2012年09月17日

対馬にて・201209 (附)”水曜どうでしょう・予告編”風


 2012年9月---
  海峡に浮かぶその島に
    5人の旅人が上陸した


 欠 航 !

「博多港!博多港!」
「時間ないぞ」
「え、これ並んでんの?」

 悪 天 候 !

「雨だねえ」
「雨か」
「なんで俺が車降りた途端に雨なんだよ!」

 進 路 不 明 !

「このカーナビさっきからおかしいんだって!」
「どっち? 行っていいの?」
「あ、さっきのとこ左だった」

 対馬の大自然が
  我々の行く手を阻む---

「ああ、これ行き止まりだねえ」
「行けないじゃん!」
「行きすぎ、行きすぎ」
「左見て、左」

 国 境 の 島 !

「あれじゃない、韓国? あの黒い影みたいなの」
「雲じゃないの?」
「うお、でけえ! なんだこれ!」
「ここにあったんだよ、砲台が」

 歌 合 戦 !

「せかいじゅうの、だれーよりーきいっと」
「スモスモスーモ」

 交 通 戦 争 !

「おいおいおいバス上がって来たぞおい!」
「あ、あれぶつけた」
「だからもっと左に寄れって!左!」
「いいんだよこれで!」

 猛 獣 襲 来 !

「イノシシいた!」
「ヒグマだねえ」
「あっ鳥!」
「イリオモ・・・ツシマヤマネコ」
「にゃーっ!!」

 タ イ ム リ ミ ッ ト !

「よーし2時間で空港まで戻るぞ」
「ていうか飛行機飛ぶの?」
「帰れないんじゃないか?」
「バニー! バニー!」

 アラフォーどうでしょう 最新作!
 「対馬 1泊2日 完全走破の旅!!」
 2012年9月 移動開始!!


 宮本先生
  僕たちはこの旅を
   いつまでも忘れられそうにありません---

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対馬にて・201209 (5)「私の日本地図」


 韓国展望所
 比田勝から、来た道をやや戻り、島の北端にある韓国展望所へ向かう。ここから対岸の釜山を望むことができるというスポットではあるが、この雲の厚さでは難しいだろう。
 展望所は山の上にあり、そこへ向かう登り道はかなり細い車道で、とても対向車が来たらすれちがえそうにもない。おそらくこちら側の道は上り一方で、下りは反対側に別の道があるのではないか、というようなことを車中で話している。幸い自分たち以外に車はいないしガラガラなのでは、と思っていたが、その駐車場までたどり着くとそれまでの人気の無さが嘘のように、大中さまざまな観光バスで埋まっていて、人がわらわらと歩き回っている。我々も車をおりて展望台へ向かうが、とにもかくにも人が多い。ここだけロックフェスでもやっているのではないかと思う。団体写真を撮影している人たちもいる。そして、そのほとんどが韓国語をしゃべっていて、日本語が聞こえてくることがまずない。K-POPフェスでもやっているのではないかと思う。
 しかし考えてみれば人が多くてもあたりまえと言えばあたりまえで、釜山から船で50キロ、多分1時間くらいであろうし、比田勝の港で観光ビザで入国し、観光バスで10数分。パスポートさえ持っていればむしろ厳原など対馬南部の住民よりもよっぽど気軽で、おそらくそれなりにディスカウントされた遠足ツアーになっているのではないか。上りの入り口にあった門にしろ、ここの展望台の建物にしろ、韓国の王朝建築をイメージさせるようなデザインに仕上げられている。いやしかし、これはおかしい。韓国展望台は韓国を遠望するための施設であって、遠望する対象のほう、相手先のデザインをここに施してしまうのは、考え方が逆なんじゃないかと思う。
 さて結果として、釜山は雲や霧で見えなかった。雲の下に薄く黒く見える影がそれじゃないか、という説も一時浮上したものの、晴れているときの写真から判断するに、見えるとしたらそれどころではなくもっと近く大きくはっきり見えるはずなので、少なくとも自分では「見えていない」と認定している。50キロは、遠くて近く、近くて遠い。
 しかし問題は、この決して広くはない展望所の山の上にわらわらと集まった観光バスのほうである。駐車場では中型の観光バスが一台、バックの末に送電用の柱にぶつかって曲げてしまった。そうでなくても、どの車とどのバスがどの向きにどのように動くか、ほとんど寄せ木パズルの様相を呈している。これをこそカオスと言うべきだろう。我々も車を出して、上りとは反対側の道を下っていこうとしたが、カーブを曲がろうとしたところで、前方の大型観光バスがバックでさかのぼって来る。見れば、さらにその前方から別のバスが対向してのぼってくるではないか。悪い冗談か、どうしろと言うのかと思う間もなく、とりあえずこちらもバックで戻るが、今度はそのうしろからまた別の観光バスが坂を下りてくる。バス→我々←バス←バス、である。一番の阿呆は対向してくるバスだ、誰もこの地を交通規制する者はいないのか、とここで悪態をついても始まらない。後方にうまく退避できるスペースを見つけたのでそこへバックで急ごうとするが、前方のバックしてくるバスはどうやら我々の姿が見えていないらしく、ぐんぐんとせまってぶつかろうとしてくる、必死にクラクションを鳴らして警告する。後方のバスに下がるようアピールする、スペースめがけてバック、さらにせまってくるのでクラクション、明らかにこの瞬間こそがこの旅におけるバーニー最大の見せ場である。バーニー・サザーランドである。うまくバスのすれ違える場所があったために事なきを得たものの、こんなことが毎週末繰り返されているのだろうか。客の多さに追いつかず、急雇われなバス運転手が増えているというようなことがなければよいが、と思う。

 豊砲台跡
 展望所のある山を下り、別の脇道から豊砲台跡へ向かう。豊の砲台は、第2次世界大戦時に築かれたものだとかで、50キロ弱の海峡に向けて、30キロ沖まで大砲を飛ばせるものだったらしい。壊れまくった板状の階段に逆に足をすべらせそうになりながら、山道をのぼっていくと、砲台跡の上に出る。柵の合間から下をのぞきこむ。山の上に筒状の縦穴を深く掘り、水圧で砲台を上げたり回転させたりするための動力を下に、砲台を上に設置する。山の腹のところから横穴を掘って縦穴につなげ、操作基地とする。自分には軍事機器リテラシーもそういった知識に触れる文化圏にいた経験もないので、ざっくりとその程度に理解している。戦艦赤城のを使ったらしいというが、その名前もぼんやりとしか知らない。
 かつて操作基地であった横穴から、砲台穴の下まで入っていけることが判明し、みんなして漆黒の闇の中を横穴に入っていこうとする。いやいやいや、こわいこわいこわい、おまえらなんだ怖いものなしか、グーニーズ気取りか。懸命に拒絶するが、無理強いされてなすすべがない。入ったが最後、道に迷うなり穴に落ちるなりして二度と出られないという展開や、抜けるとそこは戦時中の日本だったというようなSF展開、とにかく何かしらにたたられるいうオカルト展開から、暗闇の中で小動物でも踏みつけるというような即物的な展開まで、ありとあらゆるネガティブな想像に苛まれながら、ようやく日の光の差し込む砲台の底面にたどりつく。そこで諸々の軍事的・技術的な説明が始まるが、パニックに陥っている中でそんなもの何ひとつ聞き取れるわけがない。這々の体で逃げ出して外界へ出る。ポケットからiPhoneを取り出し、いまが2012年であることを確認してひとまず安心する。ふと脇を見ると、何のことはない、横穴見学のための照明ボタンが設置されているではないか。もういい年なんだから、行動を起こす前にいったん前後左右を見て全体像を把握しましょう、という教訓である。

 帰路
 最後に訪れたのは、日露友好の丘と呼ばれる岬だった。ここには、日露戦争・日本海海戦時に遭難し上陸してきたロシア兵を日本人が助けもてなした、という逸話が残る。水場を教えたというその井戸も、集落の中にあった。実際の上陸地点は徒歩でしか行けない歩道の先にあるらしい。開けたところにヘリポートがあり、ここも島の北端で国境の地なのだということを思い出す。比田勝発・釜山行き高速船が出向するのが見えるが、これがすこぶる早い。そして、ソフトバンクの電波が存外快適に入る。岬だなあ、と思う。
 この時点で16時過ぎ。残り2時間で下島の対馬空港まで戻らなければならない。2日間運転し通しのバーニーを、ほめたたえる、という体で鞭打ちながら、車は一路、島の東側の県道を南下する。存外に道幅が狭く、対向車が来るといささか緊張するほどである。しかもそこそこに対向車が多い、もしかしたら国道よりも多いのではという印象すらある。考えてみれば比田勝が島の東側にあるわけだから、そこを目指す車が多いということなのかもしれない。
 この島へ来て入江は何度となく見たが、それにしても島の内側だと思っていたところに突如として入江が現れるのには驚かされる。そしてその多くが外海も水平線も見えず、山や崖に囲まれている。いくら入江とは言え入り過ぎじゃないかと思う。
 もうひとつ、島のあちこちで高床式の納屋を多く見ることができた。床が高床であることと、つくりが質素で薄そうな板で囲われている様子、に気を取られてうっかり気がつかなかったが、この高床式の納屋はその屋根が頁岩による薄い板状の岩でできていることがひとつの特長らしい。これを石屋根と言うのだが、残念なことに高床の様子しか覚えておらず、本当に石屋根だったかどうかの記憶が自分にはない。あれだけたくさんの納屋を目撃しておきながら、人の意識というか記憶というのはきわめて主観的なものでしかないのだなあ、と考えさせられる。
 そうこうしているうちに、カヤックのおいちゃんが教えてくれた丸い鯛焼きを売る店がある佐賀にやってきた。この店がそうだ、と見つけはするが開いている様子がない。と、店からおばちゃんが出てきて、もう閉店したのだと謝られる。手に持っていた袋には焼き損じの鯛焼きが詰められていた。

 私の日本地図
 ともあれ、時間に間に合うように対馬空港に到着し、レンタカーを返し、無事に飛行機が飛ぶことも確認できて、チェックイン、搭乗となった。
 これで我々の対馬旅行はすべて終了である。行きは2時間かかった船旅も、帰りはANA・対馬-福岡便でたったの30分しかない。30分、て。国際線なら誤差でしかない。
 その30分をいつくしむかのように、機内でひとり、宮本常一『私の日本地図』を開く。読み残していた対馬紀行を目で追いながら、島でのさまざまなことを思い出す。伊奈の民家にテレビアンテナが立っていなかったこと。存外に郵便局が多かったが、農協を見かけた記憶がないこと。対馬の地名の珍しさは、韓国語由来というよりは中世日本語の残ったものではないかということ。潮の匂いというものをほとんど感じなかったこと。観光用説明板がどれもまだ新しかったこと。観光用の道案内板が少なくなかなか見つからなかったこと。どれも些細なことではあるけれども、もしかしたら対馬という土地のなにがしかを物語る一端なのかもしれない。そうではないのかもしれない。わからない。
 わからないけれども、そういった見聞の総体が自分なりの「日本地図」なんだろうな、と思う。

 (終)


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2012年09月16日

対馬にて・201209 (4)「とうとうここまで来ちまったな」


 伊奈
 今回の旅では偉大から課題図書が出ていた。宮本常一『忘れられた日本人』。自分はこれに加え宮本常一『私の日本地図 壱岐・対馬紀行』と、いくつかの日本史本を読んでおいた。紀行文の中で宮本常一は、伊奈へ向い、伊奈にとどまり、伊奈の集落の”寄り合い”を目撃し、伊奈を出ての山道に惑う。一読して印象強く、忘れることができない。
 我々はいよいよその伊奈へ向かう。  
 伊奈へ近づこうかというころになって、カーナビが指し示さない脇道にわざと入る。舗装はされているものの、細く、高低差が激しく、しかもしばらく誰も通交していなかったのではないかというくらいに、路面に木の葉や木の枝が溜まっている、細かい落石がちらばっている。まれに、細かくない落石や細かくない木の枝が散らばっていて、それを踏む、ガツゴツと音がして大きく揺れる。車道に大きくせり出してきている木の枝に、車体や窓がぶつかる。おいおい本当にこの道このまま行くのか、大丈夫か。何かしらを踏む、何かしらが当たる、音がする、揺れる。結局、太くはないが背の高い木が車道をきれいに遮断しているのに出遭った。土地の少年に、僕を乗り越えてでも進めないような大人に、宮本先生の跡をたどる資格はないよ、とからかわれているようである。仕方なく、もと来た道を戻ってカーナビ通りの道を行くしかなかった。しょうがないね、やはり水曜どうでしょうっぽいね、とへらへらしているうちに、なんとなく伊奈に到着した。
 伊奈は、これもまた入江沿いの集落である。かつてはクジラを獲っていたらしい。入江に向かって右左を断崖絶壁に、やや幅せまくはさまれている。そのせいか、崖がかなり高い印象を受ける。その高い崖が真っ平らに切り取られていて、表面は細くまっすぐな直線の地層でおおわれている。崖の力強さと、入江の穏やかさ。湾岸沿いに郵便局があり、診療所らしきものがあり、バス停がある。バス停に来るバスは1日4本で、北の町である比田勝のほうへもいけるらしい。バス停にはトイレがついていてやや新しめだし、診療所・郵便局があるのなら、それなりに”力”のある集落なんだろうなと思う。町の掲示板があって、ひじきやこんぶ、うになどの漁の日程が貼ってある。ジャージを着たおいちゃんが3匹くらいの飼い犬を連れて、我々のそばからそそくさと立ち去った。
 みなでしばらくぼーっと眺めていると、有線放送がきこえてきた。どこそこのコミュニティセンターで、これこれの会があります、というようなお知らせが流れる。入江と絶壁に響く。ああ、とうとうここまで来ちまったな我々、と思う。

 山道を行く
 ここからさらに先の志多留という集落を通り、佐護のほうへ抜けるルートをとる。この道は、宮本常一も越すのに苦労したようであるし、また昨夜のカヤックのおいちゃんの話によれば相当道がせまく悪いということでもあったので、さあいよいよだ、みな心してかかろうぞ、主に運転役のバーニーが、という思いで出発する。
 伊奈で商売をしている駄菓子屋的な店、廃校となった小学校校舎、いかにも「昔ながらの集落でござい」というような小屋、思いがけずモダンでカレントでトレンディな現代住宅などを道々目撃しつつ、車を走らせていく。だんだん里から山へと景色が変わっていく。老夫婦とすれちがう。そうこうしているうちに完全な山道となった。カーブも多いし道幅もせまい。舗装されてなくはないがこれはどう見ても細くないか、この車で本当に抜けていけるのか。まだ道も前半程度でしかないのに、これではどうでしょうに言う「四国八十八箇所」ではないか、とざわざわと心中騒がしくなってきたところで、突如目の前が行き止まりとなってしまった。災害復旧工事。今年7月から予定では来春まで、相当長く通行止めらしい。先ほどの少年の親父が登場して、いや、乗り越える乗り越えないじゃなくて、おまえらには跡をたどらせるような道はないから、とぴしゃりと戸を閉められたようだ。おそらく夏の豪雨か何かでやられたんだろう、それを知らなかったカヤックのおいちゃんをもちろん責めることはできない。とぼとぼという思いでもと来た道を戻る。行きにはまったく気付かなかったが、なるほど確かに、通行止めを意味しているかのような標識と車止めが道端に寄せられていた。土地の人がその先まで車で進入するために脇に寄せ、そのままにしてあった、というところだろう。先ほどすれちがった老夫婦を気まずい思いで追い越したが、彼らは我々の動きをどう見ていたことだろうか。
 志多留も伊奈も過ぎ、大きく後退して、安心安全二車線の国道まで戻ってきた。さてここから対馬野生生物保護センターへヤマネコ詣でに行こうかともしたが、空腹と残り時間を気にして先へ急ぐことにした。そう、この時点で我々にはまだ、帰りの飛行機が確実に飛んでくれるかどうかの目算がついていないのである。また、ヤマネコ詣でをあきらめた頃から偉大の「にゃーっ」が増える。

 比田勝
 佐須奈の集落で車を止め、バーニーのスマホでドコモの電波を捕まえる。この島ではどうやらドコモの電波が圧倒的に強いらしく、主要な集落以外ではソフトバンクの電波などは捕まらない。さすがは電電公社である、こういうときはそういうところに限ると思う。ともあれ、福岡空港のサイトで対馬発着便が問題なく動いていることを確認できたので、みなでほっと胸をなでおろす。現在13時過ぎ。タイムリミットは対馬空港に18時である。そして何より、我々はまだ昼食をとっていない。空腹が旅の最大の敵であることは、やはりどうでしょうを見ていればわかる。もろもろ検討した末、いったん比田勝まで出てしまおうということになった。
 比田勝は対馬北端近くの町で、おそらく北部ではもっとも大きい。博多や釜山への船もここから出ていて、韓国からの旅客はここの港で入国することになる。町に入ってゆっくり車を走らせていると、神社らしきところに縁日らしきものが出ているのが見えた。祭りをやっているんだ、とわかり、いい食堂の類がなかったとしても最終的にはここで食事が手に入るだろうと、ほっとした気になる。
 対馬の名物のひとつに、これはおそらくB級グルメに近いものだろうが、とんちゃん焼きという豚肉の味付け焼きのようなものがある。比田勝の寿司屋でとんちゃん焼きが出るところがあるというので、開店日・時間を確認のうえでそこを狙って商店街に入ってみるが、お目当てのその店は思いもよらず閉店している。よくよく見てみると、この商店街のあちこちが閉店していて、それは日曜だからというわけではなく、「祭りなので閉店します」という旨の貼り紙がそこかしこに見える。あとで調べてみたら、この日は比田勝・豊崎神社の大祭だったらしく、午前中から昼にかけてこども神輿やあばれ神輿、相撲大会まで催されていたらしい。それは仕方ない、みな総出で祭りに繰り出すわけである。そんな中でも開いている食堂を1軒見つけることができた。店のおもてにメニューが貼ってあって、安心していろいろ食べれる定食屋のようであったので、入ってみると、韓国語をしゃべる若者たちがたくさん座っていたりマンガを読んでたりする。
 あとで店のおもてを見てみると、ハングル一文だけが書いてある貼り紙があった。読めないながらも読み解いてみると、おそらく「韓国語のメニューあります」と書いてあるにちがいないとわかる。確かに、実際あった。このへんの町をうろうろ歩いているやたら若い年齢の人らは、日本人というより、どうもみな韓国人なんじゃないか、という話が出た。旅行に来ているのかもしれないし、もしかしたら韓国資本のところで住んだり働いたりしているのかもしれない。
 ともあれ、めいめいに豚の生姜焼きやちゃんぽんなんかを注文。空腹だったとは言えそれでもきつめなくらいのボリュームである。ちゃんぽんも例えばその豚肉は、ばら肉の端っこや切り落としではなくロース用の薄切りが大きめにはいってたりする。麺よりも野菜が多いくらいの、まさに九州の味の九州の麺の、関西ではなかなかいただけないちゃんぽんを堪能する。
 お勘定をお願いした店のおばあさんに「日本人?」と確認されたりする中、満腹のアラフォー5人は比田勝をあとにした。

 (続く)
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2012年09月15日

対馬にて・201209 (3)「いま、何年ですか?」


 万関橋
 2日目は、対馬の上の島と下の島のうち、上の島をぐるりと一周するルートをとる。
 もともと対馬はひとつの島であったが、軍艦を島の反対側に通すのに不便であるということで、南から1/3ほどのところにあった首根っこのような土地を掘削し、入江同士をつなげてショートカットを可能にした。このために対馬は上と下の2島に分かれることとなる。
 この掘削した水道の上にかかるのが万関橋である。
 車を降りて橋の上から水道をのぞきこむ。べらぼうに高いというわけでもないが、それでも軍艦が通るのに充分な高さということなのだろう。両岸が人為的に削り取られている様を見ると、自然が雄大さに対して、人間だってやるときはこんなことまでやるんだなあ、と感慨もするしあきれもする。いまの橋は2代目だか3代目だかで、先代の橋はもっと低いところにあり、見下ろすと先代の橋が架かっていた場所に続く旧道や橋の跡らしきものも確認できる。水道の流れが速いのかそうでもないのかは、船リテラシーのない自分にはわからない。橋の下には漁港の集落がある。こんなところにもあるんだなあと思う。
 橋のさらに先には、この橋を見下ろすことのできる展望台があるということで、みなでのぼってみた。しかしここは、橋はともかく、対馬の上・下両島をはるかに見渡すことのできる絶好の場所だった。「絶景すぎる対馬のこのビューポイントがすごい」である。北にひろがる山また山の山並み、南にひろがる山また山の山並み。その山並みも、どこかが突出して高かったり、切り立っていたり、高低差にバリエーションがあったりということがほとんどなく、どの山もみなおおむね似たような高さ、似たようななだらかさ、丸っこさで、この島の山は法律で高さ規制でもされているのか、と思ってしまうほど整っている。平地でも台地でもない山並みなのに、平らかという言葉がかなう風景だった。「海に産まれた島」というより、「海に浸かった大陸」のように見える。灰色の雲が低くかかっているのも味があるにはあるが、やはりすかっと晴れているところが見たかったな、とも思う。
 おばちゃんたちをたっぷり乗せた観光バスがあとからやってきたので、逃げるように立ち去った。

 和多都美神社
 上の島へ渡り、車を走らせる。opaがiPhoneで持ってきた音楽を流す。「何も言えなくて夏」「君がいるだけで」「世界中の誰よりきっと」「夏の日の1993」など、なかなかになつかしい。あの頃に戻ってドライブしているかのような錯覚さえ覚える。いまのこのトンネルを抜け出たら、その先は1993年にタイムスリップしているんじゃないか、第一島人をつかまえて「いま、何年ですか?」とたずねるべきか、などと妄想を膨らませているうちに、次の目的地・和多都美神社に着いた。
 まず目をひくのが2基の海中の鳥居。こういう土地柄なので、どこも基本的には漁や船旅の安全を祈念するわけである。いまは潮がひいているので干潟に下りて近づくことができる。海の生物らしいものはほとんど見かけないが、カニの穴がそこかしこにあったりする。境内に戻り、社殿にお参りする。境内の左手にわりと広く水がたまっていて、飛び石で渡るようになっていた。海の水位があがるとこのあたりまで水に浸かるのだろうか、だとすると、そこそこに幻想的な光景になるんじゃないかとちょっとわくわくする。
 飛び石をわたって社殿の背後へ向かうと、奥に道が続いていて、これもまた雰囲気をたっぷりと醸し出す森のようになっている。さすがに神社は空間演出が大事だよなあ、などと思いながら歩いていると、偉大たちがこれだこれだと喜んでいる。そこには大きな岩のかたまりが、圧倒的な存在感で横たわっている。この神社の祭神である豊玉姫をまつってあるようだ。岩、いや、巌。海辺の脇にあった亀甲模様の石も奇瑞っぽくはあるけれども、モノとしての存在感がちがう。艶っぽささえ感じる黒光りがまたいい。木々に囲まれ、あるいは木々を抱き込んだ感じの力強さがさらにいい。これに神々しさを感じておまつりしたくなる気持ちもわかると言えばわかる。それが神社ということかなあと思う。
 境内には「古式大祭」の看板が掲げられ、土地の人たちがわらを使って準備らしきことにいそしんでいる。神社へ続く車道の脇で草刈りが行なわれている。人がいそいそとしていると、場所がいきいきするなと思う。

 海神神社
 続いて海神神社へ向かう。もうすぐそこだというところで目の前に入江が現れ、なにやらものめずらしいたたずまいの小屋が並んでいる。一気にテンションがあがり、下りて近づいてみた。観光用の説明板によれば、藻小屋というものらしい。採った海藻を蓄えておいて肥料として使うのだそうで、対馬に見られるものらしい。もちろん現役で使われているのではなく展示用に保存されているものだろうが、あまりきれいに掃除・整備されていない様子が、かえってそれらしく見える。のちに訪れた別の集落では、現役でもないだろうが展示用でもないリアルな様子の藻小屋も見かけることができた。
 一帯が広場になっていて、また鹿公園や野鳥公園が近くらしく、野鳥を何羽か発見。野鳥好きのさばりゃが喜んでいる。
 藻小屋のすぐそばにあるのが海神神社である。対馬の一宮というが、観光客でにぎわっているという意味では和多都美神社のほうに分がありそうだ。社務所っぽいところに人はいるものの、それ以外の人気がまったくない。我々5人の声ばかりが境内にこだまする。野鳥用の”ブンブン”があるのを見つけて、おかしな盛り上がりが起こる。偉大は、鳥居が文化期だとはしゃいでいる。
 本殿は石段を登った山の上にあるらしい。石段を登りきると次の石段、次の石段、また石段。なかなかに挑戦的ではないか、そうかこれが一宮か、ならば全力で登るまでである。寄進者の名前が刻まれているのを確認すると、対馬や国内だけでなく釜山の寄進者も少なくない。というか、そんなことを確認しながら気を紛らせてないと、しんどくてたまらない。
 やっとのことで本殿まで登りきる。本殿は、まっとうな神社としての造りをしているよなあという感じ。摂社にまつられている神の名前が即物的であることを、偉大が喜んでいる。本殿のある一帯は、掃除はされていそうだけれども、かといってあまり手が入ってないようにも思う。そう思ってしまうのはやはり京都慣れしているせいか。

 次はいよいよ伊奈である。

 (続く)

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2012年09月14日

対馬にて・201209 (2)「記録さえ確かならば」

 雨森芳州
 偉大が資料館で郷土史本を買い入れるのを待って、次に向かった先は長寿院というところだった。ここには雨森芳州の墓がある。
 雨森芳州は近世中期に対馬藩にかかえられた儒学者である。木下順庵の弟子で、同門に新井白石や室鳩巣らがいる。朝鮮語や中国語を習得し、日本向けの朝鮮語会話本や朝鮮向けの日本語辞書などを著している。著書『たはれぐさ』に「記録さへ確かならば、幾百年ともなき長生したる人を左右に置けるに同じかるべし」という遺訓があるらしく、ライブラリアンとしてはちょっと背筋が伸びる思いがする。
 墓は寺の背後の小高い丘の上にあり、5人で登るが、少々きつい。足下に石らしきものは敷いてあったが、割れて崩れてしまっていて、踏むとかえって滑り落ちそうで危ない。訪れる人は少ないのだろうか。ようやく登りきったところで、今度は大量のヤブ蚊に襲われた。彼らが墓守として芳州、そして隣の妻を守っているのだろうと思い、追い払いはしたが極力殺生は避けた。
 20年近く前になるが、日本語辞書を編纂したなどの縁で、かつて所属していた国語学国文学の研究室旅行として、生地である近江のほうへ行ったことがある。そこで寺の住職的な人に、古文献を見せてもらい芳州の業績について話を聴くことができるから、ということだった。が、実際に行ってみると子ども向けの紙芝居のようなもので芳州の生い立ちを語られ、その内容も歴史解説というよりは言い伝えや昔話に近いもので、ところどころ、いやそれはファンタジーだろうというようなエピソードも混じる。それを、教授・助教授、博士・修士の院生たちが狭い部屋に正座して拝聴している。教授の先生ががんばって文献学的なツッコミを試みるが、それは知らない、そういう言い伝えはない、と不機嫌そうに返されるのみ。終わってからこの旅行を手配した助手の先生が「すみません、こんなはずでは」と先生たちに謝っているのを見て、旅の手配というものはつくづく難しいものなのだと思った。知らない土地ばかりでなく、知っている土地・住んでいる土地のそれであっても、プロでもない限り難しいことに変わりないだろうと思う。

 箕形
 夕刻が近づいてきたので、厳原から北へ向かう。同行の4人がサンセット・シーカヤックツアーなるものに参加するというので、入江のほとりにある箕形という集落までやってきた。ここでツアー商売をやっているおいちゃんの指導・案内で、カヤックに乗り、パドルで海へ漕ぎ出し、沖の無人島まで出て夕日を観賞し、夜の海を戻ってくる、というものらしい。自分は参加せずに陸地で待つことにして、おいちゃんに連れられて海へ出る4人を見送った。大したスピードでもないだろうと思っていたが、存外に速く、みるみるうちに沖へ、小さな点となってやがて見えなくなってしまった。
 予定ではみなが戻るまで約3時間。カヤックのハウス的なところに喫茶店か休憩所でも併設されてるかと思っていたが、そういうものはない。それどころか、人がまったくいない。ときおり入江沿いの道を道路を車が走り抜けていくばかりである。しかたがないので湾をぐるりとまわって向こう側まで歩いてみることにした。なんとなく中島みゆきの「ヘッドライト・テールライト」を口ずさんでいる。旅はまだ終わらない。
 歩くたびに足もとのフナムシやシオマネキがさっと逃げていく。静けさを破るように突如、「夕焼け小焼け」のメロディが流れる。午後6時を知らせる有線放送だ。注意深く車道を渡る。こんなところを走る車は歩行者なぞいない前提で走るだろうから、余計に注意しなければならぬ。
 しばらく行くと、道端にお地蔵様が据えられていた。スチール製の祠に納められていて、扉が金具で留められている。こんなところで盗む人もなかろうにと思うが、何かの用心だろうか。お顔がうっすらと塗られている。とりあえず拝んでおく。そばには飲料の自動販売機があった。これがあればなんとかなる、と少しほっとする。向こうの方に煙があがっているので、見ると、おばあさんが自宅の焼却炉でゴミを焼いている。自宅でゴミ焼きする様を見るのも考えてみれば久しぶりのように思う。幼い頃はあるときまで福岡の実家にも焼却炉があって自前で焼いてたはずだった。集落の中ほどに鳥居が見える。塩竈神社と書いてあるが、神社というより集会所のような簡単な木造の家を囲ったような場所だ。フリーな空き地があって、こういうところで”寄り合い”が行なわれたりしたのだろうかなあ、と想像してみる。建物の中をのぞいてみたかったが暗くてよくわからなかった。とりあえず拝んでおく。あらためて調べてみると、どうやらこの地区での盆踊りが行なわれる場所のひとつらしく、盆踊りといってもエンタメ的なものではなくて泊まり込みで叩き込まれるレベルらしい。さらに先に行くと、道沿いにバス停と待合用の小屋がある。小学生だか中学生だかが通学するためのものらしい。学校までは6-7キロらしいが本当だろうか。そして入江沿いの空き地にはカヤックフェスタなるもののテントや横断幕などが設置してあるが、やはり人がいない。
 そのうち、黒雲が分厚くなってきた。あいにく傘を持ってきていないし、それ以前にまず灯りがなければ帰れそうにもないので、引き返すことにする。途中の自販機で缶コーヒーを買ってみたが、飲んでみると、乳脂肪分が固形になって底に溜まっていた。おそらく、そうそう買う人もいないのだろう。ちびちび飲んでいると、向こうからやってきた自動車が心持ち減速してきて、おじさんが窓越しに切なそうな視線を向けてくるのが見えた。たぶん、こんなところで途方に暮れてる旅行者じゃないかと心配してくれているのだろう。そっと無視することで、どうもすみません、心配いりませんので、というメッセージとした。それはそうと、カヤックの4人は疲れて帰ってくるだろうから、せめて飲みものでも用意して迎えてあげようと、あらためて自販機に向い財布を開いたが、これが残念なことに硬貨では3人分しか買えず、紙幣は1万円札しかない。ああそうか、こういう場所では1000円札を持っていないと、1万円札しか現金がなければそれは持っていないのと同じことなんだな、と思い知る。
 「ヘッドライト・テールライト」を口ずさみながら、ペットボトル3本を抱えて元の場所に戻ると、カヤックのおいちゃんが飼っているらしき犬に吠えられる。もうそろそろ帰ってこないかと沖のほうを眺めに行ってみるが、もはや日も暮れてあたりは真っ暗で、周囲を確認するのがやっとの状態である。沖のやけにまぶしいライトを見つめながら、もう会えないんじゃないだろうかと思い始める。もし帰ってこなかったら、自分はこの地に庵を建てて、生涯をここで過ごすことにしよう、などといらぬ空想をふくらませている。しかたがないのでレンタカーに戻る。また吠えられる。車中で宮本常一の『私の日本地図』対馬編の続きを読んでいる。しばらくするとこちらが何もしないのに犬が吠え出すので、もしやと思って外に出てみると、一行がやっと戻ってきた。庵の計画は当分お預けである。
 みなが一息ついたところで、話の流れから、カヤックのおいちゃんに北部の見どころルートをつぶさに教えてもらうことができた。ここは見どころ、ここは道が悪い。ここにショッピングセンターがある、ここに蕎麦屋、鯛焼き屋、など。ここに砲台跡がありますよね、と偉大が口にした途端、おいちゃんのテンションがあがり、あそこがいいんですよと力説し始める。まったく男子というやつは、どこでも、いくつになっても、と思う。

 宿坊へ
 夜の対馬を厳原まで戻る。沖にイカ釣り船らしき灯りがわんさかと見える。
 厳原の宿へ向かおうとするが、その場所があいまいにしかわからない。みなでカーナビやスマホの地図を見つめては、口々に右だ左だ、上だ下だ、行きすぎた、などと騒いでいる。とりあえず自分が誘導する、と偉大が車から外へ出るが、出た途端に叩きつけるような雨が降り出した。まったく今回の自分はついていない、悪運続きだ、日頃の行ないがどうのこうの、などと愚痴を言っている。が、私が思うに、この悪天候続きは彼の日頃の行ないとは関係ない。雨というのは気圧や風や湿度の関係によって降るものである。
 無事に着いた宿は、宿坊でありユースホステルだと聞いていたが、なかなかどうして、立派かつ清潔で、どうも改装し立てのように思われる。部屋に鍵やテレビがついていないことをのぞけば、いい値段のしそうな旅館と遜色がない。僧職らしき坊主頭の若者に案内される。テラスで煙草(寺の宿で煙草が可なのか)を吸っている若者たちは韓国語をしゃべっている。
 宿を出て、予約していた町の居酒屋へ向かう。居酒屋兼郷土料理屋兼定食屋に民宿も併設しているらしい。アラ(クエの九州名)の入り焼き鍋と、はまち・鯛のお造り、穴子天ぷら、茶碗蒸し、げそ焼き、雑炊。それに、やまねこ焼酎。さばりゃのカメラが戯れにまわる中、一日のふりかえりや明日のルート、後輩のうわさ話などに花が咲いた。近くのコンビニに立ち寄る。近くに1時半まで営業のココストアがあり、ビール、しろくま、イカ天などを買い込んで宿へ戻る。
 翌朝、いつものように6時前に目が覚める。音で雨だとわかる。朝の鐘が鳴る。湯浴みして身体を覚ます。
 朝食は予想に反して精進料理ではなかった。里芋と野菜の煮物、鰆または鯖、洋風サラダ、冷や奴、納豆、など。味噌は九州の麦。客は、自分たちのほかには2グループ程度のようで、いずれも韓国語だった。食事のできたダイニングは、ちょっとしたリッチな山小屋の縮小版のようで、夜にここでちびちび酒を呑みながら駄弁ってたらどれだけ心地いいか、と思った。純粋にこの宿に泊ることを目的にまたここに来てもいい、とさえ思う。

 (続く)

posted by egamiday3 at 18:54| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年09月13日

対馬にて・201209 (1)「そんなこと言えるはずもない」


 博多から対馬へ
 対馬へ向かったのは2012年9月8日の朝のことだった。
 対馬行きの飛行機に乗るべく福岡空港へ向かっていたところへ、iPhoneにメールが届いた。ANAからで「欠航のお知らせ」とあり、目を疑った。急いでメールを確認したが、定型文なので欠航以上の情報は特にない。とりあえず旅の仲間へ向けて速報でTwitterに投稿し、情報を求めに福岡空港へ急ぐ。
 ANAカウンターの女性の説明によれば、対馬空港が被雷し、管制機器が故障したために使用できないらしい。午前中はどの便も出せず、午後もいまのところ不明だという。悪天候による欠航よりもまずそうだ。代替手段として博多港から舟が出るというが、もう1時間もない。旅の仲間はいまめいめいちがう場所にいて、うち3人は博多に土地勘がなく、事態を知らぬまま着々と空港へ向かっているところなのだ。そもそも自分だって博多港から舟に乗るなどということは未経験である。その状態で、1時間、いや、行列や混雑を見込んで30分程度で博多港に集合しなければならない。急いで全員に事の次第を連絡し、合流したりメールしたり電話したり、国際線の埠頭とベイサイドプレイスのちがいをタクシーの運転手に教わったりして、ようよう、博多港の乗り場に全員集合、事なきを得た。
 すでに5人ともやや疲れた顔をしている。しかも、この時点で帰りの航空便は保証されていないわけである。それでもなんとか高速船に乗り込んだ。
 空港からこちらへ流れてきた人びとも少なくはなかったようで、船内はほぼ満席。定員で乗れない人もいたにちがいないと思うと、間に合ってよかったと思う。船は存外に揺れず、船酔いの心配もなさそうで、本やプリントをまわし読みすることも苦ではなかった。対馬予習に余念のない我々に向かって、NHKが延々と最上川の魅力を解説している。1時間ほどでまずは壱岐に到着し、ここで7割ほどが降りた。対馬の住人だろうか、隣の老人たちがコンビニ弁当を開封しだしたので、におい負けしないようにと席を移る。地図や本をひろげ、宮本常一の足跡をたどる。そしてさらに1時間して、対馬・厳原港に到着した。

 厳原
 対馬は、九州の北方、朝鮮半島との間に浮かぶ島である。南北約80キロの細長い島で、南端から九州本土までは約130キロ、北端から朝鮮半島までは50キロ未満しかない。淡路島よりも広い面積を持つが、基本的に山がち、というより、山地が海に深く浸かったようにしているので、入江と山に挟まれた土地がわずかにあるばかり、という印象である。ここに35000人が住んでいる。
 中世から徳川時代を通して、朝鮮と日本との橋渡し的存在であった。貿易や漁業のために対馬から朝鮮へ渡って移り住んだ人びとも多かったし、倭寇の拠点でもあったために襲撃も受けている。秀吉出兵にあたっても間に立ち、また徳川時代の朝鮮通信使は対馬・宗家の導きで日本へ渡った。
 かつて宗家の城下町であった厳原が、現在でも対馬市の中心部である。
 バーニー、さばりゃん、偉大、opa、そして私の5人が降り立つと、厳原は強い雨だった。身を寄せ合うようにして待ち合い、駆け込むようにレンタカーに乗り込む。「対馬なう」とはしゃぐ。カーナビが動かずにうろたえる。さばりゃんが車中の録画を始める。これでは『忘れられた日本人』というより『水曜どうでしょう』である。とにかくまずは腹ごしらえということで、厳原中心街のショッピングモールに乗り込んだ。
 対馬の郷土料理に「ろくべえ」なるものがある。ショッピングモール内のそば屋でそれが食べられるらしいということで入ってみた。いまひとつの名物「いりやきそば」はできないとのことで、みなでろくべえをいただく。サツマイモの澱粉を麺状にしたものだというが、ぷちぷちむにむにとした食感で、こしはなく、箸でつかむと丼内に切れて流れていく。腹にたまるという印象はないが、出汁がきいているのでありがたい。ほかに「こうこもの天ぷら」というのがメニューにあったので、何だろうと注文してみると、ようはサツマイモの天ぷらであった。サツマイモのことを「孝行芋(=こうこも)」と言うらしい。
 店内には、観光客に向けてであろう、対馬の郷土史もの・観光ものの小冊子が何冊も面陳で置かれていた。めいめいにそれを手にして中身をめくってみる。こういった何気ない場所にある蔵書に目をやり、その土地にどのような郷土史本・冊子があるのかなどを覚えておいて、のちのち資料館などのしかるべきところで買い求める、という算段である。ところが、バーニーがうっかりこの冊子のディスプレイ枠を破壊してしまった。あいかわらずの粗忽ぶりである。
 ショッピングモールはいわゆる複合施設で、上階には「つしま図書館」もあるということで、食後はみな当然のように図書館へと向かった。職業人のかがみである。まだできてから間もないような新しい施設で、対馬市誕生(2004年)を期にできたらしい。古い郷土本には「公民館」の蔵書印があった。現在でもここ以外の5-6つの分館はすべて公民館図書館であるようだ。また、館内には根室市から寄贈されたという、”国境”をテーマにした文庫・エトピリカ文庫が設置されている。その他は一般的な公共図書館であるが、市立の中央館としては若干の手薄さを感じる。
 ふと気付くと、さばりゃんが一人の館員をつかまえて聞き取り調査を実行している。我々の中で宮本常一に最も近いのは彼女にちがいない、と確信した。

 対馬宗家
 次に万松院に向かう。万松院は対馬藩宗家の菩提寺で、2代藩主・宗義成が初代・宗義智を供養するために建立したと言う。ただ、実際見てみると、2代目の供養塔が一番大きくて立派で目立つ位置にあり、次いでその脇に3代目。それらに比べると先代のそれはかなり小さめで、プリミティブに見える。何事も2代目がしっかりした働きをしてくれることが後々重要になるんだな、と思う。
 石段のフォトジェニック感、ソテツの南国感もさることながら、石垣がいちいちかっこいい。石垣というのはだいたいが武骨で重々しく堅牢さが頼もしいものだが、どちらかというとこちらの石垣はスマートで清涼感すら覚える。石ひとつひとつが直線的で小さめで整った平面をかたどっている。そういえば先の石段も、一枚一枚の板のような石が平らに敷かれているので、登りやすいし安定している。これが正しいかどうかはわからないが、対馬の石は頁岩という直線的に剥離しやすいものが多いらしい。この石段や石垣の平らさ・直線さにしても、のちのち多く見ることになる地層があらわになった岬や山肌にしても、そして納屋に使われているという石屋根にしても、元をたどればそういうことなんだろう。石段や石垣のこのかっこよさは厳原と言わず対馬中で味わうことができる。これが対馬の石垣モード、ということだろうと理解した。
 それにしても、宗家の菩提寺にしては苔も蔦も雑草も茂り放題なのだが、あるいは自分が”京都慣れ”してしまっているだけで、日本の多くはこうなのだろうか。朝鮮からの贈品であるという三つ具足も、君主に諫言するための鼓も、直に見ることができる。
 続いてすぐそばの対馬歴史民俗資料館を訪れた。長崎県立とのことで、がんばって1時間程度で見終わらすぞと意気込んでいたが、実際にはそれほど広く大きなものではなく、数十分で充分見終わるものであった。それでもひとつひとつはなかなかに興味深い。近世に釜山に作られていた日本人町である倭館絵図。古代中世から近年まで延々と伝わってきた、豆酘(つつ)に伝わるという亀卜。みむろ屋のいりやき鍋が置いてあるのなどは愛嬌があってほっとする。元禄対馬絵図はこれマジか元禄なんかと目を疑う、実に正確・精緻な地図で、これ作れるんだったら忠敬いらんだろうと思った。宗家文書も一部公開されていたが、対馬藩の藩政記録10万点のうち7万点以上がここにあるという。とても読み切れる量ではない、と偉大はしきりに言っていたが、Googleあたりが本気を出せばそうでもないというような時代も遠くないのではないか。ほかに雨森芳州の『交隣須知』、そして、宗家が徳川幕府と朝鮮の間を取り持つにあたって細工をした、にせの文書やにせの印判も見ることができた。
 徳川時代の初期の頃に、柳川一件というものが起こる。秀吉の朝鮮出兵のために断絶してしまった日朝関係を、徳川幕府が正常化させようと交渉を始めたとき、戦前まで日朝交易に経済を依存していた対馬宗家が、当然のようにその橋渡し役を買って出た。このとき朝鮮側が朝鮮出兵時の戦犯を差し出すよう徳川幕府に求めたのを、対馬藩は藩内で内々に処理するべく、対馬の罪人を「こいつがそうです」といつわって差し出すことで丸く収めた。朝鮮側はまた、通交するなら徳川幕府側のほうから先に国書を送れと要求していたが、そんなこと言えるはずもない対馬藩はこれも幕府に伝えず、にせものの日本側国書を自作偽造して朝鮮に提出。しかも、これに対する回答を送るためにやってきた朝鮮からの「回答使」を、対馬藩は「通信使です」と幕府に説明、秀忠や家康と謁見させている。さらにその返事も改竄、その後も偽造・改竄を実に3ターンほどもやりこなし、結果として日朝間の貿易協定すら締結させている。これをチクろうとして失敗したのが家老の柳川某で、その事件を柳川一件という。
 宗家は、秀吉が朝鮮出兵前に朝鮮にやいのやいのと要求を突きつけていた際にも間に立っていたわけだが、実はそのときにもその要求内容をマイルドに伝えるなど、橋渡し役ならではの振る舞いを行なっていたらしい。悪く言えば”工作活動で暗躍”、同情して言えば”板挟みに苦心惨憺”してたわけで、哀しくもどうしようもなくおかしい、自分としてはこの一連の話を読む度にたまらず笑ってしまう。ぜひ三谷幸喜あたりの戯曲採用されてほしいと願っている。清洲会議ができるなら、できるだろう。
 
 (続く)

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2012年09月03日

メモ: デンマーク×図書館or日本 の文献リスト (201209CPH)

デンマーク×図書館or日本 の文献リスト

・吉田右子. 『デンマークのにぎやかな公共図書館 : 平等・共有・セルフヘルプを実現する場所』. 新評論, 2010.
・図書館計画施設研究所. 『白夜の国の図書館』pt.3, デンマーク・アイスランド. リブリオ出版, 1998.3.

・吉田右子. 「21世紀の公共図書館をデザインする : デンマークにおける公共図書館というスペース」(発表2,図書館というスペースを考える,<特集>第8回国際図書館学セミナー). 『図書館界』. 2012.03, 63(6), p.438-439.
・吉田右子. 「多文化社会図書館サービスとは--デンマークの例」(特集 図書館新時代--知のインフラの活用法と可能性を探る). 『言語』. 2008.09, 37(9), p.54-57.
・吉田右子. 「デンマーク」(小特集:北欧のコミュニティと公共図書館). 『カレントアウェアネス』. 2008.03.20, 295, p.16-18.
・吉田右子. 「北欧におけるマイノリティ住民への図書館サーピス : デンマークとスウェーデンを中心に」. 『図書館界』. 2007.09, 59(3), p.174-187.
・堤恵. 「北欧の移民・難民への図書館サービス--スウェーデンとデンマークの事例から」. 『カレントアウェアネス』. 2006.03, 287, p.8-10.
・井田敦彦. 「デンマークの図書館法改正」. 『カレントアウェアネス』. 2001.05, 261, p.4-5.
・「海外報告 デンマーク王立図書館(コペンハーゲン)古典的街並みを拒否する「ブラックダイヤモンド」」. 日経アーキテクチュア. 2000.04.03, p.100-104.
・福島みゆき. 「シリ-ズ・海外図書館事情を探る-第11回-私の見たデンマ-クの図書館」. 『図書館雑誌』. 1998.04, 92(4), p.280-282.
・豊田透. 「世界の国立図書館」15デンマ-ク王立図書館. 国立国会図書館月報. 1987.01, p.25-22. ・Leif Thorsen, 今まど子, 古賀節子. 『デンマークの公共図書館』. 日本図書館協会, 1975.
・弥吉光長. 『デンマークの図書館』. (北欧文化シリーズ). 東海大学出版会, 1975

・河原和枝. 「スウェーデンから--北欧の日本研究と、スウェーデンの両親休暇」. 『京都橘大学研究紀要』. 2007, p.114-101.
・安倍オースタッド玲子. 「北欧(ノルウェー)における「日本近代文学」研究」. 『日本近代文学』. 2001, 64, p.161-166
・遠山一郎. 「ヨーロッパにおける日本研究学会第七回大会の報告(於コペンハーゲン)」. 『国文学』. 1994, 39(13).
・キーステン・レフシン. 「デンマークにおける日本語教育」. 『世界の日本語教育』. 1993, 3.
・長島要一. 「初期日本・デンマ-ク文化交流史についての覚書」. 『日本歴史』. 1988.04, p.53-70.
・岡田令子, 菅原邦城. 『粟飯原文庫目録』. 大阪外国語大学附属図書館, 1979.
・清田正喜. 「北欧の日本学--コペンハ-ゲン大学について (〔西南学院大学〕開学25周年記念号)」. 『西南学院大学文理論集』. 1975, 16(1), p.1-38.

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メモ: コペンハーゲン市立中央図書館 (201208CPH)


コペンハーゲン市立中央図書館、に、いってきました。
http://bibliotek.kk.dk/node/7816

・朝8時から10時まで、「セルフサービス時間帯」と称して開館している。この間、ライブラリアンやスタッフによるサービスもサポートもないし、フロアはあちこち清掃中だし、エスカレータは止まってるし、OPACもPCも起動してないし、まだちゃんとした開館はしてないけど、ただ、開いている、イス・机が使える、本を読める、自動貸出機は使える、それでもいいなら8時からでも入館していいですよ、というサービス。これはすごくイイね!! そしてそんな時間帯でも、大学のすぐ近くということもあって、学生やビジネスマンがふつーにうろちょろしてる。はやってない図書館の人が多めのときくらいの人出はある。
・カフェ隣接なので、館内にコーヒーとクロワッサンのいい匂いがただよいすぎて、もはや犯罪的。
・タッチパネル式の市内交通ルート検索機が入り口付近にある。
・多目的ホールがある。ホールと言っても部屋として区切られてなく、カーテンで区切られているので、使われてない時はふつーの閲覧エリアになるし、使われている時でもたぶん入室・参加の敷居がすごく低い、という設計。
・多目的ホールの横に、コーラとビールの入ったクーラーが置いてあって、これは売り物じゃないよ、ていう張り紙がしてある。・・・ちょっとまて、もしかしてここでは図書館内のイベントで酒が出るのか・・・なんという酒呑み天国・コペンハーゲン・・・。
・1階のサロン的なテーブル席フロアには、朝の学生たちがそこそこもう来てる。そして、過半数はペアなりグループで話し合いしながらの勉強をしている。なんだろう、図書館のグループ学習利用のなにがいいかって、はたから見ててとにかく微笑ましいったりゃありゃしないんですよね(笑)
・電子書籍コーナーがある。ただし、ちらかってる。
・ていうか、イス・机などのインテリアがさすがにいちいちかっこいい。こんなかっこよかったら、ひいきめに評価しちゃうじゃないか、これだから北欧は・・・(笑)
・ティーン向け本&マンガの部屋。部屋の1/3が日本マンガ(デンマーク語訳)。
・静かにする場所指定(ゾーニング)。
・日本関係の欧文図書は、歴史学などの棚にあり。欧文のみ。あるにはあるが、新鮮ではない。
・行政サービスカウンターが1階にある。証明写真コーナーも。
・当然のごとく、wifi利用自由。
・朝の人の少ない時間帯だから、ゆったり根を生やして座ってられるけど、その朝でもこのくらいの人出なら、日中・夕刻なんかはたぶん座ってられないくらい繁盛するんだろうな・・・繁盛するのも善し悪し、って言っちゃうとダメなんだろうけど・・・。でも、通っちゃうなここ・・・。
・音楽フロアには、利用者が自由に演奏できるギター・キーボード・ドラム(ヘッドホン付き)が置いてある。これが実際に使われているんだとしたら、その様子が見られる時間帯に来てみたかった。これについてはちょっと思う所あり、機会があれば別途書く。

posted by egamiday3 at 21:22| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

メモ: NIAS(北欧アジア研究所)図書館 (201208CPH)


 NIASは、「北欧」での「アジア」「現代史・社会科学」「英文中心」の研究拠点です。
 e-resourceを北欧の研究者に提供してる点がひとつ注目です。

●概要
・北欧アジア研究所
・Nordic Institute of Asian Studies (NIAS)
http://nias.ku.dk/

・1968年、Nordic Council(北欧理事会)により設立された、北欧におけるアジア研究の拠点。
・現代アジア、社会科学分野の研究所。
・北欧におけるアジア研究は比較的規模が小さい。細切れに小さく孤立している環境が多い。そのため、異なる機関同士・研究者同士のコラボレーション、サポート、ネットワーク、機会提供などが必要となる。研究活動の活性化、流布普及、教育、図書館サービス、会議・ワークショップ・講演など。
・対象は5つの北欧の国。デンマーク、スウェーデン、ノルウェー、フィンランド、アイスランド。

・北欧諸国の大学や研究機関が参加するNNC(Nordic NIAS Council)が中心となり、NIASを組織している。北欧5カ国、23機関が参加。年会費制。(どの大学にも参加できるための予算があるというわけではない。)
・コペンハーゲン大学を中心として運営されている。コペンハーゲン大学の社会科学部・政治学科のもとに位置する。ただし研究活動やその方針は独立している。
・コペンハーゲン大学のADI(Asian Dynamics Initiative)の一部でもある。ADIは2008年に発足した、アジアに関する学際的な研究教育活動を行なうためのプログラムで、コペンハーゲン大学の人文系学部と社会科学系学部とによる。
・図書館や出版部がある。

●NIAS図書館
・図書館部門: NIAS Linc(NIAS Library and Information Center)
・webサイト「Asia Portal」を構築。
・北欧地域ではもっとも充実したアジア資料(特に現代社会)の専門図書館である。(e-resource含む)
・図書38000冊。雑誌1400タイトル。おおむね開架。[#web]
・アジア、欧文資料、社会科学系・現代史分野が中心。人文系も若干含む。
・日本資料は約2300冊。ほとんどが欧文(数冊の日本語書籍あり)。雑誌300タイトル。
・配架は、対象地域ごとに、受入順配架。(それで問題ない規模)
・一般にも公開されている。
・蔵書検索はREXやbibliotek.dk、WorldCatで可能。
・王立図書館・コペンハーゲン大学図書館のIDで貸出可能。
・スウェーデンから来館しにくる人も多い。コペンハーゲンはカストラップ空港が街から近く、時間もそんなにかからない。

●AsiaPortal
・「Asia Portal」によって、メンバー機関の所属者に有料データベースへのアクセスを提供している。
・e-journal500タイトル。有料データベース70。
・日本製の有料e-resourceは、朝日新聞聞蔵IIビジュアル、CiNii機関定額制、JapanKnowledge(日本国語大辞典含む)、日経テレコン21、WHOPLUS。
・利用したい日本製e-resourceが網羅されているわけではない。価格が高く、北欧では国単位ででも対応できない。そこでNIASによる契約・提供が必要となる。(コンソーシアムではない)
・e-resourceの契約事務を行なうのはNIAS。2005年から。
・ただ、各大学・図書館の方でアジア分野への対応がこまめにはいかないところでは、このAsiaPortalを通じて有料データベースへアクセスするためのIP登録など、必要な手続きが充分に行なわれていないことがあり、そこに所属する学生・研究者のe-resourceに関する情報提供が難しくなっている。
・利用者が有料コンテンツにアクセスする際は、かならずいったんこのAsiaPortalにアクセスして通らなければならない。(直接アクセスは不可)このことが広報できていなくて知られていなかったりする。

●移転
・2012年10月、コペンハーゲン大学のキャンパスのひとつ(社会科学部があるところ)に移転の予定。大学の社会科学部との結びつきは強くなる。ただし、同ビル内にあるアジア図書館とわかれることになる。
・移転により、蔵書の90%は閉架になる。

posted by egamiday3 at 21:13| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

メモ: コペンハーゲン大学 及び そのアジア図書館 (201208CPH)

 
 コペンハーゲン大学の図書館は、王立図書館の一部だったり、そうじゃなかったりします。
 横断比較文化学部の中にあるアジア図書館は、人文科学図書館の下に位置します。けど、人文科学図書館は王立図書館の一部ですが、アジア図書館はそうじゃありません。けど、目録は王立図書館のOPACでひきます。
 複雑に見えますが、特に問題ありません、なぜなら、基本誰もがどの図書館を使ってもいい土地柄だから!

●概要
・1479年設立。
・学生数約37000人。教職員約7000人。
・コペンハーゲン大学のキャンパスは、City Campus, Sondre Campus, Norre Campus, Frereriksberg Campusの4つ。
・コペンハーゲン大学の図書館機構は、KUBIS:Kobenhavns Universitets Biblioteks- og Informationsservice(CULIS: Copenhagen University Library and Information Service)。
・CULISは大学と王立図書館とによる機構であり、王立図書館の一部局でもあり、かつ大学の一部局でもある。詳しくは「CULIS-organization2009」を参照。http://kubis.ku.dk/om_kubis/organisation/ (←正直きついw)

・CULISに属する図書館 (◆はデンマーク王立図書館の一部。( )内はキャンパス)
・大学図書館◆
・自然科学健康科学図書館◆(Norre)
・数学図書室、スポーツ科学図書室・・・etc.
・人文科学図書館◆(Sondre)
・横断文化地域研究学図書室(Department of Cross-Cultural and Regional Studies)、芸術文化学図書室・・・etc
・法学図書館(City)
・生命科学図書館(Frederiksberg)
・薬学図書館(Norre)
・社会科学図書館◆(City)
・NIAS図書館
・神学図書館(City)

●人文科学図書館◆(Faculty Library of Humanities)
・Sondreキャンパスの中心に位置する。
・入館時にIDを求められることもなく、誰でも自由に出入りできる建物。(子どもがいたほど。)
・建物の中心的位置に閉架書庫がある。開架はレファレンス・ローンコレクションともにむしろ少なめな印象を受ける。

●アジア図書館
・大学のThe Department of Cross-Cultural and Regional Studies(横断文化地域研究学部)の一部局として、Asian Section's library(アジア図書館)がある。(ほかにアメリカインディアン学、東ヨーロッパ学、エスキモー・極地学などがある)
・アジア図書館は、組織上は人文科学図書館◆のもとに位置するが、王立図書館には属していない。
・アジア図書館は、Sondreキャンパスから少し離れた住宅地内のビルの4階にある。なお同じく4階に同大学の少数民族学図書室、7階に比較文化学図書室、同ビル内2階に後述のNIAS図書館がある。
・メインは日本研究・中国研究・韓国研究であり、日本語・中国語・韓国語の資料を所蔵する。
・Asian Studiesのサブジェクトガイド: http://libguides.culis.kb.dk/content.php?pid=248639
・Asian Studiesの専門ライブラリアンが1人いる。

●日本資料
・所蔵は、CJK各原語+西洋言語による研究用図書・参考図書。原語による文学作品。CJK各原語の図書は個々に所蔵されることになる。
・日本図書およそ9000冊。うち日本語図書が半分、欧文が半分。
・分野は人文系(哲学宗教、文学、歴史)が中心。[#201208CPH]
・図書は、日・欧で混配。請求記号は「JAP HIS(歴史・哲学・文学など) 2008(年) 27(受入順)」
・雑誌は、日・中混配。タイトルのアルファベット順。

●ユーザ
・Department of Cross-Cultural and Regional Studiesの中にJapan Studiesのプログラムがあり、学部課程・修士課程がある。授業は基本デンマーク語で行なわれる。
・日本学の学生は、1学年中で、最初40人くらいいるが、次第に減って最終的に10人くらいになる。
・一般の人による利用もある
・かつてのような日本学者ユーザは減っている。
・CiNiiで論文を検索するが、PDFまで見られるものは現時点でほとんどない。そのため、NDLに依頼することになる。NDLのweb申し込みは、入手可能性はもちろんあるものの、ユーザにとっては登録や操作が決してカンタンではない。ユーザ個人が自力で利用登録もして、オーダーもして、入手できるようになることはとても難しい。そのためアジア図書館がアカウントをひとつ取得していて、その一連の手続きをユーザにかわって代行する。月あたり2-3件程度。

●移転
・2013年1月には人文科学図書館◆内にコレクションとライブラリアンが移動する。そのため、人文系図書館内に蔵書として配架するコレクションを、現在の開架フロアの蔵書の中から選んで減らさなければならない。減らした蔵書は王立図書館の閉架書庫に送り、ユーザはそれをオンラインでオーダーしてとりよせることになる。
・この移転によって、同じビル内にあるNIAS図書館(アジア現代史・社会科学系)と、コペンハーゲン大学アジア図書館(人文系)とが、別々のキャンパスにわかれることになる。(<江上>従来の「地域別」な学問・図書館運営から、「サブジェクト別・地域横断」的なそれに変わりつつある、のの象徴のような印象を受ける。)
posted by egamiday3 at 19:59| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

メモ: デンマーク王立図書館 (201208CPH)

 
 いわゆる「ブラックダイヤモンド」ですが、組織としては「王立図書館=国立図書館+コペンハーゲン大学図書館」的な感じで。

●歴史
・1648年、フレデリック3世が学問好きで、コレクションを築き、充実させ、その蔵書のための王立図書館を建築した。
・1697年、法廷納本制度が本格化。
・1793年、一般公開開始。
・王立図書館とコペンハーゲン大学との協力関係は19世紀からすでにあった
・1902年、オーフスに「国立」図書館を設置。
・1906年、いまの旧館に移転する。
・1920年代、デンマーク国内全土の図書館のネットワーク化が進む。
・1952年、東洋資料部が独立
・1989年、コペンハーゲン大学第1図書館と合併
・1999年、現在の新館(ブラックダイアモンド)が建てられ、開館する。
・2005年、コペンハーゲン大学自然科学健康科学図書館と合併。
・2006年、正式名称を「The Royal Library, The National Library and Copenhagen University Library」とする。

●概要
・デンマーク王立図書館は、デンマークの国立図書館であり、かつ、コペンハーゲン大学の図書館でもある。
・正式名称
The Royal Library (Det Kongelige Bibliotek )
The National Library (Nationalbibliotek) and Copenhagen University Library (Kobenhavns Universitetsbibliotek)
・本館(ブラックダイアモンド)。加えて、コペンハーゲン大学の人文科学図書館。自然科学・健康科学図書館。社会科学図書館。以上から構成される。
・本館の閲覧室や司書サービスは学生・研究者サービスでもある。
・王立図書館、コペンハーゲン大学の各部局図書館・博物館、NIASなどの所蔵資料は、王立図書館OPAC・REXに収録されている。

・本館には複数の異なる種類のリーディングルームがある。
・クワイエットリーディングルーム。手荷物・PC・飲食などのルールが厳格で入り口にスタッフがいてチェックされる。ただしIDなどは求められず、誰でも自由に出入りできる。
・リーディングルームは主にCPH大の学生で満席状態(夏休みにもかかわらず)。試験前はこれ以上に人がとても多くなる。

●The Oriental Collection
・The Oriental Collectionは、Oriental and Judaica Collectionsの一部である。
・コレクションは、中近東、南アジア、中央アジア、東南アジア、東アジアの5つにわけられる。東アジアコレクションは中国語・日本語・韓国語資料にわけられる。
・各原語の図書はすべて東洋のコレクションとして扱われる。東洋を扱っても西洋言語で書かれた図書は、各分野の部署で扱われる。

・ライブラリアンは3人。
・閲覧室として「Oriental and Judaica reference books at Reading Room E-West」に参考図書があるが、部屋の利用としては実際には一般のリーディングルームと同じ扱い。
・デジカメ使用は自由。スキャナ・メール機能付きのコピー機あり。飲食可。

●日本資料
・現代書としての日本語資料は約6000冊。日本語雑誌は225タイトル。
・収書は2012年1月でストップされた。
・ユーザのアジア分野への関心はあるものの、そのリクエストをKBとしてまかないきれなくなった。これは日本だけでなくアジア研究全体の傾向である。
・旧館鉄製の閉架書庫に配架。年代ごと・受入順。
・ほとんどの蔵書がREXで検索可能。書誌が日本語で記述されているものもあるが、文字コードの問題で日本語検索に問題があり。アルファベット検索ならOK。

・現在はフルタイムの日本専門のライブラリアンはいない。後述のコペンハーゲン大学アジア図書館のライブラリアンが週あたり1日出勤して、古典籍を含むカタロギングを行なっている。
・日本古典籍は、国文研のコーニツキー版目録データベースでは、74件ヒットする。
・『政談』(荻生徂徠)、歌舞伎の台詞本、『医学至要抄』など6点がwebサイトでデジタル化公開されている。(2012年8月現在)

・日本資料のユーザは、主に大学の研究者・学生。コペンハーゲン大学に限らず、その他のアジア研究プログラム類の研究者・学生等。他都市からも利用がある。また、日本から来てコペンハーゲンやデンマークに滞在しているさまざまな分野の研究者などの利用もある。
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メモ: デンマークの日本研究・日本図書館 (201208CPH)

 デンマークの日本研究、あれこれメモ。

・1836年、王立図書館にはこのころすでに日本語書籍が所蔵されていた。
・1860年、国立博物館にライデンからシーボルト旧蔵書などが寄贈されている。
・1880年代に日本語書籍の購入・寄贈が行なわれている。(王立博物館・産業技術博物館)

・1957年、コペンハーゲン大学にEast Asian Instituteが設立。
・コペンハーゲン大学の極東アジア研究所は中国語・中国研究がメインだった。
・1961(2?)年、コペンハーゲン大学で日本語講座が開かれる。
・1960年代から日本研究が始まる。日本語のほかに、文学・歴史・芸術・思想など。
・1968年、コペンハーゲン大学アジア研究部門に日本学科が設置
・1971年、オーフス大学に日本学科が開設される。
・デンマーク以外の北欧でもおおむね同時期。
・1986年から試行、1993年から正式に、高校の第3外国語に加えられた(ドイツ語・フランス語・ロシア語等と同列)。
・1992年、コペンハーゲン商科大学の外国語クラスに日本語追加。
・(1990年代)学生数は約100人で、人気のため増加傾向にあった。

・2005年、高校の第3外国語からはずされた。
・2008年、コペンハーゲン大学にアジアン・ダイナミクス・イニシアティブ(ADI)設置。人文学部と社会科学部にまたがる新たな学際的アジア研究の拠点。
・言語・地域研究にとどまらず、人類学、地理学、政治・経済学なども長く行なわれてきた。
・各国の大学でのアジア研究は規模が小さい。予算が限られ、図書を充分に提供しきれない。英文・欧文に比べて日本語・オリジナル言語の図書はさらに少なく、購入も優先されない。ILLが不可欠。
・日本語の図書は北欧内でのILLでも入手できないことが多く、ヨーロッパ全土、または北米・日本に頼ることになる。このとき、OCLCやNDLによるILLシステムがよく機能する。
・北欧には日本語資料を専門にサポートできるライブラリアンがいないor少ない。→いたとしたらその人は、他大学の研究者・学生へもサポートをする必要が出てくる。
・研究の規模が小さいため、e-resource契約のためのコンソーシアムを国内で成立させることもできない。
・現代・社会科学分野だと、授業は英語で行なわれたりする。
・日本語教育は3大学(コペンハーゲン大学、オーフス大学、コペンハーゲン商科大学)で行なわれている。中国・東欧・EUへの関心の高まりにともない、日本語への関心が低くなるおそれがある。

・NAJS : 北欧現代日本社会研究会 (http://www.najs.jp/

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2012年09月02日

メモ: 「デンマークのにぎやかな公共図書館」(201208CPH)


デンマークのにぎやかな公共図書館 : 平等・共有・セルフヘルプを実現する場所 / 吉田右子 (新評論 , 2012)
デンマークのにぎやかな公共図書館−平等・共有・セルフヘルプを実現する場所 [単行本] / 吉田右子 (著); 新評論 (刊)

●序章 私が北欧の図書館をめぐる旅に出た理由
・「私が北欧の図書館に興味をもちはじめることになったきっかけは、12年ほど前に、図書館関係の雑誌『カレントアウェアネス』に小さく紹介されていたフィンランドの小さな街の図書館のことを知ったからである。」
・(before)調査当初、サービスは想像していたものよりは普通。日本も多様なサービスを展開し、差はない。→【北欧ショック】→(after)どの街にも居心地良い図書館があり専門職が配置。基本的なサービス。館長の信念。家具。建物・資料・司書の3要素がそろうサービスの実現は簡単なことではないし、アメリカでも不足はたくさんあるのに、北欧の図書館にはどこへいっても3要素が満たされている。
・北欧でもっとも成熟した図書館システムをもつ国・デンマーク。
・アメリカ近代式運営が図書館に持ち込まれ、国内全土の図書館間ネットワークをいち早く整備した。
・図書館間ネットワークの整備には、平坦で狭いデンマークの国土が幸いした。
・1920年図書館法制定。1964年の改正で全行政区域の設置が義務づけられた。支出は公的財源が法的に裏付けられている。

●第1章 デンマークの公共図書館サービスの基盤
・整備された図書館間ネットワーク。資料が国内のどの図書館にあってもカンタンに入手できる。国立図書館(デンマーク王立・オーフスの2つ)−中央図書館(国内6つ)−地域の図書館。
・国内の書誌情報作成は、デンマーク書誌センターが一手に引き受けている。→bibliotek.dkの構築。
・2007の行政改革でかなりの数が閉館した。
・開館時間が短縮傾向にある。2008年には1週間14時間を割り込んだ(!?)。
・1964図書館法改正で、「すべての行政区域に図書館設置が義務づけられる」と同時に「国内すべての図書館を、すべての国民が自由に利用できる」ことになった。
・2000図書館法改正で、公共図書館だけでなく国立・大学・研究図書館も対象になった。
・2000図書館法改正で、館長は司書資格を必要としなくなった。外部との折衝や関係構築にかかわるスキルが要求されるため。(#いや、それ=司書資格不問、はなんだか・・・><)
・「司書を予約しよう」サービス(2008)
・デンマーク王立情報学アカデミー(司書養成機関)
・デンマーク自体は、公的事業・サービスに住民が参加する仕組みが整っている。にもかかわらず、図書館については、運営に住民が参加する仕組みはない。住民委員会、友の会、ボランティア、どれもごくまれな例。

●第2章 デンマークの公共図書館サービスの実際
・デンマークの人びとは、学校図書館を幼い頃から利用していて、図書館をとても身近な存在としている。
・旅行者でもパスポートなどのIDで臨時の図書館カードを発行してもらえる。
・図書館サービスの支払時にクレジットカード利用可。
・ILLで他館から図書を取り寄せる場合、デンマーク国内はもちろん、ノルウェー・スウェーデンからの取り寄せであれば、料金は掛からない。
・分館では司書と利用者が親しく言葉を交わしている場面によく遭遇する。
国立図書館と大学図書館は誰でも利用が可能。専門図書館も多くが公開。
フィンランドやノルウェーの図書館建築に個性的なものが多いのに対し、デンマークはどれも似通っていて個性がない
・行政サービスコーナー設置の広がり。
・公共図書館と学校図書館の複合施設の広がり。

●第3章 デンマークの公共図書館をめぐる旅
・北欧ではセルフサービスが行き渡っているので、図書館でのセルフサービスにも違和感がないのでは。
・利用者と図書館のかかわりはどんな形でもいい。お茶を飲みに来るだけでもいい。利用者が自分のスタイルで利用すればいい。ただし、図書館側としては、図書館でさまざまな発見を利用者にしてもらえるよう、いろいろな仕掛けを埋め込んでいく。
・図書館と郵便局の複合施設では、司書が郵便業務を代行。
・電車が1時間に1本しかないローカルな終着駅のミニ図書館であっても、利用者は途切れることがなかった。
・コミュニティプロジェクトとしての図書館サービス。ゲレロプ図書館・ハスレ図書館。2004年にビルゲイツ財団の学習へのアクセス賞を受賞した、オーフース図書館の分館。移民・難民居住区の分館・地域サービス。生活上の困難な問題を抱えるマイノリティを総合的に支援する役割を話した。言語サービス。住民情報サービス。法律行政、就職、IT相談。常駐医師による医療健康相談。

●第4章 デンマークの読書事情
利用者を知りたい、という章。インタビューによる。
・すべての住民が均等に図書館を利用するわけではない。むしろ、図書館利用は、人生のある特定の時期に集中する傾向があり、かつ、いつ集中するかは個人のライフサイクルによって異なる。だから大切なのは、コミュニティに安定して図書館が存在していること
・デンマークの年間出版点数は13000点(2005)で、人口の割には多いのでは。
・デンマークの公共貸与権導入は、1946年(世界で最も早かった)。デンマーク語は少数話者によって成り立つ言語であり、その知的生産物を保護する必要があるため。
。コペンハーゲン大学のメインキャンパス近くにある書店「アカデミック・ブックス」はコペンハーゲン大のビジネススクールの学生が設立した。(#早朝から店内で授業みたいなことをしてるのが窓越しに見えたけど、ここのことか?)
・マンガやコンピュータゲームを公共図書館で扱うことに、否定的な回答が司書からくることはほとんどなかった。理由のひとつは、「子どもたちの間で広く人気があるものなのに、手に入れることができない子どもがいるのは、不公平だから」。

●第5章 北欧の図書館をめぐる風景
・スウェーデン・ノルウェー・フィンランド
・ストックホルム市立中央図書館

●第6章 北欧の公共図書館を支える理念
・図書館の存在が”あたりまえすぎる”のが悩みの種。
・学習の場としての図書館をもっとも必要としているのは、”組織”に属していない人びと。
・住民が、自己学習によって、力をつけて(エンパワーメント)、社会に働きかける。そのための場。(ただしもちろん、その学びのスタイルは多様である。)
・マイノリティとマジョリティとの接触の場としての公共図書館。

●おわりに
・「私が本書を通じて描きたかったのは、北欧のごく普通の図書館がそこに住む人びとによってどのように使われているのかということだった」
・北欧の図書館は、レベルの高いサービスや制度という意味でかけはなれた存在、ではない。
・図書館の資料は常に利用者ひとりひとりに開かれたものでなければならない、という原則を淡々と守り続けている。目に見える成果や大きな成功ばかりではないが、「人は誰しも自分と社会を変えていく力があるということを一冊一冊の資料を通じて示すことが図書館の本質的な役割である」


posted by egamiday3 at 11:08| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

メモ: 旅行事務反省大会 (201208CPH)


・ほっとくと携行品がどんどん増える準備姿勢をあらためること。
・土地柄上アジアフードが手に入りにくいorスケジュール上好きに摂取できない場合に、どのようにその欲求を慰めるべきかを考える。
・上記2つの課題を矛盾させないこと。(日本から大量に持ち込むとかではない)
・『本棚の中のニッポン』の広報チラシ&広報名刺を持ってこなかった自分を殴りたい。なぜそこに思い至らなかったか。
・位置情報ログ取りortweetアプリのもっといいのを探すこと。最近話題の「僕の来た道」アプリは世界地図表示対応してないことがわかった><
・旅行中はカメラの位置情報をオンにしておくこと。
・渡航前に減量すること。
・今回、行きの機内では起きておくことを徹底、滞在中は昼間起き続けて夜は寝ることを徹底、帰りの機内ではできるだけ寝る、をがんばったところ、時差ボケに苦しめられることがほとんどなかった。(もちろん皆無ではない) この効果は再現するかどうか、今後検証を続けること。
・そのかわり、これまでほとんど自覚することがなかった”エコノミー症候群”に、今回は行きの機内後に特に苦しめられた。歩くだけならともかく、階段の上り下り時に痛みに苦しめられるくらい。行きの機内でずっと本を読んでたんだけど、そのときの体勢がもしかしたらよくなかったのかもしれない。今後の課題。
・吉例・英語力が落ちてる疑惑。語彙も、文法も、聞き取りもすべてあかんかった。なにより、定型表現すら口をついて出ないことに愕然。今後の対策としては、例えばガイダンスなり館内ツアーなりでもって、とにかくちゃんとした英文を繰り返し自分の口でしゃべる、ということを日常的に行なうことで、口をついて出る英文をgrow upさせないとダメだ。
・短時間の街歩き&用足し用の、ちっちゃいカバンが、やっぱりいる。まあ上着を着る気温ならそのポケットで充分なんだけど。
・その国、その街へ行くときは、その国、その街をひたすらに愛そう。これにつきる。

posted by egamiday3 at 09:37| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

メモ: コペンハーゲンでの想い出 (201208CPH)

 
 デンマーク・コペンハーゲンでのあれこれメモ。
 コペンハーゲンは7年ぶり2度目だけど前回はほぼ素通りくらいの勢い。

・カストラップについたらショッピングエリアがパワーアップしてた。改装したんだなあたぶん。
・電車に乗せろ、つうか乗りたい。
・寒い寒いと覚悟して準備してたら、それほどでもないうえに、いくら外気温が低かったところで家の作り様が冬を旨としているうえに、水辺の街で湿気があるので、ちょっと気温が上がると部屋の中がサウナ風味になり、おまけに防寒仕様のため空気の逃げ場も入れ場もない。北国の屋内で過ごす夏は、むしろ日本よりきついというトラップがここにありましたよね。誰だ寒いなんて言ったの(笑)。
・セブンイレブンがあちこちにある。そして、夜でもふつーに酒が買える、けど、あれ、ものの本によれば酒類販売に時間規制あるんじゃなかったの? ていうか、平日昼間から道端で酒飲む老人、通りでビールパック抱えるようにして酒盛りで騒ぐ若人グループ、通学時間帯に大学校舎の脇でビール缶持ってる学生や清掃員。タバコは屋外で吸い放題。土曜朝の繁華街を散歩してみたら、通り全体がゴミだらけだし、バーガーキングの窓際は紙包みのゴミ収集所みたいになってる。でもって、これといって治安悪そうでもなく、安心して歩ける街。正直、とても興味深い。
・総じて、酒呑みにうれしい街、なんじゃないかということがわかった。ビールの国。
・たまたまなのか、街のあちこちが工事中。地下鉄を1本増やすっていってたからそれかなとも思うけど、公共事業の盛んなところなのかな?ともちょっと思った。歩道にしろ自転車道にしろ運河にしろ、ぬかりなく造ってある街だなあ、という感じがする。
・歩くのに吉な観光都市だという評判だったのだけども、ちょっと慣れさえすればバスがすごく便利。iPhoneやGoogleマップでバスの乗換検索ができる。ここのバス検索自体は2005年にもとっくに実現してたけど、京都は・・・><
・今回、市内バスツアー&水上バスの運河ツアーに参加。観光目的の人はマストで、そうでない人でもぜひ、この手の運河ツアーに乗るべきだなあと痛感。風光明媚さを味わえるというだけでなくて、陸路では把握できないコペンハーゲンの街の造り・土地勘がわかるようになる。短期滞在だからこそ、それがカンタンにできるのがすごく便利。バスツアーもそうなんだけど、これまで自分はああいうのを"いかにも"っぽくて避けてたけど、今週の俺が甘かったm(_ _)mです、すみません。実際こういうツアーものは、街全体を俯瞰で把握できる超便利ツールなんだということがわかった。
・食事については、もう3日目くらいにはパンを食べたくなくて泣きそうになる感じ。パン好きじゃないねん。宿所だったホテルは聞けば”朝食の美味い宿”で有名らしく、実際、パンとチーズしかない宿だって珍しくないヨーロッパにあって確かにひとつひとつは美味いんだけど、結局、パン好きじゃないねん><。とはいえコペンハーゲンはどうやら、アメリカや他のヨーロッパの大都市のように、アジアフードにそれほど気楽に出会える街というわけでもなかった。これは痛い。繁華街に2-3件、昔風の中華の店やランチボックスがある感じ。こういう、アジアフードに気楽に出会えない土地柄での対策を、考えておくべき。
・対策のひとつが、アイリッシュパブで、アイリッシュパブなら欧米のあちこちで相当出会いやすく、そしてそこにはまちがいなくフィッシュ&チップスがある。(たとえどんなものであるにせよ)魚のフライが食べられる。助かるT_T。あと、ギネス最高^_^。
・ただ、セブンイレブンには揚げ春巻きや焼き鳥串のようなものが常備してあったので、これにも助けられた感じ。焼き鳥なんか、日本のセブンイレブンで売ってるものそのままなんじゃないかと思うくらいなので、もしかしたら鶏肉ならタイあたりで生産加工したやつを、日本にもこっちにも送ってるという感じなのかもなあ、と思った。
・オープンサンドも食べました。ソースやバターや味付けは美味かったけど、具がしょっぱかった(笑)。そういえば、名物には保存食が多いの法則を忘れてた。
・デンマークのカード社会化が半端なかった。町外れの、床がきたなくて看板やメニューが割れてるような場末の食べ物やで、2-300円でも、クレジットカード使うのなんか別にふつーだった。何クローネ以上からじゃないとダメ、ていうのも別になさそうだった。頼むから日本もそうなって欲しい><。
・今回、渡航前に読んで勉強したデンマーク本のうちで一番良かったのが、先のブログ記事(http://egamiday3.seesaa.net/article/289582566.html)でも紹介した、元大使が書いたというデンマーク紹介本。お偉いさんが書いたエッセイなんて、と最初色眼鏡で見てたんだけど、これは完全な誤りです、すみませんでしたm(_ _)m。歴史や地理風土、社会、史跡、人や生活が、ゆっくり丁寧に、愛でるように書き綴られていて、これひとつ読んだらデンマークという国ががぐっと好きになった。白状すればデンマークってこれといって興味持つとっかかりもないしなあ、としか思ってなかったんだけど、この本を読んで一気に、「5年以内に全土周遊すべき海外旅行先todoリスト・ベスト3」にランクインした。アイルランド、イタリア、デンマークの3国。長年ランクインしてたドイツをあっさり次点に押しやるほどの強豪ぶりだった。
・というわけで、教訓:魅力が他国に伝わる"いい本"の存在は、その国にとってすごく重要だということ。そして「国」の部分には、各学問分野や「図書館」「文化資源」「NBK」などが入ってもまた同じだということ。忘れるな自分。
posted by egamiday3 at 09:22| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年09月01日

メモ:「魅惑のデンマーク」(201208CPH)


 魅惑のデンマーク : もっと知りたいあなたへ / 岡田眞樹 (新評論 , 2012)
魅惑のデンマーク: もっと知りたいあなたへ [単行本] / 岡田 眞樹 (著); 新評論 (刊)

・北海道と同じ人口が北海道の半分ほどの国土に住む国。
・巨石墳墓・支石墓、王家、アングロ人、サクソン人、福祉、環境、オープンサンド

●第1章 歴史を辿る
・支石墓(ドルメン)。新石器時代のもので、デンマークにはその数が多い。
・クリスチャン・トムセン。「鉄器時代」という言葉を考案したデンマークの考古学者。
・日本の古代の鉄器がさびているのと対照的に、デンマークで大量に出土した鉄剣はぎらぎら輝いている。アルカリ性の土壌のため。
・デンマークの時代区分は、鉄器時代の次は「ヴァイキング時代」。793年が最初。
・イェリング。ルーン石碑がある。
・リングステズの聖ベン教会はデンマーク最古のレンガ造りの建物。(1170)
・クロンボー城。スウェーデンとの間の狭い海峡を通る船から通行税をとった。この税金でデンマーク王権が強化された。そしてハンザ同盟はうざがってた。
・16世紀頃のデンマーク王家ではドイツ語が使われていた。それが上流階級の証しだった。
・コペンハーゲンのニューボーザ地区にある黄色い長屋は、軍艦の乗組員家族の住宅(現役)。最古のオリジナルの建物は1635年。
・ボルンホルムのハマースフス城址、円筒型教会。
・デンマーク王室は10世紀から現在(マルグレーテ2世)まで続いている。但し、15世紀と19世紀に断絶がある。
・デンマークとドイツとの国境係争地、シュレスヴィヒ・ホルシュタイン(ドイツ語名)。対ドイツ用の長城的な砦がヴァイキング時代からつくられていた。
・国境近くにナチスドイツによるフレスレウ強制収容所がある。デンマーク人捕虜が非人道的な扱いを受けることを少しでも防ごうとして、デンマーク人捕虜はデンマーク国内の収容所に収容することを、デンマーク側が提案したら、意外にもドイツに受け入れられた。ドイツ強制収容所施設の中ではもっとも保存状態がよく、こざっぱりしている。
・リーベ。8世紀頃にできたデンマーク最古の街。
・クロ。(デンマークの田舎の村にある酒場兼旅館)

●第2章 デンマークの音楽家と音楽生活。
・モーツァルトの妻・コンスタンツェは、モーツァルトの死後、デンマークの外交官と結婚してコペンハーゲンに住んだ。

●第3章 コペンハーゲン周辺の見どころ
・カールスベア(カールスバーグ)のギリシャ・エトルリア彫刻博物館。
・保険会社の経営者・ハンセンによる絵画のコレクション。ハンセンは将来国にコレクションを寄付してデンマークに残すつもりだったが、国がその買い上げに冷たい対応をしたため、怒ってスイスとかに売った。一般公開もやめてしまった。
・コペンハーゲンには街中に多数の堀・運河がある。昔の城壁を撤去した跡地は広い通りとなり、その外側に堀が点在して残っている。
・コペンハーゲンは海沿いの街ではあるが、大きな川がなく、生活用水を供給するのに苦労したところ。歴史上、堀、水車、ダム、噴水、水道管・水道路、井戸などがくりかえし整備されている。
・コペンハーゲン=ケーベン・ハウン=商人の港
・コペンハーゲンは、対岸のマルメ(スウェーデン)とデンマークとを結ぶ港町としてはじまった。
・コペンハーゲンの解放区・クリスチャニア。水辺の別荘地のような外観。1970年代、使用されなくなった城壁や要塞建築を若者たちが自然発生的に占拠した。麻薬取り締まりや警察の介入がおこなわれているが、現在も国家権力の枠外的なところ。週末の昼間は観光客が多い。
・カールスベアの本社建築(19世紀後半)
・デンマークはタイ人が多く、コペンハーゲンには質の高いタイ料理屋がたくさんある。

●第4章 地方にある個性的な見どころ
デンマークの地方自治体は、国際的・国家的環境問題・課題を、村おこし・町おこし・経済発展のための問題解決に結びつけて、うまく取り組んでいる。
・レゴの売り上げ不振の原因のひとつは、丈夫すぎること。1回買えば3世代は使えるし、どの家にも箱一杯にレゴブロックがある。

●第5章 日本・デンマーク関係の見どころ
・コペンハーゲン桜まつり
・J-POPCON
・ラジオ体操の源流はデンマーク体操。1930年代に日本で主流をしめた。
・日本-デンマークの貿易関係は、ヨーロッパでも珍しく、日本の輸入の方が大幅に大きい(輸出の3倍)。
・デンマークの対日輸出の半分が、豚肉(ハム・ソーセージ等加工用)。
・吉野家の牛鮭定食のサケはデンマークから輸出されている。シーズンになると、日本から職人が派遣されてきて作業する。
・デンマークでは豚・牛などの肉食が中心で、魚食にはうとい。現地の新聞記者が日本輸出用のサケの工場に取材に来ても、その試食に手を出そうとしなかった。
・デンマーク最大手の水産会社では、日本が最大の輸出先。日本との商売は鯖からはじまった。


・デンマークの魅力のいくばくかを本書によって知ってもらうことができ、ひょっとして、この本を片手にデンマークの田舎を巡ってみたいと思う人が出てきたら、著者としては望外の喜びである。

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