http://japanknowledge.com/contents/gunshoruiju/index.html
これって結構なニュースだと思うんですけど、で、それをきっかけにして「web版群書類従セミナー」なるものをやるから、なんかしゃべってくれ、って依頼されたんです。
でもなあ、『群書類従』ってふだん言うほど使うわけでもないし、専門分野でもないからあんま詳しいこと知らんしなあ、とかうねうね思いながら、そもそも『群書類従』ってなんだっけ?ていうのをひととおり勉強してみたんです。
そしたら、とんでもない!
何このスーパー&ハイパーミラクルアンビリーバブルなメガプロジェクトは!
ていうような興奮の中でひと夏が過ぎてっちゃった感じになったので、じゃあ何がどうすげえのかっていうのを、ひととおり書けるだけ書いとこうかなっていう。
たぶんこんな感じです。
(1) おいたち:『群書類従』はどういう経緯で誕生したのか
(2) 評価: 『群書類従』って実際すげえのかどうか
(3) JK: 『群書類従』がJapanKnowledgeに入ったら何が起こるのか
セミナーのスライド資料
http://www.slideshare.net/egamislide/ss-40095942
これはその(1)、まだオープンなアーカイブが珍しかった時代に『群書類従』に生涯をかけた塙保己一の、和学と国学がいっぱい詰まった冒険物語です。
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『群書類従』ってなんだ?ていうのをざっくり説明すると。
江戸時代後期に出版された”叢書”で、平安時代から中世(鎌倉・室町)あたりのを中心とした日本古来の文献・著作が収録されているというもの。
全冊数666冊、収録著作約1300という、当時最大級認定しちゃっていい規模の叢書。
その編纂・刊行をしたのが、聞いたことあるでしょう、塙 保己一(はなわ・ほきいち)という人です。
塙保己一は、事典的に言えば、1746生−1821没、江戸時代後期の国学者で、あらゆる分野の書籍・学問に長じ、和学講談所というのを設立して、『群書類従』を刊行した人。盲人の位としては日本トップの”総検校”までのぼってはります。
目の見えないながら学問を修めた偉人として有名かと思いますが、ただ、この人自身は自分で日記・文書の類をほとんど残してらっしゃらなくて、周りの人がいろいろ書き残してるんですが、これがどうも伝承的というか伝説的というか、師匠をたたえる弟子が語った、ほんまでっか?的エピソードがかなり多い。
例えば、こんなの。
ある晩、弟子を集めて講義をしていたときに、風が吹いて灯りが消えたのを、保己一は気づかず話を続けていたので、弟子「先生、少しお待ちください、いま風で灯りが消えました」。保己一「さてさて、目あきというのは不自由なものだ」。
保己一先生の人物像を端的にあらわした、よくわかる、そしてよくできたアメリカン・ジョークみたいな感じになってますけど。
そういう人が、どういう経緯で『群書類従』プロジェクトを立ち上げるに至ったか、ということなんですが、時系列で確認するために、じゃあ彼の出生あたりからちょっと追いますね。
1746年、武蔵国児玉郡保木野村、いまの埼玉県本庄市に、農家・荻野家の子・寅之助として生まれ(だから塙保己一は本名ではない)、7歳で失明、15歳で江戸へ出て盲人として身を立てるために検校・雨富須賀一に弟子入りする。
盲人として身を立てるというと当時は、針灸按摩といった医療、琴三味線といった音曲、がセオリーだったんですけど、残念ながら彼はそっち方面がてんでダメだった。そのかわりどうやら書物・学問の類が得意らしい、お隣の旗本の松平さんについてよう勉強しとる、というんで師匠が、じゃあYouそっちの道に行っちゃいなよ、って認めたっていう。
例えば。
歌学者・萩原宗固に和歌・国学を学ぶ。
闇斎流神道学者・川島貴林に漢学・神道を学ぶ。
山岡浚明に律令・故実を学ぶ。
孝首座に医学書を学ぶ。
すげえなと思うことのひとつは、分野が非常に手広い。そして、人脈が相当手広く築かれる、ていうのが、のちのち効いてきます。
もうひとつ。これだけの学者が当時江戸の市井にいて、学問しあい交流しあい、そこに特段のエリート階層というわけでもない農家のせがれが加わる余地があった、そういう環境があったという、これがまた『群書類従』がうまれてきたことと無縁じゃなかったろうなっていう。
最終的には、1769年、賀茂真淵に師事し国学を学ぶ。ただその約半年後、賀茂真淵先生は亡くなっておられますので、まあ最後か、最後から2番目くらいの弟子だったのではないかと。
なんやかんや言うてるうちに、自分も教える側にまわるようになり、弟子をとり、昇進して名を「塙 保己一」とあらためる。交流もひろがる、大田南畝とも仲よしだったらしいです、幅広いですね。
そんな彼が、1779年、34歳の時ですが、京都・北野天満宮に誓いをたてます。
私はこれから般若心経を100万巻分読誦いたします。いたしますから、いまからやる国書一千巻の叢書出版プロジェクト、国内の著作を文献調査して書写し集めてひとつの叢書にまとめあげるという、神のご加護でもなきゃ到底出来ませんレベルのこのプロジェクトを、どうか私に完成させてください、ていう。
これが、まあ言わば可視化された『群書類従』プロジェクトの最初の一歩って感じです。
それにしてもなんで彼は、そんなたいそうなプロジェクトを胸に抱いて神に誓いを立てるに至ったのかと。
当時の時代背景を考えますと、”出版”というメディアが技術的にも社会インフラ的にも整備・成熟してくる。その受け手も層として分厚くなる、武家・町人・文化人が身分をこえて学問的に交流しあうようになる。中でも特に、当時「国学」と呼ばれる、日本古来の古典・歴史を学びましょうという流れが盛んになってきてたわけです。
ところがその国学に必要不可欠な和書・古典籍の類、これが入手どころか閲覧すらもなかなか簡単なものではなかったと。たいていの著作・文献は”出版”というかたちでの公開がされてない。良くてもせいぜい、持ってる人に貸してもらって自力で書き写させてくれるくらい。そういう劣化コピーでもまあ閲覧できればましなほうで、いやそもそもたいていは、お公家やお武家や寺社あたりが自分とこで大事に隠し持ってて、見せてくれない。ていうか、あることすら知られてない。そんなんじゃいつ逸失するか、なくなるかわかったもんじゃない。こんなじゃ国学ひとつ学ぶのもひと苦労ではないかと。
要は、当時の日本社会には国産のオープンなアーカイブがまだなくて、世のニーズ増に応えられるような状態ではなかったと。
当時の国学者・村田春海も本居宣長も「国書(日本の文献・著作)の出版・公開されてるものが少なくて困る」ということを書き残してらっしゃる。
それはまるで、「日本の文献や書籍のデジタル化されたものが少なくて困る」という現代の嘆きと同じです。国書の公開を拒む素材とアウトリーチ(参照:https://www.youtube.com/watch?v=qpq9zqf9V1I)、です。
塙保己一さんも同様。これはちょっと後のことになりますが、幕府に「土地貸して」とお願いするにあたっての願書にこう書いておられます。
「近来文華年々に開候処、本朝之書、未一部之叢書に組立、開板仕候儀無御座候故、小冊子之類、追々紛失も可仕哉と歎か敷奉存候」
雰囲気で訳。「近年、国学とか流行りじゃないですか、でも日本には中国みたいな”叢書”がまだないし、写本の状態のままで出版・公開もされてない。これだと、特に1冊2冊の少部数の本ってなくなっちゃいますよね、アカンでしょうそれ。だから『群書類従』出版のために土地貸してくれません?」、ていう。
ていう意気込みで、彼は『群書類従』をプロジェクトとして立ち上げ、実行に移します。
実際に刊行が開始されたのが1786年のこと。当時の「広告文」を大田南畝が書き残してます。曰く、「毎月12冊づつ刊行。期間限定で塙検校宅で予約受付。限定200部です」とのこと。
ちなみに「群書類従」という書名の由来ですけど、どんな概説書・参考図書を見てもたいてい「『魏志』応劭伝「五経群書以類相従」の語からとったもの」と書いてるんですけど、こないだツイッターを見てましたら、いや、『魏志』に応劭伝なんてものはないよと、『魏志』にあるのは劉劭伝だよ、そこには「五経群書以類相従」的なことは確かに書いてあるんだけどね、みたいなことを言うてはって、おおっ、と。で、ネットで公開されてる全文テキストには確かにそうあると。紙とネットとどっちが信頼性あるんだと。まあリテラシーの授業でとりあげるのにうってつけな感じですね。
そしてこの『群書類従』プロジェクトにしろ、そこにあった彼の学問的才能と熱い意気込みにしろ、プライベートなレベルで終わることはなかった。例えば、1789年、水戸藩・彰考館で行われてた『大日本史』のほうのプロジェクトにも参加するようになったと。徳川御三家のプロジェクトですから、幕府レベルで「こいつできる」と認めてもらえたようなものだと。
というような実績をふまえて、塙保己一さんは江戸に”和学講談所”という学問所をつくりたい、と幕府に願い出るわけです。
1793年、塙保己一による和学講談所設立の願書。「寛政の改革からこっち、学問が盛んにおこなわれるようになったのはめでたいんですけど、和学、日本古来の歴史律令的なことを学ぼうとすると、場所的よりどころがなくてまだ手薄なんじゃないですかね。学問所のような機関をあたしがつくって、そこで志のある若手さんに勉強させてあげたいんですけど」
幕府「マネー成立です」
この願書に、幕府はOKを出しますし、それだけじゃなくて土地を貸し与える、資金を貸し与える。あと、やりたきゃ勝手にやればじゃない、この学問所を林家(幕府の学問のトップ)の下に置くことで”準”官的な、半官半民的な立場にしちゃると。
え、なにこのデレ具合、幕府ってそんな気前よしこさんだったっけ?て思うんですけど。
幕府がデレた背景には。
確かに国学はすげえ流行ってる。そこに学問所がいるというのもわかる。しかもそれを言う塙保己一は学問的実績が充分で、会読も校合もすでにやってるし、水戸『大日本史』に参加してるレベル。人脈は幅広くて幕府関係者にも及んでるし、まあ言うと検校だから先立つものもたんとあるはず。
一方幕府側としては、うん、うちとことしても政策的に最近は文系学問で押してきてるから、学問所はほしい、実際昌平坂学問所もつくるし。でも、寛政の改革で朱子学儒教以外は”官”では認めませんてなっちゃったので、おおっぴらに「国学はじめました」みたいなのれんは出せないんだけど、えっと例えば、あたしさっきから「和学」と書いたり「国学」と書いたりしててすげえきもちわるいんですけど、んー、国学が流行っちゃって無視もできないんだけど禁じちゃったしなー、そうだ、「和学」にしちゃおう。ついでに幕府が直でやるんじゃなくて、塙保己一っていう民間人をワンクッション置いちゃおう、みたいな。そんなお役所風情なノリが、どこまでかはわかんないけども、まああったっぽい。
というような感じで、1793年、和学講談所が設立されましたと。
和学講談所は何をやるところだったか。
1、和学の勉強会をひらく教育機関。
2、文献調査と収集をする研究機関。
3、幕府の要求に応じて資料作成をする公的機関。
4、『群書類従』含め文献を出版する出版センター。
教育機関としては、毎月3回、2の付く日は和学講談所の定例勉強会だったそうです、イオンかダイエーみたいですね。
あとは全国に散在・秘蔵されてる古典・文献を、現地に出向いては書き写し集めてまわるという。それは群書類従のためだけではないです。例えば「お公家さんの家の記録・日記類を書写(コピー)して、幕府の紅葉山文庫に納める」というような事業もやっておられました。お公家さんの家に残る記録・日記なんてものは、それこそほぼそれ一冊しかないようなもので、公開もされないし、なくなったり燃えたりしたらそれっきりで、危なっかしいこと限りなしなんだけど、それを我らが1部コピーしますんでそれを幕府の書庫に納めさせてください、そしたら資料保存できるでしょ、ていうようなことをやってはったという。これで最終約300部が納本されてるらしいです。
あとは出版事業ですね、これもガンガンやってはった。
一部ご紹介しますと、例えば『日本後紀』の出版があります。
『日本後紀』っていうのはいわゆる”六国史”、日本書紀から始まる勅撰歴史書というオフィシャルな位置づけの基本文献のひとつなんですけど、にもかかわらず、江戸時代にはこの『日本後紀』ってもう残ってなかったんだそうです。なんかあちこちに引用・抜書されてる文章だけ残っててそれを参照するしかなかった、ていう残念な状態だった。ところがそれを、この和学講談所がどこからか見つけ出してきて、本文を校訂して、木版本として出版しました。全40巻中の10巻分だけしかなかったんですけど、それでも、それまで失われてて誰も参照できなかったようなオフィシャル基本歴史書が、出版というかたちでオープンにされたわけですから、これってめちゃめちゃすげえなって。すげえなって、思うんです。
思うんですけど、ん?と思うことがひとつあって、この和学講談所出版の『日本後紀』がどれを原本にしてるのか、その底本がなんかはっきりしないっぽい。最近のこの件に関する論文読んだんですけど、「三条西家の本と”思われる”」みたいなこと書いてあって、え、誰が何を見て出版したのかとか、記録されてないの??ってキョトンとなるわけです。
このへんの、え、それってどうなの?みたいなノリがちょいちょいあって、のちのちの『群書類従』自体の評価にも響いてくるんですけども。
ともあれ、資金繰りとか倉庫不足とか大火の危機とか紆余曲折をのりこえて、最終、1819年、正編全冊の刊行を終えました。
保己一、御年74歳。総経費は現在の貨幣価値で十数億円ともいわれてます。
同時代の文化人はほとんど手放しの絶賛です。
大田南畝「和書がばらばらになって失われてしまうのを嘆き、校訂して世に伝えようとした」『一話一言』。⇒”集積”
平田篤胤「これまで各所に秘蔵されていた、たいていの人が見聞きしたことのないような古書が少なくない」『古史徴開題記』。⇒”開放”
高田与清「学者たちがたやすく古書を参照できるようになった」『擁書漫筆』⇒”アクセス”
青柳文蔵「これによって不朽のものとして伝えられる」『続諸家人物志』⇒”保存”
集積。開放。アクセス。保存。
オープンなアーカイブがここに構築されたんだなあ、と。
ただ、やっぱり若干のクレームもあります。
本居宣長「板本なのだから世間に広く出回ってほしいのに、いまだに書店で目にしたことがない」(本居宣長の石原正明宛書簡)
そう、前述のように「期間限定、200部、塙検校宅で予約受付」という扱いで、どうも一般書店での流通まではかなわなかったみたいです。
せっかく機関リポジトリ立ち上げてるのに、CiNiiに載ってない、みたいな感じですね、せちがらいですね。
さて、その後の『群書類従』と塙保己一ですが。
正編完了から2年後の1821年、塙保己一はこの世を去ります。
なくなった後も『群書類従』事業は続きます、というのも、『続群書類従』という続編があって、これはすでに1795年、正編と併行してすでに企画・着手がされていまして、塙家の息子・忠宝が保己一の遺志を継ぐわけなんですが、これが難航してなかなか完成しない。息子・忠宝が暗殺されて(暗殺!?)、孫が継いでも完成しない。明治になって和学講談所が廃止になっても完成しない。明治になって活字・洋装本が出版されるようになっても完成しない。最終、”続群書類従完成会”というある種みもふたもない名前の団体ががんばって完成させました。
ちなみに、活字本はいろんなところから複数刊行されてるんですが、現在もっとも普及して我々が一番手に取りやすいかたちで出版されてる活字本が、この”続群書類従完成会”によるものです。あの青い製本のやつ。
その”続群書類従完成会”も残念ながら2006年に閉会し、以降、八木書店さんが販売を継続し、オンデマンド出版なんかをやってて、で、今日にいたってJapanKnowledgeに『Web版群書類従』を搭載することになりました、と。
これが、現在に至る『群書類従』の生い立ちですね。
もうひとつ、『群書類従』を現在に伝える”温故学会”という公益社団法人さんもあります、という話です。
公益社団法人 温故学会
塙保己一史料館
http://www.onkogakkai.com/
1909年、渋沢栄一なり塙家のご子孫なりがこの”温故学会”を設立しまして、福祉事業とか啓発事業とかもろもろやってはるんですが、ここが、江戸時代当時の『群書類従』の板木現物をしっかり管理・保存してはる。いや、保存してるだけじゃなくて、いまも注文に応じて現役で和装本を刷ってるっておっしゃるから、ちょっと驚いて。
で、驚いたんで、あたしちょっとそれを見に行ってきました。
東京・恵比寿駅と渋谷駅の間くらい、國學院大學さんのすぐおそばにこの温故学会・塙保己一史料館というのがありまして、入り口開けて、箱に100円入れて、横にある次のドアを開けると、もう直で↑この板木、っていう。あまりの不意打ちで軽くビビりましたけど。
ここに当時の現物の板木17000枚が保管されていて、オンデマンドで刷って綴じて販売してると。例えば大学の先生がゼミのテキストにこの巻だけを10冊20冊注文する、みたいな感じでやってはるらしいです。ただ、この板木って1957年にすでに重要文化財に指定されてる大事なあれなんで、刷るときは他所へ持って出さずに、ここに来てもらってここで刷ってるそうですが。
というのが、塙保己一大人と『群書類従』の、約300年にわたる長いお話になります。
補足トリビア。
群書類従の板木は「20字×20行」のフォーマットになってます。これが、いまの原稿用紙の原型ですね。
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