2013年12月31日

wikiを編む -- egamiday_wikiについての記録

 
 今年2013年、特にいろいろ考えたこと(http://egamiday3.seesaa.net/article/382179158.html)のひとつに「”コンテンツ”と”メディア”が会う/合う、ということについて」がありました。
 そのひとつが「ラジオ」(http://egamiday3.seesaa.net/article/382736874.html)。
 もうひとつが「wiki」です。

 今年の夏ごろから秘密裏にのんびりと、こういうwikiサイトを起動しはじめました。

 egamiday wiki
 http://egamiday.sakura.ne.jp/wiki/

 まあ端的に言えば、前々からいるなあって思ってて、やっと重い腰が上がりはじめた、という感じです。
 そこへ到った考えを記しておきますっていう。

 あたしは日々、まあ遅々とした歩みではあるものの、何かしらを勉強し、読み、情報入手し、得たものを消化して自分なりに頭の中で編纂しています。ただ頭の中で編纂するだけではまったく身につきそうにないので、書き出す、形に出す、アウトプットする、ということが必要になってきます。で、それをネットに書き出します。
 ネットに書き出す、というのは、あたしにとっては情報の保存作業であり、保存のための編纂作業であり、また公開してアクセス可能化することによって誰かしら何かしらの糧になればいいという情報発信作業、flow&connect作業でもあります。これを辞める、ということはおそらく当分ないでしょう、98年に初めてホームページ出してから15年ずっとやってきてることですから。
 インプットとアウトプット。
 自分にとってそれは呼吸と同じです。

 問題は、どうすればいい呼吸が楽にできるか、です。
 ネットに書き出すという作業をするにあたっては、現行でいろいろなツール、メディアがあります。blogであったり、twitterであったり、ときにUstreamのラジオであったり、単純なhtmlであったり、PDFをリポジトリに上げるであったり、嫌いで苦手なFacebookであったり、限定的なMLやグループ機能であったり、いろいろです。もちろん、紙による論文・寄稿や本というメディアもあるし、プレゼンなどで登壇する、展示を催す、というのもそれぞれメディアです。寄稿・登壇も今年はいくつかありましたし、本は去年出しました、どれもアウトプットのためのメディアのひとつです。
 こんだけやってりゃ、わざわざwikiなんてやんなくていいだろう、という考え方もあるかもしれない。twitterがあればblogなんかいらない、という人がいるように。
 でもちがいますよね。
 メディアにはそれぞれ特性、得意不得意があって、どのコンテンツも等しくどのメディアにでも合致するということは、まあまずあり得ない。このコンテンツを載せようとしたら、こっちのメディアではうまいこといかなくて、こっちのメディアを選択したほうがいい、ということは当然起こります。twitterで10も20も「承前」で連投するくらいだったら、素直にblogか何かにしろよって思う、とか。
 それが、「”コンテンツ”と”メディア”が合う」ということだと思います。

 で、前々からこれをアウトプットしたい、しなきゃ、ていう種類のコンテンツがありました。
 日々勉強しインプットしたことを、組織立てて編むように書き出した、”勉強ノート”のようなもののアウトプットです。
 あたしのいま対面してるこのレッツノートのパソコンの中には、たくさんのwordファイルがあります。それらは「○○_draft.doc」という名前がついてて、日々勉強しインプットした内容が章立てで組織化され蓄積されていく、という”勉強ノート”です。そういう仕組みです。
 それを、ローカルにではなく、ネットに書き出すというかたちを前提として、編纂し保存しアクセス可能化したい。

 その想いは、昨年『本棚の中のニッポン』を上梓してからのち、いよいよ強くなりました。ならざるを得なくなりました。
 『本棚の中のニッポン』は、海外の日本研究とその支援をする日本図書館について調査し、勉強し、その結果をまとめたものです。紙のリアル書籍です。本として、まとめて固着させてパッケージ化してアウトプットした、のはいいのですが、当然のことながら上梓したその直後からその内容は古くなっていきます。本というメディアは、みなさんご承知のように、組織化とパッケージ化とその流通には長けているものの、継続的更新や発展性という面ではさっぱりです。
 でも、あたしはこのテーマについて、勉強や調査や情報入手やその編纂というものを、継続的に更新し発展させていきたいし、いかなければならない、と考えています。それはこの職業についているものとしても、また個人としても、そう考えています。
 そのための、コンテンツのアウトプットを、”勉強ノート”のネットへの書き出し、というかたちでやりたい、やらなきゃ、ていう想いです。

 で、そのコンテンツに”合う”メディアってなんだ、ていう話です。

 これまでだと「blog」というメディアがその有力候補でした。
 ていうか、実際やってました。
 「海外日本研究と図書館のブログ」(http://jlablog.seesaa.net/)。
 やってたんですよーこんなの(笑)。記事らしい記事もあったんです、「トロント大学比較文学研究センター&東アジア研究学科の閉鎖・解体の検討→抗議の動き(まとめ)」(http://jlablog.seesaa.net/article/164831068.html)とか「セインズベリー日本藝術研究所」(http://jlablog.seesaa.net/article/165398139.html)とか。
 でも長続きしませんでした。”勉強ノート”というコンテンツにblogは合わなかった。
 組織立って積み上がらないんです、勉強した内容が。
 確かにblogは継続性に長けているし、固定URLもついて、保存と発信と更新には申し分ないメディアだし、積み上がるだろう、とは思うのですが、それは時系列上で一直線・一次元的に積み上がっているだけでしかない。組織化がなかなかできない。記事と記事が関連付いて、組織立って、文脈を持って積み上がってくれるわけではありません。タグやキーワードのような機能はあるでしょうが、組織化としては非常に貧弱でしかない。
 もっと言うと、時系列で積み上がるといったって、古いものはどんどん流れて消えていってしまう、そういうメディアです。Googleなどのピンポイントでダイレクトなアクセスでもなければ個々の情報に光があたることはない。blogはあくまで現在から未来への新規更新という一方向にしか矢印が向いていない。
 この10数年で計50近く(さっきざっと数えたらそれくらいはあって自分でもドン引きした)のblogをつくってきましたが、それでも、コンテンツに合致していなければそれを選ぶことはできません。

 docファイルをそのままアップロードする、ということも考えましたが、それは確かに組織化(章立て)されてはいるものの、記事が断片化されていないわけです。アクセス可能化をしようとしてるのに、アクセスが不便になっちゃう。例えばblogなら記事が断片化されて固定URLがついているから、Googleなどでダイレクトにアクセスしやすいし検索もされやすい。さっきはそれを否定しといてあれですが(笑)、そういう性格を備えたメディアでないというのは、いまのインターネット情報環境では相当ディスアドバンテージだというのは確かだと思います。
 かといって、htmlファイルをひとつひとつ書いていってwebサイトを構築、という昔ながらの中華そばのようなメディアを選ぶのもしんどいわけです、blogみたいにブラウザから直接書き込んで直接更新してっていうのに慣れきってる身で、いまさらそこへは、ていう。

 作成が容易で、記事ひとつひとつが都合よく断片化されて独立し、固定URLがつき、Googleで検索されやすくヒットされやすい、更新日の新旧に限らずアクセス可能で、かつ記事同士・情報同士が関連を持ってリンクされ、組織立てて積み上げたりつなげあったりできる、継続的な更新が可能な、webベースのツール。
 blogのように単純に上へ上へと、石の塔やピラミッドのように一方向に積み上げるのではなく、記事同士・情報同士が関連し合いつながり合って二次元三次元に広がりながら築きあげられていくような。塔を積む、ではなく、城を編む、ようなツール。

 あ、wikiだな、って思うわけです。

 注。「wiki」って言葉を、wikipediaっぽい、mediawikiその他を使って作る、あんな感じのツール、っていうぼんやりした意味で使ってます。

 ここで、じゃあwikipediaに参加してあそこに記事を投稿していけばいいじゃん、という考え方もあるでしょう。そのほうがたくさんの人がアクセスするしそこに貢献できるだろうし。
 それももちろん考えましたが、残念ながらそうはいかない。

 大英博物館 - Wikipedia
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%8B%B1%E5%8D%9A%E7%89%A9%E9%A4%A8

 「海外の日本研究と日本図書館」を主テーマとするあたしとしては、こうじゃないんです、「大英博物館」と言えばまっさきに「春画資料」を項目立てねばならんのです。「パリ」のページにはパリの日本図書館一覧が必要なんです。
 視座が、ちがうんです。
 それとあと、NBK。あたしがいま属しておりかつ愛してやまないこの機関、この組織、その図書館とそこにある蔵書資料について、もっと情報を組織立てたかたちで蓄積してflow&connectせねばならん。でも例えば、wikipediaの「長久保赤水」の項に「NBKが所蔵する長久保赤水の古地図は次の通り」(http://egamiday.sakura.ne.jp/wiki/長久保赤水)なんてことを記述したら、間違いなく怒られるわけです、たぶん古参の人に罵られて終わりです。

 だったらもう、自分でwikipediaつくっちゃおうよ、と。
 よくわかんないけど、つくろうと思えばつくれなくはないんですよね、と。

 言うんでつくったのが、さきほどの「egamiday wiki」(http://egamiday.sakura.ne.jp/wiki/)である、ということです。

 とりあえずは構築して、まずは夏の間にでも『本棚の中のニッポン』の内容を載せてって、そのあとで情報を追加していって・・・と目論んではおったのですが、遅々とした歩みでまだ本書の内容の半分も行ってません。まあ、ぼちぼちと、長い目線でやっていくあれかなと。それにしても遅いですが。

 egamiday wikiについて、「”コンテンツ”と”メディア”が会う/合う」という視点からの話はこんな感じかと思われます。
 実践編のメモ的なのはまたいつか。


posted by egamiday3 at 18:14| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ごあいさつ 2013→2014 (附けたり、「イタリア料理」を学ぶことについて)

 
 2013年中は。
 2014年も。

 特に2013年中は、今出川・新町方面、北山・半木町方面、ロンドン・Russel通り方面には深々とお辞儀をし拝み奉らざるを得ない感じのあれでしたので、この場を借りて厚く篤く熱くお礼申し上げます。

 毎年年末年始には「ごあいさつ」と称して、その時々折々で考えてたメディアとか情報とか情報発信とか図書館職務とかそういったことについての考えを書き記すみたいなのをやってましたが、2013年は特に年中そういうことをずっと考えてて、すでにいろいろ書いてあるので、(いい意味で)もういいやって。

 2013年は特におもしろいことが多かったので。
 年が去くのが残念だなあ、ってなかなか思わないようなことを思ってしまうくらいには、おもしろかったので。

 それでもなおひとつだけ、今年思いを改たにしたことと言えば。

 イタリア料理について。

 2013年正月にわりと長めにヨーロッパを旅行してて、イタリアの土地土地でいろんなイタリア料理をいただいて、あらためて、ああちゃんとイタリア料理のこと勉強せなあかんなあって。
 まず、言葉が、イタリア語が、イタリア料理語がちゃんとわからないから、店で注文したくても満足に注文できない、という悔しさ、機会損失への歯噛み。言葉だけじゃなく食材や調理法や料理や郷土のことも勉強してないから、さらに歯噛み。
 現地に行っても食えない、だけじゃなくて、じゃあたまさか美味いのをゲットできて至福の一瞬を得られたからといって、それを帰国して再度味わいたいからせめてまねごと程度でも再現しようったって、できない。
 まねごとすら、できない。
 まねごとしてみようとして、一切まねごともできなくて、そこで初めて、あ、自分はイタリア料理のことほんっっっっとに何にも知らんのだな、と思い知らされる。
 ていうか、オリーブオイル&バルサミコ酢、だけでこんなに美味いんだ、っていうことすらちゃんとはわかってなかったし。トマトで煮る、っていうのがどういうことかってことも、わかってなかったし。 

 勉強せなならん。
 と思うわけです。

 あたしは一応、和食風というか普段遣いのお惣菜的な料理ならまあそれなりに作れて、日々の生活での食事に困ることはない、一年アメリカに住んでてもアメリカンなジャンキーなフードに毒されず無事にいられた程度にはこなせるんだけども、それだってはなっから何の苦もなくこなせたわけでもなんでもなくて、ひとり暮らし始めた学生の頃から数年くらい、料理本を一生懸命睨みつけて、何冊も読み比べて、食材の使い方もちょっとづつ勉強していって、イカやアジを何回もさばいてゴボウや菜っ葉を何度も刻んで、っていうような、黒雲が低く垂れこめた中を陰鬱ととぼとぼと歩き続けるようなことを台所に立ってやってたわけで。
 そんなこともあったんだ、ということをすっかり忘れてて、いざイタリア料理ってなったら、ほとんどさっぱり何もできない。できるわけないですよね、まともに勉強してないんだから。
 てきとーにつくってみちゃったよ、てへっ☆.*:.彡、などというノリでできるものなんか、所詮その場限りのてきとーなものでしかない。

 砂を噛むような思い。
 はやる気持ちを抑えての、座学。
 食材・調味料ひとつひとつに真摯にむきあうという取り組み。
 失敗というコストを当然の念頭に置きながらの練習、試行錯誤。
 地味で地道で遅々とした、かつ気の遠くなるほど長い長い途のりに向かおうとする、歩み。
 っていうのをイタリア料理についてもまた一から、いやゼロからやらなあかんな。

 と考えるのと同時に、「イタリア料理」に限らず、いろんなことごとについて、本当にちゃんと身につけたい・成就させたい・育ちたいと思うんであれば、そういうふうにゼロからきちんと勉強せなあかんのだと。いや、そんなこと当り前すぎるぞ馬鹿かていう当り前さなんだけど、なんかちょっと最近いろんなことをぼんやりとこなしてて、そういう当り前のことをないがしろにしてたような気がするな、と。

 いうようなことを、イタリア料理を踏み台にして考えましたよ、っていう。

 とりあえずイタリア料理本を何冊か買って、付箋貼りながら読んだり、いろんなものをトマトで煮てみたりしてる、っていう。
 基礎的なことちゃんとできるようになったら、あのぶ厚くて高いシルバースプーンの本がほしい。

 そんな感じで。

 あと、それとはべつに。
 2013年夏は「Work & Write!」だとか言ってましたが。
 2014年は、もひとつ取り組まねばならんので、「Walk & Work & Write」で。

 まだまだ書くぜい。




 ・・・・・・あ、あとタイ料理も(ry

posted by egamiday3 at 10:54| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

極私的流行語大賞 2013

 
 毎年の、自分しか得しないリスト。

みつを
歩いても 歩いても ヴェッネエエエツィアアアアッ
イタリア (201301eu)
イタリア料理/オリーブオイル・バルサミコ酢
アンニョリ姐さん
《第○週》おら、〜〜〜
ダセぇくらいなんだ、我慢しろ (あまちゃんより)
私のことはほっといて (泣くなはらちゃんより)
無駄遣いするんだったら俺にくれ (リーガル・ハイより)
在野の研究者/若手研究者
東寺百合文書
トークセッション
大英博物館/ロンドン/春画/クーリエ
同志社/DUALIS
wiki
電子書籍 (極私的に今年が元年)
我々はなぜ”支援”するか
”ユーザ”はどこにいるか
”コンテンツ”/”メディア”

次点:
目は臆病、手は鬼
百学連環
山本覚馬 (近代京都としての)
ムニムニ野菜たまご (「梅宮大社前」の聞き間違えとしての)

posted by egamiday3 at 09:05| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

極私的・今年のアルファ本棚行きコンテンツリスト 2013

  
 うちの自宅には実際に”アルファ本棚”と読んでる本棚があって、自分にとって特にこれは、っていう本をかためて置いているのですが、そういう「これは」っていうのの書籍メディアに限らないコンテンツのリスト。

泣くな、はらちゃん (日テレ・ドラマ)
あまちゃん (NHK・ドラマ)
Woman (日テレ・ドラマ)
リーガル・ハイ(2期) (フジ・ドラマ)
キルラキル (アニメ)
『イタリアの街角から : スローシティを歩く』 (陣内秀信・書籍)
『知の広場 : 図書館と自由』 (アントネッラ=アンニョリ・書籍)
『物語 大英博物館 : 二五〇年の軌跡』 (出口保夫・書籍)
『大学とは何か』 (吉見俊哉・書籍)
『日本語が亡びるとき』 (水村美苗・書籍)
トークセッション「新資料館に期待する」 (催し)
「総合資料館の50年と新館構想」(井口和起・プレゼン@シンポジウム「総合資料館の50年と未来」)
Dennis Severs' House (展示?@ロンドン)
情報メディアの活用(平成25年度) (寄席@きぬがさ)
posted by egamiday3 at 08:59| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月24日

”うちとこ”のレファレンス・サービス

 
 図書館はまあいろいろ標準化を旨としているような業界ですけど、それでもやっぱり館によって事情は異なる、レファレンス・サービスのような定番サービスでも、いやだからこそ、「うちとこではこんなふう」ていうのはあると思うんで、そういうの気づかないところ多そうだしそれぞれで見せ合いっこしたらどうかなあ、っていうのの、じゃあ言い出しっぺから。
 最近うちとこのレファレンス・サービスを紹介する記事みたいなんを書かされたこともあって。

 うちとこは、学生先生研究員全部あわせても対象者100人いるかいないかくらい、しかも学生ったって博士後期課程以降以上の人しかいない、みんな研究しかしてない研究者の集まり的研究センターですので、一般的な教科書教科書したようなレファレンス依頼なんてものはまず来ないです。そりゃもうみなさん、それぞれの分野のそれぞれの道の文献資料情報に関してプロですから、知識量情報量で太刀打ちなんかできるわけがない。
 太刀打ちできないっていうか、基本、ほとんどの人が自力で調べに調べに調べ尽した上で、その末に図書館に来ますよね。一応ググってきましたどころの騒ぎじゃなく、**も**も**も**も****(「え、何そのデータベース知らん・・・(汗)」)も調べたんですけどねえ、わかんないんですよねえ、でも図書館の人ならわかるでしょ?、って。
 勘弁してください><;;
 っては思うんだけどそんなことおくびにも出さず、ちょっと時間くださいって引き取る。内心青ざめてるんだけど、そういうときに頼りになるのはうちとこの係のみなさんで、まあぶっちゃけ年下の人たちばっかりだけどでもうちとこでのそういう無茶ぶりを湯水のように浴びて育ってきたような人たちなんで、こういう問題にはこういうやり方があるんじゃないか、以前こういう質問があったときにはあの大学が頼りになった、みたいないい具合の感じのことをいろいろ教えてくださるので、ああ、ありがたいなあって。
 でもまあそれでも、研究研究した人たちに対してあたしらができるのは、新しい情報を見つけてくることというようなことではほとんどなくて、調べるための手がかりがこのへんにありそうでしたよ、とか、どこそこに問い合わせたらわかりそうでしたよだから問い合わせときますねとか。どうゲットしてくるかというよりも、どうパスするか(受け取るか&送り出すか)のほうだなって。それで、いや、それがいいんだと思います、うちとこみたいなんは。パスした上で、シュート自身は先生たちが決めはったらええんです。

 実例ですか? うんじゃあぼかして言うと、「ある本に月報があるかないかを問い合わせる」とか、「昭和初期の日本とフィリピンの為替レート」とか、「出版物への掲載手続きができるだけ煩雑でない図書館から、塵劫記の挿図コピーを取り寄せる」とか、「ザ・テレビジョンの何年から何年までの表紙全部みたい」とか、「この国のこの大学のこの図書館が公開してるこのPDFにこんなことが書いてあって、なんだかよくわかんないけどたぶん資料名っぽいので、そのコピー」とか。うちは外国人の先生が多いので、「チョベリバって何?」とか、あと多いのは「この日本語の使い方であってる?」みたいなんですかね。

 いや、もうよろず相談ですよ、うちなんか。ていうか単純な貸出・返却手続き以外は全部、レファレンスって思ってていい。対象者100人いるかいないかですから、もう、ほぼ全員の顔と名前と研究内容と利用者ID(!)はわかってるんで、カウンター越しに適当にしゃべってても、あ、この人これがほしいんやな、これで困ってはるな、ほんとはこうしてほしいんちゃうかな、なんとなくわかることも多いです。
 あ、ウソです、そりゃまあわかんないことのほうが多いです。わかんないし、たとえ質問文自体は似たようなもんであっても腹の中で欲しがってるものはめいめい勝手なわけなんで、できるだけ相手とコミュニケーションをとってしゃべってしゃべって、質問や調査の全体像をつかむ、背景をさぐる、過去にこの人が言ってきた依頼から考えて、今回のこの依頼ってこういうことなんちゃうんか、と推測する。
 そして時に相手を疑う。依頼者自身がはっきり意識してない問題点も多いわけなんで、こちらから質問してその真意を確認せねばならん。「先生、それってじゃあ、こうこうこういうことを調べたらいいんですかね」「あ、なるほどそれそれ」ってなる。そしてさらに相手の希望をこっちから掘りに行く。彫りに行く。いつまでにほしいのか。見つからなかったら代わりのものでもいいのか。日本語と英語どちらの情報がほしいのか。発表に使うのか論文に載せるのか現地へ行く予定なのか。そして、ほんとはこれがほしいのに遠慮してないか。
 そういうのって、じゃあその背景として先生たちがぞれふだんどんな調査研究をしてるのかっていう理解が必要になってくるわけなんで、そういうお一人お一人に時間をかけて対応ができるっていうのは、たぶんうちとこだからできるんだろうし、そしてできるんだからやんなきゃだよな、って思います。

 あと、うちとこのレファレンスって、最終的にILLにつながるのがほとんどなんですよね。ていうか、ILL依頼というかたちでレファレンスが来るっていうか。まあうちとこだけじゃなく研究要素の大きい大学図書館さんならどこもそうでしょうけど、結局、ILLとレファレンスとなんか未区分ですよね。「このことについて知りたいので、調べた上でそのコピー取り寄せてほしい」っていうのとか、「この文献の複写がほしいんだけど、どこにあるかどころか、それが何でどういうものかも、存在自体すらちょっとあいまい」っていうのとか、「とりあえず頭から最後までひととおり全部見たい」とかそういうの。だからレファレンス・サービスというよりは”ILL・コンサルティング”みたいな感じです。
 そうなるとどうなるかっていうと、レファレンスのまあまあ多くの割合を、他館への文献調査、が占めちゃうんで、それは他館のみなさんにすごい申し訳ないなって思ってます。この場を借りてどうもすみませんって。特に永田町・精華町方面にすみませんって。あと、吉田山方面にもすみませんって。まあ身内みたいなもんだしいいかって。
 それでも相手が図書館さんだったらまだレファレンスとして受け付けてくれるからいいほうなんですけど、半分は非・図書館、博物館とか文庫とか企業とか寺社とかそういうところになっちゃうわけじゃないですか。お寺さんに電話してすっげえ不機嫌な声で住職にねちねち言われるとか、そんなん。そりゃ不機嫌ですよね、戦前の百科事典にこの寺がこの写本持ってるって書いてた、って霞か雲かみたいな話を聞かされてるわけですからね。
 まあそれはともかく。要は、「自館資料でレファレンス行なう」ってことがたぶん極端に少ないのがうちとこっぽさかな、って思います。

 で、互助互恵が旨のこの業界ですから、よそさんからうちに文献調査の代行が来ることももちろんあります。あるはずです、大学で共同に利用する機関、ですから。あと、うちとこにはよそさんがあんまし持ってはらへんようなちょっとレアな、いやおかしな、いやレアな(笑)洋書とかマイクロフィルムとかがあるんで、遠方から実際に見に来られない人とか複写が欲しい人なんかからの問い合わせが、各図書館さん通して届きます。
 例えば何年何月の新聞に誰々の講演会に関する記事が載っているか、という問い合わせがあれば、その月の全日のマイクロフィルム、見つからなければ別の月のマイクロフィルムも1コマづつ探していきますよね。何々という本にこういう人物の記事が載っているか、と尋ねられれば探しますし、すぐに分からなければ手がかりとして目次のコピーを送ったりもします。
 外部・遠方からの問い合わせっていうのは、実際にその資料を自分の目で見て確認することってできませんから、あたしらがその人たちの目の代わりになるわけなんで、目耳代行としてはただ言われたことを機械的に読んで探すだけでもあれなんで、もしかしたらこの情報が手がかりになるかもしれない、とか、逆に、これは聞かれてないことだけどでもあえて教えてあげないと誤解が生じかねない、みたいなんもおそるおそる考えながら見ていく、そういう感じになりますね。
 まあこのあたりはよそさんでも同じふうにやってはるでしょうから、うちとこの、って感じでもないんですけど。

 よく考えたら自分、レファレンス・サービスらしいレファレンス・サービスに携わるのって、うちとこに来てからが最初のような気がする。ので、よそさんがどうなんかよくわかんないですが、とりあえずこんな感じです。

posted by egamiday3 at 20:56| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月23日

リーガル・ハイ 2期・第7話、伊東四朗のセリフの文字おこし

 
 リーガル・ハイ、というドラマの中で演説された、伊東四朗のセリフを文字おこししました。
 忘れるな自分、忘れてはいけない、という想いで。

 世界的に評価を得ている天才アニメーション映画監督・伊東四朗は、非常にストイックかつ厳格で、その名声とは裏腹な厳し過ぎる指導と劣悪過ぎる労働環境を理由に、アシスタント・穂積から訴えられます。訴えた穂積に対して、裁判所にて、語りかけるというシーンです。

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 穂積くん。
 私の本当の心を伝える。

 私は、君に、才能があると思ったことは一度もない。

 本心だ。

 細川にしても梅田にしてもそうだ。(※先に卒業して成功を収めたアシスタント)
 私の目から見たら、才能のある奴なんて一人もいない。
 どいつもこいつも馬鹿ばっかりだ。

 そもそも才能なんてものはな。
 自分で掘りおこして、つくりあげるものなんだよ。
 
 俺だって、天才なんかじゃない。
 誰よりも必死に働き、階段をひとつひとつ踏みしめてきただけだ。
 振り向いたら誰もついてきてない。
 怠けた連中がふもとでこうつぶやく。
 「あいつは天才だから」。

 冗談じゃない!

 ゆとりで育ったのんびり屋どもが本当に嫌いだ。

 俺より時間も体力も感性もある奴が、なんで俺より怠けるんだ!
 
 だったら、くれよ。
 無駄遣いするんだったら、俺にくれ。
 もっともっと創りたいものがあるんだ。
 俺にくれ!!

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posted by egamiday3 at 23:01| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

なぜブックツリーに胸が痛むのだろうか、を考えてみた

 
 メリー・クリスマス!
 というわけで、いわゆる”ブックツリー”です。

 最初にお断りしておきたいのは、この記事はわたくしの個人的・極私的な感覚・感情・感傷にもとづいてその感じ方を記す、という趣旨のものであるので、ここに書いてあるようなことをそうだと思う人もあればまったく心得ないと思う人もあって、いっこうまとまりのつかぬ話になるであろうことは随分承知の上で、なお自分の考えの整理のために書き記しています、ということです。
 目玉焼きは醤油かソースかとか、あちらのラーメン屋は美味くてこっちは不味いとかいう程度でしかないあれです。ラーメンブログです。
 まあつきつめればこれはそういう問題なのかもしれません。

 ↓こういうことがありましたそうです。

 明治大学和泉図書館のブックツリー - Togetterまとめ
 http://togetter.com/li/604802

 ある図書館が書物を積み上げてクリスマスツリーのディスプレイをした。(いわゆる”ブックツリー”)
 それを不快に思う人が少なからずいて、その不快を表明した。
 その表明を受けた図書館が、ブックツリーを撤去した。
 不快に思うことや、その不快を表明することのほうを、不快に思う人も少なからずいて、その不快が表明されている。

 おおむねそんなところ。

 わたくし個人は、ブックツリーの類、例えば問題の写真を見たときに、胸が痛むほうのタイプの者です。
 たぶん不快どころの騒ぎではないです。***か、**、*****、と思います。 

 で、なぜわたくしは「胸が痛む」のか、をちゃんと考えてみようと思いました。
 過去に似たような事件出来事やその写真を見て、「胸が痛む」こともあれば、とりわけては「痛まない」こともありました。わたくし以外の人には「どちらも同じではないか」というような写真でも、わたくしにはまったくことなる感覚・感情・感傷を覚えることがあります。

 それらをわかりやすく並べてみるとこうなります。

【胸が痛まないほう】
 |
@古書店や自宅で本が乱雑に山積みされている
 ∧
A床が抜けて散乱した個人蔵書
 ∧
B書店が新刊のベストセラーをディスプレイするブックタワー
 ∧
 ∧
----------------------------
(痛む/痛まないの分かれ目)
----------------------------
 ∧
 ∧
C図書館で、明らかに手の届かない高い位置の書架に、閲覧前提でなくディスプレイ目的で本が配架されている
 ∧
D図書館が装飾目的で行なうブックツリー
 ∧
E現代アートやインテリアで、本をばらまいたり積み上げたりしている作品
 ∧
F大量廃棄
G焚書
 |
【胸が痛むほう】

 いや、BブックタワーとDブックツリーの位置関係おかしいだろう。
 と、おおかたの人が思われるでしょう。そうだと思います。そのあたりが、これがわたくしの極私的感覚にもとづく所以かと思います。

 この”分かれ目”のベースにはわたくしの書物に対するひとつの一貫した考え方があります。
 「著作は人格であり、
  それゆえに、書物は人体である。」
 というものです。

 ↑めんどくさいでしょう(笑)。
 そういうことです、この話は。
 
 ひとつづつ考えます。

@古書店や自宅で本が乱雑に山積みされている
 http://www.dotbook.jp/magazine-k/wp-content/uploads/2012/09/zousyo_seiri01.jpg
 http://www.dotbook.jp/magazine-k/wp-content/uploads/2012/04/2%E5%BC%95%E3%81%A3%E8%B6%8A%E3%81%97%E7%9B%B4%E5%BE%8C1-e1333971666548.jpg
A床が抜けて散乱した個人蔵書

 @なんか、読むこと/読まれることを前提としてそこにある(実際読み切れるかはともかく)以上、何の問題もない。積んでるという外見と物理的状況が単に同じなだけです、意味することなんかDブックツリーとまったく違う。
 Aの床が抜けた蔵書も、抜けるまでは@と同じ。散乱し物理的なダメージを大いに受けたことはとてもとてもいたましいとは思うのですが、本として、その著作は読まれるものとしてあるいは愛されるべきものとしてそこに集められた。その愛は、ちょっとその床には重すぎたかもしれない、奇妙に偏った愛で床荷重として均等でなかったかもしれない。結果としての事故は不幸ですが、気持ちはよくわかる。

B書店が新刊のベストセラーをディスプレイするブックタワー
 http://book.asahi.com/clip/images/TKY201004170124.jpg

 正直いかがなものかとは思うのですがそれでも、そのいかがなものか感はどこか”半笑い”で見ています。なぜならこの書物たちは、物理的には多少無理をさせられているとはいえ、著作としての人格が否定されていることはないだろうからです。著作としてはむしろ大売り出しに値するという前提が先にあり、ていうか売りたいのであり、その著作を求める人がいればこの書店はすぐにでもこのタワーを解体して、是も非もなく求められる著作およびその書物を求めるその人にまちがいなく渡すでしょう。それが書店ですから。著作としての人格が否定されているわけではない以上、物理的な無茶は一時的なものとまだ寛恕できます。

 ここからが胸が痛む/痛まないの分かれ目です。

C図書館で、明らかに手の届かない高い位置の書架に、閲覧前提でなくディスプレイ目的で本が配架されている
 http://egamiday3.seesaa.net/upload/detail/image/IMG_6567.jpg.html
 http://egamiday3.seesaa.net/upload/detail/image/IMG_6558.jpg.html
 http://d3j5vwomefv46c.cloudfront.net/photos/large/755204769.jpg

 写真はバーミンガムと武雄からです。
 とても悲しく可哀相な光景だと思います。彼らはユーザからも図書館側からも、読まれること、手にとって触れられること、その思想情報にアクセスされることを前提ともされず、そこに配備させられて居ります。アクセスされる必要なしとの烙印を、本と著作とその思想と情報を大勢の市民に届け流通させることを存在意義としている図書館から、読者が極端に少ないであろう著作書物にとって社会的に最後の砦とでも言うべき図書館から、その烙印を押されてそこに居るのです。おまえの著作なんか誰に読まれなくたっていいよ、ただツラ構えがいいからそこに置いてやってるだけだ、背表紙だけ見せてりゃいいんだ、と。吉原ですかここは。いや吉原以下ですか。
 でもまだマシです。物理的に安定した取り扱われ方をされてはいるし、求められればすぐにでも何メートルのハシゴなりなんなりが登場するのでしょうから、アクセスを求めて拒否されることはないでしょう。と思いたい。

D図書館が装飾目的で行なうブックツリー
 https://twitter.com/kin_mokusei/status/412904412428787713

 アクセス云々だけでなく、「著作として存在する必要なし」とされ、人格を否定され、尊厳を否定され、その本来のあり方を一切捨ててただ物体としてそこに横たわれと命ぜられた書物が、人体が、そこに積み重ねられ、無邪気にデコレーションされている。
 わたくしは、気持ち悪いです。極私的な感覚にもとづいてだけ言えば、上記のような理由で、憤り以上にただ気持ち悪い。

 ユーザからの手に取るというアクセスに対して物理的以上に心理的に高い障壁を設けているのがブックツリーの構造です。B書店のブックタワーの中の1冊が求められたときには上から順に取ればいいだけでタワーは崩れないという、アクセス可能な構造。図書館のブックツリーは目指す本が中間にあるときそれを取れば崩れますから、崩れることを前提につくっているのでなければ、取って読むことも前提にしていないことになる。たとえ「言われれば取りますよ」と言ったとしても、ツリーの構造自体が「アクセスされることを前提としていませんよ」というメッセージを発していますから、よしんばそんな意図がなかったとしても、アクセスされるべき著作を、人格を否定している、とわたくしには見えます。
 複本とか電子があるとか関係なく、人格を否定した上でその人体を無邪気に積み上げているから、生理的嫌悪感を感じるという。

 クリスマスのデコレーションをしてユーザに喜ばれたいのでしょうか、だったら素直にクリスマスツリーを飾るといい、植木屋や玩具屋も潤ってなお喜ばれるでしょう。
 図書館らしさをアピールしたくて本を使うなら、縦に置いて手に取りたい人が自由に取って持っていける構造にすればいい、そういうブックツリーだってあるはずです。そのデザインに手間暇はかかるかもしれませんがいくらでも工夫の余地はあるでしょうし、ここまできてまさか面倒くさいもないでしょう。
 普段読まれない本を紹介したいならポップを書いて内容を紹介してカウンター前に面陳するといい、いま流行りのキュレーションです、というか我々の本来の仕事です、借りる人が増えれば本もユーザも図書館も幸福の三方よしです。七夕のようにオススメ本や感想文の短冊をつるすというツリーにしてもいい、そういう図書館も実際にあるようです。
 あるいは、このシーズンの一時的なイベントでしかないから、と言われるかもしれない。でもわたくしは、人格を否定し傷つけることなど一瞬あれば充分造作もないことだと理解しています。

 理屈はいいじゃないか、外国でもやってるんだし、そういうことが好きだし綺麗だし面白いからやるんだ、やったらいいんだ。
 わかります、その気持ちは気持ちだけならよくわかります。
 わたくしが極私的に気持ち悪いと感じるのに同様、ただ面白い、楽しい、好ましいという感想を抱く人が少なからずいるだろうことも十二分に理解しています。どちらが正しいわけでも間違っているわけでもないのでしょう。
 そして、ただ好きで綺麗で面白いだけでそれをやるのなら、ただ嫌で不快で行儀悪いと感じるだけの人びとと衝突することは避けられないだろうことも当然目論見の内に入れておかざるを得ない、ということだと思います。衝突してでもやるという覚悟。衝突したくないのなら唐揚げは小皿にとってから自分のにだけレモンを搾るという手間暇コストをかけざるを得ない。
 そして本は唐揚げではない。そもそも図書館の蔵書は図書館のものでもなければ図書館員のものでもない、社会人類の知的生成物を社会人類に確実に手渡すために社会人類から一時的にお預かりしているに過ぎない、そのことを忘れて自分のもの自分たちの持ち物だと錯覚してしまうと読者が少なければその人格を無視して別事別件自分たちの好きなことに転用していいとも錯覚してしまいかねない。図書館はあるからあるわけではないし、蔵書はあるからあるわけではない。それでもなお、ブックツリーというものでしか到底果たし得ない固有の働きが、機能があると、合理的理由があるということなら恥じることなくそう説き諭(ry

 うん、すみません、つい筆がつんのめりました。
 ただ、胸が痛む、という話です。

E現代アートやインテリアで、本をばらまいたり積み上げたりしている作品
 http://www.odditycentral.com/pics/book-desk-is-the-perfect-piece-of-library-furniture.html

 人にはこれがインテリアに、アートに、デザインに見えるのでしょうか。
 わたくしには「人の屍体が積み重ねられている」という地獄画にしか見えません。
 かつてこの写真を初めて見たとき、一目でリアルに吐き気を覚えました。すぐ閉じました。そしてこの記事書くためにまた見てしまったから、いまも気持ち悪いです。

 F大量廃棄やG焚書については、というか、いまちょっと気持ち悪いので、もうこれ以上ダメージを受けるようなことを考えたり書いたりするの勘弁してくださいという感じです。
 ここでF大量廃棄・G焚書を挙げたのは、要するに、Dブックツリーは自分にとってFG寄りの所行ととらえている、ていう。

 ただ、今回の批判から撤去という一連の流れは、議論のあり方としては残念だったかな、と思います。わたくしが不快とか胸が痛むとか気持ち悪いとかいうのは極私的感情に過ぎないということを自覚しています。それとは別に、本当にそれをやる必要がある/やりたいのであれば、それにもとづいて議論をしていいのではないか。議論としては別の様相がもしかしたらあったのではないか、ていう。

 いつか、日本の図書館でブックツリーが市民権を得る日が来るかもしれません。不快に思う人が少数派で多くの人が賞賛し喜び、当り前のようにあのようなディスプレイが行なわれる、そんな冬が始まるかもしれません。場合によっては業務としてわたくし自身がその所行に携わるなどということが、起こらないとも限りません、雇われ人ですから。
 ただ、**************、と思います。







 あと、目玉焼きは塩派です。
 唐揚げにレモンはかけない派です。
 それとラーメン、京都一美味い、ていうか日本一美味いと思っているラーメン屋は、ただ一軒、もうこれはまちがいなくあそこです、細麺で豚骨でそれでいてこってりし過ぎてもいないという、東(ry


posted by egamiday3 at 22:38| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月16日

(メモ)「竹内栖鳳展 : 近代日本画の巨人」@京都市美術館


・『龍神渡御の図』。板に絵馬として描かれた、庶民っぽいおめでたさを感じさせる絵が、神泉苑さんに蔵されてる、っていうのを見ると、ああ竹内栖鳳ってやっぱり京都のお人なんだなあ、と思うね。
・竹内栖鳳は動物絵がみんなやっぱお気に入りなんだろうけど、たんに動物絵でいいっていうよりも、単体の絵なのになんとなくストーリー性に富んでる感じだなあって。『象』の背中に乗ってる猿の、伸ばした手と、乗ってる鞍と、視線の先を飛んでる鳥とか。余韻的なの。あと『喜雀図』の雀たちにつけた演出(演出つけてるとしか思えん(笑)))。ただ動的とか活々とか、愛らしいとかだけじゃない感じ。

・竹内栖鳳は、京都に生まれて、四条派に学んだけど、円山・四条・狩野の作風を全部入りさせたような絵を世に出して「鵺派」呼ばわりさせたという八重さんのような人で(京都は鵺ばっかりか)、西洋美術にも積極的で、西洋画風の写実的な写生と日本画を融合させた、ていうようなのがあの動物絵みたいなの。その直接の契機が、1900(M33)年パリ万博の視察とヨーロッパ旅行。ものすげえざっくり言うとそんな感じ。
・一方明治維新後の京都は、いろいろジリ貧で、そこへウィーン万博(1873(M6))に日本が参加するっていうんで、京都の得意な日本伝統工芸、陶器・磁器・染物・織物の新開発なり外国人向け輸出なりに力を入れるようになってた。それでじゃあデザインの伝統的なのや新奇的なのをつくっていかなきゃねっていうんで、当時の画家(日本画家・洋画家)の人たちがそういうデザイン仕事に携わってらした。竹内栖鳳もそのひとりで、高島屋意匠部(なんてのがあったんだねえ)に勤めたはったんだよ、という話。そんな話を聞くと、当時はいまなんかよりよっぽどクール・ジャパンに取り組む世間の熱量が高かったんだなと。
・1900年のパリ万博に出品されたという『波に千鳥図ビロード友禅壁掛』、は、パネル展示でしか出てなかったけど、波の描かれ方といい、鳥と雲の遠近感といい、オランダかというような月光の明るい暗いといい、そしてその月の寒さ加減といい、もう身がふるふるする。パネルなのに。パネルのくせに、なまいきだ(泣)。
・ていうんであたしは、『ベニスの月』を見に張り切ってやってきました、壁にかかった2枚のでっかい『ベニスの月』、片一方は墨絵・高島屋資料館、もう片方はビロード友禅・大英博物館。そう、こないだ行ってきたあの大英博物館さんから、こんなでっかいなりしてようおいでやしたなあという。
 ところが実に残念なことに、展示ケースの中がやたら暗くて、作品がさっぱり見づらい。よく見ると、この『ベニスの月』2枚のところだけケース上の照明が切れてる。これがトラブルで切れてるのか、または意図的に(資料保存的約款的配慮的な)消しているのかはわかんないけども、暗い。いや暗いならいいんです、暗いだけなら暗いなりに鑑賞すればいいはずなんだけど、この展示ケースの向かい側正面にも展示ケースはあってそこの照明は煌々と灯っているもんだから、その光がこっちのガラスに映りまくってて、邪魔すぎてやかましすぎてベニスも月もあったもんじゃない、ていう。運河に映る寺院も波にさす影も薄曇りも、和の墨も洋の光も、余韻も幽玄も朧さも何もネオンサインみたいな光にてってか照らされてて、その光を避けるために一生懸命かがんだり斜め下からのぞきこんだりしている。なんだこれ、ていう。

・舞妓さんの『アレ夕立に』なんてのも人気のある絵なんだろうけど、本作や下絵、写生よりも、なぜかモデルを撮った当時の写真のほうに興味がいってしまう、ていう。おお、写真残ってるな、こっちのほうが貴重じゃないのか、ていう。

・竹内栖鳳といえば旅ですって。旅なんですってよ! だってあれでしょ、『羅馬之図』(海の見える杜美術館)もあるんでしょ。そうおもってウキウキしながら懸命に会場内を鵜の目鷹の目で・・・・・・ない・・・前期のみ展示だった><(大泣)。
・そのかわりに見れたヨーロッパの絵・その1『羅馬古城図』。おお、なんだ、ローマでおなじみサンタンジェロ城(https://twitter.com/egamiday/status/286913817047347200/photo/1)じゃん。てことはむこうにうっすら見えてるのはバチカンさん(https://twitter.com/egamiday/status/286913102920953856/photo/1)ですね、なるほどなるほど。
・ヨーロッパの絵・その2『和蘭春光・伊太利秋色』。なるほどまごうことなくオランダの農村。まごうことなくイタリアの遺跡。それでいて、なるほどなるほどまごうことなく六曲一双のために描かれた構図、ていう。絵はがき飾るんだったら迷わずこれなんだけどなあ・・・なかった・・・><。

・さておき、パリ万博(1900(M33))視察にあわせてヨーロッパの主たる各地、思いつくようなところの大抵をまわりにまわって約4ヵ月、その間に描き貯められた膨大な数の写生が・・・、ない、らしい。え、ないの? ひどい><(再泣)。
・そんな中で残っている品々。残ってた写生帖ひとつ。竹内栖鳳旧蔵というパリ万博図録。これに、おおぅ、竹内栖鳳の書き込みがある・・・これはほしい・・・。(注:もらえません) 
・そして竹内栖鳳が現地から日本に出したという絵はがき。ロンドンのクリスタルパレスのと、パリの万博会場の。いや、絵はがきだったらうちにも、それこそ博覧会絵はがきの類が山ほどコレクションとして蔵されてて、一応見慣れてはいるはずなんだけど、それは商品としてというか出版物としての絵はがきであって、やっぱりあれだ、絵はがきっていうのは手書きの私信が書き込まれてあってこそのものであって、パッと見にしろじっと見にしろ伝わってくる魅力、いや引力が全然ちがうなあと。ぐいぐいひっぱって来るなと。

・あと後半は、動物にしろ水辺や滝にしろ、写真がいっしょに飾ってあって、あ、写真だわあーい、写真があるとテンションがちがうね(笑)。

・課題。竹内栖鳳とパリ万博・ヨーロッパ旅行まわりの文献をもっと確認。

posted by egamiday3 at 21:52| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月15日

(メモ)「画像の効用」立命館大学文化情報学専修連続講演会(第6回)@ARC


 立命館大学文学研究科主催、文化情報学専修連続講演会の第6回、「画像の効用」、のメモ。

 2013.11.29
 http://www.arc.ritsumei.ac.jp/lib/GCOE/info/2013/11/post-100.html

●前半「画像の効用」(国文研・今西館長)
・参照:国文学研究資料館の平成26年度からのプロジェクト「日本語の歴史的典籍の国際共同研究ネットワーク構築計画」(http://www.nijl.ac.jp/pages/cijproject/index.html)(同館と国内・海外機関との連携で、日本古典籍約30万点を画像化・データベース化。平成26年度から35年度まで、約88億円)
・今回の講演の重点は、そのプロジェクトそのものについてではなく、その手前としての日本古典籍研究における画像情報の効用について。
・国書総目録は日本の文献学を飛躍的に向上させたが、戦前の所蔵情報が更新されないなどの難がある。
・戦後の追加情報、国文学研究資料館による各地の文献調査、国文研所蔵の和古書やマイクロの目録を含め、『国書総目録』と『古典籍総合目録』を統合するかたちで構築・公開したのが、「日本古典籍総合目録データベース」。
・国書総目録は古本屋が和本のヨミを確認するために重宝されてるよ、という話 。
・とはいえ、国書でわかることなんて限られてて、例えば撰集抄について「慶安三版(九冊)」「慶安四版(九冊)」とだけ書いてあるのを見ると、パッと見、あ、継続して刷られたんかな、と思いがちだけど、画像を見るとまったくちがうことが一目瞭然であるよ、と。
・逆に沙石集は数十年離れているんだけど、本文はまったく見た目がちがっても識語はまったく同じだよ、というようなこともある。
・そういう例が次々に紹介されています。
・寛永六年版『伊勢物語』の東大本と岩瀬文庫本を比べたとき、片方には手彩色入りの挿絵が含まれているが、もう片方にはそれがない。「目録データベース」上では「<寛永六版(二巻二冊)>東大,岩瀬」と記されているのみで、絵入りかどうかの別すらつけられない。
・というような例が次々と画像つきで説明されていて、その説明はその画像を見ながら聞けば一目瞭然なんだけど、その説明を個々にこうして言葉だけでメモしても、正直なんのこっちゃわかるまい、そのことこそが「画像の効用」なんだな、と思い知らされる、本来の意図ではないだろうけどw
・刊年が同じ本だってやばい。寛永六年版『伊勢物語』のAとBを比べると、Aには手彩色付きの挿絵がある。Bにはない。
・絵無し本は絵がなく、絵入り本には絵があり、絵がある方ではその直前のページがその段落で終わってのこりが空白でも不自然じゃないけど、絵無し本でそれをやっちゃうと不自然な空白になっちゃうので、絵無し本は丁によって行数がちがったりするんだよ、っていう話なんか画像無しじゃまず間違いなく伝わらんだろう、ていう。
・国文学研究資料館での文献調査でも、調査票に行数の違いなんかが報告されてくれてないという残念さがある、らしい。←これはほんまでっか?
・平家物語のカタカナ本かひらがな本かもわからない。そのカタカナ本とひらがな本には厳然とした区別があって、歴史系仏教系漢籍系書物であればカタカナ書き。ひらがな本は婦女子に広く読まれるのが前提。保元物語もそう。源平盛衰記もそう。太平記もそう。カタカナ本のひらがな本化には絵を伴います、ひらがな本で絵入りじゃないのはないと言っていいんじゃないかな。その原則的な使い分けが、厳密でなくなっていく時期がある。・・・・というようなことも、画像にすれば一目瞭然だけど、いまのデータベースにはぜんぜん記載されてない、という話。
・というわけで、そういったことがよくわかるように、デジタル画像として資料を公開することに意義があるんですよ、という「画像の効用」話。

●後半「海外古典籍デジタルアーカイブプロジェクト」 赤間先生
・参照:『イメージデータベースと日本文化研究 バイリンガル版』 (シリーズ日本文化デジタル・ヒューマニティーズ): 赤間 亮, 冨田 美香他
 http://www.amazon.co.jp/dp/4779504368
・たとえばV&A所蔵の浮世絵などはV&Aサイトのデータベースで画像が公開されているけども、それをデジタル化したのが当プロジェクトである。約2万何千というスケールのそれを実施した。ほかに大英博物館の和本など(北斎漫画など)。
・4年間で、イギリス3箇所、イタリア3箇所、ギリシャ、チェコ、アメリカ、など。
・これまで海外にある日本資料の調査ではおおむね、日本から行った日本人研究者のみが、簡易な目録などをとって、日本国内の紀要や簡易製本などで目録として発表、というようなことが行なわれるのがよくあるパターンだった。ところがこれが現地には評判が芳しくない。
・このプロジェクトでは撮影デジタル化した画像データを、現地に寄贈して来る、というのが基本。また目録作成についても、現地の目録規則にそってつくる。
・さらに、そういったことを日本のスタッフだけで日本のためだけにやるんじゃなくて、現地の院生やスタッフや研究者といっしょになって行なうんだ、ということ。
・称して「ARCモデル」。自炊型のデジタル化事業。研究者みずからが機材をセットアップして撮影できるようにする。というのも、デジタル化作業にはそもそも、対象資料に対する基本的な知識が必要である、と。。ARCではARC内で最低限の修復指導ができるようにしている、なぜなら、デジタル化作業に際して資料取り扱いへの臨機応変な対応が必要なため。
・これをふまえての、「国際型ARCモデル」。イタリアでは、現地学生研究者に参加してもらって自分たち自身で一連の作業ができるようにしてもらう。
・また2011年2月にはARCでワークショップを開き、各国から学生らに来てもらって学んでもらった。このワークショップで学んでもらったことを、現地に戻って作業を行なうときに他のスタッフにも伝えてもらう。(スキル・ノウハウが自律的に循環・伝播していく。)
・参加したベネチアの学生は、イタリアに持ち帰って、ARCスタッフなしで(日本とのネット遠隔打ち合わせのみで)イタリアでの作業チームをつくって実施することができた。
・このプロジェクトでつくられた画像は現地に寄贈される。
・イタリアからも日本からもどちらのスタッフもアクセスし共同作業できるデータベースをネット上に構築する。
・イタリア語目録(画像付き)を作成する。
・デジタル化しさえすればそれでいい、ではない。技術そのものの移転、情報の共有化、知識経験の移転、それによる人材育成。これがあるからこそ、いままで見向きされていなかったような小さな埋もれた日本コレクションに対して、研究の可能性を拓くことができるようになった。
・国際ARCモデルは、これまでマレガ文庫、フリーア、ナープルステクなどで実施されてきた。今後はライデン民族学博物館、ベルリン東洋美術館の予定。
・ARCサイトのデータベースでは、機関別DBや国別DBを構築している。ということは、現地の博物館のほうで(技術的事情その他などの理由で)公開できなくても、同様のデータベースがここに構築されていて利用でき、ということ。
・この仕組みはいつ聞いてもすごいな、汎用性がすごい。
・カメラ1台で1日実働8時間。浮世絵なら400枚、書籍なら1500枚。1週間5日間で、浮世絵1800枚、書籍130冊。
・このプロジェクトで重要なのは、高精細かどうかよりもむしろ速度。つまり1日・1週間でこの人数でどれだけ数をこなせるのか、ということである。(高精細かどうかは、いまの技術ではもうあまり問題にならない?)

・このあと質疑応答あり。
・この日、立命の寄席の学生さんを連れてきてレポート課題を課していたので、その学生さんたちに聞かせたい話をしてもらおうと、(ていうか、このままだとレポート書きづらいだろうから書きやすくしたげようと(笑))、いくつか質問を投げる。学校教育の現場での活用についてと、権利の考え方について。特に権利の考え方については、当時ちょうど指摘されてたhttp://blog.livedoor.jp/yatanavi/archives/53088776.htmlの件に絡んで、利用の邪魔にならないようにすべきだし、そもそも使ってもらったほうがいい、というコメントを引き出せたのですごいありがたかった。これを踏まえて、翌週の「著作権とデジタルアーカイブの活用」噺につなげた感じ。
・話の内容もそうだけど、「言葉が難しくてわかんなかった」「なんで京大の人がいたの?」などの経験を、教室外という場でさせることができたっていうほうが、もしかしたら意味あったのかもしれない。そういう経験これまでなかったのか?という疑問もあるにはあるけど、ともあれ、せっかく京都みたいな有象無象の人や機関や催しに気軽に触れられる土地で勉強してるんだから、自発的にそうする機会がないんだったらこっちが連れて行く、ていう勢いにしたほうがいいんだろうなと。これについてはもうちょっと考える。
posted by egamiday3 at 13:16| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

egamidayラジオ(仮)#003 同立/立同ナイト@京都(20121213)の記録

 
 ご当人たちからの”発注”を請ける、というかたちでラジオというメディアをコンテンツのもとに届けに参ったという、第3回でしたよ。
 概要は下記の通り。

egamiday ラジオ(仮)第3回
同立/立同ナイト@京都
https://sites.google.com/site/shikenhoso/003

・ゲスト・パーソナリティ
 DUALIS(同志社大学図書館情報学研究会)
 https://twitter.com/dualis_doshisha
 立図研(立命館大学図書館研究会)
 https://twitter.com/rittoken
・(ホスト・ディレクター: egamiday)

・2013年12月13日 19:30-20:30頃
・Ustream (アーカイブは2013.12.15現在公開あり)
 http://ustre.am/BxYV 
・ハッシュタグ
 #egamidayradio
・当日のtogetter
 http://togetter.com/li/602462
 ( http://togetter.com/li/602459 も)

・主なトピックス
-DUALIS & 立図研 自己紹介・活動報告
-図書館総合展参加報告
-関西・図書館系学生ネットワークへの道
-DUALIS TV(12/6放送)反省会

・放送場所 今出川新町の某DUALIS部屋
・機器 ヤマハ?の集音マイク+ノートPC
・映像 なし

 参照: 過去の記録。
・第1回
 http://egamiday3.seesaa.net/article/223145618.html
 http://egamiday3.seesaa.net/article/223256292.html
・第2回
 http://egamiday3.seesaa.net/article/357999046.html

 第3回当日の視聴者数は、ユニークユーザで56人、延べで111人でした。
 ご出演・ご同席くださった皆様、コメントくださった方、聴いてくださった方、聴いてくださってない方にも、皆々様に感謝申し上げます。

 以下、メモ。

・DUALIS&立図研の懇親会にお邪魔した席で、egamidayラジオ開催のオファーを請ける。横浜の図書館総合展での報告その他がしたい、とのこと。
・これは前回同様の考え方なんだけども、まだかたちにはならないけどもなにかしらの”コンテンツ”を持っている人たちのところに、「Ustreamで流すラジオ放送」という”メディア”を届けに来ることで、そのコンテンツが形となりメディアを通して多くの人びとに伝わっていく、そういう効果を狙うための、メディアとしてのegamidayラジオである、ということ。
・DUALISさんにしろ立図研さんにしろ、そういった意味ではまさに「いまだ可視化されていない魅力的なコンテンツのあつまり」だという目論見が前々からあったので、ほかならぬ当人たちから”メディア”宅配のオファーがあったわけだから、届けに来ない理由が微塵ほどもない、ていう。

・12/13ラジオ放送に先立ち、DUALIS側より、12/6にもわけあってUstreamのテストをしないといけないので来てくれないか、とのオファーあり。これについては、DUALISのみで独力の放送を企画・製作してみてはどうかと提案したところ、あっさりとこなしてのけられた、ていう。DULAISの自己紹介・活動報告が数十分の動画で放送され、華麗なるフリップ芸が披露されたという、それでいてアーカイブが残っていないという伝説の放送となった。

・12/13ラジオ当日。
・まずは、体調管理が万全でなかった自分が全て悪いのです、ごめんなさい、謝るしかない。しゃべりづらいし、聞き苦しいし、とっさのコメントがノドに絡んで咳しか出ない、ていう。><
・ところが、正直あたしいなくてよかったんじゃないかというくらい、DUALIS&立図研のメンバーのラジオ放送としての働きがすこぶる優秀だった。
 はっきりした大きい声で、整った日本語で語る語り手。語り手の語りがひと段落つきそうになるころに、その語りを受けた適切な質問や次のキーワードを投げかけ、トークの流れを仕切っていくパーソナリティ。沈黙の間を決して作らせず、適切に言葉をはさんで話題をつないでいくコメンテーター。イヤホンで音声を確認しつつ、次に誰にしゃべらせるかを指で指示するフロア・ディレクター。流れがひと段落しそうなころに割り入って、twitterでこんな質問が来てると見事にピックアップしてくるメッセンジャー。上級生からの無茶ぶりにまったく動じることなく「やります」とどこから湧いてるのかわからない自信を胸張って見せつける下級生。オープニングを飾る生演奏のピアニスト。しかもどれもこれもが、別に事前打ち合わせをしていたわけでもなんでもない。
 こいつら、プロか、と。なんか、あたしひとり騙されてここに座らせられてんじゃないか、というくらいの即戦力っぷりだった。
・これ、あたしいなくてよかったですよね?? 
・持ってきたコンテンツがまた上手い。「同志社と立命館のラーニング・コモンズ運営の比較分析」なんか、業界人必聴でしょうと。
・音声について、集音マイクの操作がちゃんとわかっていなかった。全体的に小さめだったらしい。遠めのメンバーからの声がリスナーには届いていなかったらしい。など少なからぬ反省点あり。音については事前の充分なリハーサルが不可欠かと思われる。これはUstream放送では永遠のテーマなんだろうけど。
・あとは映像がいるかいらんか。テレビがいいかラジオがいいか。これは要検討だろうなとは思う。

 というわけで最終的に、DUALIS・立図研両者でラジオ放送を始めるという口約束が出たので、これで所期の目的は果たせたな(ていうかそれが所期の目的でしたな)、という感じです。当ラジオが持つ”単体としてのメディア”の役割は、少なくともDUALIS・立図研に対してはその役目を終えました。”コンテンツ自身がメディアを持ち備える”ことになるわけなんで。
 
 そういった意味で、4月の第2回放送と12月の第3回放送、ともに、「コンテンツとメディアとがどう会う/合うか」を考える2013年を代表するようなイベントでした。
posted by egamiday3 at 11:55| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月08日

「ユーザはどこにいるか?」についての考えまとめ -- 2013年的な視点による

 
 なんか今年は思ったよりいろんなことがあったような気がして、もうそろそろまとめ的なことを書かないと年越せないんじゃないか、紅白で千円返してもらえないんじゃないかというんで、なんとなくまとめめいたことを考えてたっていう感じです。

 今年って、特にこういうことを考えてたよなあっていう、3点。

(1) 我々はなぜ”支援”するか
(2) ”ユーザ”とは誰か、どこにいるか
(3) ”コンテンツ”と”メディア”が会う/合う、ということについて

 いやこれ↑は今年に限らずだろう、ではあるんだけど、特に今年は、ていう。

 それで、(1)「支援」はもう下記でおおむね考えた感じなので、

・図書館はなぜ"支援"をするのか : いわゆる「若手研究者問題」に寄せて: egamiday 3
 http://egamiday3.seesaa.net/article/363278785.html
・「図書館はなぜ“支援”するか」. 『大学出版』. 2013.7, 95.
 http://www.ajup-net.com/daigakushuppan

 (2)の「ユーザ」について、2013年的な視点で考えたらこうなった、ていうまとめです。
 キーワードは下記のような感じ。
----------------------------
・日本専門家ワークショップ@NDL
・若手研究者問題
・武雄市図書館
・「知の広場」(アントネッラ・アンニョリ)
・京都府立総合資料館トークセッション
・大英博物館・春画展
・特定秘密保護法
・博物館紀要問題
----------------------------

 自分の仕事と立場から、あらためて、ていうか耳タコレベルで言うと。

・(メモ)日本専門家ワークショップ2013 の index: egamiday 3
 http://egamiday3.seesaa.net/article/331591534.html

 国際的に日本の文化を研究する人たちを支援するセンターの図書館司書という立場です。
 海外には、日本について学ぶ学生や研究者、日本の資料・情報が必要なユーザたちがいます。その支援をする現地の図書館・研究機関もあり、専門家もいるでしょうが、やっぱり日本にある資料・日本から発信される情報にアクセスするっていうことが求められるし、求めたいわけです。
 でも、そういう海外からのユーザをデフォルトで念頭に置いている図書館というのはそう多くはないでしょう。図書館に限らず、国内のあらゆる地域・種類の文化機関、学術機関、情報機関、企業、官公庁・自治体等々にとって、海外からアクセスしてくるユーザというのは決して無関係ではないはずなんで、ユーザとしてのご想定お願いします、と。いうのが、あたしの一貫したあれです。

 で、問題になるのは「海外かどうか」だけじゃないよな、ていうのをあらためて意識したのが、いわゆる若手研究者問題です。

・CA1790 - 若手研究者問題と大学図書館界―問題提起のために― / 菊池信彦 | カレントアウェアネス・ポータル
 http://current.ndl.go.jp/ca1790
・我々は「若手研究者問題」を観測できているか : #西洋史WG に寄せて: egamiday 3
 http://egamiday3.seesaa.net/article/362795408.html

 キャリアパスの関係上、一時的にでも大学の籍を離れる若手研究者が、図書館の資料・サービスにアクセスできなくなってしまう。それに対して大学図書館はどうしましょうか、っていう話。
 これが思った以上に関係者からはネガティブな反応が多くて、正直あれえって思ったんですけど、その反応ってやっぱり「ユーザは誰か、どこにいるか」という問題への意識の向けられ方の差に起因しますよね、ていう。実務上・リソース上の制限があるのは当然としても、若手研究者に限らず、学内・学外・海外に限らず、研究者・専門家・一般人の別に限らず、それぞれのニーズとその環境・社会の変化移ろいを、ちゃんと観測して、理解しなきゃだよな、って思うです。

 それをもっと一般化して言えば、「自分たちがイメージする、想定の中だけの”ユーザ像”にもとづいて、図書館のあり方やサービスを設計してないか」、そこを意識的に、反省的に考えたい、ということだと思います。

・武雄市図書館
 http://www.epochal.city.takeo.lg.jp/winj/opac/top.do
・図書館総合展「"武雄市図書館"を検証する」全文 - 激論、進化する公立図書館か、公設民営のブックカフェか?
 http://www.huffingtonpost.jp/2013/10/31/takeo1_n_4186089.html

 そりゃ賛否両論あるでしょう。これはあかんだろうと言いたいところもあればうなずけるところもあり、採り入れたいところもあれば反面教師にしたいこともあり。

 これはあかんだろう、のひとつといえば。
 「この図書館が気に入らない人は、よそへ行けばいい」、という言説です。
 あかんだろうとは思いますが、さてじゃあこれをあかんと言うのであれば、これまでの図書館だって等しくあかんと反省せなんところあるだろう、と。スタバやツタヤやアミューズメントパークのような図書館にだったら、あれだけの数のユーザが来る。それが厳然たる事実なんだったらじゃあ、そうじゃないこれまでの図書館はそういう客層の人たちのことを、果たしてどれだけ”ユーザ”として想定できて/していたんだろう、真摯に向きあってこれたんだろう、っていう。

 「想定の中だけのユーザ像」への反省、ということを考えずにはいられないわけです。

 似たようなことは、武雄さんとはうってかわって業界関係者に大人気の、アンニョリ姐さんの話からも学べると思うんです。

・イタリア語学科主催講演会「知の広場ー新しい時代の図書館の姿」 | 京都外国語大学・京都外国語短期大学
 http://www.kufs.ac.jp/news/detail.html?id=3eae071978e28fb904d9351d5a3ec734&auth=1
・「知の広場ー新しい時代の図書館の姿」アントネッラ・アンニョリ氏講演@京都 20130606: egamiday 3
 http://egamiday3.seesaa.net/article/365519665.html

 複雑化するユーザのニーズに応える、知の広場。
 応えるためには、ユーザを理解しなければならない。
 公共性を持つ文化機関・学術機関であれば、「想定の中だけのユーザ像」について反省し、思い込みや既存の枠組みをとっぱらって、ユーザは誰でどこにいるか、社会の動きや世界のあり方について、真摯に見つめ、理解しようとしないと。

 そういうことを、7月に京都府立総合資料館で催されたトークセッションではお話した感じでした。

・総合資料館開館50周年記念 トークセッション「新資料館に期待する」/京都府ホームページ
 http://www.pref.kyoto.jp/shiryokan/50shunen_talk.html
・ざっくりと、知的生産インフラ・知の揺籃インフラとしての図書館について、考えたことのメモ: egamiday 3
 http://egamiday3.seesaa.net/article/369162745.html
・トークセッション「新資料館に期待する」にて、極私的・心に残ったいくつか メモ (#総合資料館TS): egamiday 3
 http://egamiday3.seesaa.net/article/369447155.html

 新しい総合資料館様におかれましては、一般ユーザ、専門家ユーザ、研究者・大学ユーザのいずれをも受けとめることができるというその垂涎もののお立場を活かし、知の揺籃インフラとなっていただきますれば、あたしも一ユーザとして足繁く通わせていただくことになろうかと存じおります。

 ユーザは誰か、どこにいるか。
 一般・専門家・研究者に限らないし、国内か海外かに限ることもない。
 ユーザが求めるんだったら、どんな資料にも限定しないし、どんな活動・業務にも限定しない。
 「ユーザの無限定性」、それをふまえての「資料の無限定性」そして「活動の無限定性」です。

・大英博物館・春画展への”はじめてのおつかい”: egamiday 3
 http://egamiday3.seesaa.net/article/376964225.html

 羅馬路の道の果てよりもなお奧つ方のグレートブリテンに、美しき国の美しき春画を求める人たち=ユーザがいらっしゃるのであれば、行きます、運びます。だったら、おのれの専門分野が何だろうが館種・立場がどうであろうが、ユーザにとっては関係ない。ずっとお腹痛くても泣き言言わずにやるべきことをやる。そういう職業に就いてるんだということを、ある意味身体で実感しました、っていう。
 もちろん、自分一人・自機関単独でその責務がまっとうできるわけでは決してない。ユーザと資料とその必要性に応じて、他分野・他業界の機関や専門家の人たちと連携する、協働する、共に働く。あたしにとってはそういう人たちはみな、同僚です。colleagueです。課内の人も課外の人も同僚であることはもちろん、他館の人も、他館種の人も、偉大なるブリテンのMuseumの人も、偉大なる都のArchiveの人も同僚。研究者も、サイエンス・コミュニケーターの人も、URAの人も、出版社やwebサービスの人も。どんな活動を行なっている人であっても、疑うことなく自分にとっては同僚です。
 ちょっと逸れましたが、どんな資料を求める人でも、そのためにどんなサービスや活動や専門性が必要な人でも、ユーザに変わりない、っていう考え方の派生です。

 どの国にいる人でもユーザである。
 どんな資料を求める人でもユーザである。
 だったらもちろん、どんな時代に生きる人でもユーザである。そういうことになります。

・特定秘密保護法案に反対することにした - yuki_0の日記
 http://d.hatena.ne.jp/yuki_0/20131204/1386175959

 我々の世界の延長線上にある、「後世の,私のムスメの,あるいは私の孫の世代」の人びととその社会、そのことを真剣に考え想うからこそ、この問題はあれだけの議論になるわけだし、短期的な目で考えるべきではないだろうし、長期的・継続的な議論や検討をたゆまず続けていくべき問題なんだろう、と思うんです。

 ことほどさように、特に図書館業界とその関係界隈というのは、利用者・ユーザというものを下にも置かない。
 まあ個人的意見としては過剰な利用者至上主義はいかがなものかと思うものの、おおむねでは「ユーザが大事」という考え方には何の異論も出ないもんだ、と、思っていました。
 そこで、え?っと思った話がひとつ。

・日本博物館協会、「雑誌記事索引採録誌選定基準の改定等に関する要望書」を公表 | カレントアウェアネス・ポータル
 http://current.ndl.go.jp/node/24947

 確かに、ちょっと物言いなり姿勢としてはどうかと思うところがなくはない。けど、あまりにもあからさまにネガティブな反応ばかりが出たことに、ちょっと驚きました。ちょっと驚いて、やがて悲しき、そして、ああそういえばそうだったなあという感想。

 資料・情報、文化資源・学術資源の入手・アクセスを必要とするユーザは、言わば”受信者としてのユーザ”です。
 受信者側がユーザなら、”発信者としてのユーザ”も存在するはずです。
 図書館その他がメディアとして、媒(なかだち)として、流通のところを担うというんであれば、受信者も発信者もどちらもユーザに変わりない。というのが、あたしのかねてからの考え方です。

 発信者もユーザなんだったら、今回のこの問題はざっくりざっくり言えばアウトリーチの問題だろうと思います。バリアフリーでもいい。
 受信者としてのユーザに対してはあらゆる立場の人、バリアのある人、届きそうで届かないユーザに、手を変え品を変え知恵とおもてなしの心をしぼって、届けようリーチしようオープンにしようとしている図書館業界が、なぜか、発信者としてのユーザに対してはびっくりするほど冷淡になる、という現象について、あたしは前々から感じてて何かと気になってはいましたが、今回それが結構わかりやすいかたちで表面化したなあ、という感じでした。
 この博物館紀要問題へのネガティブ反応については、若手研究者問題のそれととてもよく似た空気感が流れてたな、と思います。まあ、どちらも、いろいろな立場からいろいろな考え方で議論して解決に向かってったらいいと思うので、その議論を阻むようなネガティブ反応は困るなあ、っていう感じです。

 相変わらず長いですが、もう終わります。

 ユーザは誰か、どこにいるか。
 日本だけでなく海外にもいます。学内にも学外にもいるし、市内にも県外にもいるし、過去にも未来にもいる。一般の人もユーザだし専門の人もユーザだし、半専門の人も週末専門の人もいるし、グラデーションです。情報流通の上流にいる人も、下流にいる人も、受信者も発信者も生産者も消費者も、思想の右にいる人も左にいる人も、反対派も賛成派もどっちでもない人もどっちでもある人も、ユーザです。どんな資料を求めるか、どんな文化資源・学術資源を求めるかも限らない。流行りの文化を消費するだけの人も、エンタメしか求めてない人も、いまこの場に、この図書館にいる人もいない人も、それぞれみな、何らかの意味でユーザである、と。ひいては我々が築く社会全体、我々をとりまくこの世界、それそのものもユーザであると言っていい。ていうか、言いたい。

 なんだろな、なんであたしってこんなに「ユーザ」というものにムキになってんだろ、と思わなくもないです(笑)。
 なんででしょう。

 それはたぶん、自分自身を一ユーザとしてとらえているから、だろうと思います。

 自分だって、この世界・社会の一員であり、一ユーザであることにかわりはないです。だから自分自身の問題。自分のいる社会・世界の問題。
 そして、ただいまいる場所やタイミングがちょっとボタン的にかけちがっただけで、どんな立場のどんな種類のユーザになっていたかもわからないし、これからだってなる可能性はいくらもある。
 そう考えると、若手研究者のことも、紀要発信者のことも、遠国の春画を求める人のことも、それを描いた絵師のことも、図書館学徒の娘のことも、スタバ・ラヴァーの人のことも、とてもじゃないけど他人事とは思えない。みな、自分の分身だなあって。

 「ユーザ」を考える、って、そういうことだと思います。



 「じゃあおまえ、自分が好きなだけだろ」って言われると、返す言葉がないので、まあじゃあそれでもいいです。(笑)

posted by egamiday3 at 12:31| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする