2011年01月29日

(メモ)「大学図書館から考える文書館とMLA連携」 #mla20110129


「大学図書館から考える文書館とMLA連携」

大学図書館研究グループ研究例会
http://wwwsoc.nii.ac.jp/nal/groups/news.html#academic20110129
日時: 2011年1月29日(土)14:00 - 17:00
会場: キャンパスプラザ京都(第2演習室)

「公文書館法と公文書管理法 その背景・概要・展望」
白井哲哉氏(筑波大学大学院図書館情報メディア研究科)

「公文書館法が大学図書館にあたえる影響 具体的スキームに向けて」
福島幸宏氏(京都府立総合資料館)

要旨 2011年4月に施行される公文書管理法は,大学や大学図書館にも大きな影響を与えつつある。そこで,公文書管理法とは何か,大学における公文書管理にどのような影響を与えるのか,さらにこの文脈におけるMLA(Museum, Library, Archives)連携の展望,などについてご講演いただき,情報交換を行う。


自分のtweetから
・デジタル化することによって連携・融合しやすくなる、という議論があるよ、という話だけど。それはちょっと楽観的じゃないかなと思う。IT革命2000年くらいのときにそういうのよく言われてた。
・リアルがついてこなくてもいいから、枠組みをちゃんと議論しよう、ということを言うてはるのかな??
・「ミニマムモデル」「ゴールドモデル」というネーミングするところが上手いなあとおもった。概念を普及&説得さすのに、わかりやすいネーミングを掲げるというのは大事。
・アーカイブズ・公文書館のカジュアル化計画、という話。これはおっしゃるとおり。
・奈良県立図書情報館の中にあるアーカイブズ資料の部門があって、それの利用しやすさが圧倒的、とのこと。これは要確認。
・文書館の文書が原秩序原則で、図書館みたいな分類をしてないから、利用に不都合なんだ、という話がとあるところで出たらしいんだけど、んなこたあないだろう、と思う。
・今後の文書館はこの公文書管理法にあわせてつくらざるを得なくなる。これまでのような多様性・個性がなくなるのでは? これまでの”多様”な仕事が切り落とされていくのでは、という危惧をおっしゃってた。”多様が大事”はあたしも同じ考えだしその危惧もおっしゃる通りではあるんだけど、ただこの話の流れにはちょっと違和感。その”多様”どころか”基礎”すらままならないところがたくさんあったから、この法律作った、ってことじゃなかったんだろうか。
・結局まあ、「公文書管理法」と「MLA連携」を同時に理解しようとするからわかりにくかったんだと思う。別々に考えたらええ。

・質問した。
 最低限の目録でかまわんから、目録出して、存在知らせよ、とおっしゃる。図書館でもそれをやらなあかんというのはまったく同意、自分だってずっとそう思ってきたし。
 ただね、それをやった末に、利用の段になって例えばおいそれと複写もできない、ILL貸借なんてもってのほか、それどころか閲覧だけでも一定の管理下で、デジタル化だっていくつもハードルがある。そんなにまで”利用のパフォーマンス”の悪いモノ、しかも何千何万と束になって山積み未整理のモノに、図書館が嬉々としてリソースを割くのか、と。あたしはやるべきとは思うけど、悲しいことに、現状のそのへんのふつーの図書館はそうは言うまい、目録ひとつにしたって「コピーカタロギングできない資料は受入したくない、てか、しない」とかいうレベルの話がふつーにまかり通る残念なスタッフ揃いの業界ですよ、っていう現実がある。
 それでも、なおやはり、最低限の目録でもいいからとりたい。何千何万の束の文書、公文書管理法の縛りの憂き目だかなんだかで廃棄の危機ていうのも、最低限の目録さえあって存在が知らされれば、戸籍が与えられればなんとかなるにちがいない、と、思いたい。
 だったらですよ、図書館はその目録の数的処理を(良いか悪いかはまったく別にして)コピーカタロギングやアウトソーシングというあれで長年やってきてます、コストカットして買い叩いて、こなしてる業界です。じゃあ、Aさんの文書資料っていうのは、さて、どこまでアウトソーシングなり簡素化なりできるものなんだろうか、と。どこまでコストを下げに下げて、とにかく数だけでもこなせるものなんだろうか。それが何千何万レベルでできさえすれば、助かる資料が山ほどあるんじゃないかと思うんだけども。
 という、質問。
・ただ、何年で○点処理した、という数値の感覚がわからない。多いのか少ないのか。あと、図書館屋が図書館屋の目線で文書整理したら、そりゃ、処理はどうしたって時間をかけることになるじゃん、文書館的目線と比べたら。そういう整理の仕方をしてるんだもの普段。同じ目録でもAにとっての目録・カタロギングとLにとっての目録・カタロギングとはぜんぜんちがうだろうし、ということは、同じ文書資料の目録をとろうというんでもAの人とLの人とでは”ノリ”がちがってしまう、それはある程度しかたないと思う。
・偉大曰く。捨てるな、と。その前に僕にメール下さい、と。たとえリップサービス的なのが多く含まれてるとしても、そういうことをはっきり言える彼は、ほんとのほんとに偉大だなあ、と惚れた。
・とりあえず、うちにあるアレをどうにか死蔵じゃなくしたいんだけど、誰かに相談しようか、から始めたらいいのかな。

・おまけ。
 MLA連携というのが、「みんなで幸せになろうよ」というのはわからんではない。ただ、「みんながそれぞれ個々の基準で幸せになったらいいとしか思ってない」のか、それとも「同じ方向向いて同じ幸せを共有したいと本気で思ってる」のか、どっちなんだろうか、と。Lが”Lの幸せ”をAやMに、Aが”Aの幸せ”をLやMに強いようとしてる、んなら、それは「みんなで幸せ」じゃないもの。
 だから、MLA連携ってのは、Lなら”L基準の幸せ”のある部分を【捨てる覚悟】で、”MLA共有の幸せ”を目指すということになる。それはざっくり言うと、「所帯を持つって家庭的な幸せを得るなら、独身の気楽さはあきらめなさいよ」、ということなんじゃないかな。
 ・・・だったらじゃあ、「いいお友達でいましょう」っていう程度のMLA連携も、別にあったっていいと思うな。あと、目録・整理だけしに来てもらう関係の「MLA通い婚」とか。


参考文献
・日本の公文書─開かれたアーカイブズが社会システムを支える: 松岡 資明: 本 http://htn.to/QSvBkG
・Q&A公文書管理法: 岡本 信一, 植草 泰彦: 本 http://htn.to/Ku4jkd
・歴史資料の保存と地方史研究: 地方史研究協議会: 本 http://htn.to/anMNTr
・図書館・博物館・文書館の連携 (図書館情報学のフロンティア10): 日本図書館情報学会研究委員会 編: 本 http://htn.to/DqxcTR
・MLA連携の現状・課題・将来: 水谷長志 編: 本 http://htn.to/5inThL
・アーカイブズの科学: 国文学研究資料館史料館: 本 http://htn.to/fstzZ5
・国立公文書館等の利用に関するまとめ(公文書管理法):源清流清 ―瀬畑源ブログ―:So-netブログ http://htn.to/BcLqhd
・大学アーカイブズの可能性 ― 京都大学大学文書館での経験から ― http://htn.to/Jc3jPc

posted by egamiday3 at 20:28| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

(メモ)じんもんこん@地球研 20110122


第89回 人文科学とコンピュータ研究会発表会
http://www.jinmoncom.jp/index.php?%E9%96%8B%E5%82%AC%E4%BA%88%E5%AE%9A%2F%E7%AC%AC89%E5%9B%9E
「人文科学とコンピュータ研究を支える資料を考える―MLAの立場から―」
・福島幸宏氏(京都府立総合資料館)・アーキビスト
・岡部晋典氏(千里金蘭大学)・図書館情報学
・村田良二氏(東京国立博物館)・博物館学

togetter
http://togetter.com/li/91912

メモ
・L(図書館)について
・「属する集団・種類や世代によって、注目している課題が異なる」という傾向は、もしかしたら図書館業界に結構特徴的な現象なのかもしれない、と思った。そのくらいの人口層というか。
・[これはおっしゃる通り] 「目録ひとつもとれんのか!」by波平
・図書館にとって「情報資源のマッシュアップ」が得意技だというなら、それはもちろんアナログでだってそう、ということだと思うし、本来の強みたり得るはずだと思った。
・「わかんないことは誰かに投げよう」というのはおっしゃる通り。もし図書館員が、わかんないことは誰かに投げる、ていうことをできない/しようとしないんだとしたら、その図書館員が役人/公務員だから、じゃないかと思う(=#librahack)。少なくとも”専門性”をもった”スペシャリスト”は、どの段階で何を誰に投げるべきか、というのを責任持って判断・実行できる、専門性ってそういうことなんじゃないのかな。抱え込む、ではなくて。

・A(文書館)について
・バラエティ番組かと思うくらいの、フォントの色遣い。
・[これはおっしゃる通り]「資料をわけて持ってるのはしゃあない。けど死蔵は困る。例:書籍以外の扱いが苦手な図書館」
・[これもおっしゃる通り]「体力を勘案せよ、持ち寄れる時間・人力は乏しい、必要最小限の情報をどう残すか」

・M(博物館)について
・[これはなるほど] 学芸員はただでさえ忙しい!ので、彼らの業務サイクルの一部に自然と”メタデータ作成”をすべりこませないととても無理。
・というか、メタデータを作る訓練とかないし意識もない。

・質問した。すなわち、Aが言うに、死蔵は困る。簡易でいいから目録を作って存在を知らせよと。それによって資料・情報を残せ、提供せよと。でも、例えば図書館は書籍以外の取扱が苦手だよね、と。Lが言うに、岡崎のときみたいに聞く耳を持たないのは論外、レフェラルサービスという概念があるくらいなんだから、なんかあったらわかるひとに聞けよと。誰かに投げろよ、分業せよと。Mは、目録とる訓練なんかやってないし、展示や研究や渉外やで、そんな時間も日常にはない、と。 じゃあ思うんだけど、Lが苦手な文書資料の整理について、Aに聞くなりやってもらうなり、Mが目録についてLやAにきいたり、Aが資料情報を残すのにLに協力依頼したらいいんだと思う。思うんだけど、実際にはやってないし、そんなん難しいよやっぱ。じゃあ、やってない/難しいのって何が原因? という質問。
・あれだな、ここはひとつ、具体的なMLA連携事例と言えるようなものを、ちっこいのでもいいからやっていって、我々の手で数的に増やしてしまって既成事実化する、という感じにしませんか。もうディスカッションはちょっと置いといてさ。

posted by egamiday3 at 19:29| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月11日

小人閑居なので「執筆・キープ_memo.txt」をさらす

 ファイルを整理したら「執筆・キープ_memo.txt」というのが出てきて、かつてblogに記事として書こうとしたというかだいぶ途中まで書いたんだけど、終わってそのままになってしまってたのがあったので、とりあえずここにさらしておく。(←ということは、たぶんもう書くのをあきらめたということかなあ)


佐々木・電子書籍本を読んで、大学図書館業界人としてはどういうことを考えておくべきか、について考えておく、というひとりブレスト

NDL検索放談で、もうちょっとちゃんと言おうとして言えなかったことを、うまく言えたとしたらこうかな、ということを書いておく

何について書こうと思った走り書きなのかわかんないけど、wikipediaとOPACの関係についてわりとおっしゃる通りなことが書いてある

クラウド・コンピューティング / 西田宗千佳、を読んだ。そして、試してみた。

自宅に本棚を買い増しして書架部屋の配置をトータルに考えたときの顛末

米沢嘉博氏蔵書をもしうちが引き取ったとしたらどこのフロアにどう置いたらいいか、をシミュレーションする

CiNiiリニューアル(いつの話だw)のときに学んだ英語構文

親にパソコンを選んで贈るまでの道のり


posted by egamiday3 at 07:52| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月02日

tipsをさらすシリーズ 「タグは大事」

 某島館長の発表をさせていただいたところ、内容の不備はまあともかくとして(笑)、内容よりもむしろ、あたしの提示したレジュメなり調べ方のほうなりにみなさんの目が向いてしまわれたようで、話し終わってから「あの記号は何?」とか「どうやって検索してるの?」とかいうような質問のほうに熱量があったよなwというような感じだったので、まあその話題の一環としてではあるんですが、「自分は、勉強するときにだいたいこういうやり方をしてますよ」ていうのをさらしてみることにする、というののひとつ「タグは大事・編」ですよ。
 まあ、あたしもさらすので、みなさんもさらすのを期待、という感じで。

 例えばじゃあ、フランスに行って日本研究図書館をいくつかまわることにしました、っていうことにしますね。
 で、対象となる館がだいたいもう決まった状態にあるとします。

 まず関係する文献をできるだけ網羅的に知って集めようとします。それは、書籍・論文記事・web記事・文書・証言、その他いろいろです。それを、それぞれのツールを使って検索しにかかります。
 検索ツール(参考図書・書誌・データベース)についてはまた別の話として、探す前に、対象となる館・トピックそれぞれひとつづつにテキストファイルを作ります。例えばギメ美術館図書館だと「draft_Guimet.txt」とかいう名前になります。そこにまず、考えられる検索語を全部いったんリストアップしにかかります。こんな感じになります。

Guimet
Guimet Japan* / Japon*
Guimet librar* / biblio*
ギメ
ギメ 美術*
ギメ 日本*
ギメ 図書*
○○○ ○○ (司書の人の日本語表記)
Ooooo Ooooo (司書の人のアルファベット表記)

 この検索語であちこちを検索しにいくよ、ていうリストです。

 もちろん、検索語のリストがあるくらいだから、検索しにいく先、情報を探しにいく先のサイトや二次資料の名前もリストアップされています。これは省略。定番で毎回同じのを見るリスト(すでにある)、今回の調査やその館のみに適用されるリスト(今回作る)の別がありますよね。

 そんなのをしてると、事務的な基本情報のリストアップもできてきます。こういうやつです。

《事務情報》
・・図書館
・日本語名:ギメ美術館図書館
・現語名:Musee Guimet Etablissement public
・英語名
・図書館URL
・美術館URL:http://www.guimet.fr/
・OPACURL:(SUDOC)http://www.sudoc.abes.fr

・・コンタクトパーソン
・名前:(省略)
・肩書:司書(日本文献担当)
・e-mail:(省略)
・tel:(省略)
・fax:
・住所:(省略)
・地図

 そういうのがこのdraft.txtに書きためられていきます。
 でもこれはあくまで”管理部分”なのでまだぜんぜんメインではないです。

 館はこんな感じですが、こういうのをまとめようとしているうちに、どういう全体的トピックがいるのかっていうのもある程度決まってきます。「日仏関係史」とか「日本語教育」とか「目録全般」とか「高等教育・研究全般」とかそういうのです。そういうdraft.txtもできてきます。

 で、検索して、どんな文献があるかをざああっとリストアップして、それをexcelに書きためるなりして(省略)、じゃあ今度は、それを全部紙なり電子なりで入手します。できるだけ全部入手します、よっぽど無関係そうっぽいものやしんどいもの以外は。

 もちろん連番振ります、excelもうあるし。excelに、文献の連番IDと書誌事項、入手したかどうかの所蔵・管理情報や、どの館についての文献であるかの簡単な件名標目ぐらいはまとまって、その連番IDが現物にも振られます。

 以上が準備。
 こっから、実際に読んでいくターン。

 で、現物を、GuimetならGuimetで片っ端から読んでいきます。中の人が書いた論文、外の人が書いた見学報告、Guimetのwebサイト、フランスの図書館全体を扱った記事の中でのGuimetの紹介部分、自分の過去のメールフォルダに残ってるメーリングリストの中の1証言、どっかに載ってた統計・数字。
 で、片っ端から読んでいきながら、そこに書いてある情報をこれも片っ端から、1情報1行づつ、draft.txtにメモしていきます。情報は、面倒でもとにかく細切れに、1情報1行の単位にします。そうでないとあとからの整理・並び替え・取捨選択ができなくなるじゃないですかね。
 それを複数文献にわたって、何がどう繰り返されててもいいから、とにかく片っ端から書きためていきます。
 そうするとこんな感じになっていきます。
 (下記の記述は事例として挙げているもので、実際の取材メモとは異なります)

<1>・別館の、パンテオンブティック(仏教諸尊ギャラリー)と日本庭園は入館無料。[#web]
<1@>・現在のパンテオンの管理については・・・・・・(省略)
<1>・法隆寺金堂の阿弥陀三尊像の脇侍である勢至菩薩像がある。[#041]
<2>・ベルナール・フランクが、ギメ美術館の収蔵庫内で、法隆寺金堂の阿弥陀三尊の勢至菩薩を発見した。[#084]
<2>・文化財保存修復学会が、日本芸術文化振興会の助成金により、1990年度より、「海外所在の日本文化財を対象とする調査研究」を行なった。[#062]
<1>・東京国立博物館との収蔵品の交換が行われた。[#022]
・東京国立博物館側にも文献があるはず。

 この例にあるような、<1>とか

とか[#041]とかが、”タグ”です。書きためていく段階で、”タグ”を付けながら入力していきます。ここが今回のポイント。
 確かに情報は細切れにしていかないと、整理がしづらくなって困る。かといって、ほんとに細切れにしたままほっぽってると、もともとどの文献に書かれていたことかがわからなくなるばかりか、その1行分の情報が、誰のどういう論中でのどういう文脈の中でどんな但し付きの中で掲載されていたものか、がわからなくなってしまう。それがわからないまま字面だけ見て、その情報を信用したりましてや引用したりなんてことは、もちろんまずできない。
 ので、あとから文脈を復元したり、ある程度の但し書き的なのを残した状態で細切れにする、というのがこの”タグ”です。

 例えば、上記の事例の<1>は、その館・機関自身の発行物や内部者による執筆物、つまり「中の人の証言」であることを示しています。<2>は「外の人の証言」、そこへ見学に行ったどっかの人の報告文書や他の機関の研究者による論文なんかになります。これによって、中の人の証言としてそのまま引用できそうなものなのか、外の人の証言として<1>とは区別すべきなのかの目安がつきます。あと、外の人だけども、<2>なら引用していいと評価していますが、逆に、情報としてそのまま引用したりするのはちょっとどうかな、あまり使わんやろうな、参考程度にしといて必要なら追加取材した方がいいよな、という”キープ”くんには<3>、となったりします。これらのタグを、「評価値」と呼んでいます、個人的に。
 <1@>は、1だから中の人の証言にはちがいないんだけども、”at”、すなわち、現地で直接そこの人からうかがった情報、ということになります。文献には載っていない情報、という意味で、同じ<1>でも区別されることになります。このちがいも、使うときに考慮しますよね。
 は、これどういうことなのかな、ちょっと調べなおした方がいいかもな、と自分で疑問を持ったものにつけています。は、自分のイニシャルですから、自分自身の見解・考え・解釈をはさみこんだものです。こういう、自分の判断ごとにもそれとわかるタグをつけます。
 ここには挙がってませんが

(personal)なら、現地でお話をうかがった相手の人の、個人の見解・考え・解釈となります。これだって、示唆に富んだ重要なお話ですが、やはり文献に載ってるような情報とは区別しなければなりませんので。
 他に、<5@>オフレコ、参考図書からの情報、<孫>原典にはまだあたってない孫引き、<->別に明確な出典なんかないけどまあいいじゃん、などがあります。

 以上が接頭タグですが、接尾タグ[#041]、これは文献の連番IDです。これを、めんどうでも1行ごとにつけておいてあげます。そうすれば、え、この話ってなんのことだっけ?とか、この情報ほんまでっか?信用して引用できるの?ていうときに、いつでも本文を参照しに戻れます。また、報告論文に採用するときの脚注管理が簡単になります。
 たまに無精して[#web](公式webサイト)と書いたり、あきらかにこの1情報しか引っ張ってきてない一時的な文献ならもう[#○○○・・・]と文献名を直に書いちゃったりもします

 それからこれもここにはありませんが、例えば「所蔵計○冊」「遡及入力はいまこれこれ」というような情報のときは、[#041]の前に(1992)のようにその文献の発表年をつけておいたりします。そうすると、1992年では○冊と言ってるけども、2005年では○冊、だったりします。ほんとは全部の文献連番タグにつけたほうがいいっちゃあいいんですけど、そこまでする労力に意味があるかとかについては、まだ迷い中です。

 そうやって、複数の文献から、繰り返しや矛盾をおそれることなく、根気よくタグ付けしながら、1情報1情報を抜き出してやって、同じテーマ・トピックごとに配列していってやります。それが、上に挙げた事例です。
 そうやってあらためて見ると、<1>にはないけど<2>にある情報があってそれを知りたければ追加取材するし、<1>ではよくわからなかったことが<2>で補強されてなるほどと思えたりするし、<1>と<2>、または<1>同士で矛盾があればどういうことかと疑問を持つし、数字は単純に<1>の(2005)を信用しようかとか、どこにも書いてないし現地の誰も言ってないこの<2>は果たしてどう解釈しようかとか、そういうことが追々見えてくるようになります。
 例えば、
----------------------------
<1>・ギメが作らせた、京都の東寺の立体的な曼陀羅の立体的なレプリカ。1878年にパリ万博で展示された。[#web]
<2>京都の東寺の曼荼羅を三次元的に模写したものがある。1878年のパリ万博で展示されたものと同様。[#101]
----------------------------
 での両者の微妙なちがいなんか、なんとなく気になったりすると、そこをすっきりさそうか、というようなことを考えたり考えなかったりします。

 そうこうしていると、細切れだった情報の上に、自然と自分なりの見出しが付けられるようになるので、見出しをつけます、「●パンテオンとベルナール・フランク」とか。
 そうやって自分由来の言葉による見出しが並べば、これも自然と、自分自身の目から見た”ストーリー”がなんとなくぼんやり浮かんできます。そのストーリーがはたして妥当なものかどうか、また、追加調査する、というような感じになります。

 これって、実際、めっちゃ手間かかるし、めんどくさいし、しんどいですが、これをやってないとあとから調べ直そうっていうときにわけわかんなくなるし、余計に手間がかかります。
 めんどうでも評価なりなんなりのタグを、元の論文そのものが目の前にあるうちに付けておけば、あとから、ああそうそう、この情報はこういう文脈でこう書いてあったからこう付けたんだっけ、というようなことを思い出せたりします。
 タグがあればあるほど、それがトリガーとなって元の論文のことを思い出す、という、またひとつ別の効果です。

 じゃあ細切れにしなきゃいいじゃんって、うん、だから、細切れにしなかったら別文献の情報同士を比較したり、自分のストーリーにあわせて配列しなおしたりできないから。

 というように、自分で取り扱いしやすいように細切れにするんだけど、その時点で、あとからいつでも文脈を復元したり元の文献に戻ったりできるようにしておく、という意味で、タグをつけておけば安心、ということになります。
 これが、「タグは大事」ということです。

 取り組んでるものによって若干のアレンジはあったりしますけども、フランスの勉強も、OCLCにおける日本語書誌の取扱いも、島館長といた日々も、だいたいこのやり方でやるようにしてまして、まあいまのところ大きな事故はないです。

 けど、実際このやり方が適切かどうかは、あたしにもわかんないです。とりあえずあたしはこう、ていうあれなんですけど、さてどうでしょう。
 あたしもさらしたので、みなさんもさらすのを期待、という感じで。

posted by egamiday3 at 22:18| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月01日

ごあいさつ2010→2011  または、見た目のとどまらない情報の断片化について。

 旧年中は。
 本年も。
 というタイミングでちょっと考えていましたことには。
 
 もう誰がtwitterやってるってきいたってちっとも驚かないくらいに浸透したあれですが、そうなってちょいちょい見聞きするのが、勝手に自分の発言をtogetterにまとめられてけしからん、とか、いやそれを怒るほうがけしからん、とか、どこぞの先生に理不尽に噛みついた上に恣意的なtogetterまとめをしててけしからん、とか、そういうの。

 勝手に自分の発言をまとめられた、ていうのは、そりゃネットにオープンにしてる段階でいっしょだろう、てなるのが常なんだけど、ただそれだけで済む問題ともちょっとちがうんじゃないかな、というのが、”オープン化”してるっていうことだけじゃなくて、”断片化”してるってことがもうひとつの肝ですよね。
 もうしばらく前から、ネットに上げられた情報が断片になり点になりその形で流され読まれ加工されてる、ていう方へ方へとなびいてってる感じで、その良し悪しは問わず、そうなってんなってことであたし自身も立ち居振る舞いを若干変えたりもしたこともあって、っていうのがこちら→ http://egamid2p.exblog.jp/4825527/ にある、これが4年前。
 それが、twitterの普及がばぁーってなって、断片化が加速した、というような生ぬるいものじゃなく、断片がある種の環境化しちゃった感すらありますよね。Googleの検索結果にもあたりまえに出るし、何か探すと誰かのtweetの1片に書いてあるし、しかもその1片に固定のURLがあるから、安定して流れ読まれ加工されてる、という。断片として存在するのがあたりまえになっちゃってるtweetが、前後やテーマや発語者といった文脈をけちょんけちょんにそぎ落とされて、あらぬところでまとめられちゃう。ということが起こるのも、まあまあ、仕組みとしてあらがいようがないよなあ、という気がしますよね。これいま、その良し悪しはまったく別の問題として、そういうことになっている、というあれで見てますけどもね。

 断片だなあ、と強く思うことには、twitterって、人によって見てる画面の有り様がちがうじゃないですか。TL、TL、てみなひと口におっしゃるけど、tweetひとつひとつは同一だし変わらないはずだけど、実際に見てる画面上の並びが、人によってまったくちがう。それはフォローしてる相手がちがうからあたりまえっていうだけじゃなくて、1000人だ3000人だ場合によっては10000人以上フォローしてるアカウントがある、かというと、あたしなんかもう50越えたあたりからしんどくて、せいぜいが70とか80のレベルでとどまっている、ていう人もいて、そうなると、同じAさんをフォローしてて同じAさんの発言を見てるはずなんだけども、3000人フォローの人と70人フォローの人とで、Aさんのtweetの見え方は笑っちゃうほどちがってる、ていう。
 あたしって70人側のほうなんですけど、もしかしてあれですかね、3000人側の方って、自分がぷらっとひとtweetしただけのやつなんか、ちょっとよそ見してる間にTLの外側に押し出されちゃって、もちろんネット上から消えることはないにもしろ、まあ、するっと奥座敷に引っ込んじゃう、みたいに思うてはりますかね。そんなことないですよ。70人側のあたしにしてみたら、あなたのtweet、長けりゃ数時間程度はあたしの目の届く範囲にとどまっていらっしゃいますのでね。長くとどまるだけじゃない、Aさんのtweetと他のBさんCさんのtweetも、70人しかフォローしてないあたしのTL上ではすぐ隣り合って、密度高く並んでますから。その”近くに並んでる”ってだけで、すごくわかりやすい見かけ上の”文脈”が形成されまくってる。3000人側の人にとってはノイズだらけのTLで当事者にしか見えないような”文脈”だとしても、こっちにはそんなノイズないですから。
 そう、こんなんわざわざtogetterにまとめられなくったって、あたしの見かけ上は、すでにトゥギャられてるのとほとんどかわりなくなっちゃってる、もはや。・・・という意味において、勝手にトゥギャられた、っていう訴えはそんなには意味ないんちゃうかな、と思うですよ。まとめようがまとめまいが、tweetが断片という形をとっちゃってる以上、どこでどんな見た目になっちゃってるかなんて制御しようがないよね、ていう。そう、断片化によって文脈は失われるだけではなく、逆に、自分ではそぎ落としたはずの文脈が、知らぬ間にくっついちゃってるという。

 本来は同一であろうはずの情報・知見が、形が断片なため、どこでどんな見た目になっちゃってるかもわかんないし、それが、人ごとにちがっちゃってる。それは、twitterだけじゃなくて、いま&これからのネットのおおかたがたぶんそう。Googleさんもそう。
 利用者さんなり同業者さんなりと話してて、最近だいぶ気をつけなあかんくなったなあ、というのが、Googleなりなんなりで検索しました、そしたら(上の方に/1ページ目に)ヒットしたのが、これとこれとこれでした、っていうのが、いまはもうだいぶ、人によって見えてるものがちがう、ということ。ひとつには、ログインした状態でGoogle検索すると、ヒットするもの、並ぶ順番ががらっと変わる。もうひとつには、リアルタイムなtweetやフィード?のなんちゃらがばんばんヒットするようになったせいか、ちょっと時間差があるだけで、もうなんか検索結果画面が刻一刻と変わっちゃってる感じがする。時々刻々とちがう断片が降ってくる。その断片は夜更け過ぎに別の断片へと変わるだろう、と。

 それやこれやのこと・・・断片化してて、文脈がそぎ落とされちゃって、見た目がぜんぜんちがっちゃってて、下手したら予期せぬ文脈がくっついちゃってて、ていうのは、それはtwitterやGoogleだけに特有の現象なわけでもなければ、それらに責めがあるわけでもない。ネット全体が、というよりもしかしたら情報環境全体、社会そのものが、そういう傾向にあって、佐渡へ佐渡へと草木のようになびいているんだよね、たぶんね、ていう。

 参照。かつて、こう。
「ごあいさつ または、江上がopenindex・・・LLResourceを閉じた理由 (小沢健二・・・)」(2006)
http://egamid2p.exblog.jp/4825527/
「図書館員,”with” Google,”vs” Google,”via” Google」(2008)
http://egamiday3.seesaa.net/article/101720180.html

というんで。
 奇妙に相反する感じにはなるけど、この2つを忘れないでおこう、ていう。すなわち。
・いま目の前に見えている情報・状況をそのままの姿でとらえてはならない。
・いま目の前に見えている、または、自分が出している情報・状況は、断片となり、他の人にはまったくちがう姿でとらえられてしまう可能性がある。(というか、かなりそうなる)

 というようなことを、この年末年始につらつらと考えていましたよ、という。

 似たようなことを、とある病院もの映画のDVDを見ながらぼぉーっと考えたりもしてたのですが、それはまた別の話という。

posted by egamiday3 at 23:36| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする