2019年03月11日

『事件の涙』「そして、研究棟の一室で〜九州大学 ある研究者の死〜」を見て、”共感”と”理解”について考えたメモ


 ちょっと考えるところがあって、昨年末(2018年12月)にNHKで放送されていたドキュメンタリー番組を、もう一度見返したんですね、それをめぐって考えたことのメモです。

 『事件の涙』「そして、研究棟の一室で〜九州大学 ある研究者の死〜」
 2018年12月28日(金) 午後10時45分〜11時10分
 https://www.nhk.or.jp/docudocu/program/92894/2894212/index.html

 この事件については、報道もされ、下記のようにのちにネットでも語られ、ということがありました。
 その概略を、NHKのwebサイトから引用します。なお、この件は上記のドキュメンタリー番組だけでなく、再構成する感じでwebニュース記事にもなっていて、そちらのほうがよりわかりやすいので、そちらを紹介するものです。

 「去年9月7日の早朝。福岡市の九州大学で火災が発生した。現場は、大学院生が使う研究棟。所狭しと研究室が並ぶ「院生長屋」と呼ばれる場所だった。キャンパスの移転で、取り壊しが始まるやさきに事件は起きた。焼け跡から遺体で見つかったのが、K、46歳。九州大学の博士課程まで進み、9年前に退学した男で、誰もいなくなった研究室に放火し、自殺したと見られている。九州大学は、Kが利用資格を失った後も、無断で研究室を使っていたと説明した。(中略)その死をめぐり思わぬ波紋が広がった。ネット上に、「あすはわが身」など、Kにみずからの境遇を重ね合わせる研究者たちの悲痛な叫びがあふれたのだ(後略)」
(「九州大学 ある“研究者”の死を追って」. NHK NEWS WEB. 2019年1月18日. https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190118/k10011781811000.html. の冒頭部分から引用)

 この事件が報道されていた9月当時にもその概略に触れてましたし、年末にもこのドキュメンタリー番組を視聴し、それをめぐっての友人知人や見知らぬネットの人々のさまざまな感想や反応やコメントも読み聞きしました。そしてその大半は上記の引用文にもあるように、みずからの境遇を重ねる的な感じの”共感”だったと思います。

 申し訳ありませんが、白状します。
 私は本件について、特に”共感”を覚えていませんでした。
 気持ちがわかると感じることはできなかったし、みずからの境遇が重なることもありませんでした。行動やそのうらにあった気持ちにシンパシーを感じることもなく、あれは自分だ、自分もそうだっただろうという想像にも至りませんでした。

 これは自分語りになるので手短に済ませますが、私はこの方と同世代であり、進学進路も(大学こそ違え)だいたい似たようなもので、だいたい同じ頃に大学に入り、おそらく同じようにして大学院にも進学し、似たような時代と環境の中で同じように研究職のことを考えていたんだろう、というのは想像できます。ただ、この頃はいわゆる大学院重点化の始まった初期の頃で、大学院に入って周囲を見てみると山ほど進学者がいる、いや、この先日本の経済状態がどうなるかもまだわからない(注:まだわからない程度だった)し、ポストも急増するわけじゃないだろう(注:これはなんとなくわかった)に、この進学者数となると、いつ仕事に就けるかわからんな、という打算的な判断(注:他にも理由は諸々ありつつ)から、経済的に自立安定する方を優先させるべく方向転換した、という経緯があります。
 だからなのかどうなのかはわかりませんが、映像を見ていても話をきいても他の方のコメントを見ても、自分はこの方からそれほど遠くない場所にいるはずなんですけど、”共感”にはいたりませんでした。(ていうか、もともとそういう”共感力”の低い気質ではあって、そのせいで疎まれることもしばしばあるのですが。)(あと、どちらかというとその前後に放送していた、老齢のお一人様女性がグループで暮らしているマンションの話の方が、だいぶ身につまされた。)

 ただし、です。
 ”共感”はしませんでしたが、”理解”はしています。

 これは9月の時も12月の時もそして今回もほぼ同様ですが、今回のこの事件とこの方の境遇を引き起こすことになった、大学のマネジメントのあり方、その経済的な問題と制度の問題、研究者の雇用とヒューマンリソースマネジメントの問題、学術や専門性と社会のあり方のひずみのようなもの、機能しなかったし届くこともなかった(もしかしたら存在すらしなかった)セーフティネット、といった諸々の問題が存在することを”理解”し、それらが実にシリアスな社会問題であることを”理解”し、結果としてのこんなことが今後ゆめゆめ繰り返されてはならないと”理解”し、一個人としても一納税者としても一ライブラリアンとしても学術関連業界に身を置いている一人としても、解決されなければならないし、(実際にどこまでやる/やらない/できる/できないに関わらず)解決に取り組まなければならないことである、ということを”理解”しています。

 とてもシリアスに”理解”しています。
 そして、でもやっぱりそれは、この方の境遇その他への”共感”ではないんですね、おそらく。

 (注:”共感”と”理解”の言葉の使い方も人によって同じとはかぎらないので、ここであたしが言ってる”共感”のことを「理解」という言葉で示す人もいるかもしれませんが、それは適宜読み換えていただいて)

 今回このドキュメンタリーをもう一度見返したのは、自分は本当に本件に”共感”しないんだろうかどうだろうか、というのをあらためて確認するためでした。
 やはり同じでした。
 
 本題は、これ以降です。

 我々にとって本当に重要なのは、”共感”できない相手・立場・物事のあり方のことを、”理解”すること、”理解”しようとつとめること、なんじゃないのか、ていう。

 人によって環境や立場も価値観も優先順位も違うから、一個人が”共感”可能な対象にはどうしても限りがあるだろうし、どれもこれも必ず”共感”せよなどという強制はどだい無理な話というかアカンやつでしょう。
 でも、もしそこに解決されるべき課題や問題があるんだったら、それを理解することはできるだろう、と。あるいは、自分にとってシリアスでなくても誰かにとってシリアスなことだったら、それを「誰かにとってのシリアスなもの」として理解することはできるだろう、と。
 なぜなら何かを理解できるかどうかというのは、ひとつのリテラシーの問題だし、理解できるように努めるというのは知的怠惰から抜け出すことだろうから、かな。

 逆に言うと、共感こそすべてであり、共感できない相手を理解する必要はない、そこにある課題問題を理解する必要もないし、解決を考えることも取り組むこともしなくていい、って、これは空恐ろしいことだなと。共感できない相手のことを理解することも拒絶して起こしてきた諍いを、我々は戦争という愚かなかたちで繰り返してきたわけだから。

 そんなことを思ったのは、大学人や文教関係者にあたる人の中にさえ、まさにこの九州大学のこの方の事件のことを、冷笑したり茶化してネタにしたりするような人がいるのを、まれに見かけるからです。いや、信じられへん、と思うのですが。ていうか、”共感”できてないあたしが言うのもおかしいんでしょうか、でも、共感してなくてもそのシリアスさを努めて理解しようとしていたら、無神経に冷笑や茶化しはできんだろうと。

 それって何だろう、近頃「共感する/できることの大切さ」だけがやたらメインに押されてきてて、表裏一体で裏を返せば、「共感できないものは、理解もせずにないがしろでいい」ということなんだろうか。LGBTも移民もハラスメントも右も左も。最近やたら政治行政が恣意的に動いてるように見えるののバックグラウンドに、そういう潮流があるんじゃないだろうか。だとしたらやっぱり空恐ろしい。

 もうひとつ逆に言うと、例えば昨日(3/10)最終回だったばかりのドラマ『3年A組』を見てたんですけど、あれ人気でしたけどそれはそれであぶなっかしいなあ、と。共感することでしか相手を理解できないとしたら、それはどこかすっぽ抜けてないかな。
 でも、共感できない時は無理に共感することはないだろう、リテラシー的に努力しさえすれば理解することは可能なんだし、まさにそれが相互理解なんだとしたら、他者との議論や問題解決のための連携はそこから始めていけるはずなんだから。そういうこと込みで、あの生徒らには理解してほしい。(注:それなりに感情移入してるらしい)

 というようなことをつらつらと考えてて、それをふまえて、このひとつの事件への”共感”はいまのところまだできてないけども、重々シリアスに”理解”したうえで、トータルで言えば学術と人と社会のあり方の問題のようなものに、これからも真摯に向き合っていく、ということです。

 こういうことを考えていたことのもうひとつのわけは、例えば自分はいわゆる記念日とか何の日とかそういうのがほとんどどうでもよくて、まず自分の誕生日がもうほとんどどうでもいい、だってそれたまたま日付の数字がデジタルに合致している以上の意味ないじゃないですか、と。そういう調子なので、あれから何年経ちましたという”経過”や、1年・1月でどう進めようという”計画”、どう進んだという”進捗”にはそれなりに意味を覚えつつも、一方で「今日がちょうど同じ日です」ということにはあまり”共感”を覚えない、そこの共感は足りていないようなのですが、だとしても、8年経ってもいまだ避難者は5万人を超えているのをどうするのか、エネルギーは、街作りは、文化資源は、震災遺構はどうするのか、そういう継続するシリアスな課題問題の存在を、日付という数字はまったく別にしてしっかり”理解”し、向き合っていくことにかわりはないんだな、ということです。

 まあ、そういうことをこの日に書こうとしてるということは、日付関係なくもないのですが。

posted by egamiday3 at 21:59| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする