あるところで、図書館について話をする、という登壇の機会をいただいてるんです。
●総合資料館開館50周年記念 トークセッション「新資料館に期待する」
http://www.pref.kyoto.jp/shiryokan/50shunen_talk.html
Ustream: http://www.ustream.tv/channel/kpla
2013.7.14 13:30-16:30
まああたしが話すのは10分程度ですけど、ただ自分、まあまあ特殊な立場の図書館から来ましたな感じだし、そうでなくても公共図書館さんにはほとんど関わってないし事情も知らないし、そもそもユーザとしてもまともに公共図書館使ってないしなあ、と思いながら、それでも考え始めると、とても10分では収まらないか、または収まるかくらいの考えがいろいろでてきたので、とりあえずざっくりと、メモ書き程度にちょっと書き残しておく感じです。
いつものごとく、すごく遠くから大きく見てるパターンですけど。
これまでの焼き直し焼き直しみたいな感じですけど。
図書館界隈のことを考えるのに、まあ、これのことをなんとなく考えざるを得ないわけで。


まあこんなバズワードっぽいのでなくとも、例えばこのごろだとこちらもわりと話題というか、考えるキーとするべき本じゃないかと思うんですが。
![知の広場――図書館と自由 [単行本] / アントネッラ・アンニョリ (著); 柳 与志夫[解説] (その他); 萱野 有美 (翻訳); みすず書房 (刊) 知の広場――図書館と自由 [単行本] / アントネッラ・アンニョリ (著); 柳 与志夫[解説] (その他); 萱野 有美 (翻訳); みすず書房 (刊)](https://images-fe.ssl-images-amazon.com/images/I/51snt3UalWL._SL160_.jpg)
それからつい最近では、こういうのもちょっと話題になったんじゃないかなって。

●無料貸本屋でどこがわるい? ≪ マガジン航[kɔː]
http://www.dotbook.jp/magazine-k/2013/07/09/what_is_wrong_with_free_public_libraries/
まあ、それぞれにいろいろご意見は出てるだろうし、言われるだろうけど、なんというか、特定の図書館なり、特定のあり方とか考え方みたいなのを、端的に「良い」とか「悪い」とか言ってもあんましょうがないかとは思うんです、どれも一長一短てほどでもないけど、うなずけるところもあれば首をかしげるところもあり、採り入れたいところもあれば反面教師にしたいこともあり、だし。
じゃあ、どういうところがどんなふうに、うなずけたり首をかしげたりするんだろう、ということをつらつらと考えていると。
なんか自分的にはこういうふうにキーワードが並ぶんですね。
ファーストフード的
エンターテイメント
アミューズメント
↓↑
公共性
文教機関
文化資源・学術資源
そのキーワードを使って、”問い”を作文してみると。
すなわち。
(問)
公共性を持った文教機関が
文化資源・学術資源を提供するのに、
ファーストフード的な図書を無料で貸し与えるという
エンターテイメント性あふれる
アミューズメントパークであっては
何がどう都合がよろしくないのか?
まあ、自分が「それではよろしくない」と考えるから、そういう問いが立つんでしょう。
じゃあ何がどうよろしくないのか、って考えたときに、ですけど。
まずひとつ。
”消費”偏重。
いやもちろん、文化・コンテンツを消費する行動がよろしくないなんて決して思いません、自分だってそれで育ってきたんだし、いまだってそうしてる、否定なんかするつもりまったくない。
その上で、なんですけど。消費”だけ”しかなくて、その後につながるもの、育成、成長、知的生産へとつながる仕組みが、まったく組み込まれていない、意識されていない、軽視されている、というのは公共の仕組みとしてどうなんだろう、と。
産業として、ビジネスとして、プロデューサー側としてはそれでもありだと思うんですが。
でもやっぱり、公共性を持った文教機関が、何らかの公的コストを費やして、社会に対して寄与するモノが、”消費””だけ”、ってそりゃいかがなものかと思うんです。
そこには”知の揺籃”というインフラが仕組みとして備わっていてほしい。遠回りでもいいから、でも確実に、頼り甲斐のあるものとして。
それが不在なエンタテイメントでいいんだったら、別にジャスコ・イオンにだってネズミーランドやお台場合衆国あたりにだって転がってるわけだし。
もうひとつ。
地域性の軽視。
あるいは、多様性の軽視。
地域性を軽視する文化が成熟するとは思えないし、多様性を認めない環境の中で文化・学術が発展できるとも思えない。
だったら、公共性を持った文教機関の提供するものがどこへ行っても等しく、東野圭吾のベストセラー本とスターバックスのトールラテでいいんですか、ていうことだと思うんです。
しかもあたし個人が、東野圭吾の小説大好きでほぼコンプリートする勢いで常に読んでるし、スターバックスなかったらとても生きていけやしないし夜も日も明けないというくらいに通い詰めている、というあれで、そんな人間が「それでいいんですか?」て問うくらいだから、ていう(笑)。
で、この「”消費”偏重」や「地域性・多様性の軽視」をあたしがノーだと、ノンだと、ニエットだと言うとしたら。
それは、昨今流行りのキラキラ図書館のそれに対して、だけではなくて、従来型の図書館のあり方に対してだってノンだと思うんです。
つまり、
(問)
従来の図書館だったら、
それをクリアしてきた、と
胸を張って言えるのか?
反感を呼びかねない例示かもしれないけど、例えば、郷土資料の提供やそのサービスが年輩の利用者の趣味を満足させる”余暇の消費”のため”だけ”だったとしたら。それはそれでありかもしれないけど、プラス、もうすこし何かあり方を考えてもいいんじゃないか、とは思います。地域資料って何のためにあるんだろう、って。
例えば、ある市長がおっしゃった、と。
「この図書館が気に入らない人は、よそへ行けばいい」。
これはあかんだろう、と思うんですが、じゃあ、これをあかんと言うのであれば、これまでの図書館だってあかんだろう、と思うんです。
自分たちがイメージする、想定の中だけの”ユーザ像”にもとづいて、図書館のあり方やサービスを設計してなかったか、という反省。
スタバやツタヤになら、あるいはアミューズメントパークになら来る、というユーザがそれだけの数いるんだったら、従来の図書館はそういう客層の人たちに対して、果たしてどれだけ”ユーザ”として真摯に向きあえてこれたんだろうか、という反省。
その反省は我々するべきだろうとは思います、やっぱり。
という、「想定の中だけのユーザ像」への反省、という意味では、最近の話題として↓こちらにつながってくると思うんです。
●CA1790 - 若手研究者問題と大学図書館界―問題提起のために― / 菊池信彦 | カレントアウェアネス・ポータル
http://current.ndl.go.jp/ca1790
これに関する自分の過去のブログ記事。
●我々は「若手研究者問題」を観測できているか : #西洋史WG に寄せて: egamiday 3
http://egamiday3.seesaa.net/article/362795408.html
図書館はなぜ"支援"をするのか : いわゆる「若手研究者問題」に寄せて: egamiday 3
http://egamiday3.seesaa.net/article/363278785.html
大学や大学図書館は、大量の専門資料・専門知を抱えている機関として、社会の中に存在しています。利用対象者がどう、コストがどう、という問題は確かにある、あるにせよ、事実、社会の中に存在しています。別に切り離されて存在しているわけじゃない、これは自覚しないといけない。
じゃあ、社会の中で専門資料・専門知を必要としているのは誰か?
上記のカレントアウェアネスの記事では、いわゆる「若手研究者」が必要していると言う。
また別の人は、いやこれは若手云々の問題じゃない、「在野の研究者」全般に言えることだ、とおっしゃる。
いや待てしばし。在野かどうか、研究者かどうかすら問題じゃない、世の中には何かしらの「専門家」が、分野・職種・業界を問わず山のように存在しているはずで、しかもほとんどが大学というものに所属しているわけじゃない、その人たちだって専門資料を必要とするでしょう。
そこまで考えると、身分として専門家かどうかはもはや関係ない、何かしらの事情・都合・必要性でもって、専門資料・専門知を利用することが求められる人たちがいる。いまどきは特にそうじゃないでしょうか、不況、ビジネス、エネルギーや原発、災害・危機、参院選、医療や福祉、文化の危機、地方の危機、それをとりまくインターネット、ソーシャル、ビッグデータ云々かんぬん。
つまり、これはまあ私のざっくりとした推計でしかありませんが、大学・大学図書館の持つ専門資料・専門知を必要とする人たちというのは、軽く見積もっても、日本国内に1億2500万人くらいはいるんじゃないかな、って思うんです。
そんな中にあって。
(問)
公共性を持つ文教機関が、
文化資源・学術資源をもって
社会・人類を”支援”するにあたり、
ユーザ像を限定する、のはアリなのか?
という疑問を持つわけです。
これについては、たぶん大方の関係者の方がこう考えると思います。
「公共図書館を整備すべき」
これはおっしゃる通りです、理屈としてはこれ以上のものはない、私もそう思います。
ただ、そう思うと同時に、現在の日本社会のありさまを考えたときに、こういう疑問も抱かざるを得ないわけです。
(問)
公共図書館と大学図書館の両方に
似たような機能を重複させるだけの”余裕”が、
いまの日本社会にはあるのか?
もうひとつ。
(問)
ていうか、
いまの日本の公共図書館は
そんなに”使えない”のか?
例えば、個人的な経験で言うと、公共図書館の職員の方と電話で話してて「アイエルエル? それ何ですか?」と言われることが、ちょっとビックリするほど珍しくなかったりとか。あるいは、「区立にも市立にも県立にも国立にも、卒業大学の図書館にも全部断られたんです」という一般の方が電話してくるとか。
社会における「知的生産インフラ・知の揺籃インフラの不在」という問題。
我々が、どんな場所のどんな性格のどんな種類の図書館にいるんだとしても、この問題に対して無関係ではあり得ないし、無関心・無自覚ではいられないし、ていうか無関係でいいって言うんだったらこんな職業いらないでしょう、って思います。
それは、「知的生産インフラ」というものによって、「文化資源・学術資源にもとづき、理性的・科学的に思考・判断して、社会・未来を築く」ことが、我々人類にとって必要なことだから、なんだと思います。
まあ、ざっくりとですけど。
半年もすればまた考え変わるかもしれませんけど、とりあえず。
・・・・・・え、10分?
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