2014年04月21日

(メモ)「アメリカの図書館はいかにマンガを所蔵するようになったか」(情報の科学と技術 2014.4)

椎名ゆかり. 「アメリカの図書館はいかにマンガを所蔵するようになったか : 大衆文化の文化ヒエラルキーの変遷」. 『情報の科学と技術』. 64(4), 2014, p.146-152.

・アメリカの図書館において、コミックブックは1930年代の誕生以来、「低俗な読物」と批判的に扱われてきた。
・当時、そもそも新聞が、雑誌よりも下層階級向けの読物と考えられ、そこに掲載された「コミックストリップ」もそう評価されていた。
・1930年代に誕生した「コミックブック」=コミックストリップの再掲本、は、子ども向けであり、子どもに人気であり、そして親が警戒するというパターン。
・戦後激しくなる規制要求運動。運動の存在自体が、コミックブック=悪影響、の認識を定着させる。

・グラフィックノベルが登場する。(1960年代)
・グラフィックノベル=悪い印象のついたコミックブックと差別化をはかるための造語か、説。
・マンガが図書館蔵書とされるには、コミックブックのようなパンフレット製本ではなく、小説本と同様の体裁・出版形態が必要だった、説。
・80年代以降のグラフィックノベルが、マンガの否定的な印象を払拭し始めた。→再評価へ。
・2002年、ALAカンファレンスで初めてマンガがテーマとしてとりあげられる。これが転換期。(注:あたしが参加した2007年のつい5年前でしかないのか!)
・2007年、ヤングアダルト図書館協会が年間ベスト10リストを発表。

・アメリカの図書館におけるマンガの扱われ方を変えたのが、日本のマンガだった。

・1987年、Viz Communicationsが小学館の子会社として設立。
・80年代・90年代の、アキラ、攻殻機動隊、セーラームーン
・90年代後半にポケモンがアメリカ上陸。トイザらスなどでポケモンマンガの売れ行きが好調だったため、一般書店も日本マンガの仕入れに前向きになった。(それまではマンガ専門店のみ)
・2002年、TOKYOPOP社とBorders社が日本マンガのキャンペーンに成功。(本気のマーケティング、コスト削減、販売戦略)
・アメリカにおけるマンガ自体のイメージとアクセス(一般書店)を向上させた。
・市場:ピークは過ぎ、定着へ?

・アメリカにおけるマンガのイメージとアクセスの向上→図書館での所蔵へ。
・90年代以降、批評対象、研究対象としてマンガが扱われるようになる。
・学習・教育の効果。
・図書館へのリクエスト・利用増の効果。
・2007年、図書館資料購入の10%をグラフィックノベルが占める。

・実態についてはわからないことも多く、北米におけるマンガについての調査研究はまだ始まったばかりだ!
posted by egamiday3 at 12:59| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年04月02日

議論について思うこと

議論していて、あるいは議論している様子を見ていて、おもしろみがあって意義深いことだなあと思うのは、議論をしているうちにお互いの/それぞれの考えが徐々に変わってきたり、影響され合ってきたり、それまで持たなかった考えを持つようになったり、ともに絡みあうことで異なるものがあらわれるようになったり、そういうところにこそ本当に議論して意義のあるものというのはあるのだと。
だから逆に言うと、自分の考えをはなっから曲げることなく、相手の言うことを聞いて理解した上でどこか取り入れることがないかとなどしようともせず、言い負かしたり否定したり正しいか間違いかを言うだけで、ただただ、これはこうだからこうなんだ、自分の考えはこうであり、それはこうだから正しいのであって、そう考えないのは間違っている、おかしい(よくある「勉強不足だ」「現場がわかってない」「行動がともなってない」「対案がない」に類するもの)ということを言い募るだけで、自分の考えや正しさだけをしきりに言うだけであるのは、たとえ正しかったとしても、興ざめで、価値のある考えが得られたとは思えない。
それはまるで、自分の身体はこうだ、とまっ裸の自画像デッサンをさらして見せつけられているようで、こうだ、どうだと言われてもどうしようもない。同じ裸の絵でも春画がなぜ人をひきつけるかというと、文化的社会的日常的に基づいた舞台背景の中で、人と人同士が関わりあい交渉しあい影響しあっている様が見てとれるからであって、そうでなくてこれが自分の裸体だと単に押しつけられても、それはただの人体図でしかない。
確かに科学的に正しい人体図かもしれないし、または完成された個としての芸術作品かもしれないし、そういう意味での価値の存在はもちろん認めるにもしろ、けれども、人体図や芸術が見たかったらダ・ヴィンチなりヴェサリウスなりミケランジェロなりのほうを見たらいいんであって、あんたのその裸はそこまでのもんなんか、ということである。
だから、人と議論するときには、自分の考えが変わるとしたらそのようなことを期待して人と接するのが、理想的であらまほしきことだなあと。
posted by egamiday3 at 07:57| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする