ここで言う「登壇」は、発表とかプレゼンとか、多数の人前で何かしらまとまったことをしゃべって伝えるようなことです。
ありがたいことに、本書(『本棚の中のニッポン』 http://www.amazon.co.jp/dp/4305705885/)を上梓してからその件に関してお声をかけていただくことも増えまして、いくつかの場で登壇させていただいたりもしました。何がしかの勉強会とか研究会とか。年内年始にも。詳細は専用ブログ(http://jbsblog.seesaa.net/)のほうで。
そうやってお話させていただくことが続くと、プレゼンってどうやったらうまくなるでしょうとか、どういうことに気をつけて練習するんですかとか、そういう、プレゼンテーションや発表のスキル的なこと、うまくなりたいんだ、その方法を身につけたいんだ的な相談チックなことを話題にされたりしますよね。やらなきゃいけないこともあるんですけど、不安なんですよ、つって。わたしにきかれるんですけど。
わかんないですよ、わたしだって。全然慣れてないですよ。場数ある程度あるはずだけどいまでも四苦八苦してますよ。
毎回降壇後は胃液がばーって出ておなかいたいっつってトイレで泣いてますよ。
何度かやってきたうえで一周回っていうなら、プレゼンなりそのスキルなりなんてものは、所詮ツールでしかないし伝える手段でしかなくて、実際中身のほうがよっぽど大事なんだから、あまりプレゼンのスキルや方法のほうばかりを向いたりとか、ましてやそれに集中して学ぼう極めようなんてことは、時間やエネルギーの無駄なんじゃないかなって。もちろんそのスキル・方法が拙かったから中身の良さが伝わらなかった、ということは数多あることで少しは心得てなきゃなんないんだろうけど。でも、かといってそれが充分にあったから、無条件で中身が相手に伝わるっていうこともあるわけじゃない、そこを気にしてとらわれてしまうっていうコストに見合う結果は得られないと割り切った方がマシな気がする。その方が楽になる。所詮ツールなんだから。一部の専門家や趣味人が極めたらいい。
というのがひとつ。
もうひとつは、どうすれば伝わるかなんつって結局、場合によるとしか言えないし思えないんで、あんま考えすぎてもしょうがないし、多少身に付けたからって実際はあてはまらないことのほうが圧倒的多数なので、最終、あんま意味ないんですよね。いや、意味ないは言い過ぎか、でも、考えすぎても意味ないんですよ。なんつうんだろう、パラメーターが多過ぎるから、って言うのかなこういうの。
例えば、同じ内容を、同じ業種・層の人たちに、同じ人数、同じ会場、同じ条件でやるっていっても、2012年と2002年と1992年とでは同じやり方できないじゃないですか。相手が変わってるから。伝えたいと思う相手の、予備知識だとか情報スキルだとか社会への理解とか、どんなプレゼンを見慣れ聞き慣れ、それ以前にどんなコンテンツ、どんなメディア、どんな言葉、どんなしゃべりを見慣れ聞き慣れ触れ慣れしてるかがぜんぜんちがうから、どうやったらちゃんと伝わるだろうかっていうのもちがう。ましてや業種・層がちがう、人数がちがう、会場やプレゼン機器がちがう、夢がちがうほくろがちがう。ふざけんなと、どんなムリゲーだと。多少スキルが身についたからって全対応できるわけがないじゃないですかね。関西か関東かの差だって相当なもんだし。
本書上梓後、本書関連のプレゼンを複数回させていただきました。毎回内容も進行も、言葉も立ち居振る舞いも、今回はこのやり方でっていうのも、総じて大小なりと変わりました。毎回変えてるんですねーて言われます、変えるに決まってるじゃないですか、だって相手変わってるんだから、同じことやったら失敗するにちがいないもの。
もちろん、上手いプレゼン、成功したーって満足するプレゼンはできるでしょう。そういうスキルや方法を極めたり、極めた人の言うことを学んで実践したりすればいい、それは上手いプレゼンになるでしょう。不安なく場に臨めて、満足できるでしょうし、ほめられるかもしれない。でもそれはあくまで、自分が上手かった、ということであって、千差万別な聴いてくださってる相手に中身が伝わったかどうか、ていうのは実はまた別の話でよくわかんなくなってくる。
わかんないですよ。不安ですよ毎回。でも不安でいいじゃないですか。
あなたが不安を感じるのは、聴く相手のほうをちゃんと向いて、相手に中身をちゃんと伝えたいんだと真摯に思っている、願っている、という証拠ですよ。
自分が上手くて成功したいだけなら、世に山ほど出てるプレゼンテーション関係の本とかレクチャーとかハック的なのを真似たらいいだけなんで、そういう人は不安に思ったり迷ったりしないです。
でも、伝えたいことのちゃんとある人が多少不安がってたり緊張してたりしたところで、誰も文句言いません。内容がへちゃかったら文句出るかもだけど。最悪、ごめんなさい、って言ったらいいです。
だからまあパラメーターの多すぎるあれなんで、対策としては、できるだけ多くのプレゼンを見聞きしてor実践して、こういうアウトプットに対し、こういう場のオーディエンスは、こう受ける・反応する、ていう事例を自分のデータベースにできるだけたくさん蓄積していく、のが結局不可欠なんじゃないかなって。
あ、上手いはどうでもいいけど、下手なプレゼン、ていうのはたぶんあるですよ。料理の美味さが人によってちがっても、不味い料理は誰にとってもほぼ同じ、ていうように。だからどういうやり方はマズいか、ていうのは身につけたほうがいいんだろうけどですね。プレゼン本とかの最大公約数的な話とか見て。
ただまあ、それを読み過ぎたところであれですよね、ていう話です。
えっと、これで終わりそうな雰囲気だけど、なんだっけ、タイトルに「書くこと」ってついてるんですよね。
いや、文章書くことの不安というか、読み手のパラメーターの多さなんかくらべものになんないですよ。月とスッポンですよ。スイートスポット(http://www.europe-kikaku.com/projects/e31/main.htm)ですよ。登壇したときのその場の相手なんかまだある程度は限定的じゃないですか、場所とか、背景とか、層とか。限定されてなくっても、知る・把握することはできるし。でも一方、書いた文章の読み手なんか、どんな属性・予備知識を持った人が、どこで、いつ、どんな経緯で読むかなんてさっぱり検討もつかなくて個々ばらばらだし。
しかも、その場に居るわけじゃないから、どういう反応だったかの検証すらできない、フィードバックなんか極々一部しか得られない。なんですかこの空をつかむような負け試合は。相手はゴーストですか、ゴースト相手のライターですか。それでも書かなきゃいけないですか。
もう毎回、嫌な思いして、不安で不安で、でもそれでも書いてます。ていうね、そういう感じです。
結論出ないまま終わるパターンの記事ですねこれは(笑)。
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