)等があります。昭和39年は東京オリンピック開催の年でもあり、高度成長期の中で、様々な分野の科学技術が発展した時期です。今回搭載する約26万件の記事から、当時の発展の様子を感じ取って頂ければ幸いです。
表 『雑誌記事索引 自然科学編』および『同 科学技術編』の遡及入力状況
対象の巻/刊行年/誌名/データ搭載時期・作業予定
1期 23〜25巻/1972〜1974/『雑誌記事索引 科学技術編』/平成17〜18年に搭載済み(約60万件)
2期 16〜22巻/1965〜1971
3期 10〜15巻/1959〜1964/『雑誌記事索引 自然科学編』/※平成19年12月24日に搭載完了予定(約26万件)
4期 1〜9巻/1950〜1958/平成20年入力予定
(注) 作業の概要については、逐次刊行物課索引係「NDL-OPACへの『雑誌記事索引 自然科学編』データの搭載」『全国書誌通信』No.127, 2007.5.31, p5をご覧ください(本誌創刊準備号に一部転載)。
(逐次刊行物課索引係)
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でも、これってわりと知られてないんじゃなかろうかと思うのが、意外に多くの図書館サイト・雑索解説ページにおいて、いまだに「1975〜」というふうに書かれてあって、知られてないんだろうか、ないだろうな、だってヘルプとか見てもそのへんあんまよくわかんないしな、と思うた。
さて、収録範囲にちがいのあることははっきりしたようなのですが、それはそれとして、じゃあ「検索語が同じでも、検索エンジン的なのやインデクス的なのの差で、結果が異なる」ということはまったくないのだろうか、という疑念はやっぱりまだちょっと自分の中で根強くて、これはゆっちゃうと、江上個人の「データベースって所詮はブラックボックスだからいまいち信じられん」という”念”のようなものに根差してるところがあって、かつて、まったく同じ検索語でCiNiiさんとNDLさんとを検索して、んー、30件か50件に1件くらいの割合で、あっ、ほら、NDLさんにあるこれ、CiNiiさんにないじゃん、ていう思いをしたのが3-4回くらいはあったような気がしてて、なんだけどもでも、その検索語が何で、差異にあたる文献が何だったかなんてぜんぜん覚えちゃいないし、その原因が既知となった収録範囲であるのかどうかも検証しようがないしで、んーと、じゃあこれは、しばらくちまちまと適当な検索語での検索結果を比較してみて、差異を探す、ということをやるパターンか?どうか?という感じなのですけど、まあそれで何かわかればよし、何もわかんなくてもよし、くらいのノリでもいいかな、そのうち気が向いたらやってみて、図書館総合展の会期中にでも何かわかればまた報告しまぅす。
最近読んだ本--いまからでもまにあう!源氏千年紀がらみでこの一冊
「源氏物語ものがたり」、島内景二。
歳末に片足つっこんだこの時期に、それでもせっかくだし源氏千年紀がらみで一冊くらい関連本読んでおいてみようかしら、どうかしら、と迷ってる方がいらしたら、ちょっとこれぜひ読んでみてください、という本。
タイトルにひねりがないので、ふつーにたくさんある源氏物語紹介本のひとつかな、と一瞬スルーしてしまいそうになるのだけど、まあ、とんでもない、裏帯にずらりと書き並べられている以下の面々を見れば、嗚呼、島内先生、”その話”をしてくださるんですか、これは喰いつかざるを得んではないですか、とはらはらと落涙すること限りなし。(←文体がおかしくなった)
藤原定家
四辻善成
一条兼良
宗祇
三条西実隆
細川幽斎
北村季吟
本居宣長
アーサー・ウェイリー
すなわち、源氏がどう恋愛しただとか、当時の風習文化がどうだとかいうはなしではなく、『源氏物語』という文学作品が、鎌倉、室町、江戸期という数百年の間に、誰にどう読まれ、どう受け継がれ、”古典化”していったか、というそっちの筋のお話ですよね。
だからといって、じゃあ専門向けなのかといえばこれがまたとんでもなく、扱ってるテーマは古典文学どころかだいぶ踏み込んだ”国文学史”なんだけど、これほどまでに専門外の人に対してわかりやすく、平明平易に、丁寧にあたたかく説明してくださっている本が、かつてあったろうか、と。定家や宗祇はともかく、四辻善成が何者でどんな功労者かなんてことが、こんなにもカタギの人向けに書かれた文章が、かつてあったろうか、と。
そしてこれほどまでに、『源氏』の内容そのものに踏み込むことなくして、ああ『源氏』読みたい、いや、読まねばならぬ、「あさきゆめみし」でかまわんからいますぐ、と、もはや使命感にも似たものを抱かせかねない解説本が、かつてあったろうか、と。
古典苦手だったよという人であろうと、理系の人であろうと、いっさい関係ないです。「鎌倉時代の次が室町時代」とかさえ知ってる人なら、するっと理解できるわかりやすさです。
中途半端に『源氏』本体にとりかかって、途中で挫折してもやもやするくらいだったら、本体なんか読まずにこっちのほう手に取ったほうが、てゆっちゃいたい、700円。
だいぶ持ち上げたな。
持ち上げたし、最後矛盾してたな(笑)。
歳末に片足つっこんだこの時期に、それでもせっかくだし源氏千年紀がらみで一冊くらい関連本読んでおいてみようかしら、どうかしら、と迷ってる方がいらしたら、ちょっとこれぜひ読んでみてください、という本。
タイトルにひねりがないので、ふつーにたくさんある源氏物語紹介本のひとつかな、と一瞬スルーしてしまいそうになるのだけど、まあ、とんでもない、裏帯にずらりと書き並べられている以下の面々を見れば、嗚呼、島内先生、”その話”をしてくださるんですか、これは喰いつかざるを得んではないですか、とはらはらと落涙すること限りなし。(←文体がおかしくなった)
藤原定家
四辻善成
一条兼良
宗祇
三条西実隆
細川幽斎
北村季吟
本居宣長
アーサー・ウェイリー
すなわち、源氏がどう恋愛しただとか、当時の風習文化がどうだとかいうはなしではなく、『源氏物語』という文学作品が、鎌倉、室町、江戸期という数百年の間に、誰にどう読まれ、どう受け継がれ、”古典化”していったか、というそっちの筋のお話ですよね。
だからといって、じゃあ専門向けなのかといえばこれがまたとんでもなく、扱ってるテーマは古典文学どころかだいぶ踏み込んだ”国文学史”なんだけど、これほどまでに専門外の人に対してわかりやすく、平明平易に、丁寧にあたたかく説明してくださっている本が、かつてあったろうか、と。定家や宗祇はともかく、四辻善成が何者でどんな功労者かなんてことが、こんなにもカタギの人向けに書かれた文章が、かつてあったろうか、と。
そしてこれほどまでに、『源氏』の内容そのものに踏み込むことなくして、ああ『源氏』読みたい、いや、読まねばならぬ、「あさきゆめみし」でかまわんからいますぐ、と、もはや使命感にも似たものを抱かせかねない解説本が、かつてあったろうか、と。
古典苦手だったよという人であろうと、理系の人であろうと、いっさい関係ないです。「鎌倉時代の次が室町時代」とかさえ知ってる人なら、するっと理解できるわかりやすさです。
中途半端に『源氏』本体にとりかかって、途中で挫折してもやもやするくらいだったら、本体なんか読まずにこっちのほう手に取ったほうが、てゆっちゃいたい、700円。
だいぶ持ち上げたな。
持ち上げたし、最後矛盾してたな(笑)。
2008年11月24日
CiNiiになくて、雑索にある。
正直、「欲しい情報が、欲しいときに、入手できさえすれば、あとは知らん」というその場しのぎな性癖があるので、”レファレンスツールを知る”とかをわりとないがしろにしがちな、ライブラリアン失格者がここにいますけども。(そのせいでちょくちょく恥をかく)
まあなんとなーく、経験的にですが、そういうのもだいぶあるんだろうな、という気はしてましたよね。
「CiNiiになくて、雑索にある」というもの。
NDL-OPACで検索できる雑索のデータは、すべてCiNiiでも検索できる、というのは、誰に話を持ちかけてみても、どのリテラシー教材をググってみても、どの国の日本研究ライブラリアンと話をしてみてさえも、ふつーの前提として扱われておられる。
↓↑
ただ自分自身の経験として、わりとちょくちょく、CiNiiで見つからなかったものが、雑索をあらためて検索してみると見つかったりもした、というのがある。
あるんだけど、でもじゃあ例えばCiNiiさんの「収録データベース一覧」を念のために見に行っても、収録されていない範囲があるとか、場合があるとか、そういうことは何も書いてなかったですよ。
これまでは、この両者の間に潜む”?”を、例えば「まあ、収録レコードと検索語が同じだったとしても、検索エンジンのなんやかんやとかインデクスのなんやかんやがちがってりゃ、そりゃ出たり出んかったりもするわな」パターンだとか、「単純なタイムラグ」(収録更新のタイミングがちがう)だとか、そういうことで自分自身を納得させてたりしてたのですよ。「あると思います」的な感じで。
でまあ、極私的に、念のため両方検索するという癖をなんとなく保持していたのですけども。
あとは、このことについて誰かがどっかで言及してるかもなあ、とは思いつつ、ググってもノイズが多いのでめんどくさがってスルーしてたっていうのもあるよ。
ところが、とある場で、どう見てもCiNiiに収録されていないものがあるようだ、という話題が出たのですよ。
そんで、あれー、と思って、いろいろ試してみて、これは先述のような自己納得では説明できんよなあ、やっぱり自分の知り得ないようなもっとちがう理由があるのかな。例えば、心が汚れているからとか、人情の機微とか、手の甲に紋章がないとか。
で、じゃあちょっとめんどくさがらずに、言及してくれてる記事のひとつでもがんばって探してみようかなあ、と殊勝なことを思いかけていたところに。
(いろいろと紆余曲折があって)答が出た、ときいてマッハの速度でとんでいきました。
(紆余曲折あって)最近加えられた(らしい)注記。
http://ci.nii.ac.jp/cinii/pages/cinii-db.html#note2
-----------------------------------------------------
※注2 雑誌記事索引データベースについて
雑誌記事索引データベースに収録されているデータのうち、CiNiiでは以下のデータが未収録となっております。あらかじめご承知おきください。
・「雑誌記事索引 科学技術編」16巻〜25巻(1965〜1974) 約60万件
・「雑誌記事索引 自然科学編」10巻〜15巻(1959〜1964) 約26万件
-----------------------------------------------------
あぁ〜。
・・・・・・・・・あれ、NDL側の自然系って、範囲変わったんでしたっけ???
混乱してきたので保留。(←放り投げ!?(笑))
まあなんとなーく、経験的にですが、そういうのもだいぶあるんだろうな、という気はしてましたよね。
「CiNiiになくて、雑索にある」というもの。
NDL-OPACで検索できる雑索のデータは、すべてCiNiiでも検索できる、というのは、誰に話を持ちかけてみても、どのリテラシー教材をググってみても、どの国の日本研究ライブラリアンと話をしてみてさえも、ふつーの前提として扱われておられる。
↓↑
ただ自分自身の経験として、わりとちょくちょく、CiNiiで見つからなかったものが、雑索をあらためて検索してみると見つかったりもした、というのがある。
あるんだけど、でもじゃあ例えばCiNiiさんの「収録データベース一覧」を念のために見に行っても、収録されていない範囲があるとか、場合があるとか、そういうことは何も書いてなかったですよ。
これまでは、この両者の間に潜む”?”を、例えば「まあ、収録レコードと検索語が同じだったとしても、検索エンジンのなんやかんやとかインデクスのなんやかんやがちがってりゃ、そりゃ出たり出んかったりもするわな」パターンだとか、「単純なタイムラグ」(収録更新のタイミングがちがう)だとか、そういうことで自分自身を納得させてたりしてたのですよ。「あると思います」的な感じで。
でまあ、極私的に、念のため両方検索するという癖をなんとなく保持していたのですけども。
あとは、このことについて誰かがどっかで言及してるかもなあ、とは思いつつ、ググってもノイズが多いのでめんどくさがってスルーしてたっていうのもあるよ。
ところが、とある場で、どう見てもCiNiiに収録されていないものがあるようだ、という話題が出たのですよ。
そんで、あれー、と思って、いろいろ試してみて、これは先述のような自己納得では説明できんよなあ、やっぱり自分の知り得ないようなもっとちがう理由があるのかな。例えば、心が汚れているからとか、人情の機微とか、手の甲に紋章がないとか。
で、じゃあちょっとめんどくさがらずに、言及してくれてる記事のひとつでもがんばって探してみようかなあ、と殊勝なことを思いかけていたところに。
(いろいろと紆余曲折があって)答が出た、ときいてマッハの速度でとんでいきました。
(紆余曲折あって)最近加えられた(らしい)注記。
http://ci.nii.ac.jp/cinii/pages/cinii-db.html#note2
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※注2 雑誌記事索引データベースについて
雑誌記事索引データベースに収録されているデータのうち、CiNiiでは以下のデータが未収録となっております。あらかじめご承知おきください。
・「雑誌記事索引 科学技術編」16巻〜25巻(1965〜1974) 約60万件
・「雑誌記事索引 自然科学編」10巻〜15巻(1959〜1964) 約26万件
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あぁ〜。
・・・・・・・・・あれ、NDL側の自然系って、範囲変わったんでしたっけ???
混乱してきたので保留。(←放り投げ!?(笑))
2008年11月19日
「いまなにしてる?」という質問が常にあるせいで、文体にしばりがかけられて困っている。
そもそも「twitter」てのはなんだ!?
という疑問がとある呑みの席でぶわぁっと持ち上がって、不幸にして”ぎりぎりデジタル世代”レベルな連中ばかりだったので、結局「mixiのもっと向こう側にあるもの」くらいの認識しかできなかったのだけど、実際にやってみたら。
なんだ、要はうちのblog↓とほぼいっしょじゃないか。(そうか?(笑))
http://egamidaylight2.seesaa.net/
というわけで、合体させて、しばらく様子を見てみることにしたよ。
しかも、”公開”にしたら世界に発信的なことになるらしいので、英語短文の練習にしてみるという手に。
これでweb1.18くらいには進歩したかな、と期待してみたけど、ただ、このツールのコミュニケーション的な側面をいっさい活用できてない件については、まあいっか。
という疑問がとある呑みの席でぶわぁっと持ち上がって、不幸にして”ぎりぎりデジタル世代”レベルな連中ばかりだったので、結局「mixiのもっと向こう側にあるもの」くらいの認識しかできなかったのだけど、実際にやってみたら。
なんだ、要はうちのblog↓とほぼいっしょじゃないか。(そうか?(笑))
http://egamidaylight2.seesaa.net/
というわけで、合体させて、しばらく様子を見てみることにしたよ。
しかも、”公開”にしたら世界に発信的なことになるらしいので、英語短文の練習にしてみるという手に。
これでweb1.18くらいには進歩したかな、と期待してみたけど、ただ、このツールのコミュニケーション的な側面をいっさい活用できてない件については、まあいっか。
2008年11月11日
書庫 / 下鴨車窓 ←図書館関係者必見の舞台
下鴨車窓の「書庫」を見た。アトリエ劇研にて。
まずはチラシのあらすじを。
http://blog.tana2yo.under.jp/?eid=686584#sequel
-----------------------------------------------------
下鴨車窓#5「書庫」
知らない時代の、遠い世界の話。
