武田明『祖谷山民俗誌』(古今書院, 1955)
・剣山から流れる祖谷川の流域、山の斜面のあちこちに36の在所を形成している。東祖谷山村と西祖谷山村がある。
・農業は大部分が畑作(焼き畑)。あとは狩猟林業炭焼き。
・稲作の習俗や語彙は乏しいだろう。
・寒冷な気候とやせた土地。
・「汗とも涙ともわからぬものが流れ出た」
・交通が不便なので自給自足しなければならない。
・畑を自宅から遠い場所につくると、山小屋をつくって幾晩も泊まる。(秋になると動物を見張る)
・猿の肉は塩漬けにして、5−8年貯めて、味噌汁に入れて食べる。
・鹿はとても多い。
・部落を2-3の組にわけて、組や部落ごとに共有の林をもつ。そこのものなら萱や薪を自由にとれる。
・大木を切る杣師は、他所から入ってきた人が多い。
・大木を切るときはコダマヌキ(木霊抜き)の文句を唱える。
・晴れの日褻の日の食物は守られている。常の日に食べるものは驚くほど毎日同じものを食べている。
・かかあがカカア座=テイシュ座にすわる。テイシュ座はクドに近い、飯をよそうなど給仕をする。テイシュは、宴の時の接待役に用いられ、食べ物の配当を担当する。
・食事は1日4回。昼飯と夕飯のあいだにヤツメシ。
・補給物があって、主食の麦飯や稗飯などを食べるまでに、芋・とうもろこし・稗団子などを腹7分目くらい先に食べる。
・稗は虫がつかないという特色がある。
・リュウキュウイモ(甘藷)やホドイモ(馬鈴薯)は串刺しにして焼く=デコヲマワス
・蕎麦切りに山芋をかけて食べるのが、祖谷山では評判のごちそう。
・ソバゴメ。正月のごちそう。そば粉の中に醤油野菜を入れて雑炊にしてウサギの肉を入れる。
・トウキビのハゼ。トウモロコシの実を炒り鍋ではぜさせて、砂糖を混ぜてお茶菓子にする。(えっ、これって・・・・(笑))
・モチグサという草があって、昔は餅の中に入れて食べたというが、今の人は食べ方をしらない。
・正月のおせちには必ず魚を供えたが、たいした魚も手に入らないので、めざしを食べることが多かった。
・山へ入る日は、朝ご飯1杯でも3杯でも縁起が悪い、2杯にする。
・くじゅうな。山の木の葉。つけものにするが、苦手な人がつけると苦くて食べられない。
・民家。
・家を建てるのも屋根を葺くのもすべて普請講の協力によった。こういう講が部落に2-3あった。
・便所の場所がいい場所にありすぎる。肥をとるのに都合いい。
・スノコの場所を2つに区切って、片方は行水、片方は便所。
・祖谷山では風呂はめったに焚かない。村では子供が入浴の機会にめぐまれないので、学校で風呂を焚いて子供に交互に入らせるということを4-5年前からやっている。
・祖谷山といっても広く、行事も一様ではない。
・部落内婚姻から遠方婚姻に移行すると、嫁の里のしきたりの影響が家に始まるようになる。
・お堂は各部落に必ず一宇あり、持たない部落はない。村の年中行事に重要。火の見櫓や青年団会所が併設されたりする。明治の初め、お堂にいろんな祠を寄せ集めたところもある、神社の合祀的な感じで。お堂を建てるのが部落同士で競うような時代もあって、念入りな彫刻の欄間などもある。
・年末のすすはらいの行事では、神主が各家に来て、正月を迎えるために家の神様を新しくまつる。
・カドアケという祖谷山だけにおこなわれる正月元日の行事があり、隣家などへ行って年頭の挨拶を述べる。
・トマリゾメ。正月に隣同士で泊まりに行く行事。もとは大人がやっていたのを、のちに子供がかわりにやるようになる。泊まりに行くとそこのばあさんに昔話をせがむなどする。
・七夕に短冊を吊すのは、老人の話によれば新しいことで、学校の子供が教わってあんなことをする、と言っている。
・お盆。(お盆は7月?) お盆に人の往来が頻繁になる。お墓で竹や檜の葉で火をたくと、音がかなり鳴るので、その音で仏様をお招きするということらしい。この音は地獄にいる仏様にまで聞こえるという。仏迎えと仏送りを一緒にやってるらしい。
・神社の祭は盛り上がる。平崎神社のまつりでは、みんなそろっておぼた(丸いにぎりめし)とお煮染めをもって寄り集まって、酒飲みながらみんなで食べる。池田から芝居が来る。幕間にあちこちからおぼたが行き来する。それはそれはおもしろい。13-5の娘のころはうれしくてたまらない。いまはもうない、お参りして帰るだけ。
・お産はむかしは産婆なしで一人で済ませた。
・筆の親という制度があって、後見人みたいなもの。女は13、男は15で、「筆をやるからとりに来い」と言って、筆にふんどしや腰巻きを渡して宴会をする。成年式を兼ねている。仮の親として世話を焼くなどする。
・仲人もなく両親の承認も得ずに当人同士で結婚の約束するのは最近の新しい風。最近では男20歳、女18歳くらい。
・嫁の親が反対であるが当人同士が約束している場合、嫁盗みと言って、婿の友人が嫁を連れ出す。
・墓は、むかしは自分の畑の隅に埋葬したものだった。
・50年目の法事は孫子の正月と言って、遠くへ行った子が孫を連れて帰ってくる。こうなると親類の楽しい集まりである。
・10数年前までは無医村だった。阿波の池田まで行かなきゃいけないが、奥地だととても無理なので、祈祷師に頼んだり呪文をとなえたりすることが今でもおこなわれている。(!?)
・(いまでも?)祖谷には医師が2軒しかなく、一方治療のための祈祷師は数人いる。
・おやしきの徳善家にはカリダシという制度があって、15歳の男女が3年間奉公しながら世話になる。その間年貢免除。4-5人いる。(同期みたいなもん?)
・せどさくという猟の名人がいて、イノシシ千匹とってしまったために、中津の山にこもってしまった。
・さえもんという人は、山に入って帰ってこなくなった。いまでは歩幅1間半の巨人になっている。正月3日に山に行くと必ず遭うのでその日は山に行けない。塩売りが通りかかって塩一俵をなめられてしまった。かわりに実家に行ったらたばこをたくさんもらった。
・中津の山は修験の山、とのこと。
・祖谷の自慢は、~代踊りとかずら橋。
・かずら橋は明治の中頃までには東祖谷に5カ所、西祖谷に7カ所あった。蔓は朽ちるので3年ごとにかけかえられる。
・古道は山を越えて部落同士をつないでいた。菅生の奥から池田の街に出るのに4日かかっていた。負い子でものを運搬することが村の人にとってひとつの金儲けの仕事だった。
・新道ができてバスが走るようになると、古道でつながっていた”隣”村同士の交流が途絶えがちになる。そういう変化がおこることになる。
・宝暦9年の『祖谷山旧記』という文献がある。
・古くからいる郷士(おやしき)と新しいものもいる名主(どい)がある。
・平家落人伝説がある。
・蜂須賀氏が阿波に入ったとき、祖谷の土豪が叛いた。(天正年間)。6年にわたり36名中18名の名主が滅び、祖谷山は荒廃した。近世まで荒々しい気風を持っていた。藩主の圧政に二度の反乱が起こった。
・喜多家が蜂須賀家の命を受けて祖谷山の代官として入村し、明治期まで務めた。
・トマリゾメで子供が泊まりに行くとそこのばあさんに昔話をせがむなどする。
・(西山紀行)暗くなって炉端に座っていると、手伝いに来ている人などがまじっていろいろな話がはずむ。話が終わって寝につくのが11時。
・「13 西山紀行」の阿波池田からの道中の様子がおもしろい。
・正月のカドアケの行事を取材しようとして、正月元日に家に声をかけにいったが返事がない。人はいるが物音ひとつしないで厳粛な顔をしている。カドアケは私たちが考えているようなものと違うずいぶん重々しい正月の神様を迎える行事だとわかった。
・徳島から調査に入った人が、祖谷には奇妙な風習があると新聞に書いて、青年たちが憤慨して入村禁止をせまったということがあった。
2014年08月26日
2014年08月20日
(メモ)群書類従/塙保己一/和学講談所、について(その1)
■概要
●群書類従の概要
・江戸時代に刊行された、最大かつ初の本格的な”百科叢書”
・塙保己一が編纂・刊行
・1786年頃から開始、1819年完了
・古代から江戸前期の、国内の文献・著作 1276種666冊
(平安期:約30% 中世期:約65%)
●塙保己一の概要
・1746-1821
・江戸時代後期の国学者
・和学講談所の設立
『群書類従』の刊行
・総検校
図:塙保己一正装座像
・書籍・学問
・明晰な頭脳と強靱な記憶力
・幅広い分野・人脈
・理性的
・塙保己一自身の日記・文書の類がない
・伝承的エピソードが多い
・60歳を越えてもなお数度、文献調査のために京都に出向いている
・生涯で般若心経を読誦した回数は約22000回
・菅原道真を崇拝?
●塙保己一の生い立ち
・1746、農家・荻野宇兵衛・きよの長子・寅之助として、武蔵国児玉郡保木野村(現、埼玉県本庄市)に生まれる。
・1752、7歳で失明。
・1757、母が逝去。
・1760、江戸で、検校・雨富須賀一に入門。
・鍼・按摩・灸などの医術、琴・三味線などの音曲を学ぶが、上達せず。
・隣家の旗本・松平乗尹から学問を学ぶ。
・歌学者・萩原宗固に和歌・国学を学ぶ。
・闇斎流神道学者・川島貴林(たかしげ)に漢学・神道を学ぶ。
・山岡浚明(まつあきら、明阿)に律令・故実を学ぶ。
・孝首座(こうしゅそ)に医学書を学ぶ。
・1769、賀茂真淵に師事し国学を学ぶ。
-萩原宗固のすすめによる
-『六国史』を読み通す
-約半年後、賀茂真淵逝去
・1775、勾当(こうとう)に昇進。名を「塙 保己一」とする。
-姓「塙」は、師・雨富須賀一の苗字を譲り受けたもの。
-名前「保己一」は、『文選』「己を保ち百年を安んず」から。
・このころ、高井実員(さねかず)宅に移り住む。(蔵書家で、群書類従の底本にも採用)
・このころ、大田南畝との交流が始まる。
●『群書類従』を企図
・1779年正月、北野天満宮に般若心経百万巻読誦の誓いをたてる
-『群書類従』出版の実現・完成を祈願する
-各所に散在する国書一千巻を収集する
-板本の叢書としてまとめ、刊行する
-学問を学ぶ者の助けとする
・「類従」の出所は、『文徳実録』滋野貞主伝(日本最大の編纂物といわれる『秘府略』に関する記述「以類相従」)、『魏志』応劭伝「五経群書以類相従」の語からとったものといわれている
●『群書類従』刊行の背景
・18世紀中期ころ、出版が盛んになる。(出版技術の向上、受け手の増加)
・武家・町人・文化人が身分をこえて交流しあうようになる。
・国学(日本の古典・歴史等)が盛んになる。
・和書・古典の入手・閲読は困難だった。
・公家・武家・寺社等が所蔵・秘匿し、公開されなかった。
(個々の確認も、全体像の把握もできない)
・散逸・逸失が危ぶまれた。
・「近来文華年々に開候処、本朝之書、未一部之叢書に組立、開板仕候儀無御座候故、小冊子之類、追々紛失も可仕哉と歎か敷奉存候」(塙保己一、幕府への借地願い書、1797)
・「我が国の古書で伝わっているものは多いが、刊行されているものが少ない。将来逸失してしまうのはなげかわしい。刊行されるべき」(村田春海(国学者)、『和学大概』、1792)
・「古代の優れた本でいまなお写本のみのものが多い。それらを刊行して世に広めてほしい。蔵に秘めておくのは役に立たない」(本居宣長、『玉勝間』、1793)
●『群書類従』刊行の経緯
・1786、『今物語』(鎌倉時代の説話集)刊行
・同年、『群書類従』出版を開始。
・『今物語』は、『群書類従』の刊行に先立って、その”見本用”に作成された。
・「毎月12冊づつ刊行。期間限定で塙検校宅で予約受付。限定200部。装丁は『今物語』と同様の仕立てである」(『群書類従』の広告文(大田南畝『一話一言』収録))
・このころ、門人が増えるなど、学者活動が活発化する。
・会読・校合活動
・このころ、結婚、長女誕生、離縁、再婚。(1782-1785頃)
・1783、検校に昇進。
・日野資枝(すけき)・閑院宮典仁(すけひと)親王・外山光実に入門、堂上歌学を学ぶ。
・蔵書・底本の渉猟
江戸・名古屋・伊勢・京都・大坂など
幕府・紅葉山文庫
伊勢神宮
水戸藩・彰考館
寺社(増上寺、真福寺など)
公家(日野家、飛鳥井家など)
武家(浜田藩主、佐伯藩主など)
師匠・萩原宗固、知人・高井実員など
門人・奈佐勝皐、横田茂語、屋代弘賢ら
・門外不出の資料
・他に伝本のない孤本
・1789、『大日本史』の校正に参加する。
-水戸藩の彰考館での校訂編纂に参加する。
-立原翠軒(彰考館総裁)の推挙による。
-1785、彰考館で『参考源平盛衰記』校訂に参加。
-1788、保己一、『花咲松』(はなさくまつ)を刊行。(吉野朝の長慶天皇の即位・非即位問題について、水戸とは対立する非即位説を論証した著作。非即位説は現在は否定されるが、当時は論破できなかった)
-幕府により、学問的実力を認められた。
●和学講談所
・1793、和学講談所の設立を幕府に申請し、認可される。
・「寛政の改革以来、諸学問が盛んになったが、和学だけがまだおこなわれていない。歴史・律令の類によりどころがない。そのための機関を設置して、和学に志があるものを学ばせたい」(塙保己一、和学講談所設立の願書、1793)
・幕府が設立を許可
-300坪の土地を貸し与える(現、千代田区四番町)
-資金の貸し与える
-林大学頭の下に位置し、官立に準ずる機関とされる
・”公的事業”として公認される
(その後も公的援助などあり)
・松平定信が「温故堂」と命名する。
・記録:『和学講談所御用留』
・背景
・国学の台頭
・これまでの会読・校合活動の実績。
・水戸藩『大日本史』校正参加の実績。
・検校としての経済的基盤。
・有識者・幕府関係者との人脈。
・幕府の文教政策(寛政の改革、昌平坂学問所の設立など)
・和学機関の不在(林家・昌平坂学問所では朱子学以外を禁じた)
・和学講談所の機能(4)
-和学・国学の教授・会読
-古典・文献の調査・収集・校訂
-幕府の要求に応じ資料提出・原案起草
-出版事業 (保己一の『群書類従』刊行事業を含む)
・1793、竣工翌日から講談会が開始される。
・会頭は、奈佐勝皋(かつたか)・屋代弘賢(ひろかた)・横田茂語(しげつぐ)・松岡辰方(ときかた)
・毎月3回、二の日に定例会
・『古事記』『六国史』『律』など(学則)
・古典・文献の収集・校訂
・全国(名古屋・京都・伊勢など)に出向き、公家・武家・寺社の孤本・秘本を書写・収集
・幕末期で12000冊所蔵。(『和学講談所蔵書目録』)
・林大学頭の支配下に入り、官立に準ずる機関
・運営資金
-幕府からの資金提供・手当
-幕府からの借金
-鴻池など商人からの借金
-検校としての保己一の収入
-移転時の借地・資金
●和学講談所の出版事業
・『群書類従』『続群書類従』
・『日本後紀』の校訂・刊行(1799年)(→後述)
・『令義解』の校訂・刊行(1800年)(上代の法文解釈書、中世に刊本逸失)
・『孝義録』の校訂・版下の作成(幕府による庶民教化策、幕府からの委嘱)(1800年)
・1806年、『史料』『武家名目抄』編纂開始。
・公家の家記・日記類を書写し、紅葉山文庫に収める事業。(1799年〜)
「歴史記録としての諸家の記録は、秘蔵されているので類本が少なく失われたものも多い、これを書写して文庫に収めれば末代に伝えられる」(保己一の願書)→結果『和学講談所蔵書目録家記之部』に310部が登録されている。
・『元暦校本万葉集』
原本は元暦元年1184年に藤原顕家が校合させた写本。
東京国立博物館が所蔵。国宝。14帖。
江戸時代に流布していた仙覚本より古くその影響を受けていない。
保己一が文化年間に書写したものを、忠宝の代で刊行。
・『史料』
・官の事業として、幕府から認可・資金援助等を受ける。
・編年体の史料集。
・「六国史」以降、宇多天皇から後一条天皇まで約140年間・約430巻
・1806年〜1861年
・東大史料編纂所『大日本史料』の起点となった。
・『武家名目抄』
・武家に関する基本的な参考図書。
・鎌倉時代以来の武家に関する名称・語彙等について、16の部門に分け、古記録から引証・解説。
・幕府から塙保己一に編纂が命じられたもの。
・幕末までに約381冊で完結。
●『群書類従』刊行の完了
・1819年、正編全冊の刊行を終える(保己一74歳)
・総経費は現在の貨幣価値で十数億円
・同時代の評価
・大田南畝「和書の散逸せるをなげき、大志願を起し、天下のあらゆる和書を校訂して世に伝えんとす」『一話一言』
・高田与清「天下の学者、たやすく古書をうかがふことを得しは、実に検校のたまものといふべし」『擁書漫筆』
・青柳文蔵「数百年来先修の著書広世に廃棄め知る者なかりしものこれに依て伝へ不朽となること」『続諸家人物志』
・平田篤胤「これまで各所に秘蔵されていた、たいていの人が見聞きしたことのないような古書が少なくない」『古史徴開題記』
・本居宣長「板本なのだから世間に広く出回ってほしいのに、いまだに書店で目にしたことがない」(本居宣長の石原正明宛書簡)
・「毎月12冊づつ刊行。期間限定で塙検校宅で予約受付。限定200部。装丁は『今物語』と同様の仕立てである」(『群書類従』の広告文(大田南畝『一話一言』収録))
・一般書店に流通しない。
●『群書類従』と塙保己一のその後
・『続群書類従』
・1795年頃、続編の企画編集に着手
・1821年9月12日、塙保己一逝去
・1822、四男・忠宝(ただとみ)が塙家を継ぐ
・続編の事業は難航
・1862、忠宝暗殺、孫・忠韶(ただつぐ)が継ぐ
・1868、和学講談所廃止。
・1883、続編・未完成の写本が宮内庁に献上
・以降、続群書類従刊行会が継続
●現代の『群書類従』
・活字本
・明治以降、活字本は数種類刊行されている
-群書類従出版所
-経済雑誌社(田口卯吉)
-群書類従刊行会
-続群書類従完成会(現代まで最も普及)
・2006、続群書類従完成会が閉会。
・以降、八木書店が販売等を継続(オンデマンド版活字本、web版)
・他にCD-ROM版・USB版(大空社)
・温故学会
・公益社団法人 温故学会
・塙保己一史料館
・http://www.onkogakkai.com/
・1909、渋沢栄一、井上通泰、芳賀矢一、塙忠雄(曾孫)により設立
・「温故知新」に基づき活動
・盲人福祉事業、各種啓発事業、機関誌『温故叢誌』等の刊行
・『群書類従』版木の保管と摺立て頒布
・版木
・『群書類従』版木17000枚
・材質:山桜の木
・20文字×20行(原稿用紙の原型)
・1957、重要文化財指定
・温故学会で、保管・一般公開
・注文に応じ頒布中
(「群書類従摺立頒布 全666冊」)
・その他
・『続々群書類従』(国書刊行会)
・『群書解題』(続群書類従完成会)
・『正續分類總目録・文獻年表』(続群書類従完成会)
●『群書類従』の構成
・正編: 1276種530巻666冊
・続編: 2128種1150巻1185冊
・古代から近世初期まで
・平安時代が30%。鎌倉室町時代が65%
・分類は25部。菅原道真『類聚国史』その他にならう
・神祇・帝王・補任・系 譜・伝・官職・律令・公事・装束・文筆・消息・和歌・連歌・物語・日記・紀行・管絃・蹴鞠・鷹・遊戯・飲食・合戦・武家・釈家・雑
・当時の稀覯・貴重文献をほぼ網羅する
・「国学の体系を史料によって示した百科事典の一種」[#小林健三]
●『群書類従』の編纂方針
・「(小部であちこちに散在してあまり読まれないものを)読まれぬままに放置して朽ちるに任せておかず、読むことができる状態にして公共に提供しておけば、それぞれの書は、現に普及して多く読まれている書と響き合い、相互にその真価・本領を発揮するであろう」
・3巻以下の小冊に限定した。(小冊の資料は散逸のおそれが高いため)
・底本の選定
-良本を選ぶ
-他本による校訂も行う
-他に伝本のない孤本を収録し、存在を世に知らせる
●群書類従の概要
・江戸時代に刊行された、最大かつ初の本格的な”百科叢書”
・塙保己一が編纂・刊行
・1786年頃から開始、1819年完了
・古代から江戸前期の、国内の文献・著作 1276種666冊
(平安期:約30% 中世期:約65%)
●塙保己一の概要
・1746-1821
・江戸時代後期の国学者
・和学講談所の設立
『群書類従』の刊行
・総検校
図:塙保己一正装座像
・書籍・学問
・明晰な頭脳と強靱な記憶力
・幅広い分野・人脈
・理性的
・塙保己一自身の日記・文書の類がない
・伝承的エピソードが多い
・60歳を越えてもなお数度、文献調査のために京都に出向いている
・生涯で般若心経を読誦した回数は約22000回
・菅原道真を崇拝?
●塙保己一の生い立ち
・1746、農家・荻野宇兵衛・きよの長子・寅之助として、武蔵国児玉郡保木野村(現、埼玉県本庄市)に生まれる。
・1752、7歳で失明。
・1757、母が逝去。
・1760、江戸で、検校・雨富須賀一に入門。
・鍼・按摩・灸などの医術、琴・三味線などの音曲を学ぶが、上達せず。
・隣家の旗本・松平乗尹から学問を学ぶ。
・歌学者・萩原宗固に和歌・国学を学ぶ。
・闇斎流神道学者・川島貴林(たかしげ)に漢学・神道を学ぶ。
・山岡浚明(まつあきら、明阿)に律令・故実を学ぶ。
・孝首座(こうしゅそ)に医学書を学ぶ。
・1769、賀茂真淵に師事し国学を学ぶ。
-萩原宗固のすすめによる
-『六国史』を読み通す
-約半年後、賀茂真淵逝去
・1775、勾当(こうとう)に昇進。名を「塙 保己一」とする。
-姓「塙」は、師・雨富須賀一の苗字を譲り受けたもの。
-名前「保己一」は、『文選』「己を保ち百年を安んず」から。
・このころ、高井実員(さねかず)宅に移り住む。(蔵書家で、群書類従の底本にも採用)
・このころ、大田南畝との交流が始まる。
●『群書類従』を企図
・1779年正月、北野天満宮に般若心経百万巻読誦の誓いをたてる
-『群書類従』出版の実現・完成を祈願する
-各所に散在する国書一千巻を収集する
-板本の叢書としてまとめ、刊行する
-学問を学ぶ者の助けとする
・「類従」の出所は、『文徳実録』滋野貞主伝(日本最大の編纂物といわれる『秘府略』に関する記述「以類相従」)、『魏志』応劭伝「五経群書以類相従」の語からとったものといわれている
●『群書類従』刊行の背景
・18世紀中期ころ、出版が盛んになる。(出版技術の向上、受け手の増加)
・武家・町人・文化人が身分をこえて交流しあうようになる。
・国学(日本の古典・歴史等)が盛んになる。
・和書・古典の入手・閲読は困難だった。
・公家・武家・寺社等が所蔵・秘匿し、公開されなかった。
(個々の確認も、全体像の把握もできない)
・散逸・逸失が危ぶまれた。
・「近来文華年々に開候処、本朝之書、未一部之叢書に組立、開板仕候儀無御座候故、小冊子之類、追々紛失も可仕哉と歎か敷奉存候」(塙保己一、幕府への借地願い書、1797)
・「我が国の古書で伝わっているものは多いが、刊行されているものが少ない。将来逸失してしまうのはなげかわしい。刊行されるべき」(村田春海(国学者)、『和学大概』、1792)
・「古代の優れた本でいまなお写本のみのものが多い。それらを刊行して世に広めてほしい。蔵に秘めておくのは役に立たない」(本居宣長、『玉勝間』、1793)
●『群書類従』刊行の経緯
・1786、『今物語』(鎌倉時代の説話集)刊行
・同年、『群書類従』出版を開始。
・『今物語』は、『群書類従』の刊行に先立って、その”見本用”に作成された。
・「毎月12冊づつ刊行。期間限定で塙検校宅で予約受付。限定200部。装丁は『今物語』と同様の仕立てである」(『群書類従』の広告文(大田南畝『一話一言』収録))
・このころ、門人が増えるなど、学者活動が活発化する。
・会読・校合活動
・このころ、結婚、長女誕生、離縁、再婚。(1782-1785頃)
・1783、検校に昇進。
・日野資枝(すけき)・閑院宮典仁(すけひと)親王・外山光実に入門、堂上歌学を学ぶ。
・蔵書・底本の渉猟
江戸・名古屋・伊勢・京都・大坂など
幕府・紅葉山文庫
伊勢神宮
水戸藩・彰考館
寺社(増上寺、真福寺など)
公家(日野家、飛鳥井家など)
武家(浜田藩主、佐伯藩主など)
師匠・萩原宗固、知人・高井実員など
門人・奈佐勝皐、横田茂語、屋代弘賢ら
・門外不出の資料
・他に伝本のない孤本
・1789、『大日本史』の校正に参加する。
-水戸藩の彰考館での校訂編纂に参加する。
-立原翠軒(彰考館総裁)の推挙による。
-1785、彰考館で『参考源平盛衰記』校訂に参加。
-1788、保己一、『花咲松』(はなさくまつ)を刊行。(吉野朝の長慶天皇の即位・非即位問題について、水戸とは対立する非即位説を論証した著作。非即位説は現在は否定されるが、当時は論破できなかった)
-幕府により、学問的実力を認められた。
●和学講談所
・1793、和学講談所の設立を幕府に申請し、認可される。
・「寛政の改革以来、諸学問が盛んになったが、和学だけがまだおこなわれていない。歴史・律令の類によりどころがない。そのための機関を設置して、和学に志があるものを学ばせたい」(塙保己一、和学講談所設立の願書、1793)
・幕府が設立を許可
-300坪の土地を貸し与える(現、千代田区四番町)
-資金の貸し与える
-林大学頭の下に位置し、官立に準ずる機関とされる
・”公的事業”として公認される
(その後も公的援助などあり)
・松平定信が「温故堂」と命名する。
・記録:『和学講談所御用留』
・背景
・国学の台頭
・これまでの会読・校合活動の実績。
・水戸藩『大日本史』校正参加の実績。
・検校としての経済的基盤。
・有識者・幕府関係者との人脈。
・幕府の文教政策(寛政の改革、昌平坂学問所の設立など)
・和学機関の不在(林家・昌平坂学問所では朱子学以外を禁じた)
・和学講談所の機能(4)
-和学・国学の教授・会読
-古典・文献の調査・収集・校訂
-幕府の要求に応じ資料提出・原案起草
-出版事業 (保己一の『群書類従』刊行事業を含む)
・1793、竣工翌日から講談会が開始される。
・会頭は、奈佐勝皋(かつたか)・屋代弘賢(ひろかた)・横田茂語(しげつぐ)・松岡辰方(ときかた)
・毎月3回、二の日に定例会
・『古事記』『六国史』『律』など(学則)
・古典・文献の収集・校訂
・全国(名古屋・京都・伊勢など)に出向き、公家・武家・寺社の孤本・秘本を書写・収集
・幕末期で12000冊所蔵。(『和学講談所蔵書目録』)
・林大学頭の支配下に入り、官立に準ずる機関
・運営資金
-幕府からの資金提供・手当
-幕府からの借金
-鴻池など商人からの借金
-検校としての保己一の収入
-移転時の借地・資金
●和学講談所の出版事業
・『群書類従』『続群書類従』
・『日本後紀』の校訂・刊行(1799年)(→後述)
・『令義解』の校訂・刊行(1800年)(上代の法文解釈書、中世に刊本逸失)
・『孝義録』の校訂・版下の作成(幕府による庶民教化策、幕府からの委嘱)(1800年)
・1806年、『史料』『武家名目抄』編纂開始。
・公家の家記・日記類を書写し、紅葉山文庫に収める事業。(1799年〜)
「歴史記録としての諸家の記録は、秘蔵されているので類本が少なく失われたものも多い、これを書写して文庫に収めれば末代に伝えられる」(保己一の願書)→結果『和学講談所蔵書目録家記之部』に310部が登録されている。
・『元暦校本万葉集』
原本は元暦元年1184年に藤原顕家が校合させた写本。
東京国立博物館が所蔵。国宝。14帖。
江戸時代に流布していた仙覚本より古くその影響を受けていない。
保己一が文化年間に書写したものを、忠宝の代で刊行。
・『史料』
・官の事業として、幕府から認可・資金援助等を受ける。
・編年体の史料集。
・「六国史」以降、宇多天皇から後一条天皇まで約140年間・約430巻
・1806年〜1861年
・東大史料編纂所『大日本史料』の起点となった。
・『武家名目抄』
・武家に関する基本的な参考図書。
・鎌倉時代以来の武家に関する名称・語彙等について、16の部門に分け、古記録から引証・解説。
・幕府から塙保己一に編纂が命じられたもの。
・幕末までに約381冊で完結。
●『群書類従』刊行の完了
・1819年、正編全冊の刊行を終える(保己一74歳)
・総経費は現在の貨幣価値で十数億円
・同時代の評価
・大田南畝「和書の散逸せるをなげき、大志願を起し、天下のあらゆる和書を校訂して世に伝えんとす」『一話一言』
・高田与清「天下の学者、たやすく古書をうかがふことを得しは、実に検校のたまものといふべし」『擁書漫筆』
・青柳文蔵「数百年来先修の著書広世に廃棄め知る者なかりしものこれに依て伝へ不朽となること」『続諸家人物志』
・平田篤胤「これまで各所に秘蔵されていた、たいていの人が見聞きしたことのないような古書が少なくない」『古史徴開題記』
・本居宣長「板本なのだから世間に広く出回ってほしいのに、いまだに書店で目にしたことがない」(本居宣長の石原正明宛書簡)
・「毎月12冊づつ刊行。期間限定で塙検校宅で予約受付。限定200部。装丁は『今物語』と同様の仕立てである」(『群書類従』の広告文(大田南畝『一話一言』収録))
・一般書店に流通しない。
●『群書類従』と塙保己一のその後
・『続群書類従』
・1795年頃、続編の企画編集に着手
・1821年9月12日、塙保己一逝去
・1822、四男・忠宝(ただとみ)が塙家を継ぐ
・続編の事業は難航
・1862、忠宝暗殺、孫・忠韶(ただつぐ)が継ぐ
・1868、和学講談所廃止。
・1883、続編・未完成の写本が宮内庁に献上
・以降、続群書類従刊行会が継続
●現代の『群書類従』
・活字本
・明治以降、活字本は数種類刊行されている
-群書類従出版所
-経済雑誌社(田口卯吉)
-群書類従刊行会
-続群書類従完成会(現代まで最も普及)
・2006、続群書類従完成会が閉会。
・以降、八木書店が販売等を継続(オンデマンド版活字本、web版)
・他にCD-ROM版・USB版(大空社)
・温故学会
・公益社団法人 温故学会
・塙保己一史料館
・http://www.onkogakkai.com/
・1909、渋沢栄一、井上通泰、芳賀矢一、塙忠雄(曾孫)により設立
・「温故知新」に基づき活動
・盲人福祉事業、各種啓発事業、機関誌『温故叢誌』等の刊行
・『群書類従』版木の保管と摺立て頒布
・版木
・『群書類従』版木17000枚
・材質:山桜の木
・20文字×20行(原稿用紙の原型)
・1957、重要文化財指定
・温故学会で、保管・一般公開
・注文に応じ頒布中
(「群書類従摺立頒布 全666冊」)
・その他
・『続々群書類従』(国書刊行会)
・『群書解題』(続群書類従完成会)
・『正續分類總目録・文獻年表』(続群書類従完成会)
●『群書類従』の構成
・正編: 1276種530巻666冊
・続編: 2128種1150巻1185冊
・古代から近世初期まで
・平安時代が30%。鎌倉室町時代が65%
・分類は25部。菅原道真『類聚国史』その他にならう
・神祇・帝王・補任・系 譜・伝・官職・律令・公事・装束・文筆・消息・和歌・連歌・物語・日記・紀行・管絃・蹴鞠・鷹・遊戯・飲食・合戦・武家・釈家・雑
・当時の稀覯・貴重文献をほぼ網羅する
・「国学の体系を史料によって示した百科事典の一種」[#小林健三]
●『群書類従』の編纂方針
・「(小部であちこちに散在してあまり読まれないものを)読まれぬままに放置して朽ちるに任せておかず、読むことができる状態にして公共に提供しておけば、それぞれの書は、現に普及して多く読まれている書と響き合い、相互にその真価・本領を発揮するであろう」
・3巻以下の小冊に限定した。(小冊の資料は散逸のおそれが高いため)
・底本の選定
-良本を選ぶ
-他本による校訂も行う
-他に伝本のない孤本を収録し、存在を世に知らせる