2013年10月31日
業界コント「もしもマクドナルドみたいな図書館が、閲覧制限だらけの図書館だったら」
※他意はありません。実在・非実在の一切と無関係のフィクションです。
ピンポーン。
「いらっしゃいませ、幕土市立鳴門図書館へようこそー」
「やあ、どうも」
「あ、おひさしぶりです」
「戻ってきましたよ、マクドナルドみたいな図書館(http://egamiday3.seesaa.net/article/158803183.html , http://egamiday3.seesaa.net/article/111499129.html)に。前にいた町の図書館(http://egamiday3.seesaa.net/article/309928500.html)はハードルがかなり高かったですけど」
「本日はお持ち帰りですか?」
「ええ。うちの子がね、学校の調べ物学習で昭和の歴史をやるっていうもんだから、だったらあれがいいんじゃないかと思って。『和田氏のベン』っていうマンガ」
「『和田氏のベン』、ですか・・・」
「そうそう、あの「ガハハ」っていうやつ。私も子どもの頃に学校の図書館なんかでよく読んでたし、昭和史だったらあれがいいんじゃないかなって。この図書館にもあるでしょう?」
「お客さま、たいへん申し訳ございませんが、『和田氏のベン』はただいま”閲覧制限”扱いとなっておりまして、申請手続きによって許可を得ていただく必要があるんです」
「え? 何か問題でもあったんですか」
「はい、一部の市民の方から「あのマンガは子どもに自由に読ませるべきではない」という趣旨の抗議をいただきまして、このような対応をさせていただいております」
「そうなの? 私ら子どものころはみんな読んでたし、問題があるどころか定番のマンガだったと思うんだけど。どんな抗議だったの?」
「わたしも上から言われただけですので詳しいことは存じ上げないのですが、内容が偏っている、とか」
「偏っている?」
「歴史観が、オヤ ジギャグ的過ぎるとかなんとか」
「そんなもんかなあ」
「あとは、一部に残酷で無慈悲なオヤジギャグが描写されているとかで」
「オヤジギャグなんだねとにかく」
「当店といたしましても、7年後のビッグイベントに向けてすこしづつクサいものにフタをする方向に持っていこうという、世の中の風潮を先取りしてみました」
「いや、そこあんまり誇るところでもないだろう」
「なにせ、本家のほうが大口のスポンサーなもんで」
「まあいいけど。じゃあ申請手続きをさせてください。だったら読めるんですよね」
「ええ、まずこちらの「閲覧制限図書特別利用申請書」にご記入いただきます」
「これ書けばいいのね」
「で、そのあとこちらの「閲覧制限図書閲覧理由説明書」、それから「特定歴史分野資料閲覧理由告解書」、「自己責任承諾書並びに裁判沙汰回避了解念書」、16歳以下のお子さまの場合は「ぼくとわたしの保護者監督付き閲覧申請書」・・・」
「え、これ全部書くの?」
「はい、それから添付書類として住民票、印鑑証明、所得証明、現住所が書かれた公共料金の請求書のコピー、祈りを込めて書かれた手書きの履歴書と、その顔写真が無修正であるという写真店の証明書をお願いします」
「その証明いらないだろう。全部持ってきて申請しないと読めないの?」
「そうですね、当店の店長の許可と、幕土市教育委員会の許可と、幕土市長の許可と、幕土市の歴史とメディアと子供の未来を案じる合同識者井戸端委員会の許可がおりまして、だいたい2ヶ月半後くらいにご閲覧いただけるようになります」
「待たせすぎだよ、おい」
「しかも予約待ちなので、さらに倍っていう」
「おかしいだろう。それもう、読むのあきらめろって言ってるのとほぼ一緒じゃないか」
「申し訳ありません、そういう手続きをするという決まりでして」
「誰が決めたの、こんなの」
「経緯はちょっとよくわからないのですが」
「わからないのはマズいでしょう。困ったなあ。・・・・・・あれ? その、あなたの後ろにある台車、そこに『和田氏のベン』あるじゃん」
「あっ、これはダメです。このブックトラックに置いてあるのは、すべて外部の方からの抗議によって閲覧制限扱いになったもので、いまそれをよりわけてるところなんです」
「そんなにたくさんダメなの? え、じゃあそのハリーポッターも?」
「そうです。一部のキリスト教関係の保護者の方から、子どもが異端の魔術に興味を持ってしまうので読ませるべきではない、と」
「それでダーウィンとガリレオの伝記もか。あれ、フランクリンの伝記も?」
「子どもが凧揚げして電線で感電したらどうする、と」
「ガンジーも?」
「子どもが何か気に入らないことがあるたびに、ごはん食べてくれなくて困る、と」
「その源氏物語も?」
「あんなロリコンでマザコンですけこましな男の酒池肉林を描いたような破廉恥小説はけしからんということで」
「それ言い出したら古典はほとんどアウトだろう。そこのマンガはあれだよね、ジブリのアニメになったやつ」
「『耳をすませば』ですね。これは、読書の自由を侵害しかねない描写がありましたので、自由に読書させない取り扱いになりました」
「何がしたいんだ。あれ? キリスト教ががどうのと言ってたけど、聖書もそこに置いてあるじゃないですか。聖書もダメなの?」
「ダメです。このおかげで人類はどれだけの犠牲をはらったことか」
「いや、それはちょっと。なんだか抗議したもの勝ちみたいになってるなあ」
「そうですね、私もこのお料理のレシピ本に抗議が来たときは、どうしようかと思いました」
「なんて言われたの?」
「書いてある通りに作ったのに、美味しくない、と」
「知らねえよ」
「あと、オリーブオイルがガンガン減って困る、と」
「誰のレシピだそれ。いや、抗議はともかく、だからって言われるまま従うことないでしょう。誰が取り扱いを決めてんの」
「いや、経緯はちょっとよくわからないのですが」
「おかしいって、そこを透明にしなさいよ」
「まあ、ファーストフードの食材の透明性なんて、ねえ」
「こっちにふるなよ、ややこしい」
「図書館と申しましても、しょせんはお役所の施設ですから、上の言うことには逆らえませんので。トップが変われば図書館も変わるし、クレームが出ればすべて従うという、よくある世知辛さです」
「だからって、こう何もかも禁止されちゃあなあ」
「決して"禁止"ではございませんよ、申請さえしていただければご覧になれます」
「いや、こんなハードルの高い手続き、禁止と一緒でしょう。その台車の本だってどこか奥の倉庫にしまっちゃうんでしょう?」
「いえ、よりわけてるだけです。閉架ではなく、あくまで自由に行き来できる開架フロアの書架に並べますので」
「え、オープンな場所に置かれるってこと? じゃあ制限ってわけじゃないのね」
「あちらの地上6メートルの書架の一番上の棚に置く予定です」
「読ます気ないよね、それ、いっさい読ます気ないよね」
「いえ、あくまでゾーニングです」
「まったく、これじゃ本屋で買った方がよっぽど早いじゃないか」
「そう思いまして、店内に書店も併設させていただきました。あちらに」
「買えるんだ。・・・あれ、なんだ『和田氏のベン』もふつうに売ってるじゃないですか。山積みになってる」
「ええ、閲覧制限してからというもの、あちらが売れに売れております。うふふ」
「うふふじゃねえよ。えらいことになってるなあ。図書館で本が自由に読めないなんて、あれだ、あの映画、『図書館戦争』みたいなもんじゃないか」
「お言葉ですが、お客さま。読書の自由は決してあのような派手でわかりやすいかたちで奪われるとは限りません」
「まあ、わかるけど」
「こういう書類手続きやクレーム処理のような、地味なところからじわじわと、奇妙な世界への扉が開き始めるのです。ご注意を」
「タモリか? なんかあいかわらずおかしなところだなあ、この図書館は。まあいいや、とりあえずさっき別の歴史の本があるのも見つけたんで、これとこれ、借りていきますね」
「・・・こちら、お借出になります?」
「え? 今度はなに?」
「お客さま、たいへんお手数ですが、こちらの書類にご記入をお願いします」
「これは?」
「お客さまの貸出履歴から計算してオススメ数値が低い本についての「自己責任承諾書」です」
「書類嫌い。ダメだこりゃ」
2013年10月27日
セルフ・ブランディングに必要なのは「もてなしの心」じゃないか、という話
セルフ・ブランディングと呼ばれるものについて、ちょっと考えたことがあって、なんとなく思いついたことを書いておく感じのあれです。
セルフ・ブランディング、セルフ・ブランディングって、最近だとわりとふつーに言われるようになってきて、でもそれってそもそもなんだろう、て思うです。
ブログやツイッターを名刺代わりにすることとか。
アイコンをキャッチーなものにするとか。
業績・文献リストを整備して掲示するとか。
それらをググってヒットしやすいところに載せとくとか。
ネットがあれば履歴書なんていらねえよ、夏、とか。
する人はしますよね、しますします。そりゃしたほうがいいんです。
でも、しない人はしないですよね、しないです。まあ、無理にすることはないです。
したくないとか、恥ずかしくて目立ちたくないとか、知られる方が我が身が危ないていうセキュリティ意識とか。そうでなくても我々お箸の国の人だものは生来が引っ込み思案だから、ふつーにしてたら、しないのがふつーでしょう。
だから、Googleでセルフ・ブランディングって入力したらキーワード候補の5番目くらいに「痛い」とか出ちゃうわけだし。痛い。これは痛い、セルフ・ブランディングを痛いと思われちゃってることが痛い。
でもだから逆に、当たり前のこととしては行われていないから、セルフ・ブランディングはこうこうだと言うことに価値がまだ存在してるというか、差別化できる概念でいてくれてる、ていうあれです。セルフ・ブランディングによるセルフ・ブランディング化です、よくわかんないけど。
じゃあ、セルフ・ブランディングってそもそもどういうことなんだ、って話です。
セルフ・ブランディングとは。
自分自身(や自分の組織・図書館)の価値や個性を、明確にして、世に広く伝える。
存在感を上げて、自分と、自分の名前(に類するもの)と、自分が持っているもの(個性・スキル・業績)とを、知ってもらう、認めてもらう。
それはいいんです、そこまではわかる。
問題は、なんのためにそんなことをするんだ、というところからです。
それをして、誰が何を得るんだ、と。
そりゃまあ簡単に言えば、顧客が増える、集客力が上がることでしょう、と。
あるいは仕事がもらえる、舞い込む、ということでしょう、と。
価値と個性と存在を認めてもらうことによって、自分を人に知ってもらえるようになり、お声がよくかかるようになり、上がるお座敷もご贔屓の旦那さんも増えます。そうすればさらに存在感と名前が上がる、格もあがれば価格もあがるし島田も揺れる、ブランディングがブランディングを呼ぶ正のブランディング・スパイラルに乗っかれれば、**町の○○姐さんといえば@@では知らぬ者が××、みたいになる。
たくさんの人との交流、情報の入手、なおかつ自分自身(や自分の組織・図書館)の評判があがって、成果もあげられる。
いいですね、めでたいじゃないですか。
メリットたくさん、得することがたくさんあります。
だからセルフ・ブランディングやりましょう、って話です。
でも、本当にそれだけがセルフ・ブランディングの目的なのか?って思うんです。それだけでいいのか?って。
それってなんか、気づいたら自分側の利益のためばっかり、じゃないですか。
そればっかりなんだったらそりゃまあ、「痛い」ってGoogle世論にdisられてもしかたないかなって。
じゃあブログ書いたり、ネットに業績リスト掲載したり、論文自体pdfで上げたり、本出しましたからって別途のブログ立てたりハッシュタグ作ったりするのって、全部自分が利益を得んがためなのか?と。
そうじゃないだろう、と。
98年に自分のホームページ立てて、2000年にブログ(いや「インターネット日記」の時代)を始めたときから、セルフ・ブランディングのモヤシの芽みたいなのは意識してきてたように思いますけど、それらすべてが、自分に利益を誘引したいがため、だったわけじゃないです。
ていうかさ、自利益目的だけだったらこんなもん15年も続くわけないですって(笑)。
初対面で「ブログ読んでます」と声をかけられる。それがハーバード行って帰ってきてからさらに激しさを増す。他業種他分野の方々と交流する機会が増える。「ツイッターの誰それさんですよね」「ブログ読んでます」と言われるたびに、ありがたいけども、うれしいというよりも、面映ゆい思いがする。
うれしいじゃなくて、面映ゆい。
なぜか。それはたぶん、自分が本来意図していないこと、価値を置いていたわけではないことで好評価を得るから、”面映ゆい”んだと思います。もう15年面映ゆい。
「読んでます」って声をかけてもらいたくて、そういう評価をしてもらいたくて、目立ちたくて名前を売りたくてアクセス数やはてブ数上げたくて、そういうことをしてるわけじゃない、むろん、結果としてそうなればうれしくないわけじゃないですが、ブログを書いたり原稿書いたり本書いたりしてることの目的も意図も、そういうところにあるわけじゃない。
自分の書いたこと、アウトプットしたこと、アクセス可能化して世の海にそっと流したこと。そのことを別の誰かが見つけて、踏まえて、肯定的じゃなくても否定的にでも全然いいから踏まえて、さらに別の新たな知識・思想・情報の産出につなげて、それが繰り返しぐるぐるサーキュレーションした結果としてのこの社会全体の進展につながってほしい。
そういう願いがあるから、ちっちゃいことでも価値あるかどうかわかんないことでも、とりあえず自分にできることの一片として、書いたり、アウトプットしたり、流したりするわけです。お座敷がかかれば話もするし、講義講演もするし、自分の持ってる些少の経験とスキルでもお役に立てるなら立てにいくわけです。
国立の大きな機関さんが業界の情報をカレントにアウェアネスするようなメディアがあったとして、そのメディアがわざわざあたしのバーミンガム漫遊記のブログ記事を取り上げて流してくださった。それはそれでもちろんありがたいことですが、だからといってじゃあその記事は取り上げてほしくて書いたんですか、アクセス数上げたくて書きましたかって、そんなわけはなくて、イギリスどころかヨーロッパ最大でなんかしらんがえらく話題になってるらしいバーミンガムなる街の図書館について、日本から業界の人がわざわざ出向いて行って視察・レポートするようになるのはまだちょっと先のことになるかもしれないから、それだったらたまさかイギリスに春画と戯れに訪れた我が身がここにあるんだから、自腹で何十ポンドか出して時差ボケの身体に鞭打ってでも見に行って、いくばくかの情報でも日本語化してwebに上げておけば、それを踏まえて誰かが何かしらのネクストにつなげてくれるかもしれない。つなげてくれるんだったら、行きますよ、書きますよ。そういうあれです。
「読みましたよ」で終わったって意味ないんです。読みましたよって言われたくて、ありがとうって伝えたくて、じゃないんです。
で、そういう、次につながってくれること、お役に立ててもらえること、サーキュレーションして全体が進展してくれること、を願い意図しているからこその、セルフ・ブランディング、だと思うんです。
それを願い意図していれば、セルフ・ブランディングの目的は自分側の利益ばっかりのためですか、そうじゃないでしょ、ということがわかると思うんです。
姐さんの話に戻ります。
**町の○○姐さんといえば、@@が得意で××の業績があり、¥¥の歌舞練場では$$も披露してはる、ていう姐さんがいて、そのことを町の人が知っているとき。
お座敷で@@が必要になった、あ、じゃあ○○姐さんに頼もう、ってなる。
○○姐さん? ああ、ご存じ○○姐さんね。それだけで、姐さんが何者かはだいたいわかってるし、姐さんがどういう芸ができてどういう技術を持っていて、どういう経験を踏んではるから、安心してお座敷にも来てもらえるなあ、ってなる。
これは○○姐さんだけが得してますか?
つったら、そうじゃないでしょう。
○○姐さんのセルフ・ブランディングが成功してることによって。
@@のできる人をわざわざコストかけて探す必要がない。(見つけてもらいやすさ)
「○○姐さん」とひとこと言えばわかるから、その個性・スキルをわざわざ説明する必要もない。(名前による説明コストの短縮)
ゼロからあらためて評価するという手間をかけずに、安心して頼める。(評価のアウトソーシング)
おかげで安心してお座敷が持てる。急なお客さんにも対応できるでしょう。
見つけやすさ、名前による短縮、評価のアウトソーシング。これらによってコストをかけずに済んで安心して活動できているのは、むしろお茶屋さんのほうでしょう。もっと言えば、○○姐さんのセルフ・ブランディングの成果は、町全体の共有財産になってくれている、と言ってしまっていいかもしれない。
お座敷側・町全体側・社会全体側の視点で、○○姐さんのセルフ・ブランディングを見ると、そういうことになると思うんです。
あるいは「セルフ・ブランディングの三方よし」でもいいと思います。
すなわち。
自分の持っているもの、業績・経験・スキル・書いたものその他何がしかがある。
↓
それらが、次につながってくれること、お役に立ててもらえること、サーキュレーションして全体が進展してくれること、を願う。
↓
さらに、それが低コストで効率よくまわってくれれば、なおいい。
↓
自分を、人さまから見つかりやすくする。存在感と検索されやすさを上げる。
自分の価値と個性を明確にして、人さまの目から見てわかりやすくする。
名前等によって、人さまに把握・認識してもらいやすくする。
それがイコール、セルフ・ブランディングなら。
ブランディングする物自体はセルフでも、その視点はすでに自分側にはない。
人さま・世間さまの視点に立って、人さま・世間さまに利がありますようにと、心を尽くして配慮する「もてなしの心」。それがセルフ・ブランディングに必要なことなんじゃないか、と思うんです。
どうぞ私どもを検索しにきてください。
どうぞ私どもをヒットさせてください、ヒットしやすいところに置かせてもらいますから。ヒットしやすいキーワード載せておきますから。お客さまが情報の海で迷われることのないよう、可視化してアクセス可能化しておきます。
わざわざあちこちに情報を集めに行かなくても、Googleひとつでヒットするところに業績リスト載せておきます。私どもにまつわる情報はあらかじめ組織化させておきます。せっかく検索しにきてくださる方の手をわざわざ煩わせるようなことはいたしません。
名前ひとつでパーソナリティがわかるように、明確化して差別化してブランディングさせていただきます。うちの暖簾をくぐっていただきさえすれば、何の心配もなく安心していただけることがわかるよう、これこれの業績と経験を積んでますということを示させてもらいます。あなた様に無駄なコストはおかけさせしまへん。
私どもがお役に立てたようでしたら、どうぞ次のステージへ安心してご出立なすっておくんなんし。そしてもしまたご入用の際には、またいつでもお越しくださっておくれやしておくれやす。
えっと、なんだっけ、なんでこんなことを考えて、こんなことを書いてるかというと。
セルフ・ブランディングを「自分の利益のため」じゃなくて「相手のため」だと考えれば、セルフ・ブランディングをやろうという敷居がひとつ低くなるんじゃないか。やりやすくなるんじゃないか、というあれです。
セルフ・ブランディング、セルフ・ブランディングって、言われれば言われるほど、しない人はいよいよしない、自分はそんなことしないし、できないし、したくないし、しなくていい”側”だよ、ってなっちゃう。そういう感情が伴うものです。
でも、自分が何者でいままで何をやってきたか、そういうことを、ちょっとでもいい、相手から見えやすく、人さま・世間さまにわかりやすくするという、配慮、気遣い、もてなしの心、サービス精神。それだったら、何も目立ったことをやる必要なんかない、ことさらに脚光を浴びに行くような派手なマネはいっさいしなくていい、ましてやブランディング目的で無理に背伸びする必要なんかまったくない。細々とちまちまと少しづつ手入れしていけることです。恥ずかしくもないし、痛いなんて言われる筋合いはない、だって相手のために、人さまをもてなすためにやってる手入れなんだから。
日本人は自己主張・自己アピールが苦手だなんてことが嘘か真か言われがちですけど、でも、配慮・気遣い・おもてなし、って相手目線で言い換えてやれば、むしろ得意分野というか自然にできることなんじゃないかな、って。それで五輪呼べるくらいなんだし。
または、自分にはもてなすだけのものがない、持ってないから、ていう二の足問題があります。
でも、自分の中にもてなすだけのものがあるかないか、っていうのはあくまで自分視点の問題でしかないんじゃないかなっても思うんです。
うちとこの宿に来ていただくだけの価値があるかどうか、うちらの出す料理が満足かどうかは、うちらが決めることちゃいます、お客さまが決めることです。ありがちなドラマのありがちな女将が言いそうなありがちなセリフですけど、まあ、そういうことだろうなと思います。
自分が持っているかもしれないし持っていないかもしれないもの、それが、誰にとってどんなふうに役に立つのか。それは、自分視点だけで独断しちゃうと二の足踏みになるでしょうけど、相手の立場にちょっと立ってみれば、その判断は相手にゆだねればいいってことになる。
自分にもてなすものがあろうがなかろうが、人さま・世間さま目線のほうでご自由に選択・判断していただく。そのために、とりあえず見つけやすくわかりやすくアクセス可能化・可視化しておく。そういう配慮であり、もてなしとしてのセルフ・ブランディング。
それがヒットされてお役に立てれば、結果よし。
でもまあヒットされなくて何も起こらなければ、とりあえずそのまま平穏。
それでいいじゃないですか。
その程度の”ゆるブランディング”でいいんですよ。
そのゆるゆるをコストかけずになんとなくできるってのが、いまどきのインターネットというものの利点なんですから。
それを見つけてくれるお客さまがたまさかいたとしたら、そのお客さまを自分なりの気持ちでもって、あらためておもてなししたらいいんじゃないでしょうかね。
「セルフ・ブランディング」、なんて横文字だと白熱教室かはたまたTEDかみたいな仰々しさになっちゃうけど、もてなしの心から生まれる”ゆるブランディング”でも、まあまあ人さんのお役に立てるんじゃないかな、むしろそっちのほうがよっぽど本質に近いくらいだろう、っていうのが、まあ流行りの言葉が混ざると論旨ブレちゃうからどうかなというイヤな迷い(笑)はありつつも、いまのところの考えです。
2013年10月26日
〈メモ〉情報組織化研 2013.10「NACSIS-CATにおけるRDA的要素 : RDA実装の一例として」
NACSIS-CATにおけるRDA的要素 : RDA実装の一例として (蟹瀬智弘 (IAAL))
・情報管理56(2)(2013.5)「所蔵目録からアクセスツールへ:RDAが拓く新しい情報の世界」
・IAALでNCのRDA化に向けての調査作業に協力し、レポートを作成した。@RDAベースの流用ファイル参照ファイルのデータをNCにどう取り込んだらいいのか、の調査。ANCのRDA化のためにはCMをどう改訂していったらいいか。
・RDA講習会(2012.12〜)。盛況すぎて追いつかないよ!京都では2014.2.22、3.9に開催予定。
・講習会やってて思うのが、RDAって「NCで言えばこういうことですよ」とひとこと言い添えればストンと落ちる、っていうところが多々あるということ。
・RDAって、データはこうじゃなきゃいけない、ってことは言ってなくて、カード目録にも適用できるものではある、という話。
1. RDAの実体-関連
・実体について
・RDAでは、”情報の宇宙”を、3つの実体グループからなるもの、と考えている。@資源(著作・表現形・体現形・個別資料)、A個人・家族・団体、B概念・物・出来事・場所。
・「表現形」の「属性」である、版、出版者、日付、言語などは、同じ「著作」の区別・同定のためにある。ので、区別・同定ができるようなら必ずしも”版”でなくていい。
・「個別資料」の「属性」で書くべき情報については、NCではだいぶ限定されている。RDAではもっと多彩。”和漢古書”なら多彩側だろう。
・関連について
・「実体」と「実体」との互いの関係性をあらわすのが「関連」である。
・「関連」を記述する方法。関連相手のIDor典拠形を記述することで、相手と関連がありますよと宣言する。または、もう記述しちゃう。
・個人・家族・団体の「関連」をIDで記述する際に、LCCNやLCANでもいいんだけど、wikpediaの該当記事のURLでもいいんじゃないか、とティレットさんは言ってるらしい。いや、いいけど・・・
・関連を構造化して記述する=ISBD記述文法でもって記述する。
・関連を非構造化のまま記述する=NOTE記述。
・つまり、関連とはリンク”だけ”じゃないよ、ということ。
・関連に、意味を与えるのが、関連指示子。「abstract of」とか「contained in」とか。
・結果的にこういうリンク構造の世界観になりますよ、という話。
2. NACSIS-CATのレコード構造
・統一書名典拠レコード
・日本古典籍総合目録データベース
・ティレット「「竹取物語||タケトリモノガタリ」という併記はおかしいのではないか。表記が違うと言うことは、ひとつの標目に併記すべきではなく、別々の標目形なのではないか。」
→回答「日本では、同じ漢字でも異なるヨミをもつことがあるから、セットでひとつの標目にしないと通じないんだ。」
→<江上>というより、別言語による表記ではなくて、発音符号ということなんじゃないか。または区別同定のために用いるとすれば、生没年付記等に近くないか。
3.NACSIS-CATのレコードとRDA
・親書誌=体現形(出版事項があるので体現形だろう、著作ではなく)
・子書誌=体現形+表現形
・所蔵=個別資料
・統一書名典拠=著作
・概念・物・出来事・場所、は、レコードとしてはNCにはないが、レコード内にデータとして記述されている。
・表現形の属性は、UTLフィールドのその他の情報(付記事項など)に記述されている。ほか、VTTL、形態事項の付記(ill.)など。表現形はレコードのあちこちにちりばめられてる感じ。
・表現形っていう概念がやっぱり一番難しくて、いままでデータ上でもレコード上でもきっちり整理されて扱われてなかったから。
<江上?>・「体現形」の出版者と「個人家族団体」とのリンクが、NCにはない。→ALに入れてはいけないんだっけ??
<江上?>・関連指示子は??
・NCには、
・表現形のレコードがない。
・個人家族団体のうち家族がない(会議がある)。
・体現形と個人家族団体との関係(出版者リンク)がない。
・関連指示子がない
・リンクの構造自体は似ているものの、リンクの種類が足りていない、のがNCである。実装をどうするかが問題。
Q&A
Q:NCのRDA対応のロードマップは?
A:必要は認識されているが、見えてない。いまのままであってもそれほど大きな問題はない、特にユーザ目線で見て。RDAは、情報の世界観と管理の再構成の文脈の中にあるものなので、その世界的な潮流からNCが取り残されることは問題である。
Q:表現形のレコードは?
A:レコードの構造を大幅に変えることも念頭におく必要がある。
<江上>各社のシステム改変がヤバイ!
<江上>・これだから、NCがどうRDA対応するか、が問題なんじゃなくて、NCはNC以外のデータ・情報の世界とどう関わりを持っていくつもりなのか、という問題なんだろうと思う。
・情報管理56(2)(2013.5)「所蔵目録からアクセスツールへ:RDAが拓く新しい情報の世界」
・IAALでNCのRDA化に向けての調査作業に協力し、レポートを作成した。@RDAベースの流用ファイル参照ファイルのデータをNCにどう取り込んだらいいのか、の調査。ANCのRDA化のためにはCMをどう改訂していったらいいか。
・RDA講習会(2012.12〜)。盛況すぎて追いつかないよ!京都では2014.2.22、3.9に開催予定。
・講習会やってて思うのが、RDAって「NCで言えばこういうことですよ」とひとこと言い添えればストンと落ちる、っていうところが多々あるということ。
・RDAって、データはこうじゃなきゃいけない、ってことは言ってなくて、カード目録にも適用できるものではある、という話。
1. RDAの実体-関連
・実体について
・RDAでは、”情報の宇宙”を、3つの実体グループからなるもの、と考えている。@資源(著作・表現形・体現形・個別資料)、A個人・家族・団体、B概念・物・出来事・場所。
・「表現形」の「属性」である、版、出版者、日付、言語などは、同じ「著作」の区別・同定のためにある。ので、区別・同定ができるようなら必ずしも”版”でなくていい。
・「個別資料」の「属性」で書くべき情報については、NCではだいぶ限定されている。RDAではもっと多彩。”和漢古書”なら多彩側だろう。
・関連について
・「実体」と「実体」との互いの関係性をあらわすのが「関連」である。
・「関連」を記述する方法。関連相手のIDor典拠形を記述することで、相手と関連がありますよと宣言する。または、もう記述しちゃう。
・個人・家族・団体の「関連」をIDで記述する際に、LCCNやLCANでもいいんだけど、wikpediaの該当記事のURLでもいいんじゃないか、とティレットさんは言ってるらしい。いや、いいけど・・・
・関連を構造化して記述する=ISBD記述文法でもって記述する。
・関連を非構造化のまま記述する=NOTE記述。
・つまり、関連とはリンク”だけ”じゃないよ、ということ。
・関連に、意味を与えるのが、関連指示子。「abstract of」とか「contained in」とか。
・結果的にこういうリンク構造の世界観になりますよ、という話。
2. NACSIS-CATのレコード構造
・統一書名典拠レコード
・日本古典籍総合目録データベース
・ティレット「「竹取物語||タケトリモノガタリ」という併記はおかしいのではないか。表記が違うと言うことは、ひとつの標目に併記すべきではなく、別々の標目形なのではないか。」
→回答「日本では、同じ漢字でも異なるヨミをもつことがあるから、セットでひとつの標目にしないと通じないんだ。」
→<江上>というより、別言語による表記ではなくて、発音符号ということなんじゃないか。または区別同定のために用いるとすれば、生没年付記等に近くないか。
3.NACSIS-CATのレコードとRDA
・親書誌=体現形(出版事項があるので体現形だろう、著作ではなく)
・子書誌=体現形+表現形
・所蔵=個別資料
・統一書名典拠=著作
・概念・物・出来事・場所、は、レコードとしてはNCにはないが、レコード内にデータとして記述されている。
・表現形の属性は、UTLフィールドのその他の情報(付記事項など)に記述されている。ほか、VTTL、形態事項の付記(ill.)など。表現形はレコードのあちこちにちりばめられてる感じ。
・表現形っていう概念がやっぱり一番難しくて、いままでデータ上でもレコード上でもきっちり整理されて扱われてなかったから。
<江上?>・「体現形」の出版者と「個人家族団体」とのリンクが、NCにはない。→ALに入れてはいけないんだっけ??
<江上?>・関連指示子は??
・NCには、
・表現形のレコードがない。
・個人家族団体のうち家族がない(会議がある)。
・体現形と個人家族団体との関係(出版者リンク)がない。
・関連指示子がない
・リンクの構造自体は似ているものの、リンクの種類が足りていない、のがNCである。実装をどうするかが問題。
Q&A
Q:NCのRDA対応のロードマップは?
A:必要は認識されているが、見えてない。いまのままであってもそれほど大きな問題はない、特にユーザ目線で見て。RDAは、情報の世界観と管理の再構成の文脈の中にあるものなので、その世界的な潮流からNCが取り残されることは問題である。
Q:表現形のレコードは?
A:レコードの構造を大幅に変えることも念頭におく必要がある。
<江上>各社のシステム改変がヤバイ!
<江上>・これだから、NCがどうRDA対応するか、が問題なんじゃなくて、NCはNC以外のデータ・情報の世界とどう関わりを持っていくつもりなのか、という問題なんだろうと思う。
2013年10月23日
極私的・ひみつのロンドン 街歩き編
ロンドンは過去に3-4回行ってて、もうだいたい行ってるからなあ、というような不遜なことを考えていたのだけども、それでもあらためて行ってみたらちがう楽しみ方があった、みたいな感じになって、むしろ住むか長期滞在の方がいいと思うタイプのあれでしたよっていう。メモのいくつか。
● Dennis Severs' House
http://www.dennissevershouse.co.uk/
ロンドン・リバプール駅から歩いてしばらく行ったところ、静かな通りに面した、18世紀からある民家の建物なんですが、その家を何十年か前にあるアメリカ人好事家が買い取って、で、その人は18世紀から19世紀頃のイギリスがすごく好きな人らしく、あまりに好きなんで、当時のロンドン市民の生活の有り様をありのままに再現してそれを入場者に見せるという、私設・リアル系・体感型ミュージアムにしちゃった、ていうことらしいです。
そんなに広くはない、狭い敷地に縦に3フロアだか4フロアだかあって、部屋がいくつかある、キッチンとかバロックな部屋とか使用人部屋とか書斎とかあるわけなんですけど、当時の古ぼけて薄汚れた内装や家具や調度品・生活用品の類いが、生活感あふれる感じでというか、もう生活感しかない感じでぐちゃぐちゃにならんでる。照明つけてない(だって当時の再現だから)し、廊下の板張りはみしみし言うし、暖炉の炭には火がおこってるし、服は出しっ放し、ベッドはぐしゃぐしゃ、本は開きっぱなし、食器はちらかしっぱなし、お茶は淹れっぱなし、パンが食べかけだったり、野菜や果物が籠に盛られてたり、ていうリアルなタイプの演出をしてる。あと、ろうそくがついててそのにおいがしたり、今朝花瓶に入れたばかりの花のいい香りがしたり、そうかと思えば屋根裏や壁のすきまからふんわりただよってくるカビとほこり満載の空気を吸ってしまって、気持ち悪くてむせてしまったりとか、ベッドや書斎や屋根裏部屋のあたりなんか歩いて通るだけで、身体のあちことがなんか痒くなってきてしまってしょうがないくらい。あとなぜか飼い猫がうろちょろしてる。
もうなんというか、五感を通してリアルな空間と物体と空気ががんがんぶちあたってくるような感じだったので、堪能したというより、ノックアウトされてきた、という感じ。リアルはこわい。
家の前には世話人の人が立ってて、ある程度入場制限はしてるみたいだけど、それでももともと狭いところにそこそこの人が入ってくるから、お互い遠慮しいしい部屋や廊下を廻ってる感じになってる。
あと、ここは写真撮影はおろか、おしゃべりも禁止らしい。おしゃべりすると当時の雰囲気にならないから。
検索しても日本語の紹介文なんか少ししか見つからないし、それどころかロンドン在住者に聞いても、え、なにそれ知らない、みたいな感じのところだし、ていうか日曜の午後しか開いてないらしくてだいぶハードル高くはあるのですが、たぶんあたしは次にロンドン来てもまたここに来ると思うなあ、という感じです。
●British Museum
何度でも来ちゃうけど、とにかく広いので、もう自分の見たいのだけに集中しておかないと無理っていう感じ。そうやってある程度切り捨てるというか、鈍感になっとかないと、ちょっと油断して入り込んじゃって、自分がいまメトロポリタン美術館にいるのかボストン美術館にいるのかルーブル美術館にいるのかよくわかんなくなってきてしまう。
極私的お気に入りは、この博物館の原点的テーマでもあるような啓蒙主義の部屋。あともちろん、日本の部屋、これだけひとフロア隔てた最上階にある。地味にお気に入りなのが”Money”の歴史をたどる展示部屋。こういう通史企画みたいのはいいねって思う。
あと、今回はちょうどポンペイの企画展をやってたので、のぞいてきました。でもやっぱりポンペイはガラスケースの中よりは、現地のスケールで見たいなあというあれで、そう考えるとやっぱり、今年1月にポンペイ行きスキップしちゃったのがいまごろになって悔やまれるなあ、という感じです。
ちなみに、書籍文書の類いの展示はここにはなくて、それはBritish Libraryの展示室に譲られてるという感じなので、こちらも併せて行くべきっていう。
●Design Museum
テムズ川のほとりにあるミュージアムのひとつ。イギリスならではというようなミュージアムではもちろんないんだけど、なんか、どの都市に行ってもデザイン・ミュージアムは好きなのでついつい行ってしまうという感じです。
なんで自分はついついデザイン・ミュージアム行っちゃうんだろうなあって考えてて、それはどの都市に行ってもついつい図書館行っちゃうのにもしかしたら似てるのかもなあって考えて、要するに、「デザイン」と「本」ってなんか似てて、それは「どちらもコンテンツそのものじゃなく、外皮として機能する存在」って言えば言えちゃうんだろうけど、まあ、どうなんだろう。
●ストリート・マーケットの類
ロンドンはあちこちのストリートでマーケットをやっててそれがおもしろいから、みたいな案内があったので、あちこち歩きに行ってみました。
それは、日曜の朝からがらくたをごちゃごちゃと並べて、ネイティブな感じのインターナショナルな人たちがやいのやいのと言い合いしながらなんかやってるようなマーケットとか。ちょっとよくわかんないんですがこれを買う人がいると思って売りに並べてるんですか?というような泥まみれで用途不明の家電コードがむき出しで地面に撒き散らされてるマーケットとか。通りの壁という壁が落書きや張り紙だらけだったり、各国料理の店が並んでたりするストリートとか。めっちゃたくさんの衣料品がめっちゃたくさんハンガーに吊られててめっちゃ安く売られてるのでここがあったらユニクロいらんなとか。
かと思えば、古くて由緒あるマーケットだというのでやってきたら、おもいっきり改装されたイマドキの屋根付きフードコートみたいになってたりとか。
でもなんだかんだ言いつつ、日本へのお土産にしたのは、個人の古物店が並ぶストリート・マーケットで買った、時代の着いた大理石製のコミカルな動物の置物、とかでした。
●パブをはしごする
イギリスといえば、2番目か3番目くらいに思いつくのが、パブでビール。
というわけで街のあちこちを歩き回って、半パイントづつ飲み歩いてみました。
結果としてわかったことのいくつか。
・イギリスのパブにはホワイトビールなんかほとんどない。
・エールビールも、あるのかないのかあんまちょっとよくわかんない。あるけどいまいち味がピンとこない。
・ていうかビールのことをほんまはちゃんとわかってないだろう、自分。><
・ロンドンの街の中心辺りは、碁盤の目っぽく見せかけときながら必ずしもそうではないので、歩いているうちにぜんぜん違う方向におもいっきり向かってて、最終、さっきいたところに戻ってくる、ということになっちゃうパターン。
・あるきまわってるうちに、いつのまにか絵に描いたようなチャイナタウンに迷い込んで、千と千尋かと思ってちょっと怖くなったりするパターン。
・ものすごく盛り上がってて客がひしめきあってる店があって、なんとなく入ってみて、よくよく客を見てみたら全員が男で、あっ、と思って出てきたパターン。
・ロンドンでコヴェントガーデンを照らす月も、京都で下鴨神社を照らす月も、月に変わりはないじゃなし、名月名月。
以上。
2013年10月10日
極私的・ひみつのロンドン 美味いもの編
イギリスは、美味しいか不味いか。
イギリス全般まではわかりませんが、ロンドンに限って言っていいのならば、充分美味しいです。というのもさすが国際都市の大御所・ロンドンだけあって、ありとあらゆる地域・各国の料理がいただけるので、美味いものに不自由することはどうやらなさそう、っていう。まずインドがあるのはもちろんのこと、中、韓、タイ、ベトナム、バングラデシュ、トルコ、中央アジア、中東、南米。それだけ豊富なので、逆に、これってイギリス料理かどうか? ていうかイギリス料理ってなんだっけ? ということをがんばって意識する余裕がなかなかうまれない、っていう。
これがイタリアにこないだ行ったときだと、イタリア料理はどれもこれも美味くて、世間がそれに専心してるためか、地球上にあまねくインフラの如く根付いている中華料理店ですらなかなか見つからないという。その逆っていうこと?という感じです。
●フィッシュ&チップス
Ship Tavernというお店があって、パブなんですけど、何かの本でここのフィッシュ&チップスがおすすめだからと言うんで一度行ったら、ちょっと忘れられなくなってしまい、それ以降ロンドンに来る度に必ず一度はここに来てるっていうお店。
写真がこちら。

でかい(笑)。とにかくでかい。
いや、本場のはどこも大きいだろうし、ここはまあまあ高いのであれなんだけど。それでもこれ最初に出された時は、ああもうこれでたぶん、ここ以外のお気にのフィッシュ&チップス探すのだいぶ難しくなっちゃったな、という嬉しい打ちひしがれ感を抱いたです。
鱈はおろした半身そのままくらい。大きいだけじゃなくて、衣はちゃんとカリカリしてるうえに、ちょうどいい具合の厚手だし、身はほくほくしてていくらでも食べられそうな感じ。ポテトもひとつひとつ美味い、満腹で大半を残さざるを得なくなるのがこの上なく悔しい。
あと緑色のつけあわせが、グリンピースをマッシュにしてミントで味付けしてあるという、こちらでは定番らしいもの。これが、最初に出てきた時はなんだこれうへえと思ったんだけど、いまやいよっ待ってましたって言いたくなる、ちょっとクセになる味覚。フィッシュの合間合間に舌をきゅっと引き締める感じ。
フィッシュは、そうですね、ナイフでざくざく切って、最初は何もつけずにしばらくそのままでいただく。その後で、塩をふったり、ちょっとビネガーをつけたり、塩とレモンをしぼったので合わせてみたり、衣が手強そうな部位はビネガーをひたひたにしたり。ケチャップはあってもなくてもいい、最後くらい。
なんか来る度に値上がりしてるような気はするし、地元市民にしてみればたかがフィッシュ&チップスに出すような値段じゃたぶんないんだろうけど、これはもうしょうがない、あれが食えるんだったらかまわない、って思っちゃう感じのやつです。日本であんな料理なかなか出てこないもの。
ちなみに、別の店にも一応行ってみて、The Rock And Sole Plaiceというフィッシュ&チップスでは有名なお店らしくて、店構えはなんとなく下町系なんだけど、大きさこそ大きいものの、身はべしゃっとしてて水っぽくてたぶん解凍甘い感じなんだろうし、ポテトも冷凍だったし、サワークリームもぼんやりしてたので、まあこっちはいいかな、という感じ。もっとがっつり下町系でちゃんと美味い店あってもいいだろうと思うので、そっちを探したいです。
●アジア料理
さっそくアジア料理(笑)。
たぶんロンドンに行かれたら大英博物館に行く人多いと思うんですけど、博物館の正面の通りに、タイ料理屋さんと韓国料理屋さんが2-3軒あります。筋を曲がれば中華料理と日本料理もあるみたいです。
博物館前の韓国料理のカジュアルなランチやさんっぽいところ、テイクアウトもできるようなところですけど、大英博物館に行くとどうしてもそこに寄っちゃいます。だって、豚肉を炒めたのとごはんと味噌汁が食べられるんですよ、まちがいないじゃないですか。食後は、真向かいの韓国系アジア食材屋でペットボトルのお茶買ってごきゅごきゅ飲むですよ、極楽(笑)。
あと、タイ料理はこれはもうはずれようがないです。一度人に連れられて行って、相手が注文したほうが美味そうなのがずっと気になってて、仕方ないので翌日ひとりでもう一回行った、ていう。
●朝食に鯖
イギリスのホテル朝食とは言え、コンチネンタルだっていう話だったので、そんなに考えずにぶらりと行ったら、ふつうだとソーセージやベーコンが並んでそうなビュッフェのところに、皿いっぱいの鯖の燻製の切り身が並んでました。そんなものがあるなんて一切期待してなかったので思わず目をむいたというか、朝に鯖が出る欧米のホテルなんか初めてだったので、一瞬世界が歪んだような気がしたくらい。でももちろんすぐにテンション上がりました、これはヤバイ、これは完全勝利、朝から鯖が食える!
米がないなんてそんなのは理由にならない、さくっと焼いたトーストに、バターを薄めに塗って、チーズのスライスの上に鯖の燻製(註:ナイフとフォークで軽くほぐす)を載せて、はさむ。間違いない、これは間違いなく美味いはず。
・・・・・・ほら美味かった。朝から血液が体内を高速循環する感じ。今日一日の完全勝利が朝から約束された感じ。
これはあれだ、むしろ今後日本のホテル朝食に行ったときに、ビュッフェに鯖と食パンがあれば積極的にこのレシピで行くべきだ!と考え直したです。
●寿司
もはや日本のものと言う文脈なんか無関係かのような勢いで普及、浸透、換骨奪胎に拍車がかかっている「スシ」。特に街角の回転系のお店では、そのカジュアルさ、ファーストフードさ加減のおかげでもって、なんでもありの総合アジア料理提供システムのような業態になっているという、「スシ」。
そんな状態ですので、バーミンガムの街角で、何ポンド食べ放題だYO!まわってるYO!的なノリでふんわり入れるようなお店だと、流れて来るものは例えば、油揚げを甘辛く煮付けたものを短冊に切ってにぎり寿司にしたものだとか、白菜とパプリカの入ったチキンスープのヌードルとか、スモークチキンにてりやきソースのかかったのとか、カリフォルニアロールや鉄火巻にパン粉をまぶして揚げてタイのスイートチリソースをかけた(註:まあ十中八九きのうの残りのリサイクル)のとか、こちらの発想を大幅に超えた創作ぶりを味わえるので、多少高くても(なぜか多少高い)無理してでも体験して見るものだなあ、と思たです。
ちなみにコンビニやスーパーのサインなんかで、うちには軽食置いてあるよ、サンドイッチとかピッツァとかスシとかね、というようなノリで併記してあるのが当り前みたいになってます。ピザなんかもはやそれがイタリア料理かどうかを考えながら買ったり食べたりする人ほとんどいないわけで、その領域にスシが達してるかと思うととても感慨深かったりします。
●ベーグル
リバプール駅から奥のほうに行くと朝からストリートマーケットをやってて、その辺りは下町のディープな感じで、そんななかに24時間やってるBeigel Bakeというベーグルやさんがあって地元に人気、みたいな話をきいたので、あさいちでたどたどしく行ってみました。うん、あきらかにネイティブなお店、何の装飾も案内もガイダンスもない、来たいやつだけ来ればいいという感じ。
店先で塩漬けのビーフを焼いてるのが見えたので、それとクリームチーズをはさんでもらおうと注文したら、別々に2個来た感じ、まあ旅先でよくあるパターン。ベーグルやさんだときいてたけどそれだけじゃなくて、絶対美味いに違いない揚げドーナツとかがあって、欲望のリミットを抑えるのがやっと、ていう。立ちカウンターでコーラといっしょにかぶりついていただきます。びっくりするほどの味というわけじゃないけど、ベーグルだからハズレてない感じ。
この店が有名なせいか、2軒隣くらいにもベーグルやさんが出てて、そっちがえらく派手な装飾で客寄せしてるので、一瞬迷いそうになります。お客は地元の人たちがほとんどかと思えば、思い出したように泊まり観光客っぽいグループがやってきたりとか、中年の女性がスマホで地図をじっとにらみつけながら「ほんとにこの店?」みたいな表情で入ってきたりとか、そんな、飽きないっちゃあ飽きないところでした。
●ミリオネア・ショートブレッド
大英博物館の展示を、やや気合い入れ目で見て歩いてたら、当然のことながらどっと疲れが出てこれはあかん、エスプレッソと甘いものを摂取して、脳にエナジーを注入せなあかん、ていうんで、博物館内のオープン・カフェに行ったんです、あの円形のコートの。そこで甘いものないかと探してたら、「ミリオネア・ショートブレッド」っていうチョコがけのビスケットみたいなのがあったんで、これでいっか、ていう感じでふんわりと買って食べてみたんです。
一口かじっただけで、あきらかにエネルギー満タン。脳の霧がすっきり晴れ渡る勢い。
ショートブレッドの上にキャラメル生地が載ってて、その上にチョコレートがかかってる感じ。チョコレートが香ばしい。キャラメルがやわらかくてまったりからみつく。ショートブレッドがさくさくした歯ごたえ。そしてどれもこれもがとてつもなく甘い。一本で充分甘い、かといって過度で不快なほどの甘さではない。甘さのファイナル・アンサーです。ファイナル・アマサーです。
即座にiPhoneで検索してその正体を見極めました。菓子造りはまったくやらないタイプの自分ですが、これはつくってもよさそう。
●大英博物館職員用食堂
使わせてもらえたんです、内部の職員用食堂。カフェテリア形式でいろいろ注文できるタイプのやつなんですが、何か失敗して、皿いっぱいのライスの上にハンバーガー、みたいなのを渡されたときには心底どうしようかと思った(笑)。
↓これは成功例。

いい感じに美味いので、うらやましいなあという感じ。しかもめっちゃ安い。ドリンクコーナーにちゃんとバリスタさんがいて、エスプレッソいれてくれて、0.3とか0.4とかポンドでしかない、ヤバイここにいたらカフェイン中毒になる。
●スターバックス・大英博物館前店
”大英博物館3部作”の最後にスタバが登場。ここは何がありがたいかって、地下の別フロアがある。もちろん博物館開館中は混雑するんでしょうけど、あさいちの時間帯なんかに行くと人がほとんどいなくて、ソファにもたれてのびのびと過ごせる、ていう。ロンドンの定宿ならぬ定スタバに決定。
●調味料
海外旅行で自分用のお土産を買う、というときは最近ではもうめっきり、地元のスーパーで見慣れぬ食材や調味料を買って帰るという感じになってます。
今回、乾燥バジリコのボトルとか、スモークしたホットパプリカのパウダーとかいろいろ手に入れましたが、なかでも目をひいたのがちょっとお高い「UMAMI PASTE」なるもので、いったいなんだろうとよくよく内容物を見ると、トマトピューレ、オリーブ、ガーリック、アンチョビ、ポルチーニ、パルメザン、バルサミコ酢、そんなんを練ってチューブに入れて、なんか食べるときにちょっとつけて味わう、ていう感じのものでした。オリーブとポルチーニの香りがなんとなく主役の完全にイタリアンな調味料。
・・・・・・「うま味」、どこいった(笑)。
というわけで、スシという具体物だけでなく、「ウマミ」という概念的な料理用語さえも、日本という文脈を抜きにしてグローバルの大海に漕ぎ出そうとしている。人の食い意地には際限がないな、と、思たです。
2013年10月08日
大英博物館・春画展への”はじめてのおつかい”
イギリス・ロンドンの大英博物館にて、無事に春画展が開催されています。
・British Museum - Shunga
http://www.britishmuseum.org/whats_on/exhibitions/shunga.aspx
・大英博物館で「春画展」始まる NHKニュース
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20131004/k10015023831000.html
イギリスの所蔵分、アメリカからの出展分に加え、日本からは60点くらい行ってまして、そのうち40点くらいが我が館の所蔵です。で、日本側の所蔵者として、研究協力的立場というか、矢おもてに立っていろいろお世話したり挨拶したり頭下げたりするようなあれこれをしてました、という感じです。
これらは基本的にM(useum)の人のお仕事で、でも我が社にはMの機能はなく、L(ibrary)のあたしが駆り出されてもろもろのことをやったんだけど、どの仕事もひとつもやったことがない、経験も見聞もないし、勉強したこともない。
でもやんなきゃいけない。
だから、ずっとお腹痛い。
そういう”はじめてのおつかい”です。
●コンディション・レポートを作る
Mの世界では、大事な展示品の貸し借りの前に、この資料・物品のどこそこが汚損・破損してますよ、欠けてますよ、瑕疵ですよ、その状態を両者で確認するために、状態チェックとレポート作成をする慣わしらしいです。”らしい”です。で、本来のところそれは、借りる立場の大英博物館さんがこっちに来てやるんだろうけど、まあ、遠いし、協力的立場なんで、こっちでやりますよ、ていうことです。
我が館ではよそから借りる経験はないですが、よそさんにお貸しする経験は幾分あるので(妖怪関係とか)、借りにおいでになるときにそういうのを作って渡してくれはるのは拝見しています。その、傍目で見守ってきたいくつかの経験にもとづいて、まったくの見様見真似猿真似で、なんとなくこんな感じでチェックしたらいいのかな、こういう瑕疵に目を付けてこういう風に記録して、こういう書類を形づくったらいいのかな、という。
それが自館資料だったらまだいい、のですが。
●国内のよそさんの資料を、借りて集めにまわる。
日本からは我が社だけでなく、京都数者・東京数者の所蔵者がおられてそこから大英博物館がお借りになるわけです。で、遠国から借りにおいでになる代わりに、国内の矢おもてたるこちらが、出典品を借りて集めにまわる、という。実際の梱包や運搬は美術博物品専門の運搬業者さんがやってくださるのですが、まあどの資料がどれで、みな確実に引き受けたか引き渡されたかを確認し、先々で挨拶したり頭下げたり、書類渡したりする、ていう。あと、その場でコンディション・チェックもする、ていう。で、ある程度の世間話をして、それを介して先方さんのご事情をお聞きして文脈的なことをつかむ。
でも、そんなことすべてやったことがないはじめての経験なので、当日の一週間くらい前からずっとお腹痛い、ていう。
●日本からイギリスへ運ぶ飛行機に同乗し、運搬する。
国内で厳重に梱包された出展品、そうとう厳重に梱包されてるので元の資料群より相当でっかい貨物になっているのですが、これが日本の空港からイギリスの空港まで、直行便で運び込まれます。それに、同乗する、という仕事です。クーリエと言うらしいです。乗るだけなら大丈夫です、12時間おとなしく座っています。時差ボケするだけなのでお腹は痛くない。
イギリスの空港に着いたら、今度はイギリス側の美術博物品専門の運搬業者の人に出逢って、初対面でバディを組んで、空港の倉庫から貨物トラックに積んでロンドン市内まで運び込む。渋滞の車内では、時差ボケでもう24時間くらい寝てない超眠い頭で、英会話の世間話をなんとかひねり出す。やっとのことで大英博物館に到着して、そこで荷物をおろし、大英博物館側の担当のみなさんと初顔合わせをして、このでっかい貨物を確かに持ってきました、ていうかたちになる。
ここで初めて、大英博物館のバックヤードにお邪魔します。世界に冠たる大英博物館のバックヤードは、たくさん工事中で、たくさん梱包物や棚が所狭しと並んでいて、ああ、どこもスペースの確保はたいへんなんだなあ、という思いでした。でも、この敷地に”世界史”が詰まってるんだと思うと、それなりの感慨深さがありますが、眠いです。
●イギリス現地でもコンディション・チェックをする。
日を改めて、貨物の梱包を解き、1点1点確かにありますよ、というチェックをする。それに加えてですが、大英博物館にはプロのコンサベーター(資料保存専門家)が、どうやら各分野各部門ごとにいらっしゃる。そのプロのコンサベーターの人が、イギリスに到着したての日本資料のいま・ここでの状態を再度チェックする。それに同席して、互いに状態を確認し合う、という。
これを、英語でやります。英語de資料保存です、だから、え、それって??という単語が飛び交います。紙のシワは英語でリンクルかと思ってたらどうも違う単語を使ってはる。同じハガレてるのでもどうやらハガレ具合で単語が違う。こすれ、にじみ、よれよれ、けばけば、紙継ぎ、雲母、エンボス、アイボリー、フォックス。そういえばこれまで和訳・英訳したことなかったなあという種類のボキャブラリーと闘う、ていう仕事。
で、自分はここまでで、日本での本務に長く穴をあけることもできないから、というので帰国してきました。このあと、それぞれを展示会場の展示ケースに運び込んで、資料保存的観点に注意しながら、これもまたプロの書見台製作専門家の人が作ってくれる書見台に載せて、陳列していき、その結果がいまの現地の展示会、なのでしょう、残念ながらその完成した姿をあたしが目にすることはありませんが、盛況かつ無事に会期を終えられますよう祈っています。
それにしても今回痛切に思い知らされたのが、M(useum)だろうがL(ibrary)だろうが関係ない、おのれの専門分野が何だろうが関係ないな、と。何かしらの文化資源を所蔵し所有し、それに携わっている以上は、LibraryかArchivesかMuseumかのちがい、あるいは官か民かのちがい、もしくは同じLでもUniversityかPublicかのちがいなんか、ユーザにとっては何の関係もない。おめえらげんにその資料そこに持ってんだろ、と言われればそれがすべてだと思います。
うちはLですから、Mじゃありませんから、やったことありませんしできませんとか、UのLですからサービスできません、海外だから対象外です、カフェじゃないから飲食できません。そういう言い訳が、ユーザ・社会の前で、あるいは文化資源・資料・情報の前で、通用するはずがそもそもなかったはずだ、ということを、思い出したし、思い知らされたなという感じです。
ユーザと資料の媒(なかだち)を”専門”として標榜するなら、○○が専門だから**はできない、おら知らね、ではなくて、○○が専門だからその全うのために必要とあれば**もするし@@もする、自分にできなければ頭を下げてよそさんの協力を仰ぎ、遂行に必要ならレジ打ちもすればジェネラルなマネジメントもする。
それがいいことかよくないことかはわかんないけど、少なくともいま、そしてこれからも、そういうところに身を置くわけなんで、そういう働きをしなきゃな、っていうあれです。
2013年10月03日
(メモ)アントネッラ・アンニョリ『知の広場 : 図書館と自由』からのまとめ
![知の広場――図書館と自由 [単行本] / アントネッラ・アンニョリ (著); 柳 与志夫[解説] (その他); 萱野 有美 (翻訳); みすず書房 (刊) 知の広場――図書館と自由 [単行本] / アントネッラ・アンニョリ (著); 柳 与志夫[解説] (その他); 萱野 有美 (翻訳); みすず書房 (刊)](https://images-fe.ssl-images-amazon.com/images/I/51snt3UalWL._SL160_.jpg)
知の広場――図書館と自由 [単行本] / アントネッラ・アンニョリ (著); 柳 与志夫[解説] (その他); 萱野 有美 (翻訳); みすず書房 (刊)
・知識経済。クリエイティブ・エコノミー。
・イタリアの街はどの街も美しい広場に恵まれており、そうした街でなら近年の公共空間の商業化を変えさせ、豊でクリエイティブな文化の基盤を再び構築することが可能。
・アイデア・ストアは市民が買い物に来る商業地区の近辺に建設された。利用するサービスはどれもその行動範囲にあるべき。
・図書館が学者の出会いの場となった18世紀には、図書館で静粛に、など考えもつかないことだった。本屋やカフェのように高等と文字のコミュニケーションが調和するよう奨励していた。
・誰にも均しかった娯楽は教養人だけの実践的文化に変えられた。ハイカルチャーと大衆の分離は19世紀から20世紀初頭に進められた。図書館が与えてしまう支配的な認識。最寄りの図書館や専門図書館のことを知らず行かないのはそもそも知らないから。そのような大多数の認識を変えるには時間をかけて取り組むしかない。
・彼らが目録について特に不満に感じている点は、情報の完全なテキストにたどり着けないこと。
・図書館は、「遅れた場所」という認識を相手に、乏しい提供品と、「すべてが今すぐ欲しい」という利用者の要求とは相容れない開館時間のハンデを背負って、戦わなければならない。大学教授やジャーナリストなども同じ問題(必要と認められない)に見舞われている。
・文化の不毛は長い目で見ると国家システムにとって致命的なことだ。知識経済は既存の生産工程や文化要素を再解釈し、再構成し、価値を与えることができるかどうかにもとづいている。クリエイティブエコノミーは充実したインフラに支えられる。エコシステム、創造活動を応援する住環境が生まれるかどうかは、公的な選択にかかっている。政治は息の長い措置を促進できる主体。
・文化的なエコシステムを修正し、創造活動が根をはれる居住空間を創るには、街そのものを出発点とし、長期的視点に立って、読書・音楽・映画・芸術の知識を刺激するようなサービスを発信するべき。
・広場または図書館。中立で平等で会話が交わされる無料の場所。民主主義とは、選挙に集約されるのではなく、集団の中で理性的な比較や議論ができて初めて機能するもの。そのための場所、都市計画が必要。優れた運営の公共図書館は、地域のソーシャル・キャピタルを豊かにする。
・アイデア・ストアのスタッフはその地区住民に近い出身者が多い。低価格のさまざまな講座を開講できているのは、イギリスにはそのような習慣があり、地域住民に合わせて、その地域に根ざしているから。
・真剣な聞取り調査を行なわずに10000ユーロのリノベーションを行なっても意味ない。
・2002年、サン・ジョバンニ図書館はイベントのオープニングに子供たちを参加させた。そうすることで、図書館は子供たちにもすぐに利用してもらえるということを示した。家具のデザインは、図書館が商業空間や指摘空間よりも洗練されていて、気持ちの良い公共空間であるというメッセージを伝えようとしている。
・図書館が新たな利用者を得られるかどうかは、どんな文化活動を提案できるかにかかっている。数多くのイベントを行なうことによって、どんな人にもアクセス可能と認めてもらえる。地元住民と地域の市民文化を無視すれば失敗に終わるだろう。
・その場所では、何も買わなくても時間をつぶすことができる、より民主的で匿名性を尊重し差別されない、ということを。身体的に感じさせられるような歓迎のしるしが必要。
・消費社会の利用者を引き寄せるには、探しているものは何でもあるどころか、あると思っていなかったものまでもが見つかること。
・理想の図書館員とは、古典籍資料について優れた論文を書くことができ、それと同時に、利用者の必要とすることを中心に置く。社会的文脈の中で働くことを理解している。司会を務めたりサークルをつくったり宣伝の協力を説得したりする、ということもまたできる。
・それができるのは図書館員だけではない。図書館は異なる職業、ジャーナリストや芸術家など、喜んで役立ちたいという人びとにも開かれなければならない。カタロガーにやらせなくていい。
・図書館の所蔵資料の価値を高めるには、その豊かさや複合性を受け入れること。図書館を多様な社会活動・文化交流の場とすること。サービスやメディアの幅が拡大すれば、利用者ではない人を呼び寄せ、住民が図書館を街の一部として認可するだろう。「活気ある図書館」とはそういうこと。
・図書館が社会活動・交流の場となったとき、その中立性・平等性によって、普段接する機会のない人、デモや市議会等でしか会わない人ともコミュニケーションをとれる。さまざまな人と出会う経験、予定されていない不意の出会いは、民主主義にとって決定的である。共通の経験をする、社会の結束を提供する場として。