『群書類従』噺のその2です。
(1) おいたち:『群書類従』はどういう経緯で誕生したのか
★(2) 評価: 『群書類従』って実際すげえのかどうか
(3) JK: 『群書類従』がJapanKnowledgeに入ったら何が起こるのか
たしかに当時としては類を見ない画期的な偉業だったかもしれないけど、我々から見て、現代的な視点で、どんだけ”つかえる”んだと。どう評価していいのかと。
実際「群書類従・・・え、どう使うの、ていうか使えるの?」的な評価はどこまで妥当なのか、と。
まず、そもそも何が収録されてるのかというところからですが。
『群書類従』は、正編で約1300著作、続編で約2100著作が含まれてます、あわせて3400。
一応「古代から近世初期まで」をカバーとなってますけど、平安時代が30%&鎌倉室町で65%といいますから、実際はほぼ「平安・中世」という理解でいいんだと思います、そのころの日本国内の著作が3400と。当時収録できた文献はほぼ網羅してるだろう、って言われてます。
で、編纂方針として「3巻以下の小部の著作に限定した」とあります。大部なものはまあなくなるってことはあまりないだろうけど、小部のものは散逸しやすいので、という理屈です、だから、例えば「源氏物語」は入ってないけど「紫式部日記」は入ってる、みたいな感じ。
それが、25部に部立・分類されている。ここがややポイントで、ばらばらにつっこまれてるわけでも、時代順とかアイウエオ順とか著者の身分でわけるとかじゃなく、内容によって著作が分類されているということ。
神祇・帝王・補任・系譜・伝・官職・律令・公事・装束・文筆・消息・和歌・連歌・物語・日記・紀行・管絃・蹴鞠・鷹・遊戯・飲食・合戦・武家・釈家・雑
「国学の体系を史料によって示した、百科事典の一種」(小林健三)ていう言い方をされてますけど、当時の日本国内の著作がほぼ網羅されていて、それを内容で分類したっていうことは、「我が国における文献世界=学問の体系っていうのは、こういうふうに”地図化”して描けますよ」ということ。「混沌としてるわけじゃなくて、全体像を”把握”できますよ」ということだと思います。
その描き方が合ってるかどうかは別としても、学問=文献の全体像を把握・理解しようとしてた、ということなんだと思います。
じゃあそれだけたくさんの著作をどっからどうやって集めてきたんだと。
各所に散在し、個々で秘匿・非公開にされてる文献を、保存・公開するんだ、ていうのが『群書類従』のそもそもの趣旨ですから、つまり、各地へ出向いて個々の文献を見せてもらって、それを書き写しては集める、ということです。(1)でもお公家の記録・日記を書き写し集めてたっていう事業がありましたけど、そういうことです。
場所は、江戸・名古屋・伊勢・金沢・京都・大坂、とにかくあちこち行く。塙保己一自身も、60歳を過ぎてもなお何度か関西に文献調査に行ってるっていうバイタリティ、コンピューターおばあちゃんみたいですね。
所蔵元も、幕府の紅葉山文庫とか、神道の大ボス・伊勢神宮とか、水戸藩・彰考館のような権威あるようなところもそうだし、そうでなくても各地各所のお公家、武家、神社仏閣で所蔵されてるものもそう。特に門外不出のやつとかそれ一冊しかない孤本的なやつとか。
そして、(1)の最初のほうで紹介しましたように、塙保己一の幅広い分野・身分にわたる人脈、当時の学問・文化人ネットワークがここで効いてくるわけなんですけど、師匠の持ってる本、知人・隣人・蔵書家の持ってる本、弟子・門人が持ってる本、そういうのも『群書類従』にはたくさん収録されてるわけで、例えば塙先生の筆頭的な弟子に屋代弘賢という人、彼も結構な国学者・蔵書家だったんですけど、あたし何の意味もなくただの手すさびで「屋代弘賢」を『群書類従』本文検索してみたことがあって、そしたらめちゃめちゃたくさんヒットしたから、あれなんで、この人の名前なんか本文中のどこに書いてあるのってよくよく見てみたら、各著作の末尾に「この著作は屋代弘賢の蔵書を底本にしました」って書いてあるのが山ほどヒットしてたっていう、そういう感じです。
えっと、まあ能書きはいいや、具体的にどんなのが入ってるのかを例えばで見てみると。
例えば『梁塵秘抄』。これ、日本史なり古典の文学史なら必ずといっていいほど出てくる書名で、大河ドラマで清盛やってたときもしょっちゅう歌われてました「あそびをせんとやうまれけん」のあれですけど。
これ、実はとうの昔に失われてて、江戸時代にはもう知られてるのは書名だけで実際の作品は残ってないっていう状態になってたんですけど、それをこの『群書類従』はどっからかみつけてきて収録してると。けどそれも、作品本文じゃなくて「口伝集」ていう解説テキストのほうの第10巻だけがやっとのことで収録できた、っていう状態だったみたいです。その後、明治になって佐佐木信綱先生あたりが発見して、まあそれでもいま残ってるのは第1巻の一部と第2巻だけ、みたいなあれなので、そういった意味では現代から見ても『群書類従』さんちゃんと拾ってくれたのすげえ、てなる。
あと『作庭記』っていう、平安時代に書かれた造園の秘伝書があります、日本庭園の古典なので庭園研究のためによく使われるし、特に日本庭園って海外でも興味持つ人多くてそのために研究・参照もされるような文献なんですけど、これが、江戸時代まではその存在をまったく知られてなくて、『群書類従』に収録されることで世間にその存在が広く知られるようになったみたいです。師匠の宗固先生が持ってた写本から収録しました。後年発見された原本は重要文化財に指定されてます。
いや、それどころか。
いま現在ですでに底本・原本が失われているか見つかっていなくて、『群書類従』でしか読めなくなってるっていう本も、そこそこあると。
例えば、あたし今回の勉強のためになんとなく書架前に立って、なんとなく『群書類従』1冊手にとって、たまたま目にした室町時代の古記録が、いやもうそれ『群書類従』内にしかないよ、ってなってるという。
あと『国歌大観』あるじゃないですか、日本の和歌集を網羅収集してるっていう、あれも何となく1冊手にとって、ぱらぱらめくってたら、「この和歌集は『群書類従』にしかないです」みたいなのが3つ4つ簡単に見つかる、っていう。
あ、やばい、これ相当あるな、って。1冊見つかったら30冊はあるなって。
ただまあ、珍本・奇本の集まりですよってわけではなくて、例えば『北野天神縁起』なんか逆に、本文が山ほどでまわってて、中身があちこちで書き換わってて、絵巻バージョンもあれば絵本バージョンもあるみたいなやつなんだけど、そのなかでも流布本としてある程度固定したテキストを載せてる、ていう評価がされてるみたいで、だからまあ”ちゃんと選んでる”んだなってことは言えると思います。
あと、いいことばかりではもちろんなくて、後醍醐天皇・建武政権の記録として『建武記』というのがあるんだけど、これなんかは国史大辞典さんに言わせれば、「誤字脱字が多いから、大日本史料とか日本思想大系のほうの本文使ったほうがいいよ」みたいなこと書いてあって、ああそういうこともあるねと。
これはよく言われることですが、実際この『群書類従』に対する研究者の評価は「群書類従・・・んー、本文(テキストの正確さ)がちょっとねえ・・・」みたいなのが大半だと思います。
もちろん現在だって評価は高いです、各種参考図書や学者の大先生のみなさんの評価から抜き書きすると。
国史大辞典「この叢書の刊行によって稀覯書の散佚が防がれ、諸書が容易に見られるようになったことは大きな功績である」
平安時代史事典「広範囲にわたる書物が容易に見られる功績」
日本国語大辞典「流布本を避けて善本を精選した貴重な資料集」
佐佐木信綱「鎌倉・足利時代の書物で、群書類従によって一般の学問界に伝えられようなものが少なくない」
川瀬一馬「近世に於ける最も注意すべき文化活動である」
坂本太郎「群書類従ほど広い分野にわたり必要欠くことの出来ない書物を集めている叢書はほかにない」「同類の必要な書物をまとめて見ることの出来る便宜がある」「その後に出た同類の叢書の模範になった」
ただ、その反面で「底本・校訂に問題」があるというのも同じくよく言われてしまってると。
坂本太郎「校訂にもの足らぬ所はあるにしても、同類の必要な書物をまとめて見ることの出来る便宜はその欠点を補ってあまりある」
国史大辞典「所収書の底本の不十分さ、底本の本文と対校本の本文とのすり替えによる混乱」
平安時代史事典「今日の時点からは、底本選定や本文批判等に問題が少なくない」
日本古典文学大辞典「今日から見れば文献の書誌的検討や本文批判に不備を認めるべきものも少なくない」
『日本中世史研究事典』(1995)という歴史学を学ぶ学生院生のための研究便覧みたいな本があるんですけど、そこにははっきり「『群書類従』『史籍集覧』もよく用いられるが、いかんせん刊行年代が古く、ただちに従えない本文によっているものが多い(ことに『続群書類従』はその傾向が強い)。」と書かれている。
これはしかたのないことで、『群書類従』が刊行された”その時点”では良い底本が選ばれ良く校訂されている、という評価であっても、時代が下がればそれだけ新しい本も出るし複写技術も上がるし校訂もよく練られるしで、”後代から”見上げれば「甘い本文」っていう評価になっちゃうのは不可避だと思います。
じゃあ実際使ってる人はどんなふうに使ってるんだろう、話聞きたいなあ、って思うじゃないですか。
でも、残念ながらうちとこの職場って、キャラ的に、そんなに誰も彼も『群書類従』使ってるってわけでもないんで、じゃあっていうんでネットをちょこちょこっと探してたんです。
そしたら、いわゆる”Q&Aサイト”の類に『群書類従』の使い方をコメントしてるようなのがあって、あ、これはいい、と。これはだいぶ生の声に近いんちゃうか、というのがあったんで、ちょっと紹介しますね。
最初のおたよりは、匿名希望のYahoo!知恵袋さんです。
「大学で日本中世史を専攻している者です。」
http://bit.ly/1nD2fTE
質問
「日本の礼儀について、武家・公家の歴史を探りたい。参考文献をうまく探せないんですが、どう探したらいいでしょうか」
回答
「「群書類従」なんかを見るのがいいんじゃないですかね。これを読めば、公家の作法や武家の作法(戦闘時)の流れが、漠然と掴むことができます。」
なるほど、平安中世の国書がひととおり集まってくれてる『群書類従』の、このへんからこのへんまでをざっとひととおり目通しして(”めくり”と言うらしいですね)、どこにどんなことが書いてあるかをざっくり把握する、それだけでもおおまかな流れというか全体像の把握は理解できるだろうなと、たぶんこういう使い方をしてきた人は多いんじゃないかと思います。
続いてのおたよりは、匿名希望のOKWaveさん。
「卒論における活字史料について」
http://bit.ly/1nD3su7
質問
「活字史料(『国史大系』『群書類従』など)を卒論にそのまま使うと、”孫引き”扱いになるのでしょうか? 原本や写本などは全く手元にないのですが」
回答
「卒論レベルでは「孫引き」にはならないと思いますけど、底本は明示すべきです。」
「今後研究を続けられる際には必ず原典にあたりましょう。早晩「閲覧不許可」という、でかく厚い壁にすぐにぶち当たることでしょう。」
まあそうですね、卒論レベルなら『群書類従』の本文そのままでもそない怒られることはないと思いますけど、院生から先は原本か、無理でも影印本とか別の本文あるだろうっていうのは確認せんとあかんと思います。ただ、じゃあ原本見せてもらえるかというとそれがまたひと苦労だったりするので、だからこその『群書類従』だと思うんですね。
そういう『群書類従』の「そのまま使うのはあれなんだけど、アクセスはしやすい」というキャラは、例えばこんなところからもうかがえます。
『日本国語大辞典』といえば国語辞典の大ボスですけども、各項目にはその言葉が各時代の文献の中で実際どう使われてるかという”引用文”が載ってますね。それをどういう基準で選んだか、というのが『日本国語大辞典』の凡例にこういうふうに書いてあります。
第1巻「凡例」「出典・用例について」
「底本は、できるだけ信頼できるものを選ぶように心がけたが、検索の便などを考え、流布している活字本から採用したものもある。」
そう、テキストの信用第一はわかってはいるものの、それでも、これを読む人が検索・参照・アクセスしやすいほうがいいだろうというものについては、という理由で『群書類従』を底本に選びましたっていう作品が、文献リストのあいうえお順を頭から見ていくと結構な頻度で出てくるんですね。
アクセスしやすく。
参照しやすく。
文献をオープンにしてくれたこと。
出版物として整備してくれたこと。
ここが、おそらく当時から現代まで共通して評価できるところ、『群書類従』の持つ意義としていいところ、じゃないかなって思います。
(1)で紹介した当時の塙保己一の、幕府に「土地貸して」ってお願いしたときの願書です。
「近来文華年々に開候処、本朝之書、未一部之叢書に組立、開板仕候儀無御座候故、小冊子之類、追々紛失も可仕哉と歎か敷奉存候」
「近年、国学とか流行りじゃないですか、でも日本には中国みたいな”叢書”がまだないし、写本の状態のままで出版・公開もされてない。これだと、特に1冊2冊の少部数の本ってなくなっちゃいますよね、アカンでしょうそれ。だから『群書類従』出版のために土地貸してくれません?」
国書へのニーズが高まっているのに、その国書が公開されてないばかりか、保存できなくなるおそれがあると。
ニーズを持つ「読者」と「書物」とを結びつけるためには、書物の「公開」と「保存」が必要だと。
その「公開」+「保存」を実現するために、「叢書」を「出版」する必要があるんだと、塙保己一はおっしゃってる。
ということだろうなと思うんです。
「出版」という当時のメディア活動によって、「保存・複製すること」と「アクセスの障壁をなくすこと」の両方が可能となります。
逸失するおそれがあるもの、写本でしか存在しないもの、それ1冊しかない天下の孤本。
そういったものを文献調査によって探索し、発掘する。
それを、自分用に書写するだけならそれまでも個人レベルちまちまやられてたんでしょうが、そうではなくて、出版という複製・流通によって、社会全体レベルにおける保存を確実な物にする、ということ。
これは、いま現在ですでに『群書類従』にしか残ってないものが少なくないという現実から、塙保己一の予想と対策は(残念ながら)当たっていた、ということになります。
出版という複製・流通によって、「保存」と同時に「公開」も可能になりますので、アクセスの障壁がなくなるということになります。
それまで個々の公家・武家・寺社等が秘蔵していた書物が、出版(publish)によって、公共(public)に提供される。存在自体が世に知られる。閲覧と参照、相互批判も可能になる。
しかも大田南畝が書き残していた広告文のように、予約受付が宣伝されていたということはつまり、武家なり一部のエリートに限った公開じゃない、民間の町人にも頒布していたということでもあって、そこの障壁もまた取りのぞかれていると。
このあたりの様子を熊田淳美さんは三大編纂物云々の本(http://www.amazon.co.jp/dp/4585032215)で「壁のない図書館」という言葉を使って表現しています。
もうひとつ、「叢書」として集大成のかたちにしたことも、「出版」と同じくらい重要なことだと思います。
それまで各地に個々でバラバラに存在していた文献・著作を、ひとところに集積するということ。しかもそれを内容で分類・整理すること。
これによって先述のように、「我が国における文献世界=学問の体系っていうのは、こういうふうに”地図化”して描けますよ」、と。「混沌渾然としてるわけじゃなくて、全体像を”説明””把握”できますよ」、と。
というのも、この「出版」というメディア活動にしろ、「叢書」のような知識の体系化にしろ、これは『群書類従』だけが特別に起こしたというわけでもなんでもなくて、当時の時代、っていうか日本だけでなく世界全体で似たような流れって多かれ少なかれ起こってたものでしたよね。
っていう、ちょっと風呂敷の大きな話にひろげていきますけど。
「出版」その複製技術と流通によって、知識・情報が大量生産されていきます。コストが下がり、社会に普及していきます。
社会に普及していくことで、閲覧・参照が容易になります。知識・情報が”かたち”として、しかも複数残ります。ということは、見知らぬもの同士が”かたち”ある文献・情報を共有して、それにもとづいて互いに検証し、批判し、議論しあうことが可能になります。これって”科学”の基本的な姿勢だと思うんです。
そういう科学的姿勢で学問にのぞむための文献が、出版によって低コストで社会に普及することで、それに荷担する人の層が増える、分厚くなる。一部の限定されたエリートだけがそれをできるというわけじゃなくて、身分を越えて交流する文化人がうまれ、のちのち”国民”というもの全体にひろがっていく。
なるほど、「出版」というメディアの変化が、社会の近代化を引き起こしましたな、っていう。
これはもう、グーテンベルクからこっち続いてきた流れみたいなもんですけど。
「出版」というメディアの近代化と同時に、知識・学問の近代化も起こる。
それが、出版によって編まれるようになった、叢書・文庫、百科全書や博物誌の類だろうと。
江戸でもパリでも清国でも、本草博物の類、百科全書の類、叢書文庫の類が生まれる。
それまでの、個別で混沌で把握できないものの集まりでしかなかった知識・情報が、分類され、組織化され、体系化されることで、アクセスも容易になるし、ネットワークとして互いに連携することができるようにもなる。
というか、そうしたい、混沌渾然の状態から脱して、全体を把握(grasp)できるようになりたい。そういうニーズが社会にうまれたから、そうしたんだろうな、って思うんです。
そうやって考えてみれば、『群書類従』っていうのは、うん確かに、塙保己一大人の類い希なる天才的な頭脳と熱意と手腕があったからこそっていうのはもちろんなんですけど。
まあ、これ、この時代に出るべくして出たな、『群書類従』って、とは思うんです。
『群書類従』にもどってまとめます。
『群書類従』はどう評価できるか、どこにメリットがあるか。
「本文としての品質・正確さ」「文献それ自体の現代における価値」については、残念ながら《もう少しがんばりましょう》を付けざるを得ない。『群書類従』を孫引きして許されるのは学部生レベルまでだよね、と。
ただ、それさへ注意しておけば、使うメリットはたくさんあります。
「文献が残っていること」という保存の効用については言を俟たない。日本古来の書物が「網羅されていること」ももちろん。
それが版本化され、活字という状態にまでなって「読みやすく整備されていること」も実感できるメリットだと思います、どこの図書館に行っても本棚の前に立って簡単に手に取ることができるという「参照・アクセスのしやすさ」。しかもそれがあちこちバラバラになってるのではなく、叢書というかたちで「ひとところに集まっていること」。
叢書の効用は集まっていることだけではありません。部立てで「分類・整理されていること」もそうですが、第何巻のように「連番が付与されていること」って実は結構大きいメリットだと思うんです。『ほにゃららの記』?何それ聞いたことないよ?というような文献でも、『群書類従』第何巻の第何番の、という固定アドレスがついてくれることによって、ああはいはい、ってなる。ああはいはい、って見知らぬ者同士が理解を共有できるということは、誰にでも検証・批判が可能という科学的姿勢につながってくるわけですし。
もうひとつ、叢書には「区切りをつけてくれること」というメリットもあって、つまり、とりあえず『群書類従』のここからここまでをひととおり”めくり”読みきれば、全体を把握したものとして一区切りをつけさせてもらえる、っていう効用。区切りがあるから、通読ができる、ていう「函」の効用。「函」については和田先生の『読書の歴史を問う』(http://www.amazon.co.jp/dp/4305707365)でも問われてましたけども。
まあそういう感じで、語句・テキストの正確な確認は別途必要だとしても、ある程度網羅的に収録されている文献に、容易にアクセスできて、参照してみて、通読してみて、全体的な体系の中で、あれはこの文献のこのへんにあるな、これについてはこういう流れだな、というような「”あたり”をつけられること」=「レファレンス」には向いている存在なんじゃないかな、というふうに思います。
以上挙げたメリットのうち、
「ひとところに集まっていること」
「参照・アクセスのしやすさ」
「”あたり”をつけられること」=「レファレンス」
の界隈が、どうやらJapanKnowledgeに搭載されることでより強力になるっぽいよ。
という話に、たぶんなります。
2014年10月13日
2014年10月11日
『群書類従』その1・おいたち : オープンなアーカイブが珍しかった時代の冒険物語
『群書類従』がweb版になって、JapanKnowledgeに搭載されて、全文検索できるようになったそうです。
http://japanknowledge.com/contents/gunshoruiju/index.html
これって結構なニュースだと思うんですけど、で、それをきっかけにして「web版群書類従セミナー」なるものをやるから、なんかしゃべってくれ、って依頼されたんです。
でもなあ、『群書類従』ってふだん言うほど使うわけでもないし、専門分野でもないからあんま詳しいこと知らんしなあ、とかうねうね思いながら、そもそも『群書類従』ってなんだっけ?ていうのをひととおり勉強してみたんです。
そしたら、とんでもない!
何このスーパー&ハイパーミラクルアンビリーバブルなメガプロジェクトは!
ていうような興奮の中でひと夏が過ぎてっちゃった感じになったので、じゃあ何がどうすげえのかっていうのを、ひととおり書けるだけ書いとこうかなっていう。
たぶんこんな感じです。
(1) おいたち:『群書類従』はどういう経緯で誕生したのか
(2) 評価: 『群書類従』って実際すげえのかどうか
(3) JK: 『群書類従』がJapanKnowledgeに入ったら何が起こるのか
セミナーのスライド資料
http://www.slideshare.net/egamislide/ss-40095942
これはその(1)、まだオープンなアーカイブが珍しかった時代に『群書類従』に生涯をかけた塙保己一の、和学と国学がいっぱい詰まった冒険物語です。
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『群書類従』ってなんだ?ていうのをざっくり説明すると。
江戸時代後期に出版された”叢書”で、平安時代から中世(鎌倉・室町)あたりのを中心とした日本古来の文献・著作が収録されているというもの。
全冊数666冊、収録著作約1300という、当時最大級認定しちゃっていい規模の叢書。
その編纂・刊行をしたのが、聞いたことあるでしょう、塙 保己一(はなわ・ほきいち)という人です。
塙保己一は、事典的に言えば、1746生−1821没、江戸時代後期の国学者で、あらゆる分野の書籍・学問に長じ、和学講談所というのを設立して、『群書類従』を刊行した人。盲人の位としては日本トップの”総検校”までのぼってはります。
目の見えないながら学問を修めた偉人として有名かと思いますが、ただ、この人自身は自分で日記・文書の類をほとんど残してらっしゃらなくて、周りの人がいろいろ書き残してるんですが、これがどうも伝承的というか伝説的というか、師匠をたたえる弟子が語った、ほんまでっか?的エピソードがかなり多い。
例えば、こんなの。
ある晩、弟子を集めて講義をしていたときに、風が吹いて灯りが消えたのを、保己一は気づかず話を続けていたので、弟子「先生、少しお待ちください、いま風で灯りが消えました」。保己一「さてさて、目あきというのは不自由なものだ」。
保己一先生の人物像を端的にあらわした、よくわかる、そしてよくできたアメリカン・ジョークみたいな感じになってますけど。
そういう人が、どういう経緯で『群書類従』プロジェクトを立ち上げるに至ったか、ということなんですが、時系列で確認するために、じゃあ彼の出生あたりからちょっと追いますね。
1746年、武蔵国児玉郡保木野村、いまの埼玉県本庄市に、農家・荻野家の子・寅之助として生まれ(だから塙保己一は本名ではない)、7歳で失明、15歳で江戸へ出て盲人として身を立てるために検校・雨富須賀一に弟子入りする。
盲人として身を立てるというと当時は、針灸按摩といった医療、琴三味線といった音曲、がセオリーだったんですけど、残念ながら彼はそっち方面がてんでダメだった。そのかわりどうやら書物・学問の類が得意らしい、お隣の旗本の松平さんについてよう勉強しとる、というんで師匠が、じゃあYouそっちの道に行っちゃいなよ、って認めたっていう。
例えば。
歌学者・萩原宗固に和歌・国学を学ぶ。
闇斎流神道学者・川島貴林に漢学・神道を学ぶ。
山岡浚明に律令・故実を学ぶ。
孝首座に医学書を学ぶ。
すげえなと思うことのひとつは、分野が非常に手広い。そして、人脈が相当手広く築かれる、ていうのが、のちのち効いてきます。
もうひとつ。これだけの学者が当時江戸の市井にいて、学問しあい交流しあい、そこに特段のエリート階層というわけでもない農家のせがれが加わる余地があった、そういう環境があったという、これがまた『群書類従』がうまれてきたことと無縁じゃなかったろうなっていう。
最終的には、1769年、賀茂真淵に師事し国学を学ぶ。ただその約半年後、賀茂真淵先生は亡くなっておられますので、まあ最後か、最後から2番目くらいの弟子だったのではないかと。
なんやかんや言うてるうちに、自分も教える側にまわるようになり、弟子をとり、昇進して名を「塙 保己一」とあらためる。交流もひろがる、大田南畝とも仲よしだったらしいです、幅広いですね。
そんな彼が、1779年、34歳の時ですが、京都・北野天満宮に誓いをたてます。
私はこれから般若心経を100万巻分読誦いたします。いたしますから、いまからやる国書一千巻の叢書出版プロジェクト、国内の著作を文献調査して書写し集めてひとつの叢書にまとめあげるという、神のご加護でもなきゃ到底出来ませんレベルのこのプロジェクトを、どうか私に完成させてください、ていう。
これが、まあ言わば可視化された『群書類従』プロジェクトの最初の一歩って感じです。
それにしてもなんで彼は、そんなたいそうなプロジェクトを胸に抱いて神に誓いを立てるに至ったのかと。
当時の時代背景を考えますと、”出版”というメディアが技術的にも社会インフラ的にも整備・成熟してくる。その受け手も層として分厚くなる、武家・町人・文化人が身分をこえて学問的に交流しあうようになる。中でも特に、当時「国学」と呼ばれる、日本古来の古典・歴史を学びましょうという流れが盛んになってきてたわけです。
ところがその国学に必要不可欠な和書・古典籍の類、これが入手どころか閲覧すらもなかなか簡単なものではなかったと。たいていの著作・文献は”出版”というかたちでの公開がされてない。良くてもせいぜい、持ってる人に貸してもらって自力で書き写させてくれるくらい。そういう劣化コピーでもまあ閲覧できればましなほうで、いやそもそもたいていは、お公家やお武家や寺社あたりが自分とこで大事に隠し持ってて、見せてくれない。ていうか、あることすら知られてない。そんなんじゃいつ逸失するか、なくなるかわかったもんじゃない。こんなじゃ国学ひとつ学ぶのもひと苦労ではないかと。
要は、当時の日本社会には国産のオープンなアーカイブがまだなくて、世のニーズ増に応えられるような状態ではなかったと。
当時の国学者・村田春海も本居宣長も「国書(日本の文献・著作)の出版・公開されてるものが少なくて困る」ということを書き残してらっしゃる。
それはまるで、「日本の文献や書籍のデジタル化されたものが少なくて困る」という現代の嘆きと同じです。国書の公開を拒む素材とアウトリーチ(参照:https://www.youtube.com/watch?v=qpq9zqf9V1I)、です。
塙保己一さんも同様。これはちょっと後のことになりますが、幕府に「土地貸して」とお願いするにあたっての願書にこう書いておられます。
「近来文華年々に開候処、本朝之書、未一部之叢書に組立、開板仕候儀無御座候故、小冊子之類、追々紛失も可仕哉と歎か敷奉存候」
雰囲気で訳。「近年、国学とか流行りじゃないですか、でも日本には中国みたいな”叢書”がまだないし、写本の状態のままで出版・公開もされてない。これだと、特に1冊2冊の少部数の本ってなくなっちゃいますよね、アカンでしょうそれ。だから『群書類従』出版のために土地貸してくれません?」、ていう。
ていう意気込みで、彼は『群書類従』をプロジェクトとして立ち上げ、実行に移します。
実際に刊行が開始されたのが1786年のこと。当時の「広告文」を大田南畝が書き残してます。曰く、「毎月12冊づつ刊行。期間限定で塙検校宅で予約受付。限定200部です」とのこと。
ちなみに「群書類従」という書名の由来ですけど、どんな概説書・参考図書を見てもたいてい「『魏志』応劭伝「五経群書以類相従」の語からとったもの」と書いてるんですけど、こないだツイッターを見てましたら、いや、『魏志』に応劭伝なんてものはないよと、『魏志』にあるのは劉劭伝だよ、そこには「五経群書以類相従」的なことは確かに書いてあるんだけどね、みたいなことを言うてはって、おおっ、と。で、ネットで公開されてる全文テキストには確かにそうあると。紙とネットとどっちが信頼性あるんだと。まあリテラシーの授業でとりあげるのにうってつけな感じですね。
そしてこの『群書類従』プロジェクトにしろ、そこにあった彼の学問的才能と熱い意気込みにしろ、プライベートなレベルで終わることはなかった。例えば、1789年、水戸藩・彰考館で行われてた『大日本史』のほうのプロジェクトにも参加するようになったと。徳川御三家のプロジェクトですから、幕府レベルで「こいつできる」と認めてもらえたようなものだと。
というような実績をふまえて、塙保己一さんは江戸に”和学講談所”という学問所をつくりたい、と幕府に願い出るわけです。
1793年、塙保己一による和学講談所設立の願書。「寛政の改革からこっち、学問が盛んにおこなわれるようになったのはめでたいんですけど、和学、日本古来の歴史律令的なことを学ぼうとすると、場所的よりどころがなくてまだ手薄なんじゃないですかね。学問所のような機関をあたしがつくって、そこで志のある若手さんに勉強させてあげたいんですけど」
幕府「マネー成立です」
この願書に、幕府はOKを出しますし、それだけじゃなくて土地を貸し与える、資金を貸し与える。あと、やりたきゃ勝手にやればじゃない、この学問所を林家(幕府の学問のトップ)の下に置くことで”準”官的な、半官半民的な立場にしちゃると。
え、なにこのデレ具合、幕府ってそんな気前よしこさんだったっけ?て思うんですけど。
幕府がデレた背景には。
確かに国学はすげえ流行ってる。そこに学問所がいるというのもわかる。しかもそれを言う塙保己一は学問的実績が充分で、会読も校合もすでにやってるし、水戸『大日本史』に参加してるレベル。人脈は幅広くて幕府関係者にも及んでるし、まあ言うと検校だから先立つものもたんとあるはず。
一方幕府側としては、うん、うちとことしても政策的に最近は文系学問で押してきてるから、学問所はほしい、実際昌平坂学問所もつくるし。でも、寛政の改革で朱子学儒教以外は”官”では認めませんてなっちゃったので、おおっぴらに「国学はじめました」みたいなのれんは出せないんだけど、えっと例えば、あたしさっきから「和学」と書いたり「国学」と書いたりしててすげえきもちわるいんですけど、んー、国学が流行っちゃって無視もできないんだけど禁じちゃったしなー、そうだ、「和学」にしちゃおう。ついでに幕府が直でやるんじゃなくて、塙保己一っていう民間人をワンクッション置いちゃおう、みたいな。そんなお役所風情なノリが、どこまでかはわかんないけども、まああったっぽい。
というような感じで、1793年、和学講談所が設立されましたと。
和学講談所は何をやるところだったか。
1、和学の勉強会をひらく教育機関。
2、文献調査と収集をする研究機関。
3、幕府の要求に応じて資料作成をする公的機関。
4、『群書類従』含め文献を出版する出版センター。
教育機関としては、毎月3回、2の付く日は和学講談所の定例勉強会だったそうです、イオンかダイエーみたいですね。
あとは全国に散在・秘蔵されてる古典・文献を、現地に出向いては書き写し集めてまわるという。それは群書類従のためだけではないです。例えば「お公家さんの家の記録・日記類を書写(コピー)して、幕府の紅葉山文庫に納める」というような事業もやっておられました。お公家さんの家に残る記録・日記なんてものは、それこそほぼそれ一冊しかないようなもので、公開もされないし、なくなったり燃えたりしたらそれっきりで、危なっかしいこと限りなしなんだけど、それを我らが1部コピーしますんでそれを幕府の書庫に納めさせてください、そしたら資料保存できるでしょ、ていうようなことをやってはったという。これで最終約300部が納本されてるらしいです。
あとは出版事業ですね、これもガンガンやってはった。
一部ご紹介しますと、例えば『日本後紀』の出版があります。
『日本後紀』っていうのはいわゆる”六国史”、日本書紀から始まる勅撰歴史書というオフィシャルな位置づけの基本文献のひとつなんですけど、にもかかわらず、江戸時代にはこの『日本後紀』ってもう残ってなかったんだそうです。なんかあちこちに引用・抜書されてる文章だけ残っててそれを参照するしかなかった、ていう残念な状態だった。ところがそれを、この和学講談所がどこからか見つけ出してきて、本文を校訂して、木版本として出版しました。全40巻中の10巻分だけしかなかったんですけど、それでも、それまで失われてて誰も参照できなかったようなオフィシャル基本歴史書が、出版というかたちでオープンにされたわけですから、これってめちゃめちゃすげえなって。すげえなって、思うんです。
思うんですけど、ん?と思うことがひとつあって、この和学講談所出版の『日本後紀』がどれを原本にしてるのか、その底本がなんかはっきりしないっぽい。最近のこの件に関する論文読んだんですけど、「三条西家の本と”思われる”」みたいなこと書いてあって、え、誰が何を見て出版したのかとか、記録されてないの??ってキョトンとなるわけです。
このへんの、え、それってどうなの?みたいなノリがちょいちょいあって、のちのちの『群書類従』自体の評価にも響いてくるんですけども。
ともあれ、資金繰りとか倉庫不足とか大火の危機とか紆余曲折をのりこえて、最終、1819年、正編全冊の刊行を終えました。
保己一、御年74歳。総経費は現在の貨幣価値で十数億円ともいわれてます。
同時代の文化人はほとんど手放しの絶賛です。
大田南畝「和書がばらばらになって失われてしまうのを嘆き、校訂して世に伝えようとした」『一話一言』。⇒”集積”
平田篤胤「これまで各所に秘蔵されていた、たいていの人が見聞きしたことのないような古書が少なくない」『古史徴開題記』。⇒”開放”
高田与清「学者たちがたやすく古書を参照できるようになった」『擁書漫筆』⇒”アクセス”
青柳文蔵「これによって不朽のものとして伝えられる」『続諸家人物志』⇒”保存”
集積。開放。アクセス。保存。
オープンなアーカイブがここに構築されたんだなあ、と。
ただ、やっぱり若干のクレームもあります。
本居宣長「板本なのだから世間に広く出回ってほしいのに、いまだに書店で目にしたことがない」(本居宣長の石原正明宛書簡)
そう、前述のように「期間限定、200部、塙検校宅で予約受付」という扱いで、どうも一般書店での流通まではかなわなかったみたいです。
せっかく機関リポジトリ立ち上げてるのに、CiNiiに載ってない、みたいな感じですね、せちがらいですね。
さて、その後の『群書類従』と塙保己一ですが。
正編完了から2年後の1821年、塙保己一はこの世を去ります。
なくなった後も『群書類従』事業は続きます、というのも、『続群書類従』という続編があって、これはすでに1795年、正編と併行してすでに企画・着手がされていまして、塙家の息子・忠宝が保己一の遺志を継ぐわけなんですが、これが難航してなかなか完成しない。息子・忠宝が暗殺されて(暗殺!?)、孫が継いでも完成しない。明治になって和学講談所が廃止になっても完成しない。明治になって活字・洋装本が出版されるようになっても完成しない。最終、”続群書類従完成会”というある種みもふたもない名前の団体ががんばって完成させました。
ちなみに、活字本はいろんなところから複数刊行されてるんですが、現在もっとも普及して我々が一番手に取りやすいかたちで出版されてる活字本が、この”続群書類従完成会”によるものです。あの青い製本のやつ。
その”続群書類従完成会”も残念ながら2006年に閉会し、以降、八木書店さんが販売を継続し、オンデマンド出版なんかをやってて、で、今日にいたってJapanKnowledgeに『Web版群書類従』を搭載することになりました、と。
これが、現在に至る『群書類従』の生い立ちですね。
もうひとつ、『群書類従』を現在に伝える”温故学会”という公益社団法人さんもあります、という話です。
公益社団法人 温故学会
塙保己一史料館
http://www.onkogakkai.com/
1909年、渋沢栄一なり塙家のご子孫なりがこの”温故学会”を設立しまして、福祉事業とか啓発事業とかもろもろやってはるんですが、ここが、江戸時代当時の『群書類従』の板木現物をしっかり管理・保存してはる。いや、保存してるだけじゃなくて、いまも注文に応じて現役で和装本を刷ってるっておっしゃるから、ちょっと驚いて。
で、驚いたんで、あたしちょっとそれを見に行ってきました。

東京・恵比寿駅と渋谷駅の間くらい、國學院大學さんのすぐおそばにこの温故学会・塙保己一史料館というのがありまして、入り口開けて、箱に100円入れて、横にある次のドアを開けると、もう直で↑この板木、っていう。あまりの不意打ちで軽くビビりましたけど。
ここに当時の現物の板木17000枚が保管されていて、オンデマンドで刷って綴じて販売してると。例えば大学の先生がゼミのテキストにこの巻だけを10冊20冊注文する、みたいな感じでやってはるらしいです。ただ、この板木って1957年にすでに重要文化財に指定されてる大事なあれなんで、刷るときは他所へ持って出さずに、ここに来てもらってここで刷ってるそうですが。
というのが、塙保己一大人と『群書類従』の、約300年にわたる長いお話になります。
補足トリビア。
群書類従の板木は「20字×20行」のフォーマットになってます。これが、いまの原稿用紙の原型ですね。
http://japanknowledge.com/contents/gunshoruiju/index.html
これって結構なニュースだと思うんですけど、で、それをきっかけにして「web版群書類従セミナー」なるものをやるから、なんかしゃべってくれ、って依頼されたんです。
でもなあ、『群書類従』ってふだん言うほど使うわけでもないし、専門分野でもないからあんま詳しいこと知らんしなあ、とかうねうね思いながら、そもそも『群書類従』ってなんだっけ?ていうのをひととおり勉強してみたんです。
そしたら、とんでもない!
何このスーパー&ハイパーミラクルアンビリーバブルなメガプロジェクトは!
ていうような興奮の中でひと夏が過ぎてっちゃった感じになったので、じゃあ何がどうすげえのかっていうのを、ひととおり書けるだけ書いとこうかなっていう。
たぶんこんな感じです。
(1) おいたち:『群書類従』はどういう経緯で誕生したのか
(2) 評価: 『群書類従』って実際すげえのかどうか
(3) JK: 『群書類従』がJapanKnowledgeに入ったら何が起こるのか
セミナーのスライド資料
http://www.slideshare.net/egamislide/ss-40095942
これはその(1)、まだオープンなアーカイブが珍しかった時代に『群書類従』に生涯をかけた塙保己一の、和学と国学がいっぱい詰まった冒険物語です。
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『群書類従』ってなんだ?ていうのをざっくり説明すると。
江戸時代後期に出版された”叢書”で、平安時代から中世(鎌倉・室町)あたりのを中心とした日本古来の文献・著作が収録されているというもの。
全冊数666冊、収録著作約1300という、当時最大級認定しちゃっていい規模の叢書。
その編纂・刊行をしたのが、聞いたことあるでしょう、塙 保己一(はなわ・ほきいち)という人です。
塙保己一は、事典的に言えば、1746生−1821没、江戸時代後期の国学者で、あらゆる分野の書籍・学問に長じ、和学講談所というのを設立して、『群書類従』を刊行した人。盲人の位としては日本トップの”総検校”までのぼってはります。
目の見えないながら学問を修めた偉人として有名かと思いますが、ただ、この人自身は自分で日記・文書の類をほとんど残してらっしゃらなくて、周りの人がいろいろ書き残してるんですが、これがどうも伝承的というか伝説的というか、師匠をたたえる弟子が語った、ほんまでっか?的エピソードがかなり多い。
例えば、こんなの。
ある晩、弟子を集めて講義をしていたときに、風が吹いて灯りが消えたのを、保己一は気づかず話を続けていたので、弟子「先生、少しお待ちください、いま風で灯りが消えました」。保己一「さてさて、目あきというのは不自由なものだ」。
保己一先生の人物像を端的にあらわした、よくわかる、そしてよくできたアメリカン・ジョークみたいな感じになってますけど。
そういう人が、どういう経緯で『群書類従』プロジェクトを立ち上げるに至ったか、ということなんですが、時系列で確認するために、じゃあ彼の出生あたりからちょっと追いますね。
1746年、武蔵国児玉郡保木野村、いまの埼玉県本庄市に、農家・荻野家の子・寅之助として生まれ(だから塙保己一は本名ではない)、7歳で失明、15歳で江戸へ出て盲人として身を立てるために検校・雨富須賀一に弟子入りする。
盲人として身を立てるというと当時は、針灸按摩といった医療、琴三味線といった音曲、がセオリーだったんですけど、残念ながら彼はそっち方面がてんでダメだった。そのかわりどうやら書物・学問の類が得意らしい、お隣の旗本の松平さんについてよう勉強しとる、というんで師匠が、じゃあYouそっちの道に行っちゃいなよ、って認めたっていう。
例えば。
歌学者・萩原宗固に和歌・国学を学ぶ。
闇斎流神道学者・川島貴林に漢学・神道を学ぶ。
山岡浚明に律令・故実を学ぶ。
孝首座に医学書を学ぶ。
すげえなと思うことのひとつは、分野が非常に手広い。そして、人脈が相当手広く築かれる、ていうのが、のちのち効いてきます。
もうひとつ。これだけの学者が当時江戸の市井にいて、学問しあい交流しあい、そこに特段のエリート階層というわけでもない農家のせがれが加わる余地があった、そういう環境があったという、これがまた『群書類従』がうまれてきたことと無縁じゃなかったろうなっていう。
最終的には、1769年、賀茂真淵に師事し国学を学ぶ。ただその約半年後、賀茂真淵先生は亡くなっておられますので、まあ最後か、最後から2番目くらいの弟子だったのではないかと。
なんやかんや言うてるうちに、自分も教える側にまわるようになり、弟子をとり、昇進して名を「塙 保己一」とあらためる。交流もひろがる、大田南畝とも仲よしだったらしいです、幅広いですね。
そんな彼が、1779年、34歳の時ですが、京都・北野天満宮に誓いをたてます。
私はこれから般若心経を100万巻分読誦いたします。いたしますから、いまからやる国書一千巻の叢書出版プロジェクト、国内の著作を文献調査して書写し集めてひとつの叢書にまとめあげるという、神のご加護でもなきゃ到底出来ませんレベルのこのプロジェクトを、どうか私に完成させてください、ていう。
これが、まあ言わば可視化された『群書類従』プロジェクトの最初の一歩って感じです。
それにしてもなんで彼は、そんなたいそうなプロジェクトを胸に抱いて神に誓いを立てるに至ったのかと。
当時の時代背景を考えますと、”出版”というメディアが技術的にも社会インフラ的にも整備・成熟してくる。その受け手も層として分厚くなる、武家・町人・文化人が身分をこえて学問的に交流しあうようになる。中でも特に、当時「国学」と呼ばれる、日本古来の古典・歴史を学びましょうという流れが盛んになってきてたわけです。
ところがその国学に必要不可欠な和書・古典籍の類、これが入手どころか閲覧すらもなかなか簡単なものではなかったと。たいていの著作・文献は”出版”というかたちでの公開がされてない。良くてもせいぜい、持ってる人に貸してもらって自力で書き写させてくれるくらい。そういう劣化コピーでもまあ閲覧できればましなほうで、いやそもそもたいていは、お公家やお武家や寺社あたりが自分とこで大事に隠し持ってて、見せてくれない。ていうか、あることすら知られてない。そんなんじゃいつ逸失するか、なくなるかわかったもんじゃない。こんなじゃ国学ひとつ学ぶのもひと苦労ではないかと。
要は、当時の日本社会には国産のオープンなアーカイブがまだなくて、世のニーズ増に応えられるような状態ではなかったと。
当時の国学者・村田春海も本居宣長も「国書(日本の文献・著作)の出版・公開されてるものが少なくて困る」ということを書き残してらっしゃる。
それはまるで、「日本の文献や書籍のデジタル化されたものが少なくて困る」という現代の嘆きと同じです。国書の公開を拒む素材とアウトリーチ(参照:https://www.youtube.com/watch?v=qpq9zqf9V1I)、です。
塙保己一さんも同様。これはちょっと後のことになりますが、幕府に「土地貸して」とお願いするにあたっての願書にこう書いておられます。
「近来文華年々に開候処、本朝之書、未一部之叢書に組立、開板仕候儀無御座候故、小冊子之類、追々紛失も可仕哉と歎か敷奉存候」
雰囲気で訳。「近年、国学とか流行りじゃないですか、でも日本には中国みたいな”叢書”がまだないし、写本の状態のままで出版・公開もされてない。これだと、特に1冊2冊の少部数の本ってなくなっちゃいますよね、アカンでしょうそれ。だから『群書類従』出版のために土地貸してくれません?」、ていう。
ていう意気込みで、彼は『群書類従』をプロジェクトとして立ち上げ、実行に移します。
実際に刊行が開始されたのが1786年のこと。当時の「広告文」を大田南畝が書き残してます。曰く、「毎月12冊づつ刊行。期間限定で塙検校宅で予約受付。限定200部です」とのこと。
ちなみに「群書類従」という書名の由来ですけど、どんな概説書・参考図書を見てもたいてい「『魏志』応劭伝「五経群書以類相従」の語からとったもの」と書いてるんですけど、こないだツイッターを見てましたら、いや、『魏志』に応劭伝なんてものはないよと、『魏志』にあるのは劉劭伝だよ、そこには「五経群書以類相従」的なことは確かに書いてあるんだけどね、みたいなことを言うてはって、おおっ、と。で、ネットで公開されてる全文テキストには確かにそうあると。紙とネットとどっちが信頼性あるんだと。まあリテラシーの授業でとりあげるのにうってつけな感じですね。
そしてこの『群書類従』プロジェクトにしろ、そこにあった彼の学問的才能と熱い意気込みにしろ、プライベートなレベルで終わることはなかった。例えば、1789年、水戸藩・彰考館で行われてた『大日本史』のほうのプロジェクトにも参加するようになったと。徳川御三家のプロジェクトですから、幕府レベルで「こいつできる」と認めてもらえたようなものだと。
というような実績をふまえて、塙保己一さんは江戸に”和学講談所”という学問所をつくりたい、と幕府に願い出るわけです。
1793年、塙保己一による和学講談所設立の願書。「寛政の改革からこっち、学問が盛んにおこなわれるようになったのはめでたいんですけど、和学、日本古来の歴史律令的なことを学ぼうとすると、場所的よりどころがなくてまだ手薄なんじゃないですかね。学問所のような機関をあたしがつくって、そこで志のある若手さんに勉強させてあげたいんですけど」
幕府「マネー成立です」
この願書に、幕府はOKを出しますし、それだけじゃなくて土地を貸し与える、資金を貸し与える。あと、やりたきゃ勝手にやればじゃない、この学問所を林家(幕府の学問のトップ)の下に置くことで”準”官的な、半官半民的な立場にしちゃると。
え、なにこのデレ具合、幕府ってそんな気前よしこさんだったっけ?て思うんですけど。
幕府がデレた背景には。
確かに国学はすげえ流行ってる。そこに学問所がいるというのもわかる。しかもそれを言う塙保己一は学問的実績が充分で、会読も校合もすでにやってるし、水戸『大日本史』に参加してるレベル。人脈は幅広くて幕府関係者にも及んでるし、まあ言うと検校だから先立つものもたんとあるはず。
一方幕府側としては、うん、うちとことしても政策的に最近は文系学問で押してきてるから、学問所はほしい、実際昌平坂学問所もつくるし。でも、寛政の改革で朱子学儒教以外は”官”では認めませんてなっちゃったので、おおっぴらに「国学はじめました」みたいなのれんは出せないんだけど、えっと例えば、あたしさっきから「和学」と書いたり「国学」と書いたりしててすげえきもちわるいんですけど、んー、国学が流行っちゃって無視もできないんだけど禁じちゃったしなー、そうだ、「和学」にしちゃおう。ついでに幕府が直でやるんじゃなくて、塙保己一っていう民間人をワンクッション置いちゃおう、みたいな。そんなお役所風情なノリが、どこまでかはわかんないけども、まああったっぽい。
というような感じで、1793年、和学講談所が設立されましたと。
和学講談所は何をやるところだったか。
1、和学の勉強会をひらく教育機関。
2、文献調査と収集をする研究機関。
3、幕府の要求に応じて資料作成をする公的機関。
4、『群書類従』含め文献を出版する出版センター。
教育機関としては、毎月3回、2の付く日は和学講談所の定例勉強会だったそうです、イオンかダイエーみたいですね。
あとは全国に散在・秘蔵されてる古典・文献を、現地に出向いては書き写し集めてまわるという。それは群書類従のためだけではないです。例えば「お公家さんの家の記録・日記類を書写(コピー)して、幕府の紅葉山文庫に納める」というような事業もやっておられました。お公家さんの家に残る記録・日記なんてものは、それこそほぼそれ一冊しかないようなもので、公開もされないし、なくなったり燃えたりしたらそれっきりで、危なっかしいこと限りなしなんだけど、それを我らが1部コピーしますんでそれを幕府の書庫に納めさせてください、そしたら資料保存できるでしょ、ていうようなことをやってはったという。これで最終約300部が納本されてるらしいです。
あとは出版事業ですね、これもガンガンやってはった。
一部ご紹介しますと、例えば『日本後紀』の出版があります。
『日本後紀』っていうのはいわゆる”六国史”、日本書紀から始まる勅撰歴史書というオフィシャルな位置づけの基本文献のひとつなんですけど、にもかかわらず、江戸時代にはこの『日本後紀』ってもう残ってなかったんだそうです。なんかあちこちに引用・抜書されてる文章だけ残っててそれを参照するしかなかった、ていう残念な状態だった。ところがそれを、この和学講談所がどこからか見つけ出してきて、本文を校訂して、木版本として出版しました。全40巻中の10巻分だけしかなかったんですけど、それでも、それまで失われてて誰も参照できなかったようなオフィシャル基本歴史書が、出版というかたちでオープンにされたわけですから、これってめちゃめちゃすげえなって。すげえなって、思うんです。
思うんですけど、ん?と思うことがひとつあって、この和学講談所出版の『日本後紀』がどれを原本にしてるのか、その底本がなんかはっきりしないっぽい。最近のこの件に関する論文読んだんですけど、「三条西家の本と”思われる”」みたいなこと書いてあって、え、誰が何を見て出版したのかとか、記録されてないの??ってキョトンとなるわけです。
このへんの、え、それってどうなの?みたいなノリがちょいちょいあって、のちのちの『群書類従』自体の評価にも響いてくるんですけども。
ともあれ、資金繰りとか倉庫不足とか大火の危機とか紆余曲折をのりこえて、最終、1819年、正編全冊の刊行を終えました。
保己一、御年74歳。総経費は現在の貨幣価値で十数億円ともいわれてます。
同時代の文化人はほとんど手放しの絶賛です。
大田南畝「和書がばらばらになって失われてしまうのを嘆き、校訂して世に伝えようとした」『一話一言』。⇒”集積”
平田篤胤「これまで各所に秘蔵されていた、たいていの人が見聞きしたことのないような古書が少なくない」『古史徴開題記』。⇒”開放”
高田与清「学者たちがたやすく古書を参照できるようになった」『擁書漫筆』⇒”アクセス”
青柳文蔵「これによって不朽のものとして伝えられる」『続諸家人物志』⇒”保存”
集積。開放。アクセス。保存。
オープンなアーカイブがここに構築されたんだなあ、と。
ただ、やっぱり若干のクレームもあります。
本居宣長「板本なのだから世間に広く出回ってほしいのに、いまだに書店で目にしたことがない」(本居宣長の石原正明宛書簡)
そう、前述のように「期間限定、200部、塙検校宅で予約受付」という扱いで、どうも一般書店での流通まではかなわなかったみたいです。
せっかく機関リポジトリ立ち上げてるのに、CiNiiに載ってない、みたいな感じですね、せちがらいですね。
さて、その後の『群書類従』と塙保己一ですが。
正編完了から2年後の1821年、塙保己一はこの世を去ります。
なくなった後も『群書類従』事業は続きます、というのも、『続群書類従』という続編があって、これはすでに1795年、正編と併行してすでに企画・着手がされていまして、塙家の息子・忠宝が保己一の遺志を継ぐわけなんですが、これが難航してなかなか完成しない。息子・忠宝が暗殺されて(暗殺!?)、孫が継いでも完成しない。明治になって和学講談所が廃止になっても完成しない。明治になって活字・洋装本が出版されるようになっても完成しない。最終、”続群書類従完成会”というある種みもふたもない名前の団体ががんばって完成させました。
ちなみに、活字本はいろんなところから複数刊行されてるんですが、現在もっとも普及して我々が一番手に取りやすいかたちで出版されてる活字本が、この”続群書類従完成会”によるものです。あの青い製本のやつ。
その”続群書類従完成会”も残念ながら2006年に閉会し、以降、八木書店さんが販売を継続し、オンデマンド出版なんかをやってて、で、今日にいたってJapanKnowledgeに『Web版群書類従』を搭載することになりました、と。
これが、現在に至る『群書類従』の生い立ちですね。
もうひとつ、『群書類従』を現在に伝える”温故学会”という公益社団法人さんもあります、という話です。
公益社団法人 温故学会
塙保己一史料館
http://www.onkogakkai.com/
1909年、渋沢栄一なり塙家のご子孫なりがこの”温故学会”を設立しまして、福祉事業とか啓発事業とかもろもろやってはるんですが、ここが、江戸時代当時の『群書類従』の板木現物をしっかり管理・保存してはる。いや、保存してるだけじゃなくて、いまも注文に応じて現役で和装本を刷ってるっておっしゃるから、ちょっと驚いて。
で、驚いたんで、あたしちょっとそれを見に行ってきました。
東京・恵比寿駅と渋谷駅の間くらい、國學院大學さんのすぐおそばにこの温故学会・塙保己一史料館というのがありまして、入り口開けて、箱に100円入れて、横にある次のドアを開けると、もう直で↑この板木、っていう。あまりの不意打ちで軽くビビりましたけど。
ここに当時の現物の板木17000枚が保管されていて、オンデマンドで刷って綴じて販売してると。例えば大学の先生がゼミのテキストにこの巻だけを10冊20冊注文する、みたいな感じでやってはるらしいです。ただ、この板木って1957年にすでに重要文化財に指定されてる大事なあれなんで、刷るときは他所へ持って出さずに、ここに来てもらってここで刷ってるそうですが。
というのが、塙保己一大人と『群書類従』の、約300年にわたる長いお話になります。
補足トリビア。
群書類従の板木は「20字×20行」のフォーマットになってます。これが、いまの原稿用紙の原型ですね。
2014年10月10日
(index)情報メディア学会「デジタル化を拒む素材とアウトリーチ」動画のインデックス
情報メディア学会 第13回研究大会 パネルディスカッション「デジタル化を拒む素材とアウトリーチ」
https://www.youtube.com/watch?v=qpq9zqf9V1I
(前半)
0:03:00頃 江上:趣旨説明
0:15:00頃 大場さん:リスクとコスト
0:26:00頃 茂原さん:デジタルを「つづける」
0:38:30頃 田中さん:海外に届ける
1:03:00頃 後藤さん:「つかう」の障壁
(後半)
1:35:00頃 「つづける」には何が必要か?
1:52:00頃 人材育成をどうするか?
2:01:00頃 ユーザからのフィードバック
2:12:00頃 で、何がデジタル化を拒んでいるの?
2:16:00頃 デジタルコンテンツを「見つけやす」くするには?
2:28:30頃 ユーザをどう理解するか?
https://www.youtube.com/watch?v=qpq9zqf9V1I
(前半)
0:03:00頃 江上:趣旨説明
0:15:00頃 大場さん:リスクとコスト
0:26:00頃 茂原さん:デジタルを「つづける」
0:38:30頃 田中さん:海外に届ける
1:03:00頃 後藤さん:「つかう」の障壁
(後半)
1:35:00頃 「つづける」には何が必要か?
1:52:00頃 人材育成をどうするか?
2:01:00頃 ユーザからのフィードバック
2:12:00頃 で、何がデジタル化を拒んでいるの?
2:16:00頃 デジタルコンテンツを「見つけやす」くするには?
2:28:30頃 ユーザをどう理解するか?