先日、大阪で開かれてた「[世界を変えた書物]展」を見てきたので、そのときにちょっと思ったことを書きのこしておきます。
「[世界を変えた書物]展」は、金沢工業大学さんが所蔵する科学・工学・技術系の古典籍・稀覯書の類を100冊だなんだ的な規模で展示するもので、刊本ばかりですが、プリンキピアはあるわ天球の回転についてはあるわ、ケプラーはおるわガリレオはおるわ、もちろん時代が下がればもっとお歴々がおるわなんですが、科学史展示としても学術史展示としても書物史展示としても、おっ、とならざるを得ないような感じで、これが過去に金沢(2012)や名古屋(2013)でやってたのを今回大阪でもやりました、というような感じみたいです。
そしてもうひとつ、この展示会は「写真撮影OK」という。
これをこそ、オープン・サイエンスと言いますよね。
ヨーロッパやアメリカのミュージアムに行くと、有名どころで写真撮影OKなところは結構多くて、やっぱりお気にのが撮れるとうれしいので、日本でももっとこっちのオープンさが普及してくれないかしら、と常々思ってましたから、あ、なんかこの展示は撮影OKらしいよ、っていうのを聞きつけてっていうのもあって、大阪までやってきたわけです。
そして撮ってきたわけです、こんな感じ。
↑コペルニクスの「天球の回転について」
光っているのは、装丁(表紙裏表紙)を見せてくれている鏡のせいですが、撮影はともかく、見るだけでも若干邪魔ではある。
↑ニュートン先生の「プリンキピア」。
↑あたしは書物目線で見に来たんで、こういう中身がのぞけてるのをじっと見てたりします。
↑正直、エジソンとかレントゲンとか言い出す時代になると、ああ、一般書だな、ってなっちゃう職業病。
とかなんとかいいつつ撮ってる。
で、撮らせてもらえたのはいいんです。
ただ、なんかこう、違和感がある。
会場に見に来てるお客の人たちの、写真撮影熱がだいぶ高すぎるんじゃないか、っていう。
もう来る人来る人みんな、スマホでパシャパシャ撮ってるという。その電子的シャッター音がフロア中で鳴り響いてて、ピーチクパーチクで埋め尽くしてるという。
自由に回遊できる展示フロアとはいえ、資料もある程度は連番順にならんでるんですけど、そのひとつひとつを番号順に丁寧に、1個パシャ、次パシャ、ってコンプリートするように撮影している人も、めずらしくないどころか次から次にやってくるくらいに、撮ってる。
これあれですね、展示会というより撮影会ですね。撮影会がてら、展示物として見に来てる人もいるという感じ。
そりゃ自分もちょいちょい撮りましたけど、そう熱心な撮影会に来たつもりはなかったので、ちょっと驚いたわけです。
なぜ、ここでは、こんなに撮影熱が高かったのか。
そこまで科学史上の稀覯書群に興味あったからかしら。
写真撮影OKな展示が日本ではめずらしかったせいかしら。
そりゃ稀覯書だし、歴史的価値もあるやつだしだけど、えー言っちゃうと、見た目まあまあ地味で(笑)、そんなフォトジェニックな資料群っていうわけでもなく、みんながみんな、全部が全部を撮影するかしら、っていう。
日本人がそういう国民性だからかしら。
ちょっと前まで日本人×海外旅行=カメラみたいな偏見イメージあったかもしんないですけど、でもじゃあたとえば、写真撮影OKな海外の美術館で、ここまで熱心に撮影するような大量の日本人観光客なんて、見かけたことない。どっちかというと、そういうとこで一番熱心にパシャパシャ撮影してるのたぶん自分自身だろうな、ていう自覚があるほう。
みたいなことをいろいろ考えているうちに、ふと。
もしかして、写真を撮ることのほかにすることがなかったからじゃないかしら、的なことをちょっと思ったんです。
科学史分野の、洋書の、古典籍の展示なわけです。基本的に文字が書かれたページ、あっても幾何学模様とか機械類の図面とかがならんでて、基本的にモノクロで、そして基本的に外国語で書かれているので、何かが見せられているけど、それが何かがわかるにはそれなりの前提知識への理解がいる、ビジュアルな美術作品とちがって。
じゃあその脇に書いてある日本語テキストのキャプション読めばいいじゃん、ってなるけど、うん、でもわざわざテキスト読み込むために展示見に来るわけじゃないし、それだとwikipedia読んでるのとあんまたいしてかわりないんで、ある程度やっぱりモノというかビジュアルで見たい。
ってなると、ある程度科学史や科学技術的な内容を予備知識として持っているか、自分みたいに出版史目当てで来てるようなおっちょこちょいくらいじゃないと、こういう本がストイックに並んでる展示会って、飲み込みづらいんじゃないかしら、と。
そこへ来て「写真OK」ていう環境下だったら、あ、じゃあまあとりあえず撮っとくか、あんまこういうの見たことないし、ってなるだろうなと。
そういう思いであらためて展示の様子を思い返してみると、そういえばパネル解説の類みたいなのほとんどなかったな、ていう。例えば、プトレマイオスなりケプラーなりの著作にこんなんありまっせっていう幾何学的な図を見せてくれてたら、その図はどういうことを描いているものなのかっていうのを、拡大で、日本語で、色つきで、補足する解説パネルみたいなんがあれば、ああこれこれこういうことをここではこういうふうに書いてるんだね、ってなるんだけど、それがテキストベースのキャプションで概要を読み込むだけではやっぱりちょっとつらい。
これが琳派展@京博くらいの有無を言わさぬビジュアルな美術作品群であれば、当然のごとくテキストベースのキャプションを脇に置いておくという補い方で全然いいんですよ、むしろ邪魔してくれない感じで。虎の人形とかいらんし。でもその逆、ビジュアルさがないところ×ビジュアルさがない補い、はあれかなっていう。
ビジュアルさのある補いもあるにはあって、今展示でのお気に入りのひとつがこれなんですけど。
今回の出展資料同士の概念関係を、立体で構築し、線でリンクさせ、それをカラーでビジュアルに描いてみせたという、一大オブジェです。モニュメントです。これが会場の中央にでっかくドデンって、謎のモノリスみたいに置いてある。
これだけでもすごいんだけど、さらに工夫があって、資料展示のほうも各カテゴリごとに章立てしてあって、「光」とか「幾何」とか「電気」とかにわかれてあるんだけど、各章の展示列の冒頭にモノリスのミニチュアがあって、この章はあのオブジェでいうとこのあたりのことを言ってるんですよ、っていうふうに色づけしてある。
おおっ、これはいい工夫だ、って思ったんだけど、この子モノリスをよくよく見てみると、今度はこれは色づけだけしてあってテキストがない、何と何がどうつながって流れになっているのか、そのリンクも線引きされてない。
なので、えーっとこの章ってどのへんの位置にあって、どれとどれとがつながってるんだっけ、ていうのを、中央の親モノリスまで見に戻って確認する、っていう。せめてパンフにモデル図でもあればな、っていう。
そんな感じでした。
それで、えー、強引にまとめにかかると。
自分たち自身が今後、ビジュアルでもなんでもない、この稀覯書群よりも数十倍地味で飲み込みづらい書籍・史料の類を使って展示を構成する、というようなことをいくらでもやる機会があるであろう立場なので、そういうときにでも予備知識無しで見に来はる人たちに向かって、何をどう補って展示をするのかっていうのは考えなあかんな、ていう。
写真撮影くらいOKにしたいんだけど、それはそれとして、撮影じゃなくてまずモノを見ることに専心してもらえるコンテンツになるように。オープンって、それ自体が目的じゃないですから。
そういうことって、自分自身が渦中でやってるときにはなかなか客観的に気づけないので、よそさんがやってるのを見てるときにできるだけ考えとかなな、っていう感じです。
でも、それでも、やっぱり写真撮影OKっていうだけですばらしいので、全国にもっと広まって欲しい。
あと、混んでるときに1時間待ちとかしなくて済むよう、そこはネット予約じゃないかしら、っていう制度をもっと整備してほしい。これは主に琳派展への注文。
あと、極私的に好きだった絵↓(これも職業病)