その町の自慢は図書館だという。ひときわ目立つ建物。充実した蔵書。特に貴重な図書は地下六階にある書庫に納められている。ずいぶん昔に、本好きの町長が熱心に取り組んだ成果だ。そのかつての町長のやる気といえば、図書の収集のためにと町を訪れる旅人から本を奪うほどのものだった。そんな長い歴史を持った図書館だ。それにしては住民の出入りはそれほどでもないという。
国境で隣国との争いが起こり町にも不安が広がると、書庫の蔵書は安全な場所へ移動させられることになった。安全な場所とはいってもそれがどこであるかは知らされていない。だんだんと失われる本。本がない書庫はただの穴蔵のようにも見える、そんな場所になりつつあった。
残り少ない本とともに置き去りのようになっているのは、司書とその妻だ。二人はもう長い間、その地下六階の書庫に住み込みで働いているのだった。時を知らせる鐘が鳴ると二人は起床し働き始めるのだが、本が運び出されるようになってからは仕事のしようがなくなっていた。もっとも、本があったからといって忙しいわけでもなかったが。
妻はふと地上に干したままになっている洗濯物のことを思い出した。風に吹かれてゆれているであろう洗濯物。旦那に取り込んできてくれと頼むが断られる。どうせすることもないのにと妻は腹を立てている。
-----------------------------------------------------
これはやばい。
何がやばいって、安全な場所に移すとか言って運び去られて行った本なんか、どう考えたって、永遠に失われたまま戻ってこなさそうな臭いがぷんぷんして、ずっとどきどきしてました。
蔵書が失われていく書庫。
かつてそこに本があった。あるべきものが、あるべきところにあった、書庫。
その、あるべきものが、あるべきところに、ない。
これはもはや特A級のホラー。
そこへきて、”特別貸出”と”利用者”という立場をふりかざしては、好き勝手に蔵書を持ち去るという訪問者。
残念ながら、作演の人の意図がどうであったかによらず、片方に完全に感情移入して見入ってしまうという。
利用者のエゴと司書の傲慢(しかもバッキバッキにへし折られ尽くした末の)とが、正面からぶつかりあってる様なんか、この人、絶対図書館でバイトとかしてたろう、ていうくらいのリアリティだった。
寓話、寓話とおっしゃってたけども、寓話であるが故に、下手なストーリーものよりもよっぽどドキュメンタリーに近くなってた。
利用者側か、司書側か、”館長”側か、誰のどの振る舞いを”痛い”と感じるかによって、司書のタイプを分類してもおもしろいかも(笑)。
戯曲本が売ってたので、当然の如く即買ったよ。そしたら、あとがきに図書館の想い出的なことが書いてあって、大学の学部図書館が描写してあって、プロフィール見たら京大出身の人で、この描写はどう考えても”あそこ”じゃないか、ていう感じになった。そんなお楽しみもある(笑)。
というわけで。「図書館戦争」読んでる時間があったら、こっち見たほうがよっぽどいいよ、という、そんな一編。
・・・いや、たぶん、そこまで”図書館描写”に特化することを意図した芝居ではないと思う、読むべきところはもっと別のとこにあったんだろうとは思うのですけど、まあ江上が見たらそうなっちゃうのはしかたないです。
京都は今日が千秋楽。
東京・名古屋は2月・3月に上演なので、そちら近辺の方は、ぜひ。
http://blog.tana2yo.under.jp/?eid=686584#sequel
まずはチラシのあらすじを。
http://blog.tana2yo.under.jp/?eid=686584#sequel
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下鴨車窓#5「書庫」
知らない時代の、遠い世界の話。
その町の自慢は図書館だという。ひときわ目立つ建物。充実した蔵書。特に貴重な図書は地下六階にある書庫に納められている。ずいぶん昔に、本好きの町長が熱心に取り組んだ成果だ。そのかつての町長のやる気といえば、図書の収集のためにと町を訪れる旅人から本を奪うほどのものだった。そんな長い歴史を持った図書館だ。それにしては住民の出入りはそれほどでもないという。
国境で隣国との争いが起こり町にも不安が広がると、書庫の蔵書は安全な場所へ移動させられることになった。安全な場所とはいってもそれがどこであるかは知らされていない。だんだんと失われる本。本がない書庫はただの穴蔵のようにも見える、そんな場所になりつつあった。
残り少ない本とともに置き去りのようになっているのは、司書とその妻だ。二人はもう長い間、その地下六階の書庫に住み込みで働いているのだった。時を知らせる鐘が鳴ると二人は起床し働き始めるのだが、本が運び出されるようになってからは仕事のしようがなくなっていた。もっとも、本があったからといって忙しいわけでもなかったが。
妻はふと地上に干したままになっている洗濯物のことを思い出した。風に吹かれてゆれているであろう洗濯物。旦那に取り込んできてくれと頼むが断られる。どうせすることもないのにと妻は腹を立てている。
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これはやばい。
何がやばいって、安全な場所に移すとか言って運び去られて行った本なんか、どう考えたって、永遠に失われたまま戻ってこなさそうな臭いがぷんぷんして、ずっとどきどきしてました。
蔵書が失われていく書庫。
かつてそこに本があった。あるべきものが、あるべきところにあった、書庫。
その、あるべきものが、あるべきところに、ない。
これはもはや特A級のホラー。
そこへきて、”特別貸出”と”利用者”という立場をふりかざしては、好き勝手に蔵書を持ち去るという訪問者。
残念ながら、作演の人の意図がどうであったかによらず、片方に完全に感情移入して見入ってしまうという。
利用者のエゴと司書の傲慢(しかもバッキバッキにへし折られ尽くした末の)とが、正面からぶつかりあってる様なんか、この人、絶対図書館でバイトとかしてたろう、ていうくらいのリアリティだった。
寓話、寓話とおっしゃってたけども、寓話であるが故に、下手なストーリーものよりもよっぽどドキュメンタリーに近くなってた。
利用者側か、司書側か、”館長”側か、誰のどの振る舞いを”痛い”と感じるかによって、司書のタイプを分類してもおもしろいかも(笑)。
戯曲本が売ってたので、当然の如く即買ったよ。そしたら、あとがきに図書館の想い出的なことが書いてあって、大学の学部図書館が描写してあって、プロフィール見たら京大出身の人で、この描写はどう考えても”あそこ”じゃないか、ていう感じになった。そんなお楽しみもある(笑)。
というわけで。「図書館戦争」読んでる時間があったら、こっち見たほうがよっぽどいいよ、という、そんな一編。
・・・いや、たぶん、そこまで”図書館描写”に特化することを意図した芝居ではないと思う、読むべきところはもっと別のとこにあったんだろうとは思うのですけど、まあ江上が見たらそうなっちゃうのはしかたないです。
京都は今日が千秋楽。
東京・名古屋は2月・3月に上演なので、そちら近辺の方は、ぜひ。
http://blog.tana2yo.under.jp/?eid=686584#sequel
昨日のNHKスペシャルのデジタル・ネイティブという番組
途中までしかまだ見てないけど、だいぶマストだなと思った。
見てないひとは再放送のチェックを。
見てないひとは再放送のチェックを。
2008年11月05日
Books I read recently.
「英語がうまくなる人ならない人」。
もはやこの手の英語本を、英語学習のためには読んでいない、という。ある一定のテーマについて、問題解決が、ありとあらゆる方面から示されるという。問題解決万博、的なノリで。
ひとつだけ確実なのは、すべての問題解決に必要なのは、スキルであって精神ではない。ということは、どんな問題も遅かれ早かれ必ず解決する。
「「ニッポン社会」入門」。
「ニッポンの評判」。
自分が持てない視点を、持ってくれる人がいるなら、耳を傾ける価値は億千万だよ。
「お金を稼ぐ勉強法」。
問題解決が(ry
「論文捏造」。
脅威のリーダビリティ。わかりやすい説明とは何か、の格好の教材。長々と積ん読していた自分を腹の底から呪ったよ。アホすぎるだろう、と。積ん読は、アカン、絶対。
もはやこの手の英語本を、英語学習のためには読んでいない、という。ある一定のテーマについて、問題解決が、ありとあらゆる方面から示されるという。問題解決万博、的なノリで。
ひとつだけ確実なのは、すべての問題解決に必要なのは、スキルであって精神ではない。ということは、どんな問題も遅かれ早かれ必ず解決する。
「「ニッポン社会」入門」。
「ニッポンの評判」。
自分が持てない視点を、持ってくれる人がいるなら、耳を傾ける価値は億千万だよ。
「お金を稼ぐ勉強法」。
問題解決が(ry
「論文捏造」。
脅威のリーダビリティ。わかりやすい説明とは何か、の格好の教材。長々と積ん読していた自分を腹の底から呪ったよ。アホすぎるだろう、と。積ん読は、アカン、絶対。
最近読んだ本
ここ数ヶ月で読んだ本、小説もの。
「配達あかずきん」、大崎梢。
これ、ある程度の本読みな人じゃないと、ぴんと来ないネタだとか仕掛けだとか語句だとかがだいぶ多いな、ふつーに本を読んでるだけの人ではちょっと疎外感を覚えかねないような、わりと読者を選ぶタイプの小説じゃないかな、と思ったんだけど、それがそれなりに人気出てるということは、いまどきってもはや、本を読んでる人っていうのは、読んでる人、というふうに分極しちゃってる状態なんじゃなかろうか、とちょっとだけ思ったよ。
もちろん、ぴんと来まくりだった江上の星はサミット級。
「金春屋ゴメス」、西條奈加。
設定でノックアウト。2時間ドラマ化したらいいよ。
「告白」、湊かなえ。
ある意味、悪人しか出てこない小説だった。視点が変わるだけで人格がこんだけ変わるか、ていう。そして、帯のコメントがネタバレなのは、正気かと思った。それについては別の話で。
「誘拐」、五十嵐貴久。
前ふりがやミスリーディングがわかりやすかったので、まさかこれが大オチじゃないだろう、と思いながら読んでたら、それが大オチだったことに、逆に度肝を抜かれた。おもろかったからぜんぜんいいけど。
「コミケ襲撃」、川上亮。
コミケってこんなんなんだぁ。(←ちがう(笑))
「今日の特集」、戸梶圭太。
働く、とはどういうことかについて、はからずも考えさせられた作品。仕事に対して自覚的でなかったこいつ(主人公)の姿勢が、一番の元凶だろう、自業自得じゃないか、と思った。
「終末のパラドックス」、桂木希。
先の「誘拐」といい、政府とか首脳とかが簡単に出てくるような話って、かつては、リアリティなさすぎ感がしてあまり好きじゃなかったのだけど、いつのまにかふつーに読めてるな、という感じだった。
しかし、世の中ってそんなにあちこちセキュリティの甘い造りになってるのかしら。
「モダンタイムス」、伊坂幸太郎。
現在および近い将来の、社会の必然が描かれていた。そりゃ、そうなるだろう、と思った。なので、さほどの心の動きは覚えなかった、という。そりゃそうだろう、何の不思議もないよ、ていう。
帯について言いたいことはあるが、それは別の話で。
「悪人」、吉田修一。
人間ドラマだった。ミステリーじゃないよね。あと、これが新聞小説だったということにちょっと驚いている。
「流星の絆」、東野圭吾。
あまりにも救いのありすぎるめでたしめでたし感に、え、これほんとに東野さんが書いたの?と思わず見返してしまった。すんなり救うとかではなくて、もっと上手な感じに苦悩させてほしかった。好感の持てるキャラだっただけに、なおさら。(S発言?(笑)) おもろかったからぜんぜんいいけど。
これも帯その他について考えるところはあるけど、別の話で。
「ガリレオの苦悩」、東野圭吾。
もはや福山と柴咲がしゃべってるとしか読めなくなった。このシリーズってもともとだいぶ異色作っぽいあれだったのにな、なんか変に安定しちゃったのかな、と思いながら読んでたけど、最後の「攪乱す」のはっちゃけ具合がかなり上手いところをついてて、実におもしろい、だった。ネット検索のあたりの話は、ちょっと異議あり(そんな都合よくヒットしないんじゃないの?)だったけど。
「聖女の救済」、東野圭吾。
