2009年07月02日

京大図書系勉強会(仮称)が10年続いた要因を考えてみた。

 
 京都大学の若手(笑)図書系職員が月1回ペースでやってる勉強会というのがあるんですよ。

 図書系職員勉強会(仮称)ホームページ
 http://kulibrarians.hp.infoseek.co.jp/home.html 

 その存在はそんなに知られてはいないが、行ってみれば確かにやってるという、某タモリ倶楽部のような。
 ↑見ていただいたらわかるとおり、いろんなことやってますわ。勉強・拝聴の場でもあり、情報交換・ディスカッションの場でもあり、プレゼン演習の場でもあり、そして何より懇親の場であるという。

 それが、始まったのが1999年9月と言いますから、もう10年ですよ。あっというま、ほんとに。第1回から参加してる我が輩にしてみれば、ほんとにあっというまですよ。もうとっくに若手じゃなくなったけど自分(笑)。最年少の新人さんが小学生だか中学生だかの頃からやってるという。
 開始1-2年目くらいから「よう続いてるね、この会ね」というような話題はちょくちょく出てんですけど、出続けてて、10年。
 こわいね。立ち上げた某さん・某さん・某さんの先見の明たるや半端じゃなかったよねこれは、ていう。上のwebサイトなんか、いまとなっては一大アーカイブになりかねない勢いですよ。

 よそさんにもしょっちゅう言われますけどね、よう続いてますねとか、どうやったら続くんですか、どこそこはしばらくしたら自然消滅しちゃいましたよ、とか。

 で。
 最近LIFOさんですとか、東北ではMULUさんというのを立ち上げます宣言がARGカフェで出たですとか、あちこちで自己研鑽的勉強会の盛り上がりがあるっぽいので、それに触発される感じで、いったいうちの勉強会というのは何が理由で10年も続いたんだろう、当事者にも不思議でならん、というその理由をちょっと考えてまとめてみよう、という気になったのですよ。

 あらかじめ断っておきますけども、完全に”結果論”でしかないですからね。そういうものとしてとらえてください。

 さて、その理由。

 まず、とてつもなく身も蓋もないことを言ってしまうと、「京大さんは人数が多いから」ですよ。
 いや、これ言ったらもう終わり。終〜了〜、カンカンカーンなんですけど、どうしようもない真実。母数としての図書系職員全体の人数が多いから、という理由につきますよね。
 それはただたんに数の強みという意味だけではなくて、人数が多いと↓こういうことになるですよ。

 「図書系職員の人数が多い」
→「同じ年齢層の図書系職員が、一定人数いる」
→「毎回全員が出席しなくていい」
→「1人あたりの負担(準備的/心理的)が少ない」
→「気軽に手ぶらで参加できる」
+「”担当制””ノルマ制”を採らずに済む」

 同じ年齢層の、という点はまずかなり重要。勉強の場に上下関係はジャマでしかない。言いたいことが言えてディスカッションが成立すること。それは大前提ですよ。
 で、「毎回全員が出席しなくていい」ことの心理的利点はとてつもなく大きいですよね。まあ1回の会には最低でも5人はせめて来てくれないと、会として盛り上がらない、と仮定すると、来そうな若手が5人規模の図書館さんだとその5人は毎回参加しなきゃ、ていうことになる。次第に来たり来なかったり、で、ぼんやりとフェードアウトしがち。これが15人いれば、全員が3回に1回程度しか出ないというちゃらんぽらんやさんであったとしても、毎回一定程度の人数が集まって、そこそこ成り立ってくれる。30人いれば、毎回10人来るってことですから、御の字でしょう。
 毎回来る常連もいるけども、行きたいときだけ行ってもいいし、興味のあるテーマ・発表者の時だけ1年2年ぶりくらいにふらりと来ることもある。
 それぞれの温度差をぐるりと受け入れる感じ。「人数が多い」というのはそういうこと。
 その結果として、「”担当制””ノルマ制”を採用しなくていい」という、この手の会が続かなくなる理由ランキングがDHC並みに第1位の要因から、上手に逃れられる、と。この担当制・ノルマ制てやつは悩みどころで、これをしないと続かないけど、これをしちゃうと続かない、という地獄の壁に誰しもぶつかるものだと思うですよ。それをしなくて済むというのは、とてつもない恩恵。

 しかも、「毎回全員が出席しなくていい」ということは、毎回微妙に出席者が変わる、結果、「メンツが回転して、新鮮」というのもひとつの利点だと思うですよ。5人規模の図書館さんで5人が毎回出席したら、内容テーマを変えてみようとも、ディスカッションの落ち着く流れは結局同じ、繰り言に終始しかねない、というのに比べると、決まった常連が決まってわーわーゆってるとは言え、多少なりともメンツに毎回変化が生じているというのは、意外なところで効いてるんじゃないかと思うんですね。
 新鮮さという意味では、図書系職員の人数が多い=部局図書室が多い→「様々の異なる環境・現状からメンバーが集まる」→ディスカッションが新鮮、というのもまたいい効果なのかもしんないですね。係が違うとはいえ、同じフロアで毎日同じように仕事してる者同士が、ではなく、まったく異なる分野や環境下で異なる空気感の中で仕事してる者同士が、月1集まって勉強会、これイコール非日常、イコール刺激、ということではなかろうかと。

 さて、メンツが回転して新鮮、ということに関連して。図書系職員の人数が多い、ということが幸いしてのもうひとつの効用というのが、「毎年(年を置かずして)、新人=後輩が入ってくる」。これ重要。この手の会には絶対に重要。定期的に新しいメンバーが入ってくるということが、集団の新鮮さを保つということにとってどれほど重要かと。しかも、入ってくるのが”後輩”というのがいいじゃないですか。先輩を育てるのは後輩という存在、ですもの。あとちんまい都合良さでいうと、また同じようなネタをやるけど、新人さんのためだしいいよね、つって、テーマを使い回せるとか(笑)。

 というわけで、そもそもの母数としての職員数が多い、というのが意外にあちこちで幸いしてるという気はするですよ。
 でもじゃあそれを言ったら、たとえば京大さんのようなでっかいところじゃなくても、複数の大学なり図書館なりのメンバーが集まったような勉強会なら、同じなのか?とおっしゃられるかもしれない。
 うん、ですからね。京都府の府立の図書館の人たちによる勉強会というのもあるんですけど、あれも結構に続いてはるですよ、確か。そしてLIFOさん。傍で見てるだけでしかないですけど、たぶんだいぶ長続きしはるんちゃうかなあ、となんとなく思うですよ。
 ただ、京大さんだと「学内で開催できる」=わざわざがんばって集合するというハードルがない、というのもまた利点ではありますよね。

 う〜、やっぱりこてんぱんな”結果論”だなあ、すみませんね。

 さて、人数の多さばかり自慢げにゆってるのもどうかと思うので、別の理由も考えようかと思うんだけど、えーと、これどうかなあ、こじつけのような気もするなあ、まあいいか、これまでのもだいぶこじつけだし(笑)。
 じつは「会の名称が決まってない」んですよね。奇跡ですよ、これ。10年間ずっと(仮称)のままで、続いちゃってるという。通称”勉強会”。これで我々のうちでは通るんだけど、たまによその人を招いてしゃべってもらうとかいうときに「会の名前はなんていうんですか?」と問われて、気まずくしどろもどろになっちゃうとか。あと、パワポの表紙画面に書いてある会の名称が人によってちがうとか。ありえへん。これで10年ずっと来てたとか、どんだけゆるいんだ、あたしら(笑)。
 名称が決まらないから、というわけでもなくて、まあ体質であるところが大きいんだろうと思うんだけど、例えば、”勉強会”ていう通称のままだと”京都大学”ていう看板が名称として先行しない、おかげで、よその大学やよその図書館の人もたくさん、しょっちゅう来てくれはるんですね。府立の方とか。NDLの某さんとかずっと来てくれてはったし。あと、異動出向したメンバーがそこの人を連れて来るとか。これがもし「名称:京大なんとか勉強会」だったら、果たして京大以外のみなさんがここまで日常的に参加してくれはったかどうかしら、と思うと、「名前は、え〜っと、勉強会(仮称)」であったことが意外に幸いしてるような気がしますよ。

 それは”京都大学”名であるかないかの問題だけではなく。名称すら決まってないような会だから、誰がメンバーかメンバーでないかなんぞはっきりするわけがない。線引きがぜんぜんないから、誰が来てもOKだし、来なくてもどうってことがない。囲みもしないし拒みもしない。もはやパブリックスペース。
 それは取り扱う内容だってそう。何をするとも決めてない。そのかわり、何をやらないとかいうふうに阻まれることも、たぶんない。図書系の勉強会、に関わりそうであれば、何が行なわれようとも成立してしまう。もいっかい見てください↓ヘッドライン。何やりたいんだか、ていうくらいの(笑)。
 http://kulibrarians.hp.infoseek.co.jp/home.html 

 さて、ここへ来て思うに、どうやらこの”会”はもはや、グループとか集団とかいう存在ではなくなってしまっている。言うなれば、京大(等)若手(的)図書(系)職員にとってのインフラであり、プラットフォームなんじゃなかろうか、と。
 それは、我々彼等彼女等の、学びとりたい、話を聞きたい、発表したい、という想いと、その様々な形でのあらわれを、奇跡的なくらいドでかい寛容さで引き受けてくれるという、ひとつの仕組み
 誰々が出張で○○に行って誰それの話を聞いてきたんだって。へー、いいなあ、どんな話だったか聞きたいね。→じゃあそれ、勉強会で報告してもらおうよ。
 どこどこの国のライブラリアンの人が来るんだって。誰それさんと知り合いになれていろいろ話聞けたよ。→じゃあ、勉強会で話聞こうよ。
 なんかちょっとこういうことで困ってる(ry→じゃあ(ry

 「じゃあそれ、勉強会でやろうよ」と2言目には言えて、それが実現できることの、贅沢さ。

 なので、ここでゆってることが180度くらいがらっと変わっちゃうあれなんですけども、ここまで来ちゃったら、もはや無理に続けなくたって大丈夫なんじゃなかろうか、とも思うです。
 もちろん、”続いた”ことに価値はあるし、そのインフラなりプラットフォームがすでに”ある”ことはとてつもなく贅沢なことだと思うんだけど、なんだろう、だからといって「”続ける”ことに意義がある」というようなありきたりな有り様ではすでになくなってる気がする。”続け続ける”ことなく、”あり続ける”だけでもはや大丈夫な存在、ていう。
 例えばしばらく何も企画とかなくてぼーっとなってたとしても、不意に、そういえば誰々がどこそこに行ったらしいよ、ってなったらもう自然に、→じゃあそれ勉強会で、っていう流れになるじゃん。それで、やりますよぉ〜、て宣伝したら、ああ、やるんだね勉強会、っつって、メンバーともメンバーじゃないとも決まってない人たちが、どこからともなく興味にひかれてやってきて、ある日ある時ある部屋にあつまって、車座になって話を聞くなりディスカッションするなりする、ていう。

 ・・・・・・↑え、涅槃図ですかこれ(笑)。

 まあ、定期的にメンテナンスして運転させるということがなければイザというときに動かないので、まったく放っておいていいということはないんでしょうけれども。

 というわけで、えーと、なんだっけ、そう、10年続いた理由でしたね。忘れてた。
 続いたというより、すでにインフラ化してる、ということ。
 あと、ふところの大きさ。
 来てもいいし来なくてもいいし、何をしてもいいし、しなくてもいいし、でもするとなったら難なくそれが成立する、という有り様。
 それもこれも、そもそもの人数が多かったおかげ。
 そんな感じですかね。

 ・・・うん、ぜんっぜんよそさんの参考にならないですね、これではね。

 でも、インフラは便利ですよ、ほんとに。”想い”or”情報”が、いとも簡単に”表現”になって、”共有”できますからね。

 ああ、やばい、同輩なり先輩なりに、てめー勝手なこと書き散らしやがって、そのぶんには捨て置かんぞ、って、ぼっこぼこにされるかもしれん。ごめんなさいごめんなさい。


posted by egamiday3 at 20:45| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする