2011年08月30日
Ustream試験放送(第1回MLA連携ナイト@京都 20110820)の記録(その2)
●ホストと会場
・今回は我が自宅からやって、それは、環境コントロールしやすいし、みんなで呑み会できるし、まあ、うちにお呼びするついでにustていうのもなくはなかったのでそうしたんだけど、掃除して、料理作って、場所セッティングして、ホストして、機器の準備して、給仕して、放送を仕切って、煮物よそって、しゃべって、お総菜あっためて、ディレクションして、味見して、って、無理でした、ごめんなさい。呑み会のホスト役と、ラジオのホスト役、どうしてもどっちかがほっとかれになっちゃう。
・なので、次にやるとするなら、ちょっと大きめの個室でみんなが入れて、区切られてて、Ustでラジオもやっていい、みたいなところにするべきだと思いました。電源が使えて。ただし問題があるとするなら、音声がちゃんと入ってくれるかどうかの事前のチェックができない、ということがひとつ。それから、ケータイの電波で果たして途切れずに中継してくれるか。今回は自宅のネットにiPhoneさんから無線LANでつなげてそこからだったんだけど、果たしてiPhoneさん単体からケータイ電波で、どこぞの建物の内部から、中断することなく存分に発信できるか、というのは疑問と言えば疑問。
●自分のしゃべり方
・なんか不自然なところで、間を置いたり、言葉をのばしたり、ためたりする、クセがあるなあ。 知ってたけど。
・ぼけにしろツッコミにしろ仕切りにしろ、もっと言葉言葉、フレーズフレーズを、ぱきっと発語せんとあかんな。なんかぐねってなってる。ぱきっとさせな、伝わらんねん。
●twitter係・AD係はいるかどうか
・twitter係とかまあいらんだろう、あたしがディレクターとしてtwitter横目で見て拾っていけばいいだろう、と思ってたんだけど、そんな余裕なかった。ごめんなさい。すげえごめんなさい。いや、拾えるだけなら拾えるんだけど、これをこのタイミングでこう拾ったら、こう活かせるし、じゃあこうひろげよう、と、その場では思いつくんだけど、それと、話の流れとを噛み合わせるのは、これは並大抵のあれじゃない。そう、拾うことが課題じゃないねん。話と噛み合わせることが課題やねん。だから、Twitter係なりAD役がいてその人に拾ってもらったとしても、結果、いっしょやねんたぶんw
・ただ、いわゆる”tsudaり”役のtwitter係もいらんだろうと。それは放送で聞いたらいいんだし。と思ってたんだけども、録音したものをあらためて頭からリスナー目線(耳線)で聴き直してみたら、中継がいらなかったとしても、「いま何の話」かという見出し、チャプタリング、タグ付け、そういった意味でのtwitter流しは、あってよかったな、と。それは実際にいま聞いている人にこそ有益なtweetだろうな、と。いまこんな感じの状態です、ていうチャプタリングをすること、それは、バラエティ番組で言えば右上にちっちゃく出てるテロップみたいなのが、Ust聞いてるときにtwitter欄に表示されてる、ていう感じ。それは、あったほうが絶対に便利。そういう役目ができる人は、いる、たぶん。
●今後どうやるのか
・やりたいなあ、また。いまはいろいろ忙しいからあれなんだけど。
・この番組は、特定のテーマや特定のパーソナリティにしぼって流される”コンテンツ”ではなくて、不特定の人やテーマなんだけどしゃべりたいことを持ってる人がいればしゃべれる、という、”プラットフォーム”でありたい。
・プラットフォームでありたいから、番組名に自分名はつけたくなかった。
・テーマ内容が先に決まってとか、番組を流すことがまず決まってて、それにあわせて無理に人を探す、というんじゃなくありたい。そこは絶対。マジで。そうじゃなくて、伝えたいことがある人、しゃべりたいことがある人、に、それを伝える場を提供する、という姿勢がいい。テーマ先行、テーマありきの催しではない。しゃべりたいことを持ってる人がいるかどうか、の問題。そして、それをディレクションしたい。しゃべりたいことを持ってる人の、アンプ(増幅装置)でありたい。メディアって、そういうものでしょう? もちろん、そのしゃべりたい内容に心から賛同できるようでないと、まともなアンプにはなれないとは思うんだけど。
