2013年12月08日

「ユーザはどこにいるか?」についての考えまとめ -- 2013年的な視点による

 
 なんか今年は思ったよりいろんなことがあったような気がして、もうそろそろまとめ的なことを書かないと年越せないんじゃないか、紅白で千円返してもらえないんじゃないかというんで、なんとなくまとめめいたことを考えてたっていう感じです。

 今年って、特にこういうことを考えてたよなあっていう、3点。

(1) 我々はなぜ”支援”するか
(2) ”ユーザ”とは誰か、どこにいるか
(3) ”コンテンツ”と”メディア”が会う/合う、ということについて

 いやこれ↑は今年に限らずだろう、ではあるんだけど、特に今年は、ていう。

 それで、(1)「支援」はもう下記でおおむね考えた感じなので、

・図書館はなぜ"支援"をするのか : いわゆる「若手研究者問題」に寄せて: egamiday 3
 http://egamiday3.seesaa.net/article/363278785.html
・「図書館はなぜ“支援”するか」. 『大学出版』. 2013.7, 95.
 http://www.ajup-net.com/daigakushuppan

 (2)の「ユーザ」について、2013年的な視点で考えたらこうなった、ていうまとめです。
 キーワードは下記のような感じ。
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・日本専門家ワークショップ@NDL
・若手研究者問題
・武雄市図書館
・「知の広場」(アントネッラ・アンニョリ)
・京都府立総合資料館トークセッション
・大英博物館・春画展
・特定秘密保護法
・博物館紀要問題
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 自分の仕事と立場から、あらためて、ていうか耳タコレベルで言うと。

・(メモ)日本専門家ワークショップ2013 の index: egamiday 3
 http://egamiday3.seesaa.net/article/331591534.html

 国際的に日本の文化を研究する人たちを支援するセンターの図書館司書という立場です。
 海外には、日本について学ぶ学生や研究者、日本の資料・情報が必要なユーザたちがいます。その支援をする現地の図書館・研究機関もあり、専門家もいるでしょうが、やっぱり日本にある資料・日本から発信される情報にアクセスするっていうことが求められるし、求めたいわけです。
 でも、そういう海外からのユーザをデフォルトで念頭に置いている図書館というのはそう多くはないでしょう。図書館に限らず、国内のあらゆる地域・種類の文化機関、学術機関、情報機関、企業、官公庁・自治体等々にとって、海外からアクセスしてくるユーザというのは決して無関係ではないはずなんで、ユーザとしてのご想定お願いします、と。いうのが、あたしの一貫したあれです。

 で、問題になるのは「海外かどうか」だけじゃないよな、ていうのをあらためて意識したのが、いわゆる若手研究者問題です。

・CA1790 - 若手研究者問題と大学図書館界―問題提起のために― / 菊池信彦 | カレントアウェアネス・ポータル
 http://current.ndl.go.jp/ca1790
・我々は「若手研究者問題」を観測できているか : #西洋史WG に寄せて: egamiday 3
 http://egamiday3.seesaa.net/article/362795408.html

 キャリアパスの関係上、一時的にでも大学の籍を離れる若手研究者が、図書館の資料・サービスにアクセスできなくなってしまう。それに対して大学図書館はどうしましょうか、っていう話。
 これが思った以上に関係者からはネガティブな反応が多くて、正直あれえって思ったんですけど、その反応ってやっぱり「ユーザは誰か、どこにいるか」という問題への意識の向けられ方の差に起因しますよね、ていう。実務上・リソース上の制限があるのは当然としても、若手研究者に限らず、学内・学外・海外に限らず、研究者・専門家・一般人の別に限らず、それぞれのニーズとその環境・社会の変化移ろいを、ちゃんと観測して、理解しなきゃだよな、って思うです。

 それをもっと一般化して言えば、「自分たちがイメージする、想定の中だけの”ユーザ像”にもとづいて、図書館のあり方やサービスを設計してないか」、そこを意識的に、反省的に考えたい、ということだと思います。

・武雄市図書館
 http://www.epochal.city.takeo.lg.jp/winj/opac/top.do
・図書館総合展「"武雄市図書館"を検証する」全文 - 激論、進化する公立図書館か、公設民営のブックカフェか?
 http://www.huffingtonpost.jp/2013/10/31/takeo1_n_4186089.html

 そりゃ賛否両論あるでしょう。これはあかんだろうと言いたいところもあればうなずけるところもあり、採り入れたいところもあれば反面教師にしたいこともあり。

 これはあかんだろう、のひとつといえば。
 「この図書館が気に入らない人は、よそへ行けばいい」、という言説です。
 あかんだろうとは思いますが、さてじゃあこれをあかんと言うのであれば、これまでの図書館だって等しくあかんと反省せなんところあるだろう、と。スタバやツタヤやアミューズメントパークのような図書館にだったら、あれだけの数のユーザが来る。それが厳然たる事実なんだったらじゃあ、そうじゃないこれまでの図書館はそういう客層の人たちのことを、果たしてどれだけ”ユーザ”として想定できて/していたんだろう、真摯に向きあってこれたんだろう、っていう。

 「想定の中だけのユーザ像」への反省、ということを考えずにはいられないわけです。

 似たようなことは、武雄さんとはうってかわって業界関係者に大人気の、アンニョリ姐さんの話からも学べると思うんです。

・イタリア語学科主催講演会「知の広場ー新しい時代の図書館の姿」 | 京都外国語大学・京都外国語短期大学
 http://www.kufs.ac.jp/news/detail.html?id=3eae071978e28fb904d9351d5a3ec734&auth=1
・「知の広場ー新しい時代の図書館の姿」アントネッラ・アンニョリ氏講演@京都 20130606: egamiday 3
 http://egamiday3.seesaa.net/article/365519665.html

 複雑化するユーザのニーズに応える、知の広場。
 応えるためには、ユーザを理解しなければならない。
 公共性を持つ文化機関・学術機関であれば、「想定の中だけのユーザ像」について反省し、思い込みや既存の枠組みをとっぱらって、ユーザは誰でどこにいるか、社会の動きや世界のあり方について、真摯に見つめ、理解しようとしないと。

 そういうことを、7月に京都府立総合資料館で催されたトークセッションではお話した感じでした。

・総合資料館開館50周年記念 トークセッション「新資料館に期待する」/京都府ホームページ
 http://www.pref.kyoto.jp/shiryokan/50shunen_talk.html
・ざっくりと、知的生産インフラ・知の揺籃インフラとしての図書館について、考えたことのメモ: egamiday 3
 http://egamiday3.seesaa.net/article/369162745.html
・トークセッション「新資料館に期待する」にて、極私的・心に残ったいくつか メモ (#総合資料館TS): egamiday 3
 http://egamiday3.seesaa.net/article/369447155.html

 新しい総合資料館様におかれましては、一般ユーザ、専門家ユーザ、研究者・大学ユーザのいずれをも受けとめることができるというその垂涎もののお立場を活かし、知の揺籃インフラとなっていただきますれば、あたしも一ユーザとして足繁く通わせていただくことになろうかと存じおります。

 ユーザは誰か、どこにいるか。
 一般・専門家・研究者に限らないし、国内か海外かに限ることもない。
 ユーザが求めるんだったら、どんな資料にも限定しないし、どんな活動・業務にも限定しない。
 「ユーザの無限定性」、それをふまえての「資料の無限定性」そして「活動の無限定性」です。

・大英博物館・春画展への”はじめてのおつかい”: egamiday 3
 http://egamiday3.seesaa.net/article/376964225.html

 羅馬路の道の果てよりもなお奧つ方のグレートブリテンに、美しき国の美しき春画を求める人たち=ユーザがいらっしゃるのであれば、行きます、運びます。だったら、おのれの専門分野が何だろうが館種・立場がどうであろうが、ユーザにとっては関係ない。ずっとお腹痛くても泣き言言わずにやるべきことをやる。そういう職業に就いてるんだということを、ある意味身体で実感しました、っていう。
 もちろん、自分一人・自機関単独でその責務がまっとうできるわけでは決してない。ユーザと資料とその必要性に応じて、他分野・他業界の機関や専門家の人たちと連携する、協働する、共に働く。あたしにとってはそういう人たちはみな、同僚です。colleagueです。課内の人も課外の人も同僚であることはもちろん、他館の人も、他館種の人も、偉大なるブリテンのMuseumの人も、偉大なる都のArchiveの人も同僚。研究者も、サイエンス・コミュニケーターの人も、URAの人も、出版社やwebサービスの人も。どんな活動を行なっている人であっても、疑うことなく自分にとっては同僚です。
 ちょっと逸れましたが、どんな資料を求める人でも、そのためにどんなサービスや活動や専門性が必要な人でも、ユーザに変わりない、っていう考え方の派生です。

 どの国にいる人でもユーザである。
 どんな資料を求める人でもユーザである。
 だったらもちろん、どんな時代に生きる人でもユーザである。そういうことになります。

・特定秘密保護法案に反対することにした - yuki_0の日記
 http://d.hatena.ne.jp/yuki_0/20131204/1386175959

 我々の世界の延長線上にある、「後世の,私のムスメの,あるいは私の孫の世代」の人びととその社会、そのことを真剣に考え想うからこそ、この問題はあれだけの議論になるわけだし、短期的な目で考えるべきではないだろうし、長期的・継続的な議論や検討をたゆまず続けていくべき問題なんだろう、と思うんです。

 ことほどさように、特に図書館業界とその関係界隈というのは、利用者・ユーザというものを下にも置かない。
 まあ個人的意見としては過剰な利用者至上主義はいかがなものかと思うものの、おおむねでは「ユーザが大事」という考え方には何の異論も出ないもんだ、と、思っていました。
 そこで、え?っと思った話がひとつ。

・日本博物館協会、「雑誌記事索引採録誌選定基準の改定等に関する要望書」を公表 | カレントアウェアネス・ポータル
 http://current.ndl.go.jp/node/24947

 確かに、ちょっと物言いなり姿勢としてはどうかと思うところがなくはない。けど、あまりにもあからさまにネガティブな反応ばかりが出たことに、ちょっと驚きました。ちょっと驚いて、やがて悲しき、そして、ああそういえばそうだったなあという感想。

 資料・情報、文化資源・学術資源の入手・アクセスを必要とするユーザは、言わば”受信者としてのユーザ”です。
 受信者側がユーザなら、”発信者としてのユーザ”も存在するはずです。
 図書館その他がメディアとして、媒(なかだち)として、流通のところを担うというんであれば、受信者も発信者もどちらもユーザに変わりない。というのが、あたしのかねてからの考え方です。

 発信者もユーザなんだったら、今回のこの問題はざっくりざっくり言えばアウトリーチの問題だろうと思います。バリアフリーでもいい。
 受信者としてのユーザに対してはあらゆる立場の人、バリアのある人、届きそうで届かないユーザに、手を変え品を変え知恵とおもてなしの心をしぼって、届けようリーチしようオープンにしようとしている図書館業界が、なぜか、発信者としてのユーザに対してはびっくりするほど冷淡になる、という現象について、あたしは前々から感じてて何かと気になってはいましたが、今回それが結構わかりやすいかたちで表面化したなあ、という感じでした。
 この博物館紀要問題へのネガティブ反応については、若手研究者問題のそれととてもよく似た空気感が流れてたな、と思います。まあ、どちらも、いろいろな立場からいろいろな考え方で議論して解決に向かってったらいいと思うので、その議論を阻むようなネガティブ反応は困るなあ、っていう感じです。

 相変わらず長いですが、もう終わります。

 ユーザは誰か、どこにいるか。
 日本だけでなく海外にもいます。学内にも学外にもいるし、市内にも県外にもいるし、過去にも未来にもいる。一般の人もユーザだし専門の人もユーザだし、半専門の人も週末専門の人もいるし、グラデーションです。情報流通の上流にいる人も、下流にいる人も、受信者も発信者も生産者も消費者も、思想の右にいる人も左にいる人も、反対派も賛成派もどっちでもない人もどっちでもある人も、ユーザです。どんな資料を求めるか、どんな文化資源・学術資源を求めるかも限らない。流行りの文化を消費するだけの人も、エンタメしか求めてない人も、いまこの場に、この図書館にいる人もいない人も、それぞれみな、何らかの意味でユーザである、と。ひいては我々が築く社会全体、我々をとりまくこの世界、それそのものもユーザであると言っていい。ていうか、言いたい。

 なんだろな、なんであたしってこんなに「ユーザ」というものにムキになってんだろ、と思わなくもないです(笑)。
 なんででしょう。

 それはたぶん、自分自身を一ユーザとしてとらえているから、だろうと思います。

 自分だって、この世界・社会の一員であり、一ユーザであることにかわりはないです。だから自分自身の問題。自分のいる社会・世界の問題。
 そして、ただいまいる場所やタイミングがちょっとボタン的にかけちがっただけで、どんな立場のどんな種類のユーザになっていたかもわからないし、これからだってなる可能性はいくらもある。
 そう考えると、若手研究者のことも、紀要発信者のことも、遠国の春画を求める人のことも、それを描いた絵師のことも、図書館学徒の娘のことも、スタバ・ラヴァーの人のことも、とてもじゃないけど他人事とは思えない。みな、自分の分身だなあって。

 「ユーザ」を考える、って、そういうことだと思います。



 「じゃあおまえ、自分が好きなだけだろ」って言われると、返す言葉がないので、まあじゃあそれでもいいです。(笑)

posted by egamiday3 at 12:31| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする