2010年07月14日
大学図書館で持参したデジカメで資料を撮影する件について
大学図書館で、資料(古典籍かそれに準ずるような古めの資料、特殊資料等)を、持参したデジカメで、コピー代わりに、撮影する、ということを認めている、そしてそれをwebでちゃんと書いている、ところの例。
但し、文献複写サービスの延長の範囲を超えて、明らかに「貴重な文物を、高性能な機材で、高画質・高品質で撮影・複製し、出版・放映等を前提とする」ようなものについては、今回のトピックの対象外としてます。その例なら、別に珍しくなくもっと多いっぽいので。
でも、下に挙げた例が、その例かもしれません。そのへん、ボーダーレスだからよくわかんない。
●一橋大学附属図書館
http://www.lib.hit-u.ac.jp/guide/faq/reproduction.html
「電子複写(マイクロ資料を含む)が出来ない資料について、調査研究目的で、今後の二次利用を予定しない場合、カメラ等で撮影することができます。」
「撮影をする場合には、以下に記入し、事前に末尾の連絡先までご連絡ください。 」
「(撮影許可願)1 撮影は指定された場所で、係員の立合いのもとで行うこと。また、資料の取り扱いについて係員の指示に従うこと。」
「複写、撮影以外の複製についても、上記に準じます。」←ここ意外と重要。
●筑波大学大塚図書館
http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/otsuka/forms/
「自分で持ち込んだ機材(デジタルカメラ等)で文献を撮影したい」
「(撮影申込書) 撮影は、指定の場所で係員の指示に従って行うこと」
申請書に記入してカウンターに提出
●東北大学附属図書館
http://www.library.tohoku.ac.jp/guide/gakunaifaq.html
古典籍資料を複写したい場合
「マイクロフィルム化されてない場合、原則としてカメラを持ち込んで撮影していただくか、業者による撮影となります」
「事前に申請書を提出していただく必要があります」
●北海道大学附属図書館 北方資料室
http://www.lib.hokudai.ac.jp/modules/tinyd42/index.php
「資料の保存状態の悪化を防ぐため、複写を禁止している資料が多数存在しています。ただし、複写を禁止している資料の中でも、カメラ撮影が可能な資料もあります。」
●国文学研究資料館
http://www.nijl.ac.jp/contents/library/honkoku-2010.html
「直接複写できず、またフィルム化されていない資料(史料・和古書・明治期資料)はカメラ等で撮影することができます」
「来館時に「資料撮影申込書」に記入して申し込んでください」
●明治学院大学図書館貴重資料室
http://www.meijigakuin.ac.jp/mgda/content_riyo.html
「コピーやスキャナーの利用はできません。また図書館員による点検と立合いがあります」
「理由がはっきりしており、許可を受ければ「閲覧メモ」としてデジタルカメラを係員立合いの下で使用できます」
「ただし辞書に圧迫を加えるなどしての平面性確保はできません」
●梅花女子大学図書館
http://www.baika.ac.jp/~lib/library05.html
「デジタルカメラ等の館内での使用については、必ず事前にカウンターで確認を受けてください」
以下、web等の利用案内には明言されていないが、問い合わせるとこのような対応が、おそらく定まった運用として、なされる、という例。
■R大
事前に予約し、認められた日と時間の間に、職員立ち会いの下、撮影が可能。という説明が、こちらからの問い合わせへの返答に添付される。
■H大
問い合わせへの返答に「カメラを持参することを検討してください」という推奨?がある。
■O大
持参デジカメで撮影した場合、カット数×単価で料金を請求される。
以下は、私見ですけど。
自分は資料の保全が第一、特に、コピーできないからデジカメで撮りたいというリクエストが出やすいタイプの、古め・弱め・特殊めな資料の場合には、ていう考えなんですけども、そこから考えて、どういうときにこれはデジカメで撮ってもらうのが適、とか、どういうときに不適、とか、どういう方法なら適、とかいうのは、下手に基準を決めてしまうのはすっごい危ない、という思いがあります。で、たぶん、上の例の各所さんもそういう思いがあるから、結構幅広く解釈できる書き方をしてはる、ような気がします、気がするだけですけど。
これはすっごい難しくて、傷みがきてるからこそデジカメが適、という場合もあれば、傷みがきてるからこそこれでデジカメは不適、という場合もある。しかも、この「デジカメ」の部分が、場合によって「スキャナ/コピー/業者撮影」に入れ替わる。そして、この入れ替わりに法則性なんかない。あるわきゃない。てか、なかったもの。
傷みだけじゃない、背表紙の具合、開き方、紙の強弱。保存状態だけじゃない。大きい小さい、薄い厚い、軽い重い。文字の大きい小さい。写りよい写り悪い、明るい暗い。ご本人の持ってきはった機材がどんだけのものか、こっちの提供できるグッズ(書見台や撮影台)がどんだけのものか。撮ろうとしてはる数量の多い少ない、多ければ業者撮影のほうがいいと言えるけど、少なければ業者撮影のほうが資料にかかる負担が大きい。
ご本人のスキルというか慣れもかなり大きくて、もうすでにあちこちで似たようなことをしていて慣れてますよ、という方もいれば、見るからに手元が危なっかしい方もいる。このへんは、率直にご本人とゆっくり相談させていただくことが多い。特に、こういう古め・特殊めな資料をわざわざうちら山奥まで見に来はる方は、うちらなんかよりよっぽどその資料のことをわかってらっしゃる場合がほとんどなので、胸を借りて勉強させていただくノリで、率直に、こうではどうでしょうかね、みたいに密にご相談したい。
そのうえでの、判断。
で、そんなこと、ローテーションな異動でルーティーンな仕事をしてる職員ばかりのような大学図書館でおいそれとできるわきゃあないので、だから、「一律禁止」になっちゃってるところがほとんどだ、ていうのも、まあ気持ちとしてはわからない話ではないですよ。わかりたくはないけど。
(追記1)
忘れてた。大事な2リンク。
▼ E1027 - OCLC,閲覧室でのデジタルカメラの使用に関する報告書を発表
カレントアウェアネス-E No.167 2010.03.10
http://current.ndl.go.jp/e1027
▼ 大学図書館における著作権問題Q&A(第7版)
「Q3:利用者から資料の一部をメモする代わりに、デジタルカメラで撮影したいと申出がありましたが、認めても問題はないでしょうか。」
http://wwwsoc.nii.ac.jp/anul/j/documents/coop/copyrightQA_v7.pdf
(追記2)
デジカメで撮るののやばいところのひとつは、片手がふさがるから、資料を扱うのが片手になっちゃうところ。
資料の状態がよくないので、両手で優しくかつ確実にホールドしてもらわないとやばいのを、じゃあデジカメを片手に、もう片手だけで危なっかしく、ていうのの危なっかしさは、どうもやっぱ危なっかしい。
なので、たとえば例に挙げた図書館さんの中の「職員立ち会い」のパターンっていうのは、監視とかなんとかと同等以上に、必要に応じて手をお貸しすることで資料をお守りする、ていうことなんじゃなかろうか、とか勝手に想像してましたよ。
2010年07月09日
ビブリオバトル!についてのこんな夢を見た。
※今回は”夢落ち”です。
(参照) ビブリオバトルとは?
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夢の中で司会者が言う。
「自分で選んだ本を紹介するだけでは真のビブリオマスターとは言えません。
こちらが指定した本を紹介し、多くの人に「読みたい」と思わせてください。」
登壇者は2−3人。
すでに何回戦か勝ち進んだ、準決勝か決勝に近いくらいの場。
オーディエンスは50人。
「今回の課題図書はこれです」
司会者が課題図書を示す。
まったくの新刊なら、事前に読んだことある、という偶然も起こらなくていい。
登壇者はこの課題図書を50人のオーディエンスに向かって、ビブる(←えっ!?)ことになる。
準備時間は、企画によっては1時間でもいいし、1日でもいい。どちらでもそれなりにおもしろくなりそうな気がする。
ただ、同じ図書を紹介するということになると、登壇順によって有利・不利が大きく左右されることになってしまう。
これについての対応その1。とはいえ、先が有利な場合もあれば、先が不利な場合もあろう。そこはあえてふつーに抽選とかでいいんじゃないか。という考え方。
対応その2。登壇者が2人、オーディエンスが50人なら、オーディエンスを25人づつの2班にわけ、先攻後攻を入れ替えて登壇させる。これで対等。
webで動画なら登壇順関係なくなるよ、と言われるかもしれない。
ただ、ビブリオバトルはぜひライブで、客前で行なわれてほしい。
でないと、お客の反応を見て内容・戦法を変えるということができなくなってしまうので。
というわけで、そこまでやるからにはやはりこの回は、準決勝か決勝くらいの場と思われる。
そんな、夢。
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半ばくらいの企画。
ビブる本は、自分が選ぶのでも、課題図書でもどちらでもいい。
同じ本が10冊与えられ、登壇者はそれを抱えて街へ出る。
街を行く人を選んで呼び止め、その場でその本を紹介する。
相手がその本に興味を持ち、その場で1冊買ってくれたら、クリア。
それを繰り返し、手持ちの10冊をすべて売りきるまでの、タイムを競う。
題して、「書を持って街へ出よう」バトル。
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用意された10冊の本の中から、自分で好きなものを選び、ビブる。
というところまではまあ、ふつうのバトル。
但し。
その1。用意された10冊が、「桃太郎」「浦島太郎」「あかずきん」のような、誰でもがすでに知ってるような昔話の絵本。それでもなお、オーディエンスに「読みたい」と思わせることができるかどうか。
その2。用意された10冊が、統計、法律、データ集のような、いや、読むもんちゃうし誰も読みたいと思わへんやろ、というようなもの。それでもなお、(ry
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10枚(別に10じゃなくていいんだけど)のカードが用意されている。
カードは、表を向けて自分で選んでもいいし、裏を向けてひかせるというランダムなのでもいい。
カードには、これからビブる相手であるオーディエンスが書かれてある。
「女子高生50人」
「大阪のおばちゃん50人」
「○産のゴ○ン社長+○間○代の2人」
「たったいま、その本を原作とした映画を見てきた50人」(←これはイヤすぎるw)
何割の人に読みたいと思わせるか。
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ついに、決勝戦でも勝利を収め、全国○万人の頂点に立った、ひとり。
「おめでとうございます。あなたが優勝者です!」
司会者が祝福する。
「では、これから、真のビブリオマスターになるべく、最後のチャレンジにのぞんでいただきます。」
その場で、アイマスク&大音量ヘッドホン。
手を引かれ、車に乗せられ、何かしらの乗り物に乗せられ、移動、移動、移動・・・。
20時間ほど経っただろうか。
椅子のようなものに座らされ、ゆっくりとアイマスク・ヘッドホンがとりはずされる。
おそるおそる目を開ける。まぶしい。
どこかの屋内。
どこかはわからない。窓もない。
目の前に50人ほどのオーディエンス。
日本人でないだろうことだけはわかる。ある人は濃い黒ひげ、ある人は白い肌、ある人はアフロヘア、ある人は見慣れぬ民族衣装。いったいどこの国の人たちなのか、それともそれぞれ違うのか。
目の前に置かれた一冊の本。
アルファベットであることはかろうじてわかる。が、あきらかに英語ではないし、フランス語やドイツ語ともたぶんちがう。見たことのない言葉。
司会者(あんた、おったんか)が高らかに宣言する。
「これが最後のチャレンジです。この本をこの方々に紹介してください。8割以上の方に読みたいと思わせることができれば、あなたこそが真のビブリオマス
できねえよ。
※注。あたし自身はまだビブリオバトルを、生でも動画でも見たことがありません。
情報の”ギブ・アンド・テイク”では”ギブ”のほうが偉いんだって、誰が決めたんですか。
※先に言っておくと、”ポイズン落ち”です。
かつて自分がインターネットというものに触れ始めた頃、12−3年前ということになろうか、その頃、メーリングリストでは、自分から発言もしなければ情報も出さないいわゆる”ROM”というやつは結構に忌み嫌われていたように記憶している。
登録したら必ず自己紹介文は送りなさい、ということがきつく言われるくらいはデフォルトで、ROMはダメです、とか、月何通以上発言なければ登録から外される、なんていうルールもまったく珍しくはなかった。
まあ、わからんではない。発言が飛び交わないMLはつまらないと思われても仕方ないし、そもそもネット経由のコミュニケーションツールが出始め&それほど多くなかったわけなんで、「せっかく手に入れた道具はしっかり使い倒したい」という人類共通の”欲”というのも根底にはあったのかもしれない。
ギブアンドテイク、という言葉が使われていたような気がする。
こういうコミュニケーションの場に登録してきたんだから、情報をテイクしてばかりいないで、どんなかたちでもいいから、ちゃんと自分からも情報をギブしなさい、という、まあある種の道徳的な考え方。「発言が少ないと盛り上がらない」だけなら環境作りのひとつとも考えられようが、「ギブアンドテイク」という物言いは、まあ、平たく言えば「ずるい」ってことなんだろうな、と思う。
自分が持っている情報を惜しげもなく他人に開示・ギブする者は、偉い。それに比べて、自分は何も発言しないのに人の出す情報を読んでテイクしてるだけのやつらは、ずるい。という価値の置き方。
日本には「働かざる者食うべからず」などという便利なことわざがあった。「ギブアンドテイク」という欧米の言葉がそもそも現地でもそのような意味合いを含んでいたかどうかでは定かではないが、少なくとも日本で、ああいう文脈で使われるときは、同じ意味を伝えようとしているんだろうと思う。
あれから10数年。
ネット上でのコミュニケーション・ツールの選択肢はあれやこれやと増えてきた。思いもよらぬ百花繚乱。情報発信がどんどんオープンにかつフリーに行なわれるようになってきた。予期しなかった情報大放出時代。公的機関の統計情報も、専門家による業務上の実例・経験譚も、今日誰がどの店のカルボナーラを食べたかも、どこぞにぽおんと置いておかれ、投げられつぶやかれ、必要な人それぞれがテイクしていく。そのステージ上では、ギブとテイクが必ずしも呼応してない。ギブするほうは誰に対するともなくギブしてて、テイクするのが誰か、そもそもいるかもさほど意識していない。いや意識はしたとしても、管理はしない。テイクするほうも、お金払う相手もいなければ、なぜそこに置いてあるかもわからない。サーチエンジンで細切れにされた検索結果から直接ジャンプしてきたから、そもそも自分は今その情報を、どこの誰からテイクしているのか、わかんないし、必要ない限りわかろうとすることもない。それでいいと思っている。
それが当り前だと思うようになっている。
それが当り前だと思っている人らが、「ギブアンドテイクなんだから、自分からもギブしなさい、情報提供しなさい。それをせずにテイクだけな人は、ここには入れたげない」と言われたら。
「じゃあいいです、どっかよそでテイクしてきます」。
まあ、そうなっちゃうわね、そりゃね。
テイク側の人が、じゃあいいです、よそ行きます。そう言われた瞬間、形勢はあっというまに180度逆転してしまうのではないか。テイクする人がいるから、ギブできたのである。テイクする人が離れてしまえば、ギブ側にはもはや、その相手がいなくなる。ギブの持って行き場がなくなり、ギブできなくなる。ギブのできないギブ側は、何をしたらいいんだ、ということになる。
ギブしたいのに、ギブをさせてすらもらえない。
うわあ、なんと哀しい話ではないか、と。
ギブ側が単にテイク側にギブしていただけではない。ギブ側自身もまた、ギブをテイクしてもらえているという種類のギブを、テイク側からギブされテイクしていたというわけである、←なんだこれw。
そう考えつつ見てみると、いまやネットもリアルも、ギブしますよ!私のギブをテイクしてね!と、オープン&フリー合戦の様相を呈しつつある。
長文でしっかりした内容のフリーでオープンなblog。即時で生の現地情報が労せず向こうから飛び込んでくるtwitter。参加費も交通費も時間のロスもまったく無しで有識者の講話談話が聴けるustream。ギブ、ギブ、ギブ。情報大放出。なんと気前がいい。
おかげでこれまで情報のギブによってテイクしていた種類の業界はあわあわしている。出版は自転車操業を続け、新聞は不要と言われ、テレビは地デジ対応しないと見れないというならそれでもかまわんと言われるまでになった。専門知によって社会に貢献しようという医者や弁護士や教師や研究者・科学者が不遇の憂き目を見なければならない現状も、あながち無関係ではないような気がする。心血を注いで執筆した論文はリポジトリなるオープンアクセス機関に接収され、医者や教師はモンスターにびくびくしながら暮らしていると人は言う。
ちょっとそれた。
ともあれ、情報デフレ時代の片棒を担いでいる最大の存在は、Googleさんであろう。Googleさん。みんな大好きGoogleさん。情報をフリーかつオープンかつ大量に気前よく提示することで、世の人々の目を一身に向けさせ、人気を博し、(そしてここが実は重要なんだけども)知らず知らずのうちに有象無象からのちょっとづつのテイクを集め(これを元気玉と言う)、その波に乗って新しいサービスを提供し、結果、さらに大量の情報がフリーかつオープンに提示される。あまりの人気に、他のありとあらゆる情報に関わる存在(ということはすなわち、ありとあらゆる存在)も、この波の上で勝負せざるを得なくなる。勝負せざるを得ないんだけど、勝てるわけがない、Googleさんの体力がもはやハンパないから。はいっ、ギブしますっ!と意を決して手を挙げたところで、高師の浜のあだ波に呑み込まれて声も聞こえなければ袖も濡れない。この辺りで経済音痴の自分にもようやく気付く、ああ、これが音に聞くデフレスパイラルというやつか。
この荒波のステージでの勝負に確実に勝つことができるのは、Googleさん並みの体力を持った存在である。どれだけ情報をフリーかつオープンかつ大量にギブし続けても、疲弊しないだけのストックと体力がある者。そんな勝負あるか。勝てるわけがないじゃないか。責任者はどこか。
にもかかわらず、である。たまにネット上で、いや別に自分はその勝負に負けてる感はないですよ、というふうに平然とギブを続けておられる存在を見かける。たまに、じゃないな、そういう存在はぼーっとネット徘徊してるだけでも目につくところにいらっしゃるから、意識無意識はともあれ見聞きしていることになる。彼ら彼女らはギブによって何をしているのか。
仮説。1、ギブすることだけに意義を見出し、テイクは意識していない。(類:ギブすることでアドレナリンが出るからそれで完結している) 2、大量のギブの末の末にテイクを得られるネタを用意している。3、バックがついている/別のパイプラインがあるから、ギブ自体からテイクする必要がない。4、上手にギブして、上手にテイクしている。5、上手にギブすれば、いつか巡り巡ってトータルで何らかのテイクが得られることを、信じている。うむ、そもそも「ギブアンドテイク」というのは5のようなことを言ったのではないのだろうか。日本には「情けは人のためならず」などという便利なことわざがあった。「ギブアンドテイク」という欧米の言葉がそもそも現地でもそのような意味合いを含んでいたかどうかでは定かではない。むしろ「ペイフォワード」か。
あの頃のことを思う。
情報はギブアンドテイクだ。テイクだけしてるやつはずるいやつだ。
そこそこ多くの人がその理屈を信じていたような気がする。
”ギブ”のほうが偉いんだって、誰が決めたんだろうか。
思い出せないし、わからない。いや、情報のデフレが止まらない世の中で、情報を生業にして生きている我々には、それがわかったところで何の薬にもならないのだった。ポイズン。
2010年07月07日
はてなブックマークを、司書の講義でとりあげたときのこと。
昨年度から半期くらい、とある寄席の高座に上がるということをやらしてもらっていて、その高座で、インターネット上の情報というもののありかたを説明する講義(講義じゃんw)という回があって、その講義の中ではてなブックマークをとりあげる、ということをやってみたときの体験談。
学校の司書の先生になるための資格をとろうとする人たちのための講義ではあるものの、学生さんたちの話を聞いていると、司書課程のほうをとってるわけではないし、そもそもほかの教科科目での教員免許をとってる人たちなもので、図書館情報学というもの自体にそんなにがっつり触れてないという感触であったので、それはじゃあもう、枝葉末節な実践的スキルを身につけさせるというよりもむしろ、図書館とかインターネットとか情報とかいうもののありかたの全般的な考え方から説明してあげないとよろしくないな、と思い、早速のその回は、比較的興味を持ってもらいやすいであろう、インターネットの近年的なトピックのほうをとりあげて、それをベースにこの分野のいろんなものの考え方に触れてもらおうという目論見だったわけで。
インターネットのメリット・デメリット、サーチエンジン、wikipedia、flicker、ロングテール、次世代OPAC、NDC、タクソノミー、フォークソノミーの説明までしたところで、ソーシャルブックマークの話題にたどり着き、さてここで説明するとしたら「はてなブックマーク」をとりあげるべきだよなとなったところで、学生さんにこの「はてブ」なるものを知っておるか? と問うと、知っておる、とお答えになる。ああそう、ご存じかい、なら話は簡単、ソーシャルブックマークとフォークソノミーについては言うまでもなく理解できたね、と水を向けたところが、何のことだろうかというような低めの反応。
あれ、おかしいな、と思いながらよくよく聴いてみると、どうもこの学生さんたちのご理解では、この「はてブ」なるものの”ソーシャルブックマーク”としてのソーシャルかつweb2.0(なつかしいなおいw)的な機能について、理解しているとか意識しているとかそういうものとしてツールとして使っておられるとかではない。なんか知んないけど、いま話題で人気のページはどれかというのが容易に見つけられる、まあちょっとした楽しいヘッドラインみたいなノリで接しておられるように見受けられた。ちょくちょく見てはいるけど、え、ソーシャル?フォーク?何?である。
これはしたり、と。おっさん、若い学生さんたちのリアルな情報行動をわかってなかったよ、と反省して、つまりこの「はてなブックマーク」というサービスの持つこれこれこういう機能には、あそこに書いてある「タグ」というキーワードのようなものには、かくかくしかじかな意味があるのだよ、ということを多少換骨奪胎噛み砕いた言い方で説明してみると、え、なにそれ、初めて聴いた、というように反応の温度がちょっと上がる。我が輩の小咄もさらにつらつらと続く。といった感じ。
考えてみれば我々だって、自分の守備範囲外のさまざまなモノやサービスやツールの本来的な意味を専門的な視点で意識理解しながら接しているわけでもなんでもないわけだから、図書館情報学にさほど馴染みのなかった学生さんが、はてブをなんとなくな情報サービス、いやどうかするとエンタメのひとつと触れていたとしてもなんら不思議はない。にしても、ふだんからそこそこに接し、ある程度はその存在が浸透している。
すでにある程度浸透していながら、その機能は実際ちゃんと理解されてるわけではない。だとしたら、これほど寄席の、いや講義の教材としておあつらえむきのものはないのではないか、と思えてくる。はてブさん。ああ、はてブさん。
とはいえ、じゃあいきなり何の前触れもなく、はてなブックマークというものがあってね、と話を始めてみたところで、ソーシャルブックマークのことだけを説明してみたところで、はてブのこと、ソーシャルブックマークのことをちゃんと理解してもらえたとも思えない。単体の説明では、あの、へぇ〜、は得られなかったであろう。図書館があり、wikiがあり、NDCがあり、タクソノミーとフォークソノミーがあった上での、その文脈の中でのあのはてブである。東京の収録スタジオの中で水無月を試食しただけで、京都の夏は迎えられないのと同じである。(←いやたぶんちがう)
噺家仲間には実際授業中にこのツールをがっつり使わせるという演習をやっておられたりもする。それはそれで、そんなんできんのちょっとうらやましいなと思ったりもする、設備的な意味で。
ただ、今回の寄席の場合で言うと、このツールの使い方を身につけてほしいのか。いやちがう、ここでは、インターネットをとっかかりとしてこの世の中にある情報というものの在り方の世界地図のようなものを、フリーハンドの白地図でもいいから、なんとなく脳内に拵えておいてもらいたい。そういう想いを乗せての説明だったから、今回はあのような取り上げ方になった。そして、それで良かったと思っている。
そこのところの配分が、ライブの寄席というのはなかなか難しい。
ちなみに、それから数週間後のまったく別の小咄、検索してヒットしたページを我々はどのように評価選別すべきだろうか、という文脈の中でも、このはてブを取り上げる一幕があった。ブクマ数多いと信頼できるかな?でも批判の意味で増えてる場合もあるよね?ブログ記事なら、ほかの記事に比べて不自然にブクマ数の多い記事ってどう思う?などである。
おそらく今後しばらくは、はてなブックマークというものをおかずにして高座に上がる機会というのは、減ることはないような気がしている。
はてブさん。ああ、はてブさん。四畳半のアニメにもちゃっかり登場しておったな。
学校の司書の先生になるための資格をとろうとする人たちのための講義ではあるものの、学生さんたちの話を聞いていると、司書課程のほうをとってるわけではないし、そもそもほかの教科科目での教員免許をとってる人たちなもので、図書館情報学というもの自体にそんなにがっつり触れてないという感触であったので、それはじゃあもう、枝葉末節な実践的スキルを身につけさせるというよりもむしろ、図書館とかインターネットとか情報とかいうもののありかたの全般的な考え方から説明してあげないとよろしくないな、と思い、早速のその回は、比較的興味を持ってもらいやすいであろう、インターネットの近年的なトピックのほうをとりあげて、それをベースにこの分野のいろんなものの考え方に触れてもらおうという目論見だったわけで。
インターネットのメリット・デメリット、サーチエンジン、wikipedia、flicker、ロングテール、次世代OPAC、NDC、タクソノミー、フォークソノミーの説明までしたところで、ソーシャルブックマークの話題にたどり着き、さてここで説明するとしたら「はてなブックマーク」をとりあげるべきだよなとなったところで、学生さんにこの「はてブ」なるものを知っておるか? と問うと、知っておる、とお答えになる。ああそう、ご存じかい、なら話は簡単、ソーシャルブックマークとフォークソノミーについては言うまでもなく理解できたね、と水を向けたところが、何のことだろうかというような低めの反応。
あれ、おかしいな、と思いながらよくよく聴いてみると、どうもこの学生さんたちのご理解では、この「はてブ」なるものの”ソーシャルブックマーク”としてのソーシャルかつweb2.0(なつかしいなおいw)的な機能について、理解しているとか意識しているとかそういうものとしてツールとして使っておられるとかではない。なんか知んないけど、いま話題で人気のページはどれかというのが容易に見つけられる、まあちょっとした楽しいヘッドラインみたいなノリで接しておられるように見受けられた。ちょくちょく見てはいるけど、え、ソーシャル?フォーク?何?である。
これはしたり、と。おっさん、若い学生さんたちのリアルな情報行動をわかってなかったよ、と反省して、つまりこの「はてなブックマーク」というサービスの持つこれこれこういう機能には、あそこに書いてある「タグ」というキーワードのようなものには、かくかくしかじかな意味があるのだよ、ということを多少換骨奪胎噛み砕いた言い方で説明してみると、え、なにそれ、初めて聴いた、というように反応の温度がちょっと上がる。我が輩の小咄もさらにつらつらと続く。といった感じ。
考えてみれば我々だって、自分の守備範囲外のさまざまなモノやサービスやツールの本来的な意味を専門的な視点で意識理解しながら接しているわけでもなんでもないわけだから、図書館情報学にさほど馴染みのなかった学生さんが、はてブをなんとなくな情報サービス、いやどうかするとエンタメのひとつと触れていたとしてもなんら不思議はない。にしても、ふだんからそこそこに接し、ある程度はその存在が浸透している。
すでにある程度浸透していながら、その機能は実際ちゃんと理解されてるわけではない。だとしたら、これほど寄席の、いや講義の教材としておあつらえむきのものはないのではないか、と思えてくる。はてブさん。ああ、はてブさん。
とはいえ、じゃあいきなり何の前触れもなく、はてなブックマークというものがあってね、と話を始めてみたところで、ソーシャルブックマークのことだけを説明してみたところで、はてブのこと、ソーシャルブックマークのことをちゃんと理解してもらえたとも思えない。単体の説明では、あの、へぇ〜、は得られなかったであろう。図書館があり、wikiがあり、NDCがあり、タクソノミーとフォークソノミーがあった上での、その文脈の中でのあのはてブである。東京の収録スタジオの中で水無月を試食しただけで、京都の夏は迎えられないのと同じである。(←いやたぶんちがう)
噺家仲間には実際授業中にこのツールをがっつり使わせるという演習をやっておられたりもする。それはそれで、そんなんできんのちょっとうらやましいなと思ったりもする、設備的な意味で。
ただ、今回の寄席の場合で言うと、このツールの使い方を身につけてほしいのか。いやちがう、ここでは、インターネットをとっかかりとしてこの世の中にある情報というものの在り方の世界地図のようなものを、フリーハンドの白地図でもいいから、なんとなく脳内に拵えておいてもらいたい。そういう想いを乗せての説明だったから、今回はあのような取り上げ方になった。そして、それで良かったと思っている。
そこのところの配分が、ライブの寄席というのはなかなか難しい。
ちなみに、それから数週間後のまったく別の小咄、検索してヒットしたページを我々はどのように評価選別すべきだろうか、という文脈の中でも、このはてブを取り上げる一幕があった。ブクマ数多いと信頼できるかな?でも批判の意味で増えてる場合もあるよね?ブログ記事なら、ほかの記事に比べて不自然にブクマ数の多い記事ってどう思う?などである。
おそらく今後しばらくは、はてなブックマークというものをおかずにして高座に上がる機会というのは、減ることはないような気がしている。
はてブさん。ああ、はてブさん。四畳半のアニメにもちゃっかり登場しておったな。