2015年01月31日
極私的・2015年の絵馬(活動指針メモ)
絵馬。
それは今年一年の活動指針。
●タイムライン
2007 HVU
↓ ↓
2008 NBK・JLA
↓ ↓
2011 ↓
2012 本棚の中のニッポン
↓ ↓
2015 ===いまここ===
↓ ↓
↓ Something
2020 ↓
2022 ↓
●イベントごと
2015.06 AAS台湾
2015.09 EAJRSライデン
2016.03 CEAL/NCCシアトル
2016.06 AAS京都
●2015年の絵馬
・Somethingへ向けて、"助走"します。助走は"走"です。
・忙しさ(客)を、"良い忙しさ"(主)へ転化させます。
・NBK(local)を、NBK"からの"(social)へ可視化させます。
・"アルファ"を選別的に志向します。つまらんことにリソースを割かないでください。
・生活習慣の改善のため、"有酸素運動"を意識します。これはマジです。
・環境の整備には、投資くらいしてください。
2015年01月26日
(メモ)同志社大学図書館司書課程講演会「『見たことのない図書館』を考える」
同志社大学図書館司書課程講演会
「『見たことのない図書館』を考える」
2015.01.10@同志社大学
「同志社大学図書館司書課程講演会「『見たことのない図書館』を考える」」 http://togetter.com/li/768227
ちゃんとしたレポートは上記togetterの空手家・水泳家の人のをご参照いただければ充分なので、以下ここでは、極私的な感想、心にとどめたいorとどまったこと、およびなんとなく考えたこと等のメモ。
●村田晃嗣氏(同志社学長)
・スライドなし。しゃべりのみ。え、学長は桂一門ですか笑福亭ですか、というくらい、噺家かのようにしゃべりが上手くて勉強になった。ひそかに録音しときたかったという。さすが人前やテレビでしゃべりなれてはるだけあって、こんなふうに講演できたらいいなっていう。もちろんどっかんどっかん笑わすという意味じゃなく、噺に引き込まれるというタイプの噺家。
・なにより、専門外であるはずの”図書館”というネタにこれだけ自分で肉付けして魅力的にしゃべれるっていうあたりが、なんだろう、”人文力”とでも言うか。(法学部の先生だけど)
・北米の学術図書館の紹介、”ライブラリーとアーカイブスの機能を両方持ち、有機的に結びつく”とか、”事前に研究調査の主題を伝えておくと、蔵書の説明とその主題資料の準備をしておいてくれる”あたりは、うちがリアルに目指さなあかんところだなと思いを新たにさせられた感じ。
・ほんとこれ、ていう。>”近年、社会連携が問われる大学。自分たちだけの空間ではありえない。一方で、何かに熱中する人のための逃避没頭の場が大学である。4年間は無理でも何年間か一定期間は社会から隔絶された静謐な空間を学生に提供する。それが図書館ではないか”(要約)
●長尾先生「夢の図書館を目指して : 20年後の知識システム」
・NDLは国会議員への調査サービスは非常に高度だけど、一方で外国情報の収集が手薄で、日本の将来が心配、とのこと。
・このへん、やっぱ京大の人だなあと>”NDLは税金でできておきながら東京近辺の人しか使えないではないか”
・長尾先生がおっしゃるには、デジタルにも2段階のフェーズがあって、フェーズ1は読者がコンテンツを受け取って終わり。フェーズ2はインタラクティブ、とのこと。←
・Googleも20年もつのか、行き詰るのではないか。主に電力的に。という話。
・「人間頭脳の知識構造に近づく電子図書館」の話で3時間くらいききたい。
●中山正樹氏(NDL)「電子図書館事業20年を迎えた新たな方向性の模索」
・パイロット電子図書館プロジェクト、PORTA、NDLサーチ、そしてそこからの、東日本大震災アーカイブ。という電子図書館事業の流れ。そうか、”からの”なんだな、という感じ。知識インフラ構築を目指したもの。
●井上真琴(同志社)「知識はここで目を覚ます : なぜラーニング・コモンズを創ったのか」
・他者が学び考えるその行為そのものが”情報”になる。考えるという行為は本来見えないが、それを可視化して、互いの思考過程という”情報”を共有する。その空間がラーニングコモンズである、と。←
・図書館がやってきた従来の”情報のロジスティクス”にとどまるんじゃなくて、それをどう活用すれば思考や生産につながるか、学びの認知メカニズム、文脈の判断、再編成へ。
●ディスカッションの時間
・司会たいへんだこりゃ、と思ってたら、よくぞこなしきった、という感じ。
・これはダメだ、ツイートできない、というような発言が出ると誰に指示されるわけでもなく一斉に中継がカットされるという、中継者たちの謎リテラシーw
・井上さん”情報をほしくて検索することはない、見つけたものをどう使うかばかり考えている”
●という話を聞きながら極私的に考えていたこと。
・全体的に夜空のムコウ的というか、あのころに描いていた未来の見たことのない図書館がこれまでどんなふうにここまでたどってきたのか、という時点にいま立って、からの、そしてこれから。というような時間的流れの矢印が引かれてる上で話を聞いてるという感じ。
まあ、「見たことのない図書館」タイトルはレトリックだろうし、文字通りに考えてもそんな”見たことのない図書館”をつくることがそもそも”是”なのか?という議論のほうが気にかかるんだけども、それはそれとして。
・例えば自分の担当する司書課程科目は一般の学生(司書資格関係ない)もとれて、2回生が多いのかなという感じなんだけど、そういう場で「この大学の図書館にまだ行ったことない人」と聞くと、これがまあまあ結構な数の学生が手を挙げるんですよ。資格不要とは言え科目名に"図書館"がついてるのをとっといてw つまり彼らにとって実際あの図書館は文字通りに”見たことのない図書館”、っていう。
ただ、ほんとのほんとに見たことのない図書館ができるとするなら、その発想の種はおそらくその、まだ図書館に行ったこともない行く気もしないような人らの中にこそあるはずであって、あたしなんかのように図書館業界に身をべっとり浸してるようなぬらりひょんの頭の中にあるようなものでは、たぶん、絶対に、ない、それはどうしてもどこか既視感のある発想になっちゃう。
だから、ぬらりひょんは、いや「図書館」は、そういう図書館を見たことのないレベルの人=「図書館じゃない」と積極的に連携して、いや連携とかじゃなまぬるいくらいのとろっとろに溶け出て溶け合うようにしていかないと、見たことのない図書館とかいうやつはつくれないでしょう。(注:ここでいう「図書館じゃない」って、MLAとか教育・文化行政ごとき身内親戚筋レベルの相手じゃなくて、壮絶に無関係な、でもこの世界の大多数を構成している種々。)
・一方そのころ、「図書館にもちろん行ったことある」方の、図書館に興味を持ち司書資格を得るのに勉強してきている学生さんたちはどうかというと、かといってほんまにがっつり図書館の仕事に関わることになる人ってたぶんそんなに多くはなくて、社会の「図書館じゃない」のあちこちの現場に出て行って、そこで、図書館学的・情報学的・司書的な考え方やはたらきを活用していくことになるんだろうな、という。それを社会というか世界総体を引きの画で見たときに、そういうふうになんとなく「図書館的」なのが、図書館という限られた場所なんか踏んづけ蹴散らかして、社会世界のいろんな場所で、ふわふわでもきりきりでもいい、まわっていったらいいと思うんですよ。
・この世界の大多数の「図書館じゃない」と、社会の隅々に散在する「図書館的」と、ぬらりひょん(えっと、ぬらりひょんってそもそもなんだっけ?w)な「図書館」とが、とろっとろに連携して、ほうせんかみたいにぱっと散って、綿毛のように遠く漂っていって、もはや可視化はされないものの、何かしらの図書館的な要素・考え方・機能が世界の端々・節々にステルスでインストールされてる。で、社会・世界総体をなんとなあく図書館っぽいはたらきが覆っている。
そういうのを”見たことない”図書館って言うんじゃないかなあと思うし、そしたらそれはもう”図書館”でもなんでもないし、そしてそれでいい。いや、それがいい。
・追加。分類体系を考え直さなきゃみたいな話が出るけど、分類って、要は考えのマッピングみたいなもんだから、人・時代・社会・文脈によって異なる変わるのが当たり前で、技術的に固定させる必要がなくなったんだったら固定しないで済ませればいいんじゃないか。
2015年01月12日
(メモ)『誰が「知」を独占するのか : デジタルアーカイブ戦争』(福井健策)の第6章・提案部分まとめ

誰が「知」を独占するのか-デジタルアーカイブ戦争 (集英社新書) -
福井健策. 『誰が「知」を独占するのか : デジタルアーカイブ戦争』. 集英社新書, 2014.
資料論なりメディア活用論なりで授業で触れてあるいは読ませてというのに吉なわかりやすい本だったんですけど、それはそれとして、最後の章に箇条にして書いてある「提案」の部分が、極私的に相当の本編だったので、メモ。
だって章題がもう「アーカイブ政策と日本を、どう変えて行くか」ですもの、こんなにも切実な、直接的な、ほんとこれ的な。
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第6章 アーカイブ政策と日本を、どう変えて行くか
1. ナショナル・デジタルアーカイブを設立し、当初2000万点のデジタル公開を実現せよ。
提案@ 自力でデジタル化出来ない文化施設や個人のためにデジタル化工房を各地に設置 (
提案A 全国のアーカイブをネットワーク化し、独自の横断検索を実現 (
提案B 収集と投稿機能を備えたナショナル・デジタルアーカイブの設立 (
提案C 各教育機関と連携した、デジタルアーキビストの育成と研修プログラムの充実 (
2. オプトアウト制で、孤児作品問題をはじめ権利問題に抜本対処せよ
提案D 孤児作品や絶版作品のデジタルアーカイブ化を促進する法制度の導入 (
提案E 諸外国との間で、孤児著作物の相互利用協定を締結
提案F 法改正で所有権、肖像権問題にも対処を
3. 世界のデジタルアーカイブと接続し、オープンデータで日本文化を発信せよ
提案G 税金を投じたデジタルアーカイブではオープンデータ化を原則化し、基本的にパブリック・ライセンスを付与 (
提案H ユーロピアーナなど各国デジタルアーカイブとの相互接続の促進 (
提案I 無料字幕化ラボの設置 (
4. まとめ 再びコンクリートから情報へ (
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(メモ)『近代学問の起源と編成』を読んだメモ

近代学問の起源と編成 -
『近代学問の起源と編成』. 勉誠出版, 2014.
長尾宗典様よりご恵贈賜りました。
全部じゃなく気になったのを読んだのですが、視点の持ち方を勉強になったのでこれは折に触れて読み返したらいいなという感じでした。
例えば、最後の論文の最後のまとめに出てきた「予算獲得のための研究があってもいい」という言は、それだけ見るとえっ?てなるけど、ひととおりざっと読んだ上で最後に見ると、あ、うん、そうそう、ふつーにあり、ってすんなり身体に落ちる、っていう感じ。
●総説 近代学問の起源と編成(藤巻和宏)
・学問という営為に潜在するバイアス。
・周到に構築された学問環境、フィルターを通さずに、研究対象に接するのは難しい。時代の文脈、受容のされ方、政治性の介入もある。研究は無色透明ではない。
・学問領域の編成もそうで、範囲の画定と囲い込みがされ、対象が限定される。文科省が定める科研費の「分科細目表」がその最たるもの。
・前近代から、西洋を受け止め、近代にいたった、日本の学問の起源・構築・再構築を考察する。
・◎別役実「鳥は鳥であるか」
・本書の構成
-明治の学問(第1章 近代学問の起源と展開)
--近代学問「編成」への階梯
--西洋学問の受容基盤としての外国語(翻訳、外国語教育。)
--新たな学問の諸相
・中国語由来の「文学」がliteratureの訳語とされたことによって、その意味が「学問」→「言語芸術」に変容してしまい、日本古典文学を芸術として理解しようとした。
・西洋学問としての神話学が科学的とされたことで、神話学の有する政治性を隠してしまった。農学教育が英国流からドイツ流に変更された。など。
-近代とは(第2章 近代学問の基底と枠組み)
--科学の近代
--西洋・近代というバイアス
--近代学問の枠組み
・宗教を研究対象としたときの、西洋的・近代的なバイアスの存在。宗教における前近代的要素を近代に比べて過小評価しかねない。そのバイアスを自覚する必要がある。
-学問の内と外(第3章 学問の環境と諸問題)
--研究領域の可視化と変容
--学派と社会
--研究活動の外郭
・ボードレールはいかに学問の対象となったか。研究対象は自明ではない。
・社会科学研究が社会情勢の影響を強く受ける。
・明治期の美術史研究が、日本のイメージを西洋に宣揚するための通史構築、文化財調査であったこと。
●近代国学と人文諸学の形成(藤田大誠)
・国文学国史学が国民や国民性を再生産したものとしてその政治性やナショナリズムの存在を訴えることは、ともすれば反国家主義のレトリックになりかねない。資料による実証で説明・理論に結びつけるべき。
・総合的日本文化学としての「国学」が、近代日本の人文諸学の基盤ととらえられてきた。
・近代国学は、漢学系学問や西洋諸学問との連携、拮抗、共鳴部分を見いだした上でのスムーズな導入、接続させるなどしていた。
・帝国大学国史科は、漢学出身の学者やドイツの歴史学者の協力で、実証史学としての国史学を確立していった。
・◎芳賀矢一「国学とは何ぞや」
・芳賀矢一は、文学や史学が専門で分かれるのではなく、人文諸学の総合的学問としての国学の発展を訴え、「日本文献学」としてとらえなおし、再構築しようと構想した。(国語、国文学、文献注釈、国史律令、有職故実、古器物・考古学)
・帝国大学では蛸壺的な専門分化が進行したが、私学の國學院においては一貫して総合的学問としての国学を保持していた。(その後、東京帝国大学では「神道学」が人文諸学を再統合)
●明治期における学問編成と図書館(長尾宗典)
・諸学の編成に図書館はどう寄与したのか。
・帝国図書館(東京図書館-東京書籍館)、帝国大学(-東京大学)附属図書館を対象に。
・蔵書構成@東京図書館。近代学問がドイツ中心になってきていても、洋書の収集は英語が主だった。
・蔵書構成@東京大学。東京書籍館より圧倒的に洋書が多い。明治21年を境にドイツ語が英語を上回る。
・明治期の図書館分類は、江戸の伝統を継承した体系だった。それが明治20年頃を境として、江戸の知的伝統から脱し、近代学問編成の基礎が形成され始めた。明治20年代の東京図書館・帝国大学図書館の分類表は、明治前半期に追求された近代学問の一覧表であるといえる。
・◎薄久代『色のない地球儀』
●近代科学の起源 : 本質を探求する学としての科学(森田邦久)
・科学と近代科学をわかつものは、「実験」。「機械論的世界観」(←→目的論的世界観・アリストテレス)
・ロジャー・ベーコン(13C)はイスラム科学を取り入れ実験観測を重視した。
・目的論的世界観:「不完全な金属は完全な金に近づく」(→錬金術)。世界の中に神の意志が存在する。
→機械論:ラヴォアジェ(18C)近代化学の父・質量保存の法則他。経験を重視する。
・「モデル」と科学的説明について。
・「モデル」は、個別の事例ではなく、それらに共通する本質を取り出し、現実世界を抽象・理想・単純化したもの。科学が、現象に理論的説明を与えるときには、このモデルに理論を適用することになる。モデルを批判し、修正を加え、科学が発展していく。(モデル≒実験。実験はコントロールされた経験であり、調べたい現象を再現させる)
●〈実証〉という方法 : 〈近世文学〉研究は江戸時代になにを夢みたか(井田太郎)
・東京帝国大学・芳賀矢一は、ドイツ文献学を日本の文学研究に導入した。自らの過去を知る、近世以前と明治時代を通して展望する、時代精神と作品・作者を結びつけて考える。「文学史」。国民国家において国家の須要に応じる。
・池田亀鑑『古典の批判的処置に関する研究』。文献学の本文批判によって始原を復元する技法の確立。
・京都帝国大学・潁原退蔵・野間光辰・中村幸彦。校勘学。資料派。東京ほど時代精神と密着して考えない。
・外地(台北帝国大学・京城帝国大学)は本土より給料が良く、新設のため予算が潤沢で、戦中でも古典籍国乳が継続されていた。
・私立大学が大学に格上げされるときに図書館の蔵書数が要求されたが、求められるのは洋書であり、和古書は無関係だった。
・官立大学では近世文学は講じにくかったが、図書館とその周辺には、近世文学の専門家愛好家がアジールのように存在し、収集・書誌学研究をおこなっていた。在野の所蔵家・愛好家がいた。そこでの「近世のイメージ」が現在の近世文学・近世文化のイメージにつながっている。(体制に抵抗する庶民、知的自由へのあこがれなど)
・戦中、ナショナル・アイデンティティに奉仕するための近世文学研究が要請・構築された。日明戦後、資料派が「実証性」によって政治性を回避するほうへ。
・実証性によって近世文学を「復元」する。→「復元」するためには対象の範囲確定が必要。→”文庫”(という限られた範囲のあるもの)を対象とする。(例:古義堂文庫目録)→実証性の殻に閉じこもったり、実証性を客観性と混同して無色透明と誤解したりする。
・実証的な方法を偏重しすぎる→閉じるほうへ。鳥瞰図を構想するような論文が専門の学会誌で掲載されることはまずない。
・『国書総目録』。それを踏まえた国文学研究資料館のマイクロ収集。→資料乱獲競争、データ主義、資料の海+実証性・資料派+デジタル化 →なんのために近世文学を研究するか、社会的位置づけをどうするのか、という問題が見えにくくなった。
・時代区分という便宜上の区分を超越した巨視的な新規モデルが提示されなかった。
●日本の美術史学の展開過程とその特徴 : 1910-50年代の学術研究化(太田智己)
・前史。鑑定、鑑賞。画史、画人伝。落款印譜集、図録集など。
・明治期の美術史研究の課題は、日本美術史の通史の構築だった。日本の国家イメージを西洋に対して宣揚する、対外的文化戦略の手段として必要とされた。
・1890、東京美術学校で「日本美術史」講義開始。岡倉天心。
・1900『Histoire de l'art du Japon』刊行、パリ万博出品。(邦訳『稿本日本帝国美術略史』)
・東京帝室博物館での日本美術史編纂事業(1901-)
・『国華』(1889-)。半官半民で日本古美術の図版を掲載し欧文版を海外に流通させた。
・国による大規模な文化財調査。
・1910年以降、美術史学が”学術研究”となっていった。
・学術インフラの整備: 帝国大学で美術史学という特定の学問を学ぶ課程を設置する。職業研究者のポストとして研究機関を設立する(東京帝室博物館など)。学術雑誌(総合誌や批評誌ではなく)を刊行する。学会・コミュニティを設ける。
・学術インフラを整備する→専門職業としての研究者が、学術研究としての活動を持続的に行うことができる→安定的で持続的な学術知生産ができる。
・主観的鑑賞から「科学」へ。
・研究費受給体制の整備。科研費のカテゴリが、”哲学の下の美学と合同”から、”史学の下で美術史単独”へのりかえ。単独で安定した研究費の確保ができる。
・日本美術史学では、西洋の美術史学の方法論を体系的に移入した経験がほとんどみられない。(西洋の素材・技法が日本古美術に適用されない?)
●「文化情報資源」をいかに活用していくか : 博物館・図書館・文書館が連携し合う時代の学術情報流通(岡野裕行)
(全文すべて参考にすべきなので、メモ省略)
●学問領域と研究費(藤巻和宏)
・学問編成の問題を、研究費に注目して考える。
・科研費を申請する際、「分科細目表」の中から選ぶことになる。
・分科細目表では、新たな領域をどう扱うかが課題となっている。
・「時限付き分科細目表」。たとえば「震災問題と人文学・社会科学」など。既存の細目ではカバーできない分野が可視化される。新たな研究領域が独立して安定的に科研費を受給できることにつながるので、たとえば時限付き細目に設定された分野について「採択されなくてもいいからとにかく応募数を増やせ」というような動きが出たりする。
・日本文学研究の世界には、過剰なまでの”時代区分”へのこだわりがある。学会組織がそうなっていることも一因。説話文学会・仏教文学会が実質的に中世文学会の分科会のように理解されてしまい、中世以外の発表が受け入れられにくいという問題も起こっている。また、歴史研究ではとっくに否定されている「中世は武士の時代」「鎌倉新仏教の時代」のようなイメージが、いまだに日本文学研究者では持ち続けられているというような問題もある。
・例えば日本文学研究では「大作家」「大作品」「日本文学史」を基盤に発展してきたところがあるが、本来は何が研究対象になるかならないかはあらかじめ決まっているわけではない。文化資源・文化情報資源も、その要不要は少数の研究者によって判断されるべきではなく、研究者同士の認識の相違に折り合いをつけていかなければならない。
・「予算獲得のための研究」があってもよいのではないか。それによって研究が進んだり、ポスト確保ができたり、予算執行のための不本意な研究によって新たな研究テーマに出会ったりできる。