2016年03月24日

4月からの新環境で発症しがちな”時差ボケ”とそのしんどさ


 4月から新しい場所や環境でお仕事や生活をなさる方も多いと思います。それは、大学を卒業して就職するとか進学するとかかもしれないし、人事異動や退職・転職でお仕事が変わるとかかもしれない。
 そういうときの話、背景が桜色に染まって時折狂気じみた咲き誇り方や舞い散り方をしてる時節柄の話ですけど。

 いままでと一番違って、そして気持ち的にしんどいののひとつは、自分がやることへの成果・評価のあらわれというものが目に見えて出るまでに、これまでよりもえらくえらく時間がかかることじゃないかと思いますね。え、あれ?っていうくらい、時間軸が歪んでるんじゃないかと思うくらい、時間がかかる。
 学生時代だと勉強したことの評価は講義時間中か翌週、学期中には返ってくるし、尺が一年くらいの取組でも都度都度先生からのリアクションがあるけど、業務だと到達目標がいままでの時間軸にない遠いところにあったり、評価のゲージというか枠みたいなのが自分の年齢を軽く超えてたりする。これは10年20年勤めてる人でも別の場所・環境に移ったりすると同じことで、たとえば図書館職が専門職であるとするならばその専門性を身につけた人なら別の図書館に移っても務まって当然、そういうのを専門職と言うはずなんですけど、いや、だとしても、どんな職場にも必ずローカルなルールというものがありローカルなコンテキストの中で切り盛りされているわけなので、それを獲得するのに時間はどうしてもかかってしまうという。
 学友同士のLINEのやりとりくらいのテンポで得られてたような成果・評価が、急に、年一の年賀状のやりとりでの近況報告くらいの時間感覚でしか得られなくなっちゃうし、手応えがない。そりゃ焦りますよね、そしてかなりしんどい。腕をふりまわしてもふりまわしても成果・評価が目に見えてあらわれない、暗闇で天井の蛍光灯のひもが見つからないみたいに、ぜんぜん手応えがなくて、焦ってるっていう。そういう、あるある。

 でもそれは、時間がかかってるだけなんで、無いんじゃないんですよね。

 やっぱ人間なんで、自分がやることへの”見返り”というか返報性みたいなもんが、わかりやすく目に見えて出てこないと不安になりますから、時間がかかってると、え、”見返り”無いんじゃないか、て錯覚しちゃうんだけど、大方は無いわけじゃない。
 しかもこれは”あるある”なんですよね。時間がかかって手応えがなかなか得られないのは、「新しいところに行った時あるある」。”あるある”、ですからつまり、誰がどこに行っても発生することであって、自分自身や自分がいるその場所特有のことでもなければ、自分に原因があるわけでも自分が悪いわけでもない、”あるある”です。なので強いて自分を責める人もいるかもしれないけどその必要はなく、ああまあ、そういうものだ、ていう理解で当面の応急措置としてはいいと思います。

 自分の体内時計と外界の時間感覚にズレがあるという意味では、これはある種の"時差ボケ"なんだろうなと思いますね。時差ボケってつらい、ほんっとつらい、まわりがキョトンと蛙の面してるぶん余計につらい。
 こういうときの時間って味方にもなり得れば敵にもなり得るし、そしてどっちにしろ所詮あらがえないという、やっかいなものだなと思いますね。

 まあ、できるだけ早く治癒したい場合の処方としてはじゃあ、それが汎用性のあるルールなのかローカルなコンテキストなのかの切り分け・見定めをつけるとか、いろいろあると思うんですけど、でも結局、時間感覚が歪んでるのが一番の原因なんだとしたら、時間に解決してもらうしかないところがどうしてもあって、結局風邪ってあったかくして寝てるのが一番の治療なんですよ、ていう感じになっちゃうので、時間の経過によって歪みが歪みじゃなくなってくるまでは、あまり気に病んだり無駄に腕ふりまわしたりせずに、好きなことの勉強とかでもしてエネルギーチャージしたり、外界に出れる機会に外界に出てって将来のためにポイント積立てていったり、陣取りゲームのポータルにあたるようなものを獲得してったりしてたらいいと思いますね。

 その、自分がやることへの”見返り”というか返報性みたいなもんが、わかりやすく目に見えて出てこないと不安になる、ていうのは、経験年数が少ないときほど不安強く思いますね。
 図書館とか大学図書館にお勤めになって数年目くらいの人と話してて、よく聞くのが、「何かしらの専門性を身につけたい」ておっしゃるんですよ、それは図書館職に専門性があるかどうかという話は別としてここでは、図書館職として勤める中でも例えば医学分野とか資料保存とか、メタデータとか学修支援とかe-resourceとか、そういう、何かこれっていう特化したものを身につけたい、自分に看板というかタグが付けられるようなものがあらまほしい、ていう。そういう話を聞くと、うん自分もそう考えてたな、と思うと同時に、でも何かしらの違和感というか大丈夫かなそれ?という一抹二抹の不安めいたものもあって、なんだろうと考えてたんですけど。
 自分がそうだったころのことを思い出すに、たぶん、これっていう何か特化したものを身につけたいというのは、自分がいまだ何者でもなく評価の手応えがないという不安の裏返し、みたいなものじゃないかなと。だから、経験年数が少ないときほどその不安は強いし、専門性欲しさも強くなる、そりゃそうか、専門性というのは評価獲得のショートカットみたいなもので、時間軸を自力で短縮方向に歪めにかかることができるから、それができるならありがたい。

 でも一方であやういのは、自分もまあまあそうだったんですけど、「これを特化して身につけたい」から「それだけをやっていきたい」みたいになっちゃう、タグや手札を増やす方向じゃなくて、削ぎ落とす方向にいっちゃう感じのやつで、言うたらこれも同じく不安の裏返しだなあと。自分で自分の可能性をある程度狭めてしまわないと、成果・評価という見返りが得られるかどうかもわかんないような状態、それがいつまで続くのかわからない”時間の長さ”が不安だし、満たされない(かもしれない)空のグラスはできれば手放して、満たされたグラスの方を受け取りたい。
 よくおっさんが若い人に、可能性が無限大にあるのが若者のすばらしさだ、特権だ、みたいな昭和の若大将みたいなステレオタイプな説教したりすることあると思いますけど、あれ、逆にだからこそ自分である程度カットしていかないと、いつまでも見返りが得られるステージに到達できなくてしんどくてやっていけない、ていうところもあると思うんですよね。自分は正直、そっちの気持ちのほうがわかります。しかも見返りのテンポもLINEよろしくぽんぽんと速効性であらまほしいから(注:LINEよく知らないです)、自分のやってることへの成果・評価がすぐに目に見えてあらわれないとどうしてもイライラしてしまう。そのテンポを速めたい、無駄を削ぎたい、選択肢を豊富に持つ者の特権としての”あきらめる”を贅沢に行使したい、というのがぐにゃっとなった結果として、だから年若なほどむしろ頑固だったり視野が狭かったり限定的な物の見方言い方をする、ということはよくあると思うしよく見かけるし、だったらその純粋なのめり込み方のほうが若者の特権なんじゃないの、と思ったりするので、おっさんは無責任に若者に自分の可能性の無さの夢を託したりしないほうがいいです。

 ただ。選択肢を豊富に持つ者の特権としての”あきらめる”を贅沢に行使したい、というのはその一時は鬱憤が晴れるから気持ちとしてよくわかるんだけど、見返りが見えづらい得られづらいから不安、というのも、だから"あきらめる"を行使したいというのも、それも結局”時間の歪み"が影響してるだけの"時差ボケ"の一種なんで、そういう意味ではあまり気に病んだりヤケになったりしなくていいんじゃないかなと思いますね。我慢しろ、なんて言葉は嫌いなので口が縦に曲がっても言いませんが、こう、自分の時計の尺度を長めにのばして構えてみる、ていうやわらかさみたいな。なにより、そういうやわらかさを持ってないと、自分を追い詰めるかそうでなければ、他人の原動にやたら厳しいココロトゲトゲくんみたいになっちゃうのであまりいいことないですよね。

 例えば、自分のやりたいこと好きなこと期待していることや理想形があって、それが体内時計に寄り添ったかたちで得られないと、無いものと誤解して不安になる、あきらめる。
 いや、本当に好きな相手なら、見返りまでの時間に歪みがあっても期待通りの時間感覚で物事が進まなくても、イライラしたり気にしたりせずに、堂々と胸を張って好きなままでいていいんじゃないかな、って思いますね。簡単を望むからしんどいんじゃないかと。簡単ではないとしても、それを好きだから好きだでいいし、理想は叶おうが叶うまいが堂々とずうずうしく理想のままで曲げずに持っていればいいし、好きでいちゃけないとか理想を持ってちゃいけないなんてこと誰も決めてないし。そこは自分本位で。自分本位制で。ドルか金塊にでもなったつもりで。たかが時差ボケで自分を卑下したり何かを手離したりする必要はないんじゃないかっていう。

ていうのが、諸々のタイプの時差ボケへの対処かなという感じなんですけど、かと言ってもちろん、その症状が時差ボケ程度ではないずっとずっと重篤な、その環境が発するブラックな排ガスか何かにさらされてるおそれもあるわけなんで、あれ、これ時差ボケにしては症状きつくないか、長くないか、と思ったら、こんなへっぽこブログ読んでないで早めに専門医にご相談ください。ただしただし、そこまでの踏み入った相談の段階になってまでもまだ、それは時差ボケだからしばらく我慢してなさいという応急措置的な精神論しか言わないような組織や上役は、それは専門医ではなくPL剤出しときますねしか言わないおクスリ医者と同じなので、早めにその場所から立ち去る準備はしたほうがいいと思います。

結局人間って誰もが、場所と時間の中で生きているので、時間の流れ方にあらがえないのと同様に、場所や環境が発する影響も受け続けざるをえないので、時間が解決しないような問題であれば場所・環境を変えなきゃしょうがないんじゃないかと。

※個人の感想です。効き目には個人差があります。

posted by egamiday3 at 07:45| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする