2010年07月09日

情報の”ギブ・アンド・テイク”では”ギブ”のほうが偉いんだって、誰が決めたんですか。

 
 ※先に言っておくと、”ポイズン落ち”です。

 かつて自分がインターネットというものに触れ始めた頃、12−3年前ということになろうか、その頃、メーリングリストでは、自分から発言もしなければ情報も出さないいわゆる”ROM”というやつは結構に忌み嫌われていたように記憶している。
 登録したら必ず自己紹介文は送りなさい、ということがきつく言われるくらいはデフォルトで、ROMはダメです、とか、月何通以上発言なければ登録から外される、なんていうルールもまったく珍しくはなかった。
 まあ、わからんではない。発言が飛び交わないMLはつまらないと思われても仕方ないし、そもそもネット経由のコミュニケーションツールが出始め&それほど多くなかったわけなんで、「せっかく手に入れた道具はしっかり使い倒したい」という人類共通の”欲”というのも根底にはあったのかもしれない。

 ギブアンドテイク、という言葉が使われていたような気がする。
 こういうコミュニケーションの場に登録してきたんだから、情報をテイクしてばかりいないで、どんなかたちでもいいから、ちゃんと自分からも情報をギブしなさい、という、まあある種の道徳的な考え方。「発言が少ないと盛り上がらない」だけなら環境作りのひとつとも考えられようが、「ギブアンドテイク」という物言いは、まあ、平たく言えば「ずるい」ってことなんだろうな、と思う。
 自分が持っている情報を惜しげもなく他人に開示・ギブする者は、偉い。それに比べて、自分は何も発言しないのに人の出す情報を読んでテイクしてるだけのやつらは、ずるい。という価値の置き方。
 日本には「働かざる者食うべからず」などという便利なことわざがあった。「ギブアンドテイク」という欧米の言葉がそもそも現地でもそのような意味合いを含んでいたかどうかでは定かではないが、少なくとも日本で、ああいう文脈で使われるときは、同じ意味を伝えようとしているんだろうと思う。 

 あれから10数年。

 ネット上でのコミュニケーション・ツールの選択肢はあれやこれやと増えてきた。思いもよらぬ百花繚乱。情報発信がどんどんオープンにかつフリーに行なわれるようになってきた。予期しなかった情報大放出時代。公的機関の統計情報も、専門家による業務上の実例・経験譚も、今日誰がどの店のカルボナーラを食べたかも、どこぞにぽおんと置いておかれ、投げられつぶやかれ、必要な人それぞれがテイクしていく。そのステージ上では、ギブとテイクが必ずしも呼応してない。ギブするほうは誰に対するともなくギブしてて、テイクするのが誰か、そもそもいるかもさほど意識していない。いや意識はしたとしても、管理はしない。テイクするほうも、お金払う相手もいなければ、なぜそこに置いてあるかもわからない。サーチエンジンで細切れにされた検索結果から直接ジャンプしてきたから、そもそも自分は今その情報を、どこの誰からテイクしているのか、わかんないし、必要ない限りわかろうとすることもない。それでいいと思っている。
 それが当り前だと思うようになっている。

 それが当り前だと思っている人らが、「ギブアンドテイクなんだから、自分からもギブしなさい、情報提供しなさい。それをせずにテイクだけな人は、ここには入れたげない」と言われたら。

 「じゃあいいです、どっかよそでテイクしてきます」。
 まあ、そうなっちゃうわね、そりゃね。

 テイク側の人が、じゃあいいです、よそ行きます。そう言われた瞬間、形勢はあっというまに180度逆転してしまうのではないか。テイクする人がいるから、ギブできたのである。テイクする人が離れてしまえば、ギブ側にはもはや、その相手がいなくなる。ギブの持って行き場がなくなり、ギブできなくなる。ギブのできないギブ側は、何をしたらいいんだ、ということになる。

 ギブしたいのに、ギブをさせてすらもらえない。
 うわあ、なんと哀しい話ではないか、と。
 ギブ側が単にテイク側にギブしていただけではない。ギブ側自身もまた、ギブをテイクしてもらえているという種類のギブを、テイク側からギブされテイクしていたというわけである、←なんだこれw。

 そう考えつつ見てみると、いまやネットもリアルも、ギブしますよ!私のギブをテイクしてね!と、オープン&フリー合戦の様相を呈しつつある。
 長文でしっかりした内容のフリーでオープンなblog。即時で生の現地情報が労せず向こうから飛び込んでくるtwitter。参加費も交通費も時間のロスもまったく無しで有識者の講話談話が聴けるustream。ギブ、ギブ、ギブ。情報大放出。なんと気前がいい。

 おかげでこれまで情報のギブによってテイクしていた種類の業界はあわあわしている。出版は自転車操業を続け、新聞は不要と言われ、テレビは地デジ対応しないと見れないというならそれでもかまわんと言われるまでになった。専門知によって社会に貢献しようという医者や弁護士や教師や研究者・科学者が不遇の憂き目を見なければならない現状も、あながち無関係ではないような気がする。心血を注いで執筆した論文はリポジトリなるオープンアクセス機関に接収され、医者や教師はモンスターにびくびくしながら暮らしていると人は言う。

 ちょっとそれた。
 ともあれ、情報デフレ時代の片棒を担いでいる最大の存在は、Googleさんであろう。Googleさん。みんな大好きGoogleさん。情報をフリーかつオープンかつ大量に気前よく提示することで、世の人々の目を一身に向けさせ、人気を博し、(そしてここが実は重要なんだけども)知らず知らずのうちに有象無象からのちょっとづつのテイクを集め(これを元気玉と言う)、その波に乗って新しいサービスを提供し、結果、さらに大量の情報がフリーかつオープンに提示される。あまりの人気に、他のありとあらゆる情報に関わる存在(ということはすなわち、ありとあらゆる存在)も、この波の上で勝負せざるを得なくなる。勝負せざるを得ないんだけど、勝てるわけがない、Googleさんの体力がもはやハンパないから。はいっ、ギブしますっ!と意を決して手を挙げたところで、高師の浜のあだ波に呑み込まれて声も聞こえなければ袖も濡れない。この辺りで経済音痴の自分にもようやく気付く、ああ、これが音に聞くデフレスパイラルというやつか。
 この荒波のステージでの勝負に確実に勝つことができるのは、Googleさん並みの体力を持った存在である。どれだけ情報をフリーかつオープンかつ大量にギブし続けても、疲弊しないだけのストックと体力がある者。そんな勝負あるか。勝てるわけがないじゃないか。責任者はどこか。

 にもかかわらず、である。たまにネット上で、いや別に自分はその勝負に負けてる感はないですよ、というふうに平然とギブを続けておられる存在を見かける。たまに、じゃないな、そういう存在はぼーっとネット徘徊してるだけでも目につくところにいらっしゃるから、意識無意識はともあれ見聞きしていることになる。彼ら彼女らはギブによって何をしているのか。
 仮説。1、ギブすることだけに意義を見出し、テイクは意識していない。(類:ギブすることでアドレナリンが出るからそれで完結している) 2、大量のギブの末の末にテイクを得られるネタを用意している。3、バックがついている/別のパイプラインがあるから、ギブ自体からテイクする必要がない。4、上手にギブして、上手にテイクしている。5、上手にギブすれば、いつか巡り巡ってトータルで何らかのテイクが得られることを、信じている。うむ、そもそも「ギブアンドテイク」というのは5のようなことを言ったのではないのだろうか。日本には「情けは人のためならず」などという便利なことわざがあった。「ギブアンドテイク」という欧米の言葉がそもそも現地でもそのような意味合いを含んでいたかどうかでは定かではない。むしろ「ペイフォワード」か。

 あの頃のことを思う。
 情報はギブアンドテイクだ。テイクだけしてるやつはずるいやつだ。
 そこそこ多くの人がその理屈を信じていたような気がする。
 ”ギブ”のほうが偉いんだって、誰が決めたんだろうか。
 思い出せないし、わからない。いや、情報のデフレが止まらない世の中で、情報を生業にして生きている我々には、それがわかったところで何の薬にもならないのだった。ポイズン。

 
posted by egamiday3 at 08:06| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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