・もうひとつ思いついたのが、今回たまたまそうなったんだけど、今回のように、企画の”よすが”として「本」を柱にすることで、やりやすくなるのかも、と。ある本があって、それに書いてあること(自分が書いたこと)について、しゃべる。かっちりした柱があるから、動きやすい、しゃべりやすい、脱線もしやすいし、戻りやすい。遠くのリスナーとも共有しやすい、いや、実際にその場では共有してなくても、「共有できる余地があることをしゃべってるんだ」というだけで、テーマに安心感が出る、気がする。その場で思いついたことを勝手にくっちゃべってるわけじゃないんだ、こいつがいましゃべってることを後で追体験しようとすればできる余地があるんだ、という安心感みたいなの。
・註:本じゃなくてもいい。論文・論考や記事でも、○○会議・研究会とかでも、テレビ映画でもいい。コンテンツであれば。できれば、すでにそこそこ固定化されたような感じの。
・で、そういう「柱」な存在があると、しゃべりがついつい脱線したとしても、戻りやすかったんだ、今回。だって、戻るべき場所が、”概念”としてではなくて、「物理的な存在」(=本)として、目の前に見えてるんだもの。さあ、というわけでいろいろ言ってますけど、結局ですね、つってその本に戻れるんだもの。母なる大地がそこにあるんだもの。すげえ戻りやすかった。で、逆に言えば、戻りやすいが故に、遠慮無く好きなように脱線できるといううれしさ。そして、聴き手がおいてけぼりになってるなというところで、すぅっと戻せばいい、というコンビニエンスさ。
・本は、いいよ。
●結果
・最大瞬間視聴者数、60人弱だった。延べじゃなくて、一時に同時に60人弱が聴いてた時間があったということ。しかもそこそこ安定して長かった。正直、びびった。
・理由がわからん。なんであんなもの60人も聴きに来てたんだ・・・広報控えめにしてたのにw。しかも、理由が分からなければ、次につながらないじゃないか・・・。
●抱負
・またやるよ。
Ustream試験放送(第1回MLA連携ナイト@京都 20110820)の記録(その1)
先日8/20、Ustreamを使ってラジオ放送をやる、という企画を、試験放送的にやってみました、というのの記録。
Ustream 試験放送(仮)
第1回 MLA連携ナイト @京都
・8/20 20:00- (約1時間半ほど)
・Ustream http://ustre.am/BxYV
・サイト https://sites.google.com/site/shikenhoso/
・ハッシュタグ #shikenhoso
・当日のtweetのアーカイブ
Ustream試験放送(仮) - 第1回 MLA連携ナイト@京都 ( #shikenhoso )
http://togetter.com/li/181330
・演者
ゲスト・パーソナリティ: archivist_kyoto
ゲスト・コメンテーター: tsysoba
(ホスト・ディレクター:egamiday)
・トピックス
MLA連携トーク (「地域拠点の形成と意義」(『デジタル文化資源の活用』から))
「こんなMLA連携はイヤだ」(→ #こんなMLA連携はイヤだ , #こんなMLA連携は嫌だ )
「番組名募集」(→ #番組名募集)
・放送場所 我が家
・機器 iPhoneのみ→我が家の無線LAN
・映像 ホワイトボード(3枚ほどフリップを出した以外は、本の表紙の静止画のみ)
●そもそもの動機
・Ustを知った辺りから、Ustはスキルとして身につけなあかんな、と思っていた。
・なぜUstを身につけなあかんかというと、メディアというものは掌握した者の勝ちだから。メディアは掌握せなあかんから。そういう存在だから。
●なぜ、”ラジオ”か
・Ustreamといえば動画なんだけど、当初からこれはなんとなく”ラジオ”向きだなという直感はあった。そのときは直感なので理由はわかってない。
・Ustreamが広まりだしてあちこちでいろんな人がちょぼちょぼとやるようになると、わりとあちこちで、「動画は質低くてもそんなに気にならないけど、音声が聞こえにくかったり小さかったりすると聞いてられなくなる」というような評価を、ちょいちょい耳にするようになった。プラス、実際自分のUstへの向かい方は、じっと画面を見入るというよりは、何かしながら(パソコンを離れてだったり、パソコンで違うウィンドウを前に出して作業したり)耳だけはUstの中継を聞いてる、ことのほうがほとんどだった。で、他の人も、話聞いてるとなんとなく、そういう人が多いんじゃないかな、という予感があった。その段階で、これはやっぱり”ラジオ”として扱うのに向いてるんじゃないだろうか、という仮説を持った。それは、視聴者は意識してないかも知れないけど。映像はだいぶサブ的な存在じゃないか、という予測。そこからの、「ラジオ」という冠をつけた企画。
