2009年03月11日

次世代は永遠にやってくるのだ、幸にしろ不幸にしろ、というOPAC考え話。

 京大図書系の若い集まりとして知られる我らが勉強会(註:→ http://kulibrarians.hp.infoseek.co.jp/109th/109th.htm )にて、先週登壇のスピーカーは。

 あの、「Liner Note」の次世代OPAC論でおなじみ、levaさん来たる!

 Liner Note
 http://note.openvista.jp/
 "Making OPAC 2.0"についての記事一覧
 http://note.openvista.jp/?s=Making+OPAC+2.0
 「次世代OPACってなんだろう:Making OPAC 2.0」
 http://note.openvista.jp/2008/what-is-next-generation-opac/

 生でこの方のプレゼンが聴ける機会が来ようとは。ひどく、感激!でしたよ。
 京都でよかった。
 ざまみろ、関東!(←ただいま大変お見苦しい発言がありましたことを深くお詫びいたします。)

 以下、メモ。

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・OCLC調べでは。学生は、OPACではなくGoogleで検索する。でも、情報の信頼性と言うことについては図書館が優位と考えている。ということは、問題は図書館にあるのではなく、OPACにあるんだ、ということ。
・OPAC離れの原因は。OPACが一般化したことに伴う、使い慣れない人の増加。そして、その人らが普段使っているのは、もっとずっと面倒見のいい検索エンジンなりwebサービスなりである。
・特にGoogleの影響はOPAC検索時の行動にあらわれている。ヒットしたものの上位を選ぶ(検索結果全体を俯瞰しない)。自然語で検索する等して、ゼロヒットが多発。
・次世代OPACの機能要件をすべて上げていけば膨大な数になる。かといって、じゃあ、そういった機能をOPACにどんどん盛り込んでいきさえすればよいのか?というと、そういうわけでもなかろう、と。どれを採りどれを採らぬかについては、採るだけの”根拠”があるかどうかを判断せねばならぬ。便利なのはもちろんだけども、ただ便利なだけでなく、それがユーザのニーズ・行動にほんまにフィットしているのか、とか。
・で、その”根拠”を、丁寧なユーザ観察から得ようではないか、というのが、(江上が思うに)本公演のメイン。
 -ユーザの利用風景を観察しましょう。
 -利用の様子をコンテクストごととらえましょう。
 -分析しましょう。
 -観察のとっかかりとして、インタビューをしてから観察してみましょう。
・彼の感触から言って、インタフェースのユーザビリティ的なことについて言うならば、観察サンプルは5人もいれば充分、とおっしゃる。但し、サービスのターゲットに合致したサンプルをうまくピックアップしないとそれは難しいし、結果の説得力(というか説明力?)にも結びつかない。
・インタビュー、である。「前回の図書館での調べ物で、どう動いたかを教えてください」、と。アンケートだとかグループディスカッションだとかは、相手に頭で考えさせる分、事実と異なる回答が出てしまうおそれがあるよ。インタビューで、「(こういうとき)どうしますか?」と相手に一般化さすのではなく、「(そのときあなたは)どうしましたか?」と問うて過去の事実を述べさすのがよい。断片的な質問、抽象的な質問ではなく、「前回の図書館での調べ物」を具体的に、全体像的に、コンテクストごと。(ちなみに、次に紹介する2年生某さんの例では、これまでどんな読書生活を送ってたか、まで聞き出しているよ。うん確かに、それがないと、図書館というものにどれだけ慣れてはる人かとかわかんないしね。)
・というわけで事例。実際に2年生某さんにインタビューをして、その内容から、特徴的な行動パターンを抽出。「ある程度あたりをつけたら本棚を見に行った方が早い」等の行動から、OPACの問題点その1、OPACの書誌情報に評価のための判断材料が足りてない。実際には、目次やレビューや内容紹介を判断材料にしているので、それがあるべき。また、「周囲の関連する本をチェックする」「最初の問題設定はあいまいで、検索結果から徐々に目指すサブジェクトを決めていく」などから、OPACの問題点その2、次へつながるヒント・キーワードがサジェストされてほしい。
 といった具合に、問題点が浮き彫りにされていく。
・で、この次にもうひとつポイントなのが、いきなりそういった問題点・改善点を、かっちり定めてしまって開発に直行する、とかではヤバいよ、っていう。そうではなくて、即席のプロトタイプ案を作って、ユーザテストするというルートをとるべき。ここでは「ペーパープロトタイプ」というふうに呼ばれていたのですが、まさに、紙の上にフリーハンドでOPAC画面をデザインして、しかもその画面を、実際に見せるユーザさんの利用に合わせて遷移できるように複数画面をブロックごとに作っておいて、といったものを、実際に披露していただいたよ。しかもその、カフェのメニューのようなフリーハンド書きのOPAC画面を、実際にユーザさんに提示して、検索時の動きを指で追ってもらいながらコメントしてもらう、という様子を、動画に撮って、見せてくださったよ。すげえ。これはすげえ。その動画の中で行なわれていることも、それを動画に撮ってるということも、すげえ。ユーザさんが、これはいい、ここを選びたい、この情報は使えると気づいた、これは使わない方がいいと判断した、とあれこれコメントしてくださる様子(+せっかく盛り込んだものが華麗にスルーされた様子)が、まざまざと。
・で、そういった調査の結果を反映させ、同志社のOPAC書誌やAmazonさんのデータなどを使用して、試作しはった自己開発OPACが、近々公開予定、らしいよ。実際その自己開発OPACを拝見しましたが、うちもこれにしようよね
・最後に。OPACは所蔵検索、所蔵情報提供で十分なのか。利用者の問題解決のトータル的なサポート環境、としてのOPACとは。というような感じで終わる。
・参考。IDEO、というアメリカのデザインコンサルタント会社。利用者の丹念な観察を行ない、ショッピングセンターのカートを5日間でデザインしなおす、等。『発想する会社! ― 世界最高のデザイン・ファームIDEOに学ぶイノベーションの技法』(早川書房2002)
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 日本きっての次世代OPAC伝道者たる某大某さんや、某システム業者のSEさんも数名ゲスト参加しての会でしたよ。

 そして、そのSEさんたちにしろ、京大側参加者にしろ、次世代OPACに必要な機能は何か、何を優先したらいいか、ユーザは何を求めているか、というその答を彼から&彼のプレゼンから引き出そう引き出そうとしてはって、ふj・・・某業者の人なんかノートにかじりついてがしがしと書き込んではるんだけども、ちょっと待って、それってちがうくないか、と軽い危機感を覚えもしたよ。

 個々の要件の問題、例えば、レビューが大学図書館発信のページに載ることが適切なのかどうか、を、彼から意見聞きたい気持ちもわかる。目次情報は有用なのかどうか、Wikipediaを参考情報として載せたとして果たしてそれはユーザさん見るのかどうか、どの外部DBと横断検索できるのがいいかどうか、結局優先すべきはどれとどれなのか。
 それを知りたいという気持ちは痛いほどわかるんだけども、それでも、今回については、いや、ちがう、それら個々の問題についてどうなのか、が問題なのではなくって、その”どうなのか”をどうやって判断すべきか、何を根拠として考えるべきか、その根拠を得るためにどういう手法でどういう姿勢で臨むべきか、ということを、今日まさに彼はここで教えてくださったのであって、もっとずっとちゃんと、そこに神経を向ける必要がある。少なくとも、今日の我々は。

 ユーザ視点中心でOPACを検討したら、こういう結果が出ましたよ、ていうのが大事なんじゃない。
 ユーザ視点中心でOPACを検討するために、こういうふうに考えましたよ、そしてこういうことを行ないましたよ、ということ。こっちが大事。

 うちの大学が、うちの社が、大学図書館業界全体が、もはや日本全体が、この分野で遅れをとってしまっているということの焦りもイライラ感も、それをさっさと解決さしたいと気がはやるのも、自分だってもちろん気持ちはまったく同じ。
 なんだけども、じゃあ例えば、彼だけでなく今日ここにいる人が全員「目次、有用」と、「Amazonの在庫表示、アリ」と、賛同したとする。それどころか京大のユーザ全員が「目次、有用」「Amazon在庫」に100%賛成したとする。そして、メーカさんもそれを100%飲み込んで、それを反映させた完璧なOPACができたとする。
 残念ながらこのドッグイヤーのご時世、1年も経てばまた陳腐化しますよね。
 やっぱあっちの機能のほうがよかったんじゃないか。このWebサービスと連携してくれたほうがいいのに。○○さんは新しいテクでこんなことを最近公開してくださったのに、それとのマッシュアップくらいとっととでけへんのか。情報技術も、ユーザが身を置く情報環境も、ユーザがはなっから身につけてる前提としてのリテラシーの種類も、今日現代の京大のユーザさんのそれと同じところにとどまってくれてるわけではまったくないから、そりゃまあ、陳腐化しますよね。

 その段になったら。彼が今回調査したユーザが、彼自身が、今日ここの全員が、個々の機能・テクノロジーについて「これ、有用」と判断したということなんか、言い方悪いけど、年寄りの繰り言でしかなくなってしまう。ファセット実現できた、わあい、ばんざーい、とか、アクアブラウザ買えた、わあい、ばんざーい、とか、まあ確かにばんざーいなんだけど、その手を降ろした瞬間にそのOPACは、次世代どころか古生代への下り坂を転がり始めることになる。
 そうではなくて、その段になっても、またさらに、”どうなのか”をこうやって判断しよう、こういうことを根拠として考えるべきであろう、その根拠を得るためにこういう手法でこういう姿勢で臨みましょうよ、という、言ってみれば、持続可能なシステムとしての次世代OPAC検討体制--だからそこではもはや”次世代”という言葉は不要なんだけども--、そいつでもって、次のリプレイス、そのまた次のリプレイスに臨んでかなきゃなんない。

 次世代も、リプレイスも、明日も、永遠にやってくるわけだから。

 そういう取り組み方をしない限り、十中八九、我々は同じ過ちを繰り返してしまうことになる。またもや後れをとる羽目になってしまう。
 恒常的に、相対的に後れをとっているという、無間地獄。
 それはもうやめたい。

 うん、もういいかげんやめたいですよね、そういうのね。
 「もうやだ、このOPAC」とか半べそかきながら仕事するのとか。

 だからこそ、なんですけど。焦って、急いて、結果を出そう、とりあえず形となるものの実現を急ごう、っていう気持ちをぐっと我慢して、ちょっと引いて、丁寧に分析・検討していけるような落ち着きを持ったほうがいいんだろうな、と。まあね、ぶっちゃけゆっちゃうと、すでに後れをとってしまってることには変わりないんだから。だったらじゃあ、後れついでということで、もうちょっとゆっくり腰を据えた感じで着手していくというのもそれはそれでありかな、っつって。(←さっきとゆってることだいぶちがうな(笑))
 逆に、彼が示してくれたような手法を我々がちゃんと身体に染みこませれば、しめで投げかけられた「OPACは所蔵検索、所蔵情報提供で十分なのか」という一見困難そうな問題も、別に苦労することなく結論出る(ていうか出てる)、し、どころか、たいていの問題は解決

 というような解脱感の得られそうな、ある種地道な方法なり姿勢なりというもののひとつを、この次代を担う(註:残念ながら”図書館の”ではなさそう)若き好青年は解説してくれているのだろうなあ、というようなことを思いながら、聴き入っていたのでしたよ。
 いつものことながら、ご当人の本来的な意図とはぜんぜんちがうところに焦点を当ててしまってるかもしれません、ごめんなさい。

 すでにご当人の詳細な自己レビュー記事がありますので、どうぞそちらへ。
 「「利用者中心視点からOPACのあり方を考える」という話をしました」
 http://note.openvista.jp/2009/opac-study-meeting/

 あのー、こんなこと言っても喜ばれるこたぁないとは思うんですけど、このlevaさんのLiner Noteのblogってずっと拝読してて、それでその記事を読みながら、この子ぜったい頭いい人なんやろな、とかいうふうに思うてたですよ。
 それで、生で会ってお話をうかがってたら、やっぱり思ってた通りに頭のいい人でしたよ。
 なんていうんでしょう、いちいち理路整然としてはる。理路整然としたこと言う人って、ともすれば、冷淡だったり容赦なかったりしがちだとか、あるいは熱くて押しが強くてウザかったりしがちだとかいうこともあるのだけども、この方の理路整然は、なんかこう、あったかいというか、安心するというか、癒し系の理路整然でしたよ。
 
 京都でよかった。
 ざまみろ、関(←この発言はアップロード者により削除されました。)
posted by egamiday3 at 07:27| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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