2010年04月04日

来るべき(もしくはもう来てる)無縁社会なるものに、”無縁力”を以て備えるという話


 「無縁社会」がやってきてるらしい、というのをNHKさんの番組で見ましたよ。NHKさんがもうちょっとがんばってキャンペーンを張れば、年末には流行語大賞に挙がりそうなくらいの勢い。
 そんな中で、どなたかがtwitterで「無縁でも楽しく生きていけるようにしてほしい/なりたい」とおっしゃったのを見て、「してほしい」のほうはまあともかく、「なりたい」のほうは、ああ、じゃあそれは”無縁力”を鍛えるということをせなあかんなあ、と、思たです。

 ”無縁力”。
 NHKさんがおっしゃる「無縁社会」、無縁な環境、個々人が無縁である様、これが良いか悪いか、どう考えるべきかどう解決すべきかあるいは解決とかいう問題でもないのか、的なことはとりあえず別問題として。
 無縁な環境にあってもさほど苦労することなく生活または世渡りしていける力。経済的にというよりは、精神的に、気持ち的に、ライフハック的にそういうことができるという種類のスキル。そういうのを、仮に”無縁力”というふうにここでは呼びましょうよね。

 その”無縁力”について、だらだらと考えてみた、ていうことなんですけども。
 但し、経済力や社会制度の話はわかんないので置いといて、気持ち的な問題として。

 で、そういう”無縁力”が生まれもって(または慣れとかで後天的に)高いタイプの人っていうのは、これは確実にいるでしょう、と。少数派ではあるけども、確実に。
 私なんかは空いた時間はひとりで過ごすのがデフォルトと思っているタイプのあれなので、そうじゃない人の話をきいてても何か遠い国のお伽噺くらいにしか思えないですけど、どうやらそうじゃないほうがこの世は圧倒的多数派らしいですね、でしょうけど、でも圧倒的少数派だとしても、無縁環境に容易に適応できる人、それどころか進んで好む傾向にある人というのは、やっぱりいる。
 というのも、私は社会心理学だとか脳科学だとか福祉や地域社会や哲学やの話はぜんぜんわかんないですけども、ただ、守備範囲である国文学・日本古典の視点からだけで言ったとしても、そういう”無縁力”のやたらと高いタイプの人たち、そういう思潮みたいの、というのは、これはもう古今東西問わず確実に存在していたですよね。

 日本以外の文学のことを問われると困っちゃうけど、まあたぶん、文学というもの自体が”無縁”とは無縁ではいられないだろうし、また、”無縁”も文学と無縁ではいられないのではないか、と思う、というのはどうかな、文学と無縁な生活が想像できない自分だからそう思うだけかしら。
 そして、さてあまり「日本って/日本人って、こうだよね」みたいな物の言い方があまりよろしくないとは思うんだけど(でもまあ、しょっちゅう言っちゃうんだけど)も、もしかしたら日本人によくある内向きな気質、職人気質に化けたりひきこもり気質に化けたりするそれ、は、日本人の無縁力をくいくい背中から押してる感じになっちゃってるのかもしれない。
 濃ゆいムラ社会の一歩外側、もしくは一歩内側(心の内)は、反動的に”無縁”、なのかもしれない。

 そんな無縁環境をカジュアルに味わう、もしくは、自分の無縁力がどのくらいかを推し量る、のに吉な身近なものといえば、「旅」じゃなかろうか、と。旅は、遠くへ行けば行くほどそうだし、逆にちょっとした近場であってもだけど、自分と無縁な社会に対面することになるというあれですよね。温泉宿といい、ヨーロッパの田舎といい、大陸横断鉄道の中といい、どっかの島といい。だから、「ひとり旅」ができるかどうか、自分にとって「ひとり旅」とは何か、を考えたり知ったり体験することによって、来るべき(らしい)(もしくは既にある)無縁社会に自分がどう向き合っていくか、の心積もりくらいはできるでしょう。いや、別にひとり旅しかするな、っていうんじゃないですけど。よく言われる、ひとり旅のできない奴はちょっと考え直したほうがいいし、また逆に、ひとり旅しかできん奴もちょっとあかんで、ていう感じの、あれ。

 もうひとつ、”無縁力”を高めたいのであれば、おそらく「問題解決のために、初対面の人とスムーズにコミュニケーションがとれるかどうか」ていうのがめちゃめちゃ重要になってくるんちゃうかな、と、一見逆のように見えるけども、それはたぶん言えると思うですよ。いくら無縁っつったって、ある程度社会の中で生活してかなきゃいけないわけで、既に絆が溢れて存在してるような環境なら、別に好きこのんで自ら知らん相手とコミュニケーションとりにいく必要なんかなくても生活できるんだけども、無縁環境で、初対面の人と接するのが苦手、とか、そんなんもう”詰み”の状態ですよね、問題解決どころの騒ぎではなくなっちゃう。行きずりの人に気軽に近づいていって、必要なやりとりなり、交渉ごとなり、その場での絆の形成なりが可能な積極性を持ってるか、というのは、”無縁力”とは無縁に見えて実はたぶん全く無縁ではない、のではなかろうか、と。
 めんどくさがりなだけなら別に問題ないけど、苦手なのは大ありじゃなかろうか、と。

 どなたかがおっしゃった、「無縁でも楽しく生きていけるようにしてほしい/なりたい」というのは、たぶんそういうことなんじゃないかな。

 あ、あと、情弱だと100%不利、ていう。
 だから、ネットも決して”無縁”と無縁ではあり得ないという。

 なんつって、まあNHKの番組もぼーっとしか見てなかったので、だいぶ曲解してるかもしんないですけども、なんとなく考えてみました、という話です。
 
posted by egamiday3 at 12:27| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする