タオルミーナの街をぶら歩きしていたときのことです。
四月九日広場という街一番の見晴らしポイントで、脇にふと目をやると、雰囲気のよろしい建物に「Library」と書いてあるわけです。
まあ、行くよね、っていう(笑)。蟻が蜜を求めるように吸い寄せられて入っていくわけです。
いや、たとえLibraryと書いてあっても、例えば教会や個人のプライベートな文書置き場だったりする可能性もなくはないんでしょうけど、掲示の貼り紙になんとなく「パブリック」を示す、示すっていうかそう連想させるような、まあそれっぽいイタリア語が書いてあったので、とりあえずダメもとで入ってみる感じです。
というわけで、図書館探訪・タオルミーナ図書館編です。
以下、屋内の写真はありません、なんとなく自粛しました。
なので、以下は文章だけで。
個人事務所のような狭い廊下と事務スペース+書架スペース、まあ、公民館の図書室的なのをイメージさせるたたずまいで、まずわかるのが、客がいない。利用者らしき利用者の姿がない。なんか、若者がケータイでしゃべってるだけみたいな感じ。書架も古ぼけたスチール製の、どっかからもらってきて適当に作りつけたような雑な感じで、サビやホコリで汚れてる。
その書架に置いてある資料はというと。40-50年前のリゾート客が旅の退屈をなぐさめるために回し読みしてただけのような、ちゃちなペーパーバックの古ぼけたのとか。とってつけたかのように置いてある百科事典の類とか。それっぽいタイトルをなんとなく揃えた感のある古い年代の製本雑誌がいくばくかとか。そういったのが雑然と積まれ並んでるという。
そこまでなら、わかる。わかるっていうか、よくある、ケアされてない図書館。
そのちゃちなペーパーバックや古い百科事典と同じ書架に、きわめて雑然とした扱いで。
前近代のヴェラム装の古洋書が、大量に、かつ粗雑に、ぼてぼてっと配架されているっていう。
・・・いやいやいや、ちょっと待て、とさすがに思うわけです。
これ、うちとこの図書館だったら、丁重に貴重書指定した挙げ句、施錠&温湿度管理した書架に鎮座在してるような代物ですよと。
ここで確認ですが、このタオルミーナという街、シチリア島随一の海辺のリゾート地で、ぎらぎらとした太陽の光が降り注ぎ、潮風が常に吹き付けていて、ただいま11月下旬で日中の外気湿度が75%(町の中に天気表示板があった)あるわけです。開架書架兼閲覧スペースは海側にあって、つまりその窓を開けると↓こう、ていう。
うん、読書環境なら最高かもしれませんが、資料保存的にはえらいこっちゃ。
そんな環境下の、旅のアジア人がふらりと入ってこれるような、若者がケータイでくっちゃべってるような開架スペースに、特にケアされるわけでもなく、サビやホコリも特になんてことなく、二束三文なペーパーバック類と同列に配架されるわけですよね。配架っていうか、放置ですよね。
レプリカか近年物ですか? いや、そうじゃないですよね。だって、そこの簡易展示ケースにもぼてっと洋古書1冊置いてあって、脇にポストイットがペッと貼ってあって、そこには1700年代の数字だけがさらっと書いてある。しかもそのケース、燦々とした窓際だし。
これがイタリアか、と。
この、1700年代のヴェラム装? それが何か? 的な余裕かまされてる感。
これがイタリアか、と、それ以上の他意もそれ以下の他意もいっさい含まず、ただただ、これがイタリアか、という感想。
いやまあ日本でも個人蔵書のいくらもある和装本ならこんな扱いしてるところもあるわけなんで、え、じゃあこんな扱い方してるってことは、やっぱり公的な図書館とかではなくって、町の文庫置き場的なパターンかしら?といぶかしく、誰かに尋ねてみようと思うのですが、うん、あそこでさっきからPCに向かってデスクワークしてる女性がいるんだけど、もはや彼女が利用者なのかライブラリアンなり資料調査員なりの関係者なのかよくわかんないくらいにこの図書館の位置づけがわかんないんですけど、でもあたしがうろちょろしてるのをなんとなく気がかりな風にうかがってはるので、思いきって声をかけてみるわけです。あたしはもちろん彼女も英語不得手のために、本当にちょっとだけしかお話できませんでしたが。
それでも、「ここはパブリックか?」ときくとはっきり「Si」と答えました。「それは、シティの、オフィシャルな、パブリック図書館なのか」と尋ねると、「Si」と。マジかと。
後日webサイトで確認しました。
http://www.comune.taormina.me.it/la-citt/cultura/biblioteca.aspx
四月九日広場にある、もとは15世紀教会だったところ。確かに、市の図書館でした。18世紀のがどうかとか書いてある。そうか。マジか。マニュスクリプトやインキュナブラはも何冊かあると書いてあるんだけど、さすがにそれは別扱いだと思いたい。
あと、事務スペースの書架にも大量の洋古書があって、EUマークの紙が貼ってあるんだけど、それは?と尋ねても「これは*****の本で」と話してくださるんだけど意味がよくわかんなかったのは残念。
でもどれもこれも、うちとこ図書館の基準では貴重書になるじゃないですか。だからあたしも印籠を出して、じつは自分は日本から来たライブラリアンで、うちとこにもこういう感じの洋古書あるんだけど、閉架でエアコン管理してて、みたいに話してみたわけです。
すると途端にその彼女、その表情がすうっと笑顔に変わるわけです。笑顔といっても、「そうそう、そうなんですよ」という”我が意を得たり”感の笑顔と、「そう・・・そうなんですよね・・・」という”バツが悪い”感の笑顔とが、ハーフ&ハーフになったような感じの、すごーく微妙なやつ。
その微妙な笑顔で「Si, Si, そうなんですよね」とおっしゃる。
その反応が、なんていうんでしょう、あ、ライブラリアンって万国共通でこういう笑顔するんだよな、って、すっごくシンパシーを感じる反応だったわけです。
我々には、図書館として司書として資料専門家として、こうしなきゃいけない、こうすべき、こうしたい、っていうような理想型・理想像のようなものが、大なり小なりいくつもいくつもあるわけです。その理想像の蒸気雲のようなものは常に頭の上、ちょっと目線を斜めに見上げたあたりに常に浮かんでいて、そう、ほんとはそうしたいんだよ、という像に始終苛まれながら、しかし現実は哀しいかなできていない、時間が無い、金が無い、力が無い。わかっててもやりたくてもできないということへの、うしろめたさや歯痒さ、無力感、ズキズキと鈍い重しのような苦しみが後頭部あたりを常に圧迫していて、ふりはらえない。かといって、じゃあそんな自分を苛むような理想像をあきらめきれるかというと、やっぱりあきらめきれないという、その死に際のような理想の高さ、あるいは貧相なプライドのようなもの。
それらがぐちゃっとなったのが、ライブラリアンにあのすごーく微妙な笑顔を作らせたんだな、と。
あの感じを、この国のライブラリアンも持ってるんだな、と。
そう思うと、「ねえ、たいへんですよねえ」くらいしか言えなかったですよね、もはや。
本当はもうちょっと話したかったなとも思いましたが、まあこんな感じです。あんまりガツガツ話するタイプの方でもなかったというか、イタリアといってもシチリアのみなさんはシャイな人のほうが多い印象。
・・・ていうか、あの人がほんとにあそこの図書館のライブラリアンだったのか、ちゃんと聞いてないのですが。
でも、あの気がかりな風にうかがってはった目線、この利用者さん何か知りたがってるかな、声かけたほうがいいのかなどうかな、的なそわそわしたあの目線もやっぱり、万国共通のライブラリアンのものじゃないかなって思うんですよね。