2013年08月31日

日本の妖怪が好きなアメリカの院生さんに進路相談を受けたときの話

 
 この話って、まとまったかたちでどっかに書いたかどうか、もしかしたらこのblogにすでに書き記してるかもしれない(笑)んだけど、まあいいや、ちょっと書き記しておきますね。

 アメリカのある大学図書館に話を聞きに行ったとき、そこで出逢った院生さん(日本研究が専門)に、日本への留学先とか進路的なことを相談されて、それに自分なりになんとなく答えた、っていうときのことの話です。

 その院生さんは「日本の妖怪に興味がある」っておっしゃるんです、日本が好きな海外の学生さんの中には”妖怪(Yokai)”が好きっていう人が結構多いし、学生に興味を持たせるために妖怪関連の日本素材が講義や講習で使われたりするのはちょくちょく見ますし、そういう相談をされるのは別段めずらしい話ではないです。例: http://en.wikipedia.org/wiki/Y%C5%8Dkai
 で、妖怪といえば我が社(笑)なわけで。彼が言うには、webで「妖怪」を検索したら、日文研が一番にヒットした、なのでその先生のところに留学しに行くのがいいのではないかと思っている、というふうにおっしゃる。

 そんな話を聞くと揉み手で対応しちゃいそうなところなのですが、ここで「あれ?」と思ったことには、彼の大学の日本研究は”文学研究”がメインだったはず。それでよくよく注意して話をきいてみると、彼の専門は江戸時代の黄表紙だと。黄表紙の中に現れる妖怪、という扱い方をしたいんだ、と。
 私は、日本の妖怪研究や民俗学にことさら詳しいわけではないですし、大学で専門だったはずの国文学にもだいぶ疎くなってきてしまったので、確かなことを言えるわけではないのですが。ただ、彼のその話を聞いた時点で、あ、これはちょっとヘンだな、という司書的嗅覚のほうは働くわけです。
 つまりこれは、「端的なキーワードでググって、ヒットした結果をそのままとらえて、文字通り以上の意味を読むにいたらない」というパターンだな、ていう。

 なので、あたしは彼に、自分がそのときに感じた違和感をそのまま丁寧に伝えました。あなたが「妖怪」に興味があるとは言え、「妖怪」という言葉で検索した結果、ヒットした研究成果がそのままあなたの興味に合致する、というわけではない。その検索には、文脈とか視点といったものが含まれていないし、学問分野全体のどのような位置づけにあるかといったものがその検索結果で把握できるわけではない。「妖怪研究」と名のつくものでも、歴史学や民俗学からのアプローチもあれば、宗教学もある、絵画美術の研究もあるだろうし、自然・地理、認知心理学的なものだってあるだろう。
 このあたりから、彼の顔つきがちょっと神妙なものに変わってきます。たぶん、理解してくれてるんでしょう。
 あらためて、あなたは妖怪であれば何にでも興味があるのか、日本の田舎の祭礼や儀式のようなものにも興味を持てるのか、それともあくまでも黄表紙が専門なのか、と尋ねると、はっきりと自分は江戸期の日本文学を専門としている、とおっしゃるので、だったら、留学先・進路先としてはそっちからアプローチしていくほうが得策なのではないか、とあたしとしては考えるし、そう伝えるわけです。

 例えば、Readとか大学公式サイトの研究者ディレクトリ・シラバスのようなところに、たまたま「妖怪」とか、自分の興味のある単語が記してあったとしても、それがその研究者の研究実態を反映しているとは限らない。たまたま書いたとか、事務的に書かされたとか、更新されてなくて古い、とかいうことはいくらでもある。それで判断してしまうよりは、たとえばその研究者個人のページを探しなおして、最新の研究活動を確認するとかのほうがいいのではないか。また、CiNii Articlesに収録されているような論文の論題からなら、ある程度その研究分野やアプローチのされ方も詳しめにしぼりこめるだろうから、自分の研究・志向するテーマに近い具体的な論文をまず探してみて、その著者にあたってみる、というほうがよいのではないか。
 もちろんそれらが妥当でないこともあるでしょうけど、少なくともざっくりとしたググりよりはよっぽどあたりがつけやすいんじゃないかって、思うんです。

