↓これは折に触れて読み返すべき。
(「ローカル」は地理的な意味でだけではなく。)
瀧井一博. 「日本文明論のゆくえ : 様々な日本へ」
・「「失われた」と表現することは、果たしてどの局面を指してのものなのか」「失われたのは、実は日本のある一部分に過ぎないのではないか」「「失われた二〇年」を克服しようとするなかで、そこから漏れ落ちてきた様々な”声”…国民国家が暗黙の前提とされることによって、その中に解消されない様々な周縁的な声があがっていることに注意が促され。それらの声に耳傾けることが説かれた」
・「ネガティヴなものとしてのみ強調(するのではなく)…そのような声に立脚して、社会構築へとつなげていくための”理論”が必要とされる」
・「自分たちの土地が育んできた豊かな歴史の実りを忘却していたのである。いまそれを回復すべき時ではないか」「”フクシマ”と”オキナワ”という現代日本や戦後日本のある側面を象徴するローカルな場に焦点が当てられ、…このような学問的実践は、もっとこの列島の隅々で行われてよい」
・「その際に留意すべきは、ここでローカルというコンセプトを地域的な特殊性に自己完結させてしまってはいけない…それをグローバルなつながりのなかに位置づけること」
・「文化にせよ地方にせよそれを担うのは一人ひとりの国民であり、住民であり、個人である。「文化と地方の時代」を担い得る自律的な個人のあり方」「そのような綜合のかたちとして提起したいのが、知識を生み出し発信する場としての地方=ローカルの再構築である」「均質的で単一的な日本は制度疲労を起こしており…新たな地方の時代という日本史の周期に入りつつある」「個々人が参与してつくり上げたローカルなコミュニティの集積として積み上げられた「日本」であり、そのような下からの知識生産のメカニズムとして「日本」を構想すること」「そのような知識創造国家(Knowledge Creating Nation)」