おもろかったからぜんぜんいいけど、あとからよく考えたら、あれ、わりと偶然性多くない?と思った。ちなみに江上は、彼女に常盤ちゃん(常盤貴子)をあてて読んでましたが、みなさんは誰で読みますか。(知らねえよ(笑))
「四畳半神話大系」、森見登美彦。
一行一行に神さんが宿っとおるな、これは。
ちなみに、みなさんが思っているよりも数倍、随分とリアルです、この京大生生活描写は。樋口さん? いるよ、二桁は。”ロッテさん”がいるくらいだから(笑)。
「配達あかずきん」、大崎梢。
これ、ある程度の本読みな人じゃないと、ぴんと来ないネタだとか仕掛けだとか語句だとかがだいぶ多いな、ふつーに本を読んでるだけの人ではちょっと疎外感を覚えかねないような、わりと読者を選ぶタイプの小説じゃないかな、と思ったんだけど、それがそれなりに人気出てるということは、いまどきってもはや、本を読んでる人っていうのは、読んでる人、というふうに分極しちゃってる状態なんじゃなかろうか、とちょっとだけ思ったよ。
もちろん、ぴんと来まくりだった江上の星はサミット級。
「金春屋ゴメス」、西條奈加。
設定でノックアウト。2時間ドラマ化したらいいよ。
「告白」、湊かなえ。
ある意味、悪人しか出てこない小説だった。視点が変わるだけで人格がこんだけ変わるか、ていう。そして、帯のコメントがネタバレなのは、正気かと思った。それについては別の話で。
「誘拐」、五十嵐貴久。
前ふりがやミスリーディングがわかりやすかったので、まさかこれが大オチじゃないだろう、と思いながら読んでたら、それが大オチだったことに、逆に度肝を抜かれた。おもろかったからぜんぜんいいけど。
「コミケ襲撃」、川上亮。
コミケってこんなんなんだぁ。(←ちがう(笑))
「今日の特集」、戸梶圭太。
働く、とはどういうことかについて、はからずも考えさせられた作品。仕事に対して自覚的でなかったこいつ(主人公)の姿勢が、一番の元凶だろう、自業自得じゃないか、と思った。
「終末のパラドックス」、桂木希。
先の「誘拐」といい、政府とか首脳とかが簡単に出てくるような話って、かつては、リアリティなさすぎ感がしてあまり好きじゃなかったのだけど、いつのまにかふつーに読めてるな、という感じだった。
しかし、世の中ってそんなにあちこちセキュリティの甘い造りになってるのかしら。
「モダンタイムス」、伊坂幸太郎。
現在および近い将来の、社会の必然が描かれていた。そりゃ、そうなるだろう、と思った。なので、さほどの心の動きは覚えなかった、という。そりゃそうだろう、何の不思議もないよ、ていう。
帯について言いたいことはあるが、それは別の話で。
「悪人」、吉田修一。
人間ドラマだった。ミステリーじゃないよね。あと、これが新聞小説だったということにちょっと驚いている。
「流星の絆」、東野圭吾。
あまりにも救いのありすぎるめでたしめでたし感に、え、これほんとに東野さんが書いたの?と思わず見返してしまった。すんなり救うとかではなくて、もっと上手な感じに苦悩させてほしかった。好感の持てるキャラだっただけに、なおさら。(S発言?(笑)) おもろかったからぜんぜんいいけど。
これも帯その他について考えるところはあるけど、別の話で。
「ガリレオの苦悩」、東野圭吾。
もはや福山と柴咲がしゃべってるとしか読めなくなった。このシリーズってもともとだいぶ異色作っぽいあれだったのにな、なんか変に安定しちゃったのかな、と思いながら読んでたけど、最後の「攪乱す」のはっちゃけ具合がかなり上手いところをついてて、実におもしろい、だった。ネット検索のあたりの話は、ちょっと異議あり(そんな都合よくヒットしないんじゃないの?)だったけど。
「聖女の救済」、東野圭吾。
おもろかったからぜんぜんいいけど、あとからよく考えたら、あれ、わりと偶然性多くない?と思った。ちなみに江上は、彼女に常盤ちゃん(常盤貴子)をあてて読んでましたが、みなさんは誰で読みますか。(知らねえよ(笑))
「四畳半神話大系」、森見登美彦。
一行一行に神さんが宿っとおるな、これは。
ちなみに、みなさんが思っているよりも数倍、随分とリアルです、この京大生生活描写は。樋口さん? いるよ、二桁は。”ロッテさん”がいるくらいだから(笑)。