 調子に乗って一般論的なことも言っちゃうと。
 いい研究者がいい指導者とは限らない。また、いい指導者であっても、その先生やその大学が、留学生の受入・指導に慣れているか、環境や制度が整っているかは別の問題。それ以前に、住む街自体はどうなのかっていうのも、国を越えて勉強しにくるときには重要な問題になるはずです。
 そして、幸いにして江戸文学なら日本での研究者人口はかなり多いはず、というわけで、どの先生がいいか、もさることながら、大学の受入体勢の良し悪しで選んではどうだろうか。残念ながらそこまでの詳しい情報はあたし自身は不勉強で持っていないんだけど、でも、そういった情報の蓄積っていうのは、米国内にいる、日本留学経験のある、江戸文学専攻の先生や先輩こそが持ってるんじゃないだろうか。どう? と聞いてみると、うん、確かにその通りだ、と彼は深くうなずきなさるので、ああ、たぶんこのあたしのアドバイスはそんなに外れてはいないんだろうな、とちょっとホッとするわけです。

 ごめんなさいね、いまあたしが思いついてあなたにお話したのは、決して日本での妖怪研究や江戸文学研究の実態を熟知した上でのお話ではありません。専門に根ざしたアドバイスではありません。ただ、日本で司書職に就く者として、あなたに必要そうな情報の探し方と解釈の仕方について、ちょっと気になったので言ってみました。専門のことは専門の先生から丁寧に話を聞いてみてくださいね。
 というようなエクスキューズを、医薬品のコマーシャルのように付け加えておきましたが、まあ、ある程度得心したような表情で理解してくださったようなので、よかったんじゃないかと思います。

 というようなことがあったので、ちょっと記しておきました。
 そしてこの考え方はたぶん、他分野他用途の検索や情報収集、論文探しや就職先探し、家電や旅先のごはんやさん探しでも、まあまあ通じるんじゃないかなあ、とは思います。





 ・・・あ、念のため。全部日本語で会話してましたよ?(笑)
 
posted by egamiday3 at 12:05| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年08月26日

わたしが「秘書のおばさん」じゃなくなっても (名古屋大学「知る・識るワークショップ」参加メモ)

 
 名古屋大学さんで開かれた職員向け研修「知る・識るワークショップ」(2013.8.23)に講師として参加してきました。そのことにからんでちょっと書きます。

 このワークショップは、名古屋大学の大学職員をメインターゲットにした研修企画で、当日は事務職員・図書職員のほかに、院生さん、教員の先生、URA部署の先生などが参加されてました。全体で15-16人くらい。名古屋大学図書館内のラーニングコモンズでディスカッション・イベントを開く、的な感じでやってました。
 テーマは大学における「研究支援」ということで。
 あたしと、もうひとり金沢大学の方がURA活動の報告をなさってました。
 あたしのプレゼンは↓こんな感じ。

 タイトル
 「図書館の”研究支援”は国境を越えるか?」
 概要
 ・国際日本文化研究センターにおける研究協力活動
 ・海外の日本研究者・学生の実際
 ・海外の日本研究と、それを支援する図書館の機能
 ・海外における日本研究の退潮傾向と、デジタル不足
 ・大学/図書館は、誰をどう支援すべきか、それによって何がもたらされるか

 いままであちこちで書いたりしゃべったりしてきたことのまとめ的な30分でした。
 というよりはむしろ、先に下の2つで書いたこと&しゃべったことっていうのは、そもそもこの「研究支援について話してください」というオファーを受けたことがきっかけで考えたことの産物なので、この名古屋大学企画のほうこそが自分にとっては”母なる泉”みたいなもんです、ほんとは。

 ・江上敏哲. 「図書館はなぜ“支援”するか」. 『大学出版』. 2013.7, 95.
 http://www.ajup-net.com/daigakushuppan
 ・京都府立総合資料館. 「トークセッション「新資料館に期待する」」. 2013.
 http://www.pref.kyoto.jp/shiryokan/50shunen_talk.html

 で、ここまでは前座。
 この企画のメインは(たぶん)後半のグループディスカッションです。参加者全員が2班に分かれて、”研修支援”についてフリーにディスカッションしあう、という感じの企画でした。

 中でも、「秘書のおばさん」という語句(註:ジェンダー的にちょっとあれな語句ですが、前半の講師が提唱したもので、本記事でも「」付きでそのまま使用します)が、今回のひとつのメインなキーワードだったなあと思うので、そのことにからんで大学事務(図書事務含む)についてちょっともにょもにょ考えてました。
 以下、実際にそういう話があった、というよりは、自分なりの考えを中心として記事にしてますという感じで。

 教員サイドとしては、とにかく事務に割かなければならない時間が多すぎてどうしようもない。書類を書かされたり、修正させられたり、そのための準備をさせられたり、重箱の隅をつつきまわされるような対応をされたり、そういうの。
 そういうとき困るのは、ちょっとしたことがわからないときに、ちょっとすぐに聞ける人がいない。ちょっと教えて手伝ってほしいことがあっても、世話してくれる人がいない。前回の書類はどうだったの、何か文例やサンプルはないの、なぜこの書類はよくてこの書類はダメなの、そういったちょっとしたことのアシストがされなくて、その積み重ねが膨大な事務作業の手間となっている。
 その解決のため、かつては「秘書のおばさん」があちこちの学科や研究室にいた。教員・院生・学生たちのすぐそばに、ローカルな存在としてそこにいて、機能してくれていた。その人に頼めば煩雑なことをやってくれるし、ちょっと尋ねれば不明な事務要領なんかもすっと教えてもらえた。
 いまもまだそういう人がいるところもあれば、もういないところもある。もちろん元からいなかったとこもある、文系は特にそう。
 で、どうなっているかというと、事務の組織や業務が、統合化なり一本化なり効率化なりされて、距離のあるところに存在している。すぐそばでもローカルでもないから、ちょっとしたことを聞いたり頼んだりできない。だから、わからない、情報や要領が得られない、何をするにも時間がかかる、研究時間・教育時間が割かれていく。
 そんなんだったら、「秘書のおばさん」がいてくれるほうが、よっぽど助かる。

 ちなみに、この話を聞いたとき、ちょっとびびったです。だってあたしの勤めるところの先生たちなんか、そういうちょっとしたことをガンガンきいてくるし、あたしらももりもりアシストしていくし、それどころか向こうからきかれる前にこっちから「せんせ、これどうすか」って出しにいくし。そうでもしなきゃ、四方八方の海外から来る先生たち迷わせるだけだし。でも、ああそれは環境の違いなんだな、たしかに、大規模大学ってこうだったな、すっかり忘れてたよ、ていう。その忘れ具合にびびった、ていう。

 で、この「「秘書のおばさん」がいりゃよかったのに」系の考えに対しては、まあ反論はいくつもできると思うんです。というのも、なんだかんだ言っても結局仕組み化されてない以上、「秘書のおばさん」のもたらす益はその一時のその場所のものでしかないわけですし、残念ながら。
 例えば、「秘書のおばさん」は、持てるところ(学科・研究室)と持てないところがある。全学のどこにも確実に等しく支援ができるように、統合的な事務組織や機能があるんだ。的なの。
 「秘書のおばさん」の支援は、あくまで個人的経験や個人的力量に裏付けられているだけだろう。いつ、誰が、どんな種類の業務を支援するのであっても、確実にそれが可能になることを保証しないと、的なの。
 そもそも、それぞれで「秘書のおばさん」を抱えられるだけの体力はいまの大学組織のようなところにはないし、コスト的にムダである。だから一本化なり効率化してるんであって、的なの。金も人も時間も足りないんだから、的なの。
 それはまあ確かにそうだろう、と。
 だから「秘書のおばさん」的あり方まで時計の針を逆戻りさせることは、まあムリな話でしょう。いまからは。

 けど、「時計の針を戻せない」からと言って、「秘書のおばさん」的なあり方が実際に生んでた効果・益やその解決法を、頭から否定したり、無視したり、ありえないものとしていま現在のやり方に固執したり、ましてや、無い無い(笑)的な嘲笑、文句あるなら金とってこいよ的な逆ギレ。そういう様子をちょいちょい目や耳にすることがあるけど、そっちのほうこそ無いよなあ、て思うです。それはたぶん「戻せない(or戻さない)」ことへの自己弁護の類なんだろうし。

 かといって、「秘書のおばさん」ならできてたんだから、復活させろ、元に戻せ、っていう強弁も、それはそれで同じくらい無いだろう、と。願い事ひとつ叶うならあの頃に戻りたいって言っても無理だろうし。あと、うちは自腹ででも置く、っていうのも、それはそれで根本的な解決にはなってないし。←実際これ少なくないんでしょうけど。

 そうじゃなくて、いまの事務組織や機能のあり方があります(そうじゃないとやってけません)、っていう前提があるとして、じゃあその上で、その中で、かつての「秘書のおばさん」的なあり方によって生み出されていた効果・解決法を、多少なりとも再現させる、似たものを実現させる、ていうことを考えられないのかな、って、あたしなんかはぼんやり思うんです。
 こっちがあったうえで、そっちをも、ていう。そりゃだって、こっちの上でそっちも、ていう方法が超絶的不可能ってことはないだろうし。ましてや、こっちの上でそっちをも実現させるってことを、やっちゃいけないって誰が決めたわけでもないし。検討はしないよりもしておいたほうがいいわ、って誰か言ってたし。

 ていうようなことをみなさんのディスカッションをききながらなんとなく考えてて、そのときにいくつか浮かんできたイメージが。

 1つめ。大きな総合病院で導入されてきてるという総合診療科的なの。最初にそこに相談に行って、診てもらって、適切なところに振り分けてもらう、ていう。大規模大学の大規模事務組織のどこの誰か顔も分らない担当者をユーザひとりひとりが探すコストかけるくらいなら、ここに行ってこの人に最初に相談したらいい、ていう。URA的なのがそうかもしんないけど、そうじゃなくてもっとこう、敷居の低いというか、炉端的なというか、総合的な「秘書のおばさん」的なの。

 2つめ。昔MSXっていうパソコンがあったですよ、何をオッサンホイホイ的なこと言い出すんだと思われるでしょうけど、あったんです。それで10年くらい前だったかな、なつかしいそのMSXのパソコンを、windows上で再現できますよ、ていうソフトがムックになって発売されたですよ。あたしその時初めて「エミュレータ」ていう言葉を知ったです。ああなんだ、エミュレータのことかよ、と思われたですよね、うん、エミュレータです。いまの事務組織に、秘書のおばさん的機能を、エミュレートする。ていうことをぼんやりイメージしたです。

 乱暴な言い方をしてることを承知であえて言うと、病院やMSXにできて、大学にできないことはないだろう、ていう。
 で、たぶん、日本なり世界なりの大学の事務のあり方や機能や事例や小技なんかを探せば、少なからずそんな事例どこぞにあるんじゃないかなって。

 申し訳ないことに、いますぐ自分に具体的な良案があるわけでもないし、事例がどこぞにあるかって知ってるわけでもないんですけど。
 でも、それを考えることと、探すこと。いや、ちょっとやそっとで解決するようなことじゃないだろうから、じゃあ、それでもそれを考え続けることと、探し続けること。

 言ってみれば、覚悟を持って考え続けること、探し続けること、その行為・姿勢そのものが、大学運営であり、研究支援なんじゃないか、ていう。

 そりゃ「無い無い(笑)」で片付けてりゃそっちのほうがずっと楽なんでしょう、でも、考え続けるという覚悟なしにそれで済ませちゃうんだったら、大学事務なんかべつにマニュアル+バイトだけだってまあまあやってけるだろうし。実際、それに似た仕組みになりつつあるんだろうし。

 ていうところまで考えました、ていう話です。
 いつものように、答えはないです、すみません。

 おわびのかわりに、その他のトピックのメモ↓。

・学内の学科や研究室のあちこちに、まったく手つかずで未整理なんだけど研究資源としては貴重でユニークにちがいない、本とか文書とか記録みたいなものがたくさんのこってる、なんとかならないだろうか、という話が出ました。これはだから、従来型の図書館機能の徹底・充実が望まれているということでしょう、なんだかんだいったって研究支援の基本に立ち返ればそうなるだろうな、ってことは深くうなずける話だと思います、そこがあってこその、それ以上のあれこれ、ていう。
・2-3年でのルーチン異動を、事務職員も「やめて」、図書職員も「やめて」、教員も「やめて」、院生も「やめて」、管理職の人も「やめたい」、って言ってた。あれ、マジで、誰が何の利益を生みたくてやってんのか。それは納税者に説明がつくのか。
・自分の名前で戦える事務員(司書)になろう、ていう話。
・大学事務職員の高学歴化と、高倍率化(人気職化)について。それがもたらす、約十数年後の大学運営の変化について。
JSPSの書類チェックは(略)
伍味酉はたくさんの種類の名古屋名物をいっぺんに楽しめるコストパフォーマンスの高い居酒屋。
名古屋駅の豊橋方面行き在来線のホームにある住吉は、あげたての天ぷらが出るきしめんや。

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2013年08月06日

(メモ)『アメリカに渡った日本文化』

寺澤行忠. 『アメリカに渡った日本文化』. 淡交社, 2013.

アメリカに渡った日本文化 [単行本] / 寺澤 行忠 (著); 淡交社 (刊)

 アメリカにおける日本文化の伝播・普及の全体像を、個々の事項をつぶさに記述することによって描く、というような試みをしている。

 これは自分のためにも人のためにもそうしたほうがいい、と思って↓とりあえず目次ベタ打ち。

第1章 伝統文化(茶道と日本庭園、華道、舞台芸術(能・狂言・歌舞伎・文楽))
第2章 現代文化(アニメ・マンガ、和太鼓、食文化)
第3章 日本美術(ボストン美術館、ピーボディー・エセックス博物館、ニューヨーク・メトロポリタン美術館、フィラデルフィア美術館、ワシントン・スミソニアン・フリーア美術館&アーサー・M・サックラー・ギャラリー、シカゴ美術館、シアトル美術館、シアトル・アジア美術館、サンフランシスコ・アジア美術館、ロサンゼルス・カウンティー美術館、ホノルル美術館)
第4章 宗教(浄土真宗・浄土宗、ほか)
第5章 俳句
第6章 日本語図書(文学作品の翻訳、翻訳事業の促進、日本語図書を扱う出版社・書店、日本語図書館の全米組織、大学以外で日本語図書を多く所蔵する図書館、ニューヨーク・パブリックライブラリー、米国議会図書館)
第7章 日本語教育(日本語教育の重要性、アメリカにおける日本語教育の歴史、日本語教育の現状、日本国内の日本語教育機関)
第8章 大学における日本研究(日本学の歴史、日本学の現状、大学における日本学、ハーバード大学、イェール大学、コロンビア大学、プリンストン大学、コーネル大学、ミシガン大学、シカゴ大学、イリノイ大学アーバナ・シャンペーン校、ワシントン大学、カリフォルニア大学バークレー校(UCバークレー)、スタンフォード大学、カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)、ハワイ大学マノア校、上記大学以外の日本研究者・知日家)
第9章 アメリカ各地の日本文化(ボストン、ニューヨーク、ワシントンDC、シカゴ、サンフランシスコ、ロサンゼルス、ハワイ)

 いくつかのメモ。

・能楽の最初の海外公演は、1954年、ヴェネツィア公演。(『アメリカに渡った日本文化』)
・第二次大戦後の占領下では、歌舞伎は封建的・国粋的とみなされ厳しい検閲下にあったが、検閲係になったフォービオン・バワーズは歌舞伎に理解があり、上演も可能になった。
・アメリカにおけるアニメ・マンガ市場の悪化について。JETROの発表では、アメリカにおける日本製アニメの推定市場規模は、2012年・2億1700万ドルだが、これはピーク時2002年の半分。
・1962年、ロサンゼルスに全米初の寿司カウンターが誕生。
・いまアメリカでは、キリスト教から改宗して禅信徒になったアメリカ人が、修行後に日本の宗門を離れて独自に受戒を行なうなどの動きがある。
・アメリカで俳句への関心が高まったのは、戦後。鈴木大拙が俳句と禅の精神を結びつけて説いたことに影響している。
・コロンビア大学には、日本語教育は文語から始めるべきだ、という教授がいて、文語クラスがある。
・プリンストン大学は金沢に「プリンストン・イン・石川」という自学の研修施設を持っている。

 ただもう、「第6章 日本語図書」「第7章 日本語教育」「第8章 大学における日本研究」あたりは全部が全部、という感じなので(笑)。
 ハンドブック、として。


posted by egamiday3 at 20:39| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする