2021年09月26日
2021年EAJRS年次大会のまとめメモ
2021年9月におこなわれた、EAJRS年次大会(サンクトペテルブルク、ハイブリッド形式)のまとめメモです。
EAJRSの2020年次大会はサンクトペテルブルクでおこなわれる予定でしたが、COVID-19のために中止となりました。
サンクトペテルブルクでの開催は2021年に持ち越され、かつハイブリッド形式(現地参加とオンライン参加の両方)でおこなわれました。とはいえ現地の方々以外の多くの参加者が、オンラインで参加したようです。
そんな中、運営・進行のためにベルギーから現地に乗り込んで、終始をとりしきっていらっしゃった事務局のArjanさんには、心から感謝と敬意を表したいと思います。
冒頭の会長挨拶では、今年亡くなられた元NDLの安江先生を偲ぶお話もありました。安江先生とお会いする機会の過半数がEAJRSだったような気がする。
↓今年度のプログラムです。ほとんどの発表でパワポ公開されているので参照してください。
https://www.eajrs.net/2021-saint-petersburg#program
(そのサイトも会期中に落ちるなど、苦難が多かったですね…)
●国文研・山本先生の話、からの、司書の何が必要か問題
「オンライン画像を使った研究と図書館での研究」
https://www.eajrs.net/files/happyo/fujimura_ryoko_21.pdf
国文研の藤村さんと山本先生によるお話。
典籍事業、デジタルアーカイブ、オープン化から、デジタルヒューマニティーズの話してはるなと前半は聴いていたのですが、途中から、そんな中にあって現地で現物に触れて研究する意味、そしてライブラリアンとの対話、みたいな話にシフトしてきて、あれ、これふだん日本できけるのとはちょっと違う話題になってきてるなーと、じっと耳を澄まして聴いてました。(上掲PDF参照) これをしっかりつかまえたオスロの矢部さんが、質疑応答で司書や図書館の役割として問いかけ、山本先生が答える、というあたりが、極私的に本年EAJRSのハイエストなハイライトだったなと。
↓そのときの、egamidayさんの勝手ツイート。
「#EAJRS 国文研「オンライン画像を使った研究と図書館での研究」は、デジタルヒューマニティーズに対する図書館の役割を、従来型のそれと見せつつ現在に通じる普遍性、みたいなことを(勝手ながら)考えさせられて、良かったです。」
「司書が、研究者でも教師でも政治家や企業家でもないのに、形骸化してるだのAI化できるだの揶揄されながらも、社会の一角で何かを支えようとするなら、いま求められることと長く求められること、広い眼と深い目、人と資料と社会とを、柔軟に目配せできる度量を持ってなきゃな、という感じでどうですか。」
つまり、デジタルアーカイブとデジタルニューマニティーズを代表する事業を牽引している研究者が、そんな中で司書やリアル図書館に期待しようとしてくれているものがあるというのなら、それはいったい何なんだろう、何に起因するんだろう、そんな我々の、我々ならではの立ち位置ってどこにあるんだろう、あると期待されてるんだろう、「形骸化してる」とまで言われてるのに。
という問いに、”不易流行”をブレンドしてツイートしたのが↑これだったのでした。
●デジタルでの整備の話、からの、留学生来日不可問題
「Printed vs Online Japanese Language Dictionaries and Study Applications (2021) 」
https://www.eajrs.net/printed-vs-online-japanese-language-dictionaries-and-study-applications-2021
ブルガリアの大学生が日本語を学ぶのに、満足なオンライン辞書がない、という話。紙の本自体でブルガリア語の日本関係図書が少ないというのもあるだろうとは言え。このあたりの話、デジタルヒューマニティーズ支援の話が盛んな昨今ではありますが、それも重要ながら、基本辞書などという地道な整備がまだまだできてないところをもうちょっとなんとかしないとな、という思いを新たにしました。
辞書もないんだったら、コロナで留学・来日できなくてもオンラインで授業受けてなよ、って言われても、ネット環境さえあればオンライン授業受けられるってわけでもないんだよな、ていう。
(注:寝落ちて聞けなかったのを、テキストと他の方の投稿で補いました)
●ワークショップ
職場から、ワークショップという形で、概要紹介と新しいデータベースのお披露目という意味合いで、実施しました。
が、んー、やっぱ現地で実際に顔を見合わせて対話しないと、やっぱり難しいですね。「顔を見合わせて話す」というのは、「目で話す」ということであり、それは(よほど旧知の間柄ででもなきゃ)zoomでできることではないんだ、ということがあらためてよく分かりました。あと、「偶然の対話が発生しない」というあたりかな。もちろん、それでも発言してくれる方はガンガンしてくれますが、そういう時に発言のないような人と対話できるのが強みだと思うので。
ただ、オンラインでプレゼンできる一定の枠をもらえるというのは、これはこれで別の意味で使い勝手のある仕組みではあるので、次回ももし同様にあるとしたら、思いきって違う”企画”をやったほうがいいのかもしれない、ミニトークイベントとか。
●パネル
せっかくのオンラインなんだから、一方的な発表ではない、トークを交わし合うようなことができないか(しかも日欧間で)、ということを考えたのが発端、というパネルディスカッションの仕切りをやらせていただきました。パネラーの後藤さん@歴博、田中さん@ネットアドバンス、神谷さん@チューリッヒ、矢部さん@オスロ、事務局のArjanさん、Vasiliiさん、紀伊國屋書店の國重さんに、あらためてお礼申し上げます。
おかげで、”時間全然足りない”系の成功に終わりました。
数日前にパネラー全員でオンラインミーティングによるブレストをしたのですが、まあ、たっぷりいろんな話が出て非常に有意義な時間でした、非公開なのがもったいない。そのブレストをふまえての、「デジタルヒューマニティーズと図書館の役割 : リソースをめぐるクロストーク」というタイトルでした。
当日の議論も、途中で読売新聞社の方とのやりとりをはさんで、何が求められているか、何が伝わってないか、などが良い感じで確認できたように思います。
当日のメモみたいなのが後日公開されるでしょう。
●その他
・「ソ連時代の日本語教師とその資料について」という話がおもろかった。ソ連時代の日本研究は質・量ともにトップレベル、なぜなら、厳しい選抜、約束された将来、国家の人材政策、ていうの。それと、大阪外国語大学から日本語講師として任期一年でソ連に派遣されていた(1970-1991)。これによって、当時はできなかった現地でのロシア研究をできた、ていうの。
・史料編纂所さんのワークショップで、職人さんによるガラス乾板の保存修復の動画、食い入るように見ちゃってた。
・奈良文化財研究所さんの「史的文字データベース連携検索システム」が、DHは共同連携してなんぼ説を地で行く話だったし、さらに言えば、これ中韓でも使えるんだな、ていうの。
・ざっくりとですが、ロシア@現地からは一次資料や歴史研究の話が、日本側からはデジタル、オープン、ヒューマニティーズの話が多かったかな、という印象でした。
・例年多かったはずの北米からの参加が少なかったのは、やはり泣く子と時差には勝てぬという感じがする。かく言うこちらも、寝落ちてしまって聞けなかったのはいっぱいあったし。
・NDLさんのAI関連のプレゼンの時に、別のNDLの人がチャットで「送信サービスの案内もして」って急に言ってはって、テーマ違うから「?」ってなったけど、でも案内したところでそれはみんな知ってて、参加したくても参加できないんだ、っていうことは伝わってるんだろうか、て思たです。
●オンライン形式について
・会って話せない、ていうのはやっぱつらいな、というのをコロナ禍以降のイベントで初めて思いましたね。(注:他所では思わなかったらしい)
行けない、より、会えない、が。
本来だと、発表が終わって休憩に入りまーす、ってなって、そこからの時間が本番なんだけど。
オンライン懇親会があればいいというわけではない。合間の駄弁り場が必要。
・(ワークショップ項の再掲)
やっぱ現地で実際に顔を見合わせて対話しないと、やっぱり難しいですね。「顔を見合わせて話す」というのは、「目で話す」ということであり、それは(よほど旧知の間柄ででもなきゃ)zoomでできることではないんだ、ということがあらためてよく分かりました。あと、「偶然の対話が発生しない」というあたりかな。
・というより、オンラインであることをポジティブにとらえれば、ふだん渡欧参加できない人が参加できる絶好の機会のはずだったんだけど、思ったよりはいなかったので、あ、もっと呼びかけるというか直に誘えばよかったな、と反省してた。デジタルアーカイブ学会くらいワークショップに参加してても良かったんじゃないかしらとか。まあリソースプロバイダーじゃないけど。
・なお、参加登録は142人、うちオンラインは117人。例年の参加者は100人前後だったように思うので増えてはいる。実際のリアル参加者数をzoomで見てると60人〜30人くらいか。
来年は、リスボンだそうです。
2021年09月12日
2.1.4(続々) なぜその正答にたどりついたのか (「図書館×クイズ=アウトリーチ」試論 : 「99人の壁」を実践例として)
【目次】
「図書館×クイズ=アウトリーチ」試論 : 「99人の壁」を実践例として
index(目次&参考文献)
0. 序論
1. 図書館にとってアウトリーチは本質的な概念である
2. クイズでは何がおこなわれ、何が求められているか
2.1 クイズとは何をやっている営みなのか?
2.1.4 クイズの娯楽性はどこにあるのか
2.1.4(続) その「へぇ〜」はどこから生まれるのか
2.1.4(続々) なぜその正答にたどりついたのか
2.2 クイズで何がおこなわれているのか : 思考と行動
■ (6) 種明かし/謎解き
テレビのクイズ番組を見ていると、クイズが提示する情報そのものだけでなく、出題後に「その問題の正答にどうやってたどり着けるか」の思考プロセスが解説されることがあります。それがおもしろい、という話です。(クイズよりもいわゆる「謎解き」のほうが人気があるとしたら、このあたりかもしれません)
特にマンガ「ナナマルサンバツ」は、まさにこの思考プロセス部分を主たる素材としていた作品なんだろうな、という感じで、あらためて読み返してみると、全編が思考プロセス、思考プロセス、思考プロセス。
そもそも第1話のハイライトから、主人公がまだクイズなどというものをやったことがないというキャラなのに、がっつり脳内で思考している様子を開陳してくれています。
-----------------------------------------------------
越山「(どうしよう 押してみようか… 答えてみたい…!)」
笹島「--ふむ では次は難問といこうか」
越山「(難問…)
(中略)
越山「(「”恋をしたのだ。そんなことは、全くはじめてであった”」 知ってる…これはあの小説の書き出しだ。)」
「(貰ったペーパークイズにも似たような文学に関する問題があった これも作者名とかタイトルを答える問題だとしたら… どっちだ? 作者名… タイトル… これが本当に難問なら…)」
「答えは…ダス・ゲマイネ」
(中略)
深見「さっきのラスト問題 どうして答えがタイトルの方だとわかったの?」
越山「あ それは会長さんが”難問”だって言ってたから… 有名な著者名よりマイナーなタイトルの方が その…答えるのに難しいって思ったから…」
(杉基イクラ. 『ナナマルサンバツ』. 第1話.)
-----------------------------------------------------
その解説は、出題した番組側から示されることもありますが、解答者(特にクイズ王扱いされるような猛者プレーヤー)がなぜそのクイズに正答できたのか、それをコメントとして解説するところにもまたおもしろみがあります。
サッカーやバスケットやオリンピック競技でいえば、点が入ったからすごい、おもしろい、ではなくて、こうこうこういうふうに選手が動いて点が入るに至った(注:筆者はスポーツのおもしろさを何もわかってない人種なので、表現ががっくり曖昧になってます)、そのプレーがすげえ、ということ。そしてアナウンサーや解説者がいまのがどういうプレーだったのかを説明する、その解説があるからこそおもしろい、のあたりです。
『東大王』から、2.1.2(http://egamiday3.seesaa.net/article/482920216.html)で既出のものも含めて、いくつか事例を。
-----------------------------------------------------
●事例(東大王・トーチタワー)
問題テロップ「建設予定の建造物の名称をお答え下さい」
(注:このテロップ通りの前置きがナレーターによって読み上げられたあとで、問題となる建造物の画像に切り替わる予定であるが、画面上にはまだテロップしか表示されておらず、読み上げられてもいない。)
林「ピコーン」
山里「えっ!?」
実況「押したのは、ジャスコ林!? 問題文の途中だぞ!?」
(会場が騒然となる)
実況「答えをどうぞ」
林「はい、トーチタワー」
効果音「キロキロキロン」
(中略)
ヒロミ「ちょっと待ってちょっと待って、だって問題出てないじゃん!」…「なにこれ、どういうこと?」
林「あの、東京駅の近くにトーチタワーっていう、日本一高いビルが建設予定になってまして。まあ、いまニュース関連で出すなら、それかなと。「建設予定」っていう字が出てたのが」
山里「あ、この問題文でわかるんだ」
(「東大王」(2020年9月23日放送))
-----------------------------------------------------
●事例(東大王・キリン)
問題テロップ「生まれた時から角が生えている哺乳類は?」
ナレ「生まれたときから角が生えている唯一の哺乳類は何か、お答えください」
(中略)
高校生「(「キリン」と書いて正解)わからなかったので、知ってる「角が生えている動物」を全部考えて、答えになったら面白そうなやつを選びました」
(「東大王」(2021年8月25日放送))
-----------------------------------------------------
●事例(東大王・スケートボード)
問題テロップ「単語から連想される競技名は?」
ナレ「次の単語から連想される競技名をお答えください」
(画面に9個の「?」が表示され、1つめの「?」が開いて「ローストビーフ」と表示される。)
鶴崎「ピコーン」
実況「反応したのは、対象・鶴崎修功。東大王チーム4ポイント目か。答えをどうぞ」
鶴崎「スケートボード」
効果音「キロキロキロン」
(中略)
ヒロミ「なんでわかったの?」
鶴崎「競技で、こういうかっこいい名前がつくもので、最近話題のものということで、サーフィンかクライミングかスケートボードかなと思って」
ヒロミ「すごいねえ」
鶴崎「で、その中で9個ありそうなもの、(名前の付いた技の数が)一番多そうなものがスケートボードかなと」
(「東大王」(2021年9月8日放送))
-----------------------------------------------------
一見すると超難問な、あるいはこんな早いところでボタンを押して答えられるわけがない、というような状態でなぜ正答がわかったのか、正答を導き出せたのか。
その解法・思考プロセスが、解説され、解き明かされる。
それは、その思考プロセスそのものを自分が日常生活で援用できるわけでもなんでもないんだけど、目の前で謎解きや種明かしをされ、自分よりも高度な思考プロセスを疑似体験できている、というところに、知的な娯楽性がある。
とするならば。
クイズが持つこの「種明かし/謎解き」のおもしろさというのは、推理小説における解決編、と同じものなんじゃないかって思います。
推理小説って、まあぶっちゃけ言うと、誰もが全部自分で真面目に推理しながら読んでるわけじゃないじゃないですか。でも、探偵が出てきて、あれとこれとそれをこう考えれば、こういう正答が導き出せる、って、手がかりと手がかりをぴたっぴたって組み合わせて思考プロセスを示してくれるの、読んでて気持ちよくないですか。ていうかその気持ちよさのために読んでるわけで。コロンボや古畑のような倒叙もそんな感じ。
あるいはとんち噺でも可です。あ、なるほど、自分では気づかなかったけど、この手がかりを柔軟な発想でこう解釈すれば、こんな解決方法が導き出せるのか。という思考プロセスの気持ちよさ。
そしてこの思考プロセスの開示をエンタメとする傾向は、以前はやってなかったんだけど、『東大王』はそこをちゃんと拾ってエンタメにしてる、という証言が↓おもろかった。
-----------------------------------------------------
「『東大王』以前においては、参加者は解答に至るプロセスの解説すら満足にオンエアしてもらえなかった」
(伊沢拓司. 「クイズの持つ「暴力性」と、その超克」. 『ユリイカ』. 2020.7, 52(8), p.74-84.)
「なぜわかったのか解説させようと。そっちのほうがおもしろい」
((対談)「クイズ王とは何者なのか?」. 『ユリイカ』. 2020.7, 52(8), p.40-63.)
「演出面でいうと、僕らが問題を解説する部分をすごく使ってくれるんですよね。クイズをマジックのように演出していたそれまでのクイズ番組と比べると、クイズという文化自体に対する理解の高さを感じました」
((インタビュー)「伊沢拓司」. 『QuizJapan』. 2018.7, 9, p.2-41.)
-----------------------------------------------------
確かに、アタック25やウルトラクイズで一問ごとに「いまのなんでわかった?」とか聞いたりしなくて、あったとしたら、アタック25の最後の映像クイズで、正解後に児玉さんが「どこでわかりました?」て聞くとかそのくらいかしら。ほとんどの場合、結局正解したかしなかったの結果しか残りませんから、よくそんな単純作業が一般向けエンタメとして成立してたな、といまにしてみれば思わなくはないです。
Google登場以前、「正答だけなら検索すればわかる」時代ではなかった、ってことでしょうかね。
以上、ずいぶん長くなりましたが、2.1では「そもそも「クイズ」とは何をやっている営みなのか」について考えました。クイズは観客のためのエンターテイメントであり(2.1.1)、リテラシーのギャップを素材としている(2.1.2)。その前提として、社会には共有されるリテラシーの範囲があり(2.1.3)、しかもその範囲をいい塩梅で逸脱するところに娯楽性がある(2.1.5)。クイズとはどうやらそういうものであるらしい。
そのことをふまえたうえで、続く2.2では、解答者、出題者・企画者、そして鑑賞者(観客・視聴者)はそれぞれクイズにのぞんで何を求め、何を考え、何をおこなっているのかを考察します。なぜそんなことを考察するかというと、「出題者・企画者が何を考えているか」がわかれば「どのような問題が出題され、何が正答となるかが予測できる」と考えるからです。
「図書館×クイズ=アウトリーチ」試論 : 「99人の壁」を実践例として
index(目次&参考文献)
0. 序論
1. 図書館にとってアウトリーチは本質的な概念である
2. クイズでは何がおこなわれ、何が求められているか
2.1 クイズとは何をやっている営みなのか?
2.1.4 クイズの娯楽性はどこにあるのか
2.1.4(続) その「へぇ〜」はどこから生まれるのか
2.1.4(続々) なぜその正答にたどりついたのか
2.2 クイズで何がおこなわれているのか : 思考と行動
■ (6) 種明かし/謎解き
テレビのクイズ番組を見ていると、クイズが提示する情報そのものだけでなく、出題後に「その問題の正答にどうやってたどり着けるか」の思考プロセスが解説されることがあります。それがおもしろい、という話です。(クイズよりもいわゆる「謎解き」のほうが人気があるとしたら、このあたりかもしれません)
特にマンガ「ナナマルサンバツ」は、まさにこの思考プロセス部分を主たる素材としていた作品なんだろうな、という感じで、あらためて読み返してみると、全編が思考プロセス、思考プロセス、思考プロセス。
そもそも第1話のハイライトから、主人公がまだクイズなどというものをやったことがないというキャラなのに、がっつり脳内で思考している様子を開陳してくれています。
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越山「(どうしよう 押してみようか… 答えてみたい…!)」
笹島「--ふむ では次は難問といこうか」
越山「(難問…)
(中略)
越山「(「”恋をしたのだ。そんなことは、全くはじめてであった”」 知ってる…これはあの小説の書き出しだ。)」
「(貰ったペーパークイズにも似たような文学に関する問題があった これも作者名とかタイトルを答える問題だとしたら… どっちだ? 作者名… タイトル… これが本当に難問なら…)」
「答えは…ダス・ゲマイネ」
(中略)
深見「さっきのラスト問題 どうして答えがタイトルの方だとわかったの?」
越山「あ それは会長さんが”難問”だって言ってたから… 有名な著者名よりマイナーなタイトルの方が その…答えるのに難しいって思ったから…」
(杉基イクラ. 『ナナマルサンバツ』. 第1話.)
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その解説は、出題した番組側から示されることもありますが、解答者(特にクイズ王扱いされるような猛者プレーヤー)がなぜそのクイズに正答できたのか、それをコメントとして解説するところにもまたおもしろみがあります。
サッカーやバスケットやオリンピック競技でいえば、点が入ったからすごい、おもしろい、ではなくて、こうこうこういうふうに選手が動いて点が入るに至った(注:筆者はスポーツのおもしろさを何もわかってない人種なので、表現ががっくり曖昧になってます)、そのプレーがすげえ、ということ。そしてアナウンサーや解説者がいまのがどういうプレーだったのかを説明する、その解説があるからこそおもしろい、のあたりです。
『東大王』から、2.1.2(http://egamiday3.seesaa.net/article/482920216.html)で既出のものも含めて、いくつか事例を。
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●事例(東大王・トーチタワー)
問題テロップ「建設予定の建造物の名称をお答え下さい」
(注:このテロップ通りの前置きがナレーターによって読み上げられたあとで、問題となる建造物の画像に切り替わる予定であるが、画面上にはまだテロップしか表示されておらず、読み上げられてもいない。)
林「ピコーン」
山里「えっ!?」
実況「押したのは、ジャスコ林!? 問題文の途中だぞ!?」
(会場が騒然となる)
実況「答えをどうぞ」
林「はい、トーチタワー」
効果音「キロキロキロン」
(中略)
ヒロミ「ちょっと待ってちょっと待って、だって問題出てないじゃん!」…「なにこれ、どういうこと?」
林「あの、東京駅の近くにトーチタワーっていう、日本一高いビルが建設予定になってまして。まあ、いまニュース関連で出すなら、それかなと。「建設予定」っていう字が出てたのが」
山里「あ、この問題文でわかるんだ」
(「東大王」(2020年9月23日放送))
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●事例(東大王・キリン)
問題テロップ「生まれた時から角が生えている哺乳類は?」
ナレ「生まれたときから角が生えている唯一の哺乳類は何か、お答えください」
(中略)
高校生「(「キリン」と書いて正解)わからなかったので、知ってる「角が生えている動物」を全部考えて、答えになったら面白そうなやつを選びました」
(「東大王」(2021年8月25日放送))
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●事例(東大王・スケートボード)
問題テロップ「単語から連想される競技名は?」
ナレ「次の単語から連想される競技名をお答えください」
(画面に9個の「?」が表示され、1つめの「?」が開いて「ローストビーフ」と表示される。)
鶴崎「ピコーン」
実況「反応したのは、対象・鶴崎修功。東大王チーム4ポイント目か。答えをどうぞ」
鶴崎「スケートボード」
効果音「キロキロキロン」
(中略)
ヒロミ「なんでわかったの?」
鶴崎「競技で、こういうかっこいい名前がつくもので、最近話題のものということで、サーフィンかクライミングかスケートボードかなと思って」
ヒロミ「すごいねえ」
鶴崎「で、その中で9個ありそうなもの、(名前の付いた技の数が)一番多そうなものがスケートボードかなと」
(「東大王」(2021年9月8日放送))
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一見すると超難問な、あるいはこんな早いところでボタンを押して答えられるわけがない、というような状態でなぜ正答がわかったのか、正答を導き出せたのか。
その解法・思考プロセスが、解説され、解き明かされる。
それは、その思考プロセスそのものを自分が日常生活で援用できるわけでもなんでもないんだけど、目の前で謎解きや種明かしをされ、自分よりも高度な思考プロセスを疑似体験できている、というところに、知的な娯楽性がある。
とするならば。
クイズが持つこの「種明かし/謎解き」のおもしろさというのは、推理小説における解決編、と同じものなんじゃないかって思います。
推理小説って、まあぶっちゃけ言うと、誰もが全部自分で真面目に推理しながら読んでるわけじゃないじゃないですか。でも、探偵が出てきて、あれとこれとそれをこう考えれば、こういう正答が導き出せる、って、手がかりと手がかりをぴたっぴたって組み合わせて思考プロセスを示してくれるの、読んでて気持ちよくないですか。ていうかその気持ちよさのために読んでるわけで。コロンボや古畑のような倒叙もそんな感じ。
あるいはとんち噺でも可です。あ、なるほど、自分では気づかなかったけど、この手がかりを柔軟な発想でこう解釈すれば、こんな解決方法が導き出せるのか。という思考プロセスの気持ちよさ。
そしてこの思考プロセスの開示をエンタメとする傾向は、以前はやってなかったんだけど、『東大王』はそこをちゃんと拾ってエンタメにしてる、という証言が↓おもろかった。
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「『東大王』以前においては、参加者は解答に至るプロセスの解説すら満足にオンエアしてもらえなかった」
(伊沢拓司. 「クイズの持つ「暴力性」と、その超克」. 『ユリイカ』. 2020.7, 52(8), p.74-84.)
「なぜわかったのか解説させようと。そっちのほうがおもしろい」
((対談)「クイズ王とは何者なのか?」. 『ユリイカ』. 2020.7, 52(8), p.40-63.)
「演出面でいうと、僕らが問題を解説する部分をすごく使ってくれるんですよね。クイズをマジックのように演出していたそれまでのクイズ番組と比べると、クイズという文化自体に対する理解の高さを感じました」
((インタビュー)「伊沢拓司」. 『QuizJapan』. 2018.7, 9, p.2-41.)
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確かに、アタック25やウルトラクイズで一問ごとに「いまのなんでわかった?」とか聞いたりしなくて、あったとしたら、アタック25の最後の映像クイズで、正解後に児玉さんが「どこでわかりました?」て聞くとかそのくらいかしら。ほとんどの場合、結局正解したかしなかったの結果しか残りませんから、よくそんな単純作業が一般向けエンタメとして成立してたな、といまにしてみれば思わなくはないです。
Google登場以前、「正答だけなら検索すればわかる」時代ではなかった、ってことでしょうかね。
以上、ずいぶん長くなりましたが、2.1では「そもそも「クイズ」とは何をやっている営みなのか」について考えました。クイズは観客のためのエンターテイメントであり(2.1.1)、リテラシーのギャップを素材としている(2.1.2)。その前提として、社会には共有されるリテラシーの範囲があり(2.1.3)、しかもその範囲をいい塩梅で逸脱するところに娯楽性がある(2.1.5)。クイズとはどうやらそういうものであるらしい。
そのことをふまえたうえで、続く2.2では、解答者、出題者・企画者、そして鑑賞者(観客・視聴者)はそれぞれクイズにのぞんで何を求め、何を考え、何をおこなっているのかを考察します。なぜそんなことを考察するかというと、「出題者・企画者が何を考えているか」がわかれば「どのような問題が出題され、何が正答となるかが予測できる」と考えるからです。
2.1.4(続) その「へぇ〜」はどこから生まれるのか (「図書館×クイズ=アウトリーチ」試論 : 「99人の壁」を実践例として)
【目次】
「図書館×クイズ=アウトリーチ」試論 : 「99人の壁」を実践例として
index(目次&参考文献)
0. 序論
1. 図書館にとってアウトリーチは本質的な概念である
2. クイズでは何がおこなわれ、何が求められているか
2.1 クイズとは何をやっている営みなのか?
2.1.4 クイズの娯楽性はどこにあるのか
2.1.4(続) その「へぇ〜」はどこから生まれるのか
2.1.4(続々) なぜその正答にたどりついたのか
●「クイズとしてかっこうがついている」か否か
■(5)興味/意外性
単純にリテラシー共有範囲の内か外かだけでなく、むしろ境界や周縁、半歩はみ出した辺りこそがギャップの面白さを生みやすいし、そこに娯楽を見出しやすい。
当然と言えば当然の話で、本項冒頭でも引用したように、クイズというのは「答えの意外性やおもしろさを利用して人を引き付ける会話的手法」(黄菊英, 長谷正人, 太田省一. 『クイズ化するテレビ』. 青弓社, 2014. (序章「テレビとクイズのはざまで」))だということです。それによってクイズは、砂を噛むような試験対策や学習教育とちがって知識・情報の伝達を娯楽化させる、くわえて、競技・ゲームの直接の当事者でもないのになぜか参加する気を起こさせる。つまりは、”お茶の間”の興味をひく。
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越山「なんだかちょっと気になる…みたいな興味のわく問題が多い感じ 「へぇー」って感じの…」
杉基イクラ. 『ナナマルサンバツ』. 第9話.
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↑マンガ『ナナマルサンバツ』の一場面。第9話ですから初期のころ、まだクイズというものに触れて間もない主人公に、クイズとはそもそも何なのかを先輩が教える、その初歩の初歩としての認識。
この、何ならクイズになって何はクイズにならないか、という問題については、クイズ関連の各種文献等で必ずと言っていいほど触れられます。↓
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「クイズの問題はどれも、答えを知らなかった人が答えを知ったとき、なんらかの形で知的好奇心を刺激されるものになっている。…あまりにも耳馴染みのない知識や、専門的すぎる知識はほとんど問われない」
(小川博司. 「クイズ番組の今昔」. 『ユリイカ』. 2020.7, 52(8), p.178-184.)
伊集院光
「この二人の作るクイズ番組で、解答が発表されるときに、全員が「そうか!」って言ってる」
「「そう、そうだったんだ」っていう、あの顔が出ているクイズ番組のクイズライターは優秀で、そうそう出てこない」
(「クイズ、最高の一問 : クイズ作家・矢野了平/日大介」(プロフェッショナル仕事の流儀 他). NHK, 2021.)
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たとえばクイズと称して延々、フランスの首都はパリ、イタリアの首都はローマ、オーストリアの首都はウィーン、何それ、暗記科目か何かか?となってしまうような出題は、試験や資格や競技ならもちろんあるでしょうが、クイズではまあ好まれません。これが「スイスの首都は?」になると、ジュネーブだよね、あれチューリッヒだっけ?と混同する人がまま多い分、「答. ベルン」というやや意外な答えは、まあクイズに出せなくはないかもしれない。
さらにこれが、「問. もともとは「熊」という意味を持つ、スイスの首都はどこ?」「答. ベルン」というような問題文になったとたん、なんとなくクイズっぽい、となりますし、「問. 街を創設したベルトルト5世が狩で仕留めた「熊」がその由来と伝えられる、スイスの首都はどこ?」くらいまでいけば、クイズとして結構かっこうがつくでしょう。
この、「クイズとしてかっこうがついている」か否か、これがわかるかどうかはかなりセンスの問題っぽい領域なわけですが、それを本項ではあえて言語化・説明可能化してみたいな、と思うわけです。なぜなら、「どういう問題ならクイズとしてかっこうがついているか」がわかるようになれば、「どういう問題がクイズとして出題されるか」が予測しやすくなる(=本稿の目的にかなう)からです。
これはおそらく、クイズというものに長けているかいないか、のかなり重要な目利き要素になり得ます。決して暗記力勝負一辺倒なことをやってるのではないわけです。
スイスの首都に話を戻すと、「問. もともとは「熊」という意味を持つ、スイスの首都はどこ?」「問. 街を創設したベルトルト5世が狩で仕留めた「熊」がその由来と伝えられる、スイスの首都はどこ?」のような問題が出題されたとき、そこには「知らなかった背景・物語が存在していた」ことへの驚きや意外性があります。出題後に「ドイツ語のBär(熊)が由来と言われています」などと補足解説でも放送されれば、解答者はともかくとして、鑑賞者である”お茶の間”が「へぇーっ」「なるほどー」と思える。知識・情報の伝達なはずだったのに、そこになぜか感情の動きが見られる、ということです。(なお、「諸説あり」問題は「と伝えられる」辺りで吸収されてるとご容赦ください。)

図4a 情報の意外性がクイズを娯楽にする
感情の動きを生む知識・情報のあり方にはいろんなものがあります。
ベルンの語源が「熊」というのは「背景」であり、その由来が創設者が狩りをしたというのは「物語性」からくる意外性と言えそうです。
釜山や済州島は漢字で書くけど、ソウルには漢字がない。普段ぼーっと生きてると気にしてなかったけどそういえば、という「盲点」の意外性、または「不統一」の意外性。
チャドの首都はンジャメナ、ンで始まる言葉なんかあるんだ、という「逸脱」の意外性。
タイの首都バンコクはほんとは正式名称じゃないんですよ、それだけで意外なのに、正式名称は「クルンテープ・マハーナコーン・アモーンラッタナコーシン・マヒンタラーユッタヤー・マハーディロック・ポップ・ノッパラット・ラーチャタニーブリーロム・ウドムラーチャニウェートマハーサターン・アモーンピマーン・アワターンサティット・サッカタッティヤウィサヌカムプラシット」、逸脱しすぎてもうなにがなんだか。
そのタイプや程度はさまざまかもしれませんが、逸脱・意外性といった心の動きを起こさせるような情報がクイズとして採用されるし、そうでない情報はクイズとしては採用されにくい。娯楽であって受験勉強じゃないんだから、いくら学習効果やゲーム性があったとしても、知識の伝達を「見せ物」にはしづらい。
(いわゆる雑学、無駄知識、トリビアなどというものがありますが、在り方としてはあれと同じですね。いくら「無駄知識」って言ったって、”本当に無駄”な知識がなんでもかんでもトリビア扱いされるわけではなく、「へぇー」とか「ほぉー」とか「明日誰かに話してみよう」と思えるような感情の動きが何かしらあるから、雑学が成立するわけなので。)
そして重要なのは、この興味・意外性も”共有されたリテラシーの範囲”の存在を前提としており、そこからの”ギャップ”によって生まれてくるものである、ということです。”あたりまえ”の範囲を逸脱している情報、なわけですから。
そう考えると先ほどの図4、なんとなくデジャヴっぽくないですか。

図4b 情報の意外性がクイズを娯楽にする + リテラシーのギャップが可視化される
共有されたリテラシーの範囲をいい塩梅で逸脱した、意外性のある背景や物語が、クイズとして採用される。採用された情報は、知っている人もいれば知らない人もいるくらいにいい塩梅なので、クイズとして出題されると解答者間のリテラシーのギャップを可視化する。
鑑賞者は、解答者間のリテラシーのギャップが拮抗し合う様子を楽しみ、同時に知識・情報自体に存在するギャップ(意外性)を楽しむ。
おおお、なんかすげえ完成された構造の知的娯楽っぽく見えてきたぞ(笑)。
●なじみがあるか、なじみがないか
とは言え、です。
「問. スイスの首都・ベルンの由来となった、熊を狩りで仕留めたと伝えられる街の創設者の名前は?」「答. ベルトルト5世」
…こんなん、ゴールデンタイムのクイズ番組でやってたら、あっという間にチャンネル変えられますよね。それこそ「競技クイズ」と呼ばれる猛者達の大会あたりでならこのくらいの問題も出るでしょうが、2.1.2で言う「リテラシーの高さを鑑賞する」ほうのテレビ番組でも微妙かもしれない、観てる方が「知らんがな」としか思えないと。ただ逸脱しすぎているだけのものを”意外”とは言いません。”意外”があるということは、”意内”があり、”意内”の存在を感じられるからこその”意外”なわけです。
逆に、「フランスの首都は?」のような99人以上が正解するようなものクイズにならない。いくら2.1.3で確認したようにクイズが「社会に共有されているリテラシー」を基盤にしていると言っても、娯楽に至らなければクイズにはならないので。
あくまで、共有されたリテラシーの範囲をいい塩梅で逸脱していること、が求められます。
↓クイズの出題者は日々これと格闘していますし、
-----------------------------------------------------
ナレ「日高は日常のあらゆる場面に疑問をなげかける」
日高「(靴屋が合鍵作りをやっていることについて)違和感が入ってくると、おっ、クイズの種、みたいな」
ナレ「違和感の種を掘り下げることでクイズを産み出していく」
日高「日常の誰もが気づいているわけではないけど、言われれば「確かにそうだ」っていうところで、「じゃあその理由は何?」っていう」
日高「日常の盲点をついた問題が」「知識クイズ、雑学クイズとしては理想形だなっていう」
日高「ちょっと人生に彩りを添えるよね、ちょっと豊かになるよねっていう」
(「クイズ、最高の一問 : クイズ作家・矢野了平/日大介」(プロフェッショナル仕事の流儀 他). NHK, 2021.)
-----------------------------------------------------
↓解答者はそこから逆算して準備・対策しようとします。
-----------------------------------------------------
「よく出る問題というのは、ある程度決まっているのです。それは視聴者が見ていてためになる、楽しいと思える問題です。」
「答えを聞くことで、ある種の満足感が生まれます。それが人の興味をそそるのです。」
(水上颯. 『水上ノート : 東大No.1頭脳が作った究極の「知力アップ」テキスト』. KADOKAWA, 2020.3)
-----------------------------------------------------
↓なんなら、「意外性の有無」から「正解」を逆算したりもする、これは正直よくあります。
-----------------------------------------------------
「TVのクイズは番組として解答者だけじゃなく視聴者にも楽しんでもらう必要があるだろう?
ただ難しいだけじゃつまらないし さっきの問題が「NO」じゃ出題した意図がわからない なにも面白くないからね」
「だからTV的においしかったり意外性があったり 視聴者が「へえ」って驚けるような答えが正解になりやすいんだよ」
(杉基イクラ. 『ナナマルサンバツ』. 第56話.)
-----------------------------------------------------
しかしそう考えると、クイズとしてのおもしろさの範囲は、学校の試験の出題範囲などと比べてよっぽど微妙でデリケートで、直感的・印象的な辺りにありそうですね。
いったいそんなデリケートな「いい塩梅の逸脱」はどっから生まれてくるのか?
”意内”の存在を感じられる”意外性”とはどこにあるのか?
私はこれを「周知度と珍しさのせめぎあい」というふうに、学生クイズ研時代の書き物で表現したことがありました。これをもう少しモデルっぽく表現すると、「なじみがある」と「なじみがない」のバランス、みたいに言えるかな。
そう思いながらいろいろ書いたり調べたりしてましたら、さすが東大王の人が↓こんなことを書いておられました。
-----------------------------------------------------
「クイズは「わかる」×「わからない」が面白い」
「問題と答えをわかる×わからないで分けた4種類のクイズのうち、解答者も見ている側も面白いと感じるのは、わかる×わからないとわからない×わかるの2つです。特にクイズ番組では、視聴率を考え、わかる×わからない問題が圧倒的に多く、わからない×わからないはほぼありません。」
「問題か答えのどちらかが親しみやすいことが、クイズ番組で出題されるクイズの条件だと思います。」
(水上颯. 『水上ノート : 東大No.1頭脳が作った究極の「知力アップ」テキスト』. KADOKAWA, 2020.3)
-----------------------------------------------------
ドンピシャなことをおっしゃってたので、文献を丁寧に遡れば発想の源泉がどこかに見つかるかもしれない。
で、ここでは「わかる」「わからない」を「なじみがある」「なじみがない」に言い換えたいと思います。というのも、わかるかわからないか、知ってるか知らないかというのは、どちらかというと個々人のリテラシーの問題になってしまうからです。本稿を通して問題にしたいのは、”お茶の間”に代表される社会全体で共有されるリテラシーの範囲内の中で、そのことについて知る/分かる/認識することがどう位置づけられているか、というあたりなので、これを「なじみがある」「なじみがない」と表現したい。
とはいえ考え方は同様で、あるクイズの問題があったとして、その中に
「なじみがある(深い)」概念と、
「なじみのない(薄い)」概念
との両方が存在していること。
そして両者の濃さ薄さのバランスが良いこと。
これが「クイズとしてかっこうがついている」かどうかを決めるひとつの要素になるんじゃないかな、って思います。
例えば、一般的な日本のお茶の間に投げかけるクイズという前提で考える時。
「日本で一番高い山は?」だと、「日本」も、「山」も、そして「第1位を問う行為」もすべて充分になじみのあることですし、その正答である「富士山」すらなじみのある存在であって、「なじみのない(薄い)」概念がひとつも存在しない。この問題が「クイズとしてかっこうがついていない」のは、このためだろうと考えられます。
ここに「では2番目は?」という、「第2位を問う行為」というワンランクなじみの薄い概念を入れてみる。そうすると、ちょっとクイズっぽくなる。あるいは「日本」を「アメリカ」に、「山」を「ビル」に、「高い」を「低い」に変えてみる。そうすると「なじみがある」と「なじみがない」の間にリテラシーのギャップが生まれ、正解できる人と正解できない人の差が可視化されやすくなる。こうやって、クイズの娯楽性の素材(=出題とその予測のタネ)を発掘していくことができる。
ただしやっぱりそこの塩梅は難しくて、「日本で」を「世界で」に変えただけではなじみがそれほど薄くはならないから、まだまだクイズにまでは至らない。一方で、じゃあ「キルギスで」とか「第19番目に」のようなことを問われても、あまりになじみが薄すくなりすぎて「知らんがな」となる。データベース検索してるんじゃないんだから。

図5 いい塩梅で逸脱する
しかもこの距離感も決して定量的なものでもベクトルの固定化されたものでもなく、例えば「台湾で一番高い山は玉山」と言われても耳を素通りするような人でも、「ニイタカヤマ」と言われると、あれ、それって…となることもあるかもしれない。
難しいですね、やはり(意図的に)「いい塩梅で逸脱」しようとすれば、共有されたリテラシーの範囲とその境界あたり(上図の赤いエリア)を注意深く見極めておいて、内側過ぎず外側過ぎもせずの範囲(上図の青点線の間)を狙わないといけないようです。
逆に言えば、クイズ、特にテレビのクイズ番組は、たとえその知識自体が辞書や教科書に載ってることを知ってるかどうかを問うような単純な問題であったとしても、見せ方や出題の仕方として、なんとかがんばって何かしらの”意外性”を発掘しては、解答者や鑑賞者の興味をひこうとします。徳川家康ってこんな顔だったんだ。徳川家康ってこんな生い立ちのある人だったんだ。徳川家康って戦で負けたときに、云々。しまいには、「とくがわいえやす」って並び替えると「イエスが得やわ」になるんだ、禁教したのにね、とかなんとか。
一方、解答者のほうは上図の青点線の間の情報を中心に対策する、という戦略をとることができます。200ほどの国・地域の山を覚える必要も、国内1位から100位の山を覚える必要もなく、出題や正答はこのいい塩梅の逸脱の中にあるというふうに、あらかじめしぼりこんでおける。
というわけで。
興味・意外性という要件から考えると、クイズになりやすい情報と、なりにくい情報がある。
そしてその興味・意外性は、”お茶の間”のリテラシーに左右される。
そう考えれば、どんなクイズが出題されるだろうかという予想をしたければ、”お茶の間”のリテラシーを把握する必要がある、ということがどうやら言えそうです。
2.1.1「クイズは”観客”のための”エンタメ”である」で考えた図書館クイズの例題に帰着しましたね。
「こんな教会みたいなきれいな建物が、図書館なんだー」と、「NDCとは何の略か」とでは、どちらがクイズとしてテレビ番組で出題されるでしょう、ていう。
「図書館×クイズ=アウトリーチ」試論 : 「99人の壁」を実践例として
index(目次&参考文献)
0. 序論
1. 図書館にとってアウトリーチは本質的な概念である
2. クイズでは何がおこなわれ、何が求められているか
2.1 クイズとは何をやっている営みなのか?
2.1.4 クイズの娯楽性はどこにあるのか
2.1.4(続) その「へぇ〜」はどこから生まれるのか
2.1.4(続々) なぜその正答にたどりついたのか
●「クイズとしてかっこうがついている」か否か
■(5)興味/意外性
単純にリテラシー共有範囲の内か外かだけでなく、むしろ境界や周縁、半歩はみ出した辺りこそがギャップの面白さを生みやすいし、そこに娯楽を見出しやすい。
当然と言えば当然の話で、本項冒頭でも引用したように、クイズというのは「答えの意外性やおもしろさを利用して人を引き付ける会話的手法」(黄菊英, 長谷正人, 太田省一. 『クイズ化するテレビ』. 青弓社, 2014. (序章「テレビとクイズのはざまで」))だということです。それによってクイズは、砂を噛むような試験対策や学習教育とちがって知識・情報の伝達を娯楽化させる、くわえて、競技・ゲームの直接の当事者でもないのになぜか参加する気を起こさせる。つまりは、”お茶の間”の興味をひく。
-----------------------------------------------------
越山「なんだかちょっと気になる…みたいな興味のわく問題が多い感じ 「へぇー」って感じの…」
杉基イクラ. 『ナナマルサンバツ』. 第9話.
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↑マンガ『ナナマルサンバツ』の一場面。第9話ですから初期のころ、まだクイズというものに触れて間もない主人公に、クイズとはそもそも何なのかを先輩が教える、その初歩の初歩としての認識。
この、何ならクイズになって何はクイズにならないか、という問題については、クイズ関連の各種文献等で必ずと言っていいほど触れられます。↓
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「クイズの問題はどれも、答えを知らなかった人が答えを知ったとき、なんらかの形で知的好奇心を刺激されるものになっている。…あまりにも耳馴染みのない知識や、専門的すぎる知識はほとんど問われない」
(小川博司. 「クイズ番組の今昔」. 『ユリイカ』. 2020.7, 52(8), p.178-184.)
伊集院光
「この二人の作るクイズ番組で、解答が発表されるときに、全員が「そうか!」って言ってる」
「「そう、そうだったんだ」っていう、あの顔が出ているクイズ番組のクイズライターは優秀で、そうそう出てこない」
(「クイズ、最高の一問 : クイズ作家・矢野了平/日大介」(プロフェッショナル仕事の流儀 他). NHK, 2021.)
-----------------------------------------------------
たとえばクイズと称して延々、フランスの首都はパリ、イタリアの首都はローマ、オーストリアの首都はウィーン、何それ、暗記科目か何かか?となってしまうような出題は、試験や資格や競技ならもちろんあるでしょうが、クイズではまあ好まれません。これが「スイスの首都は?」になると、ジュネーブだよね、あれチューリッヒだっけ?と混同する人がまま多い分、「答. ベルン」というやや意外な答えは、まあクイズに出せなくはないかもしれない。
さらにこれが、「問. もともとは「熊」という意味を持つ、スイスの首都はどこ?」「答. ベルン」というような問題文になったとたん、なんとなくクイズっぽい、となりますし、「問. 街を創設したベルトルト5世が狩で仕留めた「熊」がその由来と伝えられる、スイスの首都はどこ?」くらいまでいけば、クイズとして結構かっこうがつくでしょう。
この、「クイズとしてかっこうがついている」か否か、これがわかるかどうかはかなりセンスの問題っぽい領域なわけですが、それを本項ではあえて言語化・説明可能化してみたいな、と思うわけです。なぜなら、「どういう問題ならクイズとしてかっこうがついているか」がわかるようになれば、「どういう問題がクイズとして出題されるか」が予測しやすくなる(=本稿の目的にかなう)からです。
これはおそらく、クイズというものに長けているかいないか、のかなり重要な目利き要素になり得ます。決して暗記力勝負一辺倒なことをやってるのではないわけです。
スイスの首都に話を戻すと、「問. もともとは「熊」という意味を持つ、スイスの首都はどこ?」「問. 街を創設したベルトルト5世が狩で仕留めた「熊」がその由来と伝えられる、スイスの首都はどこ?」のような問題が出題されたとき、そこには「知らなかった背景・物語が存在していた」ことへの驚きや意外性があります。出題後に「ドイツ語のBär(熊)が由来と言われています」などと補足解説でも放送されれば、解答者はともかくとして、鑑賞者である”お茶の間”が「へぇーっ」「なるほどー」と思える。知識・情報の伝達なはずだったのに、そこになぜか感情の動きが見られる、ということです。(なお、「諸説あり」問題は「と伝えられる」辺りで吸収されてるとご容赦ください。)
図4a 情報の意外性がクイズを娯楽にする
感情の動きを生む知識・情報のあり方にはいろんなものがあります。
ベルンの語源が「熊」というのは「背景」であり、その由来が創設者が狩りをしたというのは「物語性」からくる意外性と言えそうです。
釜山や済州島は漢字で書くけど、ソウルには漢字がない。普段ぼーっと生きてると気にしてなかったけどそういえば、という「盲点」の意外性、または「不統一」の意外性。
チャドの首都はンジャメナ、ンで始まる言葉なんかあるんだ、という「逸脱」の意外性。
タイの首都バンコクはほんとは正式名称じゃないんですよ、それだけで意外なのに、正式名称は「クルンテープ・マハーナコーン・アモーンラッタナコーシン・マヒンタラーユッタヤー・マハーディロック・ポップ・ノッパラット・ラーチャタニーブリーロム・ウドムラーチャニウェートマハーサターン・アモーンピマーン・アワターンサティット・サッカタッティヤウィサヌカムプラシット」、逸脱しすぎてもうなにがなんだか。
そのタイプや程度はさまざまかもしれませんが、逸脱・意外性といった心の動きを起こさせるような情報がクイズとして採用されるし、そうでない情報はクイズとしては採用されにくい。娯楽であって受験勉強じゃないんだから、いくら学習効果やゲーム性があったとしても、知識の伝達を「見せ物」にはしづらい。
(いわゆる雑学、無駄知識、トリビアなどというものがありますが、在り方としてはあれと同じですね。いくら「無駄知識」って言ったって、”本当に無駄”な知識がなんでもかんでもトリビア扱いされるわけではなく、「へぇー」とか「ほぉー」とか「明日誰かに話してみよう」と思えるような感情の動きが何かしらあるから、雑学が成立するわけなので。)
そして重要なのは、この興味・意外性も”共有されたリテラシーの範囲”の存在を前提としており、そこからの”ギャップ”によって生まれてくるものである、ということです。”あたりまえ”の範囲を逸脱している情報、なわけですから。
そう考えると先ほどの図4、なんとなくデジャヴっぽくないですか。
図4b 情報の意外性がクイズを娯楽にする + リテラシーのギャップが可視化される
共有されたリテラシーの範囲をいい塩梅で逸脱した、意外性のある背景や物語が、クイズとして採用される。採用された情報は、知っている人もいれば知らない人もいるくらいにいい塩梅なので、クイズとして出題されると解答者間のリテラシーのギャップを可視化する。
鑑賞者は、解答者間のリテラシーのギャップが拮抗し合う様子を楽しみ、同時に知識・情報自体に存在するギャップ(意外性)を楽しむ。
おおお、なんかすげえ完成された構造の知的娯楽っぽく見えてきたぞ(笑)。
●なじみがあるか、なじみがないか
とは言え、です。
「問. スイスの首都・ベルンの由来となった、熊を狩りで仕留めたと伝えられる街の創設者の名前は?」「答. ベルトルト5世」
…こんなん、ゴールデンタイムのクイズ番組でやってたら、あっという間にチャンネル変えられますよね。それこそ「競技クイズ」と呼ばれる猛者達の大会あたりでならこのくらいの問題も出るでしょうが、2.1.2で言う「リテラシーの高さを鑑賞する」ほうのテレビ番組でも微妙かもしれない、観てる方が「知らんがな」としか思えないと。ただ逸脱しすぎているだけのものを”意外”とは言いません。”意外”があるということは、”意内”があり、”意内”の存在を感じられるからこその”意外”なわけです。
逆に、「フランスの首都は?」のような99人以上が正解するようなものクイズにならない。いくら2.1.3で確認したようにクイズが「社会に共有されているリテラシー」を基盤にしていると言っても、娯楽に至らなければクイズにはならないので。
あくまで、共有されたリテラシーの範囲をいい塩梅で逸脱していること、が求められます。
↓クイズの出題者は日々これと格闘していますし、
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ナレ「日高は日常のあらゆる場面に疑問をなげかける」
日高「(靴屋が合鍵作りをやっていることについて)違和感が入ってくると、おっ、クイズの種、みたいな」
ナレ「違和感の種を掘り下げることでクイズを産み出していく」
日高「日常の誰もが気づいているわけではないけど、言われれば「確かにそうだ」っていうところで、「じゃあその理由は何?」っていう」
日高「日常の盲点をついた問題が」「知識クイズ、雑学クイズとしては理想形だなっていう」
日高「ちょっと人生に彩りを添えるよね、ちょっと豊かになるよねっていう」
(「クイズ、最高の一問 : クイズ作家・矢野了平/日大介」(プロフェッショナル仕事の流儀 他). NHK, 2021.)
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↓解答者はそこから逆算して準備・対策しようとします。
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「よく出る問題というのは、ある程度決まっているのです。それは視聴者が見ていてためになる、楽しいと思える問題です。」
「答えを聞くことで、ある種の満足感が生まれます。それが人の興味をそそるのです。」
(水上颯. 『水上ノート : 東大No.1頭脳が作った究極の「知力アップ」テキスト』. KADOKAWA, 2020.3)
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↓なんなら、「意外性の有無」から「正解」を逆算したりもする、これは正直よくあります。
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「TVのクイズは番組として解答者だけじゃなく視聴者にも楽しんでもらう必要があるだろう?
ただ難しいだけじゃつまらないし さっきの問題が「NO」じゃ出題した意図がわからない なにも面白くないからね」
「だからTV的においしかったり意外性があったり 視聴者が「へえ」って驚けるような答えが正解になりやすいんだよ」
(杉基イクラ. 『ナナマルサンバツ』. 第56話.)
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しかしそう考えると、クイズとしてのおもしろさの範囲は、学校の試験の出題範囲などと比べてよっぽど微妙でデリケートで、直感的・印象的な辺りにありそうですね。
いったいそんなデリケートな「いい塩梅の逸脱」はどっから生まれてくるのか?
”意内”の存在を感じられる”意外性”とはどこにあるのか?
私はこれを「周知度と珍しさのせめぎあい」というふうに、学生クイズ研時代の書き物で表現したことがありました。これをもう少しモデルっぽく表現すると、「なじみがある」と「なじみがない」のバランス、みたいに言えるかな。
そう思いながらいろいろ書いたり調べたりしてましたら、さすが東大王の人が↓こんなことを書いておられました。
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「クイズは「わかる」×「わからない」が面白い」
「問題と答えをわかる×わからないで分けた4種類のクイズのうち、解答者も見ている側も面白いと感じるのは、わかる×わからないとわからない×わかるの2つです。特にクイズ番組では、視聴率を考え、わかる×わからない問題が圧倒的に多く、わからない×わからないはほぼありません。」
「問題か答えのどちらかが親しみやすいことが、クイズ番組で出題されるクイズの条件だと思います。」
(水上颯. 『水上ノート : 東大No.1頭脳が作った究極の「知力アップ」テキスト』. KADOKAWA, 2020.3)
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ドンピシャなことをおっしゃってたので、文献を丁寧に遡れば発想の源泉がどこかに見つかるかもしれない。
で、ここでは「わかる」「わからない」を「なじみがある」「なじみがない」に言い換えたいと思います。というのも、わかるかわからないか、知ってるか知らないかというのは、どちらかというと個々人のリテラシーの問題になってしまうからです。本稿を通して問題にしたいのは、”お茶の間”に代表される社会全体で共有されるリテラシーの範囲内の中で、そのことについて知る/分かる/認識することがどう位置づけられているか、というあたりなので、これを「なじみがある」「なじみがない」と表現したい。
とはいえ考え方は同様で、あるクイズの問題があったとして、その中に
「なじみがある(深い)」概念と、
「なじみのない(薄い)」概念
との両方が存在していること。
そして両者の濃さ薄さのバランスが良いこと。
これが「クイズとしてかっこうがついている」かどうかを決めるひとつの要素になるんじゃないかな、って思います。
例えば、一般的な日本のお茶の間に投げかけるクイズという前提で考える時。
「日本で一番高い山は?」だと、「日本」も、「山」も、そして「第1位を問う行為」もすべて充分になじみのあることですし、その正答である「富士山」すらなじみのある存在であって、「なじみのない(薄い)」概念がひとつも存在しない。この問題が「クイズとしてかっこうがついていない」のは、このためだろうと考えられます。
ここに「では2番目は?」という、「第2位を問う行為」というワンランクなじみの薄い概念を入れてみる。そうすると、ちょっとクイズっぽくなる。あるいは「日本」を「アメリカ」に、「山」を「ビル」に、「高い」を「低い」に変えてみる。そうすると「なじみがある」と「なじみがない」の間にリテラシーのギャップが生まれ、正解できる人と正解できない人の差が可視化されやすくなる。こうやって、クイズの娯楽性の素材(=出題とその予測のタネ)を発掘していくことができる。
ただしやっぱりそこの塩梅は難しくて、「日本で」を「世界で」に変えただけではなじみがそれほど薄くはならないから、まだまだクイズにまでは至らない。一方で、じゃあ「キルギスで」とか「第19番目に」のようなことを問われても、あまりになじみが薄すくなりすぎて「知らんがな」となる。データベース検索してるんじゃないんだから。
図5 いい塩梅で逸脱する
しかもこの距離感も決して定量的なものでもベクトルの固定化されたものでもなく、例えば「台湾で一番高い山は玉山」と言われても耳を素通りするような人でも、「ニイタカヤマ」と言われると、あれ、それって…となることもあるかもしれない。
難しいですね、やはり(意図的に)「いい塩梅で逸脱」しようとすれば、共有されたリテラシーの範囲とその境界あたり(上図の赤いエリア)を注意深く見極めておいて、内側過ぎず外側過ぎもせずの範囲(上図の青点線の間)を狙わないといけないようです。
逆に言えば、クイズ、特にテレビのクイズ番組は、たとえその知識自体が辞書や教科書に載ってることを知ってるかどうかを問うような単純な問題であったとしても、見せ方や出題の仕方として、なんとかがんばって何かしらの”意外性”を発掘しては、解答者や鑑賞者の興味をひこうとします。徳川家康ってこんな顔だったんだ。徳川家康ってこんな生い立ちのある人だったんだ。徳川家康って戦で負けたときに、云々。しまいには、「とくがわいえやす」って並び替えると「イエスが得やわ」になるんだ、禁教したのにね、とかなんとか。
一方、解答者のほうは上図の青点線の間の情報を中心に対策する、という戦略をとることができます。200ほどの国・地域の山を覚える必要も、国内1位から100位の山を覚える必要もなく、出題や正答はこのいい塩梅の逸脱の中にあるというふうに、あらかじめしぼりこんでおける。
というわけで。
興味・意外性という要件から考えると、クイズになりやすい情報と、なりにくい情報がある。
そしてその興味・意外性は、”お茶の間”のリテラシーに左右される。
そう考えれば、どんなクイズが出題されるだろうかという予想をしたければ、”お茶の間”のリテラシーを把握する必要がある、ということがどうやら言えそうです。
2.1.1「クイズは”観客”のための”エンタメ”である」で考えた図書館クイズの例題に帰着しましたね。
「こんな教会みたいなきれいな建物が、図書館なんだー」と、「NDCとは何の略か」とでは、どちらがクイズとしてテレビ番組で出題されるでしょう、ていう。
2021年09月08日
2.1.4 クイズの娯楽性はどこにあるのか (「図書館×クイズ=アウトリーチ」試論 : 「99人の壁」を実践例として)
【目次】
「図書館×クイズ=アウトリーチ」試論 : 「99人の壁」を実践例として
index(目次&参考文献)
0. 序論
1. 図書館にとってアウトリーチは本質的な概念である
2. クイズでは何がおこなわれ、何が求められているか
2.1 クイズとは何をやっている営みなのか?
…
2.1.3 社会には共有されるリテラシーの範囲がある
2.1.4 クイズの娯楽性はどこにあるのか
-----------------------------------------------------
2.1.4 クイズの娯楽性はどこにあるのか
「クイズは、“リテラシー”のギャップを素材とした、”観客”のための”エンタメ”であり”娯楽”である」、とするならば。
いったい「リテラシーのギャップ」なんぞを観ることの、何がおもしろいというのか。クイズにおける娯楽性の所在、みたいな感じのことです。
黄菊英他の『クイズ化するテレビ』では、クイズは「質問と答えという形式に基づいた@啓蒙 A娯楽 B見せ物化 のためのコミュニケーション形式」であり、「答えの意外性やおもしろさを利用して人を引き付ける会話的手法」である、と説明されています(黄菊英, 長谷正人, 太田省一. 『クイズ化するテレビ』. 青弓社, 2014. (序章「テレビとクイズのはざまで」))。「@啓蒙」はちょっとあれだし「教育」ってほどでもないので「知る・学ぶ」という受け手目線に言い換えます、「知識・情報の伝達」であることに変わりはない。あと「A娯楽」も、本稿で既にさんざん「娯楽」と言ってきたのとごっちゃになるので、本稿では同書の言葉で「ゲーム」と言い換えさせてください。
つまりクイズは、知識・情報の伝達であり、ゲームであり、見せ物であると。そう考えれば、それぞれが娯楽性を持っていると言えそうです。
さらに本稿では別途にいくつかの要素をつぶ立たせて、下記のように並べてみました。
(1)知る・学ぶ
(2)ゲーム
(3)見せ物
(4)参加
(5)興味/意外性
(6)種明かし/謎解き
■(1)知る・学ぶ
同書では「クイズを通じて知識・情報が一方から他方へと渡る」とあります。そこにリテラシーのギャップが存在し、知識・情報がある方からなかった方へと伝達されます。それが楽しい、おもしろい、そしてためになってうれしい、という。学ぶという娯楽。
そしてテレビのクイズ番組では、受け手が解答者ではなく視聴者であったとしても、この知識・情報の伝達が成立します。というのも(4)で言うように、クイズの観客はスポーツの観客と異なり、「自分も考える(しかも同時に)」という「参加」が可能だからです。目の前で「問題」が出題されれば何かしら考えようとするでしょうし、正解が示されれば解答者だけでなく視聴者にもまったく同様の知識・情報がほぼ劣化することなく伝達されるわけですから、なんというか、”メディア”って偉大だな、って思いますね。クイズが情報番組で多用されることと、問答形式がEテレの講座や放送大学でベースとされることとは、同様のコミュニケーションだろうという感じです。
なお念のため、次の(2)以降や本稿全般において、「学びとは、知識とは、そういうものじゃないだろう」という反発の向きもあるかとは思いますが、ここでおこなわれようとしているのはあくまで「娯楽」であり「知る・学ぶ」はその一要素なので、「そんなことはわかっているし、そういう話はしていない」という感じです。
■(2)ゲーム
というのも、ただ「知る・学ぶ」なだけならEテレやNスペやナショナルジオグラフィックでいいと思うのですが、クイズはこれにゲーム性を持たせようとします。たくさん正答した人がトップ賞とか、99人相手に先に回答できた1人がいくらもらえるとか。何かしら一定のルールがあり、解答者はそれに従うことを前提として、競争するし、それを娯楽とする。
で、おそらくここで重要だろうと思うのが、テレビのクイズ番組は”あくまで”ゲームである、というあたりです。再々申したように、実力を測定するための”試験”ではないし、実力の優劣を厳密に競う”競技”ともだいぶ違う。これがたぶん、ガチのクイズプレーヤー(と呼ばれる人たちがいるとしたらそのような人)の大会での”競技”と、テレビのクイズ番組との違うところで、厳密な優劣をつけようとしたらそれは”試験”に近づけなきゃいけなくなっちゃう。
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「その性質上、クイズは、公平・公正な競技からかけ離れた営みにしかなりえない。」
(徳久倫康. 「競技クイズとはなにか?」. 『ユリイカ』. 2020.7, 52(8), p.85-94.)
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何が言いたいかというと、試験や競技でなく“ゲーム”であり、番組の“企画”であり(なんなら“企画でしかない”)、少なくともテレビのクイズ番組においては、その番組のルールと演出にそって進行していくものだ、ということです。(テレビのクイズ番組に八百長ややらせなどの話題がほぼ常についてまわってしまうのは、このあたりなんじゃないかなとなんとなく思うのですが、これはまた別の話として置いておきます。)
■(3)見せ物
そして、それがテレビ番組である以上、そのゲームは「見せ物化」されます。
たとえば、解答者がキャラクター化する。知識/解答力がある、できそうにない人が正答する、できそうな人が誤答する。そこに“ドラマ”がうまれてテレビ的な見せ物になる。ただし、これを見せ物にしようとすると、素人よりも著名人・芸能人(すでに充分にキャラクター化されている存在)を最初から出した方が娯楽性は明らかに担保されてるわけなんで、素人出場型のクイズ番組が減るのはある意味必然でしょう。
あるいは、テレビのクイズ番組にはいわゆる「クイズ王」的な呼ばれ方をする猛者プレーヤーがしばしば登場しますが、これも、強者同士の競争を観戦・鑑賞するというコロシアム的な「見せ物化」であると考えれば必然だろうし、ということはやはり素人出場型が排除されていくのも仕方のないことかもしれません。これがスポーツなら、プロ選手の試合はみんな観たいが、アマチュア草野球のヘボ試合はだいぶニッチな娯楽でしょうし、どこの誰とも知らんやつがパリ行ったり100万円もらったりするの見て何がうれしいんだ、という感じです。
■(4)参加
ただし、それでもなお素人出場型のクイズ番組が成立し得たとするならば、パリ行ったり100万円もらったりするどこの誰とも知らんやつと、ほぼ同時に同じ問題に取り組むことができるという、「参加できる」娯楽である、という点です。自分のほうが早かった、多く答えた、パリ行けるやん、と。クイズであればお茶の間の視聴者もそのゲームに仮想的に参加できる、参加が容易である。これはクイズの本質にかなり密接に関わる要素だと思うので、本稿ではクイズの娯楽性の所在のひとつとして、「鑑賞者が参加できる」を独立して立てたいと思います。
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「スポーツ番組はスポーツやってる人を観るものだけど、クイズ番組はクイズやってる人を観るものではないんですよね。クイズ番組の視聴者はテレビの前でクイズやってるんですよ。構造上、参加できちゃう。」
「クイズ番組は基本的にクイズの経験がない人が出るものなので、経験がなくてもクイズはある程度できたりできなかったりするという前提が置かれちゃう。」
(「クイズの勝ち負けなんてジャンケンみたいなもの。【伊沢拓司が語る】」(伊沢拓司インタビュー(2)). QuizKnock. 2021年4月22日. https://quizknock.com/izawa-interview-quiz-2)
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”お茶の間”の視聴者はテレビの中のクイズというゲームに仮想的に参加し、知識を得たり競争心をかき立てられたりする。解答者と擬似的に競争もできるし、親が子供に教えることもできるし、子供が大人に勝って自慢することもできる。
それは、
テレビ番組視聴中は解答者と時間経過を擬似的に共有しているからできることかもしれないし、
クイズ自体の素材が知識・情報というメディアを通しても劣化しないものだからかもしれないし、
知と無知の境界が紙一重に過ぎずそのギャップが基本的に容易に越えられるものだからかもしれない。
いずれにせよ、とにかく参加のハードルが実に低く、参加することがほぼ前提となってると言ってよい。
そして観客の「参加」という娯楽性が前提である以上、その素材となるリテラシーのギャップは、在るには在るが、共有の範囲を大きく逸脱することは(通常は)ないし、できない。そりゃそうですね、自分がその共有範囲にいるのか、どの位置(高い低い)にいるのかを確認することで、快楽を得るような娯楽なんですから。
しかも、単純にリテラシー共有範囲の内か外かだけでなく、むしろ境界や周縁、半歩はみ出した辺りこそがギャップの面白さを生みやすいし、そこに娯楽を見出しやすい。
ということにつながるのが、(5)の「興味/意外性」のおもしろさなんじゃないかと思います。
長くなるので、記事を分けます。
「図書館×クイズ=アウトリーチ」試論 : 「99人の壁」を実践例として
index(目次&参考文献)
0. 序論
1. 図書館にとってアウトリーチは本質的な概念である
2. クイズでは何がおこなわれ、何が求められているか
2.1 クイズとは何をやっている営みなのか?
…
2.1.3 社会には共有されるリテラシーの範囲がある
2.1.4 クイズの娯楽性はどこにあるのか
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2.1.4 クイズの娯楽性はどこにあるのか
「クイズは、“リテラシー”のギャップを素材とした、”観客”のための”エンタメ”であり”娯楽”である」、とするならば。
いったい「リテラシーのギャップ」なんぞを観ることの、何がおもしろいというのか。クイズにおける娯楽性の所在、みたいな感じのことです。
黄菊英他の『クイズ化するテレビ』では、クイズは「質問と答えという形式に基づいた@啓蒙 A娯楽 B見せ物化 のためのコミュニケーション形式」であり、「答えの意外性やおもしろさを利用して人を引き付ける会話的手法」である、と説明されています(黄菊英, 長谷正人, 太田省一. 『クイズ化するテレビ』. 青弓社, 2014. (序章「テレビとクイズのはざまで」))。「@啓蒙」はちょっとあれだし「教育」ってほどでもないので「知る・学ぶ」という受け手目線に言い換えます、「知識・情報の伝達」であることに変わりはない。あと「A娯楽」も、本稿で既にさんざん「娯楽」と言ってきたのとごっちゃになるので、本稿では同書の言葉で「ゲーム」と言い換えさせてください。
つまりクイズは、知識・情報の伝達であり、ゲームであり、見せ物であると。そう考えれば、それぞれが娯楽性を持っていると言えそうです。
さらに本稿では別途にいくつかの要素をつぶ立たせて、下記のように並べてみました。
(1)知る・学ぶ
(2)ゲーム
(3)見せ物
(4)参加
(5)興味/意外性
(6)種明かし/謎解き
■(1)知る・学ぶ
同書では「クイズを通じて知識・情報が一方から他方へと渡る」とあります。そこにリテラシーのギャップが存在し、知識・情報がある方からなかった方へと伝達されます。それが楽しい、おもしろい、そしてためになってうれしい、という。学ぶという娯楽。
そしてテレビのクイズ番組では、受け手が解答者ではなく視聴者であったとしても、この知識・情報の伝達が成立します。というのも(4)で言うように、クイズの観客はスポーツの観客と異なり、「自分も考える(しかも同時に)」という「参加」が可能だからです。目の前で「問題」が出題されれば何かしら考えようとするでしょうし、正解が示されれば解答者だけでなく視聴者にもまったく同様の知識・情報がほぼ劣化することなく伝達されるわけですから、なんというか、”メディア”って偉大だな、って思いますね。クイズが情報番組で多用されることと、問答形式がEテレの講座や放送大学でベースとされることとは、同様のコミュニケーションだろうという感じです。
なお念のため、次の(2)以降や本稿全般において、「学びとは、知識とは、そういうものじゃないだろう」という反発の向きもあるかとは思いますが、ここでおこなわれようとしているのはあくまで「娯楽」であり「知る・学ぶ」はその一要素なので、「そんなことはわかっているし、そういう話はしていない」という感じです。
■(2)ゲーム
というのも、ただ「知る・学ぶ」なだけならEテレやNスペやナショナルジオグラフィックでいいと思うのですが、クイズはこれにゲーム性を持たせようとします。たくさん正答した人がトップ賞とか、99人相手に先に回答できた1人がいくらもらえるとか。何かしら一定のルールがあり、解答者はそれに従うことを前提として、競争するし、それを娯楽とする。
で、おそらくここで重要だろうと思うのが、テレビのクイズ番組は”あくまで”ゲームである、というあたりです。再々申したように、実力を測定するための”試験”ではないし、実力の優劣を厳密に競う”競技”ともだいぶ違う。これがたぶん、ガチのクイズプレーヤー(と呼ばれる人たちがいるとしたらそのような人)の大会での”競技”と、テレビのクイズ番組との違うところで、厳密な優劣をつけようとしたらそれは”試験”に近づけなきゃいけなくなっちゃう。
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「その性質上、クイズは、公平・公正な競技からかけ離れた営みにしかなりえない。」
(徳久倫康. 「競技クイズとはなにか?」. 『ユリイカ』. 2020.7, 52(8), p.85-94.)
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何が言いたいかというと、試験や競技でなく“ゲーム”であり、番組の“企画”であり(なんなら“企画でしかない”)、少なくともテレビのクイズ番組においては、その番組のルールと演出にそって進行していくものだ、ということです。(テレビのクイズ番組に八百長ややらせなどの話題がほぼ常についてまわってしまうのは、このあたりなんじゃないかなとなんとなく思うのですが、これはまた別の話として置いておきます。)
■(3)見せ物
そして、それがテレビ番組である以上、そのゲームは「見せ物化」されます。
たとえば、解答者がキャラクター化する。知識/解答力がある、できそうにない人が正答する、できそうな人が誤答する。そこに“ドラマ”がうまれてテレビ的な見せ物になる。ただし、これを見せ物にしようとすると、素人よりも著名人・芸能人(すでに充分にキャラクター化されている存在)を最初から出した方が娯楽性は明らかに担保されてるわけなんで、素人出場型のクイズ番組が減るのはある意味必然でしょう。
あるいは、テレビのクイズ番組にはいわゆる「クイズ王」的な呼ばれ方をする猛者プレーヤーがしばしば登場しますが、これも、強者同士の競争を観戦・鑑賞するというコロシアム的な「見せ物化」であると考えれば必然だろうし、ということはやはり素人出場型が排除されていくのも仕方のないことかもしれません。これがスポーツなら、プロ選手の試合はみんな観たいが、アマチュア草野球のヘボ試合はだいぶニッチな娯楽でしょうし、どこの誰とも知らんやつがパリ行ったり100万円もらったりするの見て何がうれしいんだ、という感じです。
■(4)参加
ただし、それでもなお素人出場型のクイズ番組が成立し得たとするならば、パリ行ったり100万円もらったりするどこの誰とも知らんやつと、ほぼ同時に同じ問題に取り組むことができるという、「参加できる」娯楽である、という点です。自分のほうが早かった、多く答えた、パリ行けるやん、と。クイズであればお茶の間の視聴者もそのゲームに仮想的に参加できる、参加が容易である。これはクイズの本質にかなり密接に関わる要素だと思うので、本稿ではクイズの娯楽性の所在のひとつとして、「鑑賞者が参加できる」を独立して立てたいと思います。
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「スポーツ番組はスポーツやってる人を観るものだけど、クイズ番組はクイズやってる人を観るものではないんですよね。クイズ番組の視聴者はテレビの前でクイズやってるんですよ。構造上、参加できちゃう。」
「クイズ番組は基本的にクイズの経験がない人が出るものなので、経験がなくてもクイズはある程度できたりできなかったりするという前提が置かれちゃう。」
(「クイズの勝ち負けなんてジャンケンみたいなもの。【伊沢拓司が語る】」(伊沢拓司インタビュー(2)). QuizKnock. 2021年4月22日. https://quizknock.com/izawa-interview-quiz-2)
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”お茶の間”の視聴者はテレビの中のクイズというゲームに仮想的に参加し、知識を得たり競争心をかき立てられたりする。解答者と擬似的に競争もできるし、親が子供に教えることもできるし、子供が大人に勝って自慢することもできる。
それは、
テレビ番組視聴中は解答者と時間経過を擬似的に共有しているからできることかもしれないし、
クイズ自体の素材が知識・情報というメディアを通しても劣化しないものだからかもしれないし、
知と無知の境界が紙一重に過ぎずそのギャップが基本的に容易に越えられるものだからかもしれない。
いずれにせよ、とにかく参加のハードルが実に低く、参加することがほぼ前提となってると言ってよい。
そして観客の「参加」という娯楽性が前提である以上、その素材となるリテラシーのギャップは、在るには在るが、共有の範囲を大きく逸脱することは(通常は)ないし、できない。そりゃそうですね、自分がその共有範囲にいるのか、どの位置(高い低い)にいるのかを確認することで、快楽を得るような娯楽なんですから。
しかも、単純にリテラシー共有範囲の内か外かだけでなく、むしろ境界や周縁、半歩はみ出した辺りこそがギャップの面白さを生みやすいし、そこに娯楽を見出しやすい。
ということにつながるのが、(5)の「興味/意外性」のおもしろさなんじゃないかと思います。
長くなるので、記事を分けます。
2021年09月07日
2021年8月のまとめ
■2021年8月のまとめ
●総評
ワクチンの副反応とともに融けて終わった。
●8月のまとめ
・連休9days
・ワクチン2回目、副反応で発熱→落ち着く、「助さん格さん、もういいでしょう」
・結局連休は、副反応の余波で終始だらだらで過ごす結果に。ひいては8月全体そんな感じ。
・「映像の世紀」
・二条城まで、知らん路地、の朝々。
・「99人の壁」9月でレギュラー放送終了
・急遽の緊急事態化で、もう何度目かの縮減・閉館調整。もういいかげんに、な在宅勤務。
・極私的ニュー・ニューノーマル。外食はしない。混んだバスは見送る。使い捨て手袋多用。外から持ち込んだものは消毒する。
・「しかたなかったと言うてはいかんのです」
・「ふたりのディスタンス : あなたの大切な人は誰ですか?」
・リーダー表示
・フラッシュフィル
・東大王クイズ甲子園 他、なんかクイズはずっと見てた気がする。
・EAJS
●8月の進捗
・とはいえ、あれとあれの執筆はわりとがっつりしてた。
・「ひたすら御身大事に」も保たれた。
●9月の取り組み
・EAJRSオンライン
・web寄席対応
・引き続き御身大事に
●総評
ワクチンの副反応とともに融けて終わった。
●8月のまとめ
・連休9days
・ワクチン2回目、副反応で発熱→落ち着く、「助さん格さん、もういいでしょう」
・結局連休は、副反応の余波で終始だらだらで過ごす結果に。ひいては8月全体そんな感じ。
・「映像の世紀」
・二条城まで、知らん路地、の朝々。
・「99人の壁」9月でレギュラー放送終了
・急遽の緊急事態化で、もう何度目かの縮減・閉館調整。もういいかげんに、な在宅勤務。
・極私的ニュー・ニューノーマル。外食はしない。混んだバスは見送る。使い捨て手袋多用。外から持ち込んだものは消毒する。
・「しかたなかったと言うてはいかんのです」
・「ふたりのディスタンス : あなたの大切な人は誰ですか?」
・リーダー表示
・フラッシュフィル
・東大王クイズ甲子園 他、なんかクイズはずっと見てた気がする。
・EAJS
●8月の進捗
・とはいえ、あれとあれの執筆はわりとがっつりしてた。
・「ひたすら御身大事に」も保たれた。
●9月の取り組み
・EAJRSオンライン
・web寄席対応
・引き続き御身大事に
「海外の日本研究と日本図書館」に関する2021年8月の動向レビュー -- 人文学の国際化と日本語、EAJS2021 他 ( #本棚の中のニッポン )
■日本研究
●『学術の動向』(26巻4号)特集「シンポジウム報告 人文学の国際化と日本語 ─言語・文学研究の立場から」
https://www.jstage.jst.go.jp/browse/tits/26/4/_contents/-char/ja
・「教育と可視性」クリストファー タンクレディ
「教育機関と学術誌出版機関の二つの機関が、グローバルリーダーを生み出す上で非常に重要である。」
・「日本語学の国際化」木部 暢子
「「研究計量に関するライデン声明」は…原則3では偏った評価により優れた地域的研究が埋もれることへの危惧が述べられている。このようなメッセージは、日本語学の国際化にとって大きな後押しとなる。」
「人文系の学問の多くは、国や地域の特性を反映させることで価値を生む。その価値を地域に還元すると同時に世界へ向かって発信することが、これからの研究者の任務」
「日本語データのオープン化」
・「人文知共有のための日本語研究の国際化」窪薗 晴夫
「英語で発表するのは、単に自分の研究成果を海外の研究者に伝えるという一方向の行為ではない。海外の研究者によりよく理解してもらうためには、普段から海外の研究や他の言語に関する研究を学び、自分の研究を世界の研究の中で相対化させることが必要である。これは自分自身の研究の射程を広げる意味で極めて重要な努力である。」
・「人文学の「国際化」と21世紀中国」平田 昌司
「北京大学の教員が海外に赴いて講義・講演を行う場合、英語でなくてはならないことが普通だろう。短期の外国人留学生に講義をする場合も英語が必要になる。さらに、中国人による中国研究の分析を深めていくには、西洋の優れた中国学者、西洋の人文社会科学一般を参照系としてみるべきであろう、と。中国人が中国研究をするときでも、外国の研究を知るべきだ」
・「国文学者が英語で論文を書く日 : 文学研究の国際化はなぜ必要なのか, どのように可能になるのか?」沼野 充義
「アメリカ人の新進気鋭の日本文学研究者、マイケル・エメリックは、英語による『源氏物語』の研究書に“On Writing in English”という序文を添え、どうして自分がこの本を英語で書かなければならないのかについて考察を行っている。従来、英語を母語とする英米の研究者が英語で本を書くとき、このような大前提を疑問に付すことはまったくなかったので、これはとても新鮮である。」
「専門・国を超えて議論できる共通の土台はどうしたら作れるのか?」「その必要に応える一つの実践的・教育的方法が、ハーバード大学比較文学科教授のデイヴィッド・ダムロッシュが主催するIWL(Institute for World Literature世界文学研究所)である」
・「日本文学研究と日本学」竹本 幹夫
「なぜ国際化か──大きな研究ということ」
「大規模予算を投入する場合、それぞれの個性に合わせた個々の研究を統合して大きな目標に進むような研究体制を構想することが、人文科学においても必須である。これによって何が成し遂げられるかというと、組織的な研究拠点が作られることになり、そこから新しい研究者の輩出が促進されること、海外とのより緊密な研究交流が実現出来ることなどがある。例えばかつての21世紀COE事業とそれに続くグローバルCOE事業などがそういう研究体制に相当しよう。」
「テレビ会議システムが可能になったことで、若手研究者がホストとなって、自ら研究集会を全世界に向けて提案し、人を集めることが可能となった」「大規模な研究集会をリードするという実績は、若手研究者にとっては研究履歴上の大きな得点になるはずであり、当該研究を世界的なレベルでリードする道が開けることにつながる」
●第2回日本研究国際賞授賞式・記念講演「歴史の魅力・歴史学の責任」
https://www.youtube.com/watch?v=GzQ4OVe-yR8
第2回人間文化研究機構日本研究国際賞の授賞式の様子と、同賞を受賞したアンドルー・ゴードン(Andrew Gordon)教授による記念講演『歴史の魅力・歴史学の責任』
●EAJS2021
https://nomadit.co.uk/eajs/eajs2021/
16th International Conference of the European Association for Japanese Studies,
24-28 August 2021
・「Open Science approaches and the creation of knowledge commons in the digital space in Japan」Cosima Wagner (Freie Universitat Berlin)
https://nomadit.co.uk/conference/eajs2021/paper/56590
・「Nichibunken Overseas Symposium」
https://nomadit.co.uk/eajs/eajs2021/symposium
・「The Future of Japanese Studies – Perspectives from Early Career Scholars」(東芝国際交流財団)
https://www.youtube.com/watch?v=2IbrssLS5_A&t=1s
https://www.toshibafoundation.com/jp/jishu/2021/eajs2021.html
・「The future possibilities of DH in Japanese Studies」
https://www.youtube.com/watch?v=oyEx7pGp-gA
https://www.youtube.com/watch?v=dq9R4UqwYX8
・「Uses and Re-creations of "Literary Heritage" in Premodern Japan」
https://nomadit.co.uk/conference/eajs2021/p/9165
・学会記(EAJS2021オンライン): 忘却散人ブログ
http://bokyakusanjin.seesaa.net/article/483142879.html
「国内学会と違って、新しい研究概念・方法の提唱がなされたり、領域横断的・本質的な議論が交わされたり、国際会議らしさ」
■コミュニティ
●From the Archives: NCC’s Next Decade Conferences
https://guides.nccjapan.org/homepage/news/news/From-the-Archives-NCCs-Next-Decade-Conferences
「NCC invites all those with an interest in the future of Japanese Studies to take part in our online sessions. This year, we are combining the planning for the coming decade with a celebration of our 30th anniversary.」
■デジタルアーカイブ/デジタルリソース
●岡田一祐「北米日本研究資料調整協議会が NCC Japanese Digital Image Gateway を公開」
人文情報学月報第120号【前編】
https://w.bme.jp/bm/p/bn/htmlpreview.php?i=dhm&no=all&m=37&h=true
「解題付きにせよ、なしにせよ、デジタルアーカイブ・データベースというのは、貴重な存在である。無理をなさらず、サステナブルに続けていただければたいへん素晴らしい」
●ORJACH - The Online Resource for Japanese Archaeology and Cultural Heritage
http://orjach.org/
「The Online Resource for Japanese Archaeology and Cultural Heritage (ORJACH) is an English-language interactive tool for teachers and students interested in incorporating the wonders of early Japan in teaching and learning across a range of subjects including history, geography, environment, cuisine and religious studies.」
●Digital Asia 2021
https://artspaces.kunstmatrix.com/en/exhibition/7373303/digital-asia-2021
http://spotlight-eastasia.group.shef.ac.uk/2021/08/02/553/
「Digital Asia Exhibition is a student-led online exhibition showcasing a culmination of work created by students in the School of East Asian Studies (SEAS) at the University of Sheffield. The work on display explores and presents a variety of themes including history, language, and culture of the East Asian region through different lenses and creative mediums such as academic posters, photography, manga, and more.」
●The Annual Festivals and Shrine Visits of Edo
http://european-edo-network.org/projects/shintotosaijiki/
「"Shin Tôto Saijiki - Creating a digitally augmented Edo ezu showing the annual events and shrine visits of Saitô Gesshin during the Edo Period" in 2020, which was accompanied by this digitally enhanced map utilizing DemiScript software.
This digital project incorporates both that digitally enhanced map and findings from my term paper to provide the viewer with rich, visual insights into the annual travels across the city of Edo by Kanda ward representitive Saitô Gesshin (1804-1878).」
■社会問題
●ザ・チェア 〜私は学科長〜 | Netflix (ネットフリックス) 公式サイト
https://www.netflix.com/jp/title/81206259
「一流大学の学科長に初めて有色人種の女性が就任。危機的状況の英文学科を舞台に、時代のニーズに応えようと励む教授たちが悲喜こもごものドラマを繰り広げる。」
●日本は私達に扉を開いて : 日本の入国制限について 日本留学を希望する学生たちの窮状と日本への思い
https://educationisnottourism.com/ja/homepage-2/
「コロナ禍にあっても、海外では留学生受け入れが着々と進められています。このような現状を鑑み、日本留学を目指しながら裏切られた思いで過ごしている多くの若者の声を届け、日本が冷静な受け入れ議論へと進むことを心より願い、本サイトを立ち上げました。」
●ドイツ公共放送の東京五輪中継現場で湧いてきた直観について。別に神秘体験でもなんでもないんだが(マライ・メントライン) - QJWeb クイック・ジャパン ウェブ
https://qjweb.jp/journal/54814/
「日本語で日本人に向けてアピールしてどうすんだ。英語とかで外国に言えよ外国に!」
●最終報告書の検証は不十分だ 入管女性死亡事件 | | 安田菜津紀 | 毎日新聞「政治プレミア」
https://mainichi.jp/premier/politics/articles/20210825/pol/00m/010/006000c
「ウィシュマさんの居室の監視カメラ映像2週間分は、約2時間分に切り縮められ、遺族にのみ一部が開示された。視聴に際し代理人弁護士の同席は認められず、法務省自ら、代理人制度を否定した」