2017年10月03日

期待の行方 : 『ポストデジタル時代の公共図書館』(勉誠出版, 2017)を読みながら考えたことのいくつか


 図書館って、なんだかんだ言っても、世間様から大なり小なりの”期待”を寄せていただいてるんだなって、そういう様子をちょいちょい見かけます。もちろんそれは、この業界に浸かってる者のひいき目なんだろうとは思うんだけど、それを若干さっぴいても、まあ、”期待”的な何かをちょいちょい目撃するかな、という感じです。「ボードゲームで地域交流」だの「3Dプリンタのあるラボラトリ」だのっていう話題が出ると、昔気質の従来型の図書館の姿とは一見似ても似つかぬようなものが期待されてるんだなって、それは「図書館というものは、こうあるべき」という期待のされ方というよりは、「まあ図書館がやるならそれもありじゃね?」とか逆に「それの持って行き場は図書館でどうか?」とかいう、”図書館ならその受け皿になってくれるんじゃないか”的期待。それを、寛容さとか懐の深さというような言葉で言っちゃっていいのかはわかんないけど、例えば、夏休み明けの小学生に居場所はここにあるよと呼びかけるツイートが賛同されたのも、”図書館なら”期待、みたいなもんじゃないかなと思うんですね。
 こないだなんかNHKで、終業後まっすぐ帰宅したくないサラリーマン、などという(個人的には知らねえよ勝手にしろよてかさっさと帰れよ的な)ものが紹介されておったりもしたわけですが、そこでのコメント曰く、「夜も開いている図書館がほしい」と。そんな(個人的にはどうでもいいよ的な)ところからも需要があると、図書館はあらゆる者を寛容に受け入れてくれるところだというかたちの期待がされてるんだな、って思たです。
 なんですけど、ただ、あれヘンだな?と思ったのは、夜も開いてる図書館くらいいまどきふつーにあるだろうっていう疑問で、これなんだろう、実際には開いてる図書館あるのにこのコメント主のところまでそれが知られていなかったアピール不足パターンなのか、あるいはそのコメント主の界隈の図書館さんは開けれてないっていうリソース不足パターンなのかですね。いくら寛容さや受け皿を期待されるだけされたところで、図書館だってその他の公共機関だってそのリソースは無限なわけじゃないので、何かしらの制限がどうしたって出る。で、例えば制限無く開館したろうといろいろと模索した結果、例えばじゃあツの付くレンタル業者と手を組んでのキラキラ図書館でアピールする、客寄せする、というような選択をする自治体さんだって、まあ、出てくるわけですよね。そしたら今度はそれが、そんなものは自分たちの理想の図書館像と違うぞ、自分たちサイドの期待を裏切られたぞって、炎上しちゃうっていう。
 あちこちからいろんな期待をされることは、それはもちろんありがたい話ではあるものの、あの期待もこの期待もとぶつかりあったり、あっちサイドの顔もこっちサイドの顔もうかがったり、キャパオーバーな期待に応えられるほど、果たして図書館は無限に”寛容”で”受け皿広く”いられるかっていうのは、理念上はともかくリソース上はどうなんでしょうねっていう感じです。

 期待するだけはタダなのか。
 期待するだけ無駄なのか。

 えっとなんだっけ、前置きが長くなりましたけど、ちょっと機会があって『ポストデジタル時代の公共図書館』っていう本を読んでいろいろ考えることがありましたので、そのことをささっと書き残しておこうっていうあれです。

ポストデジタル時代の公共図書館 (ライブラリーぶっくす) -
ポストデジタル時代の公共図書館 (ライブラリーぶっくす) -

 ていうのも、「期待に応えきれていない」という意味でいま現在の日本の図書館にとって最大最弱最頭痛的な課題は、デジタル対応ですよね、っていう話です。まあこの9月だけでも、京都のアーカイブサミットと言い、オスロのEAJRSと言い、もはや悲鳴です。なんとかならんのかと。ていうかこの本自体でも「古色蒼然として、変革を前に思考停止している」(まえがき)とか、「デジタル情報環境に対する「消極性」への危機感」(あとがき)とか、まああちらこちらで悲鳴があがってるという感じです。
 この本で言う「ポストデジタル時代」っていうのは、どうやら「2010年以降のポスト電子書籍であり、ナショナルアーカイブ構想の進むネオ・デジタル時代」(まえがき)なる時代を指すそうなんですけども、なんていうかな、もう21世紀も5分の1が経とうかというこのご時世になって、いまだに公共図書館で電子書籍ひとつ満足に読めやしないとか、想像した以上にしょぼい未来だったなって思いますね。別に自動車が空飛んでなくてもアンドロイドがお茶くみしてなくてもいいから、電子書籍くらいどうにかなってろよ、っていう。

 どんな内容の本かっていうのはまあざっと読んでいただければだいたいわかると思うんですけど、ざっくり言うと、前半が「電子書籍」の話で後半が「デジタルアーカイブ」の話だったな、という感じです。この本が出る以前のそもそもの企画が「公共図書館と電子図書館」だったらしいので、それを聞くとああまあたしかにこういう構成の本になるだろうなとは思うんですが、ただ、それ無しでフラットに『ポストデジタル時代の公共図書館』というタイトルだけ見ると、あれ、ちょっと期待してた内容と少し違ったな、とは思いますね。
 ひとつには「ポストデジタル時代の公共図書館」と言えば、おっ、じゃあまずはウィキペディアタウンの話題なんかから始まりますか?っていう期待をしちゃう。でもさにあらず、電子書籍やデジタルアーカイブのような”コンテンツ提供”に特化した話だったなというところ。
 もうひとつは、例えば前半の「電子書籍」パートのところなんですけど、章を追いながら読んでたら、出版事情から見る電子書籍、アメリカの電子書籍事情、日本の大学図書館の電子書籍事情・・・、ん? 日本の公共図書館の電子書籍事情が丁寧に解説されているというよりも、むしろよそではどうか、周辺ではどうか、っていう話がずいぶん丁寧じゃないかしら、って思うんですね。だからこれって多分、「”ポストデジタル時代の公共図書館”について論じた本」というよりは、「ポストデジタル時代の公共図書館”を実現させるために、公共図書館関係者に読ませる本」ということなんだろうな、って、あたしは手前勝手に理解したわけです。
 でもって後半、「デジタルアーカイブ」に話の重点が移ってくるといよよますます、”公共図書館”だの”図書館”だのの枠組みに閉じこもったところでそんなもの意味無いわけであって、ありとあらゆる業界・界隈・機関種の各事情が入り混じりという感じになってくるわけですよね。だから「共存・連携することが、公共図書館の新しい可能性を開いていく」(第7章)ということを、まず、大前提の基本理念としてもらわなきゃいけないわけなので、やっぱり「ポストデジタル時代の公共図書館”を実現させるために、公共図書館関係者に読ませる本」なんだな、っていう感じがします。

 みたいなことを言うと、ていうか言いすぎると、例えばあたしさっき「図書館はデジタル対応という期待に応えられていない」とみたいなこと書いたような気がするんですが、そうすると一方で、「いや、利用者の多くは図書館にデジタルを求めているわけじゃないんだ、そういう期待の対象じゃないんだ」的な、本気なのか逆張りなのか牧歌的なのかわからない反論を耳にすることも、まあ無くはないわけです。本書でも、デジタル対応が進まない要因のひとつは「図書館員という「人の壁」」(第7章)だとおっしゃる、それがどこまで当たってるのか当たってないのかは公共図書館業界に身を置かないあたしには実のところわかりませんけども、例えばその無言の表れのひとつが、「文学部生にしか司書課程を履修させないような大学がある」ってことじゃないかなと思いますね。いや、そんなことやってる限り、この業界に未来なんかないだろう、と。じゃあ仮に、仮にですよ、本当に「図書館にデジタルは期待されてない」んだとしたら、だとしたら、っていうかだからこそ、最大の問題は「なぜ世間は図書館にデジタルを期待しないのか」ってことじゃないですか。仮にも資料・情報・メディアといったものを長い年月かけて抱え込んできた公共機関が、これから先のご時世においてデジタル面で期待されなくなったら、それこそ終わりじゃないですかね。
 というようなことを日々自己反省の材料にもしながら、寄席(大学)で高座(司書科目)にあがって学生さんの前で噺(講義)をしてる、というような状態ではあります。さっき「文学部生しか」なんて失礼な物言いしましたが、いまどき文系理系を問わず学生さんたちはスマホファーストなわけで、じゃあその学生さんたちの手元のスマホに充分に資料なり教材なり届けてあげられるか、って問われると、まあそこについては、司書としても講師としても忸怩たる想いがありますよね。そこ、やってかなきゃっていう。

 この本を読んでて、まあこれも自分の勝手な期待ではあったものの、その期待に応えてくれなかった点があるとするなら、ですが。ちょっと前の話に戻りますけど、ほとんどが電子書籍やデジタルアーカイブといった、コンテンツ提供の話に終始してたのかな、ってところですね。タイトルだけから見れば、ウィキペディアタウンに1章浸かってたっていいくらいのタイトルの本だったんじゃないかと思うんだけど、そうじゃなかったっていう。
 だってそもそも、いやさっきこの口で電子書籍ひとつ満足に云々って言ってはいましたけど、別に最終的には電子書籍が読める読めないで終わる問題じゃおそらくないわけですよね、ポストデジタル時代の図書館、ていうか社会、っていうのは。そもそも、「本」っていうのはなんですか、ただ単に消費者の読書活動を満たすだけのものですか、もしそうなんだとしたら伊藤さんが第2章でおっしゃってるように、いまのこのネット社会においては「出版者、書店、図書館という仲介は、必ずしも必要ではな」いわけですよね、作家と読者をダイレクトに結んでコンテンツを届ける仕組みなんてものは、いまネット上にとっくに整備されてます、だから電子書籍が図書館で読めなくったって誰も何も不便不自由に感じてない、という意味ではそりゃたしかに期待はされてないでしょうよ、と。
 でもそうじゃない、このポストデジタル時代の社会において、個々人の知的活動というものにパワーがあると信じるのなら、そのパワーが真に発揮されるのは、読書によるインプットによってだけでなく、アウトプット・活用によってこそでしょう、と。そっちに期待しましょうよ、と。そのパワーの源泉を掘り起こし、畑を耕すために必要なのは何ですかって言ったら、潤沢な素材にアクセスする機会を提供すること、だけじゃなくそれに加え、適切なスキルとリテラシーを育む場を提供すること。それこそが、ポストデジタル時代(もうだんだん「ポストデジタル時代」って言いたいだけになってきてますが)の図書館に、税金使って公共に奉仕する機関に期待されてる役目なんじゃないかなって。ていうか実際期待されてなかったとしたら首根っこひっつかんででもそういうことを期待してくれって説得すべきところなんじゃないかな、って思うんです。だからこその、いま現在ならウィキペディアタウンが議論の端緒にできたのでは、っていう。
 そういった意味で、やはり伊藤さんが第2章で紹介してたアメリカの「紙のない図書館」。そうですよね、よく考えたら物理的に紙の本をもたない図書館が2館も3館も建てられるのって理にかなってないじゃないかと思うんですけど、その「紙のない図書館」が「地域の利用者の学習と交流の場を目指している」というあたり、ははあんなるほど、”紙の無い図書館”のほうがよっぽど”紙に固執する図書館”よりも何が”図書館的”かってこと本質的にわかってはるやん、って思うわけですね。つまり、ポストデジタル時代の我々に突きつけられているのは、デジタルを採るのか採らないのかという問いではない、そもそも図書館とは何のためにあり何をするところなのか、という問いだったんだ、ていう。
 そういう意味では、図書館はなぜ資料情報を無料で公共圏に提供するのか、と、なぜそれがデジタルである必要があるのか、とは、ニアリーイコールだよなって思います。

 最後に。では、この本のデジタル化はどうなの?という話です。
 ひととおりざっと読んだところ、第2章の伊藤さんの論考、あの『情報管理』に燦然と輝く名論文「電子書籍貸出サービスの現状と課題 米国公共図書館の経験から」(http://doi.org/10.1241/johokanri.58.28)を、あろうことかさらにパワーアップさせた代物で、前半・電子書籍パートの間違いなく中心的存在、論拠となる統計も参考文献も豊富だし、逐一URLも書いてくれてるわけで、こういうのをこそ大学での講義でぜひとも教材に採用したいわけです。ですが、じゃあこの章を学生さんたちに電子で、かつオンラインで、お手元のスマホにどうお届けできるか、っていう話になるとこれが途端に難しくなると。そういう現実に、悔しいことなので二度言いますが、司書としても講師としても忸怩たる想いがありますよねっていう。
 本書は、これは勉誠出版さんが独自に構築してるのかな、E-booksというサイトでPDFを購入できる仕組みになってるわけなんですけど、えっとじゃあ、学生1人1人に買わせなきゃいけないですかね。大学図書館さんで提供できませんかね。え、もうあたしが勝手に配信しちゃっていいですか? これ著作権法に認められた範囲なのかどうですかね。じゃなかったら個別に許諾をとりにいかないとですかね。うーん。
いや、PDFでもダメじゃないんですけど、あたしこのPDF実際に自分のスマホで読んでみようとはしたんですけど、やっぱりかなり読みづらい。あと、これはアプリやデバイスの都合なんでしょうけど、せっかくの豊富な参考文献のURLにタッチしてもリンクしてくれない。ダメかー、ってなっちゃう。こういうときどうしたらいいんだろう、この著作自体がアプリになってくれるといいのかしら。あるいは、そういう学校教材を提供するのに適したアプリの類いがあるんだったら、この本のPDFがそれに対応してくれてたらいいのかしら。
 というような、一筋縄でも二筋縄でもいかないようなことが次々と起こるわけなんで、結局は、まあおそらくこれ紙でコピーして配ることになるんだろうなあ、っていう。

 そもそも図書館とは何のためにあり何をするところなのか、という大きな問い。
この本の第2章を学生に電子的にばらまいてスマホで読ませられるか、という小さな問い。
 これらの問いの解が、いわゆる従来型の姿としての図書館とはまったく似ても似つかないような別の仕組みに期待できるというんだったら、あたしはそれはそれで一向に構わんよなと思うてます。

 あとは、このご時世でもますます繁盛してるような大衆居酒屋にふらっと入ったところ、お店のねえさんから「こないだ図書館行ってみたけど、読みたくなるような本が何も無かった」って言われるような、そういうふつーの人のふつーの期待ハズレも地道になんとかしていかなあきませんが。


【関連する記事】
posted by egamiday3 at 19:35| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする