2021年中もいろいろとお世話になりありがとうございました。
2022年もどうぞよろしくお願いいたします。
というようなことを、こうやって今日も、今年も、たぶん来年も、ブログというかたちで書きます。
学んだこと、考えたこと、調べたこと、願うことや想うことなど、自分は何かにつけてそれらを言葉にし、文章にして書いたりのこしたりしようとします。たぶん自分のそれは人の平均よりも多かったり強かったりして、それはブログでもいいし、文書や記事・論文でも、Twitterのツイートでもいい。
それは、インプットをまとめたアウトプットであるという意味もあるし、できれば”publish”、それは出版というよりはインターネットで”アクセス可能化”さすことのほうがもはやメインストリームかとも思いますが、そのためという意味でもあります。
でもさらに言うなら、それは「タイムマシンになり得る」ということだろうなと思います。
自分の「学んだこと、考えたこと、調べたこと、願うことや想うこと」が時空を越えて別の人に届く、ということ。言葉ってもともとそういう機能をもって生まれたものでしょうけど、文章化すれば内容の再現性が高まるし、publishすればアクセサビリティが高まるし、何らかのメディア(媒体)に書きつければ保存性が高まるしなので、やっぱり、何かにつけて文章にして書いてのこそう、って思うんですね。それはほとんど、強迫観念とまでは言わないものの、そうしないと気持ちが悪いというか座りが悪くて落ち着かない、という域にはあります。
タイムマシンの届け先は、主には他人かもしれない、自分の「学んだこと、考えたこと、調べたこと、願うことや思うこと」が、自分がいないところ/ときでも、いなくなっても、タイムシフトで、自分以外の人に届けられる。届くとそれは(情報の)力学的にまったくのゼロではありえないでしょうから、何らかの影響や効果が(情報的にや想い的に)発生する。起こる。それは大なり(めっっちゃ強い想いで)小なり(ほぼ無意識のゼロエネルギーで)想ってるんでしょう、たぶん、起これ、起これ、と。(10年くらい前にある人(チェブラーシカの人)がブログで「起これ、起これ」的なことを書いてたの、いまめっちゃなるほどと思いましたが。)
また届け先は自分かもしれない、実は極私的には一番の動機は「自分のため」で、あとで読み返してああそうだったそうだった、という備忘のために書いているのが一番なので、そういう意味では「冷凍庫で保存」みたいなタイムマシンではあるのですが。まあこれは今回ちょっと置いておきます。今日の主眼は、他人に届けるタイムマシンとしての文章の話です。
で、それはまあ実際どれほど効力があるかどうかなんていうのは、さほど気にしなくていいんですよね、特にネットの銀河の場末にちょっと置いておくだけだったらほぼコストゼロだし、それでもググってヒットする以上は存在感はゼロより大なので、ダメ元で置いておけばいい。
それにそれが効力ゼロなんかじゃないことは、”届けられる側”としての自分が重々ご承知なわけで、これまでにいろんな人が書いた大なり小なりの言葉・情報・文章というタイムマシンに乗ってやってきた、人様の「学んだこと、考えたこと、調べたこと、願うことや想うこと」をびったびたに浴びて、いまの自分があると言えばあるわけです。それは、イタリアの田舎の食事屋のメニューがググったら出てきて参考になった、ということでもあれば、あの人はこんな想いで職務にあたってらしたのか、というようにして人生の訓えを受ける。あるいはあの先生はこんなことを考えながら国際会議や資料調査してらしたのか、と自らを省みる、というようなことでもあったりするわけです。自分にその気さえあれば、再配達時間指定で受け取れるわけですから、こんなうれしいタイムマシンないじゃないですかね、と。
そう考えれば、自分から送り出すタイムマシンのほうも何らか機能するだろうし、機能すると信じるに十分値するだろう、と。信じてるからこそ、起これ、起これ、とも思うというか。
そう思っていたのですが。
……あれ、よく考えたら、このタイムマシンって未来行き専用ですかね?
あーそうか、その問題がありましたね。
なんとかしてこう、過去行きのタイムマシンとしての機能が持たせられないものか。
そういうある種無理なことをいろいろ考えることがあったんですね。
で、その時になんとなく、↓知ってる人には有名なこの図のことを思ったんです。

この図で言うなら、「東京」の位置を「過去」、「大阪」の位置を「未来」、で、「現在」の自分はじゃあ「三河安城」あたりにいるとするじゃないですか。「過去」の人には「過去」の人なりのいろんな想いや考えがあって、その人の望む「大阪」という「未来」=到着地があるはずなんです、その人がそれを言葉・文章にしてのこしているかもしれないしいないかもしれない、私的な想いもあるだろうし公的な理想でもあるかもしれないけど、何らかその人なりの「大阪」がある。
じゃあ「三河安城」の自分がいくら文章というタイムマシンを放出したって、「過去」の「東京」には届くべくもないんですけど、「大阪」より手前の「名古屋」か「米原」あたりには届けることができるわけですよね。だったら「三河安城」の自分は、「東京」の人の願う「大阪」という「未来」にちゃんと到着できるように、例えば援護射撃をして到着が早く/強く/楽になるようにあと押しをするとか。「未来」が道を逸れて飛騨高山や南紀白浜に行ってしまわないように、軌道修正するとか。そういうかたちでの未来へのタイムマシン放出なら十分できるよな、って思ったわけです。
えっと、やたら地名が出てきてノイズがひどいので、端的に言うと。
過去の人に今から文章を届けることはできないけれども、過去の人が願う未来やのこした想いのためになら今からでも文章を出すことができる。
(なんだ、一文で言い切れるじゃないか……、なんでドラえもんなんか引き合いに出したよ……)
ということを考えて、結果。
自分は今日も精一杯生きよう。
生きて、言葉を刻もう。
そのくらいなら自分にもできる。生きている限りいくらでもできる。
それが時間差でもいいから。
と決意するに至った、という話です。
あたしがたまに言う「まだまだ書くぜい」((c)夢枕獏)というやつです。
今年、知人を何人かなくして、それでこういったことを考えていました。
まだまだ書くぜい。