2013年12月23日

なぜブックツリーに胸が痛むのだろうか、を考えてみた

 
 メリー・クリスマス!
 というわけで、いわゆる”ブックツリー”です。

 最初にお断りしておきたいのは、この記事はわたくしの個人的・極私的な感覚・感情・感傷にもとづいてその感じ方を記す、という趣旨のものであるので、ここに書いてあるようなことをそうだと思う人もあればまったく心得ないと思う人もあって、いっこうまとまりのつかぬ話になるであろうことは随分承知の上で、なお自分の考えの整理のために書き記しています、ということです。
 目玉焼きは醤油かソースかとか、あちらのラーメン屋は美味くてこっちは不味いとかいう程度でしかないあれです。ラーメンブログです。
 まあつきつめればこれはそういう問題なのかもしれません。

 ↓こういうことがありましたそうです。

 明治大学和泉図書館のブックツリー - Togetterまとめ
 http://togetter.com/li/604802

 ある図書館が書物を積み上げてクリスマスツリーのディスプレイをした。(いわゆる”ブックツリー”)
 それを不快に思う人が少なからずいて、その不快を表明した。
 その表明を受けた図書館が、ブックツリーを撤去した。
 不快に思うことや、その不快を表明することのほうを、不快に思う人も少なからずいて、その不快が表明されている。

 おおむねそんなところ。

 わたくし個人は、ブックツリーの類、例えば問題の写真を見たときに、胸が痛むほうのタイプの者です。
 たぶん不快どころの騒ぎではないです。***か、**、*****、と思います。 

 で、なぜわたくしは「胸が痛む」のか、をちゃんと考えてみようと思いました。
 過去に似たような事件出来事やその写真を見て、「胸が痛む」こともあれば、とりわけては「痛まない」こともありました。わたくし以外の人には「どちらも同じではないか」というような写真でも、わたくしにはまったくことなる感覚・感情・感傷を覚えることがあります。

 それらをわかりやすく並べてみるとこうなります。

【胸が痛まないほう】
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@古書店や自宅で本が乱雑に山積みされている
 ∧
A床が抜けて散乱した個人蔵書
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B書店が新刊のベストセラーをディスプレイするブックタワー
 ∧
 ∧
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(痛む/痛まないの分かれ目)
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 ∧
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C図書館で、明らかに手の届かない高い位置の書架に、閲覧前提でなくディスプレイ目的で本が配架されている
 ∧
D図書館が装飾目的で行なうブックツリー
 ∧
E現代アートやインテリアで、本をばらまいたり積み上げたりしている作品
 ∧
F大量廃棄
G焚書
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【胸が痛むほう】

 いや、BブックタワーとDブックツリーの位置関係おかしいだろう。
 と、おおかたの人が思われるでしょう。そうだと思います。そのあたりが、これがわたくしの極私的感覚にもとづく所以かと思います。

 この”分かれ目”のベースにはわたくしの書物に対するひとつの一貫した考え方があります。
 「著作は人格であり、
  それゆえに、書物は人体である。」
 というものです。

 ↑めんどくさいでしょう(笑)。
 そういうことです、この話は。
 
 ひとつづつ考えます。

@古書店や自宅で本が乱雑に山積みされている
 http://www.dotbook.jp/magazine-k/wp-content/uploads/2012/09/zousyo_seiri01.jpg
 http://www.dotbook.jp/magazine-k/wp-content/uploads/2012/04/2%E5%BC%95%E3%81%A3%E8%B6%8A%E3%81%97%E7%9B%B4%E5%BE%8C1-e1333971666548.jpg
A床が抜けて散乱した個人蔵書

 @なんか、読むこと/読まれることを前提としてそこにある(実際読み切れるかはともかく)以上、何の問題もない。積んでるという外見と物理的状況が単に同じなだけです、意味することなんかDブックツリーとまったく違う。
 Aの床が抜けた蔵書も、抜けるまでは@と同じ。散乱し物理的なダメージを大いに受けたことはとてもとてもいたましいとは思うのですが、本として、その著作は読まれるものとしてあるいは愛されるべきものとしてそこに集められた。その愛は、ちょっとその床には重すぎたかもしれない、奇妙に偏った愛で床荷重として均等でなかったかもしれない。結果としての事故は不幸ですが、気持ちはよくわかる。

B書店が新刊のベストセラーをディスプレイするブックタワー
 http://book.asahi.com/clip/images/TKY201004170124.jpg

 正直いかがなものかとは思うのですがそれでも、そのいかがなものか感はどこか”半笑い”で見ています。なぜならこの書物たちは、物理的には多少無理をさせられているとはいえ、著作としての人格が否定されていることはないだろうからです。著作としてはむしろ大売り出しに値するという前提が先にあり、ていうか売りたいのであり、その著作を求める人がいればこの書店はすぐにでもこのタワーを解体して、是も非もなく求められる著作およびその書物を求めるその人にまちがいなく渡すでしょう。それが書店ですから。著作としての人格が否定されているわけではない以上、物理的な無茶は一時的なものとまだ寛恕できます。

 ここからが胸が痛む/痛まないの分かれ目です。

C図書館で、明らかに手の届かない高い位置の書架に、閲覧前提でなくディスプレイ目的で本が配架されている
 http://egamiday3.seesaa.net/upload/detail/image/IMG_6567.jpg.html
 http://egamiday3.seesaa.net/upload/detail/image/IMG_6558.jpg.html
 http://d3j5vwomefv46c.cloudfront.net/photos/large/755204769.jpg

 写真はバーミンガムと武雄からです。
 とても悲しく可哀相な光景だと思います。彼らはユーザからも図書館側からも、読まれること、手にとって触れられること、その思想情報にアクセスされることを前提ともされず、そこに配備させられて居ります。アクセスされる必要なしとの烙印を、本と著作とその思想と情報を大勢の市民に届け流通させることを存在意義としている図書館から、読者が極端に少ないであろう著作書物にとって社会的に最後の砦とでも言うべき図書館から、その烙印を押されてそこに居るのです。おまえの著作なんか誰に読まれなくたっていいよ、ただツラ構えがいいからそこに置いてやってるだけだ、背表紙だけ見せてりゃいいんだ、と。吉原ですかここは。いや吉原以下ですか。
 でもまだマシです。物理的に安定した取り扱われ方をされてはいるし、求められればすぐにでも何メートルのハシゴなりなんなりが登場するのでしょうから、アクセスを求めて拒否されることはないでしょう。と思いたい。

D図書館が装飾目的で行なうブックツリー
 https://twitter.com/kin_mokusei/status/412904412428787713

 アクセス云々だけでなく、「著作として存在する必要なし」とされ、人格を否定され、尊厳を否定され、その本来のあり方を一切捨ててただ物体としてそこに横たわれと命ぜられた書物が、人体が、そこに積み重ねられ、無邪気にデコレーションされている。
 わたくしは、気持ち悪いです。極私的な感覚にもとづいてだけ言えば、上記のような理由で、憤り以上にただ気持ち悪い。

 ユーザからの手に取るというアクセスに対して物理的以上に心理的に高い障壁を設けているのがブックツリーの構造です。B書店のブックタワーの中の1冊が求められたときには上から順に取ればいいだけでタワーは崩れないという、アクセス可能な構造。図書館のブックツリーは目指す本が中間にあるときそれを取れば崩れますから、崩れることを前提につくっているのでなければ、取って読むことも前提にしていないことになる。たとえ「言われれば取りますよ」と言ったとしても、ツリーの構造自体が「アクセスされることを前提としていませんよ」というメッセージを発していますから、よしんばそんな意図がなかったとしても、アクセスされるべき著作を、人格を否定している、とわたくしには見えます。
 複本とか電子があるとか関係なく、人格を否定した上でその人体を無邪気に積み上げているから、生理的嫌悪感を感じるという。

 クリスマスのデコレーションをしてユーザに喜ばれたいのでしょうか、だったら素直にクリスマスツリーを飾るといい、植木屋や玩具屋も潤ってなお喜ばれるでしょう。
 図書館らしさをアピールしたくて本を使うなら、縦に置いて手に取りたい人が自由に取って持っていける構造にすればいい、そういうブックツリーだってあるはずです。そのデザインに手間暇はかかるかもしれませんがいくらでも工夫の余地はあるでしょうし、ここまできてまさか面倒くさいもないでしょう。
 普段読まれない本を紹介したいならポップを書いて内容を紹介してカウンター前に面陳するといい、いま流行りのキュレーションです、というか我々の本来の仕事です、借りる人が増えれば本もユーザも図書館も幸福の三方よしです。七夕のようにオススメ本や感想文の短冊をつるすというツリーにしてもいい、そういう図書館も実際にあるようです。
 あるいは、このシーズンの一時的なイベントでしかないから、と言われるかもしれない。でもわたくしは、人格を否定し傷つけることなど一瞬あれば充分造作もないことだと理解しています。

 理屈はいいじゃないか、外国でもやってるんだし、そういうことが好きだし綺麗だし面白いからやるんだ、やったらいいんだ。
 わかります、その気持ちは気持ちだけならよくわかります。
 わたくしが極私的に気持ち悪いと感じるのに同様、ただ面白い、楽しい、好ましいという感想を抱く人が少なからずいるだろうことも十二分に理解しています。どちらが正しいわけでも間違っているわけでもないのでしょう。
 そして、ただ好きで綺麗で面白いだけでそれをやるのなら、ただ嫌で不快で行儀悪いと感じるだけの人びとと衝突することは避けられないだろうことも当然目論見の内に入れておかざるを得ない、ということだと思います。衝突してでもやるという覚悟。衝突したくないのなら唐揚げは小皿にとってから自分のにだけレモンを搾るという手間暇コストをかけざるを得ない。
 そして本は唐揚げではない。そもそも図書館の蔵書は図書館のものでもなければ図書館員のものでもない、社会人類の知的生成物を社会人類に確実に手渡すために社会人類から一時的にお預かりしているに過ぎない、そのことを忘れて自分のもの自分たちの持ち物だと錯覚してしまうと読者が少なければその人格を無視して別事別件自分たちの好きなことに転用していいとも錯覚してしまいかねない。図書館はあるからあるわけではないし、蔵書はあるからあるわけではない。それでもなお、ブックツリーというものでしか到底果たし得ない固有の働きが、機能があると、合理的理由があるということなら恥じることなくそう説き諭(ry

 うん、すみません、つい筆がつんのめりました。
 ただ、胸が痛む、という話です。

E現代アートやインテリアで、本をばらまいたり積み上げたりしている作品
 http://www.odditycentral.com/pics/book-desk-is-the-perfect-piece-of-library-furniture.html

 人にはこれがインテリアに、アートに、デザインに見えるのでしょうか。
 わたくしには「人の屍体が積み重ねられている」という地獄画にしか見えません。
 かつてこの写真を初めて見たとき、一目でリアルに吐き気を覚えました。すぐ閉じました。そしてこの記事書くためにまた見てしまったから、いまも気持ち悪いです。

 F大量廃棄やG焚書については、というか、いまちょっと気持ち悪いので、もうこれ以上ダメージを受けるようなことを考えたり書いたりするの勘弁してくださいという感じです。
 ここでF大量廃棄・G焚書を挙げたのは、要するに、Dブックツリーは自分にとってFG寄りの所行ととらえている、ていう。

 ただ、今回の批判から撤去という一連の流れは、議論のあり方としては残念だったかな、と思います。わたくしが不快とか胸が痛むとか気持ち悪いとかいうのは極私的感情に過ぎないということを自覚しています。それとは別に、本当にそれをやる必要がある/やりたいのであれば、それにもとづいて議論をしていいのではないか。議論としては別の様相がもしかしたらあったのではないか、ていう。

 いつか、日本の図書館でブックツリーが市民権を得る日が来るかもしれません。不快に思う人が少数派で多くの人が賞賛し喜び、当り前のようにあのようなディスプレイが行なわれる、そんな冬が始まるかもしれません。場合によっては業務としてわたくし自身がその所行に携わるなどということが、起こらないとも限りません、雇われ人ですから。
 ただ、**************、と思います。







 あと、目玉焼きは塩派です。
 唐揚げにレモンはかけない派です。
 それとラーメン、京都一美味い、ていうか日本一美味いと思っているラーメン屋は、ただ一軒、もうこれはまちがいなくあそこです、細麺で豚骨でそれでいてこってりし過ぎてもいないという、東(ry


posted by egamiday3 at 22:38| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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