・問題は、聴いてる方が音声メインでラジオっぽく聴いているのに対し、流す側は「映像」を前提という意識で放送しているというズレ。流す側は「自分たちは映像(+音声)を流してるんだから」と思っちゃうと、意識がどうしても映像に頼る形になって、途中で音声に間があったり聞き取りづらかったりしても映像が流れてるんだから、コンテンツとしては成立してるでしょ?というふうに思っちゃう。だから、平気で音声に間ができる。しゃべりに谷間ができる。無音の状態があるのがふつーになっちゃう。でも、それを聴く側はラジオとして聴いてるのに、そんなしょっちゅう無音状態を作られちゃったんでは、うっ、となる、つっかかる、逆に気になって仕方ない、軽くいらっとする、という、お互いのズレ。
・これが、プロの作るテレビ番組だと、テレビって一定以上無音が続くと”放送事故”って扱いになるから、そうそう無音状態にはならないですよね。始終何か音声を聞いてることになる。だからテレビって、ラジオっぽく”ながら”で聴いててもぜんぜんOKなんすよ。ところがUstの動画はプロじゃなくてアマの流すあれだから、うっ、てなる無音や谷間が平気で頻発しちゃう。
・で、じゃあ、聴く側が”ラジオ”という意識で聴いてるんだったら、流す我々側も”ラジオ”のつもりで流した方がズレはなくなるんじゃないか、というふうに考えての、ラジオ企画ですよ。自分たちがこれからやるのは、ラジオです。まあ画もあるくらいのラジオです、画もあるけど、基本ラジオなんで決して画には頼りません。ラジオだから、無音はやばいのでできるだけしゃべり続けます、しゃべりを聴いてもらうのがメインのコンテンツとして、やります。そういう、姿勢。そういう、ラジオ企画。
・が、しっくりいくんじゃないかなあ、という予測で企画したですよ。
・余談。「テレビの劣化画像版」よりは「画もあるラジオ」のほうが”得”してる気はする、というのはある。
●ギャラリーを入れるということ
・ギャラリーを入れることになった経緯は多少ノリや流れでもあるんだけども、でもやはり、やるんだったらギャラリーを入れた方がしっくりいくというのは元から考えていたことではある。
・何よりも、しゃべり手がしゃべりやすい。それは認める。
・聴く側としては、ラジオだから、後ろのほうで笑い声があったほうが安心するよなあ、という発想を持ってる自分ですよ、あれですよ、どういう種類のラジオを聴いて育ってきたかのお里がばれますねこれはw
・なんというか、Ustreamは人と人とが体験を共有し合う場だと思う、共有がキーワードだと思うから、聴き手としゃべり手の共有という場を作るんだろうと。ただ、聴き手にとって、共有する相手がいきなり顔の見えないしゃべり手だけだと、1対1で向き合わなきゃいけないからすげえ負担が大きいんじゃないだろうか。しかも、しゃべり手は今回3で、3対1だから、さらに負担が大きい。3人だけが顔を見合わせてしゃべってる様子を、横で1人がじっと聴いて受け止めてなきゃいけない感じになる、負担。そこへ、ネットの向こうから、複数大勢のギャラリーの笑い声やさわさわとした感じが聞こえてくる。そうすると、3対大勢(+自分)になる。負担が減る。ほっとする、ああ、自分ここにいて、大勢の中にまぎれた1人として、だらっと気楽に聴いててもいいんだ、てなる。共有が、「パーソナリティ対自分」だけじゃなくて、「パーソナリティ対ギャラリー+自分」てなる、そういう、つくねでいうとつなぎの役割。というのが前半のひとつ。
・それが後半になってくると、ギャラリーが我慢しきれなくなって、どんどん発言しだしてくる。これは大正解だったと思う。コメントがぽんぽん出る。そこで緊急ゲストを召還する。前半、「パーソナリティ→視聴者」だったのが、視聴者側に立つギャラリーが舞台に登場して議論をふっかけたり意見を述べたりするようになって、「パーソナリティ→←ギャラリー(+自分)」てなる。しかも、誰対誰なのかが話題によってハプニング的に変化する。ハプニング!現代のコンテンツに不可欠な、ハプニング!w 臨場感が半端ない。しかも舞台に立つ”誰か”のキャラが誰も彼もすげえ立ってる。もりあがったなあ、いや、現場だけかもしれませんがww
・但し、課題:「ギャラリー」と「twitter」の関係性や違いがよくわかってない。
・ていうか、生で放送してると、twitterに目を配るのがしんどい、という問題。
たぶん、続きます。