
未来の社会学 (河出ブックス)
おおむね読み飛ばしてたけど、「カーゴ・カルトの神話」のとこだけグッと来た。
19C後〜20C半のメラネシアで、ヨーロッパ人が本国から船で運ばれた豊富な物資を受けとるのを、現地住民が”特に生産労働していないやつらが簡単に手に入れている”と見て、自分たちのところにも世界の終末に救世主がやってきて、そういう豊富な物資をもたらしてくれるにちがいないから、と言って、到着することなどない荷物のための倉庫を建設したり、あるいは労働を放棄したり、というの。
そして、それがなんだかんだ言って、じゃあ先進国のやってる「万国博覧会」も結局違わないんじゃないの、的な。あるいは「未来都市想像図」的な。
しかも上海とかドバイとか、だいぶその未来都市に到達してるし、っていう現実。
その一方で、逆に、そんな「未来想像図」のようなものすら夢想できなくなったのが、いまの日本で言うところの「失われた○○年」なんだな、と。
乱暴に、そういう理解。
そりゃ、地方消失とか撤退社会とかいう流れも現実問題としてはわかるんだけど、あたしらの世代だったらそういう「未来想像図」とか「科学万博」みたいに”未来を想像する”時代を多少なりとも一回ちゃんと通過した記憶があるから、じゃあこれからのネガティブな流れも甘んじて受けてもしゃあないかなというあれはあるかもしんないけど、もっとのちの世代の”失われた”という形容詞の時代しか通過してない人らにも「それが現実だから受け止めなさい」っていうのズルくないかな、って思うから、ネガティブな現実の流れと併行して、併走して、ポジティブな流れをつくるのを夢想したりそれにもとづいて活動したりっていうのだって、みんなでちゃんとやってかなきゃいけないんじゃないかなあ、って思うんだけど。
地に足のついた、倉庫建設を。