「図書館×クイズ=アウトリーチ」試論 : 「99人の壁」を実践例として
index(目次&参考文献)
0. 序論
1. 図書館にとってアウトリーチは本質的な概念である
2. クイズでは何がおこなわれ、何が求められているか
2.1 クイズとは何をやっている営みなのか?
…
2.1.2 クイズは”リテラシー”の”ギャップ”を素材とする娯楽である
2.1.3 社会には共有されるリテラシーの範囲がある
2.1.4 クイズの娯楽性はどこにあるのか
-----------------------------------------------------
2.1.3 社会には共有されるリテラシーの範囲がある
●どの範囲を共有し、どこからはみ出すことになるのか
事例1 (アタック25・単刀直入)「四字熟語で、前置きなしにすぐ本題に入ることを、ただ独りで刀を取り敵陣に切り込む」という意味から、「刀」という字を使って何というでしょう?」
事例2 (トリニク)「牛肉は牛の肉、豚肉は豚の肉、ではトリニクは何の肉?」
事例3 (東大王・トーチタワー)「建設予定の建造物の名称をお答え下さい」
事例4 (0文字クイズ・シャ乱Q)「 、 、 、 ♂ 、 『 』『 』 ?」
2.1.2で下記のようにいろんなクイズを事例として出しましたが、とはいえこれらすべてが、お茶の間に代表されるこの社会全体の平均的なリテラシーの範囲内に含まれるのか、と言われるとけっしてそういうわけではないですよね、という確認です。
上記事例の問題や解答者その他を、リテラシーの高い低い(という一次元的な尺度があると仮定するならばですが)によって並べてみると、このようになります。
★高い
↑ 東大王
↑ 「トーチタワー」問題
↑ 「シャ乱Q」0文字クイズ問題
↑
------------------------
| ↑ アタック25・白の解答者
| ↑ 「単刀直入」問題 ←平均的なリテラシーの範囲(か?)
| ↑ 平均的な”お茶の間”
------------------------
↑
↑ 「トリニク」問題
↑ 考えたことない人
☆低い
このうち、「東大王」や「トリニク」はクイズの楽しみ方としてはやはり異色の類で、リテラシーのギャップの高すぎること、あるいは低すぎることを素材とするという意味では”色物”っぽくはあります。平均的な”お茶の間”が娯楽として楽しむのは、やはり平均的なレベルのリテラシーのあたりをカバーして、その中でのギャップ(わかる/わからない)を素材としていると言えるでしょう。
そして逆に言えば、テレビのクイズ番組が成立しているということは、解答者、企画者だけでなく、観覧者(視聴者)全体、つまり平均的な”お茶の間”層…その番組が放送される社会(なんなら国民国家)内で、このくらいだったら大勢の人が知っているだろうと当然視される文化的・社会的なリテラシーの”範囲”のようなものが存在し、共有されている、ということが前提となります。これは知ってて当たり前、これは知らなくて当たり前、これは知ってそうで知らなさそうで知ってたらエライ。それを、一億数千万人の視聴者が暗黙のうちになんとなーく共有している範囲内で、問題を出し合い解答を競い合うから、お茶の間の娯楽になり得るわけです。「単刀直入」や「四面楚歌」なら知ってる人が多いからクイズに出せる。「伊尹負鼎」?「蓴羹鱸膾」?誰が答えられますそんな、リテラシーの共有範囲に入ってない四字熟語、と。
単純に内か外かだけではなく、むしろ境界や周縁、半歩はみ出した辺りこそがギャップの面白さを生みやすいでしょう。「跳梁跋扈」は範囲に入るかは微妙だけど、逆に「魑魅魍魎」だと”難しい四字熟語キャラ”として周知されててクイズの対象になりやすいし、出題しやすい。同じ「単刀直入」でも、抽象的な意味(前置きなしに云々)だけだと連想や特定が難しいから、問題文の前の方に置くことで”ギャップの可視化”がしやすくなる。「日本で一番高い山」なんてクイズは低すぎて対象外ですが、「では二番目に高い山」ついては範囲内なのか、リテラシーとして高いのかそれとも低いのか(”山”だけに)。
範囲の内か外か、高いか低いか、微妙ラインか半歩はみ出してるか、その選択・配置・配点といった塩梅が、クイズの出来不出来を決めることになります。
で、そのリテラシーの範囲を逸脱したもの、例えば、クイズ番組で超難問を俗に「クイズ王」などと称される猛者が正解した時「なんでこんな難問がわかるの」と驚愕される(例:「変態天才ショー」とまで言われた『頭脳王』)ことがありますが、これも同じことで、「それが難問である」こと自体は平均的視聴者も理解できているし共有されているわけなので、ということはある程度共有されたリテラシーの範囲が暗黙の内に存在することを前提にクイズをやっている、ということに変わりはないわけです。
上の図で言えば、平均的リテラシーにはどこかしらに上限が存在するからこそ、そこを越えたものは「越えている」と認識される、という。
-----------------------------------------------------
「何がクイズの設問となり何がなりえないのか」
「クイズに出される設問を、その国民国家やメディアが流通する範囲に共有されているカルチュアル・リテラシーととらえる」
「人々が楽しむ(考え、問題を解く)ことができる問いの範囲が…ある文化を中心化・正統化し、「○○人なら知っておくべき知識の体系」として提示されるように、国民国家に強く境界づけられている」
(石田佐恵子. 「序章「クイズ文化の社会学」の前提」. 『クイズ文化の社会学』. 世界思想社. 2003, p.1-20.)
「クイズは、「参加者が知っている」と期待される知識」が想定できない環境では成立しない…日本人にとって、江戸幕府の初代将軍は小学生でもわかる常識だが、ひとたび海を越えれば、世界市場の瑣末な事項となる」
(徳久倫康. 「国民クイズ2.0」. 『日本2.0 思想地図β Vol.3』. 2012, p.484-510.)
-----------------------------------------------------
というわけで、本稿の目的である「図書館のクイズ問題を予想する」に寄せて言えば、テレビのクイズ番組でどのような問題が出題されるかは、平均的な”お茶の間”が持つリテラシーがどの範囲に位置しているか、に左右されるということになります。
本稿のベースとなる、図1を再掲します。
お茶の間を含むほぼすべての存在が、共有されるリテラシーの範囲内の内側にいます。が、クイズの問題は若干はみ出てますね。他にもはみ出てる存在がいくつかあります。何が、どういうときに、どうはみ出すか、それがクイズに何をもたらすか、についてはまた追々整理できれば、と。
とはいえ、この図の圧倒的範囲を赤い枠が占めており、すなわちクイズというものが基本的には、想定される範囲の社会において、広く共有されているリテラシーが存在していることを前提としているんだ、ということが言えるかと思います。
●そのリテラシーの高い低いを、クイズが決めるのか
そして昨今のクイズ番組では、そのリテラシーの高い低いにけっこうあからさまなナビゲーションが付いている例がよく見られます。
「Qさま!!」という、初期はたしかクイズをダシにしたがしゃがしゃしたバラエティだったような気がするのですが、いつの間にか知識中心のまっとうな出題に正面から解答する企画になり、PTAが「子供に見せたい」と言うまでに至った番組、からの事例です。
-----------------------------------------------------
「エ」から始まる名所・世界遺産
@40点 神奈川県の景勝地 え□□□
A60点 世界最高峰の山 エ□□□□
B80点 世界最大級の一枚岩 エ□□□・□□□
C100点 天台宗の総本山 え□□□□寺
D120点 3つの宗教の聖地 エ□□□□
E140点 地中海東部 エ□□海
F160点 パリの建造物 エ□□□□□□□□門
G180点 ロシア最大の国立美術館 エ□□□□□□美術館
H200点(激ムズ) 鎌倉五山の一つ え□□□寺
I250点(激ムズ) ニューヨークの超高層ビル エ□□□□・□□□□ビル
J300点(鬼ムズ) 曹洞宗の大本山 え□□□寺
K350点(鬼ムズ) 五大湖の一つ エ□□湖
(「Qさま!!」(2020年12月14日放送))
-----------------------------------------------------
それぞれの問題には写真が付いていて、この写真や説明文を手掛かりに日本・海外の名所を答えなさいというものです。内容的にも、言ってみれば「視聴者がまったく知らないような難問を出す番組ではない。中学や高校の授業でいちどは聞いたことがあるような知識を中心に」(田村正資. 「予感を飼いならす : 競技クイズの現象学試論」. 『ユリイカ』. 2020.7, p.95-103.)据えたもので、それに加えて難易度の高い低いがある、という感じです。
その難易度の高い低いが番号と得点でランキングされている、あたりが、けっこうにあからさまだな、と思います。「エリー湖」という地名を知っていればあなたは350点分の価値のあるリテラシーの持ち主だし、エベレストも答えられないようであればその1/6の価値もない、というわけです。え、大丈夫ですかね、関西だと@とCの認知度逆転してませんか。
ですが、これをPTA推奨のもとでお子さまと親ごさまたちが鑑賞しては、80点がわかる、100点がわかり、8番はわかるけどむしろ5番がわからない、だのと語り合っては、お互いのリテラシーがどの立ち位置にあるのか、その範囲は共有できているのか、むしろギャップがあるのか、という確認作業を、全国のお茶の間で実践してらっしゃるんでしょう。このようなランキングもそうですし、「一般正解率 何%」とか「東大生正解率 何%」とか、「小学5年生が正答できました」、「私立○○中学校の入試問題です」、うん、わかったわかった、自分が平均的リテラシー範囲を共有できているかどうか、そんなにまでして知りたいか、と。
-----------------------------------------------------
「クイズそのものが、世界に対する価値判断を含む営み」
「われわれが知りうる情報のうち、なにを出題に足る価値のあるものと捉え」「「どのような世界観が望ましいか」を決めることと同じ意味を持ってしまう」
(徳久倫康. 「競技クイズとはなにか?」. 『ユリイカ』. 2020.7, p.85-94.)
-----------------------------------------------------
これは考えてみれば、ある意味こわいことでもあります。我々はどうやら無意識のうちに不文律のリテラシー・ランキングのようなものを社会内で無言のまま共有しているらしい、ということだからです。なので、なんというか、このクイズにまつわりそうなリテラシーの有無やギャップというのは、せいぜいテレビのクイズ番組”程度”の娯楽にとどめておくのがちょうどいいんじゃないかしら、という気がしています、過度に価値を持たせて良いようなものではたぶんない。
いずれにせよ、この社会には共有される平均的なリテラシーの範囲があるらしい。しかし、共有され平均であるはずの範囲内にも、よくよくさらってみれば実はそこかしこにギャップがある。クイズは、その微妙なギャップをきわだたせたり、すりよせたり、良い具合の塩梅をはかりながら提示することによって生まれるおもしろさを、娯楽にしている。ということが言えるのではないかと思います。
逆に言えば、そのリテラシーの共有が維持できなくなったとき、「クイズ」は終わります。参照、「もうすぐ終了するという「アタック25」について」(egamiday 3) http://egamiday3.seesaa.net/article/482402344.html。
というわけで、とりあえずここではいったん、「クイズは、“リテラシー”の”ギャップ”を素材とした、”観客”のための”娯楽”である」と述べるにとどめておきます。どのみち、本稿の最終目的である「99人の壁問題予想」の段階では、このリテラシーの所在をねちねち考えなきゃいけないので。
なお以下余談ですが、日本のテレビではやたらと「漢字」がクイズとして出題される、という指摘がおもしろかったので紹介しておきます。確かに、クイズと名の付く番組で漢字の問題が出ないものを探すのは、ちょっと難しいかもしれませんね。
-----------------------------------------------------
「日本のクイズ番組では、漢字の書き方、読み方といった漢字そのものについての問題と、そこから派生する熟語問題・連想問題にいたるまでの多様な漢字関連クイズが出題されている」
「一つの漢字が複数の読み方をもつことが多いため、日本語を母国語とする人にとってさえ完璧に上達するにはよりいっそうの教育が必要となる。これはアルファベットだけで表記される英語などとは異なった言語的な特徴だろう」
「レストランのメニューを読むのにも、漢字の能力は必要とされる。カルチュラル・リテラシーとしての漢字がクイズ番組によく登場するのはごく自然な現象」
(黄菊英, 長谷正人, 太田省一. 『クイズ化するテレビ』. 青弓社, 2014. (第1章「クイズと「啓蒙」」))
-----------------------------------------------------
著者(黄菊英)が指摘するように、漢字は日本において習得する必要があるリテラシーである、という意識が共有されているということが、要因として大きそうです。特に、英単語や歴史年号や元素記号などと違って、老若男女職業立場を限らず日常生活で使わない人はいないし、使わない日やシーンはないくらいに身近で誰でもが触れるものだから、その出題には誰もが参加可能でお客を選ばない、という。それだけに、そのリテラシーは高ければ高いほどいい、持っていて損はない、という上向き一方向の価値尺度を共有してるんじゃなかろうか、という気がしますね。あくまでそのリテラシ-を共有している社会の範囲内において、ですが。
またこの著者(黄菊英)はリテラシーの問題としてだけでなく、「漢字問題はその視覚的要素ゆえに、より「テレビ的なもの」としての特性をもつ」というメディアの問題としての指摘がおっしゃるとおりかと。地デジ移行で画質が上がってより画数の多い漢字が、ていうの、ちょっとおもろかった。
加えるならば「出題者目線」として、
・難しい漢字や簡単な漢字が多種多様で、ネタに困らないこと。
・辞書・字典という公明正大かつ容易に参照可能な典拠があるので、作問しやすいこと。
・言葉なので、出題の背景に物語を持たせやすいこと。
なども漢字クイズ隆盛の要因じゃないかなって思います。
要するに、クイズにうってつけなんですよね、漢字って。