2016年12月16日

#JAL2016 その3 : 「指摘→反省」無限ループからの脱出、あるいは、”研修論”的なものの序奏として(「日本美術の資料に関わる情報発信力の向上のための提言」を受けて)


 2016年12月9日におこなわれたワークショップ「日本美術の資料に関わる情報発信力の向上のための提言III」(海外日本美術資料専門家(司書)研修・2016)に関する、3部構成で考えたことの、ラストです。

 JAL2016・その1、では、海外の日本美術司書・専門家から、日本のデジタル資料発信に対する提言がありました。
 http://egamiday3.seesaa.net/article/444773560.html
 JAL2016・その2、では、その提言を受けたコメンテーターとしての自分のまとめとコメントを記しました。
 http://egamiday3.seesaa.net/article/444864713.html

 問題は、今回受けた提言が、
  ・英語/ローマ字化が必要
  ・オープンアクセスが必要
  ・ポータルが必要
  ・海外ユーザを知ることが必要
  ・交流・ネットワーク作りが必要
  ・コラボレーションが必要
 という、どれも常日頃から繰り返し繰り返し言われていること、今回”も”受けた提言ばかりで、率直な感想としては「はあ・・・また同じことを言わせてしまった・・・合わせる顔がない・・・」という類のものだったということ。

 ためしにざっと見してみての、去年と今年の生き写し感。
  2015年 http://egamiday3.seesaa.net/article/430552792.html
  2016年 http://egamiday3.seesaa.net/article/444773560.html

 この「またもや感」、抜け出せないループ感を、どう考えるべきかと、汝をいかんせんと。
 そういう想いに端を発し、JALに限ったことではない、この類の研修そのもの提言そのものについて、自分なりに考えたことを「AJAL・研修全体を受けて」として当日しゃべってきましたので、そのディレクターズ・エディションとしてのJAL2016・その3です。


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■AJAL・研修全体を受けて

 で、みなさんから受けた提言なり問題提起なりが、3班とも、そして2年とも、だいたい同じ感じの内容だったということを受け止めたときに、2つの問いが自分の中に浮かんだわけです。
 ひとつは(このJALプロジェクトに限らず一般論として)「この手の研修というのは、役に立っているんだろうか?」ということ。
 もうひとつは、「我々は、指摘→反省のループに陥っていないか」ということ、です。

 この手の研修。
 私もよく受けました、なんかあちこちから集まって、具体的に教わったりだけでなく、どこか見学行ったり、人の話聞いたり、そのあとでグループワークやワークショップ的なことしたりして、っていう感じの。
 そういうのについて「この手の研修というのは、役に立っているんだろうか?」という問いを立てたとき、座学的なことはホームでやったらいいじゃん、見学なりなんなりってだいたいネットで済むじゃん、グループワークだってしょっちゅう催されてて、それを数日屋内に籠もってるのわざわざ遠くまで出向いてやるの? みたいなことはいまどきはある程度言えてしまえるかもしれない。

 ですけど、実際にグループワークに取り組んでいるのを傍らから拝見してるとわかるし、また「研修どう?」って当事者と話してみてもそうなんですけど、なんというか、日常業務から遠く離れて、非日常の環境の中で、ひとつの何かに腰を据えて取り組む、っていうそのリフレッシュ=非日常の効用っていうのはおそらくまちがいなくあるな、とは思うんですね。その非日常さ加減は、場所が違う、環境が違うっていうのもそうだし、だから思考も発想もフラットになるし、肩書きや立場も切り離して受講者同士でフラットに(研究者も司書も館長もボランティアスタッフも国・年齢・語学力関係なく)相対して、話して、考えて、共同作業する、(なによりも)日常業務から離れて。
 そこで、新しい発想を得られて、あ、良かったな、いままで自分だいぶ凝り固まってたのわかったな、ていう経験もまた私自身何度かあります。ていうか、今回のJALプロジェクトでのグループワークに私は参加してませんけど、横で半日その様子をぼーって見ていただけなのに、なんか新しいことに気付けた、みたいな非日常の効用得られましたので、それだけでもありがたいなって思いますね。

 ただ問題は、「非日常」は≒で「一過性」になりかねない、ということでしょうか。
 一過性で終わるおそれ、日常に戻ると効用がリセットされるおそれ。っていうのはもしかしたら「研修」というものが生来逃れ得ない難点なのかもしれないな、って思います。
 「研修」というものに懐疑的な説がとなえられるのは、日常への還元が担保されていないことへの怨嗟なのかもしれないですね。

 ですので、研修を受ける側にしろ設ける側にしろ、一過性に終わらせないための努力・工夫・問いかけは必要なんだろうなと。
 非日常から日常へ戻ったあとで、では、次の展開は?継続性は?と。 成果を日常にどう活かすのか?還元するのか?と。

 じゃあ、ですけど。
 受講生が研修で得たものを日常に活かしに帰るのは、それは当たり前でしょう、今回のJALに参加なさったみなさんも帰国後それぞれ活躍・活用なさるんだと思います。
 問題は、研修の成果たる「提言」の束を受けとった、日本側の継続性は? ということになるんじゃないかと。

 例えば、2015年のJALプロジェクトにおけるワークショップ(http://egamiday3.seesaa.net/article/430552792.html)でこんな話がありました。
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例:「Artstor」(http://www.artstor.org/)のような、国際的なポータルサイトに参加してデータを提供してほしい、こういうところで見つかりやすくアクセスしやすくなるように。(Artstorに載っている日本美術作品は、日本以外の機関からの情報ばかり)
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 この方が再来日してはったんで、一緒に1年後の現状を再確認したんですが、やはり日本の機関から提供がされているようには見えず、大英博物館やメトロポリタン美術館の収蔵品が目につくといった具合でした。
 だったら、この方が2015年に出してくださったこの指摘・提言、これって、どうなるんだろう? どうなっちゃったんだろう?って思うんですね。

 英語/ローマ字化が必要、オープンアクセスが必要、ポータルが必要、海外ユーザを知ることが必要、交流・ネットワーク作りが必要、コラボレーションが必要。どれも、海外の日本研究関係者と話をし始めると数分後には登場するような指摘で、日本研究司書研修でも、CEALやEAJRSのような会議でも、日本でやる講演やシンポでも、ネットでも日本人同士でも、話題になる。
 そもそもこの研修って、10人近くのプロフィールバラバラの人たちが、初対面で集まって、それを3班に分けてそれぞれで意見出しさせたら、↑のような似たような提言が出て、それが2年やっても似たようだったと。じゃあそれって、もう”正解”ですよね、提言として疑いようがない内容なんだと判断していい。

 そうやって海外の日本関係者から提言を受け、あ、そうですよね、ほんとなんとかしないとと思います、と反省し、また別の機会で指摘を受け、うなずき、指摘を受け、反省し・・・というのを、秋の東京で、冬の精華町で、春のシアトルで、梅雨の同志社で、夏のブカレストで、秋の桂坂で、そしまた冬の東京で、精華町で・・・。
 え、これいま無限ループ中ですか?と。
 いま何周目ですか? 何度やっても同じルートですか?と。
 という想いで、おります。

 ここまでくると、これはもうJALプロジェクトとか研修がどうのコメンテーターがどうのとかいう話じゃないですね。
 私自身の、日常的な、反省。
 それをいま開陳しているところ、という感じになってます。

 という反省ばかりしていてもしょうがないんで、じゃあどうするかっていうあれなんですけど、業務上の反映努力はもちろんとして、例えば、ループになってもいいからひとつでも多くのパネルなりシンポジウムに出ます/開きます、そこで発言します/司会します、とか、例えばさっきの「Artstor」の例なり去年の提言なりを、なんか呼ばれてしゃべれって言われた場所(http://www.kantei.go.jp/jp/singi/titeki2/digitalarchive_kyougikai/index.html)でがんばってしゃべります(http://egamiday3.seesaa.net/article/440674083.html)、とかいうことをやるんだけど、もうひとつの大きな問題点があって、この種のこと、つまり「日本資料の情報発信力の向上」とか「デジタルアーカイブがどうのポータルがどうの」とかいうことって、一部特定の業種・業界だけでがんばって解決・成就するような問題じゃなくて、広くいろんな業種・立場の人が総出でちょっとづつでも元気玉を出すようなやりかたじゃないとあんま回っていかないタイプの問題じゃないかと思うんですよね。
 あたしは、いわゆる世論というものの持つ力についてはどっちかというと懐疑的な気質ではあるんですけど、それでも、世論の醸成みたいなものがないと、継続的/本質的/腰の据わった問題解決にはならないだろう、とは思います。

 というような右往左往しながら考えたことを踏まえて、当日はコメンテーターとして「「提言」のための”提言”」なるものを提言してきました、という感じです。

 その1。
 この種の提言・指摘自体の発信力、というのはどうなんだろう、高められているだろうか、と。

 先述のように、多業種多方面の同意と世論の醸成が必要だとするんだったら、この「提言」自体にどれだけ情報発信力を持たせて広く届ける、説いてまわることができるだろうか、と。こういう指摘がありました、提言が出ました、っていうのを実際聞いてるのは誰なのか。というのは、いったん問われるべきことではあろうなと思います。
 これは本プロジェクトの今ワークショップに限った話ではまったくなくて、例えば北米の日本司書が集まるCEALやNCCでこういう話題が出てこういう問題意識が持ち上がった、ていうのが、じゃあ日本の図書館業界にどうやって届いてるだろうか、と。あるいはEAJRSでどんなディスカッションがあったのかというのが、届いているかと。その問題を解決する力のある人や、同意が拡散する場の人たちの目に触れているだろうかと。
 っていう話になってくると、これはよく問われる「日本の情報発信力」の逆転問題になってきます、つまり、日本側というユーザ・情報受信者に、海外の声は、どう届いているか、どう届けるべきか。PDFがどっかにポンと置いてあるだけで届くだろうか、英文の記録だけで読んでもらえるだろうか、情報発信はリアルタイムだろうか、SNSや動画を活用できているだろうか、Googleフレンドリーだろうか、日本の図書館員がふだん目にするところに出現しているだろうか。これこそ、デジタルでオンラインでオープンで、が実現できているかが問われることになってしまいます、わかる人ならわかる、知ってる人には伝わる、というような祇園の小料理屋ならぬ世界の入りにくい居酒屋状態では、日本の多業種多方面の人たちに援軍になってもらうくらいの理解を得るのはなかなか難しい。
 (もちろん、その指摘・提言が日本側の催しで出たのなら、その発信力は日本側の問題ですが)
 
 ブログ書きながら気づいたんですが、あたしがコメンテートで当日一番言いたかったのは、本当はこの「海外側から日本側への情報発信力」のことだったのかもしれないです。ですが、多分言いそびれてる気がする(涙)。
 でも実際のところ、例えば海外側からこんな指摘が、こんな議論が、っていうのを日本側に伝えようとしたときに、そういえばその記録は? 文献は? 情報発信は?って探してもネットに見つからないことってよくあるので、そのへんの足りなさってどちらのお国もある程度いっしょなのかな、って思いますね。

 その2。
 受けた日本側の反応をどう示すか。
 どう示すかの試みとして昨年度2015年のJALプロジェクトでは、海外受講者の提言を受けた日本側実行委員の「応答」が報告書に掲載されました(http://www.momat.go.jp/am/wp-content/uploads/sites/3/2016/04/J2015_350.pdf)。ただ、このままだと2016年も同じ文章が並びかねないところはあるので、じゃあ別の試みはないだろうかというと、”アンサー・シンポジウム”はどうですか、っていうことに思い至るわけです。

 (報告)アンサー・シンポジウム「日本の大学図書館員の論じる世界の大学と図書館」7/1(金)で、司会をしてきました。: egamiday 3
 http://egamiday3.seesaa.net/article/439705004.html

 時間的な問題で実現するのは難しいところはあるかもしれませんが、例えばこういう海外の関係者を招いて指摘提言してもらうシンポなりワークショップを開いたら、そのあとで、会場にいる日本側関係者数名を壇上にあげて、30分くらいでもいいから、海外側からの声を受けてのディスカッションをやる、っていう。それは、指摘提言してくれたみなさんへの返礼でもありますよね。
 あのアンサー・シンポジウムイベントの発想は、今後どんどん普及させてったらどうかな、って思います。まあ、あれです、しゃべりたくてうずうずしてるタイプの人なんてたくさんいるでしょう。

 その3。
 指摘提言を引き受けて実働できるような、”ポータルな集団”を組織する事が必要。
 これは風呂敷広げただけでとどまってしまうんですけど、備忘に。
 結局、何かしら問題があって声が上がったときに、その声をどこへもっていけばいいか、っていう場がなくていつのまにか雲散しちゃうので、デジタルコンテンツの”ポータル”もさることながら、活動・集団の”ポータル”というか、ワンストップな窓口というか、責任・権限の所在と専門性を兼ね備えた専門家集団が、多業種多方面の横断的なつながりをもってコラボレーションしていけるという、んー、何を言ってもふわっとしてて整理つきませんが、そんな感じのやつです。
 で、問題は、そういうのを特定のどこそこにやらそう、ってなっちゃうとたぶんうまく行かなくなるんだろうな、っていうあれで、どこそこの省庁にとかどこそこの機関にとかどこそこのNDLさんにとかいうのになると、任されたところが疲弊し、いっぽうで任されないところが問題意識低調になり、そのうちそこと関わりの希薄なところにまた別のポータル機能ができ、さらに別にもでき、たくさんのポータルが縦割り個別に散在し、しかもそういうところはおおむね公的機関であって、故にリソースは削減傾向で維持に困る、そんなことになっては困るので、どこか特定のところに依存しない専門家集団みたいな仕組みづくりって、無理かなあ。

 っていうあたりまで夢想して、力尽きました。
 このコメンテート(JAL2016・その2+その3)は、受講者3グループのプレゼン(JAL2016・その1)を前日に聞いてから寝る間を惜しんだ特急で準備したあれなので、粗々した放言どまりではあるのですが、一応、「この手の「研修」はどうデザインされるべきか」をほんとの問いとして念頭に置きつつの感じでやってたあれで、この問いについては長期的な視点で今後も引き続いてうにょうにょ考えていく所存のやつです。

 その引き続いて考えるののヒントを大きくいただいたのが、グループ・プレゼン後のディスカッションのターンです。
 例えば、解決には時間がかかってもいい、との発言の一方で、特に若い世代は自分の将来の見極めのことを考えると、環境整備にそんなに何年も待ってられない、当座やつなぎでいいから何らかの対応が素早さでもってとられるべきでは、という若い世代ご自身からの要望は、確かにおっしゃるとおりだと思ってて、先を見据えての長期的な醸成もいるんだけど、短期で得られる返報という”飴”がないと、長期での闘いもやってられへんって感じになるので、そこ込みでデザインしていかなな、っていう。

 デザインつながりでは、「実行委員会で提言内容の実施に向けての働きかけまでやるべきじゃないのか」というご指摘もあって、今回のような「研修」の例で言えば「次への展開」「継続性」を云々するのであれば、それも込みで研修全体をデザインする必要があるんだな、と。
 そういう意味では、”後”のデザインが次への展開や継続性なら、”前”のデザインとは?ということなんですけど、これをコラボ・ネットワークの文脈で言うなら、何かしらの事業を企画し計画し運営し始める段階からできるだけ海外側に加担してもらって、成就するかしないかわかんないけど、とりあえずやいのやいのやる、ていう過程のほうがよっぽど意義のある成果なんじゃないかな、って、その2に書いたように思いますね。実際JALプロジェクトもどこかしらそういった感はあったし。

 「楽しい」って、そういうことかな、と。
 まあ、それは最終、研修に限らず、日本⇔海外がらみの事業にかかわらず、あらゆるプロジェクトの類でそうなんだろうな、と思います。

 そのことをやることの意義は、そのこと自体というわけではない、っていう禅問答みたいな一般論を確認したところで〆る感じです。

 最後に、受講者のみなさん、お世話くださったJAL事業関係者のみなさん、そしてegamidayのクセが強く翻訳しづらい内容のプレゼンを受講生に伝えてくださった通訳のみなさんに、厚く御礼申し上げます。



posted by egamiday3 at 00:05| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする