2013年07月30日

”目録規則”終了のお知らせ。 ←(メモ)「米国図書館界の目録業務調査 : RDA導入状況を中心に」(情報組織化研 2013.7.27)

 
 塩野さんはじめ京大図書館のメンバーによる2013年1月アメリカ調査については、公開された報告書や、NDLさんのニュースレター寄稿などがもうすでにあるわけなので、そちらも参照。

●RDA導入に向けた米国図書館の現状について―米国図書館訪問記― | NDL書誌情報ニュースレター2013年1号 | 国立国会図書館-National Diet Library  http://www.ndl.go.jp/jp/library/data/bib_newsletter/2013_1/article_02.html

●平成22年度国際交流推進機構基盤強化経費に基づく教職員等の海外派遣事業実施報告書 : 米国図書館界の目録業務調査 : RDA導入状況を中心に
 http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/173545


 ここではまあ、ゆるゆると、当日話をきいた中から特に心に残ったことなど。
 は江上のコメント。

●米国図書館界の目録業務調査 RDA導入状況を中心に 塩野真弓 #josoken 2013.7.27 - Togetter
http://togetter.com/li/539864

・調査は2013.1。LC、オハイオ州立大学、OCLC、コロンビア大学を訪問調査。

・LC。
・LCはRDAの維持改定のためのJSC(Joint Steering Committee for Development of RDA)の中核メンバー。2013.3.31から全面的にRDA導入。
・カタロガー用(?)のRDA Toolkit(RDA: Resource Description & Access Toolkit http://t.co/UGzW8SjPdD)上では、AACR2をその場で参照できたり、Cataloger's Desktop(***)へのリンクがあったりする。(実際にはまだ、AACR2離れしてるわけではない。)
・RDA本格導入したし、新規作成時はRDAを使う。とは言え、すでにAACR2でちゃんとつくられている書誌をコピーカタロギングする分には、わざわざRDAにコンバートしたりはしない、ということらしい。
・(あちらの業務画面って、シンプルっていうか、非グラフィカルなところあるよね。それは、利用案内とかパンフとか見てもそう思う。)
・カタロガーへのRDA研修体制あり。4週間36時間のリアルまたはオンラインのプログラムがあって、誰でも利用可能なwebinarとして公開もされている。段階、目標などがシステマチックにできている。(←そのへんアメリカさんだよなあって思う)

・OCLC。
・OCLCは2013.3.31以降、マスターレコードをRDAによって書き換えてよいことになっている。でも、RDA以外の目録規則も継続して使用可能。多言語な場だし。
・機械的なRDA変換をいろいろやってるっぽい。
・OCLCは、修正できるできないの権限が参加館によって異なる。マスターレコードの修正ができる館、簡易にしかできない館、など。wikipediaのようなソーシャルな書誌編集システム、というイメージ。
・OCLCの文字コードはMARC-8。日本漢字と中国漢字などの異体字はMARC-8内にある文字だけしか使えない、というルール。

・コロンビア大学。
・コロンビア大学の目録部署は、「ルーチンワーク部署」と「非ルーチンワーク部署」とにわかれている。これはなるほど、日本も導入すべき。
・コロンビア大学の図書館はざっくり言うと”RDA当事者・協力館”。RDAのテストにも参加し、そのまま現在も使い続けている。
・例えば、OCLCにAACR2のフルレベルの書誌があればそれをそのまま使うし、そうでなければRDAでつくる。
・コロンビア大学内の東アジア図書館(C.V.スター)では、当初AACR2とRDA併用→2012.1以降、新規書誌はRDA採用。

・ブリガムヤング大学ということろが、CJKを含む全資料をRDA対象にしている。(←ここは調査対象として要チェック)
・日本語書誌への評価。新刊書はTRCから、古い資料や専門的な資料はNDL、雑誌書誌はNCを参照する。NCは著者名のヨミとかがけっこうあやしい。CiNii Booksでは著者名典拠のYearが確認できない、など。

・「OCLC's RDA Policy Statement」(2013.4)
http://www5.oclc.org/downloads/webinars/RDApolicywebinar20130417.pdf
・RIMMF、という、ビジュアライゼーションさせた教育ツール。http://www.marcofquality.com/wiki/rimmf/doku.php なんというか、英語教材として使おうっと(笑)。
・CEALによるRDAワークショップのwikiが、CJK事例混じりで、馴染みやすい。
http://rdaandcjkworkshop.pbworks.com/w/page/49260024/Home

・まとめ。
・米国では、RDAにしろ目録業務にしろ、そのマニュアル化と知識共有に熱心(研修体制のシステマチックさもそう)。とはいえ、ひとつひとつのツールやコンテンツが過剰につくりこまれているというわけでもない。(←ここが非常に重要というか、我々反省すべき。)
・RDA導入は、MARC環境下ではさほど影響大きくないが、書誌フレームの刷新を見据えた取り組みが始まっているといえる。


 全体の感想として。
 質疑応答のところで、なんだかやたらと「ほんとにRDAみたいなわかりにくい構成の目録規則で、実際の目録がとれてるのか。現場のカタロガーは文句言ってないか、ちゃんとやれてるのか」的な質問ばかりが出てたんだけど、今回のお話全体を聞いてだいたい察しがつくとおり、RDAはAACR2にくらべて構成や内容や方針がかわったとかそういう問題ではまったくなく、”違う存在”になった、ととらえるのが適当なんでしょう。AACR2の後継として作られたという経緯はあるにせよそれはもう関係ない、いままでAACR2使ってたのと同じノリで、実際にデータを作成しますよというような現場のカタロガーが、現場のツールとして手もとに置いてくびっぴきで使う、というような存在じゃなくなった、でいいんじゃないかなって。それが必要な人は、かつてのAACR2と併用でだましだまし使ってください、程度のことしか想定されてないんじゃないか。
 それは、時代が変わったイコール、メタデータを作るという行為が、その役割(業務)が、カタロガーの存在意義が、いままで通りではなくなった。もっというと、人間とデータというものとの関わり合い方がもはや随分と変わった、ていうことなんでしょう。RDA検討当初の時代からだって結構変わったろうし、これからさらに加速度的にガンガン変わるんだろうし。
 だから、ほんとの意味でRDAとかBIBFRAMEとかに今後取り組んでいくのは、現場のカタロガーや目録専門家ではなくて、システムライブラリアンとかプログラマーとかシステムエンジニアの人たちのほうだろうし。もっと言うと、日本のNDLやNACSIS-CATにそれらが実装できるだろうかどうだろうかみたいなことをうんうん唸りながら考えてる間に、どこかしらの誰かしらによって、それチックなwebサービスみたいなんがぽこんっと産み出される、ていうことになるんだろうなという予想がつくなあ、っていう。

 というわけで、目録規則は、ていうか目録は、もう現場のモノでも一部の人のためのモノでもなくなりました、ていう「いわゆる”目録規則”終了のお知らせ」を聞いてきたんだなあという気がしています。うん、そりゃまあ、構成がわかりにくいとかは問題にならないか。

posted by egamiday3 at 20:36| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年07月23日

(メモ)「図書館学教育・研究にたずさわって(仮題)」 #佐藤翔 @同志社大学


「図書館学教育・研究にたずさわって(仮題)」/佐藤翔(同志社大学)

図書館学教育研究グループ研究例会
2013年7月20日(土)14:30 -
同志社大学 司書課程資料室

 「#佐藤翔」という身も蓋もないハッシュタグが瞬間的に関係者をざわつかせたイベントを、聴きに行ってきました。
 後輩の人がまともなtweetをしてくれてたので、あたしはもっぱら周辺情報かちゃちゃを入れるかだったのですが、その当日の様子のまとめ↓。

●佐藤翔物語( #佐藤翔 のまとめ) - Togetter
 http://togetter.com/li/536420

 業績が潤沢すぎて紹介してもらえないとか、yuki_oに言及するときは必ず「仲がいい」という枕詞がつくとか、そういう小ネタは上記の通り。

●佐藤翔 - 研究者 - ReaD & Researchmap
 http://researchmap.jp/min2fly/

 プレゼン自体は、彼のプライベートな生い立ちもあり、でもメインは、上記にも掲載されている彼のこれまでの研究業績を概観し、特に博士論文の内容について詳しめに概説する、という感じでした。プラス最後に、これからやっていきたい研究と、大学教育にあたっての想い、みたいなのを。

 全体的にざっと聞いてみて考えたことですが。
 この人があちこちにばらばらとたくさん手をひろげているのの、その芯のあたりにあるのは、「人と資料・情報をつなぐ」ということを「環境」のほうからアプローチしようとしてる、っていうことなんじゃないかなあたぶん、と思たです。
 ふたこと目には「自分には実務経験がない」的なことを言わはるんだけど、けど、「こうしたい」「こう考えたい」「これを知りたい」と言うてはるそのさまざまの上のほうに掛かってるのは、我々実務者(?って言っちゃっていいのか)と想いは同じ、「人と資料・情報をつなげたい」というのがある。同じ、ていうか、結構強く濃く見える、そのへんのポンコツ職員なんかより全然。
 同じなんだけど、でも、例えばあたしなんかでも「人と資料・情報をつなげる」ことを考えたり想ったりするときに、具体的にこの人とこの資料を、とか、もっと引いた画で見たとしても、こういう利用者層にこういう資料群を、実際にどうつなげるか、力尽くでも引っ張ってくるか、みたいなイメージがあるんだけど。でもたぶんこの人はそんな引っ張ってくるようなつなげかたというよりも、そのための「環境」のあり方を明らかにして、どうすれば人と資料・情報が”力尽くでなくても””つながってくれる”かどうか。そのために、じっと目を凝らして利用者と利用行動とその環境とを見よう見ようとしてはる、んじゃないかなあって。もうこれはごめんなさい、当人にとって当たってるか当たってないかはそれほど関係なく(笑)、そういうふうに思たですよ。
 リポジトリへのアクセスのされ方のこれでもかというような分析とか。利用者が複数の情報源を使い渡る様子を調べたいとか。排架と発見の関係を実験するとか、そういうの。

 そういうのの調査・分析結果を、実務の現場で活かしてもらえるように還元したい、って言うてはるわけだから、これはこちら側もちゃんとはらを据えて受け止めて、活かしていく態勢を持たなきゃアカンだろう、と思いを新たにした感じです。我々の問題です。そんな、実務者になると学術情報流通への興味を満たし続けられない、的なかなしいことを言わせてる場合じゃないですってマジで。

 一方で、教育への思い的なものについては、一転して実務者っぽい語りだったので、それはそれでおもしろかった。今度はそのへんのもっと大きな語りもうかがってみたいと思いました。いまの自分が一番考えたいことのひとつでもあるので。

 ラジオで、とか。


posted by egamiday3 at 07:52| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年07月16日

トークセッション「新資料館に期待する」にて、極私的・心に残ったいくつか メモ (#総合資料館TS)


 京都府立総合資料館で行なわれたトークセッション「新資料館に期待する」(2013.7.14)に、発話者という立場で登壇し、いろいろ発言&ディスカッションしてきました。

●総合資料館開館50周年記念 トークセッション「新資料館に期待する」
 http://www.pref.kyoto.jp/shiryokan/50shunen_talk.html

●#総合資料館TS 50周年記念・京都府立総合資料館に期待する トークセッションまとめ(2013.7.14) - Togetter
 http://togetter.com/li/533629

●USTREAM: KPLA: 京都府立総合資料館の開館50周年事業を配信します。
 http://www.ustream.tv/channel/kpla

●2016年、京都から知的生産インフラの世界を変えていく!(総合資料館会館開館50周年記念トークセッション「新資料館に期待する」参加記録) - かたつむりは電子図書館の夢をみるか
 http://d.hatena.ne.jp/min2-fly/20130716/1373980345


 いや、純粋に楽しかった。楽しかったし、勉強になった、なかなかここまでそう言えるイベントにはそうはありつけない。

 当日の全貌は上記もろもろをご参照いただくとして、自分的に、ああこれ大事、これ要確認、など心に残ったいくつか・メモ。


・明らかにまとめるのが困難な、かたつむり殺しイベントだった件。

・資料保存には、目録・メタデータ作成による可視化が不可欠&有効、ていう話をしたです。
・文化資源・学術資源の危機や提供・運営のあり方の変容は、一政治家の問題ではなく、全国共通の問題であるということ。これはしっかりと自覚しておくべき、社会のあり方は我々の”総体”が動かしているはずのもの。
・MLA連携、ていうと、なんか骨太な連携や専門性の高さをイメージして身構えちゃうor身構えられちゃう傾向にないだろうか、っていうのをちょっと思う。あまり大きくないレベルでいいし、身構えなくていいから、もっと小ぶりの日常レベルでゆるい連携してもいいじゃないか、って思う。わからないところをちょっと教えてもらいに軽く電話やメールするとか。で、そのためのツールとしてのざっくりしたメーリングリストってないかな、ないよな、っていうのがmin2flyさんからも提唱があって、それは確かにあったほうがいいよなあ、って思う。そういった意味では(”そういった意味では”)drfのMLはその線を行ってるよな、と思う。
・今回出たMLA連携の課題は、M・L・Aの問題にはまったくかぎらない、ということ。企業、開発者、NPO、学生、寺社、云々とも。
・発話者の松岡さんの「おもしろばなし」という概念が気になっている。
・東工大の博物館では、定年後の図書館職員に再雇用で来てもらって、資料にあたってもらっている、とのこと。イイね! これが再雇用でなくて現役の横のつながりができていたらもっとイイかも。

・街と文化資源。昭和戦後の話を語れる生き証人がいなくなってきている、という危機感について、京都市景観・まちづくりセンターの方。また、”資料”は街・土地にたくさんあるはずなんだけど、その存在がわかっていない、可視化されていない、という問題の指摘も。
・日経新聞の方からの指摘。こういう問題は世間一般の人にはまったく理解してもらえてないと、自覚するべき。理解してもらうために、何かしらの目に見える成果をアウトプットしていくことが必要。←これは自分でもまったくその通りだと思う。で、世間一般の人たちの理解を得るのに必要なのは、我々自身がまずその世間一般の人たちのこと、ユーザのこと、社会の動きや世界のあり方のことをちゃんと理解して、真摯に向き合い考えること、だとあたしは考えている。多くの人たちの目に触れる場所はどこなのか。どういうポイントをどう示せば相手の目に、心に届くのか。そうすることで相手に何がもたらされ、自分に何がもたらされ、結果社会全体に何が起こるのか。思い込みや既存の枠組みをとっぱらって、ユーザ・社会を真摯に見つめないと
・公共図書館と大学・研究図書館の融合。ていうか、ヨーロッパの中規模くらいの街だと、そこの市の中央図書館と大学図書館が兼ねられてるっていうパターンをよく見るよね、という話をしました。そのへん、なんでもかんでもブレイクスルーを追い求めようとまでは言わないけど、せめて既存のモデルくらいは考慮に入れたっていいよなあとは思う。
・顧問。定義なんて生産的じゃないんだよ! むしろ、現代の京都をどう遺していくかが課題なんだ! それを社会にどう理解してもらうかがもっと課題なんだ!
・例えば、京都のまちづくり的地域活動している人たちの間でも、総合資料館のことが話題にのぼることはない、という指摘。うん・・・そういうの・・・どうにかしてかなきゃね、うちも・・・。(←身にしみています)
・文化行政から”自然・理科系の文化・学術資源”が抜け落ちてる件への指摘。いま思い至ったけど、そういう意味では”産業・工業系の文化・学術資源”もやばいんじゃないか。

・それにしても第1部に比べて、第2部のフロアのみなさんの饒舌さが尋常じゃない。がんがん手が上がる。第2部のテーマが「新資料館への注文・期待すること」。つまりは、他者への注文や批評って好き勝手言いやすい、っていうことだと思うよね。その「言うだけならタダ」精神っていうのは、すごい大事なことでしょう。そしてしかも、「他者への注文・批評」というのは実は「自分への反省」への裏返しなんじゃないか。だとしたら、こうやって集って、互いに互いへの注文や批評を「言うだけならタダ」で言い合っちゃって、それをそれぞれが持ち帰って自分のとこの見直しに役立てたらいいんじゃないか。
 ・・・だって、このままだとあきらかに京都府立総合資料館だけが最終的に得をして終わってるじゃないか!(笑)

posted by egamiday3 at 22:54| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年07月13日

ざっくりと、知的生産インフラ・知の揺籃インフラとしての図書館について、考えたことのメモ

 メモ程度のあれなんで。

 あるところで、図書館について話をする、という登壇の機会をいただいてるんです。

●総合資料館開館50周年記念 トークセッション「新資料館に期待する」
 http://www.pref.kyoto.jp/shiryokan/50shunen_talk.html
 Ustream: http://www.ustream.tv/channel/kpla
 2013.7.14 13:30-16:30

 まああたしが話すのは10分程度ですけど、ただ自分、まあまあ特殊な立場の図書館から来ましたな感じだし、そうでなくても公共図書館さんにはほとんど関わってないし事情も知らないし、そもそもユーザとしてもまともに公共図書館使ってないしなあ、と思いながら、それでも考え始めると、とても10分では収まらないか、または収まるかくらいの考えがいろいろでてきたので、とりあえずざっくりと、メモ書き程度にちょっと書き残しておく感じです。
 いつものごとく、すごく遠くから大きく見てるパターンですけど。
 これまでの焼き直し焼き直しみたいな感じですけど。

 図書館界隈のことを考えるのに、まあ、これのことをなんとなく考えざるを得ないわけで。

 ツタヤ.jpg
 スタバ.jpg

 まあこんなバズワードっぽいのでなくとも、例えばこのごろだとこちらもわりと話題というか、考えるキーとするべき本じゃないかと思うんですが。

知の広場――図書館と自由 [単行本] / アントネッラ・アンニョリ (著); 柳 与志夫[解説] (その他); 萱野 有美 (翻訳); みすず書房 (刊)

 それからつい最近では、こういうのもちょっと話題になったんじゃないかなって。
図書館に通う 当世「公立無料貸本屋」事情 (単行本・ムック) / 宮田昇/〔著〕

●無料貸本屋でどこがわるい? ≪ マガジン航[kɔː]
 http://www.dotbook.jp/magazine-k/2013/07/09/what_is_wrong_with_free_public_libraries/

 まあ、それぞれにいろいろご意見は出てるだろうし、言われるだろうけど、なんというか、特定の図書館なり、特定のあり方とか考え方みたいなのを、端的に「良い」とか「悪い」とか言ってもあんましょうがないかとは思うんです、どれも一長一短てほどでもないけど、うなずけるところもあれば首をかしげるところもあり、採り入れたいところもあれば反面教師にしたいこともあり、だし。

 じゃあ、どういうところがどんなふうに、うなずけたり首をかしげたりするんだろう、ということをつらつらと考えていると。

 なんか自分的にはこういうふうにキーワードが並ぶんですね。

 ファーストフード的
 エンターテイメント
 アミューズメント
 ↓↑
 公共性
 文教機関
 文化資源・学術資源

 そのキーワードを使って、”問い”を作文してみると。
 すなわち。

 (問)
 公共性を持った文教機関が
 文化資源・学術資源を提供するのに、
 ファーストフード的な図書を無料で貸し与えるという
 エンターテイメント性あふれる
 アミューズメントパークであっては
 何がどう都合がよろしくないのか?

 まあ、自分が「それではよろしくない」と考えるから、そういう問いが立つんでしょう。

 じゃあ何がどうよろしくないのか、って考えたときに、ですけど。

 まずひとつ。
 ”消費”偏重。

 いやもちろん、文化・コンテンツを消費する行動がよろしくないなんて決して思いません、自分だってそれで育ってきたんだし、いまだってそうしてる、否定なんかするつもりまったくない。
 その上で、なんですけど。消費”だけ”しかなくて、その後につながるもの、育成、成長、知的生産へとつながる仕組みが、まったく組み込まれていない、意識されていない、軽視されている、というのは公共の仕組みとしてどうなんだろう、と。
 産業として、ビジネスとして、プロデューサー側としてはそれでもありだと思うんですが。
 でもやっぱり、公共性を持った文教機関が、何らかの公的コストを費やして、社会に対して寄与するモノが、”消費””だけ”、ってそりゃいかがなものかと思うんです。
 そこには”知の揺籃”というインフラが仕組みとして備わっていてほしい。遠回りでもいいから、でも確実に、頼り甲斐のあるものとして。
 それが不在なエンタテイメントでいいんだったら、別にジャスコ・イオンにだってネズミーランドやお台場合衆国あたりにだって転がってるわけだし。

 もうひとつ。
 地域性の軽視。
 あるいは、多様性の軽視。

 地域性を軽視する文化が成熟するとは思えないし、多様性を認めない環境の中で文化・学術が発展できるとも思えない。
 だったら、公共性を持った文教機関の提供するものがどこへ行っても等しく、東野圭吾のベストセラー本とスターバックスのトールラテでいいんですか、ていうことだと思うんです。
 しかもあたし個人が、東野圭吾の小説大好きでほぼコンプリートする勢いで常に読んでるし、スターバックスなかったらとても生きていけやしないし夜も日も明けないというくらいに通い詰めている、というあれで、そんな人間が「それでいいんですか?」て問うくらいだから、ていう(笑)。

 で、この「”消費”偏重」や「地域性・多様性の軽視」をあたしがノーだと、ノンだと、ニエットだと言うとしたら。
 それは、昨今流行りのキラキラ図書館のそれに対して、だけではなくて、従来型の図書館のあり方に対してだってノンだと思うんです。
 つまり、

 (問)
 従来の図書館だったら、
 それをクリアしてきた、と
 胸を張って言えるのか?

 反感を呼びかねない例示かもしれないけど、例えば、郷土資料の提供やそのサービスが年輩の利用者の趣味を満足させる”余暇の消費”のため”だけ”だったとしたら。それはそれでありかもしれないけど、プラス、もうすこし何かあり方を考えてもいいんじゃないか、とは思います。地域資料って何のためにあるんだろう、って。

 例えば、ある市長がおっしゃった、と。
 「この図書館が気に入らない人は、よそへ行けばいい」。

 これはあかんだろう、と思うんですが、じゃあ、これをあかんと言うのであれば、これまでの図書館だってあかんだろう、と思うんです。
 自分たちがイメージする、想定の中だけの”ユーザ像”にもとづいて、図書館のあり方やサービスを設計してなかったか、という反省。
 スタバやツタヤになら、あるいはアミューズメントパークになら来る、というユーザがそれだけの数いるんだったら、従来の図書館はそういう客層の人たちに対して、果たしてどれだけ”ユーザ”として真摯に向きあえてこれたんだろうか、という反省。
 その反省は我々するべきだろうとは思います、やっぱり。

 という、「想定の中だけのユーザ像」への反省、という意味では、最近の話題として↓こちらにつながってくると思うんです。

●CA1790 - 若手研究者問題と大学図書館界―問題提起のために― / 菊池信彦 | カレントアウェアネス・ポータル
 http://current.ndl.go.jp/ca1790

 これに関する自分の過去のブログ記事。

●我々は「若手研究者問題」を観測できているか : #西洋史WG に寄せて: egamiday 3
 http://egamiday3.seesaa.net/article/362795408.html
 図書館はなぜ"支援"をするのか : いわゆる「若手研究者問題」に寄せて: egamiday 3
 http://egamiday3.seesaa.net/article/363278785.html

 大学や大学図書館は、大量の専門資料・専門知を抱えている機関として、社会の中に存在しています。利用対象者がどう、コストがどう、という問題は確かにある、あるにせよ、事実、社会の中に存在しています。別に切り離されて存在しているわけじゃない、これは自覚しないといけない。

 じゃあ、社会の中で専門資料・専門知を必要としているのは誰か?
 上記のカレントアウェアネスの記事では、いわゆる「若手研究者」が必要していると言う。
 また別の人は、いやこれは若手云々の問題じゃない、「在野の研究者」全般に言えることだ、とおっしゃる。
 いや待てしばし。在野かどうか、研究者かどうかすら問題じゃない、世の中には何かしらの「専門家」が、分野・職種・業界を問わず山のように存在しているはずで、しかもほとんどが大学というものに所属しているわけじゃない、その人たちだって専門資料を必要とするでしょう。
 そこまで考えると、身分として専門家かどうかはもはや関係ない、何かしらの事情・都合・必要性でもって、専門資料・専門知を利用することが求められる人たちがいる。いまどきは特にそうじゃないでしょうか、不況、ビジネス、エネルギーや原発、災害・危機、参院選、医療や福祉、文化の危機、地方の危機、それをとりまくインターネット、ソーシャル、ビッグデータ云々かんぬん。

 つまり、これはまあ私のざっくりとした推計でしかありませんが、大学・大学図書館の持つ専門資料・専門知を必要とする人たちというのは、軽く見積もっても、日本国内に1億2500万人くらいはいるんじゃないかな、って思うんです。

 そんな中にあって。

 (問)
 公共性を持つ文教機関が、
 文化資源・学術資源をもって
 社会・人類を”支援”するにあたり、
 ユーザ像を限定する、のはアリなのか?

 という疑問を持つわけです。

 これについては、たぶん大方の関係者の方がこう考えると思います。
 「公共図書館を整備すべき」
 これはおっしゃる通りです、理屈としてはこれ以上のものはない、私もそう思います。
 ただ、そう思うと同時に、現在の日本社会のありさまを考えたときに、こういう疑問も抱かざるを得ないわけです。

 (問)
 公共図書館と大学図書館の両方に
 似たような機能を重複させるだけの”余裕”が、
 いまの日本社会にはあるのか?
 
 もうひとつ。

 (問)
 ていうか、
 いまの日本の公共図書館は
 そんなに”使えない”のか?

 例えば、個人的な経験で言うと、公共図書館の職員の方と電話で話してて「アイエルエル? それ何ですか?」と言われることが、ちょっとビックリするほど珍しくなかったりとか。あるいは、「区立にも市立にも県立にも国立にも、卒業大学の図書館にも全部断られたんです」という一般の方が電話してくるとか。

 社会における「知的生産インフラ・知の揺籃インフラの不在」という問題。
 我々が、どんな場所のどんな性格のどんな種類の図書館にいるんだとしても、この問題に対して無関係ではあり得ないし、無関心・無自覚ではいられないし、ていうか無関係でいいって言うんだったらこんな職業いらないでしょう、って思います。

 それは、「知的生産インフラ」というものによって、「文化資源・学術資源にもとづき、理性的・科学的に思考・判断して、社会・未来を築く」ことが、我々人類にとって必要なことだから、なんだと思います。

 まあ、ざっくりとですけど。
 半年もすればまた考え変わるかもしれませんけど、とりあえず。




 ・・・・・・え、10分?

posted by egamiday3 at 20:33| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年07月10日

あ、これって◯◯なんだー、ということが見つかる仕組み : 京大OPAC・KULINEさんの場合


 京都大学さんのOPAC、KULINEと呼ばれてますが、そのKULINEの新しい機能として、講義の教科書・指定図書がその講義名や先生の名前で検索できるようになった、そうです。

全学共通科目のシラバス指定図書がKULINEのタグ機能で検索できます!
http://www.kulib.kyoto-u.ac.jp/modules/bulletin/index.php?page=article&storyid=1246

 20年前のうすぼんやりした京大生だった自分にとっては、教科書と言えば吉岡書店で買うものと相場が決まってたあれでしたが、いまの勤勉な学生さんにとってはやっぱりこうやって見つかることが大事なんでしょう。
 たとえば、健康科学の森谷先生のレポートそろそろ書かないとなあってなって、KULINEで「健康科学 森谷」で検索すると、ヒットする、と。なるほど。
 http://m.kulib.kyoto-u.ac.jp/webopac/ufirdi.do?ufi_target=catdbl&ufi_locale=ja&pkey=BB01065052

 京大の人からきいたところでは、国内では初めての実現だとおっしゃってて、それがほんとかどうかはちょっとわかりません、そこはお詳しい方に教わりたい。
 でもまあ初かどうかは全然別にして、これすごいなあというか、たいへんだろうなあって。

 図書館の目録・蔵書データベースなり業務システムなりって、書誌情報と所蔵情報以外のメタデータなんか、あまりはなっから設計されてくれてないっていうか、無理に扱おうとしてもポンコツだったりするじゃないですか、自分もそれをなんとなくわかってるから、やるなあって思たです。

 「21世紀はメタデータの世紀だ」って、ユージン・ガーフィールドさんがおっしゃったか、あるいはおっしゃってないか私は知りませんが、もしそうなら、こういう書誌情報でも所蔵情報でもないメタデータの整備と設計って、もっともっと、真摯に取り組まなきゃいけないんだなあ、資料・情報とユーザ・社会とを結びつける役割を持つ我々、って。

 あと京大の人がおっしゃるには、いまは実現できてないけどほんとは、検索結果一覧にこれが教科書・指定図書だっていうアイコンなりマークなりタグなりが表示されて、見つかりやすいようにしたいんだ、っておっしゃる。
 それをきいて、あっ、て。あっ、て思たです。

 そりゃそうです、20年前のぼんやりした自分だけでなくいまの学生さんだって、正直、自分のとってる正式な科目名だの教授の名前だの、ひとつひとつどれも正確に覚えてるわけでもなんでもない。「図書館情報資源概論」みたいなだらだらした戒名みたいな、あるいは「情報メディアの活用」みたいな無個性なお役所用語みたいなの。ましてや教科書を買わずに図書館で借りようとしてるノリの科目です、覚えてるわけがない。
 それをOPACで見つけようとしたら、うろ覚えのキーワードでざっくりヒットしたリストの中から、マークが出て、ああこれなんだなってすぅっと手がのばせるようでないと、ていうのがたぶんひとつ。

 でももっと大事なことには。
 「○○で検索できる・ヒットする」ということと、「○○であることが一覧でわかる」ということとでは、システムや仕組みは大した差でもないかもしんないけど、それが届くユーザのあり方のほうには千と千尋ほどの違いがあるよなあって。
 かたや、科目名・教員名で検索できるという、ピンポイントな要求を持ってる人にとっての見つかりやすさ。
 かたや、なんやわからんけどなんとなく検索してみたら、たくさんの情報が載ったリストの中に、これは教科書だよ、っていうのが見つかった、という見つかりやすさ。
 後者は、うろ覚えな人にも届く、というよりはむしろ、それと意識せずに探索してる人に対して新たな評価・選別の手がかりを与える、ていう。

 これはもう教科書かどうかってことは関係ないです、この仕組みが実現するんであれば、「文学部の先生が選んだ学生に読んでほしい100冊リスト」の類とか、「司書の誰それセレクト」とか、「今週の新着」「新聞書評」「夏の参院選候補者」「最近のニュースに関連した」でもいい、司書の書いたPOPを貼れるのでもいい。なんなら「東大教授が新入生に読ませたい100冊」が京大OPACの検索結果リストにアイコンで表示されたって全然問題ない、むしろ大歓迎、京大仕事しろって話。
 そういう、書誌情報でも所蔵情報でもないメタデータが、なんとなく検索して眺めてる人の目にも触れる場所=検索一覧画面に、ビジュアルに出る、ていう。

 「21世紀は評価・判断のアウトソーシングの世紀だ」って、これこそ誰かが言ったか言わないかわかんないけど、まあそれが良いか悪いかの問題はあるにせよ、自分以外の誰かが何かしら評価・フィルターを示してくれないことには、情報洪水の中から選べやしないし、それにかけられる時間的コストも金銭以上にもったいないし、じゃなきゃもはや情報探索なんてやってらんない、ていうのが残念ながら大方の正直なところでしょう。そういったタイプの大方のユーザに"届く"仕組みの提供、というイマドキの役割みたいなの。

 それが、最近ちょっと話題に出てた「ディスカバラビリティ」の話につながるんでしょうけど。

日本の電子書籍、普及の課題は「ディスカバラビリティ」 -INTERNET Watch http://internet.watch.impress.co.jp/docs/event/20130708_606696.html

(ディスカバラビリティって言葉ほんとにあるの? あと、ファインダビリティとはやっぱちがうの?といういくつかの疑問は置いといて。)
 
 そういう話になると二言目には「レコメンド」になっちゃうんだけど、いやそれもあってもいいんだけど、機械計算やざっくりした集合知にすぐに頼っちゃうんじゃなくてもうちょっと手前の、何かしらの"文脈"をもった目と手による評価選別の提供ができる仕組み、というのをまだまだ噛んで舐めて味わってもいいんじゃないかな、っていう。
 そういうことを思たです。

 でもまあたぶん、そういう仕組みってどっかで何かしら考案されてて、不勉強なあたしが知らないだけだと思うんで、そのへんは、それ系に詳しい他の図書館系ブロガーさんにおまかせします。おつなぎします。

 こちらからのステマ(!?)は以上です。

 あと、毎年毎回シラバス情報をもとにタグを入力する現場のみなさん、おつかれさまです。m(_ _)m


posted by egamiday3 at 08:28| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年07月08日

極私的京都上ル下ル 日野・法界寺

 6月のある日。
 日野の法界寺さんを訪ねました。

 日野は、鴨長明が方丈の庵に住んでたところでもあるし、親鸞の生誕地でもあります。
 もうすぐそこが宇治市境というところ。

 JR・地下鉄六地蔵駅からバスでことこと15分くらい。
 住宅地の中にひょこんと建っておられるのが見えます。
 お隣は保育園です。

IMG_5922.jpg

 法界寺は、別名を日野薬師とも言います。
 平安後期、日野家の日野資業が薬師如来像をお祀りしたのがお寺の始まり。
 なので、日野家の菩提寺です。

 その薬師堂も境内にあるんですけど。
 主役級なのは阿弥陀堂さんのほうです。

IMG_5923.jpg

 阿弥陀堂。
 国宝です。
 末法思想が流行ったころに、極楽浄土をここに再現させるべく建てられた、ていう典型的なやつ。
 平等院鳳凰堂さんとかもそうなんでしょうけど、ここの阿弥陀堂さんも、これを以て「阿弥陀堂建築」って言ってるようなくらいのもんです。

 檜皮葺。
 五面五間の真四角。
 決して高い建物ではないはずなんですが、でも、真四角なこともあって、また境内がそんなに広くはないから間近で見ざるを得ないこともあって、重くずっしりとした安定感のある真四角を見上げてる、という感じになります。

 寺務所でチャイム鳴らすと奥から住職らしい人が出てきて、お金払うと、阿弥陀堂を開けてくれます。左側から入ります。

 阿弥陀堂内は撮影禁止です。
 写真はないので、ネットで探してください。

 真ん中に阿弥陀如来像。
 国宝です。

 ああもう、一目見てわかる、まぎれもない教科書のような定朝様式。
 定朝的な。あまりに定朝的な。
 ていうか、この阿弥陀像を以て「定朝様式」を定義してるようなくらいのもんです。

 ふくよかなお顔。表情、印、座り方、蓮華の座、光背、薄汚れた金箔。
 このまま極楽浄土へつれてってくださるのでしょう。
 そうでしょう、わかります、そんな優しいお顔をしてはります。 

 光背がまた高くて立派で、しかも薄くて。
 透かし彫りというよりほとんど線描画なんじゃないかていうくらいで。
 そこに天女さんがいたりするから、もう、浄土は目の前ですよね。

 その阿弥陀さまが鎮座ましましてる内陣がまたすごい。
 いや、むしろこっちが主役と言っていい。これを見に来ましょう。

 相当に劣化してます、黒ずんで茶けて掠れて剥がれておおむね消えかかってるんだけど。
 それでも、ああ明らかに此処にその絵が描かれてたんだな、というのが。
 うっすらと、でも、ありありと、見えます。

 上には優雅に飛び交う天女さんたちの絵。
 これ、実際飛んでますよね、ていうくらいにリアルな飛び姿勢の。
 住職がさっき扉あけたときにあわててかたまったでしょ、だるまさんがころんだかこれは、ていうくらいの。

 柱は曼荼羅。
 全部真っ黒ですが、でも、確かに描かれてた跡が見える。

 正面に座って見上げる。
 リアルには、薄暗い光の中の薄汚れた仏像と劣化しまくった曼荼羅と掠れまくった壁画。
 でも何の苦労もなく、ちょっとの想像力だけで。
 輝く阿弥陀さまと、真っ赤真緑のぎらぎらした曼荼羅と、ふわふわ飛び交う天女の姿がありありと、やすやすと目に浮かぶ、ていう。

 ありましたね。極楽が、ここに。
 1000年経ってモノクロにはなっちゃいましたが、まちがいなくここに再現されてましたね。
 ヴァーチャルなリアリティの極楽が。
 そりゃまあ、祈らざるを得んでしょう、ていう。

 境内の池は一面の蓮。
 極楽でしたね。

IMG_5924.jpg

 日野は親鸞聖人誕生の地でもありますので、裏手には誕生院というところもあります、これはまあ昭和のもの。
 あともうちょっと裏手には、日野家の御廟所もあります。
 さらに裏手の東山をトレックするのに吉らしくて、案内しますよっていう看板を出した民家の人とかがいます。

 ただまあ、新興住宅みたいなのがどんどん増えてる感じっぽくて、ちょっと行けば近年製の量産っぽい家がずっと並んでるかんじになります。
 駅前にでっかいイトーヨーカドーがあったのもむべなるかな、ていう感じです。
 
posted by egamiday3 at 21:57| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年07月02日

(メモ)『大学出版』no.95 「特集・大学図書館の現在と未来」を読んだメモ


『大学出版』
no.95(2013.7 夏)
「特集・大学図書館の現在と未来」

●「九州大学における知の公共化の取り組み」
 九州大学の、というより、日本の大学における知・情報のマネジメント(=ライブラリ)についての現時点における必須な概説、的なもの。
 まあよそでも語られてることなのかもしんないけど、それでも、グランドデザイン的なものの築き上げがすげえ強固で、ここから立論していきましょう日本の大学図書館は、という感じ。たぶん、図書館を”手段”ではなく”目的”としてとらえている限りここへは喰い込んでいけないんじゃないかなあ、という試金石的な意味でも。

●「大学図書館はどこへゆくのか : 慶應義塾大学メディアセンターに見る現状と課題」
 何の現状と課題かといえば、e-resourceについて。そのマネジメント(実務的なというよりも経営的な)について。日本語・日本製e-resourceはいったいどうなっとんねん、ていう怒りを隠しつつも抑えきれない感じが涙を誘う。「日本語コンテンツの必要性を強く感じながらも教育用の電子的商品が十分にない現状では、図書予算が海外版元に大量に流出し続ける事は否めない。」

 他に、「大学図書館と二一世紀型スキル : 武庫川女子大学の取り組み」や、「図書館はなぜ"支援"するか : 日本の図書館をとりまく世界」というどこかで見たことのあるようなのなど。

posted by egamiday3 at 21:51| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

事務連絡:「なつのとも2013」blogを開始しました。



 なつのとも、始めました。Work & Write.

 「なつのとも2013」blog
 http://egamiday2011summer.seesaa.net/

posted by egamiday3 at 07:27| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年07月01日

(メモ)「日本古典籍デジタル化と活用 : その行方をめぐって」@立命館大学ARC(20130628)


※註:この記事よりも以下↓を見てください。
・古典籍総合データベース―デジタルアーカイブの意義と将来(〈文化資源情報を考える〉 日本古典籍デジタル化と活用―その行方をめぐって) Part1 - xiaodong's memo  http://xiaodong.hatenablog.com/entry/2013/06/29/131333
・ドイツ語圏の古典籍データベース利用事情とベルリン国立図書館のデジタル化プロジェクト(〈文化資源情報を考える〉 日本古典籍デジタル化と活用―その行方をめぐって) Part2 - xiaodong's memo  http://xiaodong.hatenablog.com/entry/2013/06/29/210823

※註2:早稲田さんの話は、遅刻のためほとんどUstreamでのみ聴いた話(=生のではない)です。

立命館大学大学院 文学研究科 行動文化情報学専攻 「文化情報学専修」設置準備企画連続講演会 第2回〈文化資源情報を考える〉
2013年6月28日
立命館大学アートリサーチセンター
http://www.arc.ritsumei.ac.jp/lib/GCOE/info/2013/06/post-97.html

1.「早稲田大学古典籍総合データベースの場合」藤原秀之氏(早稲田大学図書館特別資料室調査役)
2.「古典籍画像データベースを利用して−併せて、ベルリン国立図書館のデジタル化の現状の報告−」クリスティアン・デュンケル氏(ベルリン国立図書館東アジア部日本担当司書)
3.「対談 日本古典籍デジタル化と日本研究の行方」(司会・赤間先生)

・第1回「対談:デジタル環境下の図書館、デジタル・ヒューマニティーズ と日本文化研究」(http://egamiday3.seesaa.net/article/367698140.html)に続いての第2回という位置づけ。
・デュンケルさんは6月の天理大学古典籍ワークショップに参加。それきっかけの開催とのこと。
デュンケルさんとはEAJRS2011ニューカッスルで面識有り。


●「早稲田大学古典籍総合データベースの場合」(藤原・早稲田)

・保存と公開の両立のための、原本代替資料としてのアーカイブの構築が必要である。
・早稲田ではそれを、「古典籍総合データベース」として実現する、ということ。
・2004年始動、2005年ホームページ公開。

・背景
・オンライン目録が整備され、いつでもどこでも誰でも古典籍の原本の所在が知れることになった。→ニーズが生まれる。
・昨今「和本リテラシー」が叫ばれる。→和本を実際に見られることの大事さ。
・本DBでは、「近現代出版物以外はすべて対象」という方針。全学約500万冊中30万冊が対象となる。
・電子化する対象資料としては、分野を特定して選択しない、という方針を持つ。(使われそうか使われないか、ニーズの多そうな分野かどうか、まとまったコレクション/名のあるコレクションかどうか、は無関係。)
・電子化を機に、目録・書誌を現物ベースで取り直した。
・分野を選ばず網羅的に+目録の取り直し→これにより、新しい発見が続出した。
・研究者が”原本代替”として満足する程度の精細画像が必要。
・既存のOPACで統一して検索できるようにする。
・撮影委託は東京都板橋福祉工場(NDLの委託先と同じ(?))
・外部からのアクセス制限をしない。これが本DBが好評を得ている主要因。早稲田に現物があることが知られる、どこからでも誰からでもアクセスできる。非研究者にも。他分野の人にも。その存在に気づかなかった人にも。ダウンロードもできるようにして、自由に使ってもらえるようにする。
・月100万から多い時で200万アクセス。掲載・放映等への申請が年間約6-700件(デジタルで処理できるので現物利用制限できる)
・デジタルアーカイブは、作って終わりでは"死蔵"になる。活用と蓄積の複合型。
・今後の希望。そのデジタル化資料を利用した上での資料研究・研究成果・発表の場をも、このデータベースのうちに設けられないだろうか。

●「古典籍画像データベースを利用して−併せて、ベルリン国立図書館のデジタル化の現状の報告−」(デュンケル・ベルリン国立)
・ベルリン図書館の日本担当の専門研究員(教育・研究・サービス・電子化などを幅広く手がける)
・立命館大学に留学経験あり、都名所図会の研究。
・ドイツ語圏(ドイツ・オーストリア・スイス)の日本研究は、18大学、専任教員45人、スタッフ入れても200人程度。古典籍を利用するのは15-20人くらいか?
・日本の古典籍画像データベースは、研究者・学芸員・司書等が利用する。
・例えば、所蔵・寄贈受入などの日本の古典籍について、書誌調査・メタデータ作成をするのに、参考図書・ツールが充分でない。そのため、古典籍データベースの類を参考に調査する。(書名、人名の解読、内容など)
・ベルリン国立図書館についての紹介動画
http://www.youtube.com/watch?v=qF8DYaN2IoA
・図書館内にデジタル化センターがある。デジタル化プロジェクトはインハウスで行なう(館内のスタッフと機材)。
・同館東アジア部はスタッフ21人。(日本6.5人、中国7人、ほか韓国・中央アジアなど)
・東アジア部全体で年間25000冊増。日本で年間6000冊増・雑誌1500タイトル。
・ドイツ国内だけでなくヨーロッパ各地にILLを届けている。
・東アジア資料のデジタル化プロジェクト「SSG6,25Digital」(←プロジェクト名)
・このデジタル化プロジェクトはドイツ研究財団から援助金を得て公的な立場で運営している。援助金はスキャナなどの機材、人件費に使用。
・全体で4000件対象。うち日本古典籍は500件(冊数では2800冊)。
・来年4月にすべて終了する予定。
・公開サイトは http://digital.staatsbibliothek-berlin.de/dms/
・目次によるナビゲーション。(←ここ注目。ドイツのサイトの日本古典籍画像に、目次ナビゲーション付きですよ)
・和装本はすべて洋装に製本されてしまっている(註:よくあること)ので、180度きれいに開かない。なので日本の古典籍データベースのように見開き撮影した画像を提供できない。半丁づつ撮影する。
・目録データベースとしても構築・公開できたため、広範囲のユーザからの問い合わせやリクエストを掘り起こしている。(これまでも冊子体目録はあったが、あまり出回っていなかった)
・CrossAsia http://crossasia.org/ ベルリン国立図書館の利用者が日本製e-resourceなどを利用できるポータルサイト。

●「対談 日本古典籍デジタル化と日本研究の行方」
・ARC(立命館大学アートリサーチセンター)のデジタル事業は世界展開的。日本の古典籍にまで予算をまわしてくれる国・大学は少ないため、そこへこちらから出向いて行ってデジタル化事業を行なう。
・ドイツには国内各所に5-6000件レベルの日本古典籍所蔵があるが、それらがデジタル化されるのは難しいのではないか。
・データベース化したあとどう活用するかの問題。
・活用したことによる成果がわかるようにする。データベースを死蔵しないように。
・デジタル化することで、いままで埋もれていた資料にも光が当たったり再評価されたりする可能性がある。だから、それを再び閉ざすような運用は行なうべきでない。
・デジタル化されたものに価値を与えるのは、利用者ではないか。その次の新しい展開を考えるための教育が「文化情報学専修」。
・商業的利用であっても、積極的に活用してもらえれば、資料の価値存在が広く知られるようになる。
・自分たちのわからないところで複製して使われている可能性はあるだろう。ただ、それを規制することによるデメリットのほうが大きいのではないか。
・立命・ARCでは、古典籍画像を使ってのe-book出版に利用料を徴収しないことにした。(←要確認)
・和本リテラシーが叫ばれるようになった、とは言え、利用対象者はまだ少数。デジタル化とネット公開によって使いやすい環境を整え、利用者を増やすことを検討しなければならない。
・デュンケルさんは都名所図会の各版を4-50版レベルで比較研究した。デジタル化された画像を利用した。日本よりも海外で、デジタル画像を活用した和本研究が行なわれるなど、日本海外の差がなく研究できるようになるという変化が起きている。

●感想
・早稲田さんのお話では、長期間のスパンでこのデジタルアーカイブを社会に提供し貢献していくということについての、覚悟というか、肚がすわっている様をまざまざと見せつけられた思いがしました。純粋に頭がさがります、学ばなければならない。

posted by egamiday3 at 22:21| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする