2014年02月05日

春画と檸檬と近デジ大蔵経 - 日本研究シンポの極私的補遺(その3・終)

 
・日本研究支援シンポジウム「海外の日本研究に対して日本の図書館は何ができるのか」|国立国会図書館―National Diet Library
 http://www.ndl.go.jp/jp/event/events/knssympo.html
・日本研究支援シンポジウム「海外の日本研究に対して日本の図書館は何ができるのか」20140130 #日本研究シンポ - Togetterまとめ
 http://togetter.com/li/622943



 その1・その2からの続きです。

・祗園とタモリとILL - 日本研究シンポの極私的補遺(その1): egamiday 3
 http://egamiday3.seesaa.net/article/387040331.html
・どうしても猫背になるデジタル不足 - 日本研究シンポの極私的補遺(その2): egamiday 3
 http://egamiday3.seesaa.net/article/387068201.html



 ものすごくざっくりした問いで言えば。

 問:
 なぜこの国はこんなにもデジタル不足、デジタル未整備なのか?

 デジタル化・オンライン化・オープン化が進んでくれて、それがこの社会における学術や知的生産の基盤として築かれていってほしい。
 そう思っている人は決して少なくないと思うんだけど、どうも全体を”引きの画”で見てみると、デジタル環境がこんなにも不足していて、未整備に喘いでいるという現実がある。
 電子化されない雑誌・書籍・新聞。
 リーズナブル化されない価格。
 売ってもらえないデジタル。
 海を越えないオンライン。
 祇園の路地裏のような知る人ぞ知るアクセスルート。
 公開されない画像。
 中継されない動画。
 何がそうさせてるんだ、誰が止めてるんだ、と。

 なんですけど。
 でも一方で、「何が」とか「誰が」とかいう”問い方”がそもそもどうなんだろう、というふうにも考えるわけです。

 ”寄りの画”でズームインした状態で眼前にあらわれている、個々の諸事情、誰々が・どこどこがという特定の組織・存在に原因を求める、解決を求める。悪い時には責めて攻めて炎上したりする。もしくは、制度や技術や思想世論のような個々特定の”概念”に同じくそれを求める。

 それは、ていうか、それ”だけ”に解決を求めることは、果たしてどれだけ有効なんだろうかと。

 話をがらっと変えます。
 春画の話です。

・大英博物館・春画展への”はじめてのおつかい”: egamiday 3
 http://egamiday3.seesaa.net/article/376964225.html
・Erotic bliss shared by all at Shunga: Sex and Pleasure in Japanese Art | Art and design | The Guardian
 http://www.theguardian.com/artanddesign/2013/oct/01/shunga-sex-pleasure-erotic-japanese-art
・春画:”江戸のクール”と”クールじゃない”今の日本 | AGROSPACIA
 http://agrospacia.com/article/00063

 イギリス・ロンドンの大英博物館で、日本の春画を集めて公開するという春画展が開かれました。入場者数は約9万人、最後のほうは終日入場規制してたらしくそれがなければ10万は行ったろうという、大成功の興業になりました。ロンドンでの所蔵分だけでなく、日本からも我が社NBKをはじめとするいろんなところから春画をお送りした、その運び屋的仕事をしてきましたというのは、「はじめてのおつかい」でご紹介した通りです。

 で、この話題を日本ですると必ずと言っていいほど聞かれるのが、「日本では開催しないんですか?」「なぜ日本では公開できないんですか?」という話です。まあ、ほぼ全員がそれを言います(当社調べ)、あたしと会ってそれを言わなかった者が石を投げなさい、ていうくらい。
 そうです。巡回展として同じ展示を日本でも催そうと、関係者各位が国内あちこちで努力をなさったとうかがっています。「おもしろい」とまでは言われるんでしょう。賛同してくださる方も少なくはないはずです。実際、途中までは話が行ったかもしれない。
 でも最終的には、成就しない。
 なぜか、話がまとまらない、進まない。よくあるパターンではありますが。

 問:
 なぜこの国では春画展を開催できないのだろうか?

 この話題になった時の、ある春画関係者の方のお話が、確かにこれはなるほどとうなずけるものでした。
 すなわち、開催できないことについて特定の誰かに責任や原因を見出すのは、それはちょっとちがうんじゃないか。どこどこの美術館や博物館がどうしなかったとか、どこどこの機関が役所がとか、誰々長がとか誰々官がとか、それを言い募っても意味がない。ていうか、じゃあ特定の誰か・どこかが上手くやってれば丸く解決できてた、ということでもないだろうと。
 そうじゃなく、そもそもこの国全体、この社会が総体で、「春画を公開展示する」ということに対して何らかの仮想の敵、見えない恐怖のようなものをつくりあげてしまっていて、いまだにその前で躊躇してしまっている。それが、春画展開催に至らなかったことの実際だ、と考えた方がいいのではないか。
 だから、開催したいんだったらその躊躇を払拭するという空気づくりをしないと、根本的な解決にはならんだろう。幸いロンドンでの興業大成功とその評判で、風は吹いているし、と。

 あたしはこの話をうかがいながら、あ、これ今度の国会図書館のシンポで話さなあかんな、と脳内メモを湯川先生みたいに書き殴ってました。

 デジタル不足・未整備の話も、これと同じことなんだろうと思います。

 近デジなりなんなりで、公開できるはずの大蔵経なりなんなりの公開が、停止されたりする。せっかくのデジタルがオンラインでオープンにされないということがある。
 特定の図書館やその運用、特定の出版者や権利者、あるいは黙って我慢する聞き分けのいいユーザという存在、この国の著作権という概念、出版流通の制度。そういった個々の存在に、確かに原因があるのかもしれない。
 けど、そういった個々の存在”だけ”、寄りの画でズームインして焦点を当てることのできる存在”だけ”にその原因を求めるのは、やっぱりちょっと違うんじゃないか。

 それ以前にそもそも、「デジタル化」「オンライン化」「オープン化」を推進していこうじゃないかということについての、社会全体で合意形成・空気づくりに、我々はいまだに失敗してしまっているままなのではないか、と。
 具体的な何かはわからないけども、何かを侵害するかもしれない、何かの権利を失う・損するかもしれない、誰かに訴えられるかもしれない、具体的な理由は一切ないけれどももしかしたら何か不都合が起こるかもしれない。だからデジタルにもオンラインにもオープンにもしない。
 そういう見えない恐怖の前の躊躇、仮想の敵の前の萎縮。合意形成に失敗している状態としての、なんとなくな、あくまでもなんとなくでしかない空気。

 ”引きの画”で全体俯瞰した時に原因がそこに”も”認められるのなら、個々の存在”だけ”に原因や責任を求めてそこに解決を求めたり責めたり攻めたりしても、あれだろう、と。もちろん個々の問題を解決に導くことができれば、それはそれでめでたい話なことに間違いはないし、実際にそうしていかなければお話にはならない。けど、社会全体での合意の形成に失敗しているということを認めずに、焦点だけしぼってても、根本的な解決はしないし、失敗してる空気はずっとPM2.5のように漂い続けているだけなんじゃないか、ていう。

 それに、個々に諸事情があることについて、全体のために個々・ローカルが犠牲になるべきだとするなら、それはそれで承伏しかねる話だと私は思います。社会全体の利益がこうで、制度がこう、図書館側のサービスポリシーがこう、という全体の流れがあったとしても、個々の資料・個々の権利者・個々の出版者にローカルな諸事情があってこれはちょっとどうしても、というのがもし発生したとするならば、それはそれで個別に対応してどこかいい落とし処を互いに探し合う、というのは、ものすごく重要な姿勢のはずじゃないかなって。個々の存在が抱える個々の事情は、ゼロかイチかで一括処理できるようなものではない、と思うので。
 だから、近デジ大蔵経での対応、というのも、最終的な結果が大方のユーザの意に添うか添わないかはまったく別として、個別に対応するという余地が実際にあったというところにすごく意味があるんじゃないか、と思います。
(あとは、「ほら見てよ、個別対応するってこれでわかったでしょ、だから、いいよね?」ていう。)

 というようなことをぼんやり考えていましたよ、ていう。

 そういう話を先日の国立国会図書館での日本研究支援シンポジウム「海外の日本研究に対して日本の図書館は何ができるのか」でちょっとしゃべったんですけど、そのときに、仮想の敵・見えない恐怖の前での躊躇のことを、ちょっとふざけて「得体の知れない不吉な塊」って言っちゃったんですね。でもなんか、もしかしたら誤解されてるかもなって思ったんですけど、あたしは別に、そういう「得体の知れない不吉な塊」があるからってことに原因を押しつけたりだからできないんだって逃げ口上にしたりしてるつもりは全然なくてですね、なんていうんでしょう、それが自分自身の内なるところにもこびりついてて、なおかつ社会全体の空気の中にも蔓延ってるんじゃないかしらって、そういうことを言いたかったわけです。
 先ほどの春画関係者の方のお話にあたしが大きく共感した理由のひとつは、特定の存在=自分以外の他者にのみ原因を求めようとする他人事ではなくて、自分自身も含められた全体の問題としてとらえるという、壮大な”自分事”だったから、じゃないかと思います。

 ところで。
 いつものごとくさっぱり抽象的な話しかしてなくて、じゃあ具体的にどうしたらいいんだよって言われると、すっかり何にも言えねえになっちゃうんですけど。
 それについては、これもまた別の話題、いわゆる若手研究者問題の時の下記のTogetterにあった某の人のツイートが、なるほど参考になるな、という感じだったのでシンポジウム当日でも紹介しました。(鍵の人だけど公開してはるツイートです)

・「若手研究者の文献利用環境を巡る問題と図書館へのニーズ」つぶやきまとめ - Togetterまとめ
 http://togetter.com/li/620712
「(略)図書館員への啓蒙として、意義が大きい。あとはそれぞれの現場で、戦術レベルでしていくこと。 また、いまそれなりのポジションにいるアカデミアの住人の方たちが本気で考え、施策レベルで国や大学を動かしていくという戦略もいる。 二面作戦で。」(@bunny_a 2014/1/25 18:40)

 個々の問題に焦点をあてて”寄りの画”でひとつひとつ解決していく現場レベルの仕事と、それらの蓄積によって望む方向への空気・合意が社会全体で築かれていくような”引きの画”での動きをつくっていくこと。
 二面のどちらもがないとあかんのだろうな、ていう。

 とりあえずここまでです、っていう終わり方です。



 あと、たぶん”寄り”の方でいい解決というか具体的な処方箋を出してはるなあって、最近感動した例を、最後のおみやげにひとつ貼っておきますね。

・京都府立総合資料館の取り組み京都−日本のデジタルアーカイブのハブを目指して|Digital Archives|AMeeT
 http://www.ameet.jp/digital-archives/digital-archives_20140114/

 このブログ記事がだらだら長いからって、ここまですっ飛ばしてスクロールして来た方もいると思いますが、じゃあもうこんなへちゃむくれブログ読まなくて全然いいんで、↑この京都府立総合資料館の記事だけでもそのかわりにぜひ読んでみてください。m(_ _)m

posted by egamiday3 at 21:59| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

どうしても猫背になるデジタル不足 - 日本研究シンポの極私的補遺(その2)


・日本研究支援シンポジウム「海外の日本研究に対して日本の図書館は何ができるのか」|国立国会図書館―National Diet Library
 http://www.ndl.go.jp/jp/event/events/knssympo.html
・日本研究支援シンポジウム「海外の日本研究に対して日本の図書館は何ができるのか」20140130 #日本研究シンポ - Togetterまとめ
 http://togetter.com/li/622943
・祗園とタモリとILL - 日本研究シンポの極私的補遺(その1): egamiday 3
 http://egamiday3.seesaa.net/article/387040331.html

 次の柱「e-resource」です。
 電子書籍・電子ジャーナルであり、データベースであり、オープンアクセスであったりデジタルアーカイブであったりするという。

 深刻なデジタル不足、という問題があります。
 e-resourceが圧倒的に少なくて、なにかといえば紙に頼るしかない、という欠乏した状態。

 もうナウシカやラピュタレベルの何度目だ的紹介になりますが、北米の東アジア図書館が所蔵する中国語・日本語・韓国語資料の、図書/電子書籍/電子ジャーナルの所蔵数・契約数のグラフです。2013年現在の数字に更新しました。

北米東アジアe-resource.bmp

 CEAL Statisticsより、2013年、56館を対象としたもの。記入のない館は0とし、また極端に桁数の異なる館の数値は除く、という処理をしてあります。年によってばらつきがあるのでうまいこと数字が取れないという難点もあるのですが、おおまかな傾向としてとらえていただければと思います。

 NDLでの海外日本研究支援をテーマにしたシンポジウムというのは去年もあったのですが、去年も、今年も、話題の多くはやっぱり「e-resourceがない」でした。
 電子書籍がない。
 電子ジャーナルがない。
 データベースがない。
 たまたまあっても海を越えない、売ってもらえない。
 あってもやたら高額だ。
 やたらCD-ROMやDVDで出る。
 なぜか「いらないものから電子化してる」と揶揄されちゃう。
 このあたりはついつい鉄拳の口調で脳内再生されてしまいますが。

 そして、海外の日本研究関係者から訴えられるこれらの問題は、そっくりそのまま、日本のユーザや日本の図書館関係者にとっての問題にほかならないな、と。

 「日本史分野のコアジャーナルで電子化されているのは?」という問いに対する、とある”添えるだけ”の人のツイート。
 「@pienet CiniiでPDFありで適当なキーワードで探してみましたけれど、史学雑誌。あとは大学ごとで出しているものになりますけれど、それでも早稲田の史観くらいですかね。日本歴史、日本史研究。歴史学研究とか歴史評論もやってそうですが、まだみたいですね。」(@negadaikon 2014/1/10 22:31)
 https://twitter.com/negadaikon/status/421635487237812224
 ※実際にNDLで紹介して一部にご迷惑とご心配をおかけしました。

 JSTORにびびった話 - 日比嘉高研究室
 http://d.hatena.ne.jp/hibi2007/20110825/1314275191
 「中国や韓国の留学生たちと話していると、完全に日本の論文データベースのデジタル環境は後進国状態だ。」

 コアな学術雑誌や総合誌(商用)が、電子化されていない、という問題。
 もちろん、CiNiiで機関リポジトリのオープンアクセスを、っていうのだって、実際あれですごく助かってるというのは海外のユーザからよく聞かれる声、なまでもなく、あたしもうちのユーザさんもすごい助かってるわけですが、一方で「いらないもの(ry」という声が聞かれるのも事実であったりする。(「いらないものから電子化されてる」って声を紹介したら、どこでもたいてい薄い笑いが起こるので、あ、みなさんこころあたりあるんだな、って思ってます。)
 これをどう考えるかについては、あたしはこう考えることにしてます。
 もし学生さんがCiNiiで見つけたオープンアクセスなPDF”だけ”でレポートや論文を書いてきたらどうしますか、と。
 言ったら、それは説教します、と。
 ということは、つまりいまのそのデジタル環境というのはそういうことなんだ、と。

 電子ジャーナルに限らず、電子書籍でも、デジタル格差がひろがっていくというのが日本の立場のように思います。
 解決のために旗揚げされた「電子学術書利用実験プロジェクト」に関連して、慶應の入江さんのお話を「大学と電子書籍の現状と未来」というセミナーでうかがったことがありましたが、

・大図研京都ワンディセミナー 「「大学と電子書籍」の現状と未来」
 http://www.daitoken.com/kyoto/event/20130921.html
・入江伸「「大学と電子書籍」の現状と未来」 (20130921大図研京都) - Togetter
 http://togetter.com/li/567311
・日本の学生だけが学んでないかもしれない、というリスクについて。 : 「「大学と電子書籍」の現状と未来」 (20130921大図研京都): egamiday 3
 http://egamiday3.seesaa.net/article/375677268.html

 あまりに電子書籍がなくデジタル環境が整備されてなさ過ぎて、「日本で、日本語で、研究をする」ということ自体が絶滅してしまうんじゃないか、ということが懸念されていました。世界で当然のように行なわれているデジタル環境を前提とした研究方法を、日本の学生だけが学習していないのではないか。このままでは日本から「若い研究者」は生まれなくなるのでは、という。

 やたら高いとかやたらCD-ROMやDVDで出る、というのも、日本の我々にとってこそ厳しい問題です。画報的なCDのためにWin98わざわざ中古屋さんに入れてもらったPC買うとか、日本のTimes的なブルーレイ買うのにいくらかかるとか、こないだまでただで使えてた文庫の検索や国の和歌が収まった参考図書のオンライン版がとか、そういうの。
 もちろん、個々にそれぞれ事情があり技術的制約もありコストもありでそうなってる、というのはあるんでしょうし、そこを否定してもしょうがないとは思います。ただ、個々の対象にズームインしたカメラで見たときは理解できることでも、その結果の総体を”引きの画”で、全体で見たときにはどうしても、肩が落ちるというか、背中が猫背になっちゃうというかそういう思いがします。

 商売物だからある程度しょうがないだろう、かもしれない。
 でも、じゃあ例えば図書館や公的機関のようなところのデータベースやデジタルなアーカイブにしても、この話が無縁になるわけではない、という。

 例えば、オープンでフリーにアクセスできるデジタルライブラリーでも、個々の事情や訴えによって公開されなくなることがある、という「近デジ大蔵経」の話。

・国立国会図書館、インターネット提供に対する出版社の申出への対応についての報告を公開 | カレントアウェアネス・ポータル
 http://current.ndl.go.jp/node/25212
・緊急シンポジウム「近デジ大蔵経公開停止・再開問題を通じて人文系学術研究における情報共有の将来を考える」に行ってきた。〜その1 - みききしたこと。おもうこと。
 http://d.hatena.ne.jp/xiao-2/20140130/1391093015
  (その3まで継続)

 それから、著作権が切れていないにしてもデジタル化されたものについてNDLから図書館に送信しますという「図書館送信サービス」についても、残念ながら海外の図書館は対象外になってしまっているという問題。法律上の問題であって運用上の問題じゃないみたいなので、結構きついかもしれない。
 デジタルが海を越えない、ていう。

 じゃあ国内だったら問題ないのかって言ったらそんなことはなくて、申請のハードルは高くて何度か挫折しそうになるし、利用手順は複雑で不便だし、うちはサービス開始からこっち毎日のように利用があって、ていうか初日から利用がバッティングするくらいで(1台しかないから)、毎日のように便利だねと言ってもらってる一方で、毎日のように不便だねと言われもして、今日なんかまあまあの詰問があったりもして、そこそこの頻度でごめんなさいごめんなさいって頭下げる仕事をしてる、ていう。

 NDLのデジタル化資料送信サービス体験レポ ≪ マガジン航
 http://www.dotbook.jp/magazine-k/2014/01/27/ndl_launchs_the_digitized_contents_transmission_service_for_libraries/

 なんかこの業界界隈にいるとみな少なからずNDLさんにはお世話に、多大なるお世話に毎日のようになってるだけでなく、親しくおつきあいもあるので、あまりネガティブなことっていうのはどうしても言い控えちゃうことも多く、なんか一読して気を遣ってはるなあ、言葉選んではるなあ、言葉選んではる様を見せてはるなあ、という印象の文に会うこともちょくちょくあるのですが、一方であたしの知り合いのアメリカのライブラリアンの人にはこのレポートを「あまりにも複雑すぎて、途中で読むのをやめた」という方もいて、あ、やっぱりそうなんだな、と思たです。

 あと、それにしたって国内参加館少なすぎないか?という意味では、使う側にだって何かしらのバリヤーみたいなんがあるのかもしれない、とも思わされます。国立大だけで100近くあって、県立だけで47はあって、例えば京大だけで大小の図書室が50近くあるっていう、フェルミ推定以前のザルのような勘定の前に、申請中含めて3桁行ってないっていう数字は、一人の納税者としてもちょっとビビる、っていう。

「どうして国立国会図書館のデジタル資料を地方の公立図書館で閲覧することができないんだろう(できる公立図書館もありますが)。愛知県で唯一閲覧できる私立大学図書館では教職員と学生しか利用できないと言うし。どこでも閲覧できたらすっごく便利なんだけどなぁ。」(@wakamickey 2014/2/4 19:41)
 https://twitter.com/wakamickey/status/430652256313028608

 今回は国会図書館さんで登壇させていただいたので、国会図書館さんを例に挙げましたが、そうでなくともやっぱり国内・海外のユーザからの期待はいま国会図書館さんに熱く・厚く・篤く向けられてるし、だからこそ不満や要望もたくさん出るんだろうなって。それは他でもなく国会さんの動きが活発な証拠なんでしょうきっと。
 あたし自身、京大でもNBKでもそういう公開されたデジタル画像ものに携わる仕事をしてた/してるですけども、新しいものを公開したときとか、Googleでトップにひっかかるような可視度の高いものとかっていうのは、お誉めや活用の反応がある反面、それと同じかそれ以上にクレームやコストのかかる要望といったしんどい反応もあって、それはもう、デジタル物を公開するっていうのは要するにそういうことなんだよな、って覚悟に近い理解をしています。
 それでもなお、デジタル化・オンライン化・オープン化していかなきゃ、って。それ自体が貢献だし自己アピールだし、今後の学術や知的生産の基盤をこの社会に築いていくことなんだし、って。そういうベクトルなんだって。

 いうふうに思うんだけども、全体を”引きの画”で映してみると、この国のデジタル環境はこんなに深刻に不足していて未整備で、やっぱり猫背で、どうしてなの悲しみがとまらない、と。

 2回で終わるつもりでしたが、もうちょっとだけ続くんじゃ的な感じで。

 次は春画の話なので。


posted by egamiday3 at 00:31| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年02月04日

祗園とタモリとILL - 日本研究シンポの極私的補遺(その1)


 去る1月30日、国立国会図書館において「日本研究支援シンポジウム『海外の日本研究に対して日本の図書館は何ができるのか』」というものが開催され、呼ばれて登壇してきました。

・日本研究支援シンポジウム「海外の日本研究に対して日本の図書館は何ができるのか」|国立国会図書館―National Diet Library
 http://www.ndl.go.jp/jp/event/events/knssympo.html
・日本研究支援シンポジウム「海外の日本研究に対して日本の図書館は何ができるのか」20140130 #日本研究シンポ - Togetterまとめ
 http://togetter.com/li/622943

 当日の基調講演は早稲田の和田敦彦先生(『書物の日米関係』『越境する書物』)。その後、北米・ヨーロッパ・オーストラリア・韓国からのライブラリアン・研究者の方々がそれぞれの国・地域の日本研究事情、図書館事情、日本の図書館への期待といったようなものを、それぞれ15分くらいづつ概説する、というものでした。

 あたしもそのうちのひとりとして、日本の現状みたいなんを、まあもちろん日本の現状なんかろくに知ってるわけでも何でもないんですけどあたしなりの色眼鏡で考えてみた、ていう感じのあれです。
 他の方のプレゼンはあたしががんばってツイート&トゥギャり(放送も中継もないんだもの)で↑上記のリンクのようにご紹介できたのですが、あたしのプレゼン部分はそりゃさすがにツイートできないんで、この場でちょっとざっくりと書いとく感じです。

 おおむね、「ILL」「e-resource」の2つ柱で。

 まずILLについて。

 日本の大学図書館における海外ILL件数(依頼/受付・貸借/複写)を、『学術情報基盤実態調査』から作成すると、2002・2010・2012で図のような感じです。

大学図書館海外ILL件数.bmp

 それから日米間GIF(ググってください)における複写・貸借の、こちらは受付のみ、但し謝絶は別、という件数をGIFの統計から作成すると、2004・2010・2012でこんな感じ。

GIF受付・謝絶件数.bmp

 10年前に比べれば大幅に改善しつつあるとか、特に2010年の貸借はほぼ均衡とか、但しそれは改善というよりweb・OAの影響かとか、謝絶っていっても理由はあってとか、どの数字はどこまで正確か、要因はどこにあるかじっくり見たいとかのもろもろをぐるっとのみこんで言えば、「受付が少ない」はまあまあでも、「謝絶が多い」の傾向はまだかなり目立つなという感じです。まあかく言ううちもそういう感じなのでごめんなさいと頭を垂れるしかないのですが。

 海外の図書館で日本宛てILL依頼の話を聞いたりなんかすると、まあまちがいなく相手の口から出るのは「ワセダ」です。早稲田さんが一番評判&認知度が高い。一番っていうか、ほぼ唯一。一強の早稲田。理由はOCLCに直接参加してるからでしょう。

 かといって、他にも有効に受け付けている、その用意があるという大学図書館さんはいくらかあって、それがたとえば京都大学さんだったりする。
 で、ここでこういう参考文献を見てみると、

・菊池香織『京都大学附属図書館の海外ILL業務』
 http://www.slideshare.net/kulibrarians/20090626-kulibrarians-112-ill
・林豊『ILL in 90 minutes』
 http://www.slideshare.net/kulibrarians/kulibrarians-132

 ひとつ目のほうのパワポに、若干気になるグラフがあります。
 あくまで2008年当時ですが、京大附図さんが受け付けた海外ILL複写141件のうち、1位がニュージーランド・30%、2位が香港28%。これで約6割。えっ?、て思うです、だって皆様おなじみのGIF(OCLC)なんか8%しかない。しかももっとよく見ると、ニュージーランドはもっぱらVictoria University of Wellington Libraryから。香港はもっぱらHong Kong University Librariesから、と書いてある。特定の大学から依頼が集中している。特定のユーザ/スタッフから?、というのは勘繰り過ぎだとしても、要するにこの大学さんからだけはここがILLで”使える”って知られてるんだな、と思います。
 知っていれば、依頼できる。知らない人は、依頼できない。
 “祗園の小料理屋”状態。

 念のためあくまで2008年であって、いまもこうだというわけではないのですが、ただ、あー、どこにしろこういうのって起こりそうなことだな、とは思います、海外のユーザからもライブラリアンからも一強で「ワセダ」の名前ばっかり聞いてると、ほかにもいくつもところたくさんあるはずなのに、知られてないんだなって。情報が共有されてないなって。
 で、それを解決するためにってゆってぱっと思いつくのが、webサイトでの案内強化、みたいな感じのやつなんだけど、それだけじゃあれなんで、個々各々で案内するというより、海外から日本へILL依頼しに来たい人のためのポータルサイトみたいなんできないか、とか思いついたんで当日なんとなく言っときました。というのも、NCC(北米の日本研究ライブラリアンのグループ)のサイトにはそういうページがあるわけです。

・Interlibrary Loan and Document Delivery - Homepage at North American Coordinating Council on Japanese Library Resources
 http://guides.nccjapan.org/illdd
 
 それを、北米のユーザに向けたものを北米の人に作ってもらってて、じゃなくて、日本側でちゃんと”おもてなし”するポータルがないと、せっかくあんなふうにあざとく流行語になった甲斐もないんじゃないかな、って。

 あとポータルって言えば、というか言えばでもないんだけど、海外ILLを実務としてやってると「案内・広報を強化して、依頼が急増したら、もう受付できないかも・・・」ていう恐怖と常に闘っている、ていう感じが多かれ少なかれどこの図書館さんでもあると思うんです。
 でもだからって、こういうのは一部の大学図書館だけががんばってるだけではあんまよくなくって、やっぱりILLっていうのはたくさんのところが参加してて援軍が多い方がいいわけなんで、じゃあ、依頼が増えてもこういうふうにしたらパターン化・ルーチン化できますよとか、リスクやコストが減りますよとか、そういう日本の実務者側の情報共有もできる、そういう意味でのポータルもないと、なかなか口で言ってるだけではうまくまわんないんだろうな、と。何よりあたしが教わりたいのです、切実に。

 なんとなく思うのが、そういうのって、いきなりはじめっからオフィシャルにというか全国展開でオーサライズされたものを、って必ずしも身構える必要はたぶんなくて、なんか、お試しっぽくぼんやり動いてたのが、あ、悪くないなってなって、そのうちふんわり既成事実になる、みたいなんでもアリはアリかなって。
 こないだ正月のNHKでテレビ放談的な番組やってて、笑っていいともの何がいいかって、企画なりコーナーなりとにかく番組が安っぽくて金かけてないのがいい。金かけてないと、おもろしろくなかったらすぐに修正したり中止したりできるから。あれを下手に大げさにコストかけて番組や企画始めちゃうと、やめようにもやめられなくて困る。みたいなこと言ってて、ああなるほどなあって思たです。

 控え室でもいろいろ期待されたし、がんばんなきゃなって。

 あと、謝絶の多くは「書誌が不完全」とか「所蔵してない資料への依頼」「オープンアクセス公開済み」らしいので、「所蔵/書誌情報の発信を強化する(※目次・概要などリッチなデータやオンライン資源の情報を含む)」ていうのも、当日割愛しちゃったけどここに書いておく。
 それと、GIF参加館のアンケート結果を期待して待つ、という感じ。

 とはいえ、いまどきはやっぱILLとかじゃなくてe-resourceですよねえ、と。デジタルでオンラインでオープンなアクセスよねえ奥さん、と。

 というわけで、次の柱「e-resource」。

posted by egamiday3 at 21:23| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年01月06日

(メモ)『本の逆襲』内沼晋太郎、を読んだメモ


『本の逆襲』
内沼晋太郎
http://numabooks.com/ideaink10.html

なんかいろいろいいヒントをもらったという感じ。本に限らず。


(メモ)
・うまい引用は引用箇所だけでおもしろい。
・ディスカバー・トウェンティワン
http://ja.wikipedia.org/wiki/ディスカバー・トウェンティワン「取次を通した新刊委託ではなく直接取引を行う。」
・(ハードウェアが必要な)電子書籍やデジタルを考える時は、紙の本がハードと一体で特別な用意なく読めてた、というところからのギャップについて意識するべき。「あなたがいま持ってるiPhoneでOKです」なら吉。
・記事1本読む時間よりも長く、書籍1冊読むよりも短い時間で、読めるコンテンツ/本、というビジネスチャンス。(多分この本がそんなもん)
・新しい”単位”が用意されれば、それに見合ったコンテンツがまた新たに生まれてくる。
・世界相手に国境越えて出版するとはどういうことか。
-グーグルで上位にヒットすれば世界相手に平台に置かれてるのと同じ。
-海外前提のスケールだからこそ、成立しうる企画もある。
-正確な翻訳じゃなくたって、届く相手が増えるじゃないか。
・本屋よりも図書館のほうが歴史が長い。
・街の”大きな本棚”(圧倒的物量を経験する)としての、図書館。
・リブライズ http://librize.com/ja はもっと評価されるべき。
・本の定義を拡張させることができれば、自分なりの本の定義で、自分なりの本屋を始めることができる。
・イベント開催は、頻繁にやれば慣れてコストにならない。
・本屋が片手間にやってるかのように提供されるビール・コーヒーが、美味い、ということが、ひとつのメッセージだなっていう。
・掛け算で、やる。
・CarbonCopy reading note
・エア本屋
・自分にとって本とは何か、その媒介者とは何かを見極めた上で、その中でも熱くなれることについて、気軽に始めたらいいよ。
posted by egamiday3 at 17:26| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年01月04日

wikiを編む・実践編 -- egamiday_wikiについての記録(2)

 前回記事「wikiを編む -- egamiday_wikiについての記録」(http://egamiday3.seesaa.net/article/384035001.html)からの続き、シロウトがもがきあがきググりながらやってみましたっていう、実践の記録編。

●知識ゼロから、インストールまでの道
wikipediaを自作したい!
→知識がまったくないので何をどうやったら作れるのかわからない。><
→たしかsaveMLAKのサイト(http://savemlak.jp/)だってwikipediaのやつを使ってつくるやつだったと思うし、オハイオ州立大学のドノバンさんが作ったのも(http://library.osu.edu/wikis/library/index.php/Jiji_Manga)社史のサイト(http://library.osu.edu/wikis/shashidb/index.php/Main_Page)も、wikipediaっぽいやつだから、個人ベースででもがんばれば作れなくはないんじゃないか。
→いろいろググる。
→とりあえず、ああいうのは「media wiki」というソフトを使ってるんだということを知る。
→「media wiki」、を、どうしたらいいの?
→いろいろググる。
→「サーバ」に「media wiki」をインストールして作るんだということがわかる。
→でもサーバって、お高いんでしょう? 京大の図書館のだってNBKのだってすごいでっかいのが厳重な小部屋に冷やされて置いてあるもの・・・。
→いろいろググる。
→レンタルサーバというのが安価であって、お金で間借りできるらしい。なるほどなるほど。
→いろいろググる。
→かつてサーバをレンタルしてmedia wikiをインストールするという作業に成功した人が、その記録をこと細かに書いてくれてる。
 さくらのレンタルサーバにMediaWikiをインストールする手順 - 残像ブログ
 http://appakumaturi.hatenablog.com/entry/20121225/1356445679
→やったあ、この人と同じさくらサーバを借りてこの人と同じ設定をすれば、できるじゃん! あらまほしき、先達っ!
→記事に書いてあるのと同じようにして、レンタルしたサーバにmedia wikiをインストールする。
→できたよ! (試作版)
→なお、はじめ1-2ヵ月くらいは”試作版”としてまったく非公開なものを作っておいて、操作や記述の練習とか、本番サイトの設計の試行錯誤みたいなんを、地道に延々とやってました。やっぱりいきなり本番って構えて、壁にあたりっぱなしで、飽きてやめたー、ってなっちゃいそうなのが目に見えてたので、最初は”落書き帳”に好き勝手殴り書き・殴り潰しできるような、身体に馴染ませるような感じで。いまはもうその試作版サイトは完全なる廃墟ですが。

●「仮想wiki制度」の導入
 wikiのサイトは、ひとつのサーバ上にいくつか構築できるらしいのです。
 じゃあ、複数作る?
 作りたいのは、「海外の日本研究・図書館」に関する話題のwikiと、「NBK」にまつわる話題のwikiの2つ。じゃあ2つのwikiサイトを作ればいいじゃんってなるけど、問題は「日本研究」wikiサイトの記事と「NBK」wikiサイトの記事はその話題の性格上、まあまあ重複するだろうということが予想されるわけです。同じ標題の記事を別サイトで別記事にするのはやっぱどうもおかしい。そこは、別のwikiでもひとつにできないか、ていう。
 しかも、いまは「日本研究」「NBK」の2つって言ってるけど、自分のことだから、そのうちまた別のwikiも作りたくなるに決まってるんですよ、どうせ。50個あるblogみたいに。そのたんびに別サイトってのはどうなんだ、と。さらに、「日本研究」「NBK」にも関わらないけど必要な記事、みたいなんはどうするんだ、と。

 ていうんでじゃあもうwikiサイトは「egamiday_wiki」っていうでっかいひとつの包括的なwikiサイトにしましょう、と。で、このwikiにいろんな記事を登録していくわけなんだけど、その記事ごとに、これは「『本棚の中のニッポン』wiki」(海外の日本研究・図書館の話題)に属する記事です、これは「NBKwiki」に関する話題の記事です、というふうに属するwiki名を指定(名付け)してやって、あたかも複数のwikiが「egamiday_wiki」の中に並立しているかのように見せかけましょう、と。
 で、日本研究の話題でもあるしかつNBKの話題でもある記事については、「『本棚の中のニッポン』wiki」「NBKwiki」の2つのwiki名を名付けてやる。どっちにも無関係な記事は、wiki名を名付けない、無印記事。後年、新しいwikiをまた作りたくてうずうずしだしたら、「MALUIwiki」とか「情報組織化wiki」とかの名付けをしてやればいい、それは単なる名付けなので、サイトの構造自体を技術的にいじる必要はまったくない、ていう。

 この「仮想wiki制度」を、media wikiのカテゴリ機能を使ってやってます。カテゴリってそんな使い方じゃないだろうというのはあるんですが、後述のような理由で本来のカテゴリ機能を使いそうにもないから、ということで。 

●「wiki-pサイト」の構築
 ”勉強ノート”を公開するためのwikiメディア。
 ではあるんですけど、自分が仕入れてノートに書き込んだ情報を、加工しない生のまま、どの事項もすべてあますところなく、公開するっていうようなことはまあできないわけです。
 人に読まれてさしつかえないように加工しないといけない。
 あるいは、公開するのははばかられるオフレコなこととかネガティブなこととか、裏付け無し、ただの推測、たんなる自分のためのメモ、といったものは公開できない。したくない。
 もうひとつ、記事を執筆し始めてから公開するまでにはある程度の時間がかかるわけで、推敲したり、調査し直したり、長文を書き上げるために、いったん”下書き”状態として不完全なものを非公開のまま保留しておきたい、っていう作業上の都合があるわけです。
 ところがmedia wikiさんは不都合なことに、個々の記事ごとにこれは公開/非公開っていう指定はできないわけです。できるのは、まるごとこのwikiサイトは公開/非公開、っていう全体の取り扱い指定だけ。
 でも、自分にとっては非公開な情報も、管理したい。

 ということから、公開用の「egamiday_wiki」(http://egamiday.sakura.ne.jp/wiki/)とは別に、非公開・編集用の「wiki-p」(http://egamiday.sakura.ne.jp/wiki-p/)という別個のwikiサイトを作りました。「p」はプライベートの「p」です。
 media wikiのURLには記事の標題名が付きます、例えば、標題が「BULAC」だったら、URLは「・・・/wiki/BULAC」(公開)です。そこへもうひとつ「wiki-p」サイト(非公開)を作って、そこに「BULAC」記事を登録しますとそのURLは「・・・/wiki-p/BULAC」(非公開)です。
 で、下書き・自分用ノートとして「・・・/wiki-p/BULAC」(非公開)でいったん執筆・保存したあと、公開用に加工したものを「・・・/wiki/BULAC」(公開)にコピペして登録します。これで、下書き→加工→公開、という作業手順が可能となりました。

 とはいえ、公開ページと非公開ページを両方行き来するのはめんどいので、じゃあめんどくさくならないようにっていうんで考えたのが、サイドバーに相手側サイトの同名ページに行けるリンクを貼る、というのです。
 「wiki」サイトのサイドバーには「このページのp」というリンクがあって、同じ標題名を持つ「wiki-p」サイトのURLに直で、いますぐ、いまでしょ!(注:死語)って、とんでいけます。とんだ先の「wiki-p」サイトには「このページのwiki(本編)」リンクがあって、またすぐ戻ってこれる、ていう。これは標題名を変数にしてURLを自動で作ってもらっています。

●infoboxの導入
 wikipediaと言えば、あれです、記事の右側に四角く囲った欄があって、情報を整理してくれているっていう、表みたいなの。あれを「infobox」と言うらしいのですが、あれがあってこそのwikipediaだろうって極私的には思っていて、で、自分のにもこれはぜひとも導入したい。なんか、かっこいいし(笑)。
 これを導入するにはいろいろな魔法がいるらしくって、でももう何ヶ月も前のことだったし、結構試行錯誤させられたし、結果的にいまなぜ導入できてるかの理由もちゃんとはわかってないし、ていう感じなので詳しくは記しませんが、まあ、できるようになりました。
 ここにはメタデータ的な情報を区別・整理して載せられるようにしています。前述の「仮想wiki名」が一番大事なあれで、あとは記事タイプのラベルとか、更新日とか、自分用コメント(※)とか、そんな感じです。

●その他の小ネタ集
・分類は、はてなブックマークのタグでやるようにしています。理由は、media wikiのカテゴリはカテゴリ自体の管理・操作がすげえめんどくさい、一方で、はてブはタグの管理・操作がすげえ楽なので。infoboxにはてブタグ自体を自動的に表示できたらいいんだけどわかんないので、はてブタグへのリンクを貼っています。

・記事本文には「概要・トピック制」を導入しています。「概要」には、その標題について3行程度でざっくり把握(grasp)できるようなことを書く。詳細は「トピック」ごとに書く。(トピックの中の「概要」は概要・・・まあこのへんはむにゃむにゃ)

・infoboxもそうですが、記事本文の構成もある程度統一化できるように、「テンプレート」を用意しています、といっても、これもmedia wiki自体のテンプレート機能が何のことやらさっぱりわかんなかったので、「コピペ元」(http://egamiday.sakura.ne.jp/wiki/○コピペ元)っていうページをひとつ作っておいて、そこにコピペしたいテンプレートを書いておいて、ほんとにベタにコピペしてる、っていう原始的なの。できればゆくゆくは”板付き”にしたい。

・ちなみに、「○コピペ」「○凡例」のように標題名に「○」がついているのは、このwikiの管理・マネジメント用のメタ的なページだという印です。で、こういうときにはこういう印、的なのを「○凡例」ページにメモしてってる、という感じ。

・media wikiで一番イヤなのは、記述上で単純に改行しただけでは、表示上では改行してくれないということ。↓こんなふうになっちゃうんです。
(例)
----------------------------
歩いても(改行)
歩いても(改行)
ヴェッネェェェツィアァァァァァッ

歩いても歩いてもヴェッネェェェツィアァァァァァッ
----------------------------
----------------------------
歩いても(改行)
(改行)
歩いても(改行)
(改行)
ヴェッネェェェツィアァァァァァッ

歩いても
(1行空き)
歩いても
(1行空き)
ヴェッネェェェツィアァァァァァッ
----------------------------
 ↑なにこれ、ふざけてんの、誰が得するの??
 って思うんだけどしょうがない、これを解消してくれるのが「poemタグ」というものらしく、↓
----------------------------

歩いても(改行)
歩いても(改行)
ヴェッネェェェツィアァァァァァッ


歩いても
歩いても
ヴェッネェェェツィアァァァァァッ
----------------------------
 なんで、毎回で挟んでる、ていう。まあしょうがない。

・記事本文には「書誌」を1項目見出しとして設けていて、図書にしろ記事にしろ内容細目にしろwebページにしろ、とにかく次の情報収集へつながるような何かしらの情報を可能な限り記すようにしています。このwikiサイトで自己完結させることが目的でもなんでもなくて、やっぱり、よそへどんどん流れていったりつながっていったりする、そうしやすくする・そうなりやすくすることが、いまやろうとしていることのひとつの肝、だと思うので。
 同じ理由で、サイドバーにこの記事の標題名であちこちを検索しにいくっていうリンクを、これでもかっていうくらいに泥臭くベタベタ貼っています。

●今後の課題的なの
・参考文献と出典表記をどうやって管理しよう、ていう。いまは「(無印)=『本棚の中のニッポン』」のみで当座的に進行しているのみ。
・表記の統一、特に、標題の表記統一がうまくいっていないという問題。「ピッツバーグ大学」とか「East Asian Library(University of Pittsburgh)」とか「三井コレクション(University of Pittsburgh)」とか。最初にちゃんとしとかないから・・・。
・なぜか、ひと記事書くだけですげえ時間かかってるっていう問題。そのせいで、遅々として進まない。原因があるのか、あるいは、そもそもこんなもんなんだろうか・・・。

posted by egamiday3 at 16:53| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月31日

wikiを編む -- egamiday_wikiについての記録

 
 今年2013年、特にいろいろ考えたこと(http://egamiday3.seesaa.net/article/382179158.html)のひとつに「”コンテンツ”と”メディア”が会う/合う、ということについて」がありました。
 そのひとつが「ラジオ」(http://egamiday3.seesaa.net/article/382736874.html)。
 もうひとつが「wiki」です。

 今年の夏ごろから秘密裏にのんびりと、こういうwikiサイトを起動しはじめました。

 egamiday wiki
 http://egamiday.sakura.ne.jp/wiki/

 まあ端的に言えば、前々からいるなあって思ってて、やっと重い腰が上がりはじめた、という感じです。
 そこへ到った考えを記しておきますっていう。

 あたしは日々、まあ遅々とした歩みではあるものの、何かしらを勉強し、読み、情報入手し、得たものを消化して自分なりに頭の中で編纂しています。ただ頭の中で編纂するだけではまったく身につきそうにないので、書き出す、形に出す、アウトプットする、ということが必要になってきます。で、それをネットに書き出します。
 ネットに書き出す、というのは、あたしにとっては情報の保存作業であり、保存のための編纂作業であり、また公開してアクセス可能化することによって誰かしら何かしらの糧になればいいという情報発信作業、flow&connect作業でもあります。これを辞める、ということはおそらく当分ないでしょう、98年に初めてホームページ出してから15年ずっとやってきてることですから。
 インプットとアウトプット。
 自分にとってそれは呼吸と同じです。

 問題は、どうすればいい呼吸が楽にできるか、です。
 ネットに書き出すという作業をするにあたっては、現行でいろいろなツール、メディアがあります。blogであったり、twitterであったり、ときにUstreamのラジオであったり、単純なhtmlであったり、PDFをリポジトリに上げるであったり、嫌いで苦手なFacebookであったり、限定的なMLやグループ機能であったり、いろいろです。もちろん、紙による論文・寄稿や本というメディアもあるし、プレゼンなどで登壇する、展示を催す、というのもそれぞれメディアです。寄稿・登壇も今年はいくつかありましたし、本は去年出しました、どれもアウトプットのためのメディアのひとつです。
 こんだけやってりゃ、わざわざwikiなんてやんなくていいだろう、という考え方もあるかもしれない。twitterがあればblogなんかいらない、という人がいるように。
 でもちがいますよね。
 メディアにはそれぞれ特性、得意不得意があって、どのコンテンツも等しくどのメディアにでも合致するということは、まあまずあり得ない。このコンテンツを載せようとしたら、こっちのメディアではうまいこといかなくて、こっちのメディアを選択したほうがいい、ということは当然起こります。twitterで10も20も「承前」で連投するくらいだったら、素直にblogか何かにしろよって思う、とか。
 それが、「”コンテンツ”と”メディア”が合う」ということだと思います。

 で、前々からこれをアウトプットしたい、しなきゃ、ていう種類のコンテンツがありました。
 日々勉強しインプットしたことを、組織立てて編むように書き出した、”勉強ノート”のようなもののアウトプットです。
 あたしのいま対面してるこのレッツノートのパソコンの中には、たくさんのwordファイルがあります。それらは「○○_draft.doc」という名前がついてて、日々勉強しインプットした内容が章立てで組織化され蓄積されていく、という”勉強ノート”です。そういう仕組みです。
 それを、ローカルにではなく、ネットに書き出すというかたちを前提として、編纂し保存しアクセス可能化したい。

 その想いは、昨年『本棚の中のニッポン』を上梓してからのち、いよいよ強くなりました。ならざるを得なくなりました。
 『本棚の中のニッポン』は、海外の日本研究とその支援をする日本図書館について調査し、勉強し、その結果をまとめたものです。紙のリアル書籍です。本として、まとめて固着させてパッケージ化してアウトプットした、のはいいのですが、当然のことながら上梓したその直後からその内容は古くなっていきます。本というメディアは、みなさんご承知のように、組織化とパッケージ化とその流通には長けているものの、継続的更新や発展性という面ではさっぱりです。
 でも、あたしはこのテーマについて、勉強や調査や情報入手やその編纂というものを、継続的に更新し発展させていきたいし、いかなければならない、と考えています。それはこの職業についているものとしても、また個人としても、そう考えています。
 そのための、コンテンツのアウトプットを、”勉強ノート”のネットへの書き出し、というかたちでやりたい、やらなきゃ、ていう想いです。

 で、そのコンテンツに”合う”メディアってなんだ、ていう話です。

 これまでだと「blog」というメディアがその有力候補でした。
 ていうか、実際やってました。
 「海外日本研究と図書館のブログ」(http://jlablog.seesaa.net/)。
 やってたんですよーこんなの(笑)。記事らしい記事もあったんです、「トロント大学比較文学研究センター&東アジア研究学科の閉鎖・解体の検討→抗議の動き(まとめ)」(http://jlablog.seesaa.net/article/164831068.html)とか「セインズベリー日本藝術研究所」(http://jlablog.seesaa.net/article/165398139.html)とか。
 でも長続きしませんでした。”勉強ノート”というコンテンツにblogは合わなかった。
 組織立って積み上がらないんです、勉強した内容が。
 確かにblogは継続性に長けているし、固定URLもついて、保存と発信と更新には申し分ないメディアだし、積み上がるだろう、とは思うのですが、それは時系列上で一直線・一次元的に積み上がっているだけでしかない。組織化がなかなかできない。記事と記事が関連付いて、組織立って、文脈を持って積み上がってくれるわけではありません。タグやキーワードのような機能はあるでしょうが、組織化としては非常に貧弱でしかない。
 もっと言うと、時系列で積み上がるといったって、古いものはどんどん流れて消えていってしまう、そういうメディアです。Googleなどのピンポイントでダイレクトなアクセスでもなければ個々の情報に光があたることはない。blogはあくまで現在から未来への新規更新という一方向にしか矢印が向いていない。
 この10数年で計50近く(さっきざっと数えたらそれくらいはあって自分でもドン引きした)のblogをつくってきましたが、それでも、コンテンツに合致していなければそれを選ぶことはできません。

 docファイルをそのままアップロードする、ということも考えましたが、それは確かに組織化(章立て)されてはいるものの、記事が断片化されていないわけです。アクセス可能化をしようとしてるのに、アクセスが不便になっちゃう。例えばblogなら記事が断片化されて固定URLがついているから、Googleなどでダイレクトにアクセスしやすいし検索もされやすい。さっきはそれを否定しといてあれですが(笑)、そういう性格を備えたメディアでないというのは、いまのインターネット情報環境では相当ディスアドバンテージだというのは確かだと思います。
 かといって、htmlファイルをひとつひとつ書いていってwebサイトを構築、という昔ながらの中華そばのようなメディアを選ぶのもしんどいわけです、blogみたいにブラウザから直接書き込んで直接更新してっていうのに慣れきってる身で、いまさらそこへは、ていう。

 作成が容易で、記事ひとつひとつが都合よく断片化されて独立し、固定URLがつき、Googleで検索されやすくヒットされやすい、更新日の新旧に限らずアクセス可能で、かつ記事同士・情報同士が関連を持ってリンクされ、組織立てて積み上げたりつなげあったりできる、継続的な更新が可能な、webベースのツール。
 blogのように単純に上へ上へと、石の塔やピラミッドのように一方向に積み上げるのではなく、記事同士・情報同士が関連し合いつながり合って二次元三次元に広がりながら築きあげられていくような。塔を積む、ではなく、城を編む、ようなツール。

 あ、wikiだな、って思うわけです。

 注。「wiki」って言葉を、wikipediaっぽい、mediawikiその他を使って作る、あんな感じのツール、っていうぼんやりした意味で使ってます。

 ここで、じゃあwikipediaに参加してあそこに記事を投稿していけばいいじゃん、という考え方もあるでしょう。そのほうがたくさんの人がアクセスするしそこに貢献できるだろうし。
 それももちろん考えましたが、残念ながらそうはいかない。

 大英博物館 - Wikipedia
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%8B%B1%E5%8D%9A%E7%89%A9%E9%A4%A8

 「海外の日本研究と日本図書館」を主テーマとするあたしとしては、こうじゃないんです、「大英博物館」と言えばまっさきに「春画資料」を項目立てねばならんのです。「パリ」のページにはパリの日本図書館一覧が必要なんです。
 視座が、ちがうんです。
 それとあと、NBK。あたしがいま属しておりかつ愛してやまないこの機関、この組織、その図書館とそこにある蔵書資料について、もっと情報を組織立てたかたちで蓄積してflow&connectせねばならん。でも例えば、wikipediaの「長久保赤水」の項に「NBKが所蔵する長久保赤水の古地図は次の通り」(http://egamiday.sakura.ne.jp/wiki/長久保赤水)なんてことを記述したら、間違いなく怒られるわけです、たぶん古参の人に罵られて終わりです。

 だったらもう、自分でwikipediaつくっちゃおうよ、と。
 よくわかんないけど、つくろうと思えばつくれなくはないんですよね、と。

 言うんでつくったのが、さきほどの「egamiday wiki」(http://egamiday.sakura.ne.jp/wiki/)である、ということです。

 とりあえずは構築して、まずは夏の間にでも『本棚の中のニッポン』の内容を載せてって、そのあとで情報を追加していって・・・と目論んではおったのですが、遅々とした歩みでまだ本書の内容の半分も行ってません。まあ、ぼちぼちと、長い目線でやっていくあれかなと。それにしても遅いですが。

 egamiday wikiについて、「”コンテンツ”と”メディア”が会う/合う」という視点からの話はこんな感じかと思われます。
 実践編のメモ的なのはまたいつか。


posted by egamiday3 at 18:14| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ごあいさつ 2013→2014 (附けたり、「イタリア料理」を学ぶことについて)

 
 2013年中は。
 2014年も。

 特に2013年中は、今出川・新町方面、北山・半木町方面、ロンドン・Russel通り方面には深々とお辞儀をし拝み奉らざるを得ない感じのあれでしたので、この場を借りて厚く篤く熱くお礼申し上げます。

 毎年年末年始には「ごあいさつ」と称して、その時々折々で考えてたメディアとか情報とか情報発信とか図書館職務とかそういったことについての考えを書き記すみたいなのをやってましたが、2013年は特に年中そういうことをずっと考えてて、すでにいろいろ書いてあるので、(いい意味で)もういいやって。

 2013年は特におもしろいことが多かったので。
 年が去くのが残念だなあ、ってなかなか思わないようなことを思ってしまうくらいには、おもしろかったので。

 それでもなおひとつだけ、今年思いを改たにしたことと言えば。

 イタリア料理について。

 2013年正月にわりと長めにヨーロッパを旅行してて、イタリアの土地土地でいろんなイタリア料理をいただいて、あらためて、ああちゃんとイタリア料理のこと勉強せなあかんなあって。
 まず、言葉が、イタリア語が、イタリア料理語がちゃんとわからないから、店で注文したくても満足に注文できない、という悔しさ、機会損失への歯噛み。言葉だけじゃなく食材や調理法や料理や郷土のことも勉強してないから、さらに歯噛み。
 現地に行っても食えない、だけじゃなくて、じゃあたまさか美味いのをゲットできて至福の一瞬を得られたからといって、それを帰国して再度味わいたいからせめてまねごと程度でも再現しようったって、できない。
 まねごとすら、できない。
 まねごとしてみようとして、一切まねごともできなくて、そこで初めて、あ、自分はイタリア料理のことほんっっっっとに何にも知らんのだな、と思い知らされる。
 ていうか、オリーブオイル&バルサミコ酢、だけでこんなに美味いんだ、っていうことすらちゃんとはわかってなかったし。トマトで煮る、っていうのがどういうことかってことも、わかってなかったし。 

 勉強せなならん。
 と思うわけです。

 あたしは一応、和食風というか普段遣いのお惣菜的な料理ならまあそれなりに作れて、日々の生活での食事に困ることはない、一年アメリカに住んでてもアメリカンなジャンキーなフードに毒されず無事にいられた程度にはこなせるんだけども、それだってはなっから何の苦もなくこなせたわけでもなんでもなくて、ひとり暮らし始めた学生の頃から数年くらい、料理本を一生懸命睨みつけて、何冊も読み比べて、食材の使い方もちょっとづつ勉強していって、イカやアジを何回もさばいてゴボウや菜っ葉を何度も刻んで、っていうような、黒雲が低く垂れこめた中を陰鬱ととぼとぼと歩き続けるようなことを台所に立ってやってたわけで。
 そんなこともあったんだ、ということをすっかり忘れてて、いざイタリア料理ってなったら、ほとんどさっぱり何もできない。できるわけないですよね、まともに勉強してないんだから。
 てきとーにつくってみちゃったよ、てへっ☆.*:.彡、などというノリでできるものなんか、所詮その場限りのてきとーなものでしかない。

 砂を噛むような思い。
 はやる気持ちを抑えての、座学。
 食材・調味料ひとつひとつに真摯にむきあうという取り組み。
 失敗というコストを当然の念頭に置きながらの練習、試行錯誤。
 地味で地道で遅々とした、かつ気の遠くなるほど長い長い途のりに向かおうとする、歩み。
 っていうのをイタリア料理についてもまた一から、いやゼロからやらなあかんな。

 と考えるのと同時に、「イタリア料理」に限らず、いろんなことごとについて、本当にちゃんと身につけたい・成就させたい・育ちたいと思うんであれば、そういうふうにゼロからきちんと勉強せなあかんのだと。いや、そんなこと当り前すぎるぞ馬鹿かていう当り前さなんだけど、なんかちょっと最近いろんなことをぼんやりとこなしてて、そういう当り前のことをないがしろにしてたような気がするな、と。

 いうようなことを、イタリア料理を踏み台にして考えましたよ、っていう。

 とりあえずイタリア料理本を何冊か買って、付箋貼りながら読んだり、いろんなものをトマトで煮てみたりしてる、っていう。
 基礎的なことちゃんとできるようになったら、あのぶ厚くて高いシルバースプーンの本がほしい。

 そんな感じで。

 あと、それとはべつに。
 2013年夏は「Work & Write!」だとか言ってましたが。
 2014年は、もひとつ取り組まねばならんので、「Walk & Work & Write」で。

 まだまだ書くぜい。




 ・・・・・・あ、あとタイ料理も(ry

posted by egamiday3 at 10:54| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

極私的流行語大賞 2013

 
 毎年の、自分しか得しないリスト。

みつを
歩いても 歩いても ヴェッネエエエツィアアアアッ
イタリア (201301eu)
イタリア料理/オリーブオイル・バルサミコ酢
アンニョリ姐さん
《第○週》おら、〜〜〜
ダセぇくらいなんだ、我慢しろ (あまちゃんより)
私のことはほっといて (泣くなはらちゃんより)
無駄遣いするんだったら俺にくれ (リーガル・ハイより)
在野の研究者/若手研究者
東寺百合文書
トークセッション
大英博物館/ロンドン/春画/クーリエ
同志社/DUALIS
wiki
電子書籍 (極私的に今年が元年)
我々はなぜ”支援”するか
”ユーザ”はどこにいるか
”コンテンツ”/”メディア”

次点:
目は臆病、手は鬼
百学連環
山本覚馬 (近代京都としての)
ムニムニ野菜たまご (「梅宮大社前」の聞き間違えとしての)

posted by egamiday3 at 09:05| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

極私的・今年のアルファ本棚行きコンテンツリスト 2013

  
 うちの自宅には実際に”アルファ本棚”と読んでる本棚があって、自分にとって特にこれは、っていう本をかためて置いているのですが、そういう「これは」っていうのの書籍メディアに限らないコンテンツのリスト。

泣くな、はらちゃん (日テレ・ドラマ)
あまちゃん (NHK・ドラマ)
Woman (日テレ・ドラマ)
リーガル・ハイ(2期) (フジ・ドラマ)
キルラキル (アニメ)
『イタリアの街角から : スローシティを歩く』 (陣内秀信・書籍)
『知の広場 : 図書館と自由』 (アントネッラ=アンニョリ・書籍)
『物語 大英博物館 : 二五〇年の軌跡』 (出口保夫・書籍)
『大学とは何か』 (吉見俊哉・書籍)
『日本語が亡びるとき』 (水村美苗・書籍)
トークセッション「新資料館に期待する」 (催し)
「総合資料館の50年と新館構想」(井口和起・プレゼン@シンポジウム「総合資料館の50年と未来」)
Dennis Severs' House (展示?@ロンドン)
情報メディアの活用(平成25年度) (寄席@きぬがさ)
posted by egamiday3 at 08:59| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月24日

”うちとこ”のレファレンス・サービス

 
 図書館はまあいろいろ標準化を旨としているような業界ですけど、それでもやっぱり館によって事情は異なる、レファレンス・サービスのような定番サービスでも、いやだからこそ、「うちとこではこんなふう」ていうのはあると思うんで、そういうの気づかないところ多そうだしそれぞれで見せ合いっこしたらどうかなあ、っていうのの、じゃあ言い出しっぺから。
 最近うちとこのレファレンス・サービスを紹介する記事みたいなんを書かされたこともあって。

 うちとこは、学生先生研究員全部あわせても対象者100人いるかいないかくらい、しかも学生ったって博士後期課程以降以上の人しかいない、みんな研究しかしてない研究者の集まり的研究センターですので、一般的な教科書教科書したようなレファレンス依頼なんてものはまず来ないです。そりゃもうみなさん、それぞれの分野のそれぞれの道の文献資料情報に関してプロですから、知識量情報量で太刀打ちなんかできるわけがない。
 太刀打ちできないっていうか、基本、ほとんどの人が自力で調べに調べに調べ尽した上で、その末に図書館に来ますよね。一応ググってきましたどころの騒ぎじゃなく、**も**も**も**も****(「え、何そのデータベース知らん・・・(汗)」)も調べたんですけどねえ、わかんないんですよねえ、でも図書館の人ならわかるでしょ?、って。
 勘弁してください><;;
 っては思うんだけどそんなことおくびにも出さず、ちょっと時間くださいって引き取る。内心青ざめてるんだけど、そういうときに頼りになるのはうちとこの係のみなさんで、まあぶっちゃけ年下の人たちばっかりだけどでもうちとこでのそういう無茶ぶりを湯水のように浴びて育ってきたような人たちなんで、こういう問題にはこういうやり方があるんじゃないか、以前こういう質問があったときにはあの大学が頼りになった、みたいないい具合の感じのことをいろいろ教えてくださるので、ああ、ありがたいなあって。
 でもまあそれでも、研究研究した人たちに対してあたしらができるのは、新しい情報を見つけてくることというようなことではほとんどなくて、調べるための手がかりがこのへんにありそうでしたよ、とか、どこそこに問い合わせたらわかりそうでしたよだから問い合わせときますねとか。どうゲットしてくるかというよりも、どうパスするか(受け取るか&送り出すか)のほうだなって。それで、いや、それがいいんだと思います、うちとこみたいなんは。パスした上で、シュート自身は先生たちが決めはったらええんです。

 実例ですか? うんじゃあぼかして言うと、「ある本に月報があるかないかを問い合わせる」とか、「昭和初期の日本とフィリピンの為替レート」とか、「出版物への掲載手続きができるだけ煩雑でない図書館から、塵劫記の挿図コピーを取り寄せる」とか、「ザ・テレビジョンの何年から何年までの表紙全部みたい」とか、「この国のこの大学のこの図書館が公開してるこのPDFにこんなことが書いてあって、なんだかよくわかんないけどたぶん資料名っぽいので、そのコピー」とか。うちは外国人の先生が多いので、「チョベリバって何?」とか、あと多いのは「この日本語の使い方であってる?」みたいなんですかね。

 いや、もうよろず相談ですよ、うちなんか。ていうか単純な貸出・返却手続き以外は全部、レファレンスって思ってていい。対象者100人いるかいないかですから、もう、ほぼ全員の顔と名前と研究内容と利用者ID(!)はわかってるんで、カウンター越しに適当にしゃべってても、あ、この人これがほしいんやな、これで困ってはるな、ほんとはこうしてほしいんちゃうかな、なんとなくわかることも多いです。
 あ、ウソです、そりゃまあわかんないことのほうが多いです。わかんないし、たとえ質問文自体は似たようなもんであっても腹の中で欲しがってるものはめいめい勝手なわけなんで、できるだけ相手とコミュニケーションをとってしゃべってしゃべって、質問や調査の全体像をつかむ、背景をさぐる、過去にこの人が言ってきた依頼から考えて、今回のこの依頼ってこういうことなんちゃうんか、と推測する。
 そして時に相手を疑う。依頼者自身がはっきり意識してない問題点も多いわけなんで、こちらから質問してその真意を確認せねばならん。「先生、それってじゃあ、こうこうこういうことを調べたらいいんですかね」「あ、なるほどそれそれ」ってなる。そしてさらに相手の希望をこっちから掘りに行く。彫りに行く。いつまでにほしいのか。見つからなかったら代わりのものでもいいのか。日本語と英語どちらの情報がほしいのか。発表に使うのか論文に載せるのか現地へ行く予定なのか。そして、ほんとはこれがほしいのに遠慮してないか。
 そういうのって、じゃあその背景として先生たちがぞれふだんどんな調査研究をしてるのかっていう理解が必要になってくるわけなんで、そういうお一人お一人に時間をかけて対応ができるっていうのは、たぶんうちとこだからできるんだろうし、そしてできるんだからやんなきゃだよな、って思います。

 あと、うちとこのレファレンスって、最終的にILLにつながるのがほとんどなんですよね。ていうか、ILL依頼というかたちでレファレンスが来るっていうか。まあうちとこだけじゃなく研究要素の大きい大学図書館さんならどこもそうでしょうけど、結局、ILLとレファレンスとなんか未区分ですよね。「このことについて知りたいので、調べた上でそのコピー取り寄せてほしい」っていうのとか、「この文献の複写がほしいんだけど、どこにあるかどころか、それが何でどういうものかも、存在自体すらちょっとあいまい」っていうのとか、「とりあえず頭から最後までひととおり全部見たい」とかそういうの。だからレファレンス・サービスというよりは”ILL・コンサルティング”みたいな感じです。
 そうなるとどうなるかっていうと、レファレンスのまあまあ多くの割合を、他館への文献調査、が占めちゃうんで、それは他館のみなさんにすごい申し訳ないなって思ってます。この場を借りてどうもすみませんって。特に永田町・精華町方面にすみませんって。あと、吉田山方面にもすみませんって。まあ身内みたいなもんだしいいかって。
 それでも相手が図書館さんだったらまだレファレンスとして受け付けてくれるからいいほうなんですけど、半分は非・図書館、博物館とか文庫とか企業とか寺社とかそういうところになっちゃうわけじゃないですか。お寺さんに電話してすっげえ不機嫌な声で住職にねちねち言われるとか、そんなん。そりゃ不機嫌ですよね、戦前の百科事典にこの寺がこの写本持ってるって書いてた、って霞か雲かみたいな話を聞かされてるわけですからね。
 まあそれはともかく。要は、「自館資料でレファレンス行なう」ってことがたぶん極端に少ないのがうちとこっぽさかな、って思います。

 で、互助互恵が旨のこの業界ですから、よそさんからうちに文献調査の代行が来ることももちろんあります。あるはずです、大学で共同に利用する機関、ですから。あと、うちとこにはよそさんがあんまし持ってはらへんようなちょっとレアな、いやおかしな、いやレアな(笑)洋書とかマイクロフィルムとかがあるんで、遠方から実際に見に来られない人とか複写が欲しい人なんかからの問い合わせが、各図書館さん通して届きます。
 例えば何年何月の新聞に誰々の講演会に関する記事が載っているか、という問い合わせがあれば、その月の全日のマイクロフィルム、見つからなければ別の月のマイクロフィルムも1コマづつ探していきますよね。何々という本にこういう人物の記事が載っているか、と尋ねられれば探しますし、すぐに分からなければ手がかりとして目次のコピーを送ったりもします。
 外部・遠方からの問い合わせっていうのは、実際にその資料を自分の目で見て確認することってできませんから、あたしらがその人たちの目の代わりになるわけなんで、目耳代行としてはただ言われたことを機械的に読んで探すだけでもあれなんで、もしかしたらこの情報が手がかりになるかもしれない、とか、逆に、これは聞かれてないことだけどでもあえて教えてあげないと誤解が生じかねない、みたいなんもおそるおそる考えながら見ていく、そういう感じになりますね。
 まあこのあたりはよそさんでも同じふうにやってはるでしょうから、うちとこの、って感じでもないんですけど。

 よく考えたら自分、レファレンス・サービスらしいレファレンス・サービスに携わるのって、うちとこに来てからが最初のような気がする。ので、よそさんがどうなんかよくわかんないですが、とりあえずこんな感じです。

posted by egamiday3 at 20:56| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月23日

リーガル・ハイ 2期・第7話、伊東四朗のセリフの文字おこし

 
 リーガル・ハイ、というドラマの中で演説された、伊東四朗のセリフを文字おこししました。
 忘れるな自分、忘れてはいけない、という想いで。

 世界的に評価を得ている天才アニメーション映画監督・伊東四朗は、非常にストイックかつ厳格で、その名声とは裏腹な厳し過ぎる指導と劣悪過ぎる労働環境を理由に、アシスタント・穂積から訴えられます。訴えた穂積に対して、裁判所にて、語りかけるというシーンです。

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 穂積くん。
 私の本当の心を伝える。

 私は、君に、才能があると思ったことは一度もない。

 本心だ。

 細川にしても梅田にしてもそうだ。(※先に卒業して成功を収めたアシスタント)
 私の目から見たら、才能のある奴なんて一人もいない。
 どいつもこいつも馬鹿ばっかりだ。

 そもそも才能なんてものはな。
 自分で掘りおこして、つくりあげるものなんだよ。
 
 俺だって、天才なんかじゃない。
 誰よりも必死に働き、階段をひとつひとつ踏みしめてきただけだ。
 振り向いたら誰もついてきてない。
 怠けた連中がふもとでこうつぶやく。
 「あいつは天才だから」。

 冗談じゃない!

 ゆとりで育ったのんびり屋どもが本当に嫌いだ。

 俺より時間も体力も感性もある奴が、なんで俺より怠けるんだ!
 
 だったら、くれよ。
 無駄遣いするんだったら、俺にくれ。
 もっともっと創りたいものがあるんだ。
 俺にくれ!!

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posted by egamiday3 at 23:01| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

なぜブックツリーに胸が痛むのだろうか、を考えてみた

 
 メリー・クリスマス!
 というわけで、いわゆる”ブックツリー”です。

 最初にお断りしておきたいのは、この記事はわたくしの個人的・極私的な感覚・感情・感傷にもとづいてその感じ方を記す、という趣旨のものであるので、ここに書いてあるようなことをそうだと思う人もあればまったく心得ないと思う人もあって、いっこうまとまりのつかぬ話になるであろうことは随分承知の上で、なお自分の考えの整理のために書き記しています、ということです。
 目玉焼きは醤油かソースかとか、あちらのラーメン屋は美味くてこっちは不味いとかいう程度でしかないあれです。ラーメンブログです。
 まあつきつめればこれはそういう問題なのかもしれません。

 ↓こういうことがありましたそうです。

 明治大学和泉図書館のブックツリー - Togetterまとめ
 http://togetter.com/li/604802

 ある図書館が書物を積み上げてクリスマスツリーのディスプレイをした。(いわゆる”ブックツリー”)
 それを不快に思う人が少なからずいて、その不快を表明した。
 その表明を受けた図書館が、ブックツリーを撤去した。
 不快に思うことや、その不快を表明することのほうを、不快に思う人も少なからずいて、その不快が表明されている。

 おおむねそんなところ。

 わたくし個人は、ブックツリーの類、例えば問題の写真を見たときに、胸が痛むほうのタイプの者です。
 たぶん不快どころの騒ぎではないです。***か、**、*****、と思います。 

 で、なぜわたくしは「胸が痛む」のか、をちゃんと考えてみようと思いました。
 過去に似たような事件出来事やその写真を見て、「胸が痛む」こともあれば、とりわけては「痛まない」こともありました。わたくし以外の人には「どちらも同じではないか」というような写真でも、わたくしにはまったくことなる感覚・感情・感傷を覚えることがあります。

 それらをわかりやすく並べてみるとこうなります。

【胸が痛まないほう】
 |
@古書店や自宅で本が乱雑に山積みされている
 ∧
A床が抜けて散乱した個人蔵書
 ∧
B書店が新刊のベストセラーをディスプレイするブックタワー
 ∧
 ∧
----------------------------
(痛む/痛まないの分かれ目)
----------------------------
 ∧
 ∧
C図書館で、明らかに手の届かない高い位置の書架に、閲覧前提でなくディスプレイ目的で本が配架されている
 ∧
D図書館が装飾目的で行なうブックツリー
 ∧
E現代アートやインテリアで、本をばらまいたり積み上げたりしている作品
 ∧
F大量廃棄
G焚書
 |
【胸が痛むほう】

 いや、BブックタワーとDブックツリーの位置関係おかしいだろう。
 と、おおかたの人が思われるでしょう。そうだと思います。そのあたりが、これがわたくしの極私的感覚にもとづく所以かと思います。

 この”分かれ目”のベースにはわたくしの書物に対するひとつの一貫した考え方があります。
 「著作は人格であり、
  それゆえに、書物は人体である。」
 というものです。

 ↑めんどくさいでしょう(笑)。
 そういうことです、この話は。
 
 ひとつづつ考えます。

@古書店や自宅で本が乱雑に山積みされている
 http://www.dotbook.jp/magazine-k/wp-content/uploads/2012/09/zousyo_seiri01.jpg
 http://www.dotbook.jp/magazine-k/wp-content/uploads/2012/04/2%E5%BC%95%E3%81%A3%E8%B6%8A%E3%81%97%E7%9B%B4%E5%BE%8C1-e1333971666548.jpg
A床が抜けて散乱した個人蔵書

 @なんか、読むこと/読まれることを前提としてそこにある(実際読み切れるかはともかく)以上、何の問題もない。積んでるという外見と物理的状況が単に同じなだけです、意味することなんかDブックツリーとまったく違う。
 Aの床が抜けた蔵書も、抜けるまでは@と同じ。散乱し物理的なダメージを大いに受けたことはとてもとてもいたましいとは思うのですが、本として、その著作は読まれるものとしてあるいは愛されるべきものとしてそこに集められた。その愛は、ちょっとその床には重すぎたかもしれない、奇妙に偏った愛で床荷重として均等でなかったかもしれない。結果としての事故は不幸ですが、気持ちはよくわかる。

B書店が新刊のベストセラーをディスプレイするブックタワー
 http://book.asahi.com/clip/images/TKY201004170124.jpg

 正直いかがなものかとは思うのですがそれでも、そのいかがなものか感はどこか”半笑い”で見ています。なぜならこの書物たちは、物理的には多少無理をさせられているとはいえ、著作としての人格が否定されていることはないだろうからです。著作としてはむしろ大売り出しに値するという前提が先にあり、ていうか売りたいのであり、その著作を求める人がいればこの書店はすぐにでもこのタワーを解体して、是も非もなく求められる著作およびその書物を求めるその人にまちがいなく渡すでしょう。それが書店ですから。著作としての人格が否定されているわけではない以上、物理的な無茶は一時的なものとまだ寛恕できます。

 ここからが胸が痛む/痛まないの分かれ目です。

C図書館で、明らかに手の届かない高い位置の書架に、閲覧前提でなくディスプレイ目的で本が配架されている
 http://egamiday3.seesaa.net/upload/detail/image/IMG_6567.jpg.html
 http://egamiday3.seesaa.net/upload/detail/image/IMG_6558.jpg.html
 http://d3j5vwomefv46c.cloudfront.net/photos/large/755204769.jpg

 写真はバーミンガムと武雄からです。
 とても悲しく可哀相な光景だと思います。彼らはユーザからも図書館側からも、読まれること、手にとって触れられること、その思想情報にアクセスされることを前提ともされず、そこに配備させられて居ります。アクセスされる必要なしとの烙印を、本と著作とその思想と情報を大勢の市民に届け流通させることを存在意義としている図書館から、読者が極端に少ないであろう著作書物にとって社会的に最後の砦とでも言うべき図書館から、その烙印を押されてそこに居るのです。おまえの著作なんか誰に読まれなくたっていいよ、ただツラ構えがいいからそこに置いてやってるだけだ、背表紙だけ見せてりゃいいんだ、と。吉原ですかここは。いや吉原以下ですか。
 でもまだマシです。物理的に安定した取り扱われ方をされてはいるし、求められればすぐにでも何メートルのハシゴなりなんなりが登場するのでしょうから、アクセスを求めて拒否されることはないでしょう。と思いたい。

D図書館が装飾目的で行なうブックツリー
 https://twitter.com/kin_mokusei/status/412904412428787713

 アクセス云々だけでなく、「著作として存在する必要なし」とされ、人格を否定され、尊厳を否定され、その本来のあり方を一切捨ててただ物体としてそこに横たわれと命ぜられた書物が、人体が、そこに積み重ねられ、無邪気にデコレーションされている。
 わたくしは、気持ち悪いです。極私的な感覚にもとづいてだけ言えば、上記のような理由で、憤り以上にただ気持ち悪い。

 ユーザからの手に取るというアクセスに対して物理的以上に心理的に高い障壁を設けているのがブックツリーの構造です。B書店のブックタワーの中の1冊が求められたときには上から順に取ればいいだけでタワーは崩れないという、アクセス可能な構造。図書館のブックツリーは目指す本が中間にあるときそれを取れば崩れますから、崩れることを前提につくっているのでなければ、取って読むことも前提にしていないことになる。たとえ「言われれば取りますよ」と言ったとしても、ツリーの構造自体が「アクセスされることを前提としていませんよ」というメッセージを発していますから、よしんばそんな意図がなかったとしても、アクセスされるべき著作を、人格を否定している、とわたくしには見えます。
 複本とか電子があるとか関係なく、人格を否定した上でその人体を無邪気に積み上げているから、生理的嫌悪感を感じるという。

 クリスマスのデコレーションをしてユーザに喜ばれたいのでしょうか、だったら素直にクリスマスツリーを飾るといい、植木屋や玩具屋も潤ってなお喜ばれるでしょう。
 図書館らしさをアピールしたくて本を使うなら、縦に置いて手に取りたい人が自由に取って持っていける構造にすればいい、そういうブックツリーだってあるはずです。そのデザインに手間暇はかかるかもしれませんがいくらでも工夫の余地はあるでしょうし、ここまできてまさか面倒くさいもないでしょう。
 普段読まれない本を紹介したいならポップを書いて内容を紹介してカウンター前に面陳するといい、いま流行りのキュレーションです、というか我々の本来の仕事です、借りる人が増えれば本もユーザも図書館も幸福の三方よしです。七夕のようにオススメ本や感想文の短冊をつるすというツリーにしてもいい、そういう図書館も実際にあるようです。
 あるいは、このシーズンの一時的なイベントでしかないから、と言われるかもしれない。でもわたくしは、人格を否定し傷つけることなど一瞬あれば充分造作もないことだと理解しています。

 理屈はいいじゃないか、外国でもやってるんだし、そういうことが好きだし綺麗だし面白いからやるんだ、やったらいいんだ。
 わかります、その気持ちは気持ちだけならよくわかります。
 わたくしが極私的に気持ち悪いと感じるのに同様、ただ面白い、楽しい、好ましいという感想を抱く人が少なからずいるだろうことも十二分に理解しています。どちらが正しいわけでも間違っているわけでもないのでしょう。
 そして、ただ好きで綺麗で面白いだけでそれをやるのなら、ただ嫌で不快で行儀悪いと感じるだけの人びとと衝突することは避けられないだろうことも当然目論見の内に入れておかざるを得ない、ということだと思います。衝突してでもやるという覚悟。衝突したくないのなら唐揚げは小皿にとってから自分のにだけレモンを搾るという手間暇コストをかけざるを得ない。
 そして本は唐揚げではない。そもそも図書館の蔵書は図書館のものでもなければ図書館員のものでもない、社会人類の知的生成物を社会人類に確実に手渡すために社会人類から一時的にお預かりしているに過ぎない、そのことを忘れて自分のもの自分たちの持ち物だと錯覚してしまうと読者が少なければその人格を無視して別事別件自分たちの好きなことに転用していいとも錯覚してしまいかねない。図書館はあるからあるわけではないし、蔵書はあるからあるわけではない。それでもなお、ブックツリーというものでしか到底果たし得ない固有の働きが、機能があると、合理的理由があるということなら恥じることなくそう説き諭(ry

 うん、すみません、つい筆がつんのめりました。
 ただ、胸が痛む、という話です。

E現代アートやインテリアで、本をばらまいたり積み上げたりしている作品
 http://www.odditycentral.com/pics/book-desk-is-the-perfect-piece-of-library-furniture.html

 人にはこれがインテリアに、アートに、デザインに見えるのでしょうか。
 わたくしには「人の屍体が積み重ねられている」という地獄画にしか見えません。
 かつてこの写真を初めて見たとき、一目でリアルに吐き気を覚えました。すぐ閉じました。そしてこの記事書くためにまた見てしまったから、いまも気持ち悪いです。

 F大量廃棄やG焚書については、というか、いまちょっと気持ち悪いので、もうこれ以上ダメージを受けるようなことを考えたり書いたりするの勘弁してくださいという感じです。
 ここでF大量廃棄・G焚書を挙げたのは、要するに、Dブックツリーは自分にとってFG寄りの所行ととらえている、ていう。

 ただ、今回の批判から撤去という一連の流れは、議論のあり方としては残念だったかな、と思います。わたくしが不快とか胸が痛むとか気持ち悪いとかいうのは極私的感情に過ぎないということを自覚しています。それとは別に、本当にそれをやる必要がある/やりたいのであれば、それにもとづいて議論をしていいのではないか。議論としては別の様相がもしかしたらあったのではないか、ていう。

 いつか、日本の図書館でブックツリーが市民権を得る日が来るかもしれません。不快に思う人が少数派で多くの人が賞賛し喜び、当り前のようにあのようなディスプレイが行なわれる、そんな冬が始まるかもしれません。場合によっては業務としてわたくし自身がその所行に携わるなどということが、起こらないとも限りません、雇われ人ですから。
 ただ、**************、と思います。







 あと、目玉焼きは塩派です。
 唐揚げにレモンはかけない派です。
 それとラーメン、京都一美味い、ていうか日本一美味いと思っているラーメン屋は、ただ一軒、もうこれはまちがいなくあそこです、細麺で豚骨でそれでいてこってりし過ぎてもいないという、東(ry


posted by egamiday3 at 22:38| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月16日

(メモ)「竹内栖鳳展 : 近代日本画の巨人」@京都市美術館


・『龍神渡御の図』。板に絵馬として描かれた、庶民っぽいおめでたさを感じさせる絵が、神泉苑さんに蔵されてる、っていうのを見ると、ああ竹内栖鳳ってやっぱり京都のお人なんだなあ、と思うね。
・竹内栖鳳は動物絵がみんなやっぱお気に入りなんだろうけど、たんに動物絵でいいっていうよりも、単体の絵なのになんとなくストーリー性に富んでる感じだなあって。『象』の背中に乗ってる猿の、伸ばした手と、乗ってる鞍と、視線の先を飛んでる鳥とか。余韻的なの。あと『喜雀図』の雀たちにつけた演出(演出つけてるとしか思えん(笑)))。ただ動的とか活々とか、愛らしいとかだけじゃない感じ。

・竹内栖鳳は、京都に生まれて、四条派に学んだけど、円山・四条・狩野の作風を全部入りさせたような絵を世に出して「鵺派」呼ばわりさせたという八重さんのような人で(京都は鵺ばっかりか)、西洋美術にも積極的で、西洋画風の写実的な写生と日本画を融合させた、ていうようなのがあの動物絵みたいなの。その直接の契機が、1900(M33)年パリ万博の視察とヨーロッパ旅行。ものすげえざっくり言うとそんな感じ。
・一方明治維新後の京都は、いろいろジリ貧で、そこへウィーン万博(1873(M6))に日本が参加するっていうんで、京都の得意な日本伝統工芸、陶器・磁器・染物・織物の新開発なり外国人向け輸出なりに力を入れるようになってた。それでじゃあデザインの伝統的なのや新奇的なのをつくっていかなきゃねっていうんで、当時の画家(日本画家・洋画家)の人たちがそういうデザイン仕事に携わってらした。竹内栖鳳もそのひとりで、高島屋意匠部(なんてのがあったんだねえ)に勤めたはったんだよ、という話。そんな話を聞くと、当時はいまなんかよりよっぽどクール・ジャパンに取り組む世間の熱量が高かったんだなと。
・1900年のパリ万博に出品されたという『波に千鳥図ビロード友禅壁掛』、は、パネル展示でしか出てなかったけど、波の描かれ方といい、鳥と雲の遠近感といい、オランダかというような月光の明るい暗いといい、そしてその月の寒さ加減といい、もう身がふるふるする。パネルなのに。パネルのくせに、なまいきだ(泣)。
・ていうんであたしは、『ベニスの月』を見に張り切ってやってきました、壁にかかった2枚のでっかい『ベニスの月』、片一方は墨絵・高島屋資料館、もう片方はビロード友禅・大英博物館。そう、こないだ行ってきたあの大英博物館さんから、こんなでっかいなりしてようおいでやしたなあという。
 ところが実に残念なことに、展示ケースの中がやたら暗くて、作品がさっぱり見づらい。よく見ると、この『ベニスの月』2枚のところだけケース上の照明が切れてる。これがトラブルで切れてるのか、または意図的に(資料保存的約款的配慮的な)消しているのかはわかんないけども、暗い。いや暗いならいいんです、暗いだけなら暗いなりに鑑賞すればいいはずなんだけど、この展示ケースの向かい側正面にも展示ケースはあってそこの照明は煌々と灯っているもんだから、その光がこっちのガラスに映りまくってて、邪魔すぎてやかましすぎてベニスも月もあったもんじゃない、ていう。運河に映る寺院も波にさす影も薄曇りも、和の墨も洋の光も、余韻も幽玄も朧さも何もネオンサインみたいな光にてってか照らされてて、その光を避けるために一生懸命かがんだり斜め下からのぞきこんだりしている。なんだこれ、ていう。

・舞妓さんの『アレ夕立に』なんてのも人気のある絵なんだろうけど、本作や下絵、写生よりも、なぜかモデルを撮った当時の写真のほうに興味がいってしまう、ていう。おお、写真残ってるな、こっちのほうが貴重じゃないのか、ていう。

・竹内栖鳳といえば旅ですって。旅なんですってよ! だってあれでしょ、『羅馬之図』(海の見える杜美術館)もあるんでしょ。そうおもってウキウキしながら懸命に会場内を鵜の目鷹の目で・・・・・・ない・・・前期のみ展示だった><(大泣)。
・そのかわりに見れたヨーロッパの絵・その1『羅馬古城図』。おお、なんだ、ローマでおなじみサンタンジェロ城(https://twitter.com/egamiday/status/286913817047347200/photo/1)じゃん。てことはむこうにうっすら見えてるのはバチカンさん(https://twitter.com/egamiday/status/286913102920953856/photo/1)ですね、なるほどなるほど。
・ヨーロッパの絵・その2『和蘭春光・伊太利秋色』。なるほどまごうことなくオランダの農村。まごうことなくイタリアの遺跡。それでいて、なるほどなるほどまごうことなく六曲一双のために描かれた構図、ていう。絵はがき飾るんだったら迷わずこれなんだけどなあ・・・なかった・・・><。

・さておき、パリ万博(1900(M33))視察にあわせてヨーロッパの主たる各地、思いつくようなところの大抵をまわりにまわって約4ヵ月、その間に描き貯められた膨大な数の写生が・・・、ない、らしい。え、ないの? ひどい><(再泣)。
・そんな中で残っている品々。残ってた写生帖ひとつ。竹内栖鳳旧蔵というパリ万博図録。これに、おおぅ、竹内栖鳳の書き込みがある・・・これはほしい・・・。(注:もらえません) 
・そして竹内栖鳳が現地から日本に出したという絵はがき。ロンドンのクリスタルパレスのと、パリの万博会場の。いや、絵はがきだったらうちにも、それこそ博覧会絵はがきの類が山ほどコレクションとして蔵されてて、一応見慣れてはいるはずなんだけど、それは商品としてというか出版物としての絵はがきであって、やっぱりあれだ、絵はがきっていうのは手書きの私信が書き込まれてあってこそのものであって、パッと見にしろじっと見にしろ伝わってくる魅力、いや引力が全然ちがうなあと。ぐいぐいひっぱって来るなと。

・あと後半は、動物にしろ水辺や滝にしろ、写真がいっしょに飾ってあって、あ、写真だわあーい、写真があるとテンションがちがうね(笑)。

・課題。竹内栖鳳とパリ万博・ヨーロッパ旅行まわりの文献をもっと確認。

posted by egamiday3 at 21:52| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月15日

(メモ)「画像の効用」立命館大学文化情報学専修連続講演会(第6回)@ARC


 立命館大学文学研究科主催、文化情報学専修連続講演会の第6回、「画像の効用」、のメモ。

 2013.11.29
 http://www.arc.ritsumei.ac.jp/lib/GCOE/info/2013/11/post-100.html

●前半「画像の効用」(国文研・今西館長)
・参照:国文学研究資料館の平成26年度からのプロジェクト「日本語の歴史的典籍の国際共同研究ネットワーク構築計画」(http://www.nijl.ac.jp/pages/cijproject/index.html)(同館と国内・海外機関との連携で、日本古典籍約30万点を画像化・データベース化。平成26年度から35年度まで、約88億円)
・今回の講演の重点は、そのプロジェクトそのものについてではなく、その手前としての日本古典籍研究における画像情報の効用について。
・国書総目録は日本の文献学を飛躍的に向上させたが、戦前の所蔵情報が更新されないなどの難がある。
・戦後の追加情報、国文学研究資料館による各地の文献調査、国文研所蔵の和古書やマイクロの目録を含め、『国書総目録』と『古典籍総合目録』を統合するかたちで構築・公開したのが、「日本古典籍総合目録データベース」。
・国書総目録は古本屋が和本のヨミを確認するために重宝されてるよ、という話 。
・とはいえ、国書でわかることなんて限られてて、例えば撰集抄について「慶安三版(九冊)」「慶安四版(九冊)」とだけ書いてあるのを見ると、パッと見、あ、継続して刷られたんかな、と思いがちだけど、画像を見るとまったくちがうことが一目瞭然であるよ、と。
・逆に沙石集は数十年離れているんだけど、本文はまったく見た目がちがっても識語はまったく同じだよ、というようなこともある。
・そういう例が次々に紹介されています。
・寛永六年版『伊勢物語』の東大本と岩瀬文庫本を比べたとき、片方には手彩色入りの挿絵が含まれているが、もう片方にはそれがない。「目録データベース」上では「<寛永六版(二巻二冊)>東大,岩瀬」と記されているのみで、絵入りかどうかの別すらつけられない。
・というような例が次々と画像つきで説明されていて、その説明はその画像を見ながら聞けば一目瞭然なんだけど、その説明を個々にこうして言葉だけでメモしても、正直なんのこっちゃわかるまい、そのことこそが「画像の効用」なんだな、と思い知らされる、本来の意図ではないだろうけどw
・刊年が同じ本だってやばい。寛永六年版『伊勢物語』のAとBを比べると、Aには手彩色付きの挿絵がある。Bにはない。
・絵無し本は絵がなく、絵入り本には絵があり、絵がある方ではその直前のページがその段落で終わってのこりが空白でも不自然じゃないけど、絵無し本でそれをやっちゃうと不自然な空白になっちゃうので、絵無し本は丁によって行数がちがったりするんだよ、っていう話なんか画像無しじゃまず間違いなく伝わらんだろう、ていう。
・国文学研究資料館での文献調査でも、調査票に行数の違いなんかが報告されてくれてないという残念さがある、らしい。←これはほんまでっか?
・平家物語のカタカナ本かひらがな本かもわからない。そのカタカナ本とひらがな本には厳然とした区別があって、歴史系仏教系漢籍系書物であればカタカナ書き。ひらがな本は婦女子に広く読まれるのが前提。保元物語もそう。源平盛衰記もそう。太平記もそう。カタカナ本のひらがな本化には絵を伴います、ひらがな本で絵入りじゃないのはないと言っていいんじゃないかな。その原則的な使い分けが、厳密でなくなっていく時期がある。・・・・というようなことも、画像にすれば一目瞭然だけど、いまのデータベースにはぜんぜん記載されてない、という話。
・というわけで、そういったことがよくわかるように、デジタル画像として資料を公開することに意義があるんですよ、という「画像の効用」話。

●後半「海外古典籍デジタルアーカイブプロジェクト」 赤間先生
・参照:『イメージデータベースと日本文化研究 バイリンガル版』 (シリーズ日本文化デジタル・ヒューマニティーズ): 赤間 亮, 冨田 美香他
 http://www.amazon.co.jp/dp/4779504368
・たとえばV&A所蔵の浮世絵などはV&Aサイトのデータベースで画像が公開されているけども、それをデジタル化したのが当プロジェクトである。約2万何千というスケールのそれを実施した。ほかに大英博物館の和本など(北斎漫画など)。
・4年間で、イギリス3箇所、イタリア3箇所、ギリシャ、チェコ、アメリカ、など。
・これまで海外にある日本資料の調査ではおおむね、日本から行った日本人研究者のみが、簡易な目録などをとって、日本国内の紀要や簡易製本などで目録として発表、というようなことが行なわれるのがよくあるパターンだった。ところがこれが現地には評判が芳しくない。
・このプロジェクトでは撮影デジタル化した画像データを、現地に寄贈して来る、というのが基本。また目録作成についても、現地の目録規則にそってつくる。
・さらに、そういったことを日本のスタッフだけで日本のためだけにやるんじゃなくて、現地の院生やスタッフや研究者といっしょになって行なうんだ、ということ。
・称して「ARCモデル」。自炊型のデジタル化事業。研究者みずからが機材をセットアップして撮影できるようにする。というのも、デジタル化作業にはそもそも、対象資料に対する基本的な知識が必要である、と。。ARCではARC内で最低限の修復指導ができるようにしている、なぜなら、デジタル化作業に際して資料取り扱いへの臨機応変な対応が必要なため。
・これをふまえての、「国際型ARCモデル」。イタリアでは、現地学生研究者に参加してもらって自分たち自身で一連の作業ができるようにしてもらう。
・また2011年2月にはARCでワークショップを開き、各国から学生らに来てもらって学んでもらった。このワークショップで学んでもらったことを、現地に戻って作業を行なうときに他のスタッフにも伝えてもらう。(スキル・ノウハウが自律的に循環・伝播していく。)
・参加したベネチアの学生は、イタリアに持ち帰って、ARCスタッフなしで(日本とのネット遠隔打ち合わせのみで)イタリアでの作業チームをつくって実施することができた。
・このプロジェクトでつくられた画像は現地に寄贈される。
・イタリアからも日本からもどちらのスタッフもアクセスし共同作業できるデータベースをネット上に構築する。
・イタリア語目録(画像付き)を作成する。
・デジタル化しさえすればそれでいい、ではない。技術そのものの移転、情報の共有化、知識経験の移転、それによる人材育成。これがあるからこそ、いままで見向きされていなかったような小さな埋もれた日本コレクションに対して、研究の可能性を拓くことができるようになった。
・国際ARCモデルは、これまでマレガ文庫、フリーア、ナープルステクなどで実施されてきた。今後はライデン民族学博物館、ベルリン東洋美術館の予定。
・ARCサイトのデータベースでは、機関別DBや国別DBを構築している。ということは、現地の博物館のほうで(技術的事情その他などの理由で)公開できなくても、同様のデータベースがここに構築されていて利用でき、ということ。
・この仕組みはいつ聞いてもすごいな、汎用性がすごい。
・カメラ1台で1日実働8時間。浮世絵なら400枚、書籍なら1500枚。1週間5日間で、浮世絵1800枚、書籍130冊。
・このプロジェクトで重要なのは、高精細かどうかよりもむしろ速度。つまり1日・1週間でこの人数でどれだけ数をこなせるのか、ということである。(高精細かどうかは、いまの技術ではもうあまり問題にならない?)

・このあと質疑応答あり。
・この日、立命の寄席の学生さんを連れてきてレポート課題を課していたので、その学生さんたちに聞かせたい話をしてもらおうと、(ていうか、このままだとレポート書きづらいだろうから書きやすくしたげようと(笑))、いくつか質問を投げる。学校教育の現場での活用についてと、権利の考え方について。特に権利の考え方については、当時ちょうど指摘されてたhttp://blog.livedoor.jp/yatanavi/archives/53088776.htmlの件に絡んで、利用の邪魔にならないようにすべきだし、そもそも使ってもらったほうがいい、というコメントを引き出せたのですごいありがたかった。これを踏まえて、翌週の「著作権とデジタルアーカイブの活用」噺につなげた感じ。
・話の内容もそうだけど、「言葉が難しくてわかんなかった」「なんで京大の人がいたの?」などの経験を、教室外という場でさせることができたっていうほうが、もしかしたら意味あったのかもしれない。そういう経験これまでなかったのか?という疑問もあるにはあるけど、ともあれ、せっかく京都みたいな有象無象の人や機関や催しに気軽に触れられる土地で勉強してるんだから、自発的にそうする機会がないんだったらこっちが連れて行く、ていう勢いにしたほうがいいんだろうなと。これについてはもうちょっと考える。
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egamidayラジオ(仮)#003 同立/立同ナイト@京都(20121213)の記録

 
 ご当人たちからの”発注”を請ける、というかたちでラジオというメディアをコンテンツのもとに届けに参ったという、第3回でしたよ。
 概要は下記の通り。

egamiday ラジオ(仮)第3回
同立/立同ナイト@京都
https://sites.google.com/site/shikenhoso/003

・ゲスト・パーソナリティ
 DUALIS(同志社大学図書館情報学研究会)
 https://twitter.com/dualis_doshisha
 立図研(立命館大学図書館研究会)
 https://twitter.com/rittoken
・(ホスト・ディレクター: egamiday)

・2013年12月13日 19:30-20:30頃
・Ustream (アーカイブは2013.12.15現在公開あり)
 http://ustre.am/BxYV 
・ハッシュタグ
 #egamidayradio
・当日のtogetter
 http://togetter.com/li/602462
 ( http://togetter.com/li/602459 も)

・主なトピックス
-DUALIS & 立図研 自己紹介・活動報告
-図書館総合展参加報告
-関西・図書館系学生ネットワークへの道
-DUALIS TV(12/6放送)反省会

・放送場所 今出川新町の某DUALIS部屋
・機器 ヤマハ?の集音マイク+ノートPC
・映像 なし

 参照: 過去の記録。
・第1回
 http://egamiday3.seesaa.net/article/223145618.html
 http://egamiday3.seesaa.net/article/223256292.html
・第2回
 http://egamiday3.seesaa.net/article/357999046.html

 第3回当日の視聴者数は、ユニークユーザで56人、延べで111人でした。
 ご出演・ご同席くださった皆様、コメントくださった方、聴いてくださった方、聴いてくださってない方にも、皆々様に感謝申し上げます。

 以下、メモ。

・DUALIS&立図研の懇親会にお邪魔した席で、egamidayラジオ開催のオファーを請ける。横浜の図書館総合展での報告その他がしたい、とのこと。
・これは前回同様の考え方なんだけども、まだかたちにはならないけどもなにかしらの”コンテンツ”を持っている人たちのところに、「Ustreamで流すラジオ放送」という”メディア”を届けに来ることで、そのコンテンツが形となりメディアを通して多くの人びとに伝わっていく、そういう効果を狙うための、メディアとしてのegamidayラジオである、ということ。
・DUALISさんにしろ立図研さんにしろ、そういった意味ではまさに「いまだ可視化されていない魅力的なコンテンツのあつまり」だという目論見が前々からあったので、ほかならぬ当人たちから”メディア”宅配のオファーがあったわけだから、届けに来ない理由が微塵ほどもない、ていう。

・12/13ラジオ放送に先立ち、DUALIS側より、12/6にもわけあってUstreamのテストをしないといけないので来てくれないか、とのオファーあり。これについては、DUALISのみで独力の放送を企画・製作してみてはどうかと提案したところ、あっさりとこなしてのけられた、ていう。DULAISの自己紹介・活動報告が数十分の動画で放送され、華麗なるフリップ芸が披露されたという、それでいてアーカイブが残っていないという伝説の放送となった。

・12/13ラジオ当日。
・まずは、体調管理が万全でなかった自分が全て悪いのです、ごめんなさい、謝るしかない。しゃべりづらいし、聞き苦しいし、とっさのコメントがノドに絡んで咳しか出ない、ていう。><
・ところが、正直あたしいなくてよかったんじゃないかというくらい、DUALIS&立図研のメンバーのラジオ放送としての働きがすこぶる優秀だった。
 はっきりした大きい声で、整った日本語で語る語り手。語り手の語りがひと段落つきそうになるころに、その語りを受けた適切な質問や次のキーワードを投げかけ、トークの流れを仕切っていくパーソナリティ。沈黙の間を決して作らせず、適切に言葉をはさんで話題をつないでいくコメンテーター。イヤホンで音声を確認しつつ、次に誰にしゃべらせるかを指で指示するフロア・ディレクター。流れがひと段落しそうなころに割り入って、twitterでこんな質問が来てると見事にピックアップしてくるメッセンジャー。上級生からの無茶ぶりにまったく動じることなく「やります」とどこから湧いてるのかわからない自信を胸張って見せつける下級生。オープニングを飾る生演奏のピアニスト。しかもどれもこれもが、別に事前打ち合わせをしていたわけでもなんでもない。
 こいつら、プロか、と。なんか、あたしひとり騙されてここに座らせられてんじゃないか、というくらいの即戦力っぷりだった。
・これ、あたしいなくてよかったですよね?? 
・持ってきたコンテンツがまた上手い。「同志社と立命館のラーニング・コモンズ運営の比較分析」なんか、業界人必聴でしょうと。
・音声について、集音マイクの操作がちゃんとわかっていなかった。全体的に小さめだったらしい。遠めのメンバーからの声がリスナーには届いていなかったらしい。など少なからぬ反省点あり。音については事前の充分なリハーサルが不可欠かと思われる。これはUstream放送では永遠のテーマなんだろうけど。
・あとは映像がいるかいらんか。テレビがいいかラジオがいいか。これは要検討だろうなとは思う。

 というわけで最終的に、DUALIS・立図研両者でラジオ放送を始めるという口約束が出たので、これで所期の目的は果たせたな(ていうかそれが所期の目的でしたな)、という感じです。当ラジオが持つ”単体としてのメディア”の役割は、少なくともDUALIS・立図研に対してはその役目を終えました。”コンテンツ自身がメディアを持ち備える”ことになるわけなんで。
 
 そういった意味で、4月の第2回放送と12月の第3回放送、ともに、「コンテンツとメディアとがどう会う/合うか」を考える2013年を代表するようなイベントでした。
posted by egamiday3 at 11:55| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月08日

「ユーザはどこにいるか?」についての考えまとめ -- 2013年的な視点による

 
 なんか今年は思ったよりいろんなことがあったような気がして、もうそろそろまとめ的なことを書かないと年越せないんじゃないか、紅白で千円返してもらえないんじゃないかというんで、なんとなくまとめめいたことを考えてたっていう感じです。

 今年って、特にこういうことを考えてたよなあっていう、3点。

(1) 我々はなぜ”支援”するか
(2) ”ユーザ”とは誰か、どこにいるか
(3) ”コンテンツ”と”メディア”が会う/合う、ということについて

 いやこれ↑は今年に限らずだろう、ではあるんだけど、特に今年は、ていう。

 それで、(1)「支援」はもう下記でおおむね考えた感じなので、

・図書館はなぜ"支援"をするのか : いわゆる「若手研究者問題」に寄せて: egamiday 3
 http://egamiday3.seesaa.net/article/363278785.html
・「図書館はなぜ“支援”するか」. 『大学出版』. 2013.7, 95.
 http://www.ajup-net.com/daigakushuppan

 (2)の「ユーザ」について、2013年的な視点で考えたらこうなった、ていうまとめです。
 キーワードは下記のような感じ。
----------------------------
・日本専門家ワークショップ@NDL
・若手研究者問題
・武雄市図書館
・「知の広場」(アントネッラ・アンニョリ)
・京都府立総合資料館トークセッション
・大英博物館・春画展
・特定秘密保護法
・博物館紀要問題
----------------------------

 自分の仕事と立場から、あらためて、ていうか耳タコレベルで言うと。

・(メモ)日本専門家ワークショップ2013 の index: egamiday 3
 http://egamiday3.seesaa.net/article/331591534.html

 国際的に日本の文化を研究する人たちを支援するセンターの図書館司書という立場です。
 海外には、日本について学ぶ学生や研究者、日本の資料・情報が必要なユーザたちがいます。その支援をする現地の図書館・研究機関もあり、専門家もいるでしょうが、やっぱり日本にある資料・日本から発信される情報にアクセスするっていうことが求められるし、求めたいわけです。
 でも、そういう海外からのユーザをデフォルトで念頭に置いている図書館というのはそう多くはないでしょう。図書館に限らず、国内のあらゆる地域・種類の文化機関、学術機関、情報機関、企業、官公庁・自治体等々にとって、海外からアクセスしてくるユーザというのは決して無関係ではないはずなんで、ユーザとしてのご想定お願いします、と。いうのが、あたしの一貫したあれです。

 で、問題になるのは「海外かどうか」だけじゃないよな、ていうのをあらためて意識したのが、いわゆる若手研究者問題です。

・CA1790 - 若手研究者問題と大学図書館界―問題提起のために― / 菊池信彦 | カレントアウェアネス・ポータル
 http://current.ndl.go.jp/ca1790
・我々は「若手研究者問題」を観測できているか : #西洋史WG に寄せて: egamiday 3
 http://egamiday3.seesaa.net/article/362795408.html

 キャリアパスの関係上、一時的にでも大学の籍を離れる若手研究者が、図書館の資料・サービスにアクセスできなくなってしまう。それに対して大学図書館はどうしましょうか、っていう話。
 これが思った以上に関係者からはネガティブな反応が多くて、正直あれえって思ったんですけど、その反応ってやっぱり「ユーザは誰か、どこにいるか」という問題への意識の向けられ方の差に起因しますよね、ていう。実務上・リソース上の制限があるのは当然としても、若手研究者に限らず、学内・学外・海外に限らず、研究者・専門家・一般人の別に限らず、それぞれのニーズとその環境・社会の変化移ろいを、ちゃんと観測して、理解しなきゃだよな、って思うです。

 それをもっと一般化して言えば、「自分たちがイメージする、想定の中だけの”ユーザ像”にもとづいて、図書館のあり方やサービスを設計してないか」、そこを意識的に、反省的に考えたい、ということだと思います。

・武雄市図書館
 http://www.epochal.city.takeo.lg.jp/winj/opac/top.do
・図書館総合展「"武雄市図書館"を検証する」全文 - 激論、進化する公立図書館か、公設民営のブックカフェか?
 http://www.huffingtonpost.jp/2013/10/31/takeo1_n_4186089.html

 そりゃ賛否両論あるでしょう。これはあかんだろうと言いたいところもあればうなずけるところもあり、採り入れたいところもあれば反面教師にしたいこともあり。

 これはあかんだろう、のひとつといえば。
 「この図書館が気に入らない人は、よそへ行けばいい」、という言説です。
 あかんだろうとは思いますが、さてじゃあこれをあかんと言うのであれば、これまでの図書館だって等しくあかんと反省せなんところあるだろう、と。スタバやツタヤやアミューズメントパークのような図書館にだったら、あれだけの数のユーザが来る。それが厳然たる事実なんだったらじゃあ、そうじゃないこれまでの図書館はそういう客層の人たちのことを、果たしてどれだけ”ユーザ”として想定できて/していたんだろう、真摯に向きあってこれたんだろう、っていう。

 「想定の中だけのユーザ像」への反省、ということを考えずにはいられないわけです。

 似たようなことは、武雄さんとはうってかわって業界関係者に大人気の、アンニョリ姐さんの話からも学べると思うんです。

・イタリア語学科主催講演会「知の広場ー新しい時代の図書館の姿」 | 京都外国語大学・京都外国語短期大学
 http://www.kufs.ac.jp/news/detail.html?id=3eae071978e28fb904d9351d5a3ec734&auth=1
・「知の広場ー新しい時代の図書館の姿」アントネッラ・アンニョリ氏講演@京都 20130606: egamiday 3
 http://egamiday3.seesaa.net/article/365519665.html

 複雑化するユーザのニーズに応える、知の広場。
 応えるためには、ユーザを理解しなければならない。
 公共性を持つ文化機関・学術機関であれば、「想定の中だけのユーザ像」について反省し、思い込みや既存の枠組みをとっぱらって、ユーザは誰でどこにいるか、社会の動きや世界のあり方について、真摯に見つめ、理解しようとしないと。

 そういうことを、7月に京都府立総合資料館で催されたトークセッションではお話した感じでした。

・総合資料館開館50周年記念 トークセッション「新資料館に期待する」/京都府ホームページ
 http://www.pref.kyoto.jp/shiryokan/50shunen_talk.html
・ざっくりと、知的生産インフラ・知の揺籃インフラとしての図書館について、考えたことのメモ: egamiday 3
 http://egamiday3.seesaa.net/article/369162745.html
・トークセッション「新資料館に期待する」にて、極私的・心に残ったいくつか メモ (#総合資料館TS): egamiday 3
 http://egamiday3.seesaa.net/article/369447155.html

 新しい総合資料館様におかれましては、一般ユーザ、専門家ユーザ、研究者・大学ユーザのいずれをも受けとめることができるというその垂涎もののお立場を活かし、知の揺籃インフラとなっていただきますれば、あたしも一ユーザとして足繁く通わせていただくことになろうかと存じおります。

 ユーザは誰か、どこにいるか。
 一般・専門家・研究者に限らないし、国内か海外かに限ることもない。
 ユーザが求めるんだったら、どんな資料にも限定しないし、どんな活動・業務にも限定しない。
 「ユーザの無限定性」、それをふまえての「資料の無限定性」そして「活動の無限定性」です。

・大英博物館・春画展への”はじめてのおつかい”: egamiday 3
 http://egamiday3.seesaa.net/article/376964225.html

 羅馬路の道の果てよりもなお奧つ方のグレートブリテンに、美しき国の美しき春画を求める人たち=ユーザがいらっしゃるのであれば、行きます、運びます。だったら、おのれの専門分野が何だろうが館種・立場がどうであろうが、ユーザにとっては関係ない。ずっとお腹痛くても泣き言言わずにやるべきことをやる。そういう職業に就いてるんだということを、ある意味身体で実感しました、っていう。
 もちろん、自分一人・自機関単独でその責務がまっとうできるわけでは決してない。ユーザと資料とその必要性に応じて、他分野・他業界の機関や専門家の人たちと連携する、協働する、共に働く。あたしにとってはそういう人たちはみな、同僚です。colleagueです。課内の人も課外の人も同僚であることはもちろん、他館の人も、他館種の人も、偉大なるブリテンのMuseumの人も、偉大なる都のArchiveの人も同僚。研究者も、サイエンス・コミュニケーターの人も、URAの人も、出版社やwebサービスの人も。どんな活動を行なっている人であっても、疑うことなく自分にとっては同僚です。
 ちょっと逸れましたが、どんな資料を求める人でも、そのためにどんなサービスや活動や専門性が必要な人でも、ユーザに変わりない、っていう考え方の派生です。

 どの国にいる人でもユーザである。
 どんな資料を求める人でもユーザである。
 だったらもちろん、どんな時代に生きる人でもユーザである。そういうことになります。

・特定秘密保護法案に反対することにした - yuki_0の日記
 http://d.hatena.ne.jp/yuki_0/20131204/1386175959

 我々の世界の延長線上にある、「後世の,私のムスメの,あるいは私の孫の世代」の人びととその社会、そのことを真剣に考え想うからこそ、この問題はあれだけの議論になるわけだし、短期的な目で考えるべきではないだろうし、長期的・継続的な議論や検討をたゆまず続けていくべき問題なんだろう、と思うんです。

 ことほどさように、特に図書館業界とその関係界隈というのは、利用者・ユーザというものを下にも置かない。
 まあ個人的意見としては過剰な利用者至上主義はいかがなものかと思うものの、おおむねでは「ユーザが大事」という考え方には何の異論も出ないもんだ、と、思っていました。
 そこで、え?っと思った話がひとつ。

・日本博物館協会、「雑誌記事索引採録誌選定基準の改定等に関する要望書」を公表 | カレントアウェアネス・ポータル
 http://current.ndl.go.jp/node/24947

 確かに、ちょっと物言いなり姿勢としてはどうかと思うところがなくはない。けど、あまりにもあからさまにネガティブな反応ばかりが出たことに、ちょっと驚きました。ちょっと驚いて、やがて悲しき、そして、ああそういえばそうだったなあという感想。

 資料・情報、文化資源・学術資源の入手・アクセスを必要とするユーザは、言わば”受信者としてのユーザ”です。
 受信者側がユーザなら、”発信者としてのユーザ”も存在するはずです。
 図書館その他がメディアとして、媒(なかだち)として、流通のところを担うというんであれば、受信者も発信者もどちらもユーザに変わりない。というのが、あたしのかねてからの考え方です。

 発信者もユーザなんだったら、今回のこの問題はざっくりざっくり言えばアウトリーチの問題だろうと思います。バリアフリーでもいい。
 受信者としてのユーザに対してはあらゆる立場の人、バリアのある人、届きそうで届かないユーザに、手を変え品を変え知恵とおもてなしの心をしぼって、届けようリーチしようオープンにしようとしている図書館業界が、なぜか、発信者としてのユーザに対してはびっくりするほど冷淡になる、という現象について、あたしは前々から感じてて何かと気になってはいましたが、今回それが結構わかりやすいかたちで表面化したなあ、という感じでした。
 この博物館紀要問題へのネガティブ反応については、若手研究者問題のそれととてもよく似た空気感が流れてたな、と思います。まあ、どちらも、いろいろな立場からいろいろな考え方で議論して解決に向かってったらいいと思うので、その議論を阻むようなネガティブ反応は困るなあ、っていう感じです。

 相変わらず長いですが、もう終わります。

 ユーザは誰か、どこにいるか。
 日本だけでなく海外にもいます。学内にも学外にもいるし、市内にも県外にもいるし、過去にも未来にもいる。一般の人もユーザだし専門の人もユーザだし、半専門の人も週末専門の人もいるし、グラデーションです。情報流通の上流にいる人も、下流にいる人も、受信者も発信者も生産者も消費者も、思想の右にいる人も左にいる人も、反対派も賛成派もどっちでもない人もどっちでもある人も、ユーザです。どんな資料を求めるか、どんな文化資源・学術資源を求めるかも限らない。流行りの文化を消費するだけの人も、エンタメしか求めてない人も、いまこの場に、この図書館にいる人もいない人も、それぞれみな、何らかの意味でユーザである、と。ひいては我々が築く社会全体、我々をとりまくこの世界、それそのものもユーザであると言っていい。ていうか、言いたい。

 なんだろな、なんであたしってこんなに「ユーザ」というものにムキになってんだろ、と思わなくもないです(笑)。
 なんででしょう。

 それはたぶん、自分自身を一ユーザとしてとらえているから、だろうと思います。

 自分だって、この世界・社会の一員であり、一ユーザであることにかわりはないです。だから自分自身の問題。自分のいる社会・世界の問題。
 そして、ただいまいる場所やタイミングがちょっとボタン的にかけちがっただけで、どんな立場のどんな種類のユーザになっていたかもわからないし、これからだってなる可能性はいくらもある。
 そう考えると、若手研究者のことも、紀要発信者のことも、遠国の春画を求める人のことも、それを描いた絵師のことも、図書館学徒の娘のことも、スタバ・ラヴァーの人のことも、とてもじゃないけど他人事とは思えない。みな、自分の分身だなあって。

 「ユーザ」を考える、って、そういうことだと思います。



 「じゃあおまえ、自分が好きなだけだろ」って言われると、返す言葉がないので、まあじゃあそれでもいいです。(笑)

posted by egamiday3 at 12:31| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年11月18日

シンポジウム「総合資料館の50年と未来」に行ってきました・記録

 2013年11月16日、京都府立総合資料館で行なわれたシンポジウム「総合資料館の50年と未来」を聴いてきましたので、その記録です。


総合資料館開館50周年記念シンポジウム
「総合資料館の50年と未来」
平成25(2013)年11月16日(土) 10:30〜17:00
京都府職員研修・研究支援センター

「文化資源の保存・活用のために」吉見俊哉氏
「文化資源保存の重要性−マンガ研究の立場から−」吉村和真氏
「総合資料館の実力」松田万智子・岡本隆明
「総合資料館の50年と新館構想」井口和起
「新資料館と国際京都学センターに望むこと」長尾真

・【イベント】京都府立総合資料館開館50周年記念シンポジウム「総合資料館の50年と未来」 (11/16・京都) | カレントアウェアネス・ポータル
 http://current.ndl.go.jp/node/24620
・USTREAM: KPLA: 京都府立総合資料館
 http://www.ustream.tv/channel/kpla

・京都府立総合資料館開館50周年記念シンポジウム「総合資料館の50年と未来」 #総合資料館20131116 - Togetter
 http://togetter.com/li/591126
・「総合資料館の50年と未来」 参加記(前篇) - みちくさのみち
 http://d.hatena.ne.jp/negadaikon/20131117/1384686745

 当日結構たくさんツイートしたし、大根さんブログはあるし、さっき見たらなんかtogetter2つできてたし(笑)で、もうあたしのほうから特に付け加えることはあまりないので、以下、記録としてあたしのツイートを時系列で並べて置いておきます。適宜ご参照ください。
 (末尾の6桁数字は、時:分:秒)

 今回のシンポジウムでは特に
(1) 全体像を把握しどのような世界をデザインしていくべきかについて、吉見先生の「文化資源の保存・活用のために」
(2) その実現のため、具体的な活動方針・構想としての、井口先生の「総合資料館の50年と新館構想」
 の2つががっちり仕上がっていて、今後の文化学術資源やそのアーカイブにまつわる議論はここをスタート点として行なわれるべきじゃないか、と思うくらいでした。
 パワポ・配付資料が公開されたら一番いいんですが。出たら誰か教えてください。

・京都府立総合資料館50周年記念シンポジウム「総合資料館の50年と未来」11/16 1030-1700 吉見俊哉・吉村和真・松田万智子・井口和起・長尾真の各氏講演+ディスカッション #総合資料館20131116 (101454)
・(´-`).。oO(長い一日になりそうだ・・・) #総合資料館20131116 (101505)
・本中継はustream中継を行ないますって書いてあるけどそんなツイート流れてたっけ?? #総合資料館20131116 (101603)
・Ustream中継やるんですって>京都府立総合資料館50周年記念シンポジウム「総合資料館の50年と未来」 http://www.ustream.tv/channel/kpla #総合資料館20131116 (101938)
・まあいつもの通り、ゆるっと聞いて、ゆるっとつぶやきます。 #総合資料館20131116 (102056)
・5分ほど送れて始まります #総合資料館20131116 (103101)
・(´-`).。oO(どうせみんな午後にならないと来ないんでしょ・・・) #総合資料館20131116 (103430)
・始まるそうですよ #総合資料館20131116 (103551)
・副知事あいさつ。オープンな資料館にしたいとの意図。 #総合資料館20131116 (103914)
・北に国際港としての舞鶴、南に学術研究開発のけいはんな。そのけいはんなの旧しごと館を文化財の拠点に。それを結ぶデザイン。 #総合資料館20131116 (104252)
・グランドデザイン的な話をしている。 #総合資料館20131116 (104448)
・#総合資料館20131116 / “今日のニュース:京都府新副知事 就任へ抱負 山内氏、太田氏に聞くって話題になってるけど? - livedoor Blog(ブログ)” http://htn.to/qDDtUP (104752)
・吉見俊哉「文化資源の保存活用のために : 知識循環型社会における集合知と記録知の統合」 #総合資料館20131116 (104852)
・1000年の話をしますんで、1章目で500年の話をしますw #総合資料館20131116 (105003)
・序・文化とは何か。 #総合資料館20131116 (105032)
・カルチャーは、「文化」ではなく「人を耕す」ということ。 #総合資料館20131116 (105204)
・ナポレオンのフランスがフランス「文明」を大陸に席巻させようというのに対し、ドイツはドイツの「文化」があるんだという、文明vs文化の対立。この対抗軸が重要なんだ、という話。 #総合資料館20131116 (105341)
・宗教・神の価値観から、世俗の文明・文化へ。 #総合資料館20131116 (105438)
・ドイツの「文化」→大学。イギリスの「文化」→シェークスピア。国民の根拠としての文化。 #総合資料館20131116 (105547)
・ところが日本ではこの「文明vs文化の対立構造」がないままに文明も文化もふんわり輸入しちゃった。 #総合資料館20131116 (105629)
・(´-`).。oO(この序章だけで90分話してもらえんかな・・・) #総合資料館20131116 (105729)
・グローバルな「文明」秩序 vs 多様性としての「文化」 #総合資料館20131116 (105755)
・1・グローバル化と情報爆発の500年 #総合資料館20131116 (105847)
・(´-`).。oO(あてられたwww) #総合資料館20131116 (105906)
・大航海時代のグローバル化っていうのは短気に一気に起こった。そのキーになったのが銀。16世紀の銀産出はメキシコ・ペルー・日本の石見。 #総合資料館20131116 (110121)
・グーテンベルクとコペルニクスの話。 #総合資料館20131116 (110304)
・コペルニクスは、グーテンベルクによってもたらされた大量の書物に蓄積され流通された天文学的なデータをもとに、地動説にいたった。中世から近代への重大なメディア革命・情報革命。 #総合資料館20131116 (110452)
・16世紀の情報爆発・メディア革命。これは、中世的な大学システムのおわりでもある。知識を求めた放浪から書籍の流通へ。秘伝から公開へ(社会の記憶のあり方の変化)。 #総合資料館20131116 (110730)
・メディア革命が社会革命になる。宗教改革。科学革命。国民と国語(母国語)の形成。 #総合資料館20131116 (110758)
・21世紀の情報爆発。それ以前のマスメディアの発展(1対多)、文化の大量生産大量消費。からの、デジタル・ネットによる情報爆発。 #総合資料館20131116 (110952)
・グローバルコミュニケーション(グローバル化)+ビッグデータ(情報爆発) #総合資料館20131116 (111155)
・グローバルな知識循環型社会、について。近代(16-20世紀)は量的右肩上がりの豊かさ・大衆消費。21世紀は、一方通行の生産→消費ではなく、蓄積→リサイクルという循環による価値創造、ではないか。 #総合資料館20131116 (111451)
・(´-`).。oO(おい、MAULIは(c)偉大なのか!?!?) #総合資料館20131116 (111526)
・マスコミ型情報社会から→ネット×アーカイブ型知識社会へ。 #総合資料館20131116 (111638)
・日本って、非西洋の中では、近代と相当長々格闘してきたところなんだよね、っていう話。 #総合資料館20131116 (111714)
・大学人の立場から、知的価値創造のトライアングルについて。 #総合資料館20131116 (112059)
・(´-`).。oO(いまちょっとマジで大事な話だったので、聞き入ってました。) #総合資料館20131116 (112154)
・2・エンサイクロペディアと集合知 #総合資料館20131116 (112241)
・いまガンガンとばしましたw #総合資料館20131116 (112256)
・エンサイクロペディア的な知。フランス百科全書がもっとも重要なのは、大量の執筆者がいたということ。しかも過半数が学者じゃなく”実務者”。つまり知識の集積編集それ自体がネットワーキングなんだということ。 #総合資料館20131116 (112425)
・だから西周はエンサイクロペディアを「百学連環」と訳した。これは正しい。 #総合資料館20131116 (112539)
・近代日本における百学連関は、これは「研究会」だと思う。知のネットワーキングという「研究会」文化。いろんな研究会がうまれてきた。これはエンサイクロペディアなんだ、と。 #総合資料館20131116 (112652)
・3・アーカイブと記録知 #総合資料館20131116 (112735)
・311は、高度情報化社会で起こった、莫大な記録が残存する災害。 #総合資料館20131116 (112809)
・問題は、それらの莫大な記録がまとまらない、つながらない、その仕組みがいまの日本社会にない。いずれ消えるだろう。そうならないようにする、活かしていくのが我々の責務。 #総合資料館20131116 (112857)
・それぞれがムラのようにかたまって、連携・統合していけない。日本の一番弱いところ。 #総合資料館20131116 (112937)
・「どこにも属さない膨大なメディア文化資産」、これが新たなる文化資源としてあふれている。このことに、我々は311によって気づかされたのだ、と。 #総合資料館20131116 (113104)
・21世紀の2度目の情報爆発に対応するためには、「どこにも属さない膨大なメディア文化資産」のための仕組みが必要なんだ、ということ。 #総合資料館20131116 (113225)
・例:テレビ番組の脚本は数百万規模であるはずだが、多くがすでに散逸。「どこにも属さない」ため。 #総合資料館20131116 (113413)
・(´-`).。oO(これ15回講義で聴きたい・・・) #総合資料館20131116 (113434)
・例:有名どころでない人びとによる記録映像。これも失われていく。記録映画のアーカイブ化が必要。 #総合資料館20131116 (113558)
・4・知識循環型社会の価値創造基盤。 #総合資料館20131116 (113611)
・リサイクル・利活用の仕組みをどう構築するか。 #総合資料館20131116 (113742)
・20世紀の大量消費社会から、→21世紀の知識循環型社会へ。MALUI連携。 #総合資料館20131116 (113911)
・(´-`).。oO(なぜか「MALUI連携」を口にすると半笑いになってしまう現象) #総合資料館20131116 (113949)
・知的財産を公共的に利活用できる仕組みが必要なんだよ、まじでそうなんだよ・・・ #総合資料館20131116 (114144)
・人づくりが必要。専門職としてのデジタル・キュレーター。その育成と雇用。地域サポーター、地域エディタ、デジタルアーキビスト。大学院重点化で量産されたポスドクの専門性を活用すべきではないか。 #総合資料館20131116 (114327)
・”わかりやすい”文化資源だけではなく、我々とともにあるなんでもないような文化資源、多種多様な文化資源。それをとりあつかえる専門的なナショナル・アーカイブが必要。吉見説では京都・東京・仙台に。 #総合資料館20131116 (114520)
・ロンドンからオリンピックのあり方がかわりつつある。スポーツ・経済だけでなく、文化的基盤の整備をめざしての2020東京五輪であるべき。 #総合資料館20131116 (114702)
・おしまい。 #総合資料館20131116 (114724)
・I'm at Chang Noi http://4sq.com/1ihCVC0 (124846)
・もうすぐ再開 #総合資料館20131116 (130929)
・Ustream中継やるらしいよ。午後は京都精華大学漫画学部の吉村先生や我らが長尾真先生など。>京都府立総合資料館50周年記念シンポジウム「総合資料館の50年と未来」 http://www.ustream.tv/channel/kpla #総合資料館20131116 (131211)
・(´-`).。oO(暖房故障のおしらせ・・・) #総合資料館20131116 (131311)
・再開します。 #総合資料館20131116 (131511)
・吉村和真「文化資源保存の重要性 : マンガ研究の立場から」 #総合資料館20131116 (131529)
・京都国際漫画ミュージアムの概要。マンガ研究と文化資源の問題。 #総合資料館20131116 (131632)
・会場のほとんどがマンガミュージアム行ったことあり。さすが。 #総合資料館20131116 (131656)
・マンガミュージアムは、アーカイブ+人的交流拠点として構想したんだけど、当初はマンガ収蔵庫の予定だった。だが最重要は旧龍池小学校の地元の人たちの理解。地元の人たちの小学校への思いはとても熱い。 #総合資料館20131116 (131937)
・建物はほぼそのままのこす。運動場は芝生で人びとが過ごせる場所。これがこのミュージアムらしさになった(当初は予期していなかった)。地域の人びとやマンガ読者によって産み出された”場”。 #総合資料館20131116 (132201)
・地域の人びとの関心と期待は、”地域”と”世界”にあった。 #総合資料館20131116 (132240)
・(´-`).。oO(ああ、これじゃあ、マンガミュージアムが人気なのはあたりまえだなあ) #総合資料館20131116 (132316)
・メインギャラリーで展示をしてマンガについて説明・提示するんだけど、日本人は興味を持たない。なぜなら、マンガのことをもうわかってる(あるいはわかってると思ってる)から。とのこと。 #総合資料館20131116 (132434)
・30万点所蔵のうち5万点が開架。 #総合資料館20131116 (132458)
・(´-`).。oO(京都の中心の古い小学校の建物をいま文化施設として再利用しているところって、ほんとに宝だと思うなあ) #総合資料館20131116 (132614)
・いま全国にマンガアニメ関連施設は結構あるが、その職員はローテーションの非専門家が多い。ここでは京都精華大学という「U」が関与する。 #総合資料館20131116 (132755)
・新しい観光拠点としての集客促進。 #総合資料館20131116 (132946)
・秘密のスライドなのでツイートは控えます。 #総合資料館20131116 (132959)
・既成概念にはおさまらないという意味での「ミュージアム」の体現、ということかな? #総合資料館20131116 (133104)
・サステナブルな運営をどう行なうか。という問題をふまえると、大学Uが関与する意義は大きい。 #総合資料館20131116 (133157)
・取材は1日2件ペース(!?) #総合資料館20131116 (133302)
・マンガのアーカイブにとって最大の問題は、マンガは”捨てる”もの、だということ。捨てられる、価値があるかないかが定まらないものをアーカイブ化するということ。 #総合資料館20131116 (133656)
・A級は公的機関がのこす。C級はマニアがのこす。B級がのこらない、という問題。 #総合資料館20131116 (133734)
・もうひとつの問題。そもそもマンガを研究して一体何になるのか? #総合資料館20131116 (133827)
・マンガは文化依存度が高く本来は読むことが難しいはずなのに、我々日本人読者は簡単だと思っている。そこに議論を吹き込むための、アーカイブ、ミュージアム。 #総合資料館20131116 (133942)
・麻生首相のときにマンガ施設に批判が殺到した。批判されるてもある意味当然だろう、あってあたりまえと思ってるから。 #総合資料館20131116 (134055)
・日本国内でこれだけ大量に生産され流通され消費されそして捨てられる。そしてあぶさんは引退するとき球場でイベントやった。我々の社会に影響がないわけがない。 #総合資料館20131116 (134318)
・このような存在に対して、既存のミュージアム・アーカイブのあり方、ひいては研究・学問のあり方すら、通用するのか、くつがえるんじゃないか、という考え方。 #総合資料館20131116 (134407)
・(´-`).。oO(やばい。マンガやばい。) #総合資料館20131116 (134424)
・おしまい。 #総合資料館20131116 (134505)
・松田万智子「総合資料館の実力 文献課編」 #総合資料館20131116 (134610)
・文献課は、京都府立総合資料館の”図書館機能”のところ。京都の資料を重点的網羅的に収集し、灰色文献・個人発行物・寄贈なども。 #総合資料館20131116 (134727)
・文献課によるレファレンス事例の紹介、のターンみたいです。 #総合資料館20131116 (134858)
・#総合資料館20131116 / “吉村和真 - Wikipedia” http://htn.to/SKUce1 (135222)
・歴史資料課・岡本隆明「総合資料館の実力 : 歴史資料課当時百合文書編」。歴史資料編です。 #総合資料館20131116 (140839)
・1967年の論文である百合文書が取り上げられてるが、典拠の書き方が「東寺百合文書のうの1から12のうちのどれかにある」という書き方しかできなかった。なぜなら、当館による目録整備以前だったから。 #総合資料館20131116 (141149)
・「う」の箱の中の様子(当時)が写真として紹介されてるけど、何というか、鼻紙のくずかごみたいになってる・・・ #総合資料館20131116 (141326)
・整理・目録・修繕、たいへんだったんだな・・・・>< #総合資料館20131116 (141351)
・劇的!百合ビフォー&アフター、の話 #総合資料館20131116 (141438)
・web上での百合文書の存在感は?という話 #総合資料館20131116 (141835)
・(´-`).。oO(Bing!?) #総合資料館20131116 (141842)
・情報爆発の中で、府立総合資料館が発信すべき情報が埋もれてしまっている。これをなんとかしなければならない! #総合資料館20131116 (142059)
・専門家・研究者・知ってる人にとっての百合文書=総合資料館、そんなものは知られてて当然。一般の人にそれが届くかどうか、という問題。 #総合資料館20131116 (142146)
・総合資料館がやろうとしていることと、利用者が期待することとの間に食い違いがないか。世間一般の流れとしてどうなのか。 #総合資料館20131116 (142236)
・おしまい。いまのはよかった。 #総合資料館20131116 (142331)
・井口和起「総合資料館の50年と新館構想」 #総合資料館20131116 (142401)
・井口先生の配付資料の充実度がすごい!これはベストプラクティス行き! #総合資料館20131116 (142519)
・(´-`).。oO(この先生のパワポの使い方いいな・・・>テキストの背後に半透明の写真があって、テキストよりもその紹介をしている。) #総合資料館20131116 (142704)
・総合資料館はもともと府立図書館のうまれかわりのはずだった。実際には存続。 #総合資料館20131116 (142920)
・総合資料館は、図書館法にも博物館法にももとづいていない、府条例によるもの。 #総合資料館20131116 (143042)
・(´-`).。oO(やべえこれはツイートできねえ) #総合資料館20131116 (143322)
・学習室。これが一般市民へのアピール度が高い? #総合資料館20131116 (143504)
・「知る人ぞ知る」総合資料館?→知らない人はまったく知らない。 #総合資料館20131116 (143559)
・レファレンス力は確かに高い。しかし、それでも当館にあるのは京都の文化資源のごくごく一部でしかない。思い込み・固定化は危険。 #総合資料館20131116 (143819)
・現代京都に関する史料の収集保存継承公開への関心が、薄いのではないか? #総合資料館20131116 (143854)
・1京都資料に特化。2公文書館機能。3研究学習教育支援ネットワーク。4北山ゾーン。 #総合資料館20131116 (144019)
・公文書というのは、文化財の問題ではない、民主主義の問題なんだ、と。 #総合資料館20131116 (144056)
・(´-`).。oO(実は公文書館のほうがよほど理解してもらいづらいのかもしれん) #総合資料館20131116 (144149)
・RT @negadaikon: うむ。交通費払って来た甲斐はあったな。 (144156)
・(´-`).。oO(このシンポ、3日くらいやってくれんかな) #総合資料館20131116 (144231)
・非文字資料。現代資料。地域資料。なお、デジタル化は必須である! #総合資料館20131116 (144313)
・府立総合資料館新館における役割のひとつとして、地域資料文化資源の所在情報(館内外)の共有とネットワーク化。これはマジ。 #総合資料館20131116 (144439)
・知る人ぞ知る、来館者を待っている資料館ではダメだ。こっちから出かけていって、働きかけて、修学旅行生に立ち寄ってもらうために旅行会社に売り込みにも行くような、そういう資料館に! #総合資料館20131116 (144554)
・京都学=地域学は、地域の抱える問題解決と活性化のための学問、ではないか。(伝統京都の文化力云々にとどまるのではなく) #総合資料館20131116 (144741)
・そのためには、研究力、人脈、コーディネート力。 #総合資料館20131116 (144912)
・(´-`).。oO(放談www) #総合資料館20131116 (145019)
・日本文化なんて簡単に言うなと。各地に多様な文化があるんだから、その「comparative studies」が必要。 #総合資料館20131116 (145217)
・「出かけ、働きかける」資料館へ。おしまい。 #総合資料館20131116 (145309)
・長尾真「新資料館と国際京都学センターへの期待」 #総合資料館20131116 (145337)
・分析的なデジタル化による調査研究の必要性について。 #総合資料館20131116 (145706)
・異種デジタル文化財の統合的利用としての”京都学”について。 #総合資料館20131116 (150346)
・人・国を問わずアピールできる見せ方と、それができるレベルの人材、について。 #総合資料館20131116 (150459)
・「文化資源特区」? #総合資料館20131116 (150538)
・古い古い蔵の隅に眠らされている文化資源について。 #総合資料館20131116 (150557)
・そこで、旧・私のしごと館ですよ! #総合資料館20131116 (150700)
・各地の個人・寺社などの所有する文化資源を寄託してもらって、あのだだっぴろい場所を活用して、保存・修復・デジタル化をやっていこうぜ!ていう。 #総合資料館20131116 (150757)
・免税や優遇。それが伴わないとなかなか個人所有の文化資源は活用できない、ていう話。 #総合資料館20131116 (150832)
・災害時の緊急避難的な場所としても、活用できる。>旧・私のしごと館 #総合資料館20131116 (150917)
・(´-`).。oO(私のしごと館がこれほど人気なことがあったろうか!) #総合資料館20131116 (150938)
・それには目録の充実と検索システムが重要だよ!というごもっともな話。 #総合資料館20131116 (151014)
・その、国際的発信。そしてやっぱり2020東京五輪。 #総合資料館20131116 (151217)
・なぜ「京都」か? 1000年の歴史のうち戦乱も多かったが、そこをしぶとく生きてきた都市と人びとの生命力と活動、その経験が活かせるのでは。 #総合資料館20131116 (151443)
・(´-`).。oO(これがほんまのKYOTOプロトコルやな!) #総合資料館20131116 (151512)
・おしまい。休憩のあと、ディスカッションです。 #総合資料館20131116 (151558)
・(´-`).。oO(バッテリーチェンジ) #総合資料館20131116 (151611)
・吉見先生。震災資料は国際的なコラボレーションをとっていく機会になり得る。日本は歴史を通じて大きな自然災害を受けてきた経験のある社会である。世界人類の共有のものにできるのではないか。負の遺産をプラスに価値転換していける。 #総合資料館20131116 (153648)
・だから日本だけでやっていてもダメで、国際的に蓄積していくフレームが必要。デジタルならできるはず。そういう連携の仕組みを作っていくことそのものがミュージアム・アーカイブのこれからの可能性になり得るのではないか。 #総合資料館20131116 (153658)
・吉村先生。日本のマンガの翻訳版と、世界で作成表現されている漫画。後者について、海賊版もあれば、ローカルな創作もある。創作は実は先方から熱心に売り込みに来る。 #総合資料館20131116 (153827)
・一番やっかいなのは、日本に向けて海外の漫画の魅力を届けること、これが一番ハードル高い。のちのち手を伸ばす可能性を見込んでの収集は必要だし、その経緯自体が研究対象になる。 #総合資料館20131116 (153846)
・(´-`).。oO(吉見せんせ、たいへんだな・・・) #総合資料館20131116 (153931)
・吉見先生。MALUIにはK(公民館)が加わるべきだろう。K(公民館)はイコール、地域、である。 #総合資料館20131116 (154018)
・我々は近代的枠組みを前提にMALUI・Kの機能を分化して考えてしまうんだけど、そもそもで言えば一体で考えるべきだろう。我々が知の営みとして古代から行なってきたはずのことがいまITで再現されている。 #総合資料館20131116 (154247)
・長尾先生。ネットワークの整備、オープンデータの整備によって、相互利用が進んでいくだろう。ただプライバシーは問題。震災のアーカイブもそう、NY911資料も6割が公開不可。 #総合資料館20131116 (154532)
・吉村先生。地域連携について、マンガミュージアムはコミュニティの場所的インフラとして使ってもらっている。これはストレートに理解を得るのに効果的。 #総合資料館20131116 (154637)
・井口先生。洛北高校の校舎改築には関与できなかったが、鴨キ高校では資料保存に関与していっている。フィルムとか蔵書とか非常に貴重な資料群がある。 #総合資料館20131116 (155042)
・同志社の渡辺先生登場。 #総合資料館20131116 (155138)
・西村精一・府立図書館長の話。 #総合資料館20131116 (155455)
・ディスカッションのターン。Ustream中継やってますよ。>京都府立総合資料館50周年記念シンポジウム「総合資料館の50年と未来」 http://www.ustream.tv/channel/kpla #総合資料館20131116 (155603)
・大学図書館がdisられている・・・ #総合資料館20131116 (161630)
・(´-`).。oO(偉大に「挙手しろ」と脅されたんだけど、ずっとちがう話題が続いてるんだw) #総合資料館20131116 (161750)
・(´-`).。oO(これは司会が上手いからいい具合に話題が続いてるんだよな。学ぶべき。) #総合資料館20131116 (161924)
・井口先生。大規模なデジタル化って、外部業者に委託するしか実際問題ないんです。費用がものすごくかかる。メンテにも。こんなことが自治体レベルでできるんだろうか?今後コストはさがるのか? #総合資料館20131116 (162609)
・長尾先生。かつて1ページ80円だったのが、Googleなら10円。ただしGoogleもコピーを持つ条件、というのがひっかかり、そこに依頼することができなかった。 #総合資料館20131116 (162804)
・一時期に大量に行なう、というのは、業者の対応、必要な設備、人の雇用がまったく異なる。少量少額でも毎年コンスタントにこつこつやる、というやり方だと単価は抑えられるんではないか。 #総合資料館20131116 (163038)
・一気に大量に、ていうのは、ほんとあかんのだ。あたしが言えたあれじゃないけど・・・ #総合資料館20131116 (163104)
・吉見先生。デジタル化のコストは下がっていく。持続的な予算確保ができればコストは下がる。ただしそれを”使えるもの”にするにはいくつかの問題がある。 #総合資料館20131116 (163249)
・まずメタデータの標準化。それと人材確保と育成。法的権利処理。せっかくデジタル化しても使えないというのはたくさんある。 #総合資料館20131116 (163414)
・井口先生。あまり難しくない標準化されたメタデータの仕組みが必須、急募。 #総合資料館20131116 (163612)
・吉村先生。司書学芸員の資格取得者を対象にプラスマンガに特化した育成を行なおうとしている。2015年から。 #総合資料館20131116 (163817)
・人材育成をサイクルとして考えている。 #総合資料館20131116 (163838)
・海賊版翻訳マンガについては、出版側は規制しなければならない。研究者側は保存したい。 #総合資料館20131116 (163944)
・言い値でやるのはもうやめよう。業者さんとどういい関係を築けるかが鍵。 #総合資料館20131116 (164030)
・ガチで質問&聴いてたので、ツイート無しで #総合資料館20131116 (165704)
・井口先生。アーカイブの構築と発信は相当の努力が必要、そういうことが学べた一日でした。おしまい。 #総合資料館20131116 (170027)

posted by egamiday3 at 12:53| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年11月11日

《メモ》同志社大学・竹林熊彦文庫見学のメモ(2013.11.3)


 関西・関東合同文脈の会合宿(2013.11.3)にて、同志社大学図書館の竹林熊彦文庫を拝見してきました。その極私的メモです。
 ちなみに竹林文庫は、過去に2-3回見学させてもらえるチャンスがあったのを、行きそびれ続け続けてやっと行けたという。

●総記
・貴重書庫は、同志社図書館の開架書庫のフロアに直結したところにあり。外と貴重書庫の間に前室的なものは特になし。入口に靴底の不純物を除去する粘着シートがあって、靴のまま入室する。
・引率は春山明哲先生。

●竹林熊彦文庫とは
・竹林熊彦(1888-1960)。おおむね省略。図書館学の人で同志社でも教鞭をとったとのこと。
・戦前に、田中稲城(これも省略、ググってください)の遺族から「田中稲城文書」を譲り受ける。それと、それに加えて竹林自身の文書とともに、1986年に同志社に寄贈される。
・2003-4年に文書資料が同志社で整理される。その経緯についてはこれが有名。→「アーカイブ資料整理へのひとつの試み--同志社大学所蔵田中稲城文書・竹林熊彦文書の場合」  http://ci.nii.ac.jp/naid/40007415981

●竹林熊彦文庫の中身
・旧蔵書 約600冊(一般書は通常の書庫に配架)

・『明治時代に於ける図書館の歴史的研究史料』
 旧蔵書のうち貴重書に指定されて貴重書庫にあるもの。69冊。竹林が明治時代の図書館史について新聞雑誌記事などを文献調査して、必要な箇所を抜き書きして、その原稿用紙を製本した上に、件名索引のカード目録をつくって検索可能にしたという、作ったなぁおい、というもの。(もちろん)書写資料、既製の原稿用紙にペン書きしたもの。カード目録は、事項/人名にわかれてABC順。69冊の内42冊が対象と思われる。なお、カードの内容は同志社さんでwebにup済み。
・ほかに貴重書としては、『日本キリスト教史資料』『明治時代伝記史料』など。

・アーカイブ資料 約3000点
 田中稲城文書が1300、竹林熊彦文書が1700。ほかに2003年追加寄贈分など。
 文書は厚紙製のアーカイバルボックス(A4がすっぽり入るサイズに奥行きが約13cmの標準的なもの)、の中に、緑色のタグによる仕切り(「袋」と呼ばれてるらしい)、の内に、白い紙製フォルダ(A4サイズに下にマチ・上にタグがある、標準的なもの)がたくさん入ってて、そのフォルダにはさまるようにして原資料が入っている。
 タグ部分に「28-58-35(4)」とか書いてあって、箱no.28の袋no.58-アイテムno.35で、4ページ分ある、の意。
 竹林熊彦文書は、手稿(原稿)、雑誌のバラ、ノート、スクラップブックなど。ただし書簡・日記の類の個人文書はほとんどない。原稿の裏にも紙背文書あり。

●まとめ
・評価としては、『明治時代に・・・』とアーカイブ資料ともに、竹林の思索・執筆の経緯をトレースできるよ、という感じ。
・数量は(貴重書庫内のそれに限れば)書架数連分なのでべらぼうな文書量というわけでもたぶんない。この規模の未整理文書はあちこちの図書館さんにふつーにありそうなので、こちらを見習ってちゃっちゃと整理しちゃったらいいなって思たです、もちろんうちとこを含む。

posted by egamiday3 at 20:25| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年11月04日

図書館の資料展示に”時短”はどこまで可能か

 
 註:古典籍・稀少資料の類を展示ケース等で展示することのほうを言います。一般図書をテーマにそってディスプレイして貸出もするほうの「展示」ではないです。

 図書館での展示については、つねづね、もっとコモディティ化すべきじゃないか、っていうふうに思っていて、それは先の文脈の会での展示関連発表(http://toshokanshi-w.blogspot.jp/2013/02/18.html)でもやっぱり思ったことなんですけど。
 大規模で、力を注いで、大々的でレベルもすごく高くて、人的・時間的・金銭的コストをかけた、職員にとっても負担の大きいものを、たまにやって、ああたまにやってるなあ、というタイプのやつももちろんそれはそれでそれならではのメリットはあるんだろうけど。
 そうじゃなくて、日常的に、もっと頻繁に、もっとたくさん、もっと身近な催事として実施することで、お客側から見てもいつもやってるし、よく回転してるし、飽きないし、多様な図書館・資料のあり方をアピールできるし、そういうことにメリットがあるから常設的なことをしてはる図書館さんも少なくはないんだろうし。特別なことをする/してるというイメージを与えるんでなく、常に、いつも、ユーザとともに身近にそこにある稀少資料とその展示、ていうあり方というかたたずまいというか。
 そういう意味での、コモディティ化。
 それをコモディティと言うのかどうかはよくわかんないですけど、なんか気に入ったので(笑)。

 で、そのためにはひとつひとつの展示企画にコストや負担がかからないよう、”省エネ””時短”が必要だろうと。図書館での展示企画が職員から避けられる理由のおおかたが、負担、でしょうから。
 人的・時間的・金銭的コストをできるだけ削減したうえで、なおかつ、効果や品質はそれほど下げずに済むような方策。いやむしろ、場合によってはむしろ上げかねない勢いの方策。
 そういったtipsやハックやおばあちゃんの知恵袋的なのを、みんなで披露しあってよさげなのをマネできたらいいんじゃないかなって。

 というような期待含みで、先般我が所で行なわれた「一般公開展示」(註:センターを一般市民の方に公開して講演会等をやるという一日催事で、その一環として貴重書・古典籍の類の展示を一日だけやる)の仕切りを担当しましたので、そのときのことをいくつかメモします。

 基本的に、しなくていいことはやりたくない、代替できる物があればあり物で済ませたい、めんどくさいことを避けるためなら努力は惜しまない、という感じです。
 めんどくさいことは、すべて嫌い。そういう行動原理。


●取りかかりを早くし、準備期間を長くとる
 逆説的なようにも思えますが、コスト削減の第一歩はこれにつきるんじゃないかと思います。今回は3ヵ月以上前、100日くらい余裕持ってたんじゃないかな。
 直前の短期間に集中して、一気に片付ける、というやり方もあるにはあるとは思います。けど、たぶんそれが通用するのは、作業が単純で、ひとりかせいぜい2-3人規模が、他の仕事を一切しなくてもいいようなとき、くらいじゃないでしょうか。
 短期間に納めようとすると、まずタスクがコンボになってしまいますから、実時間以上に時間の融通が利きません。例えば7時間分のタスクを、1日8時間勤務の中に納めるときと、30日8時間勤務の中に分散して納めるときとでは、納めるためにかける労力がまったくちがう、ていうか、タスクこなすこと自体に労力かけたいのに、時間の融通のために労力かけてる場合じゃないですって直前に。長期間の日常業務の中に、タスクを細切れにして分散させてやれば、そのタスク自体は都合のいいスキマ時間に納めることができますので、いつのまにか吸収され雲散霧消していきます。100日あればある程度の時間は”なかったこと”にすらできるんじゃないかとすら思える。
 ただしそのためには、タスクを容易に細切れにできるように、何をいつどんなふうにしなきゃいけないのかを当初から明確にしておかないといけない。計画ずくでタスクを配置しないといけない。
 でもそれも長期間の猶予があれば、交渉・調整の時間がとれる、アイデア取材の時間がとれる、沈思黙考の時間がとれる。沈思黙考なんて、直前短気ではまずそんな余裕ないですから。100日あればいろんなこと模索したり組みかえたりアイデア練ったりできますんで。

●力仕事を極力しない (展示ケースを移動させない)
 力仕事、いたしません。めんどくさいし時間がかかる。
 我が社の展示ケースは建物に固定してあるやつではなく、什器として置いてあるやつです。それが大きいの、中くらいの、細長いのとある。そしてそれを動かそうとすると、成人男子数人がかりで持ち上げないといけない、という力仕事。
 動かしたくないじゃないですか、そんなの。めんどくさい。腰でも痛めたらどうするんだと。
 でもその展示ケースって去年使ったときの順番で並んでるんですよ、例えば、「大大大中長大」みたいな感じで。で、資料のサイズや形状によってケースの適・不適ってやっぱどうしてもあるじゃないですか、この巻物はどうしても中型にはおさまらない、とか、バランスがわるい、とかね。だから今年陳列する資料が決まったら、その資料に適したケースを使うために、ケースの順番を変えなきゃいけない、移動しなきゃいけない。やだなあ、什器移動さすの。めんどくさいなあ、って。
 なので、ケースの順番を変えるのではなく、資料の陳列順をケースにあわせました。もしくは、そのケースに置ける資料を選ぶように持っていきました。
 つまり、ケースが「大大大中長大」の順にいま並んでるんだったら、そのまま動かさずに使えるよう、資料のほうを「大大大中長大」のケースに置ける候補を並べるし、その中から展示テーマ(今回は「日常生活史」)にあったものも選ぶし、その通りにそれっぽいストーリー構成もするし、ていうあれです。
 じゃあそれに必要なのは何か。あまたある所蔵資料の中から、展示テーマにもケースにも両方に合致しなおかつ資料的価値も高い、というような候補を複数並べることができること。つまり、資料のことふだんから理解してなきゃいけなかったな、ということになるんだと思います。

●キャプション・解説文をパネルに貼らない
 キャプションや解説文の類ってパネルに貼るじゃないですか。シール付きの、発泡スチロールか何かでできた、でっかい板状のやつ。印刷したキャプションを、パネルに貼って、手持ちのカッターで切る。まっすぐ、ゆがまないように、慎重に、大中小さまざまのものを、いくつも、いくつも、いくつも。カッターがゆがんだらやりなおし、シール上にまっすぐ貼れなかったらやりなおし、誤字がみつかったらやりなおし。
 めんどくさい、実にめんどくさい。やりたくない。
 なので、いたしません。
 なぜパネルに貼るかというと、紙面が波打たずにフラットであること、が一番だと思うんです、そのほうが読みやすいし見た目にもきれい。だったら、紙面がフラットになるような紙を使えば、パネルはいらないと思うんです。美術館さんのようなところならともかく、図書館のコモディティな展示なら、一分のスキもゆるみもないようなフラットさはオーバースペックじゃないか、それにこだわってまでの効果がそこにあるかどうかが問題じゃないか、って。
 今回使用したのは最厚口と呼ばれる厚手の紙です(B5〜A3、白ほか各色)。自作用の名刺用紙よりももうちょっとだけ厚い感じがする、けど、業務用のプリンタでそのままふつーに印刷できる紙です。
 プリンタでふつーに印刷できる。ああ、なんという省エネでしょう。
 印刷したものをそのまま展示ケース内にぽんと置いてみる。それなりに紙面がフラットでくっきりとしていて字が読みやすい。パネルよりは若干安っぽさは覚えるかもしれませんが、長期・大規模の催事でなければさしつかえないでしょう。

 キャプション・解説文の類をパネルに貼ることをあきらめると、タスクがコンボにならなくて済む、という利点があります。
 パネル貼りの場合、「原稿の執筆・推敲・編集」+「印刷」+「パネル貼り」という作業が一体になってしまいます、だから、パネル貼り後に誤字や訂正が発生すると、印刷もパネル貼りも再度やらなきゃいけなくなる。だからそれを避けるために、かなり手前のタイミングで原稿の執筆が締め切られる。だから、時間的融通がどんどん利かなくなる。
 時間的コストがかかる、というのは、時間がかかること、だけではないです。タイミングが限定される、融通が利かない、というのも時間的コストです。
 最厚口の紙に直接印刷してそのまま置けるようにすれば。何度でも刷り直しができます、修正も変更も、直前までいくらでも可能、当日だって可能。原稿執筆者が複数いたとして、各者でばらつきがあっても別に困らない、できた時点で印刷すればいいだけの話なんで。
 パネルとちがって裁断機が使えるから、まっすぐ切れるし、もし失敗してもまた印刷しなおせばいい、1分でできます。
 なにより助かるのが、何度でも刷り直せるので文字のサイズ・フォント・太さを試行錯誤することができる。試行錯誤することによって、お客さんにとって読みやすい文字を選び直すことができる、ということです。読みやすさって、一分のスキもないフラットさよりも、文字のサイズや太さのほうが影響大きいと思うので、そこを調整できるのはやっぱりありがたいです。

●配付資料を製本しない
 配付資料・・・これもまた悩ましい・・・。
 A3両面に印刷した4ページ分を二つ折りにする。折るのもめんどくさい。え、自動的に折る機械なんてあるんですか、いいなあ、そんなの持ってるところは。持ってたとしても、それだと4ページ分の配付資料しか作れない。
 じゃあA4をホチキスでとめますか。輪転で大量に印刷した紙の山から、一枚づつ順番に取ってって、とんとんってそろえて、ホチキスでぱつって留める。その繰り返し。無間地獄。
 めんどくさい。
 製本せずに、各章ごとに「ご自由にお取り下さい」コーナーを作って置いておきます。
 今回の展示では4章くらいあったので、各章でA4両面1枚に説明をおさめる、というふうにユニット化してしまいます。その両面印刷した紙の束を、展示ケースの各章の冒頭のところにぽんって置いておく。これならホチキスどめも二つ折りもいらない、刷ってそのまま置けばいいし、足りなくなったら増刷も簡単にできる。
 実際には、背の低いスツールの上にプラスチック製の書類ケース(フタ無し)を置いて、その中に入れておきます。今回の展示はわりと章ごとに性格がちがうので、興味のある箇所の紙だけ持って帰ってもらったらいい、全員に全頁を押しつける必要はないかな、っていう。
 ただ、やっぱりこれだと、全部ほしいというお客さんにとっては手間なのでちょっとどうかな、と。何十部かくらい”全部入り”のやつをある程度用意しておいて、求める人に渡す、というのもいいかもしれないです。

●関連する”物品”を混ぜる
 なんか、めんどくさいことはやりたくない、ばっかりの話になっちゃってもあれなので、手間をかけずに見栄えがするかな、っということで、「物品を混ぜる」というのもやりました。
 図書館の資料展示って、資料ばっかりになりがちで、それはちょっと飽きるな、と。変化をつけるために、その巻物が入ってたケースとか、その資料に関する記事が載ってる新聞原紙とか(資料ですが)、その作品が外国語訳された本とか(資料ですが><)、なんか、アクセントになるようなのが混ぜられたらいいね、っていう。


 ていうか、これ書くのもめんどくさかった。
 でも、次にまた展示企画やるときにゼロから同じこと思い出すのもめんどくさいので、ここにメモとして記しておきます。
 書いたのがどのフォルダに行ったかわからなくなって探すのもめんどくさいので、ググってヒットするようなところに置いておきます。
 これでめんどくさくならずにすむ、ていう感じのあれです。

 参考文献をあとで探し直すのもめんどくさいので、載せとく。

広報としての図書館展示の意義と効果的な実践方法(<特集>図書館の発信情報は効果的に伝わっているか?)
http://ci.nii.ac.jp/naid/10016618354
大学図書館における展示会活動 : 図書館展示の分析および筑波大学附属図書館の事例報告(<80号記念特集>わが図書館のコアコンピタンス)
http://ci.nii.ac.jp/naid/110007571861
CA1758 - 図書館展示の課題:国立国会図書館の企画展示アンケートの結果から / 古野朋子 | カレントアウェアネス・ポータル
http://current.ndl.go.jp/ca1758
一橋大学附属図書館における公開展示事業と資料保存
http://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/handle/10086/13403
はてなブックマーク - negadaikon のブックマーク - 展示
http://b.hatena.ne.jp/negadaikon/%E5%B1%95%E7%A4%BA/
筑波大学附属図書館展示Blog
http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/exhibition/blog/

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2013年10月31日

業界コント「もしもマクドナルドみたいな図書館が、閲覧制限だらけの図書館だったら」


※他意はありません。実在・非実在の一切と無関係のフィクションです。

 ピンポーン。
「いらっしゃいませ、幕土市立鳴門図書館へようこそー」
「やあ、どうも」
「あ、おひさしぶりです」
「戻ってきましたよ、マクドナルドみたいな図書館(http://egamiday3.seesaa.net/article/158803183.html , http://egamiday3.seesaa.net/article/111499129.html)に。前にいた町の図書館(http://egamiday3.seesaa.net/article/309928500.html)はハードルがかなり高かったですけど」
「本日はお持ち帰りですか?」
「ええ。うちの子がね、学校の調べ物学習で昭和の歴史をやるっていうもんだから、だったらあれがいいんじゃないかと思って。『和田氏のベン』っていうマンガ」
「『和田氏のベン』、ですか・・・」
「そうそう、あの「ガハハ」っていうやつ。私も子どもの頃に学校の図書館なんかでよく読んでたし、昭和史だったらあれがいいんじゃないかなって。この図書館にもあるでしょう?」
「お客さま、たいへん申し訳ございませんが、『和田氏のベン』はただいま”閲覧制限”扱いとなっておりまして、申請手続きによって許可を得ていただく必要があるんです」
「え? 何か問題でもあったんですか」
「はい、一部の市民の方から「あのマンガは子どもに自由に読ませるべきではない」という趣旨の抗議をいただきまして、このような対応をさせていただいております」
「そうなの? 私ら子どものころはみんな読んでたし、問題があるどころか定番のマンガだったと思うんだけど。どんな抗議だったの?」
「わたしも上から言われただけですので詳しいことは存じ上げないのですが、内容が偏っている、とか」
「偏っている?」
「歴史観が、オヤ ジギャグ的過ぎるとかなんとか」
「そんなもんかなあ」
「あとは、一部に残酷で無慈悲なオヤジギャグが描写されているとかで」
「オヤジギャグなんだねとにかく」
「当店といたしましても、7年後のビッグイベントに向けてすこしづつクサいものにフタをする方向に持っていこうという、世の中の風潮を先取りしてみました」
「いや、そこあんまり誇るところでもないだろう」
「なにせ、本家のほうが大口のスポンサーなもんで」
「まあいいけど。じゃあ申請手続きをさせてください。だったら読めるんですよね」
「ええ、まずこちらの「閲覧制限図書特別利用申請書」にご記入いただきます」
「これ書けばいいのね」
「で、そのあとこちらの「閲覧制限図書閲覧理由説明書」、それから「特定歴史分野資料閲覧理由告解書」、「自己責任承諾書並びに裁判沙汰回避了解念書」、16歳以下のお子さまの場合は「ぼくとわたしの保護者監督付き閲覧申請書」・・・」
「え、これ全部書くの?」
「はい、それから添付書類として住民票、印鑑証明、所得証明、現住所が書かれた公共料金の請求書のコピー、祈りを込めて書かれた手書きの履歴書と、その顔写真が無修正であるという写真店の証明書をお願いします」
「その証明いらないだろう。全部持ってきて申請しないと読めないの?」
「そうですね、当店の店長の許可と、幕土市教育委員会の許可と、幕土市長の許可と、幕土市の歴史とメディアと子供の未来を案じる合同識者井戸端委員会の許可がおりまして、だいたい2ヶ月半後くらいにご閲覧いただけるようになります」
「待たせすぎだよ、おい」
「しかも予約待ちなので、さらに倍っていう」
「おかしいだろう。それもう、読むのあきらめろって言ってるのとほぼ一緒じゃないか」
「申し訳ありません、そういう手続きをするという決まりでして」
「誰が決めたの、こんなの」
「経緯はちょっとよくわからないのですが」
「わからないのはマズいでしょう。困ったなあ。・・・・・・あれ? その、あなたの後ろにある台車、そこに『和田氏のベン』あるじゃん」
「あっ、これはダメです。このブックトラックに置いてあるのは、すべて外部の方からの抗議によって閲覧制限扱いになったもので、いまそれをよりわけてるところなんです」
「そんなにたくさんダメなの? え、じゃあそのハリーポッターも?」
「そうです。一部のキリスト教関係の保護者の方から、子どもが異端の魔術に興味を持ってしまうので読ませるべきではない、と」
「それでダーウィンとガリレオの伝記もか。あれ、フランクリンの伝記も?」
「子どもが凧揚げして電線で感電したらどうする、と」
「ガンジーも?」
「子どもが何か気に入らないことがあるたびに、ごはん食べてくれなくて困る、と」
「その源氏物語も?」
「あんなロリコンでマザコンですけこましな男の酒池肉林を描いたような破廉恥小説はけしからんということで」
「それ言い出したら古典はほとんどアウトだろう。そこのマンガはあれだよね、ジブリのアニメになったやつ」
「『耳をすませば』ですね。これは、読書の自由を侵害しかねない描写がありましたので、自由に読書させない取り扱いになりました」
「何がしたいんだ。あれ? キリスト教ががどうのと言ってたけど、聖書もそこに置いてあるじゃないですか。聖書もダメなの?」
「ダメです。このおかげで人類はどれだけの犠牲をはらったことか」
「いや、それはちょっと。なんだか抗議したもの勝ちみたいになってるなあ」
「そうですね、私もこのお料理のレシピ本に抗議が来たときは、どうしようかと思いました」
「なんて言われたの?」
「書いてある通りに作ったのに、美味しくない、と」
「知らねえよ」
「あと、オリーブオイルがガンガン減って困る、と」
「誰のレシピだそれ。いや、抗議はともかく、だからって言われるまま従うことないでしょう。誰が取り扱いを決めてんの」
「いや、経緯はちょっとよくわからないのですが」
「おかしいって、そこを透明にしなさいよ」
「まあ、ファーストフードの食材の透明性なんて、ねえ」
「こっちにふるなよ、ややこしい」
「図書館と申しましても、しょせんはお役所の施設ですから、上の言うことには逆らえませんので。トップが変われば図書館も変わるし、クレームが出ればすべて従うという、よくある世知辛さです」
「だからって、こう何もかも禁止されちゃあなあ」
「決して"禁止"ではございませんよ、申請さえしていただければご覧になれます」
「いや、こんなハードルの高い手続き、禁止と一緒でしょう。その台車の本だってどこか奥の倉庫にしまっちゃうんでしょう?」
「いえ、よりわけてるだけです。閉架ではなく、あくまで自由に行き来できる開架フロアの書架に並べますので」
「え、オープンな場所に置かれるってこと? じゃあ制限ってわけじゃないのね」
「あちらの地上6メートルの書架の一番上の棚に置く予定です」
「読ます気ないよね、それ、いっさい読ます気ないよね」
「いえ、あくまでゾーニングです」
「まったく、これじゃ本屋で買った方がよっぽど早いじゃないか」
「そう思いまして、店内に書店も併設させていただきました。あちらに」
「買えるんだ。・・・あれ、なんだ『和田氏のベン』もふつうに売ってるじゃないですか。山積みになってる」
「ええ、閲覧制限してからというもの、あちらが売れに売れております。うふふ」
「うふふじゃねえよ。えらいことになってるなあ。図書館で本が自由に読めないなんて、あれだ、あの映画、『図書館戦争』みたいなもんじゃないか」
「お言葉ですが、お客さま。読書の自由は決してあのような派手でわかりやすいかたちで奪われるとは限りません」
「まあ、わかるけど」
「こういう書類手続きやクレーム処理のような、地味なところからじわじわと、奇妙な世界への扉が開き始めるのです。ご注意を」
「タモリか? なんかあいかわらずおかしなところだなあ、この図書館は。まあいいや、とりあえずさっき別の歴史の本があるのも見つけたんで、これとこれ、借りていきますね」
「・・・こちら、お借出になります?」
「え? 今度はなに?」
「お客さま、たいへんお手数ですが、こちらの書類にご記入をお願いします」
「これは?」
「お客さまの貸出履歴から計算してオススメ数値が低い本についての「自己責任承諾書」です」
「書類嫌い。ダメだこりゃ」
posted by egamiday3 at 20:26| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年10月27日

セルフ・ブランディングに必要なのは「もてなしの心」じゃないか、という話

 
 セルフ・ブランディングと呼ばれるものについて、ちょっと考えたことがあって、なんとなく思いついたことを書いておく感じのあれです。

 セルフ・ブランディング、セルフ・ブランディングって、最近だとわりとふつーに言われるようになってきて、でもそれってそもそもなんだろう、て思うです。

 ブログやツイッターを名刺代わりにすることとか。
 アイコンをキャッチーなものにするとか。
 業績・文献リストを整備して掲示するとか。
 それらをググってヒットしやすいところに載せとくとか。
 ネットがあれば履歴書なんていらねえよ、夏、とか。

 する人はしますよね、しますします。そりゃしたほうがいいんです。
 
 でも、しない人はしないですよね、しないです。まあ、無理にすることはないです。
 したくないとか、恥ずかしくて目立ちたくないとか、知られる方が我が身が危ないていうセキュリティ意識とか。そうでなくても我々お箸の国の人だものは生来が引っ込み思案だから、ふつーにしてたら、しないのがふつーでしょう。
 だから、Googleでセルフ・ブランディングって入力したらキーワード候補の5番目くらいに「痛い」とか出ちゃうわけだし。痛い。これは痛い、セルフ・ブランディングを痛いと思われちゃってることが痛い。
 でもだから逆に、当たり前のこととしては行われていないから、セルフ・ブランディングはこうこうだと言うことに価値がまだ存在してるというか、差別化できる概念でいてくれてる、ていうあれです。セルフ・ブランディングによるセルフ・ブランディング化です、よくわかんないけど。

 じゃあ、セルフ・ブランディングってそもそもどういうことなんだ、って話です。

 セルフ・ブランディングとは。
 自分自身(や自分の組織・図書館)の価値や個性を、明確にして、世に広く伝える。
 存在感を上げて、自分と、自分の名前(に類するもの)と、自分が持っているもの(個性・スキル・業績)とを、知ってもらう、認めてもらう。

 それはいいんです、そこまではわかる。
 問題は、なんのためにそんなことをするんだ、というところからです。
 それをして、誰が何を得るんだ、と。

 そりゃまあ簡単に言えば、顧客が増える、集客力が上がることでしょう、と。
 あるいは仕事がもらえる、舞い込む、ということでしょう、と。
 価値と個性と存在を認めてもらうことによって、自分を人に知ってもらえるようになり、お声がよくかかるようになり、上がるお座敷もご贔屓の旦那さんも増えます。そうすればさらに存在感と名前が上がる、格もあがれば価格もあがるし島田も揺れる、ブランディングがブランディングを呼ぶ正のブランディング・スパイラルに乗っかれれば、**町の○○姐さんといえば@@では知らぬ者が××、みたいになる。
 たくさんの人との交流、情報の入手、なおかつ自分自身(や自分の組織・図書館)の評判があがって、成果もあげられる。

 いいですね、めでたいじゃないですか。
 メリットたくさん、得することがたくさんあります。
 だからセルフ・ブランディングやりましょう、って話です。

 でも、本当にそれだけがセルフ・ブランディングの目的なのか?って思うんです。それだけでいいのか?って。
 それってなんか、気づいたら自分側の利益のためばっかり、じゃないですか。
 そればっかりなんだったらそりゃまあ、「痛い」ってGoogle世論にdisられてもしかたないかなって。

 じゃあブログ書いたり、ネットに業績リスト掲載したり、論文自体pdfで上げたり、本出しましたからって別途のブログ立てたりハッシュタグ作ったりするのって、全部自分が利益を得んがためなのか?と。
 そうじゃないだろう、と。
 98年に自分のホームページ立てて、2000年にブログ(いや「インターネット日記」の時代)を始めたときから、セルフ・ブランディングのモヤシの芽みたいなのは意識してきてたように思いますけど、それらすべてが、自分に利益を誘引したいがため、だったわけじゃないです。
 ていうかさ、自利益目的だけだったらこんなもん15年も続くわけないですって(笑)。

 初対面で「ブログ読んでます」と声をかけられる。それがハーバード行って帰ってきてからさらに激しさを増す。他業種他分野の方々と交流する機会が増える。「ツイッターの誰それさんですよね」「ブログ読んでます」と言われるたびに、ありがたいけども、うれしいというよりも、面映ゆい思いがする。
 うれしいじゃなくて、面映ゆい。
 なぜか。それはたぶん、自分が本来意図していないこと、価値を置いていたわけではないことで好評価を得るから、”面映ゆい”んだと思います。もう15年面映ゆい。

 「読んでます」って声をかけてもらいたくて、そういう評価をしてもらいたくて、目立ちたくて名前を売りたくてアクセス数やはてブ数上げたくて、そういうことをしてるわけじゃない、むろん、結果としてそうなればうれしくないわけじゃないですが、ブログを書いたり原稿書いたり本書いたりしてることの目的も意図も、そういうところにあるわけじゃない。
 自分の書いたこと、アウトプットしたこと、アクセス可能化して世の海にそっと流したこと。そのことを別の誰かが見つけて、踏まえて、肯定的じゃなくても否定的にでも全然いいから踏まえて、さらに別の新たな知識・思想・情報の産出につなげて、それが繰り返しぐるぐるサーキュレーションした結果としてのこの社会全体の進展につながってほしい。
 そういう願いがあるから、ちっちゃいことでも価値あるかどうかわかんないことでも、とりあえず自分にできることの一片として、書いたり、アウトプットしたり、流したりするわけです。お座敷がかかれば話もするし、講義講演もするし、自分の持ってる些少の経験とスキルでもお役に立てるなら立てにいくわけです。

 国立の大きな機関さんが業界の情報をカレントにアウェアネスするようなメディアがあったとして、そのメディアがわざわざあたしのバーミンガム漫遊記のブログ記事を取り上げて流してくださった。それはそれでもちろんありがたいことですが、だからといってじゃあその記事は取り上げてほしくて書いたんですか、アクセス数上げたくて書きましたかって、そんなわけはなくて、イギリスどころかヨーロッパ最大でなんかしらんがえらく話題になってるらしいバーミンガムなる街の図書館について、日本から業界の人がわざわざ出向いて行って視察・レポートするようになるのはまだちょっと先のことになるかもしれないから、それだったらたまさかイギリスに春画と戯れに訪れた我が身がここにあるんだから、自腹で何十ポンドか出して時差ボケの身体に鞭打ってでも見に行って、いくばくかの情報でも日本語化してwebに上げておけば、それを踏まえて誰かが何かしらのネクストにつなげてくれるかもしれない。つなげてくれるんだったら、行きますよ、書きますよ。そういうあれです。
 「読みましたよ」で終わったって意味ないんです。読みましたよって言われたくて、ありがとうって伝えたくて、じゃないんです。

 で、そういう、次につながってくれること、お役に立ててもらえること、サーキュレーションして全体が進展してくれること、を願い意図しているからこその、セルフ・ブランディング、だと思うんです。
 それを願い意図していれば、セルフ・ブランディングの目的は自分側の利益ばっかりのためですか、そうじゃないでしょ、ということがわかると思うんです。

 姐さんの話に戻ります。
 **町の○○姐さんといえば、@@が得意で××の業績があり、¥¥の歌舞練場では$$も披露してはる、ていう姐さんがいて、そのことを町の人が知っているとき。
 お座敷で@@が必要になった、あ、じゃあ○○姐さんに頼もう、ってなる。
 ○○姐さん? ああ、ご存じ○○姐さんね。それだけで、姐さんが何者かはだいたいわかってるし、姐さんがどういう芸ができてどういう技術を持っていて、どういう経験を踏んではるから、安心してお座敷にも来てもらえるなあ、ってなる。

 これは○○姐さんだけが得してますか?
 つったら、そうじゃないでしょう。

 ○○姐さんのセルフ・ブランディングが成功してることによって。
 @@のできる人をわざわざコストかけて探す必要がない。(見つけてもらいやすさ)
 「○○姐さん」とひとこと言えばわかるから、その個性・スキルをわざわざ説明する必要もない。(名前による説明コストの短縮)
 ゼロからあらためて評価するという手間をかけずに、安心して頼める。(評価のアウトソーシング)
 おかげで安心してお座敷が持てる。急なお客さんにも対応できるでしょう。

 見つけやすさ、名前による短縮、評価のアウトソーシング。これらによってコストをかけずに済んで安心して活動できているのは、むしろお茶屋さんのほうでしょう。もっと言えば、○○姐さんのセルフ・ブランディングの成果は、町全体の共有財産になってくれている、と言ってしまっていいかもしれない。
 お座敷側・町全体側・社会全体側の視点で、○○姐さんのセルフ・ブランディングを見ると、そういうことになると思うんです。
 あるいは「セルフ・ブランディングの三方よし」でもいいと思います。

 すなわち。

 自分の持っているもの、業績・経験・スキル・書いたものその他何がしかがある。
 ↓ 
 それらが、次につながってくれること、お役に立ててもらえること、サーキュレーションして全体が進展してくれること、を願う。
 ↓
 さらに、それが低コストで効率よくまわってくれれば、なおいい。
 ↓
 自分を、人さまから見つかりやすくする。存在感と検索されやすさを上げる。
 自分の価値と個性を明確にして、人さまの目から見てわかりやすくする。
 名前等によって、人さまに把握・認識してもらいやすくする。

 それがイコール、セルフ・ブランディングなら。
 ブランディングする物自体はセルフでも、その視点はすでに自分側にはない。
 人さま・世間さまの視点に立って、人さま・世間さまに利がありますようにと、心を尽くして配慮する「もてなしの心」。それがセルフ・ブランディングに必要なことなんじゃないか、と思うんです。

 どうぞ私どもを検索しにきてください。
 どうぞ私どもをヒットさせてください、ヒットしやすいところに置かせてもらいますから。ヒットしやすいキーワード載せておきますから。お客さまが情報の海で迷われることのないよう、可視化してアクセス可能化しておきます。
 わざわざあちこちに情報を集めに行かなくても、Googleひとつでヒットするところに業績リスト載せておきます。私どもにまつわる情報はあらかじめ組織化させておきます。せっかく検索しにきてくださる方の手をわざわざ煩わせるようなことはいたしません。
 名前ひとつでパーソナリティがわかるように、明確化して差別化してブランディングさせていただきます。うちの暖簾をくぐっていただきさえすれば、何の心配もなく安心していただけることがわかるよう、これこれの業績と経験を積んでますということを示させてもらいます。あなた様に無駄なコストはおかけさせしまへん。
 私どもがお役に立てたようでしたら、どうぞ次のステージへ安心してご出立なすっておくんなんし。そしてもしまたご入用の際には、またいつでもお越しくださっておくれやしておくれやす。

 えっと、なんだっけ、なんでこんなことを考えて、こんなことを書いてるかというと。

 セルフ・ブランディングを「自分の利益のため」じゃなくて「相手のため」だと考えれば、セルフ・ブランディングをやろうという敷居がひとつ低くなるんじゃないか。やりやすくなるんじゃないか、というあれです。

 セルフ・ブランディング、セルフ・ブランディングって、言われれば言われるほど、しない人はいよいよしない、自分はそんなことしないし、できないし、したくないし、しなくていい”側”だよ、ってなっちゃう。そういう感情が伴うものです。
 でも、自分が何者でいままで何をやってきたか、そういうことを、ちょっとでもいい、相手から見えやすく、人さま・世間さまにわかりやすくするという、配慮、気遣い、もてなしの心、サービス精神。それだったら、何も目立ったことをやる必要なんかない、ことさらに脚光を浴びに行くような派手なマネはいっさいしなくていい、ましてやブランディング目的で無理に背伸びする必要なんかまったくない。細々とちまちまと少しづつ手入れしていけることです。恥ずかしくもないし、痛いなんて言われる筋合いはない、だって相手のために、人さまをもてなすためにやってる手入れなんだから。
 日本人は自己主張・自己アピールが苦手だなんてことが嘘か真か言われがちですけど、でも、配慮・気遣い・おもてなし、って相手目線で言い換えてやれば、むしろ得意分野というか自然にできることなんじゃないかな、って。それで五輪呼べるくらいなんだし。

 または、自分にはもてなすだけのものがない、持ってないから、ていう二の足問題があります。
 でも、自分の中にもてなすだけのものがあるかないか、っていうのはあくまで自分視点の問題でしかないんじゃないかなっても思うんです。
 うちとこの宿に来ていただくだけの価値があるかどうか、うちらの出す料理が満足かどうかは、うちらが決めることちゃいます、お客さまが決めることです。ありがちなドラマのありがちな女将が言いそうなありがちなセリフですけど、まあ、そういうことだろうなと思います。
 自分が持っているかもしれないし持っていないかもしれないもの、それが、誰にとってどんなふうに役に立つのか。それは、自分視点だけで独断しちゃうと二の足踏みになるでしょうけど、相手の立場にちょっと立ってみれば、その判断は相手にゆだねればいいってことになる。

 自分にもてなすものがあろうがなかろうが、人さま・世間さま目線のほうでご自由に選択・判断していただく。そのために、とりあえず見つけやすくわかりやすくアクセス可能化・可視化しておく。そういう配慮であり、もてなしとしてのセルフ・ブランディング。
 それがヒットされてお役に立てれば、結果よし。
 でもまあヒットされなくて何も起こらなければ、とりあえずそのまま平穏。

 それでいいじゃないですか。
 その程度の”ゆるブランディング”でいいんですよ。
 そのゆるゆるをコストかけずになんとなくできるってのが、いまどきのインターネットというものの利点なんですから。
 それを見つけてくれるお客さまがたまさかいたとしたら、そのお客さまを自分なりの気持ちでもって、あらためておもてなししたらいいんじゃないでしょうかね。

 「セルフ・ブランディング」、なんて横文字だと白熱教室かはたまたTEDかみたいな仰々しさになっちゃうけど、もてなしの心から生まれる”ゆるブランディング”でも、まあまあ人さんのお役に立てるんじゃないかな、むしろそっちのほうがよっぽど本質に近いくらいだろう、っていうのが、まあ流行りの言葉が混ざると論旨ブレちゃうからどうかなというイヤな迷い(笑)はありつつも、いまのところの考えです。


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2013年10月26日

〈メモ〉情報組織化研 2013.10「NACSIS-CATにおけるRDA的要素 : RDA実装の一例として」

 NACSIS-CATにおけるRDA的要素 : RDA実装の一例として (蟹瀬智弘 (IAAL))

・情報管理56(2)(2013.5)「所蔵目録からアクセスツールへ:RDAが拓く新しい情報の世界」

・IAALでNCのRDA化に向けての調査作業に協力し、レポートを作成した。@RDAベースの流用ファイル参照ファイルのデータをNCにどう取り込んだらいいのか、の調査。ANCのRDA化のためにはCMをどう改訂していったらいいか。
・RDA講習会(2012.12〜)。盛況すぎて追いつかないよ!京都では2014.2.22、3.9に開催予定。
・講習会やってて思うのが、RDAって「NCで言えばこういうことですよ」とひとこと言い添えればストンと落ちる、っていうところが多々あるということ。
・RDAって、データはこうじゃなきゃいけない、ってことは言ってなくて、カード目録にも適用できるものではある、という話。

1. RDAの実体-関連
・実体について
・RDAでは、”情報の宇宙”を、3つの実体グループからなるもの、と考えている。@資源(著作・表現形・体現形・個別資料)、A個人・家族・団体、B概念・物・出来事・場所。
・「表現形」の「属性」である、版、出版者、日付、言語などは、同じ「著作」の区別・同定のためにある。ので、区別・同定ができるようなら必ずしも”版”でなくていい。
・「個別資料」の「属性」で書くべき情報については、NCではだいぶ限定されている。RDAではもっと多彩。”和漢古書”なら多彩側だろう。
・関連について
・「実体」と「実体」との互いの関係性をあらわすのが「関連」である。
・「関連」を記述する方法。関連相手のIDor典拠形を記述することで、相手と関連がありますよと宣言する。または、もう記述しちゃう。
・個人・家族・団体の「関連」をIDで記述する際に、LCCNやLCANでもいいんだけど、wikpediaの該当記事のURLでもいいんじゃないか、とティレットさんは言ってるらしい。いや、いいけど・・・
・関連を構造化して記述する=ISBD記述文法でもって記述する。
・関連を非構造化のまま記述する=NOTE記述。
・つまり、関連とはリンク”だけ”じゃないよ、ということ。
・関連に、意味を与えるのが、関連指示子。「abstract of」とか「contained in」とか。
・結果的にこういうリンク構造の世界観になりますよ、という話。

2. NACSIS-CATのレコード構造
・統一書名典拠レコード
・日本古典籍総合目録データベース
・ティレット「「竹取物語||タケトリモノガタリ」という併記はおかしいのではないか。表記が違うと言うことは、ひとつの標目に併記すべきではなく、別々の標目形なのではないか。」
→回答「日本では、同じ漢字でも異なるヨミをもつことがあるから、セットでひとつの標目にしないと通じないんだ。」
→<江上>というより、別言語による表記ではなくて、発音符号ということなんじゃないか。または区別同定のために用いるとすれば、生没年付記等に近くないか。

3.NACSIS-CATのレコードとRDA
・親書誌=体現形(出版事項があるので体現形だろう、著作ではなく)
・子書誌=体現形+表現形
・所蔵=個別資料
・統一書名典拠=著作
・概念・物・出来事・場所、は、レコードとしてはNCにはないが、レコード内にデータとして記述されている。
・表現形の属性は、UTLフィールドのその他の情報(付記事項など)に記述されている。ほか、VTTL、形態事項の付記(ill.)など。表現形はレコードのあちこちにちりばめられてる感じ。
・表現形っていう概念がやっぱり一番難しくて、いままでデータ上でもレコード上でもきっちり整理されて扱われてなかったから。
<江上?>・「体現形」の出版者と「個人家族団体」とのリンクが、NCにはない。→ALに入れてはいけないんだっけ??
<江上?>・関連指示子は??

・NCには、
・表現形のレコードがない。
・個人家族団体のうち家族がない(会議がある)。
・体現形と個人家族団体との関係(出版者リンク)がない。
・関連指示子がない
・リンクの構造自体は似ているものの、リンクの種類が足りていない、のがNCである。実装をどうするかが問題。

Q&A
Q:NCのRDA対応のロードマップは?
A:必要は認識されているが、見えてない。いまのままであってもそれほど大きな問題はない、特にユーザ目線で見て。RDAは、情報の世界観と管理の再構成の文脈の中にあるものなので、その世界的な潮流からNCが取り残されることは問題である。
Q:表現形のレコードは?
A:レコードの構造を大幅に変えることも念頭におく必要がある。
<江上>各社のシステム改変がヤバイ!

<江上>・これだから、NCがどうRDA対応するか、が問題なんじゃなくて、NCはNC以外のデータ・情報の世界とどう関わりを持っていくつもりなのか、という問題なんだろうと思う。


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2013年10月23日

極私的・ひみつのロンドン 街歩き編


 ロンドンは過去に3-4回行ってて、もうだいたい行ってるからなあ、というような不遜なことを考えていたのだけども、それでもあらためて行ってみたらちがう楽しみ方があった、みたいな感じになって、むしろ住むか長期滞在の方がいいと思うタイプのあれでしたよっていう。メモのいくつか。


● Dennis Severs' House
 http://www.dennissevershouse.co.uk/
 ロンドン・リバプール駅から歩いてしばらく行ったところ、静かな通りに面した、18世紀からある民家の建物なんですが、その家を何十年か前にあるアメリカ人好事家が買い取って、で、その人は18世紀から19世紀頃のイギリスがすごく好きな人らしく、あまりに好きなんで、当時のロンドン市民の生活の有り様をありのままに再現してそれを入場者に見せるという、私設・リアル系・体感型ミュージアムにしちゃった、ていうことらしいです。
 そんなに広くはない、狭い敷地に縦に3フロアだか4フロアだかあって、部屋がいくつかある、キッチンとかバロックな部屋とか使用人部屋とか書斎とかあるわけなんですけど、当時の古ぼけて薄汚れた内装や家具や調度品・生活用品の類いが、生活感あふれる感じでというか、もう生活感しかない感じでぐちゃぐちゃにならんでる。照明つけてない(だって当時の再現だから)し、廊下の板張りはみしみし言うし、暖炉の炭には火がおこってるし、服は出しっ放し、ベッドはぐしゃぐしゃ、本は開きっぱなし、食器はちらかしっぱなし、お茶は淹れっぱなし、パンが食べかけだったり、野菜や果物が籠に盛られてたり、ていうリアルなタイプの演出をしてる。あと、ろうそくがついててそのにおいがしたり、今朝花瓶に入れたばかりの花のいい香りがしたり、そうかと思えば屋根裏や壁のすきまからふんわりただよってくるカビとほこり満載の空気を吸ってしまって、気持ち悪くてむせてしまったりとか、ベッドや書斎や屋根裏部屋のあたりなんか歩いて通るだけで、身体のあちことがなんか痒くなってきてしまってしょうがないくらい。あとなぜか飼い猫がうろちょろしてる。
 もうなんというか、五感を通してリアルな空間と物体と空気ががんがんぶちあたってくるような感じだったので、堪能したというより、ノックアウトされてきた、という感じ。リアルはこわい。
 家の前には世話人の人が立ってて、ある程度入場制限はしてるみたいだけど、それでももともと狭いところにそこそこの人が入ってくるから、お互い遠慮しいしい部屋や廊下を廻ってる感じになってる。
 あと、ここは写真撮影はおろか、おしゃべりも禁止らしい。おしゃべりすると当時の雰囲気にならないから。
 検索しても日本語の紹介文なんか少ししか見つからないし、それどころかロンドン在住者に聞いても、え、なにそれ知らない、みたいな感じのところだし、ていうか日曜の午後しか開いてないらしくてだいぶハードル高くはあるのですが、たぶんあたしは次にロンドン来てもまたここに来ると思うなあ、という感じです。

●British Museum
 何度でも来ちゃうけど、とにかく広いので、もう自分の見たいのだけに集中しておかないと無理っていう感じ。そうやってある程度切り捨てるというか、鈍感になっとかないと、ちょっと油断して入り込んじゃって、自分がいまメトロポリタン美術館にいるのかボストン美術館にいるのかルーブル美術館にいるのかよくわかんなくなってきてしまう。
 極私的お気に入りは、この博物館の原点的テーマでもあるような啓蒙主義の部屋。あともちろん、日本の部屋、これだけひとフロア隔てた最上階にある。地味にお気に入りなのが”Money”の歴史をたどる展示部屋。こういう通史企画みたいのはいいねって思う。
 あと、今回はちょうどポンペイの企画展をやってたので、のぞいてきました。でもやっぱりポンペイはガラスケースの中よりは、現地のスケールで見たいなあというあれで、そう考えるとやっぱり、今年1月にポンペイ行きスキップしちゃったのがいまごろになって悔やまれるなあ、という感じです。
 ちなみに、書籍文書の類いの展示はここにはなくて、それはBritish Libraryの展示室に譲られてるという感じなので、こちらも併せて行くべきっていう。

●Design Museum
 テムズ川のほとりにあるミュージアムのひとつ。イギリスならではというようなミュージアムではもちろんないんだけど、なんか、どの都市に行ってもデザイン・ミュージアムは好きなのでついつい行ってしまうという感じです。
 なんで自分はついついデザイン・ミュージアム行っちゃうんだろうなあって考えてて、それはどの都市に行ってもついつい図書館行っちゃうのにもしかしたら似てるのかもなあって考えて、要するに、「デザイン」と「本」ってなんか似てて、それは「どちらもコンテンツそのものじゃなく、外皮として機能する存在」って言えば言えちゃうんだろうけど、まあ、どうなんだろう。

●ストリート・マーケットの類
 ロンドンはあちこちのストリートでマーケットをやっててそれがおもしろいから、みたいな案内があったので、あちこち歩きに行ってみました。
 それは、日曜の朝からがらくたをごちゃごちゃと並べて、ネイティブな感じのインターナショナルな人たちがやいのやいのと言い合いしながらなんかやってるようなマーケットとか。ちょっとよくわかんないんですがこれを買う人がいると思って売りに並べてるんですか?というような泥まみれで用途不明の家電コードがむき出しで地面に撒き散らされてるマーケットとか。通りの壁という壁が落書きや張り紙だらけだったり、各国料理の店が並んでたりするストリートとか。めっちゃたくさんの衣料品がめっちゃたくさんハンガーに吊られててめっちゃ安く売られてるのでここがあったらユニクロいらんなとか。
 かと思えば、古くて由緒あるマーケットだというのでやってきたら、おもいっきり改装されたイマドキの屋根付きフードコートみたいになってたりとか。
 でもなんだかんだ言いつつ、日本へのお土産にしたのは、個人の古物店が並ぶストリート・マーケットで買った、時代の着いた大理石製のコミカルな動物の置物、とかでした。

●パブをはしごする
 イギリスといえば、2番目か3番目くらいに思いつくのが、パブでビール。
 というわけで街のあちこちを歩き回って、半パイントづつ飲み歩いてみました。
 結果としてわかったことのいくつか。
 ・イギリスのパブにはホワイトビールなんかほとんどない。
 ・エールビールも、あるのかないのかあんまちょっとよくわかんない。あるけどいまいち味がピンとこない。
 ・ていうかビールのことをほんまはちゃんとわかってないだろう、自分。><
 ・ロンドンの街の中心辺りは、碁盤の目っぽく見せかけときながら必ずしもそうではないので、歩いているうちにぜんぜん違う方向におもいっきり向かってて、最終、さっきいたところに戻ってくる、ということになっちゃうパターン。
 ・あるきまわってるうちに、いつのまにか絵に描いたようなチャイナタウンに迷い込んで、千と千尋かと思ってちょっと怖くなったりするパターン。
 ・ものすごく盛り上がってて客がひしめきあってる店があって、なんとなく入ってみて、よくよく客を見てみたら全員が男で、あっ、と思って出てきたパターン。
 ・ロンドンでコヴェントガーデンを照らす月も、京都で下鴨神社を照らす月も、月に変わりはないじゃなし、名月名月。
 以上。
posted by egamiday3 at 07:22| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年10月10日

極私的・ひみつのロンドン 美味いもの編

 
 イギリスは、美味しいか不味いか。

 イギリス全般まではわかりませんが、ロンドンに限って言っていいのならば、充分美味しいです。というのもさすが国際都市の大御所・ロンドンだけあって、ありとあらゆる地域・各国の料理がいただけるので、美味いものに不自由することはどうやらなさそう、っていう。まずインドがあるのはもちろんのこと、中、韓、タイ、ベトナム、バングラデシュ、トルコ、中央アジア、中東、南米。それだけ豊富なので、逆に、これってイギリス料理かどうか? ていうかイギリス料理ってなんだっけ? ということをがんばって意識する余裕がなかなかうまれない、っていう。
 これがイタリアにこないだ行ったときだと、イタリア料理はどれもこれも美味くて、世間がそれに専心してるためか、地球上にあまねくインフラの如く根付いている中華料理店ですらなかなか見つからないという。その逆っていうこと?という感じです。


●フィッシュ&チップス
 Ship Tavernというお店があって、パブなんですけど、何かの本でここのフィッシュ&チップスがおすすめだからと言うんで一度行ったら、ちょっと忘れられなくなってしまい、それ以降ロンドンに来る度に必ず一度はここに来てるっていうお店。
 写真がこちら。

IMG_6602.jpg

 でかい(笑)。とにかくでかい。
 いや、本場のはどこも大きいだろうし、ここはまあまあ高いのであれなんだけど。それでもこれ最初に出された時は、ああもうこれでたぶん、ここ以外のお気にのフィッシュ&チップス探すのだいぶ難しくなっちゃったな、という嬉しい打ちひしがれ感を抱いたです。
 鱈はおろした半身そのままくらい。大きいだけじゃなくて、衣はちゃんとカリカリしてるうえに、ちょうどいい具合の厚手だし、身はほくほくしてていくらでも食べられそうな感じ。ポテトもひとつひとつ美味い、満腹で大半を残さざるを得なくなるのがこの上なく悔しい。
 あと緑色のつけあわせが、グリンピースをマッシュにしてミントで味付けしてあるという、こちらでは定番らしいもの。これが、最初に出てきた時はなんだこれうへえと思ったんだけど、いまやいよっ待ってましたって言いたくなる、ちょっとクセになる味覚。フィッシュの合間合間に舌をきゅっと引き締める感じ。
 フィッシュは、そうですね、ナイフでざくざく切って、最初は何もつけずにしばらくそのままでいただく。その後で、塩をふったり、ちょっとビネガーをつけたり、塩とレモンをしぼったので合わせてみたり、衣が手強そうな部位はビネガーをひたひたにしたり。ケチャップはあってもなくてもいい、最後くらい。
 なんか来る度に値上がりしてるような気はするし、地元市民にしてみればたかがフィッシュ&チップスに出すような値段じゃたぶんないんだろうけど、これはもうしょうがない、あれが食えるんだったらかまわない、って思っちゃう感じのやつです。日本であんな料理なかなか出てこないもの。

 ちなみに、別の店にも一応行ってみて、The Rock And Sole Plaiceというフィッシュ&チップスでは有名なお店らしくて、店構えはなんとなく下町系なんだけど、大きさこそ大きいものの、身はべしゃっとしてて水っぽくてたぶん解凍甘い感じなんだろうし、ポテトも冷凍だったし、サワークリームもぼんやりしてたので、まあこっちはいいかな、という感じ。もっとがっつり下町系でちゃんと美味い店あってもいいだろうと思うので、そっちを探したいです。

●アジア料理
 さっそくアジア料理(笑)。
 たぶんロンドンに行かれたら大英博物館に行く人多いと思うんですけど、博物館の正面の通りに、タイ料理屋さんと韓国料理屋さんが2-3軒あります。筋を曲がれば中華料理と日本料理もあるみたいです。
 博物館前の韓国料理のカジュアルなランチやさんっぽいところ、テイクアウトもできるようなところですけど、大英博物館に行くとどうしてもそこに寄っちゃいます。だって、豚肉を炒めたのとごはんと味噌汁が食べられるんですよ、まちがいないじゃないですか。食後は、真向かいの韓国系アジア食材屋でペットボトルのお茶買ってごきゅごきゅ飲むですよ、極楽(笑)。
 あと、タイ料理はこれはもうはずれようがないです。一度人に連れられて行って、相手が注文したほうが美味そうなのがずっと気になってて、仕方ないので翌日ひとりでもう一回行った、ていう。

●朝食に鯖
 イギリスのホテル朝食とは言え、コンチネンタルだっていう話だったので、そんなに考えずにぶらりと行ったら、ふつうだとソーセージやベーコンが並んでそうなビュッフェのところに、皿いっぱいの鯖の燻製の切り身が並んでました。そんなものがあるなんて一切期待してなかったので思わず目をむいたというか、朝に鯖が出る欧米のホテルなんか初めてだったので、一瞬世界が歪んだような気がしたくらい。でももちろんすぐにテンション上がりました、これはヤバイ、これは完全勝利、朝から鯖が食える!
 米がないなんてそんなのは理由にならない、さくっと焼いたトーストに、バターを薄めに塗って、チーズのスライスの上に鯖の燻製(註:ナイフとフォークで軽くほぐす)を載せて、はさむ。間違いない、これは間違いなく美味いはず。
 ・・・・・・ほら美味かった。朝から血液が体内を高速循環する感じ。今日一日の完全勝利が朝から約束された感じ。
 これはあれだ、むしろ今後日本のホテル朝食に行ったときに、ビュッフェに鯖と食パンがあれば積極的にこのレシピで行くべきだ!と考え直したです。

●寿司
 もはや日本のものと言う文脈なんか無関係かのような勢いで普及、浸透、換骨奪胎に拍車がかかっている「スシ」。特に街角の回転系のお店では、そのカジュアルさ、ファーストフードさ加減のおかげでもって、なんでもありの総合アジア料理提供システムのような業態になっているという、「スシ」。
 そんな状態ですので、バーミンガムの街角で、何ポンド食べ放題だYO!まわってるYO!的なノリでふんわり入れるようなお店だと、流れて来るものは例えば、油揚げを甘辛く煮付けたものを短冊に切ってにぎり寿司にしたものだとか、白菜とパプリカの入ったチキンスープのヌードルとか、スモークチキンにてりやきソースのかかったのとか、カリフォルニアロールや鉄火巻にパン粉をまぶして揚げてタイのスイートチリソースをかけた(註:まあ十中八九きのうの残りのリサイクル)のとか、こちらの発想を大幅に超えた創作ぶりを味わえるので、多少高くても(なぜか多少高い)無理してでも体験して見るものだなあ、と思たです。
 ちなみにコンビニやスーパーのサインなんかで、うちには軽食置いてあるよ、サンドイッチとかピッツァとかスシとかね、というようなノリで併記してあるのが当り前みたいになってます。ピザなんかもはやそれがイタリア料理かどうかを考えながら買ったり食べたりする人ほとんどいないわけで、その領域にスシが達してるかと思うととても感慨深かったりします。

●ベーグル
 リバプール駅から奥のほうに行くと朝からストリートマーケットをやってて、その辺りは下町のディープな感じで、そんななかに24時間やってるBeigel Bakeというベーグルやさんがあって地元に人気、みたいな話をきいたので、あさいちでたどたどしく行ってみました。うん、あきらかにネイティブなお店、何の装飾も案内もガイダンスもない、来たいやつだけ来ればいいという感じ。
 店先で塩漬けのビーフを焼いてるのが見えたので、それとクリームチーズをはさんでもらおうと注文したら、別々に2個来た感じ、まあ旅先でよくあるパターン。ベーグルやさんだときいてたけどそれだけじゃなくて、絶対美味いに違いない揚げドーナツとかがあって、欲望のリミットを抑えるのがやっと、ていう。立ちカウンターでコーラといっしょにかぶりついていただきます。びっくりするほどの味というわけじゃないけど、ベーグルだからハズレてない感じ。
 この店が有名なせいか、2軒隣くらいにもベーグルやさんが出てて、そっちがえらく派手な装飾で客寄せしてるので、一瞬迷いそうになります。お客は地元の人たちがほとんどかと思えば、思い出したように泊まり観光客っぽいグループがやってきたりとか、中年の女性がスマホで地図をじっとにらみつけながら「ほんとにこの店?」みたいな表情で入ってきたりとか、そんな、飽きないっちゃあ飽きないところでした。

●ミリオネア・ショートブレッド
 大英博物館の展示を、やや気合い入れ目で見て歩いてたら、当然のことながらどっと疲れが出てこれはあかん、エスプレッソと甘いものを摂取して、脳にエナジーを注入せなあかん、ていうんで、博物館内のオープン・カフェに行ったんです、あの円形のコートの。そこで甘いものないかと探してたら、「ミリオネア・ショートブレッド」っていうチョコがけのビスケットみたいなのがあったんで、これでいっか、ていう感じでふんわりと買って食べてみたんです。
 一口かじっただけで、あきらかにエネルギー満タン。脳の霧がすっきり晴れ渡る勢い。
 ショートブレッドの上にキャラメル生地が載ってて、その上にチョコレートがかかってる感じ。チョコレートが香ばしい。キャラメルがやわらかくてまったりからみつく。ショートブレッドがさくさくした歯ごたえ。そしてどれもこれもがとてつもなく甘い。一本で充分甘い、かといって過度で不快なほどの甘さではない。甘さのファイナル・アンサーです。ファイナル・アマサーです。
 即座にiPhoneで検索してその正体を見極めました。菓子造りはまったくやらないタイプの自分ですが、これはつくってもよさそう。

●大英博物館職員用食堂
 使わせてもらえたんです、内部の職員用食堂。カフェテリア形式でいろいろ注文できるタイプのやつなんですが、何か失敗して、皿いっぱいのライスの上にハンバーガー、みたいなのを渡されたときには心底どうしようかと思った(笑)。
 ↓これは成功例。

IMG_6716.jpg

 いい感じに美味いので、うらやましいなあという感じ。しかもめっちゃ安い。ドリンクコーナーにちゃんとバリスタさんがいて、エスプレッソいれてくれて、0.3とか0.4とかポンドでしかない、ヤバイここにいたらカフェイン中毒になる。

●スターバックス・大英博物館前店
 ”大英博物館3部作”の最後にスタバが登場。ここは何がありがたいかって、地下の別フロアがある。もちろん博物館開館中は混雑するんでしょうけど、あさいちの時間帯なんかに行くと人がほとんどいなくて、ソファにもたれてのびのびと過ごせる、ていう。ロンドンの定宿ならぬ定スタバに決定。

●調味料
 海外旅行で自分用のお土産を買う、というときは最近ではもうめっきり、地元のスーパーで見慣れぬ食材や調味料を買って帰るという感じになってます。
 今回、乾燥バジリコのボトルとか、スモークしたホットパプリカのパウダーとかいろいろ手に入れましたが、なかでも目をひいたのがちょっとお高い「UMAMI PASTE」なるもので、いったいなんだろうとよくよく内容物を見ると、トマトピューレ、オリーブ、ガーリック、アンチョビ、ポルチーニ、パルメザン、バルサミコ酢、そんなんを練ってチューブに入れて、なんか食べるときにちょっとつけて味わう、ていう感じのものでした。オリーブとポルチーニの香りがなんとなく主役の完全にイタリアンな調味料。
 ・・・・・・「うま味」、どこいった(笑)。
 というわけで、スシという具体物だけでなく、「ウマミ」という概念的な料理用語さえも、日本という文脈を抜きにしてグローバルの大海に漕ぎ出そうとしている。人の食い意地には際限がないな、と、思たです。


posted by egamiday3 at 12:46| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年10月08日

大英博物館・春画展への”はじめてのおつかい”

 
 イギリス・ロンドンの大英博物館にて、無事に春画展が開催されています。

・British Museum - Shunga
 http://www.britishmuseum.org/whats_on/exhibitions/shunga.aspx
・大英博物館で「春画展」始まる NHKニュース  
 http://www3.nhk.or.jp/news/html/20131004/k10015023831000.html

 イギリスの所蔵分、アメリカからの出展分に加え、日本からは60点くらい行ってまして、そのうち40点くらいが我が館の所蔵です。で、日本側の所蔵者として、研究協力的立場というか、矢おもてに立っていろいろお世話したり挨拶したり頭下げたりするようなあれこれをしてました、という感じです。

 これらは基本的にM(useum)の人のお仕事で、でも我が社にはMの機能はなく、L(ibrary)のあたしが駆り出されてもろもろのことをやったんだけど、どの仕事もひとつもやったことがない、経験も見聞もないし、勉強したこともない。
 でもやんなきゃいけない。
 だから、ずっとお腹痛い。
 そういう”はじめてのおつかい”です。

●コンディション・レポートを作る
 Mの世界では、大事な展示品の貸し借りの前に、この資料・物品のどこそこが汚損・破損してますよ、欠けてますよ、瑕疵ですよ、その状態を両者で確認するために、状態チェックとレポート作成をする慣わしらしいです。”らしい”です。で、本来のところそれは、借りる立場の大英博物館さんがこっちに来てやるんだろうけど、まあ、遠いし、協力的立場なんで、こっちでやりますよ、ていうことです。
 我が館ではよそから借りる経験はないですが、よそさんにお貸しする経験は幾分あるので(妖怪関係とか)、借りにおいでになるときにそういうのを作って渡してくれはるのは拝見しています。その、傍目で見守ってきたいくつかの経験にもとづいて、まったくの見様見真似猿真似で、なんとなくこんな感じでチェックしたらいいのかな、こういう瑕疵に目を付けてこういう風に記録して、こういう書類を形づくったらいいのかな、という。
 それが自館資料だったらまだいい、のですが。

●国内のよそさんの資料を、借りて集めにまわる。
 日本からは我が社だけでなく、京都数者・東京数者の所蔵者がおられてそこから大英博物館がお借りになるわけです。で、遠国から借りにおいでになる代わりに、国内の矢おもてたるこちらが、出典品を借りて集めにまわる、という。実際の梱包や運搬は美術博物品専門の運搬業者さんがやってくださるのですが、まあどの資料がどれで、みな確実に引き受けたか引き渡されたかを確認し、先々で挨拶したり頭下げたり、書類渡したりする、ていう。あと、その場でコンディション・チェックもする、ていう。で、ある程度の世間話をして、それを介して先方さんのご事情をお聞きして文脈的なことをつかむ。
 でも、そんなことすべてやったことがないはじめての経験なので、当日の一週間くらい前からずっとお腹痛い、ていう。

●日本からイギリスへ運ぶ飛行機に同乗し、運搬する。
 国内で厳重に梱包された出展品、そうとう厳重に梱包されてるので元の資料群より相当でっかい貨物になっているのですが、これが日本の空港からイギリスの空港まで、直行便で運び込まれます。それに、同乗する、という仕事です。クーリエと言うらしいです。乗るだけなら大丈夫です、12時間おとなしく座っています。時差ボケするだけなのでお腹は痛くない。
 イギリスの空港に着いたら、今度はイギリス側の美術博物品専門の運搬業者の人に出逢って、初対面でバディを組んで、空港の倉庫から貨物トラックに積んでロンドン市内まで運び込む。渋滞の車内では、時差ボケでもう24時間くらい寝てない超眠い頭で、英会話の世間話をなんとかひねり出す。やっとのことで大英博物館に到着して、そこで荷物をおろし、大英博物館側の担当のみなさんと初顔合わせをして、このでっかい貨物を確かに持ってきました、ていうかたちになる。
 ここで初めて、大英博物館のバックヤードにお邪魔します。世界に冠たる大英博物館のバックヤードは、たくさん工事中で、たくさん梱包物や棚が所狭しと並んでいて、ああ、どこもスペースの確保はたいへんなんだなあ、という思いでした。でも、この敷地に”世界史”が詰まってるんだと思うと、それなりの感慨深さがありますが、眠いです。

●イギリス現地でもコンディション・チェックをする。
 日を改めて、貨物の梱包を解き、1点1点確かにありますよ、というチェックをする。それに加えてですが、大英博物館にはプロのコンサベーター(資料保存専門家)が、どうやら各分野各部門ごとにいらっしゃる。そのプロのコンサベーターの人が、イギリスに到着したての日本資料のいま・ここでの状態を再度チェックする。それに同席して、互いに状態を確認し合う、という。
 これを、英語でやります。英語de資料保存です、だから、え、それって??という単語が飛び交います。紙のシワは英語でリンクルかと思ってたらどうも違う単語を使ってはる。同じハガレてるのでもどうやらハガレ具合で単語が違う。こすれ、にじみ、よれよれ、けばけば、紙継ぎ、雲母、エンボス、アイボリー、フォックス。そういえばこれまで和訳・英訳したことなかったなあという種類のボキャブラリーと闘う、ていう仕事。

 で、自分はここまでで、日本での本務に長く穴をあけることもできないから、というので帰国してきました。このあと、それぞれを展示会場の展示ケースに運び込んで、資料保存的観点に注意しながら、これもまたプロの書見台製作専門家の人が作ってくれる書見台に載せて、陳列していき、その結果がいまの現地の展示会、なのでしょう、残念ながらその完成した姿をあたしが目にすることはありませんが、盛況かつ無事に会期を終えられますよう祈っています。


 それにしても今回痛切に思い知らされたのが、M(useum)だろうがL(ibrary)だろうが関係ない、おのれの専門分野が何だろうが関係ないな、と。何かしらの文化資源を所蔵し所有し、それに携わっている以上は、LibraryかArchivesかMuseumかのちがい、あるいは官か民かのちがい、もしくは同じLでもUniversityかPublicかのちがいなんか、ユーザにとっては何の関係もない。おめえらげんにその資料そこに持ってんだろ、と言われればそれがすべてだと思います。
 うちはLですから、Mじゃありませんから、やったことありませんしできませんとか、UのLですからサービスできません、海外だから対象外です、カフェじゃないから飲食できません。そういう言い訳が、ユーザ・社会の前で、あるいは文化資源・資料・情報の前で、通用するはずがそもそもなかったはずだ、ということを、思い出したし、思い知らされたなという感じです。
 ユーザと資料の媒(なかだち)を”専門”として標榜するなら、○○が専門だから**はできない、おら知らね、ではなくて、○○が専門だからその全うのために必要とあれば**もするし@@もする、自分にできなければ頭を下げてよそさんの協力を仰ぎ、遂行に必要ならレジ打ちもすればジェネラルなマネジメントもする。
 それがいいことかよくないことかはわかんないけど、少なくともいま、そしてこれからも、そういうところに身を置くわけなんで、そういう働きをしなきゃな、っていうあれです。

posted by egamiday3 at 20:54| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年10月03日

(メモ)アントネッラ・アンニョリ『知の広場 : 図書館と自由』からのまとめ

知の広場――図書館と自由 [単行本] / アントネッラ・アンニョリ (著); 柳 与志夫[解説] (その他); 萱野 有美 (翻訳); みすず書房 (刊)

知の広場――図書館と自由 [単行本] / アントネッラ・アンニョリ (著); 柳 与志夫[解説] (その他); 萱野 有美 (翻訳); みすず書房 (刊)


・知識経済。クリエイティブ・エコノミー。
・イタリアの街はどの街も美しい広場に恵まれており、そうした街でなら近年の公共空間の商業化を変えさせ、豊でクリエイティブな文化の基盤を再び構築することが可能。
・アイデア・ストアは市民が買い物に来る商業地区の近辺に建設された。利用するサービスはどれもその行動範囲にあるべき。
・図書館が学者の出会いの場となった18世紀には、図書館で静粛に、など考えもつかないことだった。本屋やカフェのように高等と文字のコミュニケーションが調和するよう奨励していた。
・誰にも均しかった娯楽は教養人だけの実践的文化に変えられた。ハイカルチャーと大衆の分離は19世紀から20世紀初頭に進められた。図書館が与えてしまう支配的な認識。最寄りの図書館や専門図書館のことを知らず行かないのはそもそも知らないから。そのような大多数の認識を変えるには時間をかけて取り組むしかない。
・彼らが目録について特に不満に感じている点は、情報の完全なテキストにたどり着けないこと。
・図書館は、「遅れた場所」という認識を相手に、乏しい提供品と、「すべてが今すぐ欲しい」という利用者の要求とは相容れない開館時間のハンデを背負って、戦わなければならない。大学教授やジャーナリストなども同じ問題(必要と認められない)に見舞われている。
・文化の不毛は長い目で見ると国家システムにとって致命的なことだ。知識経済は既存の生産工程や文化要素を再解釈し、再構成し、価値を与えることができるかどうかにもとづいている。クリエイティブエコノミーは充実したインフラに支えられる。エコシステム、創造活動を応援する住環境が生まれるかどうかは、公的な選択にかかっている。政治は息の長い措置を促進できる主体。
・文化的なエコシステムを修正し、創造活動が根をはれる居住空間を創るには、街そのものを出発点とし、長期的視点に立って、読書・音楽・映画・芸術の知識を刺激するようなサービスを発信するべき。
・広場または図書館。中立で平等で会話が交わされる無料の場所。民主主義とは、選挙に集約されるのではなく、集団の中で理性的な比較や議論ができて初めて機能するもの。そのための場所、都市計画が必要。優れた運営の公共図書館は、地域のソーシャル・キャピタルを豊かにする。
・アイデア・ストアのスタッフはその地区住民に近い出身者が多い。低価格のさまざまな講座を開講できているのは、イギリスにはそのような習慣があり、地域住民に合わせて、その地域に根ざしているから。
・真剣な聞取り調査を行なわずに10000ユーロのリノベーションを行なっても意味ない。
・2002年、サン・ジョバンニ図書館はイベントのオープニングに子供たちを参加させた。そうすることで、図書館は子供たちにもすぐに利用してもらえるということを示した。家具のデザインは、図書館が商業空間や指摘空間よりも洗練されていて、気持ちの良い公共空間であるというメッセージを伝えようとしている。
・図書館が新たな利用者を得られるかどうかは、どんな文化活動を提案できるかにかかっている。数多くのイベントを行なうことによって、どんな人にもアクセス可能と認めてもらえる。地元住民と地域の市民文化を無視すれば失敗に終わるだろう。
・その場所では、何も買わなくても時間をつぶすことができる、より民主的で匿名性を尊重し差別されない、ということを。身体的に感じさせられるような歓迎のしるしが必要。
・消費社会の利用者を引き寄せるには、探しているものは何でもあるどころか、あると思っていなかったものまでもが見つかること。
・理想の図書館員とは、古典籍資料について優れた論文を書くことができ、それと同時に、利用者の必要とすることを中心に置く。社会的文脈の中で働くことを理解している。司会を務めたりサークルをつくったり宣伝の協力を説得したりする、ということもまたできる。
・それができるのは図書館員だけではない。図書館は異なる職業、ジャーナリストや芸術家など、喜んで役立ちたいという人びとにも開かれなければならない。カタロガーにやらせなくていい。
・図書館の所蔵資料の価値を高めるには、その豊かさや複合性を受け入れること。図書館を多様な社会活動・文化交流の場とすること。サービスやメディアの幅が拡大すれば、利用者ではない人を呼び寄せ、住民が図書館を街の一部として認可するだろう。「活気ある図書館」とはそういうこと。
・図書館が社会活動・交流の場となったとき、その中立性・平等性によって、普段接する機会のない人、デモや市議会等でしか会わない人ともコミュニケーションをとれる。さまざまな人と出会う経験、予定されていない不意の出会いは、民主主義にとって決定的である。共通の経験をする、社会の結束を提供する場として。
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2013年09月26日

開館したてのバーミンガム図書館に行ってきました

 
 ロンドン出張のついでということもあり、なんか話題になってたので、開館したてのバーミンガム図書館に行ってきました。2013.09.14当時の話、ということで。

 ごく簡単にまとめると、
 ・話題で、開館したてで、人が押し寄せすぎて、喧噪でわやわやしてる。
 ・ハード(建物・施設・デザイン)は、”イマドキのトレンド”に実に忠実な感じ。
 ・ソフト面、サービスや実用性・効果については、まだなんとも言えない、見えてない。(保留)
 という感じでした。

・Library of Birmingham
 http://www.libraryofbirmingham.com/

・「People's Palace:欧州最大となるバーミンガム図書館が開館」 - カレントアウェアネス・ポータル(E1473)
 http://current.ndl.go.jp/e1473

・Library of Birmingham - Wikipedia
 http://en.wikipedia.org/wiki/Library_of_Birmingham

 そもそもバーミンガムという街は、産業革命で一気に発展した工業都市とのことで、ロンドンに次ぐ英国第2の都市をマンチェスターと争ってるような感じ(人口では第2位)。とはいえ、大都市という雰囲気ではなかったです、ヨーロッパの小都市で人が多い雰囲気。
 ロンドンからは特急で1時間半かかるかかからないかくらい。(行くんだったら、オフピーク&往復割引が割安でオススメです。)
 駅前の繁華街はこんな感じ(土曜昼)。

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 なるほど、こういう感じの住民の皆様が押し寄せるんだなあ、というその真新しい新築ほやほやの図書館が、こちらです。

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 蔵書約100万冊。広さ31000平米。総工費1億8,860万ポンド(1ポンド=約160円と考えれば目安となるでしょう)。
 ぱっと見で正直、「なぜつくった」感はいなめない。ホテルとかパレスとか言われてますが、個人的には「ポーラ化粧品」の印象が強い。わかるやつだけわかればいい。

 それでもまあ、問題は中身です。と思ってとりあえず入るとエントランスがこんな感じ。

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 ああもう、一目見てわかります、図書館のそれにしろ公共建築のそれにしろ、イマドキのトレンドに実に忠実に、道を踏み外すことなく真っ当になぞらえてつくられてる感じの内装デザイン。いま新築で何かつくったら、確かにどこに行ってもこんな風景が見れます。見覚えがあるデジャヴ感、カタログ感満載です。

 ひとフロアづつ拝見していきます。

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 半地下の一番手近なフロアが、Book browseという、小説や人気の実用分野が並んでる感じ。そしてこれもイマドキの、図書館分類を配架に採用していない、一般の人の感覚にもとづいた並びになってるパターンのやつです。この本棚は旅行、この本棚は料理、ここは健康、このフロアは小説で、その中でも恋愛、サスペンス、背表紙に拳銃マークやハートマークがついてるという感じ。
 それはいいんだけど、さてじゃあどうやって本を探したらいいんだろうと思って、現に書棚に並んでるはずの本をフロアの端末で検索してみるのですが、「Book browseフロアの健康の棚にある」ということまでしか表示されなくて、そこからどうやって探したらいいのかがよくわからない。じゃあ棚の前に立てば感覚的に探せるのかしら、と思って立ってみるけど、わからない。これはまあある意味しょうがないかもしれません、感覚的に並んでるということは、この土地の、この文化圏の、この言語・この出版流通環境の中で共有的な感覚を持ってる人間じゃないと、アジアの小国から来た英語もままならない御殿場ウサギがいくら本棚をにらみつけたところで、探せないのは当然なのかもしれないです。うん、じゃあそんな立場のユーザには探せないんだったら、公共図書館って何かね、という気はちょっとするけど。
 まあ、聞けばいいんだろうけど、フロアのステーション的なところに職員常駐してるみたいだし。

 地下1階は子供と音楽のフロアです。
 お話し会的イベント用の階段フロアがありました、これはお子たちが盛り上がりそう!
 グラフィックノベルの棚には日本のマンガほとんどありませんでした。でもOPACによれば相当タイトルあるはずなので、借りられてるのか、書庫なのかな。

 上へあがります。

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 1階(イギリスの1st floorは2階目です)はビジネス・健康・生涯学習。2階に「Knowledge」・3階に「Discovery」という名前がついてて、人文系・社会系・科学系・芸術系の各分野がそれぞれにちりばめられてるんだけど、実際には「Knowledge」「Discovery」に意味はなさそうな配置なので、まあイメージ戦略でそれなりの単語使ってみたパターンかなと。
 1階には「Advice」と書いた小部屋が何室かあって、たぶんビジネスや生涯学習的なことでの対面のディープなレファレンスをやってくれるんじゃないかな、と想像できます、使われてなかったけど。
 あと、フロアの随所に自動貸出装置がいくつもあって、たぶんセルフで随時貸出処理ができます、これも使われてなかったけど。(ていうか、人が本を借りている風な風景を最後まで見なかったような気がする)
 インターネット端末はほぼ満席でみんな使われてます、このへんはどこも変わらない風景ですね。

 そして、たぶんこれが目玉なんでしょう。
 2階・3階・4階をつなぐ円形の吹き抜けエスカレーターです。

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↓パノラマ(クリックで拡大)
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 土曜日の昼間です。人が1階からどんどん湧いてくるように登ってきて、そしてどんどん上へ上へと進んでいきます。もはや行列です。阪急烏丸駅か京都伊勢丹に匹敵するくらいのエスカレーターの行列です。うん、そういう歩みの進め方や視線の向け方をしてる6-7割の人たちは、まあ図書館を”見に来た”人なんだろうな、っていうのはなんとなくわかります。自分もそうなんですけどね。
 ちなみに、吹き抜けエスカレーターから見えてるあの書架のエリアの半分くらいは、一般のユーザは立ち入れないようになってるので、実際に手にとって閲覧できる蔵書を置いてるというわけではなさそうです、古い参考図書か製本雑誌かな。これ↓も、背の高い人だけが専用に読む内容の本、というわけでないのなら閲覧を前提とした配架ではないのでしょう。
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 あと、図書館分類を採用せずに感覚的に配列してるっていうならいいんだけど、並んでる書架をざっと眺めても、その感覚的な方のカテゴリ名すら見えるところに表示されてない、っていう。棚にだいぶ近づいてからじゃないと、そこにどんな本が並んでるのかはわからない感じになっちゃってるので、これは単純に設計ミスじゃないかなって。それも逐一フロアの職員に聞くっていうのが、意図的にそうしてるならいいんだけど、もうちょっと自律的に動ける設計にしたほうがいいとは思う。Discoveryフロアなんだし。(だから、か?)

 そして、阪急烏丸のように皆が上へ上へと向かうその先には4階・アーカイブと地域資料の間があります。本来だと客数の少ない中で静粛に時間をかけて史料と向き合うようなゾーニングをすべきところなんでしょうが、残念ながらそういうわけにはいかない。いままで以上に混雑している。
 この4階の先は最上階・シェークスピア記念展示ルームがあって、上へ上へツアーのゴール地点となっているのですが、ゴールへはエレベーターに乗り換えるか、階段で数フロア分歩かないといけない。エレベータホールは待ってる人たちであふれてるし、階段ですら蟻の行列みたいになってる。そこがボトルネックで滞留してるところへ、下階からは吹き抜けエスカレーター直結でどんどん人が増えて来る。しかも、そこからアーカイブの書架やマップケースの合間を縫ってフロアを通り抜けないと、エレベータホールにも階段にも行けない配置になっちゃってる。さらには、アーカイブのフロアなんかもともと手狭に作られてるから、余計に人口密度が高くなる。
 結果、アーカイブ・フロアがまさかのバーゲン会場と化している、ていう。
 いやたぶん、常態の図書館でなら、アーカイブ・フロアも展示ルームもひとつのラインで歩いてまわれて、なるほど図書館とはこういうところなんだなあって学ぶことができそうな設計なんだけど。常態じゃないいまにあっては、そうはなってないという。
 それでもがんばって階段で展示ルームへ行こうとすると、途中に職員の人がいて、ダメです下りてください、って悲壮な顔つきで訴えかけてくる。なんやと思うてると館内アナウンスがながれてきて、どうやら展示ルームがあまりの入室者数騒ぎで入場制限かかってしまったらしい、「どこそこでレジストレーションしてください」て言うてはる。

 というわけで、ハードはこんな感じです、ていう。
 じゃあ、ソフト面は?サービスはどんな先鋭的なのが?というあれなんですが、これは一言で言うと、わかりません。
 まずあまりに人が多過ぎてわやわやしてて、サービスの在り方だの利用実態だのを観察できるような余地がない。視界が良好じゃないので。
 加えて、こんなサービスをしてますよ、というような掲示なりサインなり受付なりその体制・姿勢のようなものが、見えないというか、みつからない。これは結構に不思議なことです、あたしはこれまで国内外のいろんな図書館を山ほど歩いてきましたが、サービスの様子が見える範囲に見当たらない図書館なんていうのはそうそうない。英語だから文化圏が違うからといったって、手厚い図書館はぼーっと歩いてても、どんなサービスをしてるのかが目に飛び込んでくるものです。えーこんなんやってんねやーって、見つけてホクホクできるものです。
 それが見えない、ホクホク感がない、というのは、人の多さにかき消されてしまってるのか、まだ開館数日だからしょうがないことなのか、それがこの街の住民ニーズなのか、それはわかりません。わからなくて、見えてないので、ここについてはまだ評価できない=保留にしておきたいと思います。
 落ち着いたら、サービスのありかたがちゃんと見えてくるのかもしれませんし。
 そう、落ち着いたら。これから、です。

 ホクホクできたのは、屋外の壁面パネル展示で、図書館の沿革紹介的なのをやってたやつです、ああこれいいなあって。こうやって、入館しなくても道すがら歩いてる人に図書館のアピールができるの、いいなあって。

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 まあ、そんなアピールしなくても山ほど人は来てるんですけど。

 うん、人が”来てる”っていう感じでしたね。
 それはそれでアピールのひとつではあろうと思います。ひとつ、だけど。
 来た人たちが、ただ来る・集まるから、集う、つながる、何かを産み出す、っていうふうにころがっていけるようになるのは、もうちょっと落ち着いてからじゃないかなって、思いますね。
 その落ち着いた頃になって、従来だと図書館に来なかったような人たちにも近しい存在として親しんでもらえるんだったら、こういうわやわやの苦労も甲斐無しではないかな、って。
 まあ、そう理解しています。
 これから、です。
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2013年09月24日

日本の学生だけが学んでないかもしれない、というリスクについて。 : 「「大学と電子書籍」の現状と未来」 (20130921大図研京都)


・大図研京都ワンディセミナー 「「大学と電子書籍」の現状と未来」
 http://www.daitoken.com/kyoto/event/20130921.html
・入江伸「「大学と電子書籍」の現状と未来」 (20130921大図研京都) - Togetter
 http://togetter.com/li/567311

(参照)
・電子学術書利用実験プロジェクト
 http://project.lib.keio.ac.jp/ebookp/
・CiNii 論文 - 慶應義塾大学メディアセンター電子学術書利用実験プロジェクト報告 : 出版社・学生と大学図書館で創りだす新しい学術情報流通の可能性
 http://ci.nii.ac.jp/naid/110009593139
・CiNii Articles 検索 - 電子学術書利用実験プロジェクト
 http://ci.nii.ac.jp/search?q=%E9%9B%BB%E5%AD%90%E5%AD%A6%E8%A1%93%E6%9B%B8%E5%88%A9%E7%94%A8%E5%AE%9F%E9%A8%93%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%82%AF%E3%83%88
 
 慶應のこのプロジェクトと入江さんのお話はよそでも何度か聞ける機会はあったろうと思うので、それ自体はまあざっくりとでもいいとして、聴きながら個人的に気になったこととそれにまつわる質疑応答での入江さんのお話について、ていうか、いつものごとく最終的に自分の考えを書いてるだけの記事です。(当日の様子はtogetterで(http://togetter.com/li/567311)、これもがっつり私見入ってますが)

 で、当日お話を聞きながらあたしがもやもや考えてたのはこうです。
 講演本編や質疑応答の中でのいろいろな話題、電子書籍ってほんまに使うのか使わないのか、いるのかいらないのかとか、教員が教育のことをちゃんと考えているのかいないのかとか、学習支援がどうのとか、大学出版会がどこまで手を出せてるかとか、まあそれぞれはいちいちわかるんだけど、それを考えようとすればするほど、いやそれ以前に、じゃあそもそもいまの学生はいったい何を、何のために学習しているんだろう、させるべきなんだろう、と。そのことがその議論の前提として共有されているか、共通理解・納得されてんのか?というところがどうも疑問なんで、自分としてはまずそこをはっきりさせたい、って思うわけなんですね。
 だって学費だって年々値上がりしてるうえに、やりくりは苦しい、奨学金制度はあんな感じで、就職はできてもできなくても厳しい。そんな中へ片道1-2時間かけてまで通って、みな真面目に、ストイックに、従順に、大学で何を何のために学ぼうとしているのか。教員は教育に重点を置けよ、と言うのはごもっともなれど、じゃあ、教えたらどうなるのか、教えることでどうしたいのか、どうすべきなのか。それが共有されないうちに、昨今激減してる貴重な研究時間を削ってまで、資格や就活のほうが大事な学生のために、就職先で役立つ可能性がほぼひと握りの専門分野の知識を、教員が教育する気になるのはちょっとむつかしいんじゃないかって思います。

 で、学生さん側からの視点としては、専門の習得のためという本来的な目的の人もまあいれば、なんとなく高校の延長で勉強してる感じだったりもすれば、就職活動のために単位を取りに来てるっていうのも実際問題おおかたとしてあるでしょう。
 ただ、社会全体の中での高等教育の役割的なことから考えれば、専門教育にプラスして、知的生産の技術、勉強の仕方・生産の仕方を、大学で学んで世に出て行ってほしい、というのが大事なこととしてあると思うんです。
 リテラシーです。もうそろそろあらためて口に出すのもどうかと思うほど口ずさみ慣れた、リテラシーです。必要な情報や文献を自力で入手し、それを加工したり批判的に評価したり咀嚼したりして、次の新しい知的何かを生産する。あるいはそれらをいい感じの仕上がりでアウトプットする。嗚呼、リテラシー、です。

 それを習得していただくための、レポート課題であり、グループワークであり、そのための図書館での文献調査と情報探索であり、ラーニング・コモンズであり、そしてデータベースや電子書籍などといったアクセス・操作しやすいe-resourceの整備と提供、なわけです。
 うん、そのはずです。別に、何が何でも”使わせたいから”ラーコモがあるわけでもないし、デジタルがとにかく”便利だから”という理由だけで電子書籍を押しつけたいわけでもない。

 で、そのリテラシーを習得して世に出て行ってほしい、というのであれば、学生たちが世に出て行った後も5年10年20年くらいは発揮できる寿命のあるリテラシーでないと困るわけなんで、ということをふまえるとじゃあ、このプロジェクトで提供されようとしている電子書籍の”仕組みな寿命”ってどれくらいに想定されているんだろう? いま・ここで便利でさえあればいいだけの仕組みなのか、それとも長期的に有効なリテラシーの醸成に寄与できるようなツールなのか、ていう。

 ・・・・・・うん、我ながら無茶な問題設定を。

 まあそんな無茶な問題設定を、なんとなく軽く返す感じで、でもあきらかに大事なことを言っているという内容の応答をしてくださった、入江さんの話をざっくりまとめる・・・というか、相当にあたし自信の考えがだいぶ混じってると思うので、自分はそう理解しましたっていうエクスキューズの中でざっくりまとめると。

 世界の研究・教育のスタイルがデジタルを中心にしてまわっていくように、なってきている。それがトレンドというものだろう。ところが、日本の大学では、学生たちはそんな手法・環境の中で学習していない。そんな学習方法を身につけていないし、そんな研究の仕方が教えられていない。
 これってマズイでしょう、と。
 これってヘタをすると、日本からは(世界の研究手法に通用する)若手研究者が輩出されなくなる、ってことでしょう。研究者、日本からいなくなるんじゃないか?、と。英語理系はまだしも、少なくとも「日本で、日本語で、研究する」ということをしなくなるんじゃないか、と。
 実際、韓国の(註:だけじゃない、各国の)日本研究者が、日本で、ではなく、アメリカで日本研究を修める(註:英語で)という例もある、らしいし。
 それじゃマズイだろう、と。
 図書館としては、資料の探索・入手・活用に学生のコストをかけさせたくない、その後の実利用のほうにエネルギーをつかってほしいので、そのコストがアナログだと高いならデジタルを整備すべきだろうし、そのためのリテラシーというか体力作りをデジタルの方に向けさせていくべきだろう、そういう流れを作ろうよね、と。

 あと、この仕組みは技術的には長持ちするはずです。
 あと、フィードバック的には学生の評判は上々です。

 というような感じです。

 だから、たとえばそうですね。
 「アメリカが、海外が、よそがみんなそうしてるから日本もそうしなきゃいけない、ってわけじゃないだろう」とか。
 「それがトレンドで、みなそれを採用してるから、自分たちもそれを追っかけなきゃいけない、ってわけじゃないだろう」とか。
 「なんでもデジタルでなきゃいけない、最新のツールを導入しなきゃいけないってわけじゃないだろう」とか。
 それはひとつひとつ、確かにそうじゃなきゃいけないわけじゃないんだけど。
 問題は、そうしなかったことによって重大なディスアドバンテージを被るかもしれないという”リスク”を込みで、社会全体的規模でどう考えるか、ということじゃないかなって理解しましたです。

 今日の理解はこのへんまで。

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2013年09月07日

あまちゃんで一番象徴的なエピソードは、北三陸に戻る八木さんの話です。(「どこが?」「いや別に」)


 ここでまさかの”あまちゃん論”を書いちゃうわけなんですが(笑)。
 9/7時点での話です。

 自分は当初からこのドラマを’東京と地方’の関係を綴る物語だなあという思いで見ていました。
 当初からというか、もう第1話目から。

 クドカン脚本の朝ドラ、という鳴り物入りで4月に始まった第1話は、海女でもウニでもなく、北三陸鉄道から始まります。1984年の北鉄開通日のドリフのような式典シーン。
 そしてオープニング映像もまた、いきなり北鉄から始まる。リズムとともに軽快に走る・・・え、ちょっと長くない?と正直違和感を覚えるくらいの長い扱われ方。ああ、このドラマにとってそれほどこの鉄道は重要なアイテムなんだな、ということが1日目の開始2-3分で見てとれる、ていう。

 その北鉄、大吉さんは何かと「市民の足」と言いますが、それ以上に’北三陸と東京とをつなぐ存在’としての期待が大きかったわけです。

 若大吉
 「これからは地方の時代だべ。
  北鉄も通って、この町もますます活性化するべ」


 北鉄が開通すれば、東京とつながる、人も観光客も増える。という、おそらく日本中のどの地方・田舎も何時ぞのタイミングで抱いたであろう期待。その見込みは残念ながらかなわなかった(というより、若春子のように東京へ流出するインフラになっちゃった)わけですが、その期待と期待外れの歴史こそが、この20数年間の東京と地方の関係を物語っているんじゃないか、と思えるわけです。

 思えば、市民の足シーンと同等以上に、東京とのつながりシーンが印象深い。若春子の東京行きも、東京に戻るの戻らないのという春子さんとアキちゃんの応酬も、夏ばっぱが東京行きの春子やアキに大漁旗を振るのも、震災後にアキちゃんが帰ってくるのも、北鉄。ユイちゃんなんか「アイドルになりたい!」ってホームから東京方面に絶叫するほどで、これなんか完全に線路を”東京視”してる、ていう。

 その北鉄に乗って脱出したのが、’田舎が嫌いで東京に憧れる’若春子。春子さんが東京に行って、東京から帰ってくる一連の動きは、物語の全体を大きく動かすもとになってます。
 春子さんの娘であるアキちゃんは、逆に’東京が合わなくて、田舎が好き’なパターン。東京にいる頃は内にこもりがちで、地味で、暗くて、向上心も協調性も、えーっと、あとなんだっけ、まあそんなことは思い出さなくていいですね、そんな娘が、田舎の自然と人とコミュニティと生活様式に触れることで本来の自分を取り戻し明るく輝くのです、って公式サイトやプレスリリースあたりにも書いてるでしょう、たぶん。速攻で訛るくらいですから。言葉の距離は心の距離ですから。
 そして母娘三代物語の一代目である夏ばっぱは’ずっと地方に居続ける’、ここから出たことがない、というパターンの人。

 母娘三代物語をつなぐもうひとつの縦糸が、「アイドル」です。このドラマにおけるアイドルネタは、たんなるAKBパロディやオッサンホイホイな昔懐かしネタ以上の意味があるはずです。
 あたしお盆に夏ばっぱが橋幸夫に会ったの見てやっと得心がいきましたが、これは三世代のアイドル物語だったんですね、アキちゃん世代と春子さん世代だけじゃなかったんだ。アイドルという、メディアを通したコンテンツの消費の歴史がそれだけ長く続いている、ということなんだと思います。
 そして(少なくとも現代日本では)アイドルというのは’東京から発信される’ものです。メディアを通してそれを受け取る地方の人びと(主に若者)は、アイドルとともに”東京”に触れるので、ほとんどの日本人にとってアイドルへの憧れは’地方から東京への憧れ’とベクトルが同じになります。若春子は言うに及ばず、あの不動の夏ばっぱをして東京へ向かわしめたほどの、’東京=アイドルへの憧れ’。

 その’東京=アイドル’にとてつもなくご執心だったのが、ユイちゃんでした。
 彼女は実戦経験のない’情報過多の東京志向’派です。

 ユイちゃん
 「原宿って表と裏があるんでしょ?
  芸能人ってだいたい裏に生息してるんでしょ?
  吉祥寺って住みたい街ナンバーワンなんでしょ?」


 情報過多ぶりは若春子さんの比じゃありません、インターネットのおかげで、新宿のカレー屋がつぶれたことまで知ってるというハイ・リテラシーぶりです。
 「アイドルになりたい!」と北鉄のホームで叫ぶ形相なんか、橋本愛ほどの美人さんじゃなかったらだいぶイタイはず。なんだけど、まあたぶん日本のあらゆる地方の、各世代の、多くの若者が、みんな似たようなもんだったんだろうな、というのもわかる気がします。
 若春子が灯台まで行ってマジック取り出して何を書くかと思えば、「原宿」「表参道」。
 みんなどんだけ”東京”に頭でっかちなんだよ、ていう。

 その東京へ行くの行かないのと、長々と、海女の話よりよっぽど長いんじゃないかっていうくらいにひっぱった末に、アキちゃんはアイドルになりに東京に行く。
 ところがそのアイドル自体が「GMT」、つまり地方の集まり。アキちゃんが暮らすGMTの寮は、方言と郷土料理が飛び交い、東京への夢とその破れかけの欠片がないまぜになったような、まさに’東京は田舎者の集まり’説を地で行くような場所でした。

 入間しおり
 「『どうせ売れん』!?」
 太巻
 「売れへんよ」


 もし東京と地方の間に大きな壁のようなものがあるとするなら、その壁こそが、東京を東京として成り立たせてるのかもしれない。GMTが苦戦してなかなか売れない様子や、若春子が声の影武者として芸能界に吸い込まれていった様子を見てると、そんなふうにも思います。

 見かねた春子さんが東京にやってくる。元の家に住むようになる。えーとなんだかんだで、よりをもどす。
 春子さんと正宗さんの夫婦関係もまた、東京と地方の距離関係抜きには語れないように思います。二人が出逢ったのも、若春子が東京から地方に帰るか帰らないかを云々してたときだし、結婚したのは帰らなかったからだし、離婚イコール北三陸と東京で離ればなれだし、二人がよりをもどせたのは二人で同じ東京に住むようになってからでし。
 交通網やインターネットや携帯電話がいくら発達しようと、まあ結局、人の人生はイコールどこに居るか、東京か地方かの物理的・地理的な環境におおかた左右されるんだなあ、と思います。もうなぞりませんけど、種市先輩問題も同じですね。

 で、えっと、うっかり忘れそうになりましたけど、八木さんの話です。
 ”東京と地方”というキーワードからの視点で見ると、東京に家出したけど北三陸に帰ってきたという八木さんのエピソードが、このドラマ全体の中でもっとも重要というか象徴的だなあ、と。直接的なセリフで熱く語られていたなあ、と思うんです。

 ユイちゃんの母親で元女子アナという設定であり実際に元女子アナである八木さんは、最初からいかにも素敵な奥さんキャラで、北三陸界隈で唯一上品な東京臭がプンプンしてた人でした。どんなキャラかは、アキちゃんがユイちゃんちに来た晩の料理の盛りつけを見ればすぐにわかる。料理は人、人は料理です。
 それが夫の病気きっかけで、衝動的に’北三陸での生活に自信をなくして、東京に逃げ出し’ます。で、いろいろあって、やっぱりさみしい、北三陸の家族に会いたい、帰りたい、なんだかんだディスカッションや説教があって、最終帰る、田舎に受け入れられる、ていう一連のエピソード。(http://www1.nhk.or.jp/amachan/special/0815.html

 八木さんは、一度は’東京に、一人の自分を求めた’ものの、いまは’北三陸に、家族を求め’ます。
 そこへ春子さんが、ユイちゃんがグレちゃった顛末を聞かせる。母親が家出したショックで落ちるところまで落ち視聴者をドン引きさせたユイちゃんですが、春子さんが言うように、

 春子さん
 「夏さんや海女クラブや勉さんや大吉さんや、
  まああたしや、アキや、みんなが、
  ユイちゃんがこれ以上道を踏みはずさないように、
  遠くから見守ってたこととか。
  腫れ物に触るように接したら余計傷つくから、
  わざと乱暴にあつかったりとか。
  優しくしたりして家族みたいに接して、
  ようやく心開いてスナックで働き始めたこととか。
  ・・・そういうこと、なんにも知らないでしょ?」


 春子さんが説教で八木さんを追い込んでるような場面ではありますが、と同時に、春子さんはこの語りで’田舎(の人・コミュニティ)が持つパワー・底力’の存在を熱く訴えてるんじゃないか、って思います。田舎嫌いで家出した先輩である春子さんだからこそ、熱く、聞かせるなあって。

 確かに、この一連における北三陸チームの人的パワーは、素直にかっけえって思いました。
 リアスに戻ってきた八木さんを中世の魔女裁判かのように取り囲む北三陸チームは、「言いたいことは全部言っちまえ」(美寿々さん)と促し、言ったら言ったで「要するに現実逃避だな」(かつ枝さん)と一刀両断し、「なして帰ってきた?」(花巻さん)と答えづらい質問を無愛想な顔で遠慮なくぶつけ、どっちかというと取り囲んでる方が魔女っていう裁判ですが、結果的に「ここにいるみなさんは、みんなもうきみが弱い人間だってことを知ってるんだから」(足立先生)という脅威の理解力を見せ、「逃げて帰ってきたんだから、もうよそ者じゃねえ」(大吉さん)という奇跡の包容力で八木さんを迎え入れ、最終的にけらけら笑って拍手して、「おらのことアンジェリーナ・ジョリーて呼んでみろ」(弥生さん)などとボケ合戦が始まる。
 強え。強すぎる。なんだこのパワー、このコミュニティ、勝てる気がいっさいしない。ていうかウザい。
 毎年末にはお笑い怪獣を軽くあしらう実力を持つ八木さんも、「弱い自分をさらけだせたら、どんなに楽かと思っていた」と悔しがらざるを得ません。

 東京に行けなくてグレたユイちゃん、東京へ逃げて北三陸に戻った八木さん、どちらをも迎え入れた北三陸チーム。彼らを描いたこの一連のエピソードが発する、

 春子さん
 「田舎なめんなよ!」


 というメッセージは、うん、やっぱりこのドラマの重要かつ象徴的なものだったんじゃないかな、って思います。

 さて、北鉄にかわって北三陸と東京をつないでいるのが、インターネットです。北鉄のユイちゃんや、やっとのことでウニ1個を捕ったアキちゃんの動画は、ネットにアップされ、北三陸に全国から”おまえら”と観光客を呼び寄せ、辞書編集者からスカウトマンに転職したミズタクを呼び寄せ、弱小個人事務所のアキちゃん人気の後押しをして、最終的には太巻を改心させオーディションでアキが選ばれる決め手となります。
 インターネットは、地方と東京・世界をつなぐ有効な存在であり続けるのか。今後20数年経ってもなお、北鉄が背負ってた期待のかわりを務め続ける事ができるのか。あるいは、世界を平板化していってしまうのか。
 これはまあ、あまちゃんというドラマとはまた別の、未来の歴史の話ですね。



 ・・・・・・あれ、そういえばまだ他にも、いったん東京に出たけど北三陸に戻ってきたっていう設定の人、誰かいたな。誰だっけ。
 えーと、思い出せない。まあいっか。


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2013年08月31日

日本の妖怪が好きなアメリカの院生さんに進路相談を受けたときの話

 
 この話って、まとまったかたちでどっかに書いたかどうか、もしかしたらこのblogにすでに書き記してるかもしれない(笑)んだけど、まあいいや、ちょっと書き記しておきますね。

 アメリカのある大学図書館に話を聞きに行ったとき、そこで出逢った院生さん(日本研究が専門)に、日本への留学先とか進路的なことを相談されて、それに自分なりになんとなく答えた、っていうときのことの話です。

 その院生さんは「日本の妖怪に興味がある」っておっしゃるんです、日本が好きな海外の学生さんの中には”妖怪(Yokai)”が好きっていう人が結構多いし、学生に興味を持たせるために妖怪関連の日本素材が講義や講習で使われたりするのはちょくちょく見ますし、そういう相談をされるのは別段めずらしい話ではないです。例: http://en.wikipedia.org/wiki/Y%C5%8Dkai
 で、妖怪といえば我が社(笑)なわけで。彼が言うには、webで「妖怪」を検索したら、日文研が一番にヒットした、なのでその先生のところに留学しに行くのがいいのではないかと思っている、というふうにおっしゃる。

 そんな話を聞くと揉み手で対応しちゃいそうなところなのですが、ここで「あれ?」と思ったことには、彼の大学の日本研究は”文学研究”がメインだったはず。それでよくよく注意して話をきいてみると、彼の専門は江戸時代の黄表紙だと。黄表紙の中に現れる妖怪、という扱い方をしたいんだ、と。
 私は、日本の妖怪研究や民俗学にことさら詳しいわけではないですし、大学で専門だったはずの国文学にもだいぶ疎くなってきてしまったので、確かなことを言えるわけではないのですが。ただ、彼のその話を聞いた時点で、あ、これはちょっとヘンだな、という司書的嗅覚のほうは働くわけです。
 つまりこれは、「端的なキーワードでググって、ヒットした結果をそのままとらえて、文字通り以上の意味を読むにいたらない」というパターンだな、ていう。

 なので、あたしは彼に、自分がそのときに感じた違和感をそのまま丁寧に伝えました。あなたが「妖怪」に興味があるとは言え、「妖怪」という言葉で検索した結果、ヒットした研究成果がそのままあなたの興味に合致する、というわけではない。その検索には、文脈とか視点といったものが含まれていないし、学問分野全体のどのような位置づけにあるかといったものがその検索結果で把握できるわけではない。「妖怪研究」と名のつくものでも、歴史学や民俗学からのアプローチもあれば、宗教学もある、絵画美術の研究もあるだろうし、自然・地理、認知心理学的なものだってあるだろう。
 このあたりから、彼の顔つきがちょっと神妙なものに変わってきます。たぶん、理解してくれてるんでしょう。
 あらためて、あなたは妖怪であれば何にでも興味があるのか、日本の田舎の祭礼や儀式のようなものにも興味を持てるのか、それともあくまでも黄表紙が専門なのか、と尋ねると、はっきりと自分は江戸期の日本文学を専門としている、とおっしゃるので、だったら、留学先・進路先としてはそっちからアプローチしていくほうが得策なのではないか、とあたしとしては考えるし、そう伝えるわけです。

 例えば、Readとか大学公式サイトの研究者ディレクトリ・シラバスのようなところに、たまたま「妖怪」とか、自分の興味のある単語が記してあったとしても、それがその研究者の研究実態を反映しているとは限らない。たまたま書いたとか、事務的に書かされたとか、更新されてなくて古い、とかいうことはいくらでもある。それで判断してしまうよりは、たとえばその研究者個人のページを探しなおして、最新の研究活動を確認するとかのほうがいいのではないか。また、CiNii Articlesに収録されているような論文の論題からなら、ある程度その研究分野やアプローチのされ方も詳しめにしぼりこめるだろうから、自分の研究・志向するテーマに近い具体的な論文をまず探してみて、その著者にあたってみる、というほうがよいのではないか。
 もちろんそれらが妥当でないこともあるでしょうけど、少なくともざっくりとしたググりよりはよっぽどあたりがつけやすいんじゃないかって、思うんです。

 調子に乗って一般論的なことも言っちゃうと。
 いい研究者がいい指導者とは限らない。また、いい指導者であっても、その先生やその大学が、留学生の受入・指導に慣れているか、環境や制度が整っているかは別の問題。それ以前に、住む街自体はどうなのかっていうのも、国を越えて勉強しにくるときには重要な問題になるはずです。
 そして、幸いにして江戸文学なら日本での研究者人口はかなり多いはず、というわけで、どの先生がいいか、もさることながら、大学の受入体勢の良し悪しで選んではどうだろうか。残念ながらそこまでの詳しい情報はあたし自身は不勉強で持っていないんだけど、でも、そういった情報の蓄積っていうのは、米国内にいる、日本留学経験のある、江戸文学専攻の先生や先輩こそが持ってるんじゃないだろうか。どう? と聞いてみると、うん、確かにその通りだ、と彼は深くうなずきなさるので、ああ、たぶんこのあたしのアドバイスはそんなに外れてはいないんだろうな、とちょっとホッとするわけです。

 ごめんなさいね、いまあたしが思いついてあなたにお話したのは、決して日本での妖怪研究や江戸文学研究の実態を熟知した上でのお話ではありません。専門に根ざしたアドバイスではありません。ただ、日本で司書職に就く者として、あなたに必要そうな情報の探し方と解釈の仕方について、ちょっと気になったので言ってみました。専門のことは専門の先生から丁寧に話を聞いてみてくださいね。
 というようなエクスキューズを、医薬品のコマーシャルのように付け加えておきましたが、まあ、ある程度得心したような表情で理解してくださったようなので、よかったんじゃないかと思います。

 というようなことがあったので、ちょっと記しておきました。
 そしてこの考え方はたぶん、他分野他用途の検索や情報収集、論文探しや就職先探し、家電や旅先のごはんやさん探しでも、まあまあ通じるんじゃないかなあ、とは思います。





 ・・・あ、念のため。全部日本語で会話してましたよ?(笑)
 
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2013年08月26日

わたしが「秘書のおばさん」じゃなくなっても (名古屋大学「知る・識るワークショップ」参加メモ)

 
 名古屋大学さんで開かれた職員向け研修「知る・識るワークショップ」(2013.8.23)に講師として参加してきました。そのことにからんでちょっと書きます。

 このワークショップは、名古屋大学の大学職員をメインターゲットにした研修企画で、当日は事務職員・図書職員のほかに、院生さん、教員の先生、URA部署の先生などが参加されてました。全体で15-16人くらい。名古屋大学図書館内のラーニングコモンズでディスカッション・イベントを開く、的な感じでやってました。
 テーマは大学における「研究支援」ということで。
 あたしと、もうひとり金沢大学の方がURA活動の報告をなさってました。
 あたしのプレゼンは↓こんな感じ。

 タイトル
 「図書館の”研究支援”は国境を越えるか?」
 概要
 ・国際日本文化研究センターにおける研究協力活動
 ・海外の日本研究者・学生の実際
 ・海外の日本研究と、それを支援する図書館の機能
 ・海外における日本研究の退潮傾向と、デジタル不足
 ・大学/図書館は、誰をどう支援すべきか、それによって何がもたらされるか

 いままであちこちで書いたりしゃべったりしてきたことのまとめ的な30分でした。
 というよりはむしろ、先に下の2つで書いたこと&しゃべったことっていうのは、そもそもこの「研究支援について話してください」というオファーを受けたことがきっかけで考えたことの産物なので、この名古屋大学企画のほうこそが自分にとっては”母なる泉”みたいなもんです、ほんとは。

 ・江上敏哲. 「図書館はなぜ“支援”するか」. 『大学出版』. 2013.7, 95.
 http://www.ajup-net.com/daigakushuppan
 ・京都府立総合資料館. 「トークセッション「新資料館に期待する」」. 2013.
 http://www.pref.kyoto.jp/shiryokan/50shunen_talk.html

 で、ここまでは前座。
 この企画のメインは(たぶん)後半のグループディスカッションです。参加者全員が2班に分かれて、”研修支援”についてフリーにディスカッションしあう、という感じの企画でした。

 中でも、「秘書のおばさん」という語句(註:ジェンダー的にちょっとあれな語句ですが、前半の講師が提唱したもので、本記事でも「」付きでそのまま使用します)が、今回のひとつのメインなキーワードだったなあと思うので、そのことにからんで大学事務(図書事務含む)についてちょっともにょもにょ考えてました。
 以下、実際にそういう話があった、というよりは、自分なりの考えを中心として記事にしてますという感じで。

 教員サイドとしては、とにかく事務に割かなければならない時間が多すぎてどうしようもない。書類を書かされたり、修正させられたり、そのための準備をさせられたり、重箱の隅をつつきまわされるような対応をされたり、そういうの。
 そういうとき困るのは、ちょっとしたことがわからないときに、ちょっとすぐに聞ける人がいない。ちょっと教えて手伝ってほしいことがあっても、世話してくれる人がいない。前回の書類はどうだったの、何か文例やサンプルはないの、なぜこの書類はよくてこの書類はダメなの、そういったちょっとしたことのアシストがされなくて、その積み重ねが膨大な事務作業の手間となっている。
 その解決のため、かつては「秘書のおばさん」があちこちの学科や研究室にいた。教員・院生・学生たちのすぐそばに、ローカルな存在としてそこにいて、機能してくれていた。その人に頼めば煩雑なことをやってくれるし、ちょっと尋ねれば不明な事務要領なんかもすっと教えてもらえた。
 いまもまだそういう人がいるところもあれば、もういないところもある。もちろん元からいなかったとこもある、文系は特にそう。
 で、どうなっているかというと、事務の組織や業務が、統合化なり一本化なり効率化なりされて、距離のあるところに存在している。すぐそばでもローカルでもないから、ちょっとしたことを聞いたり頼んだりできない。だから、わからない、情報や要領が得られない、何をするにも時間がかかる、研究時間・教育時間が割かれていく。
 そんなんだったら、「秘書のおばさん」がいてくれるほうが、よっぽど助かる。

 ちなみに、この話を聞いたとき、ちょっとびびったです。だってあたしの勤めるところの先生たちなんか、そういうちょっとしたことをガンガンきいてくるし、あたしらももりもりアシストしていくし、それどころか向こうからきかれる前にこっちから「せんせ、これどうすか」って出しにいくし。そうでもしなきゃ、四方八方の海外から来る先生たち迷わせるだけだし。でも、ああそれは環境の違いなんだな、たしかに、大規模大学ってこうだったな、すっかり忘れてたよ、ていう。その忘れ具合にびびった、ていう。

 で、この「「秘書のおばさん」がいりゃよかったのに」系の考えに対しては、まあ反論はいくつもできると思うんです。というのも、なんだかんだ言っても結局仕組み化されてない以上、「秘書のおばさん」のもたらす益はその一時のその場所のものでしかないわけですし、残念ながら。
 例えば、「秘書のおばさん」は、持てるところ(学科・研究室)と持てないところがある。全学のどこにも確実に等しく支援ができるように、統合的な事務組織や機能があるんだ。的なの。
 「秘書のおばさん」の支援は、あくまで個人的経験や個人的力量に裏付けられているだけだろう。いつ、誰が、どんな種類の業務を支援するのであっても、確実にそれが可能になることを保証しないと、的なの。
 そもそも、それぞれで「秘書のおばさん」を抱えられるだけの体力はいまの大学組織のようなところにはないし、コスト的にムダである。だから一本化なり効率化してるんであって、的なの。金も人も時間も足りないんだから、的なの。
 それはまあ確かにそうだろう、と。
 だから「秘書のおばさん」的あり方まで時計の針を逆戻りさせることは、まあムリな話でしょう。いまからは。

 けど、「時計の針を戻せない」からと言って、「秘書のおばさん」的なあり方が実際に生んでた効果・益やその解決法を、頭から否定したり、無視したり、ありえないものとしていま現在のやり方に固執したり、ましてや、無い無い(笑)的な嘲笑、文句あるなら金とってこいよ的な逆ギレ。そういう様子をちょいちょい目や耳にすることがあるけど、そっちのほうこそ無いよなあ、て思うです。それはたぶん「戻せない(or戻さない)」ことへの自己弁護の類なんだろうし。

 かといって、「秘書のおばさん」ならできてたんだから、復活させろ、元に戻せ、っていう強弁も、それはそれで同じくらい無いだろう、と。願い事ひとつ叶うならあの頃に戻りたいって言っても無理だろうし。あと、うちは自腹ででも置く、っていうのも、それはそれで根本的な解決にはなってないし。←実際これ少なくないんでしょうけど。

 そうじゃなくて、いまの事務組織や機能のあり方があります(そうじゃないとやってけません)、っていう前提があるとして、じゃあその上で、その中で、かつての「秘書のおばさん」的なあり方によって生み出されていた効果・解決法を、多少なりとも再現させる、似たものを実現させる、ていうことを考えられないのかな、って、あたしなんかはぼんやり思うんです。
 こっちがあったうえで、そっちをも、ていう。そりゃだって、こっちの上でそっちも、ていう方法が超絶的不可能ってことはないだろうし。ましてや、こっちの上でそっちをも実現させるってことを、やっちゃいけないって誰が決めたわけでもないし。検討はしないよりもしておいたほうがいいわ、って誰か言ってたし。

 ていうようなことをみなさんのディスカッションをききながらなんとなく考えてて、そのときにいくつか浮かんできたイメージが。

 1つめ。大きな総合病院で導入されてきてるという総合診療科的なの。最初にそこに相談に行って、診てもらって、適切なところに振り分けてもらう、ていう。大規模大学の大規模事務組織のどこの誰か顔も分らない担当者をユーザひとりひとりが探すコストかけるくらいなら、ここに行ってこの人に最初に相談したらいい、ていう。URA的なのがそうかもしんないけど、そうじゃなくてもっとこう、敷居の低いというか、炉端的なというか、総合的な「秘書のおばさん」的なの。

 2つめ。昔MSXっていうパソコンがあったですよ、何をオッサンホイホイ的なこと言い出すんだと思われるでしょうけど、あったんです。それで10年くらい前だったかな、なつかしいそのMSXのパソコンを、windows上で再現できますよ、ていうソフトがムックになって発売されたですよ。あたしその時初めて「エミュレータ」ていう言葉を知ったです。ああなんだ、エミュレータのことかよ、と思われたですよね、うん、エミュレータです。いまの事務組織に、秘書のおばさん的機能を、エミュレートする。ていうことをぼんやりイメージしたです。

 乱暴な言い方をしてることを承知であえて言うと、病院やMSXにできて、大学にできないことはないだろう、ていう。
 で、たぶん、日本なり世界なりの大学の事務のあり方や機能や事例や小技なんかを探せば、少なからずそんな事例どこぞにあるんじゃないかなって。

 申し訳ないことに、いますぐ自分に具体的な良案があるわけでもないし、事例がどこぞにあるかって知ってるわけでもないんですけど。
 でも、それを考えることと、探すこと。いや、ちょっとやそっとで解決するようなことじゃないだろうから、じゃあ、それでもそれを考え続けることと、探し続けること。

 言ってみれば、覚悟を持って考え続けること、探し続けること、その行為・姿勢そのものが、大学運営であり、研究支援なんじゃないか、ていう。

 そりゃ「無い無い(笑)」で片付けてりゃそっちのほうがずっと楽なんでしょう、でも、考え続けるという覚悟なしにそれで済ませちゃうんだったら、大学事務なんかべつにマニュアル+バイトだけだってまあまあやってけるだろうし。実際、それに似た仕組みになりつつあるんだろうし。

 ていうところまで考えました、ていう話です。
 いつものように、答えはないです、すみません。

 おわびのかわりに、その他のトピックのメモ↓。

・学内の学科や研究室のあちこちに、まったく手つかずで未整理なんだけど研究資源としては貴重でユニークにちがいない、本とか文書とか記録みたいなものがたくさんのこってる、なんとかならないだろうか、という話が出ました。これはだから、従来型の図書館機能の徹底・充実が望まれているということでしょう、なんだかんだいったって研究支援の基本に立ち返ればそうなるだろうな、ってことは深くうなずける話だと思います、そこがあってこその、それ以上のあれこれ、ていう。
・2-3年でのルーチン異動を、事務職員も「やめて」、図書職員も「やめて」、教員も「やめて」、院生も「やめて」、管理職の人も「やめたい」、って言ってた。あれ、マジで、誰が何の利益を生みたくてやってんのか。それは納税者に説明がつくのか。
・自分の名前で戦える事務員(司書)になろう、ていう話。
・大学事務職員の高学歴化と、高倍率化(人気職化)について。それがもたらす、約十数年後の大学運営の変化について。
JSPSの書類チェックは(略)
伍味酉はたくさんの種類の名古屋名物をいっぺんに楽しめるコストパフォーマンスの高い居酒屋。
名古屋駅の豊橋方面行き在来線のホームにある住吉は、あげたての天ぷらが出るきしめんや。

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2013年08月06日

(メモ)『アメリカに渡った日本文化』

寺澤行忠. 『アメリカに渡った日本文化』. 淡交社, 2013.

アメリカに渡った日本文化 [単行本] / 寺澤 行忠 (著); 淡交社 (刊)

 アメリカにおける日本文化の伝播・普及の全体像を、個々の事項をつぶさに記述することによって描く、というような試みをしている。

 これは自分のためにも人のためにもそうしたほうがいい、と思って↓とりあえず目次ベタ打ち。

第1章 伝統文化(茶道と日本庭園、華道、舞台芸術(能・狂言・歌舞伎・文楽))
第2章 現代文化(アニメ・マンガ、和太鼓、食文化)
第3章 日本美術(ボストン美術館、ピーボディー・エセックス博物館、ニューヨーク・メトロポリタン美術館、フィラデルフィア美術館、ワシントン・スミソニアン・フリーア美術館&アーサー・M・サックラー・ギャラリー、シカゴ美術館、シアトル美術館、シアトル・アジア美術館、サンフランシスコ・アジア美術館、ロサンゼルス・カウンティー美術館、ホノルル美術館)
第4章 宗教(浄土真宗・浄土宗、ほか)
第5章 俳句
第6章 日本語図書(文学作品の翻訳、翻訳事業の促進、日本語図書を扱う出版社・書店、日本語図書館の全米組織、大学以外で日本語図書を多く所蔵する図書館、ニューヨーク・パブリックライブラリー、米国議会図書館)
第7章 日本語教育(日本語教育の重要性、アメリカにおける日本語教育の歴史、日本語教育の現状、日本国内の日本語教育機関)
第8章 大学における日本研究(日本学の歴史、日本学の現状、大学における日本学、ハーバード大学、イェール大学、コロンビア大学、プリンストン大学、コーネル大学、ミシガン大学、シカゴ大学、イリノイ大学アーバナ・シャンペーン校、ワシントン大学、カリフォルニア大学バークレー校(UCバークレー)、スタンフォード大学、カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)、ハワイ大学マノア校、上記大学以外の日本研究者・知日家)
第9章 アメリカ各地の日本文化(ボストン、ニューヨーク、ワシントンDC、シカゴ、サンフランシスコ、ロサンゼルス、ハワイ)

 いくつかのメモ。

・能楽の最初の海外公演は、1954年、ヴェネツィア公演。(『アメリカに渡った日本文化』)
・第二次大戦後の占領下では、歌舞伎は封建的・国粋的とみなされ厳しい検閲下にあったが、検閲係になったフォービオン・バワーズは歌舞伎に理解があり、上演も可能になった。
・アメリカにおけるアニメ・マンガ市場の悪化について。JETROの発表では、アメリカにおける日本製アニメの推定市場規模は、2012年・2億1700万ドルだが、これはピーク時2002年の半分。
・1962年、ロサンゼルスに全米初の寿司カウンターが誕生。
・いまアメリカでは、キリスト教から改宗して禅信徒になったアメリカ人が、修行後に日本の宗門を離れて独自に受戒を行なうなどの動きがある。
・アメリカで俳句への関心が高まったのは、戦後。鈴木大拙が俳句と禅の精神を結びつけて説いたことに影響している。
・コロンビア大学には、日本語教育は文語から始めるべきだ、という教授がいて、文語クラスがある。
・プリンストン大学は金沢に「プリンストン・イン・石川」という自学の研修施設を持っている。

 ただもう、「第6章 日本語図書」「第7章 日本語教育」「第8章 大学における日本研究」あたりは全部が全部、という感じなので(笑)。
 ハンドブック、として。


posted by egamiday3 at 20:39| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年07月30日

”目録規則”終了のお知らせ。 ←(メモ)「米国図書館界の目録業務調査 : RDA導入状況を中心に」(情報組織化研 2013.7.27)

 
 塩野さんはじめ京大図書館のメンバーによる2013年1月アメリカ調査については、公開された報告書や、NDLさんのニュースレター寄稿などがもうすでにあるわけなので、そちらも参照。

●RDA導入に向けた米国図書館の現状について―米国図書館訪問記― | NDL書誌情報ニュースレター2013年1号 | 国立国会図書館-National Diet Library  http://www.ndl.go.jp/jp/library/data/bib_newsletter/2013_1/article_02.html

●平成22年度国際交流推進機構基盤強化経費に基づく教職員等の海外派遣事業実施報告書 : 米国図書館界の目録業務調査 : RDA導入状況を中心に
 http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/173545


 ここではまあ、ゆるゆると、当日話をきいた中から特に心に残ったことなど。
 は江上のコメント。

●米国図書館界の目録業務調査 RDA導入状況を中心に 塩野真弓 #josoken 2013.7.27 - Togetter
http://togetter.com/li/539864

・調査は2013.1。LC、オハイオ州立大学、OCLC、コロンビア大学を訪問調査。

・LC。
・LCはRDAの維持改定のためのJSC(Joint Steering Committee for Development of RDA)の中核メンバー。2013.3.31から全面的にRDA導入。
・カタロガー用(?)のRDA Toolkit(RDA: Resource Description & Access Toolkit http://t.co/UGzW8SjPdD)上では、AACR2をその場で参照できたり、Cataloger's Desktop(***)へのリンクがあったりする。(実際にはまだ、AACR2離れしてるわけではない。)
・RDA本格導入したし、新規作成時はRDAを使う。とは言え、すでにAACR2でちゃんとつくられている書誌をコピーカタロギングする分には、わざわざRDAにコンバートしたりはしない、ということらしい。
・(あちらの業務画面って、シンプルっていうか、非グラフィカルなところあるよね。それは、利用案内とかパンフとか見てもそう思う。)
・カタロガーへのRDA研修体制あり。4週間36時間のリアルまたはオンラインのプログラムがあって、誰でも利用可能なwebinarとして公開もされている。段階、目標などがシステマチックにできている。(←そのへんアメリカさんだよなあって思う)

・OCLC。
・OCLCは2013.3.31以降、マスターレコードをRDAによって書き換えてよいことになっている。でも、RDA以外の目録規則も継続して使用可能。多言語な場だし。
・機械的なRDA変換をいろいろやってるっぽい。
・OCLCは、修正できるできないの権限が参加館によって異なる。マスターレコードの修正ができる館、簡易にしかできない館、など。wikipediaのようなソーシャルな書誌編集システム、というイメージ。
・OCLCの文字コードはMARC-8。日本漢字と中国漢字などの異体字はMARC-8内にある文字だけしか使えない、というルール。

・コロンビア大学。
・コロンビア大学の目録部署は、「ルーチンワーク部署」と「非ルーチンワーク部署」とにわかれている。これはなるほど、日本も導入すべき。
・コロンビア大学の図書館はざっくり言うと”RDA当事者・協力館”。RDAのテストにも参加し、そのまま現在も使い続けている。
・例えば、OCLCにAACR2のフルレベルの書誌があればそれをそのまま使うし、そうでなければRDAでつくる。
・コロンビア大学内の東アジア図書館(C.V.スター)では、当初AACR2とRDA併用→2012.1以降、新規書誌はRDA採用。

・ブリガムヤング大学ということろが、CJKを含む全資料をRDA対象にしている。(←ここは調査対象として要チェック)
・日本語書誌への評価。新刊書はTRCから、古い資料や専門的な資料はNDL、雑誌書誌はNCを参照する。NCは著者名のヨミとかがけっこうあやしい。CiNii Booksでは著者名典拠のYearが確認できない、など。

・「OCLC's RDA Policy Statement」(2013.4)
http://www5.oclc.org/downloads/webinars/RDApolicywebinar20130417.pdf
・RIMMF、という、ビジュアライゼーションさせた教育ツール。http://www.marcofquality.com/wiki/rimmf/doku.php なんというか、英語教材として使おうっと(笑)。
・CEALによるRDAワークショップのwikiが、CJK事例混じりで、馴染みやすい。
http://rdaandcjkworkshop.pbworks.com/w/page/49260024/Home

・まとめ。
・米国では、RDAにしろ目録業務にしろ、そのマニュアル化と知識共有に熱心(研修体制のシステマチックさもそう)。とはいえ、ひとつひとつのツールやコンテンツが過剰につくりこまれているというわけでもない。(←ここが非常に重要というか、我々反省すべき。)
・RDA導入は、MARC環境下ではさほど影響大きくないが、書誌フレームの刷新を見据えた取り組みが始まっているといえる。


 全体の感想として。
 質疑応答のところで、なんだかやたらと「ほんとにRDAみたいなわかりにくい構成の目録規則で、実際の目録がとれてるのか。現場のカタロガーは文句言ってないか、ちゃんとやれてるのか」的な質問ばかりが出てたんだけど、今回のお話全体を聞いてだいたい察しがつくとおり、RDAはAACR2にくらべて構成や内容や方針がかわったとかそういう問題ではまったくなく、”違う存在”になった、ととらえるのが適当なんでしょう。AACR2の後継として作られたという経緯はあるにせよそれはもう関係ない、いままでAACR2使ってたのと同じノリで、実際にデータを作成しますよというような現場のカタロガーが、現場のツールとして手もとに置いてくびっぴきで使う、というような存在じゃなくなった、でいいんじゃないかなって。それが必要な人は、かつてのAACR2と併用でだましだまし使ってください、程度のことしか想定されてないんじゃないか。
 それは、時代が変わったイコール、メタデータを作るという行為が、その役割(業務)が、カタロガーの存在意義が、いままで通りではなくなった。もっというと、人間とデータというものとの関わり合い方がもはや随分と変わった、ていうことなんでしょう。RDA検討当初の時代からだって結構変わったろうし、これからさらに加速度的にガンガン変わるんだろうし。
 だから、ほんとの意味でRDAとかBIBFRAMEとかに今後取り組んでいくのは、現場のカタロガーや目録専門家ではなくて、システムライブラリアンとかプログラマーとかシステムエンジニアの人たちのほうだろうし。もっと言うと、日本のNDLやNACSIS-CATにそれらが実装できるだろうかどうだろうかみたいなことをうんうん唸りながら考えてる間に、どこかしらの誰かしらによって、それチックなwebサービスみたいなんがぽこんっと産み出される、ていうことになるんだろうなという予想がつくなあ、っていう。

 というわけで、目録規則は、ていうか目録は、もう現場のモノでも一部の人のためのモノでもなくなりました、ていう「いわゆる”目録規則”終了のお知らせ」を聞いてきたんだなあという気がしています。うん、そりゃまあ、構成がわかりにくいとかは問題にならないか。

posted by egamiday3 at 20:36| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年07月23日

(メモ)「図書館学教育・研究にたずさわって(仮題)」 #佐藤翔 @同志社大学


「図書館学教育・研究にたずさわって(仮題)」/佐藤翔(同志社大学)

図書館学教育研究グループ研究例会
2013年7月20日(土)14:30 -
同志社大学 司書課程資料室

 「#佐藤翔」という身も蓋もないハッシュタグが瞬間的に関係者をざわつかせたイベントを、聴きに行ってきました。
 後輩の人がまともなtweetをしてくれてたので、あたしはもっぱら周辺情報かちゃちゃを入れるかだったのですが、その当日の様子のまとめ↓。

●佐藤翔物語( #佐藤翔 のまとめ) - Togetter
 http://togetter.com/li/536420

 業績が潤沢すぎて紹介してもらえないとか、yuki_oに言及するときは必ず「仲がいい」という枕詞がつくとか、そういう小ネタは上記の通り。

●佐藤翔 - 研究者 - ReaD & Researchmap
 http://researchmap.jp/min2fly/

 プレゼン自体は、彼のプライベートな生い立ちもあり、でもメインは、上記にも掲載されている彼のこれまでの研究業績を概観し、特に博士論文の内容について詳しめに概説する、という感じでした。プラス最後に、これからやっていきたい研究と、大学教育にあたっての想い、みたいなのを。

 全体的にざっと聞いてみて考えたことですが。
 この人があちこちにばらばらとたくさん手をひろげているのの、その芯のあたりにあるのは、「人と資料・情報をつなぐ」ということを「環境」のほうからアプローチしようとしてる、っていうことなんじゃないかなあたぶん、と思たです。
 ふたこと目には「自分には実務経験がない」的なことを言わはるんだけど、けど、「こうしたい」「こう考えたい」「これを知りたい」と言うてはるそのさまざまの上のほうに掛かってるのは、我々実務者(?って言っちゃっていいのか)と想いは同じ、「人と資料・情報をつなげたい」というのがある。同じ、ていうか、結構強く濃く見える、そのへんのポンコツ職員なんかより全然。
 同じなんだけど、でも、例えばあたしなんかでも「人と資料・情報をつなげる」ことを考えたり想ったりするときに、具体的にこの人とこの資料を、とか、もっと引いた画で見たとしても、こういう利用者層にこういう資料群を、実際にどうつなげるか、力尽くでも引っ張ってくるか、みたいなイメージがあるんだけど。でもたぶんこの人はそんな引っ張ってくるようなつなげかたというよりも、そのための「環境」のあり方を明らかにして、どうすれば人と資料・情報が”力尽くでなくても””つながってくれる”かどうか。そのために、じっと目を凝らして利用者と利用行動とその環境とを見よう見ようとしてはる、んじゃないかなあって。もうこれはごめんなさい、当人にとって当たってるか当たってないかはそれほど関係なく(笑)、そういうふうに思たですよ。
 リポジトリへのアクセスのされ方のこれでもかというような分析とか。利用者が複数の情報源を使い渡る様子を調べたいとか。排架と発見の関係を実験するとか、そういうの。

 そういうのの調査・分析結果を、実務の現場で活かしてもらえるように還元したい、って言うてはるわけだから、これはこちら側もちゃんとはらを据えて受け止めて、活かしていく態勢を持たなきゃアカンだろう、と思いを新たにした感じです。我々の問題です。そんな、実務者になると学術情報流通への興味を満たし続けられない、的なかなしいことを言わせてる場合じゃないですってマジで。

 一方で、教育への思い的なものについては、一転して実務者っぽい語りだったので、それはそれでおもしろかった。今度はそのへんのもっと大きな語りもうかがってみたいと思いました。いまの自分が一番考えたいことのひとつでもあるので。

 ラジオで、とか。


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2013年07月16日

トークセッション「新資料館に期待する」にて、極私的・心に残ったいくつか メモ (#総合資料館TS)


 京都府立総合資料館で行なわれたトークセッション「新資料館に期待する」(2013.7.14)に、発話者という立場で登壇し、いろいろ発言&ディスカッションしてきました。

●総合資料館開館50周年記念 トークセッション「新資料館に期待する」
 http://www.pref.kyoto.jp/shiryokan/50shunen_talk.html

●#総合資料館TS 50周年記念・京都府立総合資料館に期待する トークセッションまとめ(2013.7.14) - Togetter
 http://togetter.com/li/533629

●USTREAM: KPLA: 京都府立総合資料館の開館50周年事業を配信します。
 http://www.ustream.tv/channel/kpla

●2016年、京都から知的生産インフラの世界を変えていく!(総合資料館会館開館50周年記念トークセッション「新資料館に期待する」参加記録) - かたつむりは電子図書館の夢をみるか
 http://d.hatena.ne.jp/min2-fly/20130716/1373980345


 いや、純粋に楽しかった。楽しかったし、勉強になった、なかなかここまでそう言えるイベントにはそうはありつけない。

 当日の全貌は上記もろもろをご参照いただくとして、自分的に、ああこれ大事、これ要確認、など心に残ったいくつか・メモ。


・明らかにまとめるのが困難な、かたつむり殺しイベントだった件。

・資料保存には、目録・メタデータ作成による可視化が不可欠&有効、ていう話をしたです。
・文化資源・学術資源の危機や提供・運営のあり方の変容は、一政治家の問題ではなく、全国共通の問題であるということ。これはしっかりと自覚しておくべき、社会のあり方は我々の”総体”が動かしているはずのもの。
・MLA連携、ていうと、なんか骨太な連携や専門性の高さをイメージして身構えちゃうor身構えられちゃう傾向にないだろうか、っていうのをちょっと思う。あまり大きくないレベルでいいし、身構えなくていいから、もっと小ぶりの日常レベルでゆるい連携してもいいじゃないか、って思う。わからないところをちょっと教えてもらいに軽く電話やメールするとか。で、そのためのツールとしてのざっくりしたメーリングリストってないかな、ないよな、っていうのがmin2flyさんからも提唱があって、それは確かにあったほうがいいよなあ、って思う。そういった意味では(”そういった意味では”)drfのMLはその線を行ってるよな、と思う。
・今回出たMLA連携の課題は、M・L・Aの問題にはまったくかぎらない、ということ。企業、開発者、NPO、学生、寺社、云々とも。
・発話者の松岡さんの「おもしろばなし」という概念が気になっている。
・東工大の博物館では、定年後の図書館職員に再雇用で来てもらって、資料にあたってもらっている、とのこと。イイね! これが再雇用でなくて現役の横のつながりができていたらもっとイイかも。

・街と文化資源。昭和戦後の話を語れる生き証人がいなくなってきている、という危機感について、京都市景観・まちづくりセンターの方。また、”資料”は街・土地にたくさんあるはずなんだけど、その存在がわかっていない、可視化されていない、という問題の指摘も。
・日経新聞の方からの指摘。こういう問題は世間一般の人にはまったく理解してもらえてないと、自覚するべき。理解してもらうために、何かしらの目に見える成果をアウトプットしていくことが必要。←これは自分でもまったくその通りだと思う。で、世間一般の人たちの理解を得るのに必要なのは、我々自身がまずその世間一般の人たちのこと、ユーザのこと、社会の動きや世界のあり方のことをちゃんと理解して、真摯に向き合い考えること、だとあたしは考えている。多くの人たちの目に触れる場所はどこなのか。どういうポイントをどう示せば相手の目に、心に届くのか。そうすることで相手に何がもたらされ、自分に何がもたらされ、結果社会全体に何が起こるのか。思い込みや既存の枠組みをとっぱらって、ユーザ・社会を真摯に見つめないと
・公共図書館と大学・研究図書館の融合。ていうか、ヨーロッパの中規模くらいの街だと、そこの市の中央図書館と大学図書館が兼ねられてるっていうパターンをよく見るよね、という話をしました。そのへん、なんでもかんでもブレイクスルーを追い求めようとまでは言わないけど、せめて既存のモデルくらいは考慮に入れたっていいよなあとは思う。
・顧問。定義なんて生産的じゃないんだよ! むしろ、現代の京都をどう遺していくかが課題なんだ! それを社会にどう理解してもらうかがもっと課題なんだ!
・例えば、京都のまちづくり的地域活動している人たちの間でも、総合資料館のことが話題にのぼることはない、という指摘。うん・・・そういうの・・・どうにかしてかなきゃね、うちも・・・。(←身にしみています)
・文化行政から”自然・理科系の文化・学術資源”が抜け落ちてる件への指摘。いま思い至ったけど、そういう意味では”産業・工業系の文化・学術資源”もやばいんじゃないか。

・それにしても第1部に比べて、第2部のフロアのみなさんの饒舌さが尋常じゃない。がんがん手が上がる。第2部のテーマが「新資料館への注文・期待すること」。つまりは、他者への注文や批評って好き勝手言いやすい、っていうことだと思うよね。その「言うだけならタダ」精神っていうのは、すごい大事なことでしょう。そしてしかも、「他者への注文・批評」というのは実は「自分への反省」への裏返しなんじゃないか。だとしたら、こうやって集って、互いに互いへの注文や批評を「言うだけならタダ」で言い合っちゃって、それをそれぞれが持ち帰って自分のとこの見直しに役立てたらいいんじゃないか。
 ・・・だって、このままだとあきらかに京都府立総合資料館だけが最終的に得をして終わってるじゃないか!(笑)

posted by egamiday3 at 22:54| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年07月13日

ざっくりと、知的生産インフラ・知の揺籃インフラとしての図書館について、考えたことのメモ

 メモ程度のあれなんで。

 あるところで、図書館について話をする、という登壇の機会をいただいてるんです。

●総合資料館開館50周年記念 トークセッション「新資料館に期待する」
 http://www.pref.kyoto.jp/shiryokan/50shunen_talk.html
 Ustream: http://www.ustream.tv/channel/kpla
 2013.7.14 13:30-16:30

 まああたしが話すのは10分程度ですけど、ただ自分、まあまあ特殊な立場の図書館から来ましたな感じだし、そうでなくても公共図書館さんにはほとんど関わってないし事情も知らないし、そもそもユーザとしてもまともに公共図書館使ってないしなあ、と思いながら、それでも考え始めると、とても10分では収まらないか、または収まるかくらいの考えがいろいろでてきたので、とりあえずざっくりと、メモ書き程度にちょっと書き残しておく感じです。
 いつものごとく、すごく遠くから大きく見てるパターンですけど。
 これまでの焼き直し焼き直しみたいな感じですけど。

 図書館界隈のことを考えるのに、まあ、これのことをなんとなく考えざるを得ないわけで。

 ツタヤ.jpg
 スタバ.jpg

 まあこんなバズワードっぽいのでなくとも、例えばこのごろだとこちらもわりと話題というか、考えるキーとするべき本じゃないかと思うんですが。

知の広場――図書館と自由 [単行本] / アントネッラ・アンニョリ (著); 柳 与志夫[解説] (その他); 萱野 有美 (翻訳); みすず書房 (刊)

 それからつい最近では、こういうのもちょっと話題になったんじゃないかなって。
図書館に通う 当世「公立無料貸本屋」事情 (単行本・ムック) / 宮田昇/〔著〕

●無料貸本屋でどこがわるい? ≪ マガジン航[kɔː]
 http://www.dotbook.jp/magazine-k/2013/07/09/what_is_wrong_with_free_public_libraries/

 まあ、それぞれにいろいろご意見は出てるだろうし、言われるだろうけど、なんというか、特定の図書館なり、特定のあり方とか考え方みたいなのを、端的に「良い」とか「悪い」とか言ってもあんましょうがないかとは思うんです、どれも一長一短てほどでもないけど、うなずけるところもあれば首をかしげるところもあり、採り入れたいところもあれば反面教師にしたいこともあり、だし。

 じゃあ、どういうところがどんなふうに、うなずけたり首をかしげたりするんだろう、ということをつらつらと考えていると。

 なんか自分的にはこういうふうにキーワードが並ぶんですね。

 ファーストフード的
 エンターテイメント
 アミューズメント
 ↓↑
 公共性
 文教機関
 文化資源・学術資源

 そのキーワードを使って、”問い”を作文してみると。
 すなわち。

 (問)
 公共性を持った文教機関が
 文化資源・学術資源を提供するのに、
 ファーストフード的な図書を無料で貸し与えるという
 エンターテイメント性あふれる
 アミューズメントパークであっては
 何がどう都合がよろしくないのか?

 まあ、自分が「それではよろしくない」と考えるから、そういう問いが立つんでしょう。

 じゃあ何がどうよろしくないのか、って考えたときに、ですけど。

 まずひとつ。
 ”消費”偏重。

 いやもちろん、文化・コンテンツを消費する行動がよろしくないなんて決して思いません、自分だってそれで育ってきたんだし、いまだってそうしてる、否定なんかするつもりまったくない。
 その上で、なんですけど。消費”だけ”しかなくて、その後につながるもの、育成、成長、知的生産へとつながる仕組みが、まったく組み込まれていない、意識されていない、軽視されている、というのは公共の仕組みとしてどうなんだろう、と。
 産業として、ビジネスとして、プロデューサー側としてはそれでもありだと思うんですが。
 でもやっぱり、公共性を持った文教機関が、何らかの公的コストを費やして、社会に対して寄与するモノが、”消費””だけ”、ってそりゃいかがなものかと思うんです。
 そこには”知の揺籃”というインフラが仕組みとして備わっていてほしい。遠回りでもいいから、でも確実に、頼り甲斐のあるものとして。
 それが不在なエンタテイメントでいいんだったら、別にジャスコ・イオンにだってネズミーランドやお台場合衆国あたりにだって転がってるわけだし。

 もうひとつ。
 地域性の軽視。
 あるいは、多様性の軽視。

 地域性を軽視する文化が成熟するとは思えないし、多様性を認めない環境の中で文化・学術が発展できるとも思えない。
 だったら、公共性を持った文教機関の提供するものがどこへ行っても等しく、東野圭吾のベストセラー本とスターバックスのトールラテでいいんですか、ていうことだと思うんです。
 しかもあたし個人が、東野圭吾の小説大好きでほぼコンプリートする勢いで常に読んでるし、スターバックスなかったらとても生きていけやしないし夜も日も明けないというくらいに通い詰めている、というあれで、そんな人間が「それでいいんですか?」て問うくらいだから、ていう(笑)。

 で、この「”消費”偏重」や「地域性・多様性の軽視」をあたしがノーだと、ノンだと、ニエットだと言うとしたら。
 それは、昨今流行りのキラキラ図書館のそれに対して、だけではなくて、従来型の図書館のあり方に対してだってノンだと思うんです。
 つまり、

 (問)
 従来の図書館だったら、
 それをクリアしてきた、と
 胸を張って言えるのか?

 反感を呼びかねない例示かもしれないけど、例えば、郷土資料の提供やそのサービスが年輩の利用者の趣味を満足させる”余暇の消費”のため”だけ”だったとしたら。それはそれでありかもしれないけど、プラス、もうすこし何かあり方を考えてもいいんじゃないか、とは思います。地域資料って何のためにあるんだろう、って。

 例えば、ある市長がおっしゃった、と。
 「この図書館が気に入らない人は、よそへ行けばいい」。

 これはあかんだろう、と思うんですが、じゃあ、これをあかんと言うのであれば、これまでの図書館だってあかんだろう、と思うんです。
 自分たちがイメージする、想定の中だけの”ユーザ像”にもとづいて、図書館のあり方やサービスを設計してなかったか、という反省。
 スタバやツタヤになら、あるいはアミューズメントパークになら来る、というユーザがそれだけの数いるんだったら、従来の図書館はそういう客層の人たちに対して、果たしてどれだけ”ユーザ”として真摯に向きあえてこれたんだろうか、という反省。
 その反省は我々するべきだろうとは思います、やっぱり。

 という、「想定の中だけのユーザ像」への反省、という意味では、最近の話題として↓こちらにつながってくると思うんです。

●CA1790 - 若手研究者問題と大学図書館界―問題提起のために― / 菊池信彦 | カレントアウェアネス・ポータル
 http://current.ndl.go.jp/ca1790

 これに関する自分の過去のブログ記事。

●我々は「若手研究者問題」を観測できているか : #西洋史WG に寄せて: egamiday 3
 http://egamiday3.seesaa.net/article/362795408.html
 図書館はなぜ"支援"をするのか : いわゆる「若手研究者問題」に寄せて: egamiday 3
 http://egamiday3.seesaa.net/article/363278785.html

 大学や大学図書館は、大量の専門資料・専門知を抱えている機関として、社会の中に存在しています。利用対象者がどう、コストがどう、という問題は確かにある、あるにせよ、事実、社会の中に存在しています。別に切り離されて存在しているわけじゃない、これは自覚しないといけない。

 じゃあ、社会の中で専門資料・専門知を必要としているのは誰か?
 上記のカレントアウェアネスの記事では、いわゆる「若手研究者」が必要していると言う。
 また別の人は、いやこれは若手云々の問題じゃない、「在野の研究者」全般に言えることだ、とおっしゃる。
 いや待てしばし。在野かどうか、研究者かどうかすら問題じゃない、世の中には何かしらの「専門家」が、分野・職種・業界を問わず山のように存在しているはずで、しかもほとんどが大学というものに所属しているわけじゃない、その人たちだって専門資料を必要とするでしょう。
 そこまで考えると、身分として専門家かどうかはもはや関係ない、何かしらの事情・都合・必要性でもって、専門資料・専門知を利用することが求められる人たちがいる。いまどきは特にそうじゃないでしょうか、不況、ビジネス、エネルギーや原発、災害・危機、参院選、医療や福祉、文化の危機、地方の危機、それをとりまくインターネット、ソーシャル、ビッグデータ云々かんぬん。

 つまり、これはまあ私のざっくりとした推計でしかありませんが、大学・大学図書館の持つ専門資料・専門知を必要とする人たちというのは、軽く見積もっても、日本国内に1億2500万人くらいはいるんじゃないかな、って思うんです。

 そんな中にあって。

 (問)
 公共性を持つ文教機関が、
 文化資源・学術資源をもって
 社会・人類を”支援”するにあたり、
 ユーザ像を限定する、のはアリなのか?

 という疑問を持つわけです。

 これについては、たぶん大方の関係者の方がこう考えると思います。
 「公共図書館を整備すべき」
 これはおっしゃる通りです、理屈としてはこれ以上のものはない、私もそう思います。
 ただ、そう思うと同時に、現在の日本社会のありさまを考えたときに、こういう疑問も抱かざるを得ないわけです。

 (問)
 公共図書館と大学図書館の両方に
 似たような機能を重複させるだけの”余裕”が、
 いまの日本社会にはあるのか?
 
 もうひとつ。

 (問)
 ていうか、
 いまの日本の公共図書館は
 そんなに”使えない”のか?

 例えば、個人的な経験で言うと、公共図書館の職員の方と電話で話してて「アイエルエル? それ何ですか?」と言われることが、ちょっとビックリするほど珍しくなかったりとか。あるいは、「区立にも市立にも県立にも国立にも、卒業大学の図書館にも全部断られたんです」という一般の方が電話してくるとか。

 社会における「知的生産インフラ・知の揺籃インフラの不在」という問題。
 我々が、どんな場所のどんな性格のどんな種類の図書館にいるんだとしても、この問題に対して無関係ではあり得ないし、無関心・無自覚ではいられないし、ていうか無関係でいいって言うんだったらこんな職業いらないでしょう、って思います。

 それは、「知的生産インフラ」というものによって、「文化資源・学術資源にもとづき、理性的・科学的に思考・判断して、社会・未来を築く」ことが、我々人類にとって必要なことだから、なんだと思います。

 まあ、ざっくりとですけど。
 半年もすればまた考え変わるかもしれませんけど、とりあえず。




 ・・・・・・え、10分?

posted by egamiday3 at 20:33| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年07月10日

あ、これって◯◯なんだー、ということが見つかる仕組み : 京大OPAC・KULINEさんの場合


 京都大学さんのOPAC、KULINEと呼ばれてますが、そのKULINEの新しい機能として、講義の教科書・指定図書がその講義名や先生の名前で検索できるようになった、そうです。

全学共通科目のシラバス指定図書がKULINEのタグ機能で検索できます!
http://www.kulib.kyoto-u.ac.jp/modules/bulletin/index.php?page=article&storyid=1246

 20年前のうすぼんやりした京大生だった自分にとっては、教科書と言えば吉岡書店で買うものと相場が決まってたあれでしたが、いまの勤勉な学生さんにとってはやっぱりこうやって見つかることが大事なんでしょう。
 たとえば、健康科学の森谷先生のレポートそろそろ書かないとなあってなって、KULINEで「健康科学 森谷」で検索すると、ヒットする、と。なるほど。
 http://m.kulib.kyoto-u.ac.jp/webopac/ufirdi.do?ufi_target=catdbl&ufi_locale=ja&pkey=BB01065052

 京大の人からきいたところでは、国内では初めての実現だとおっしゃってて、それがほんとかどうかはちょっとわかりません、そこはお詳しい方に教わりたい。
 でもまあ初かどうかは全然別にして、これすごいなあというか、たいへんだろうなあって。

 図書館の目録・蔵書データベースなり業務システムなりって、書誌情報と所蔵情報以外のメタデータなんか、あまりはなっから設計されてくれてないっていうか、無理に扱おうとしてもポンコツだったりするじゃないですか、自分もそれをなんとなくわかってるから、やるなあって思たです。

 「21世紀はメタデータの世紀だ」って、ユージン・ガーフィールドさんがおっしゃったか、あるいはおっしゃってないか私は知りませんが、もしそうなら、こういう書誌情報でも所蔵情報でもないメタデータの整備と設計って、もっともっと、真摯に取り組まなきゃいけないんだなあ、資料・情報とユーザ・社会とを結びつける役割を持つ我々、って。

 あと京大の人がおっしゃるには、いまは実現できてないけどほんとは、検索結果一覧にこれが教科書・指定図書だっていうアイコンなりマークなりタグなりが表示されて、見つかりやすいようにしたいんだ、っておっしゃる。
 それをきいて、あっ、て。あっ、て思たです。

 そりゃそうです、20年前のぼんやりした自分だけでなくいまの学生さんだって、正直、自分のとってる正式な科目名だの教授の名前だの、ひとつひとつどれも正確に覚えてるわけでもなんでもない。「図書館情報資源概論」みたいなだらだらした戒名みたいな、あるいは「情報メディアの活用」みたいな無個性なお役所用語みたいなの。ましてや教科書を買わずに図書館で借りようとしてるノリの科目です、覚えてるわけがない。
 それをOPACで見つけようとしたら、うろ覚えのキーワードでざっくりヒットしたリストの中から、マークが出て、ああこれなんだなってすぅっと手がのばせるようでないと、ていうのがたぶんひとつ。

 でももっと大事なことには。
 「○○で検索できる・ヒットする」ということと、「○○であることが一覧でわかる」ということとでは、システムや仕組みは大した差でもないかもしんないけど、それが届くユーザのあり方のほうには千と千尋ほどの違いがあるよなあって。
 かたや、科目名・教員名で検索できるという、ピンポイントな要求を持ってる人にとっての見つかりやすさ。
 かたや、なんやわからんけどなんとなく検索してみたら、たくさんの情報が載ったリストの中に、これは教科書だよ、っていうのが見つかった、という見つかりやすさ。
 後者は、うろ覚えな人にも届く、というよりはむしろ、それと意識せずに探索してる人に対して新たな評価・選別の手がかりを与える、ていう。

 これはもう教科書かどうかってことは関係ないです、この仕組みが実現するんであれば、「文学部の先生が選んだ学生に読んでほしい100冊リスト」の類とか、「司書の誰それセレクト」とか、「今週の新着」「新聞書評」「夏の参院選候補者」「最近のニュースに関連した」でもいい、司書の書いたPOPを貼れるのでもいい。なんなら「東大教授が新入生に読ませたい100冊」が京大OPACの検索結果リストにアイコンで表示されたって全然問題ない、むしろ大歓迎、京大仕事しろって話。
 そういう、書誌情報でも所蔵情報でもないメタデータが、なんとなく検索して眺めてる人の目にも触れる場所=検索一覧画面に、ビジュアルに出る、ていう。

 「21世紀は評価・判断のアウトソーシングの世紀だ」って、これこそ誰かが言ったか言わないかわかんないけど、まあそれが良いか悪いかの問題はあるにせよ、自分以外の誰かが何かしら評価・フィルターを示してくれないことには、情報洪水の中から選べやしないし、それにかけられる時間的コストも金銭以上にもったいないし、じゃなきゃもはや情報探索なんてやってらんない、ていうのが残念ながら大方の正直なところでしょう。そういったタイプの大方のユーザに"届く"仕組みの提供、というイマドキの役割みたいなの。

 それが、最近ちょっと話題に出てた「ディスカバラビリティ」の話につながるんでしょうけど。

日本の電子書籍、普及の課題は「ディスカバラビリティ」 -INTERNET Watch http://internet.watch.impress.co.jp/docs/event/20130708_606696.html

(ディスカバラビリティって言葉ほんとにあるの? あと、ファインダビリティとはやっぱちがうの?といういくつかの疑問は置いといて。)
 
 そういう話になると二言目には「レコメンド」になっちゃうんだけど、いやそれもあってもいいんだけど、機械計算やざっくりした集合知にすぐに頼っちゃうんじゃなくてもうちょっと手前の、何かしらの"文脈"をもった目と手による評価選別の提供ができる仕組み、というのをまだまだ噛んで舐めて味わってもいいんじゃないかな、っていう。
 そういうことを思たです。

 でもまあたぶん、そういう仕組みってどっかで何かしら考案されてて、不勉強なあたしが知らないだけだと思うんで、そのへんは、それ系に詳しい他の図書館系ブロガーさんにおまかせします。おつなぎします。

 こちらからのステマ(!?)は以上です。

 あと、毎年毎回シラバス情報をもとにタグを入力する現場のみなさん、おつかれさまです。m(_ _)m


posted by egamiday3 at 08:28| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年07月08日

極私的京都上ル下ル 日野・法界寺

 6月のある日。
 日野の法界寺さんを訪ねました。

 日野は、鴨長明が方丈の庵に住んでたところでもあるし、親鸞の生誕地でもあります。
 もうすぐそこが宇治市境というところ。

 JR・地下鉄六地蔵駅からバスでことこと15分くらい。
 住宅地の中にひょこんと建っておられるのが見えます。
 お隣は保育園です。

IMG_5922.jpg

 法界寺は、別名を日野薬師とも言います。
 平安後期、日野家の日野資業が薬師如来像をお祀りしたのがお寺の始まり。
 なので、日野家の菩提寺です。

 その薬師堂も境内にあるんですけど。
 主役級なのは阿弥陀堂さんのほうです。

IMG_5923.jpg

 阿弥陀堂。
 国宝です。
 末法思想が流行ったころに、極楽浄土をここに再現させるべく建てられた、ていう典型的なやつ。
 平等院鳳凰堂さんとかもそうなんでしょうけど、ここの阿弥陀堂さんも、これを以て「阿弥陀堂建築」って言ってるようなくらいのもんです。

 檜皮葺。
 五面五間の真四角。
 決して高い建物ではないはずなんですが、でも、真四角なこともあって、また境内がそんなに広くはないから間近で見ざるを得ないこともあって、重くずっしりとした安定感のある真四角を見上げてる、という感じになります。

 寺務所でチャイム鳴らすと奥から住職らしい人が出てきて、お金払うと、阿弥陀堂を開けてくれます。左側から入ります。

 阿弥陀堂内は撮影禁止です。
 写真はないので、ネットで探してください。

 真ん中に阿弥陀如来像。
 国宝です。

 ああもう、一目見てわかる、まぎれもない教科書のような定朝様式。
 定朝的な。あまりに定朝的な。
 ていうか、この阿弥陀像を以て「定朝様式」を定義してるようなくらいのもんです。

 ふくよかなお顔。表情、印、座り方、蓮華の座、光背、薄汚れた金箔。
 このまま極楽浄土へつれてってくださるのでしょう。
 そうでしょう、わかります、そんな優しいお顔をしてはります。 

 光背がまた高くて立派で、しかも薄くて。
 透かし彫りというよりほとんど線描画なんじゃないかていうくらいで。
 そこに天女さんがいたりするから、もう、浄土は目の前ですよね。

 その阿弥陀さまが鎮座ましましてる内陣がまたすごい。
 いや、むしろこっちが主役と言っていい。これを見に来ましょう。

 相当に劣化してます、黒ずんで茶けて掠れて剥がれておおむね消えかかってるんだけど。
 それでも、ああ明らかに此処にその絵が描かれてたんだな、というのが。
 うっすらと、でも、ありありと、見えます。

 上には優雅に飛び交う天女さんたちの絵。
 これ、実際飛んでますよね、ていうくらいにリアルな飛び姿勢の。
 住職がさっき扉あけたときにあわててかたまったでしょ、だるまさんがころんだかこれは、ていうくらいの。

 柱は曼荼羅。
 全部真っ黒ですが、でも、確かに描かれてた跡が見える。

 正面に座って見上げる。
 リアルには、薄暗い光の中の薄汚れた仏像と劣化しまくった曼荼羅と掠れまくった壁画。
 でも何の苦労もなく、ちょっとの想像力だけで。
 輝く阿弥陀さまと、真っ赤真緑のぎらぎらした曼荼羅と、ふわふわ飛び交う天女の姿がありありと、やすやすと目に浮かぶ、ていう。

 ありましたね。極楽が、ここに。
 1000年経ってモノクロにはなっちゃいましたが、まちがいなくここに再現されてましたね。
 ヴァーチャルなリアリティの極楽が。
 そりゃまあ、祈らざるを得んでしょう、ていう。

 境内の池は一面の蓮。
 極楽でしたね。

IMG_5924.jpg

 日野は親鸞聖人誕生の地でもありますので、裏手には誕生院というところもあります、これはまあ昭和のもの。
 あともうちょっと裏手には、日野家の御廟所もあります。
 さらに裏手の東山をトレックするのに吉らしくて、案内しますよっていう看板を出した民家の人とかがいます。

 ただまあ、新興住宅みたいなのがどんどん増えてる感じっぽくて、ちょっと行けば近年製の量産っぽい家がずっと並んでるかんじになります。
 駅前にでっかいイトーヨーカドーがあったのもむべなるかな、ていう感じです。
 
posted by egamiday3 at 21:57| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年07月02日

(メモ)『大学出版』no.95 「特集・大学図書館の現在と未来」を読んだメモ


『大学出版』
no.95(2013.7 夏)
「特集・大学図書館の現在と未来」

●「九州大学における知の公共化の取り組み」
 九州大学の、というより、日本の大学における知・情報のマネジメント(=ライブラリ)についての現時点における必須な概説、的なもの。
 まあよそでも語られてることなのかもしんないけど、それでも、グランドデザイン的なものの築き上げがすげえ強固で、ここから立論していきましょう日本の大学図書館は、という感じ。たぶん、図書館を”手段”ではなく”目的”としてとらえている限りここへは喰い込んでいけないんじゃないかなあ、という試金石的な意味でも。

●「大学図書館はどこへゆくのか : 慶應義塾大学メディアセンターに見る現状と課題」
 何の現状と課題かといえば、e-resourceについて。そのマネジメント(実務的なというよりも経営的な)について。日本語・日本製e-resourceはいったいどうなっとんねん、ていう怒りを隠しつつも抑えきれない感じが涙を誘う。「日本語コンテンツの必要性を強く感じながらも教育用の電子的商品が十分にない現状では、図書予算が海外版元に大量に流出し続ける事は否めない。」

 他に、「大学図書館と二一世紀型スキル : 武庫川女子大学の取り組み」や、「図書館はなぜ"支援"するか : 日本の図書館をとりまく世界」というどこかで見たことのあるようなのなど。

posted by egamiday3 at 21:51| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

事務連絡:「なつのとも2013」blogを開始しました。



 なつのとも、始めました。Work & Write.

 「なつのとも2013」blog
 http://egamiday2011summer.seesaa.net/

posted by egamiday3 at 07:27| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年07月01日

(メモ)「日本古典籍デジタル化と活用 : その行方をめぐって」@立命館大学ARC(20130628)


※註:この記事よりも以下↓を見てください。
・古典籍総合データベース―デジタルアーカイブの意義と将来(〈文化資源情報を考える〉 日本古典籍デジタル化と活用―その行方をめぐって) Part1 - xiaodong's memo  http://xiaodong.hatenablog.com/entry/2013/06/29/131333
・ドイツ語圏の古典籍データベース利用事情とベルリン国立図書館のデジタル化プロジェクト(〈文化資源情報を考える〉 日本古典籍デジタル化と活用―その行方をめぐって) Part2 - xiaodong's memo  http://xiaodong.hatenablog.com/entry/2013/06/29/210823

※註2:早稲田さんの話は、遅刻のためほとんどUstreamでのみ聴いた話(=生のではない)です。

立命館大学大学院 文学研究科 行動文化情報学専攻 「文化情報学専修」設置準備企画連続講演会 第2回〈文化資源情報を考える〉
2013年6月28日
立命館大学アートリサーチセンター
http://www.arc.ritsumei.ac.jp/lib/GCOE/info/2013/06/post-97.html

1.「早稲田大学古典籍総合データベースの場合」藤原秀之氏(早稲田大学図書館特別資料室調査役)
2.「古典籍画像データベースを利用して−併せて、ベルリン国立図書館のデジタル化の現状の報告−」クリスティアン・デュンケル氏(ベルリン国立図書館東アジア部日本担当司書)
3.「対談 日本古典籍デジタル化と日本研究の行方」(司会・赤間先生)

・第1回「対談:デジタル環境下の図書館、デジタル・ヒューマニティーズ と日本文化研究」(http://egamiday3.seesaa.net/article/367698140.html)に続いての第2回という位置づけ。
・デュンケルさんは6月の天理大学古典籍ワークショップに参加。それきっかけの開催とのこと。
デュンケルさんとはEAJRS2011ニューカッスルで面識有り。


●「早稲田大学古典籍総合データベースの場合」(藤原・早稲田)

・保存と公開の両立のための、原本代替資料としてのアーカイブの構築が必要である。
・早稲田ではそれを、「古典籍総合データベース」として実現する、ということ。
・2004年始動、2005年ホームページ公開。

・背景
・オンライン目録が整備され、いつでもどこでも誰でも古典籍の原本の所在が知れることになった。→ニーズが生まれる。
・昨今「和本リテラシー」が叫ばれる。→和本を実際に見られることの大事さ。
・本DBでは、「近現代出版物以外はすべて対象」という方針。全学約500万冊中30万冊が対象となる。
・電子化する対象資料としては、分野を特定して選択しない、という方針を持つ。(使われそうか使われないか、ニーズの多そうな分野かどうか、まとまったコレクション/名のあるコレクションかどうか、は無関係。)
・電子化を機に、目録・書誌を現物ベースで取り直した。
・分野を選ばず網羅的に+目録の取り直し→これにより、新しい発見が続出した。
・研究者が”原本代替”として満足する程度の精細画像が必要。
・既存のOPACで統一して検索できるようにする。
・撮影委託は東京都板橋福祉工場(NDLの委託先と同じ(?))
・外部からのアクセス制限をしない。これが本DBが好評を得ている主要因。早稲田に現物があることが知られる、どこからでも誰からでもアクセスできる。非研究者にも。他分野の人にも。その存在に気づかなかった人にも。ダウンロードもできるようにして、自由に使ってもらえるようにする。
・月100万から多い時で200万アクセス。掲載・放映等への申請が年間約6-700件(デジタルで処理できるので現物利用制限できる)
・デジタルアーカイブは、作って終わりでは"死蔵"になる。活用と蓄積の複合型。
・今後の希望。そのデジタル化資料を利用した上での資料研究・研究成果・発表の場をも、このデータベースのうちに設けられないだろうか。

●「古典籍画像データベースを利用して−併せて、ベルリン国立図書館のデジタル化の現状の報告−」(デュンケル・ベルリン国立)
・ベルリン図書館の日本担当の専門研究員(教育・研究・サービス・電子化などを幅広く手がける)
・立命館大学に留学経験あり、都名所図会の研究。
・ドイツ語圏(ドイツ・オーストリア・スイス)の日本研究は、18大学、専任教員45人、スタッフ入れても200人程度。古典籍を利用するのは15-20人くらいか?
・日本の古典籍画像データベースは、研究者・学芸員・司書等が利用する。
・例えば、所蔵・寄贈受入などの日本の古典籍について、書誌調査・メタデータ作成をするのに、参考図書・ツールが充分でない。そのため、古典籍データベースの類を参考に調査する。(書名、人名の解読、内容など)
・ベルリン国立図書館についての紹介動画
http://www.youtube.com/watch?v=qF8DYaN2IoA
・図書館内にデジタル化センターがある。デジタル化プロジェクトはインハウスで行なう(館内のスタッフと機材)。
・同館東アジア部はスタッフ21人。(日本6.5人、中国7人、ほか韓国・中央アジアなど)
・東アジア部全体で年間25000冊増。日本で年間6000冊増・雑誌1500タイトル。
・ドイツ国内だけでなくヨーロッパ各地にILLを届けている。
・東アジア資料のデジタル化プロジェクト「SSG6,25Digital」(←プロジェクト名)
・このデジタル化プロジェクトはドイツ研究財団から援助金を得て公的な立場で運営している。援助金はスキャナなどの機材、人件費に使用。
・全体で4000件対象。うち日本古典籍は500件(冊数では2800冊)。
・来年4月にすべて終了する予定。
・公開サイトは http://digital.staatsbibliothek-berlin.de/dms/
・目次によるナビゲーション。(←ここ注目。ドイツのサイトの日本古典籍画像に、目次ナビゲーション付きですよ)
・和装本はすべて洋装に製本されてしまっている(註:よくあること)ので、180度きれいに開かない。なので日本の古典籍データベースのように見開き撮影した画像を提供できない。半丁づつ撮影する。
・目録データベースとしても構築・公開できたため、広範囲のユーザからの問い合わせやリクエストを掘り起こしている。(これまでも冊子体目録はあったが、あまり出回っていなかった)
・CrossAsia http://crossasia.org/ ベルリン国立図書館の利用者が日本製e-resourceなどを利用できるポータルサイト。

●「対談 日本古典籍デジタル化と日本研究の行方」
・ARC(立命館大学アートリサーチセンター)のデジタル事業は世界展開的。日本の古典籍にまで予算をまわしてくれる国・大学は少ないため、そこへこちらから出向いて行ってデジタル化事業を行なう。
・ドイツには国内各所に5-6000件レベルの日本古典籍所蔵があるが、それらがデジタル化されるのは難しいのではないか。
・データベース化したあとどう活用するかの問題。
・活用したことによる成果がわかるようにする。データベースを死蔵しないように。
・デジタル化することで、いままで埋もれていた資料にも光が当たったり再評価されたりする可能性がある。だから、それを再び閉ざすような運用は行なうべきでない。
・デジタル化されたものに価値を与えるのは、利用者ではないか。その次の新しい展開を考えるための教育が「文化情報学専修」。
・商業的利用であっても、積極的に活用してもらえれば、資料の価値存在が広く知られるようになる。
・自分たちのわからないところで複製して使われている可能性はあるだろう。ただ、それを規制することによるデメリットのほうが大きいのではないか。
・立命・ARCでは、古典籍画像を使ってのe-book出版に利用料を徴収しないことにした。(←要確認)
・和本リテラシーが叫ばれるようになった、とは言え、利用対象者はまだ少数。デジタル化とネット公開によって使いやすい環境を整え、利用者を増やすことを検討しなければならない。
・デュンケルさんは都名所図会の各版を4-50版レベルで比較研究した。デジタル化された画像を利用した。日本よりも海外で、デジタル画像を活用した和本研究が行なわれるなど、日本海外の差がなく研究できるようになるという変化が起きている。

●感想
・早稲田さんのお話では、長期間のスパンでこのデジタルアーカイブを社会に提供し貢献していくということについての、覚悟というか、肚がすわっている様をまざまざと見せつけられた思いがしました。純粋に頭がさがります、学ばなければならない。

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2013年06月27日

(メモ)ナントカ世代『その十字路の先を右に曲がった。』を観た・記録

 ナントカ世代さんの『その十字路の先を右に曲がった。』@アトリエ劇研を観ました。
 2回観ました。この芝居は2回観ていいと思った。

 舞台は、農場。どこの国のどこの地方のいつの時代のとも語られるわけではない、アノニマスな感じ。(まあ日本なんだけど)
 農場主が留守でいつ帰るともわからない。夫人や働く若者がいる。農協の調査員がやってくる。という話。

 観ていて、ああなんと皮肉な話だろう、と思わずにいられない。
 あんなに静かに流れる皮肉。 
 おもしろうてやがてかなしき皮肉。

 ぼんやりぼやかして言うと。

 この国・・・いや、農場には、いま指導者がいない。いるのは、指導者がいないと何もできないし何もわからないという人ばかり。
 指導者がいないと何もできないからといって、時を争うような重要な仕事にもとりかろうとせず、とりかえしのつかない損失を被るかもしれない。危機感がない、なさすぎる。二言目には「自分にはわからない」「何もできない」。理不尽に進まない仕事。

 若者たちがいる。若者たちをここに連れてきて囲い込み働かせる経営者側の大人たち。モラルを無視して制度を利用し利益と労働力を得る。そして働かせる。ブラックな雇用。医者に診せるべき怪我をしていても、満足のいく福利厚生を与えることはないし、そもそも与えるかどうかを決める指導者がいないからという理由で、何もしない。何もしないから、若者はずっと足をひきずって、癒えることがない。ただ、現存の”きまり”によって従順に働くしかない。しなくていいとわかりきっている仕事でも指示に従ってやるしかないし、一方で重要な仕事は指導者が不在だからという理由でできない。
 それでも若者たちは、従順に働き、無邪気にはしゃぎ、健気に笑う。小金をせびって喜ぶ、おそらく、それくらいしか喜ぶことがここにはない。刺激の多い外界と接する機会もどうやら失われていて、遠くからうかがうしかない。教育の不在。教育者は、優しい声をかけはするが、自ら助けようとはしない。
 
 若者たちの中にも、仕事のできる者がいる。自分で考え、判断し、能動的に情報を獲得し、科学的思考に基づいて、自ら行動を起こそうとする。行動することで、自分と周囲が被るリスクを避けようとする。
 それを、年輩の中間管理者が阻む。決められたこと、言われたことだけをやれ、余計なことはするなと、有無を言わさず従わせる。情報も科学的思考も無視し、それに基づいて判断することもしない。ただ、手続きという形式にのっとって、”きまり”に従うことを強制する。そうじゃないことは、決めるべき者がいないから何もしない。おそらく、プライドがすこぶる高い。ずっと怒鳴って、従えと言っている。

 この場所から何かが失われたらしい。「失われた」ということが言われている。だが、何が失われたのかすらわからない。だって指導者がいないから。ただ、喪失感だけが何かただよっている気がする。このまま時間が過ぎれば過ぎるほどおそらく彼らは何かを失っていくのだろうな、と思う。
 そして、数字だけは不自然なほど整然としている。
 不要な者を解雇し、弱みを持つ者を新たに雇う。危機があっても、それは労働者の仕事だから、とだけ。

 最後に希望らしきものがひとつ見える。自分の判断で行動する若者。時間が経てば自分と周囲に何が起こるか、環境の変化とそれに伴うリスクを理解し、考え、行動し、リソースとチャンスを自力で獲得する。獲得するために物語の冒頭からすでに外界と接触し戦略的に動いていた。思わず「賢い」とつぶやいてしまう。そして若者は旅立つ。脱け出す。

 ということが、どの国のいつの時代の農場の話ともなく、語られていく。

 どんな顔して笑ったらいいかわからない、ていう。

 この国は。
 
posted by egamiday3 at 22:43| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

(メモ)「対談:デジタル環境下の図書館、デジタル・ヒューマニティーズと日本文化研究」@立命館大学ARC(20130611)

「対談:デジタル環境下の図書館、デジタル・ヒューマニティーズ と日本文化研究」
2013年6月11日(1800-1930)
立命館大学アート・リサーチセンター
(立命館大学文学研究科主催)
http://www.arc.ritsumei.ac.jp/lib/GCOE/info/2013/06/post-95.html

マクヴェイ山田久仁子(ハーバード大学イェンチン図書館)
湯浅俊彦(立命館大学文学部)
赤間亮(立命館大学文学部)

・この講演は、2014年4月「文化情報学専修」が新設されるのを記念して行なわれる連続講演会、の第1回。(第2回予定あり(「日本古典籍デジタル化と活用 : その行方をめぐって」(2013.6.28)))
・当日Ustream中継あり(アーカイブ無し?)
・第1部 デジタル環境下の図書館と日本文化研究(山田・湯浅)
・第2部 デジタル・ヒューマニティーズと日本文化研究(山田・赤間・鈴木)
・文章としてまとまったレポートとしては、「人文情報学月報」(DHM023)に掲載。


●第1部 デジタル環境下の図書館と日本文化研究についての対談(湯浅・山田)

・電子書籍や電子ジャーナル・データベース等のe-resourceの整備が日本では大幅に遅れ不足している、という問題について。

・第14回図書館総合展(2012.11)「デジタル環境下における出版ビジネスと図書館」フォーラム・Ustreamアーカイブ(http://www.ustream.tv/recorded/27215382)を一部上映。
・山田さんがパネリストに質問「アメリカの日本研究者が日本語の図書を参照したくても、インフラとして電子書籍化されておらず、生産性があがらない。なぜ整備されないのか。」
・当日のパネリストの議論は生産者側にかたよっていて、ユーザの視点がなかった。
・この問題に、日本の図書館が声をあげないのはなぜか?
・米国の日本研究者・ライブラリアンは「もっと日本の情報を発信して欲しい」と考えている。

・日本の電子書籍コンテンツはいまのところタイトル数が圧倒的に少ない、そこが問題。エンタメ系書籍は増えつつあるものの、学術系書籍は依然少ない。予算があったとしても購入しようがない。
・授業で電子書籍を活用したくても、タイトルが少なく講義・研究に必要な書籍が含まれていない。
・ハーバード大学のOPACでは検索結果にe-bookへのリンクが表示されるが、多くの日本語書籍はそのリンクが表示されない。そのため、冊子へアクセスするしかない。ユーザにはそれが不便。日本のコンテンツになると途端に提供できない。
・また、コースウェブサイトに必読文献をアップロードしておく、のが主流。限定ユーザのみということで、出版者から許諾をとってアップする。
・ユーザのe-resourceへの期待が高い分、電子で入手できないことにがっかりする。ことになる。かつては日本の”新聞”がそのがっかりの主役だった。いまは4大紙がe-resourceとして整備されてくれている。
・JapanKnowledgeは必須のツールでユーザに喜ばれている。(講談社のエンサイクロペディアが縮小版のほうしか収録されていないのが残念)
・日本の電子書籍について事業が進行中ではあるものの、実際にはタイトル数がなかなか増えていかない。ほしいと思うタイトルが少ない。
・慶應義塾大学の電子書籍化事業では、自分たちが実際に現実問題としてほしいものを電子化できるようにする仕組みを構築する。
・CiNiiと機関リポジトリとの連携によりオープンアクセス論文が利用可能になっている。これはとてもよろこばれている。
・CD-ROM・DVDなどのパッケージ化されたデジタルコンテンツについて。技術的な寿命が目に見えているものが、高額で、かつフォローアップが少ない。コストがかかりすぎる。このようなものは図書館で購入できない。
・視覚障害者は電子書籍の恩恵を大きく受けるだろうが、現在日本の電子書籍の多くがPDF・画像であり、テキストデータとして利用できないのが問題。

<山田>・「まずは日本のユーザに使いやすいe-resourceの仕組み作りに専念して欲しい。海外からのアクセスはその次のステップ。」
・山田さんのこのコメントといい、フォーラム動画でもユーザとしての疑問をパネリストに投げかけたのが山田さんであったことといい、こういうことはアメリカのライブラリアンの口から言わせるよりも先に、本来当事者であるはずの日本のユーザや図書館員が積極的に発言していくべきことではないのか。


●第2部 デジタル・ヒューマニティーズと日本文化研究についての対談 (赤間・鈴木・山田)

・大学や図書館が所蔵する文化資源のデジタル化について。

・立命館大学アートリサーチセンターでも、ハーバード大学でも、文化資源のデジタル化・公開を積極的に行なっている。
・イェンチン図書館のペッツォールド・コレクション(日本の仏教資料)の紹介。日本の掛け軸400本をデジタル化事業に載せて公開することができた。
・一方で、中国のほうではハーバードが所蔵する漢籍60000冊を中国国家図書館との協働事業によりすべてデジタル化する、というプロジェクトが進行していた。
・アートリサーチセンターでは海外所蔵の江戸絵本類のデジタル化を行なっている。ただ、日本の資料をデジタル化することに慣れている技術者が海外にいるわけではない。
・ハーバード大学の中央図書館にはイメージングサービスという部署があり、プロのカメラマンが所属していて、デジタル化作業のための撮影などを行なう。。

・HOLLIS(ハーバード大学図書館のOPAC)では、例えば「kimono」というキーワードで検索すると、図書に限らずデジタル化・公開されている古写真も同様にヒットし、その検索一覧画面で着物姿が映ったたくさんのサムネイル画像を一覧できる。メディアのボーダーをこえて発見が可能。これが便利で、日本からでもわざわざHOLLISを使って探しにいく。
・デジタルアーカイブでは、技術的要件とかだけでなく、見つかりやすさ・探しやすさのための仕組みがしっかり整備されるべき。

・日本の学生が、海外の日本資料に、ネットを通じて触れる。という逆転現象。というデジタル・アーカイブ構築の意味。(注:このへん、赤間先生がすごく重要なことを言ってたはずなんだけども、うまく聴き取れず。要後追い。)

・現在のデジタル化事業には、フィルム時代のスピード感以上スピードが求められる。そういう感覚を持った人材を育成するのが「文化情報学専修」である。
・人文学にデジタル技術を取り入れる視点がなぜ必要か。ただ単にデジタル化するだけでは意味がない。新しい価値を生み出す活動・教育が必要。
・MITでジョン・ダワー教授らによって行なわれている「MIT Visualizing Cultures」というコース。日本その他のビジュアルな歴史的資料をデジタル化し、それを歴史学の研究・教育に活用する。
・人文系の学問では”知”が蓄積されてきた。それをデジタル化することで外部に出し、次の生産につながるようにする。そのような”知の循環”を起こす人材を育成していく。


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2013年06月07日

「知の広場ー新しい時代の図書館の姿」アントネッラ・アンニョリ氏講演@京都 20130606


・6/6 イタリア語学科主催講演会 「知の広場ー新しい時代の図書館の姿」
http://www.kufs.ac.jp/news/detail.html?id=3eae071978e28fb904d9351d5a3ec734&auth=1
・【イベント】アントネッラ・アンニョリ氏来日講演ツアー(5/25・仙台ほか) | カレントアウェアネス・ポータル
http://current.ndl.go.jp/node/23383
・CA1783 - イタリアの“パブリック・ライブラリー”の現状と課題 / アントネッラ・アンニョリ | カレントアウェアネス・ポータル
http://current.ndl.go.jp/ca1783
・Amazon.co.jp: 知の広場――図書館と自由: アントネッラ・アンニョリ, 柳 与志夫[解説], 萱野 有美: 本
http://www.amazon.co.jp/dp/4622075628



●紹介 (著書の翻訳者)
・イタリア・ヨーロッパなどで図書館建築家や行政と図書館員との橋渡しのような仕事を務める。
・来日の経緯について。初来日、3週間のツアー。日本の知人による有志によって、2年前から来日を準備していた。


●講演

●社会と課題について
・イタリアはとくに重い経済危機に直面している。もともとうまく機能している図書館では革新的なことが起こせている。ただ、公共図書館はイタリア中部・北部には多いが、南部にはほとんどない。
・一般の人に読書を普及させる図書館はあまりない。読書人口の割合が低いと言える。
・文化施設に人びとが行くことが少ない、というのが、予算が廻ってこないことの一因である。
・これから取り組まなければならない課題=いくつかの文盲*。
・テクノロジー。ただ図書館にコンピュータがあればいいわけでなく、教えるというファシリテータ役が必要。特にお年寄りはインターネットカフェになんか行かないので、図書館でパソコンとネットが使えて教えてもらえればよい。
・情報に関する文盲。インターネットでの情報探索収集能力。評価能力。
・読解能力・”読む”能力の低下、という問題。教育を受けた人でも継続的に本を読まなければ”読む”能力が落ちる。新聞を読んでもその意味するところを理解できない、と言う人が増えると、民主主義が危機に瀕することになる。元教育(?)大臣曰く、「イタリア人はいま頭ではなく”おなか”で考えている。熟慮の上で投票ということをしていない」
・図書館がその読解力の成長を支援しない限り、相手にもしてもらえなくなるだろう。

●サービスと資料提供について
・音楽・映画など視聴覚資料をどう提供するか問題。いまCD貸出は激減している。オンラインで入手できるから。となると、図書館がすべき仕事のひとつは、どうすればオンラインで入手できるかを教えて上げる仕事、ということになる。サイトをまとめて提供するとか。お年寄りに対してデジタル音楽ファイルを編集してCDに焼いてあげるサービス(!?)とか。
・オランダの図書館では、ほとんどの蔵書を平積みで配架している例がある。表紙を見えるように平積みで配架すると、驚くほど貸出が増えたらしい
・たとえば本の配列についても昔ながらのものではなく、人びとの興味の向けられ方にそって並べ直す。(ドイツでの試み)
・蔵書について、図書館員のほうからユーザに向けてファシリテータとしてそこにどういう本があるのかをきちんと理解してもらいにいく、という姿勢・仕事が必要。
・ティーンエージャーが図書館に来ないという理由はない。彼らが来たくなるようなスペースや資料がないからだろう。若い人に感心をもたない図書館員にはそれはできない。ティーンエージャーがたくさん来館している図書館がアメリカにあったが、その成功要因は、ティーンエージャーとともにその図書館のスペースを設計したからだ、とのことだった。どんな家具を置くか、何をしたいのか(ゲーム)、どんな図書館員にいてほしいか(自分たちと同じ趣味を持ってる人、自分たちと”近い”人)。
・アイデアストアというチェーンの図書館が成功している。建物がおしゃれなこと、だけでなく。図書資料についての多様な講習会が開かれるという文化センターの役割を果たしているから。宗教、裁縫・料理、などあらゆる講習会。その講師の多くは地域住民。

●建築と空間の機能について
現代人はみな時間がない。複数の機能がそれぞればらばらなところにあると、行く暇がない。ショッピングセンターのように、文化的な機能がひとところに集まっているような場所を設計できないか。
・図書館建築が大型化している。本だけではないニーズに応えようとしているため、多機能化している。
・複雑化する市民のニーズに対応する施設にならなければならない。
・多様でフレキシブルなサービスが可能な建築にしなければならない。
・日本の大学図書館のいくつか(明治大学など)は、人がそこにいて楽しい空間が設けられていた。それは公共図書館よりもよく整備されていた。大学図書館も人との出会いの場になるべき。
・イタリアで最近の図書館のトレンドのひとつ。ひとつのスペースが複数の目的で使えるように設計されている。柔軟である。そのためにパソコンもデスクトップの据え置きではなく、ノートPCを貸出して移動できるようにする。
・大学図書館でも見たけど、公共図書館でも、ラーニングコモンズ的な勉強空間が必要。自分の書斎を持てない人の支援。コワーキングへの支援。市民の集まり・ディスカッションの場の提供。
・『知の広場』がなぜ日本で読まれたか不思議だったが、日本も同じく、人が集まって何かをする場というのが必要なんだろうなと思う。かつては教会や労働者の集う場所があった。いまそういう場所が社会から減っていっているんだろう。そういう現在において、図書館がどう貢献できるか、そういうことを著書で問うてみた。
・図書館はそういう機能をもつのにふさわしい。なぜなら"ニュートラル"という性格があるから。年齢、社会地位、宗教、家のある人ない人、皆にニュートラルであるから。
・ペーザロの図書館。元は古い修道院。書架に全て車輪が付いていて、必要があれば動かして会場が作れる。書架フロアが講演会場にもなる。
・書架を移動させて、フロアで音楽コンサートができるようにする。大半の市民は文化施設に通ったりはしない。そういう文化施設は市民側に文化へのリテラシーを要求してしまうものである。でも図書館でコンサートを行なえば、そういうリテラシーを持たない人でも図書館に来たついでに接することができる。そういう人たちに文化に触れる場所を提供する、という機能が重要ではないか。
・図書館に関わっていくいろいろな人びとに参加してもらうこと。技術者・建築家・図書館員・IT・都市計画者。市民をはずして考えることはできないだろう。そのプロジェクトグループのメンバーがいろんな図書館に出向いて見学しに行くこと。
・光が多く入ること。
階段を人の集う場所として活かすこと。
ただ単に場所を貸すのではない。図書館と市民とがともに活動をするのだ、という姿勢。

●その他
・図書館員に新たなに必要とされるのは、人と本・情報との間に入るファシリテータとしての役割。本・資料が好きなだけでなく、複雑な問題を創造力を持って変革をおそれずマネジメントしていける能力が必要。
・ペーザロの図書館は、自分が退任してから、ソーシャルな性格がだいぶ失われているようだ。ちがう図書館になってきている。場所も必要だけれど、その中働いている図書館員が人びとを受け入れる姿勢を持つことが重要ではないか。

・日本に来たらみんなにツタヤのことを聞かれる。
・カフェと図書館と本屋の機能の組み合わせについては、図書館が主体であるべき、図書館の側からそういう組み合わせの提案が出てきてほしい。
・ツタヤの図書館では、本を持ったまま居眠りしているホームレスの人をどのくらい受け入れてくれるか、という問題。これが気になる。図書館が好まれる理由で多かったもののひとつが、お金を払わなくても一日中いられる居場所だ、ということ。課金されない、というのは現代において非常に重要な図書館の機能である。
・行政が公共事業を”やるのがめんどうだから”民間企業に任せる、というのは危険であろう。だが、旧来のあり方に固執するのもまたよくない。



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2013年06月04日

(メモ)「図書館旅行の時代」(日図研特別例会 2013.6.2)

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「図書館旅行の時代」河井弘志
(日本図書館研究会特別研究例会 2013年6月2日 京都大学文学部)
 17世紀から19世紀までに出版された数多くのドイツの図書館旅行記は,どこにどういう図書館が存在し,いかに蔵書を収集管理し,分類・目録はどうなっていたかを,学者・学生・図書館員に知らしめ,ドイツ図書館学成立の素地をつくる役割を果たした。その初期のUffenbachの旅行記を中心に内容を調べ,図書館学への影響を考えてみる。
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・中世のヨーロッパには旅行者が多く、外へ出て世界を見に行く、見聞を得に行くという風潮があった。
・その対象のひとつが「図書館」だった。さらにその見聞をもとに出版する=図書館旅行記、ということが行なわれた。
・いったいなぜそんなものを、書き、出版し、売り、買って読んだのか。

●文献
・Koheler(1762)『Anweisung fur reisende Gelehrte, Bibliothecken, Munz-Cabinette, Antiquitaten-Zimmer, Bilder-Sale, Naturalien- und Kunst-Kammern, u.d.m. mit Nutzen zu besehen』(当時の図書館旅行入門)
http://archive.org/details/desherrnprofesso00khle
・Becker(1980)『Bibliotheksreisen in Deutschland im 18. Jahrhundert』(最も詳しい研究)
・Boemer「Bibliothekarische Reisebeschreibung Bibliograhie」(Handbuch der Bibliothekswissenschaft. 3-1. S.594-599)(図書館史の書籍の中に、ドイツの図書館旅行記について概観した著作がある)
・ドイツの図書館旅行 / 河井弘志著. -- 藤代町 (茨城県) : 河井弘志 , 2002.9.
・「図書館旅行の時代」(ドイツ図書館学の遺産 / 河井弘志著. -- 改訂版. -- 藤代町 (茨城県) : 河井弘志 , 2000.11. p.53-80)

●Uffenbachについて
・ウッフェンバッハ (1683-1734)
 http://en.wikipedia.org/wiki/Zacharias_Conrad_von_Uffenbach
・フランクフルトの名家の出身。経済的に困ることはなかった。
・読書家・勉強家で好奇心旺盛な人だった。大学ではあらゆる学問にゼネラルに接していた。
・収書家でもあった。
・当時の出版情報誌を自分で購読して情報収集していた。
・収書の対象はもっぱらマニュスクリプトで、刊本は少ない、分野はまったく問わない。
・ドイツの市議会図書館(のちに市立図書館となっていく)を訪書したり、修道院が廃棄しそうにしていた稀覯書をごっそり購入したりした。
・当時学生の身分でそんなコレクションを持ってた人はいない。没時、蔵書40000冊。
・全集ものの収録著作の目録(索引)作成にも着手している。(完成は不明)
・当時のドイツの大学図書館はあまり本もなく整理されておらずまだまだ貧弱(数千冊単位)だった。個人のコレクション(数万冊単位)が中心の時代だった。

●Uffenbachの図書館旅行
・1709(26歳)-1711間の図書館旅行。ドイツ・オランダ・イギリスを歴訪。
・訪問先でも数千冊単位で図書を購入。
・没後蔵書はハンブルク市に寄贈された。

・図書館旅行記として出版されたのは『注目に値する旅行(Merkwurdige Reisen...)』1753-1754
・ぶっちゃけ話が多いので、出版が躊躇され、没後20年くらい経って出版された。
・「どの旅行者よりも信頼すべき情報を提供した」と評価される。

・訪問先をある程度くらいはあらかじめ決めていてアポをとっていたらしい。
・図書館訪問・文献調査だけでなく、大学での講義聴講、学者との面談、学術研究施設の見学など、好奇心旺盛だった。医学、機械、動植物園など。
・移動には郵便馬車を使ったりする。

●図書館見学
・カッセルでは、領主の図書館を見学。厩の上にあった図書館。(当時、図書館は厩の上や中に作られたりしていて、狭かったりした)
・書架の図をスケッチで記録している。本屋の平台付き書架みたいものなど。(<江上>このへんは『本棚の歴史』に詳しい話なので省略)
・「図書館にギャラリーが敷設されている」。ギャラリー=背の高い書架の中腹あたりに設置する足場付き通路。当時ある程度先進的であったと思われる。(ただし本は整理されていない)(<江上>
「ギャラリー」は"通路"ではなく"はしご"?)
・ある建設中の新図書館では、上に採光のための窓を付けるという当時最新式の構造だった。Uffenbachはこれに「危ない、壊れやすい」との見解を残しているが、確かにその通り、後年になって損壊がすすんだとのこと。(<江上>・・・あれ、うちの図書館そっくりの構造なんだけどな・・・。)

●文献調査
・訪問先で調査した文献を記録している。(図書館目録的なものではなく、自己流のメモ的なもの)
・訪問先の図書館については、文献・情報源で調査できる限りのことは事前にしっかり読み込んでおいて、現地でその内容を確認するようなことをしている。(シュトゥルーベが作成した目録など)(<江上>まあでもそれくらいはするでしょう)
・「どこどこにどういう本がある」ということを事前に調べておいて、現地で「それはどこにあるか?」と尋ね・調べて、「現地ではどうだった」というような記録を残している。
・事前調査と現物とでどこがどうちがうと指摘しているので、相当読み込んでいたのでは。

●図書館への批判
・「どこへ行ってもマニュスクリプトが放置されている」と嘆く。
・「資料を公開して利用に供する姿勢が図書館にとっては必要だ」
・「大きなコレクションでは、主題目録は役に立たない。件名目録(アルファベット順)じゃないと無理だろう」。
・司書「本を返さない人がいる。貸し出すべきじゃない」→アウグスヌス大公「だまってろ」
・「無知・怠惰・高慢な司書が配置されている図書館を残念に思う」

●イギリスにて
・ケンブリッジ大学図書館
・蔵書は寄贈者ごとに配架・陳列され、寄贈者の名前が書架に掲示される。そうしておけば「大事にしてくれるから自分もここに寄贈しよう」と思ってもらえる。
・当時の図書館の蔵書・コレクションは、”収集”よりは”寄贈”だった、とのこと。
・カレッジの図書館が、公共図書館の役目も持っていた。当時はまだ個人コレクションが主流で、公共図書館がうまれるまでの転換期だった。
・オックスフォード大学ボードリアン図書館。
・有料。閉架式。当時からすでに観光の目玉のひとつであった。「人びとがなにもわかってないのに喜んで騒いでいる」
・イギリスでは鎖付きの本が多かったようだ。ドイツに比べて保守的であったのでは。

●まとめ・図書館旅行記/図書館旅行とは。
・日記スタイルのものと、書簡スタイルのものとがある。
・どういう本があるという所在についてをメモ程度に記述されるだけで、書誌情報は詳細ではない。
・図書館旅行記を丁寧に読めば、欧州広範囲での活きた総合目録の機能を持つことになる。
・司書や学者に会うことを目的とした旅行でもあった。(訪書だけではない)
・歴史的・批評的な解題の付いた目録がほしい、ということを彼らは言っている。(<江上>こういうユーザのニーズは、残念ながらいまなおそのままでは)

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2013年05月28日

(メモ)『文化を育むノルウェーの図書館』を読んだメモ

 ざっと読んだメモ。
 でもほんとはもっと読まれるべき。

文化を育むノルウェーの図書館 : 物語・ことば・知識が踊る空間 / マグヌスセン矢部直美, 吉田右子, 和気尚美著. -- 東京 : 新評論 , 2013.5.
9784794809414

・人口500万人で公用語が3つある。
・定住移民13%。

・ブックボート。
・ノルウェーには、イースター休暇には推理小説を読む、という習慣がある。(!?)

・大学は40弱。ほとんどが国立か公立。学費無料。学生ローン制度。
・書籍代が高価なので指定図書が必須。
・2001年大学改革による、海外との単位互換、留学生増加。
・ドランメン図書館は、公共図書館と大学図書館が一体化した館。
・全国共通図書館カード。1枚のカードで全国の図書館を利用できる。大学図書館も同様なので、学生は図書館カード(=学生証)でほかの大学図書館も利用できる。大学に属していない利用者も、公共図書館のカードで大学図書館をそのまま利用できる。「学歴が高くなりつつある傾向はノルウェーも日本と同じで、仕事の専門性も高くなっている」。ただしこの制度に加入している図書館は全体の75%で、公共図書館は積極的だが大学図書館は消極的。
・新聞投稿記事「大学図書館は必要だろうか?」(Aftenposten, 2012.8.13)

・国立図書館と著作権管理団体との合意で、1900年から2000年までにノルウェー国内で出版されたすべての図書約25万冊がデジタル化され、国立図書館のサイトで無料公開される。(ノルウェー国内からのアクセスのみ)利用されたページごとに0.33-36クローネを国立図書館が著作権団体に支払う。経済的損失が大きいと判断されれば非公開に戻すことも可能。
・ノルウェーの書籍は出版部数が多くないため、一度絶版になると古書でも入手し難い。だからデジタル化に大きな意義がある。

・ノルウェーで日本語を教える大学は、オスロ大学の他にベルゲン大学やトロンハイム大学があるが、これらの大学では日本語・中国語ができる司書は勤務していない。
・日本学の規模が大きく歴史も古いオスロ大学。
・日本学を専攻すると、日本語を学び始めて二年目に一学期間、日本の大学で勉強することになっている。(そのサポートby日本の大学図書館は?)
・2001年の日本学科学生新入生は20人。→2013年60人。
・課程を修了しても日本語を活かした仕事をノルウェーで見つけるのは困難。
・日本文化の興味は圧倒的にポップカルチャー。その中でも、マンガ・アニメからJポップやJファッションに人気が移りつつある。(10代の男性→10代の女性へ)
・「セリエテーケ」。オスロのマンガ専門図書館。日本のマンガが多い。
・マンガがノルウェー語訳されることは現在はなく、日本語版か英語版。
・日本文学と言えば村上春樹。
・かつては英訳からのノルウェー語訳が多かったが、最近は日本語から直接訳されるようにもなる。

・人は、自分だけの私的空間が必要であると同時に、みんなで集まって自由に過ごす公的なスペースが必要。


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2013年05月24日

図書館はなぜ"支援"をするのか : いわゆる「若手研究者問題」に寄せて


 前回(我々は「若手研究者問題」を観測できているか http://egamiday3.seesaa.net/article/362795408.html)の続きで。

 前回の要旨をざっくり言うと。
 ・大学の籍を離れる若手研究者が、図書館の資料・サービスにアクセスできない。
 ・そういうキャリアパスは以前に比べて通例化・固定化していく。
 ・それを含め、全体的にユーザ・研究環境・社会全体の変化移ろいを、大学・図書館は観測できてないのでは。
 ・若手研究者に限らず学内外のユーザについて、それぞれのニーズとその変化移ろいを理解して、図書館資料・サービスへのアクセスを支援していくべき。

 で、じゃあ籍のない人をそこまで"支援"するのは何故か、ていうか、"支援""支援"言うとるけど、支援ってのは何かね、と。

 ちょっと前にとあるところでとある人たちと、そういうディスカッションになったことがあったです。大学やその図書館は、学生に対して学習支援をする、と言う。研究者に対して研究支援をする、と言う。それってどういうことなんだとか、どうちがうんだとか、確かそんな感じの。まだ肌寒い梅の咲くような館でハートランド呑んでましたんであんまよく覚えてませんけど。
 まあそんときは、研究支援はアウトソーシングだだの、学習支援は引き上げる支援で、研究支援は持ち上げる支援だだの、まあそんな感じのことをやいのやいの言うて、自分も何とはなしにうんうんと聞いたりちゃちゃを入れたりしてたんですけど、なんかこう、ずっと、違和感がある。言葉にも何もならないんだけど、え、"支援"ってそういうもんなんだっけ、いやそういうもんなんだろうけど、それで果たしていいんだろうか?というもやもやがずっとある。

 我々は、"何のために"、誰かを支援するんだろうか、と。

 たまさか、あるところからそういうお題でしゃべれって言われたり書かなきゃいけなかったり、ていうのもあって。
 だから、いまのうちにここではさんでおきますけど、あいかわらず特に具体の論がここにあるわけじゃないですそれはごめんなさい。もっと手前の、支援を阻むささやきに対峙するためのモチベーション的なものの在処をじっくり見定めてる、的な感じで。

 誰かが誰かを支援する、これの一般的な空気感では、支援する人が支援される人のために何かをする、助ける、与える、という、相手のための行為なわけです。そんでもってそれがどうやら、持ってる人が持ってない人のために、できる人ができない人のために、用意・余裕のある人が用意・余裕のない人のために行なうのが、まあまあ一般的な"支援"だろうってことになっていっちゃうと、大学・図書館が学習支援をおこなうんだ研究支援するんだ、支援支援と言うほどに、あれ、なんかこう、大学・図書館が自分で自分をずりずりと上座方面へ寄せに行っちゃってる気がする。でもそれって、ほんとにそうなんだろうか、と。俺たちゃ助ける側だぜっつって、自分で自分を上座に立たせるのが"支援"、じゃないだろう、と。
 支援は、相手のため、だという。相手を利するために、学生さんや研究者が効果的効率的に学習・研究して生産性を上げられるようにするためにやるんだ、と。学習支援で学生が利益を得るし、研究支援で研究者が利益を得るんだ、と。それはまったくそのとおりなんだけど、でもほんとにそうなんだろうか、相手を利する、ただそれだけで終わるんだろうか、と。
 そりゃだって、大学や図書館は授業料や税金補助金を受け取ってるわけだから、何のために受け取ってるかと言えば、学生や研究者を支援するためだろう、と。そういう機能を持った存在で、そういう役割を担っているんだから、当たり前だろう、と言われれば、これももうまったくそのとおりなんだけど、じゃあそれはつまり支援を"させられてる"ということなんだろうか。支援することが義務で業務で、支援を"することになってる"からという、やらされ感盛り合わせの理由で支援をしてる、とでも言うんだろうか、と。"させられてる"からこそ、逆に、支援する謂われのない相手を支援しろと言われたら拗ねるんだろうか。そういうことじゃないはずで、大学・図書館の支援という行為に自らの意思・想いみたいなのがあるだろう、と。

 我々は、"相手のために"支援する、わけではなくて。だけではなくて。
 それと同等かあるいはそれ以上に、"自分のために"誰かを支援する、んじゃないのか、と。

 ここで言う「自分のため」というのは、じゃあひとつには、具体的にかぼんやりとかで自分に利益がめぐってくることを期待している、というのが、「情けは人のためならず(自分のため)」的なものがあるのかもしれない。
 海外の日本研究者を支援しようと言うのは何のためか。めぐりめぐってそれが日本の利益/不利益に影響する問題だから、ということをあたしはよく言います。ちょいちょいあおります、そのくらいだいぶわかりやすくした言い方じゃないと伝わんないかな、っていうときは多少ネギ多めに入れます。日本製e-resourceが少なくて不便で海外に普及しない。日本の情報がweb上に効果的に発信されない。デジタルでもアナログでもひきこもってて、アクセスしようとする人でもアクセスできないし、ましてやそんなんじゃ、はなっから専門でもないし執着もないし日本リテラシーもない人に対して訴求力がうまれるわけがない。それが、日本の存在感の低下や退潮傾向とリンクしていくんじゃないのか、ていう。「ニーズがないから、アクセスされない」わけじゃなくて、むしろ「アクセスする余地がないところに、ニーズはうまれない」わけだから。日本はもはや、一時のバブル的な経済成長を持った国でもないし、そもそも黙ってても手本にしてもらえるアメリカやヨーロッパの大国でもないし、派手で勢い強くて急角度でイマドキの注目を浴びるような中国その他の新興国ってわけでもないんだから。だから、他ならぬ我々自身の問題として、海外からの日本資料・日本情報へのアクセスを、我々日本の大学・図書館・その他種々の業界は支援していきましょうよ。
 っていう一連の話の持って行き方になっちゃうと、これはまあ、かなりの体重のかけ方で「自分のため」と言ってる例になっちゃうかもしれない。

 でも、そうやってあからさまに「自分自身のため」とだけ言うと、その語感では、何か具体的な利益に直結することを期待しているように聞こえてしまうので、じゃあどうしよう、「自分を含めたこの世界のため」に誰かを"支援"するんだ、とでも言ってみましょうか。

 自分がいまいるこの社会、そして世界のため、ひいては人類全体のため。
 社会や世界・人類がこうであってほしい、こうなってほしい、こう変わってほしい。そういう、自分が望む未来の姿がある。
 その、自分が望む未来の実現に向けて、そのために、いまここにあるもの・力・スキル・知恵知識情報、何らかのリソースをもって、誰かを"支援"する、必要なものを整備していく。

 考えてみれば、誰だってどこのどんな業界業種に属する人だって、産官学にかかわらず、みな誰かしらを"支援"しようという背景というかモチベーション的なところにあるのは、そういうことなんじゃないのかな、と思うです。思いたいです。
 困っている相手を支援するのは、相手が困ってるからだけじゃなくて、支援を必要としている存在があれば支援が可能な存在が支援をするような、そんな社会・世界であってほしいからじゃないのかなって。そう願いたいです。
 
 その中でも、大学図書館なり研究図書館なりその司書なりが行なっている支援とは何か。
 大づかみに言えば、資料・情報、文化資源・学術資源と呼ばれるものを確保して、必要とする人に必要とされる資料・情報をつなげる、効率的・効果的なアクセスを可能にする、と言えるでしょう。

 じゃあ、そういう"支援"を行なうことで、我々はいったいどんな"世界人類"や"未来"を望んでいるんだろうか、ということになるわけですが。
 うん、言ってみればそれは。

 研究・科学・学問という手法が信じられる世界。
 知恵・知識・情報というものを確かな礎としていられる世界。
 我々の社会が何かしらの未来をつくろうとするにあたって、人類が過去これまでに産み出した知恵・思想、見出した知識・情報、あるいは逆に過去の過ちや愚かさや失敗の事実、そういったものを、可能な限り共有・継承し、それらを堅実に踏まえ梃子とすることで、次の一歩をどう踏み出すかを判断する。
 そういう世界であってほしい、そういう姿勢を持って未来をつくる人類であってほしい。そういう姿勢を認め、敬意を示すことができる我々でありたい。

 おまえホントか?と思われるかもしれませんが、少なくとも自分は、そういう願いのもとに学習支援や研究支援、機関外部からの人への支援や海外の学生・研究者への支援というものを、司書という職業として、あるいは一個人の司書として、やってるんだろうなと思います。
 まあ、意識の下の下、7-8枚くらいめくったところくらいの意識として、でしょうけど。それがあるからやってられるというか、それがなきゃできないだろうというか。山ふたつ向こうの湖のほとりにきれいなお花畑があるんだというのを励みにでもしなきゃやってけないというか。そのくらい遠い意識としてですけど。

 だから、研究・科学・学問という手法をもって、何かしらを実現・生産するために、その礎たる知恵・知識・情報にアクセスしようとするユーザがいれば、若手研究者だろうが一般利用者だろうが、海外からだろうがなんだろうが、支援するでしょう。まあできる範囲ででしかないですけど。
 コピーがほしいと直接電話してくる山間いの町のご婦人のためにその町の図書館に電話して尋ねて折り返しでそのご婦人におたくの町の図書館の何という係に何という人がいてその人が相互利用というサービスの担当者さんだしさっきちょっと検索してみたら欲しい本はおたくの県内にあるってその担当者に言うといたからと伝えたりとか。できる範囲でしかないですけどそれは。

 e-resourceや研究のデジタル環境整備を必要だと判断するのも、別にそれがデジタルで最新でイマドキの流行だからそっちにとびついてる、とかでは決してないわけです、それがユーザ支援に有効に働くと判断できるから採用するわけです。しかも、資料のデジタル化なり環境のデジタル化というのは、進行すればするほどそれに伴って、研究・学習のあり方もユーザのニーズも変わっていくし、そうなれば当然、図書館の支援のあり方や矛先も変わっていく。
 でも別にそれは、目の前のユーザや資料の変化だの一挙手一投足に右往左往してふりまわされなきゃいけないってんでもなんでもなくて、この世界全体を俯瞰で見通して、吉田初三郎的に、ていう前回のやつ(http://egamiday3.seesaa.net/article/362795408.html)にやっぱりつながるというあれです。

 さて、ここまでさんざっぱらに抽象的な言葉を言いたいだけ広げ散らかして、現実にかえってみると。
 問題は、どんな世界・未来を望んで"支援"するのか、について、大学・図書館、そこに属する我々は、どこまでどのように共有できてるんであろうかなあ、という。我々内だけではもちろんなくて、社会・世界全体とそれを共有できてるのかなあ、という。
 共有できてないからそうなってんだろうなあ、というニュースを最近ちょくちょく目耳にするわけで。
 
 まあでも、そういう共有ていうか言いたいこと言い合いの一助として、#西洋史WGの報告会に行って話聞いたり、それをまた報告したり、こうやってブログに書いたりしてるんだなあ、ということにいまのところはしておきます。
 そんなところです。

posted by egamiday3 at 12:58| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年05月21日

我々は「若手研究者問題」を観測できているか : #西洋史WG に寄せて

 
 いわゆる”若手研究者問題”について、です。

 この発端的な、西洋史若手研究者問題アンケート調査の報告会、というのが5/12にあって、それをちょっと聴いてきたです。
 以下は、この話題関連のリンク。

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若手研究者問題と大学図書館界―問題提起のために― / 菊池信彦 | カレントアウェアネス・ポータル
http://current.ndl.go.jp/ca1790
西洋史若手研究者問題アンケート調査 -中間報告書-
https://docs.google.com/file/d/0BwaWDVN0tXzWNmM4THJuTlU3REE/edit
2013年5月12日(京都)アンケート調査報告会 - 西洋史若手研究者問題検討ワーキンググループ
https://sites.google.com/site/futurehistoriansjp2012/history/20130512
西洋史若手研究者問題アンケート調査報告会 - Togetter http://togetter.com/li/501796

(参照)
大学院出たあとも図書館を使わせて! - Togetter
http://togetter.com/li/477855
若手研究者問題に対して大学図書館員/大学職員としてできることはないだろうか? #西洋史WG - ささくれ
http://cheb.hatenablog.com/entry/2013/05/12/225852
再掲:図書館の利用を目的とした研究生制度の導入 - 発声練習
http://d.hatena.ne.jp/next49/20130512/p3
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 リンク、って言ってもこんだけ多かったらよくわかんないと思われてしまうかもしれないんですけど、まあ端的には1番目の「若手研究者問題と大学図書館界―問題提起のために―」(http://current.ndl.go.jp/ca1790)のことです。
 あと、この調査報告書に収録されている自由記述のうち8番目(p.30)が「大学図書館」関係のコメント群らしいんですけど、まあそこまで見に行くのもあれなんで、そんなに長くもなかったしちょっと↓にベタって引用しておきますね。

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@非常勤教員や、大学院博士課程に進みながらも教員や一般企業へと就職した若手研究者が、国内どの地域でもリサーチや研究を続行できる環境が欲しい。たとえば、関西で学んだ院生が、東北や北海道で就職したときに、自由に勤務地域の大学や研究機関でリサーチできる環境作りが必要なのではないか。

A学会として大学図書館(電子ジャーナル等も含む)の利用を支援するなどできないのだろうか。これから研究生活と個人の生計が分離していくように感じているが、その際、大学に所属していないということが、文献を集める上で相当な障害になると考えられるので、会員の推薦者がいれば、学会として身分を保障するといったことにとりくんで、多様な研究人生がありうることを示せないだろうか。

B経済的に厳しくなりやすいのは,むしろ博士課程の3年が終わってから。学生の身分がなくなるので出身大学の図書館を使用するのさえ困難となることもある(少なくない金額を払って聴講生・研究生となる方法もあるが)。例えば、とりあえず無給のポストでも構わないので、図書館のアクセスを保証し、研究者としての肩書きも与えてくれるものを設置するなどして、研究活動を継続しやすい環境づくりに配慮する方向性を(個別の大学ではすでに対策を講じているケースもあろうが)学会としても打ち出して、大学など各方面に働きかけてもらいたい。

CODが大学非常勤講師の職の有無を問わずに大学図書館を継続して利用できるよう、制度の改正をしていただきたい。
 周知の通り、西洋史研究者の場合は、海外からの文献取り寄せなど、大学の図書館を通じてしか利用できないレファレンスサービスを利用することが不可欠である。
 ところが、最近では大学非常勤講師の仕事を見つけることすら困難なため、大学図書館の利用権を全て失う可能性が以前よりも高い。また、学位取得後にいつまでも出身校の近くに居住するわけでもないので、出身校の図書館を使わせてもらうこともできない。こうなると、個人の力ではどうにもならない。もはや研究の継続は不可能である。それは、実験道具を奪われた理系の研究者が研究を断念せざるを得ないのと同じである。
 このような事情のために、なかなか職に恵まれない優秀な研究者が研究をあきらめることがないよう、対策を講じていただきたい。

(「西洋史若手研究者問題アンケート調査 -中間報告書-」. p.30. https://docs.google.com/file/d/0BwaWDVN0tXzWNmM4THJuTlU3REE/edit
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 この「大学の籍を離れることで図書館の資料・サービスにアクセスできなくなる」問題の切実さは、自分にもよくわかります。

 昔々、自分が国文系の院生だったころって、いまほど大学院重点化の影響がまだ出てなかったと思うんだけども、それでも、自分よりもっと上のドクター出たあとの先輩たちの中にはK大さんの図書館とその蔵書を利用したいから、という理由で、科目等履修生の身分を受講料払って得るということをしてらした、という話を聞いてました。たぶん、よその大学に非常勤講師の身分を持ってても、そうしてた人もいたんじゃないかな、それくらいK大のしかもB学部の蔵書が使える/使えないは大きい、っていう。
 そんな昔に遡るまでもなく、つい1-2年前に自分自身にも似たような経験があったんですけど。本書『本棚の中のニッポン』執筆中の文献集めのときです。うちの図書館のILLがNII相殺は公費払いのみという運用で、自分の執筆はプライベートだしそもそも研究者の身分を持ってるわけじゃないので、そう実は、研究図書館に勤めてるからといって、イコール、研究者としてその図書館のユーザになれるわけでもなんでもない。しょうがなくて結局どうしたかっていうと、たまさか非常勤講師を勤めるのに籍を置いてた立命館大学の図書館さんにわざわざ出向いてそこでユーザとして私費支払いのためのILL依頼してた、ていう。あとNDLさんの個人向けのILLも相当多用して、でも、NDLさんにない文献も結構あるし。これ自分、立命に籍なかったらあの本書けたんだろうか、と思うと、そこそこゾッとしますね。
 だから大学図書館員は、接遇接客的な研修とか、自己アピールとかプレゼンとか、アクティブなワークショップとかもそれはそれでいいんだけど、それよりもなによりも、「ユーザとして図書館を利用して切実に困る」という研修をさせたほうがいいんじゃないかな、って。
 筑波の長期研修とかで演習課題として出題してみたらいいです、何かしらのテーマの文献を網羅的に集めて入手するとこまでやんなさい、って。そこで「但し、自分が勤める大学図書館の蔵書やサービスを使わずに」って条件入れたら、↑のCAで言われてることがどういうことなのか、大学・図書館が(学内外問わず)研究者を資料・情報の面から支援するということがどういうことなのか、たぶん身体でわかるだろうな、って。まあでもそうか、それ以前に、文献を自分のために本気で収集する、っていう経験を定期的にしてない大学図書館員自体がどうなんだっていうあれですけど。

 それはそれとしても、ほんとに、これ簡単に解決できることじゃないとはわかっていても、それでも短気なり中期なり長期なりでなんとかしていける余地がないものかな、って。

 こういう話題になると、金・人・時間がないからって、そのことばかり盾にするタイプの議論する(ていうか議論しようとしない)パターンになっちゃうことあるけど、あれってなんだろう、この業界だけが特別に金・人・時間がないとでも思うてはるんだろうか、という気がする。いまどきどこの組織・機関・業界だって金・人・時間がないのなんか同じだし、ていうか、大学図書館がそんな余裕ないってことくらい重々承知の上で、それでもなお問題提起してはる、ってことくらいはわかるだろうし、だったらわざわざ理由に挙げんでもいいのになあ、ていう。いや、挙げるなら挙げるで、挙げた上でなおどんな支援ができるかということを、できる範囲ででも検討なりディスカッションなりしてったらいいんで。

 もうひとつ、学外・所属外が相手だからコストかけて支援できないんだ、ていうパターンのやつもあるんだけど、これは確か数年前からですけど、いま日本のほとんどの大学図書館が、学外者からのアクセスに応えるために、人・金・時間を、機関リポジトリその他に注ぎ込んでらっしゃるわけです。機関リポジトリやオープンアクセスや所蔵資料の電子化に、おどろきあきれるほどたくさんのリソースやコストや熱意やメーリングリストを注ぎ込む。最近じゃMOOCなんてものまである。学内外問わず資料へのアクセスを支援する、そうすることが社会への貢献であり還元だという感じのことは、もちろん、自分だって充分以上に理解しています。で、だったら、その精神でそれが実現できるなら、それと同じ理屈で、所属のない若手研究者や一般ユーザへの支援、図書館蔵書へのアクセスや図書館サービス利用を可能にするための人・金・時間もあてられるんじゃないかな、って思うんです。少なくとも拒絶の理由にならんだろうって。機関リポジトリやその他の電子化は、デジタルで流行りの技術でみんなが横並びでやってて対外的にアピールできてお金がもらえやすいからやってる、ていうわけじゃなくて、所蔵資料へのアクセスを誰からも可能にして障壁をなくすためにやってる、んだと思いますし。多分。

 とはいえ、いくら支援支援とは言っても結局注ぎ込むリソースがないと、何もできやしないのは当然のことです、そりゃそうです、金・人・時間というリソースをこの問題の補修に注ぎましょう、そういうことを、まあどこまでできるかどうかわかんないけど、少なくとも前傾姿勢で、考察なり検討なりディスカッションなりしていきましょう、というのが、もちろんこれは大学図書館単体の問題じゃなくて、大学全体の問題として必要である、と。
 でもってどうやら現状は、そういう補修への注ぎ込みなり、そのための前傾姿勢なりはとれていない、と。
 ということは、この問題においては、いわゆる若手研究者、オーバードクターなり、非常勤講師なり、キャリアパスの過程で一時的に大学の所属を持たなくなった研究者・ユーザに対して、大学なり図書館なりは、リソースを注ぎ込みコストをかけるだけの意義・価値を認めていない、いや認めてなくはないしそんなこと言えないけど、まあ現実問題として他に割り当てなあかんところはたくさんあるしというんで、うん、わかるけど、なんかちょっと、まあまあ、そういうもんだし、という感じになってる。

 それは、たぶんもっと昔なら「まあまあ、そういうもんだし」で済んでたところが多かったんでしょう。オーバードクターや非常勤講師や大学所属を持たないキャリアパスの一期間・一部分、それを選択せざるを得ない制度や環境というものが、いや、そのキャリアパスさんはもともとは"時限的"なものだし一部の人が"選択的"にたどるキャリアパスさんだったわけなんで、だから「まあまあ、そこまでのコストはちょっと」、だったんでしょうたぶん。
 ところがいまとなってはご時世が変わって、そのキャリアパスさんが事実上の"通例"となり"固定化"してしまっていて、若手の研究者が進路の過程で「大学無所属」の時期を我が身に引き受ける、ましてやそれが長期・固定化する、というのは珍しい話でもなんでもなくなった。いやむしろ、そうならないキャリアパスのほうがよっぽどめでたい話じゃないかという空気すらどこかある。そこまで行ってしまった。
 なのに、どうやら大学&大学図書館の、リソースの注ぎ方や制度・ルール、意義・価値の認め方のほうはというと、「まあまあ、そこまでのコストはちょっと」のご時世のままである、と。

 これ、どうなんだろう、と。
 もちろん若手研究者の具体的な益・不益も問題だけど、ちょっとごめんなさい、それ以上に何がヤバイって、もしかしたら大学&大学図書館&大学図書館員は、ユーザ・研究環境・この世の中の変化移ろいを観測できてない(あるいは観測してない、または観測した上でスルー)、その綻びの一部がここにあらわれてるんじゃないかなって。
 今回はこの話題で「いわゆる若手研究者問題」に対してそういう兆候が見られたけど、いやたぶんこれだけじゃない、同じパターンで、ありとある諸問題の「変化・移ろい」というものを観測できてない(してない/した上でスルーしてる)んじゃないか。いや、ありそうでしょう、と。だとしたら、この業界って相当ヤバくないか?、と。
ていうか、それができてたら、あの西洋史報告会にもうちょっと図書館関係者来ててもいいだろう、ていう。

 「若手研究者問題」はたぶんそういうでっかく綻びかねないヤバさの中の、ひとつ、なんでしょうたぶん。(若手研究者のみなさんごめんなさい)
 もちろん、この問題への短期的・対処療法的な補修はそれはそれで必要なんだけど、たぶんそれだけやって、ああすっきりした、では、これは残念ながら「観測できてない」ことに変わりはないことになっちゃう。
 そうじゃなくて、もっと長期にというか俯瞰で、吉田初三郎的に考えるのであれば、我々大学&大学図書館&大学図書館員は、ユーザ・研究環境・この世の中の変化移ろいを、たゆむことなく常に観測して、真摯に向き合っていかなきゃなんじゃないかな、って。
 風を読んで。潮目を読んで。
 あと変化移ろいだけじゃなくて、学外・社会、公共図書館の現状とか一般ユーザのいる場所とか海外ユーザのニーズとか、そういう地理的範囲の広さも。そういう意味でも吉田初三郎的に。

 そういうふうにして、若手研究者にしろ、そうじゃない他のタイプの学内外のユーザにしろ、それぞれのニーズを理解してそれに沿った支援をしていくのが、大学であり大学図書館であり大学図書館員のやるべきことなんだろうな、って思います。

 そうまでして、研究者とは言え学外の、所属外の存在を"支援"していくもんなのか?とおっしゃるむきはあるかもしれない。それ、おまえがいま、大学が共同的に利用する機関におるから、大学にいてへんからそういう気になってるだけちゃうんか、と言われるとそれはまあそうかもしんないです、今日一日のお仕事も労力で言えば外の人への支援に費やしたほうが大きかったし。

 じゃあ、さっきから"支援""支援"と言うとるけど。
 "支援"って何かね?ということを考えるわけです。

 これはどうやら、「続く」パターンでしょうか(笑)。

posted by egamiday3 at 22:46| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年05月01日

「ボストン美術館・日本美術の至宝」展@大阪、に行ってきました・記録


 ボストン美術館。
 どうかすると日本のどこの美術館・博物館よりも、自分にとってはホーム的存在な美術館。
 その、日本コレクション里帰り展。

 東京でやってたときと比べるとだいぶ広報のテンションも低いというかゼロに近いくらいで、あ、やってるんだっけ、と一生懸命思い出さないと気づけないくらいでしたが、ゴールデンウィークのどまんなかに行ってきました。朝一番だったのでそれほど混んでもない中で比較的ゆっくり見れた感じ。

 以下、あれこれのメモ。

・ビゲロー、フェノロサ、岡倉天心の3人に集中的に背負わす感じ。
・さすがに、東大寺にあったという8世紀の曼荼羅図(法華堂根本曼荼羅図)にはびびった。8世紀、て。ていうびびりもそうだし、それがこんな手の届くようなところに掛かってるのか、というびびりもそうだけど、結構な蒸し蒸しと暑い人の熱気の中に掛かってる、ていうびびり。
・弥勒如来図の線描画に押されてる、高山寺の朱印とこまい注記(明恵上人らしい)の愛おしさ。
・13世紀の四天王像のそこそこな劣化具合。そうよなあ、13世紀でこうなのが、8世紀でああだから、あれはすごいよなあ、という再度のびびり。

・吉備大臣入唐絵巻。
・空飛ぶ吉備真備は、素で噴く。
・どのシーンでも屋根(緑)だけ退色が激しいので、そうなのかなあと。
・絵巻1軸をほぼ全開にしてて、それなりの長さあるんだけど、途中に押さえらしき押さえも何もないのに紙面が真っ平らでピンとしてる。ピン札かというくらい。あれはどういうテクニックで展示してはるんだろう?

・長谷川等伯の竜虎図屏風。トラがかわいいなあ。
・伊藤若冲の人は、こんなごんぶとで流れるような墨の絵を描くんだなあ。(十六羅漢図)
・尾形光琳の松島図屏風が、なんかもう、とんがってるなあ光琳、という感じ。宗達派の芥子図屏風の生真面目なんと比べたらえらい違いになってる。

・・・・と思ったら、曽我蕭白のとんがり具合がずば抜けててびびった。中国の聖人を描いてるはずなのに久米仙人見立てとか、何をあてつけてくれてんの(笑)、ていう。なんかもう、ちょうどこのころのふざけ戯れ尽してるような文学のノリを、そのまま墨で絵にしたんだなあ、という気がする。文学っぽくもあり、北斎漫画っぽくもあり、即興芸っぽくもある。こんなでっかい屏風絵なのにぜんぜん迷いらしきものがなく描かれてるから、たぶんこの人の目にはまっしろい屏風の面にすでに何かしらの絵が映って見えてて、それを描きに行ってる、ていう感じなんだろうなあ、と思う。そういう”見えてる”人が、こういう絵を描くんだろうなあって。
・雲龍図。修復の様子がビデオで見れたけど、はがされた状態でずっと保管されていたとのこと。今回はもとの襖仕立てで公開されてるけど、えらく背の低い襖だなあと。お寺さんだとこのくらいだっけ。
・本展のマスコット(雲龍図)が出たところで、終了。

・中谷美紀の人はおとなっぽいナレーションをするんだなあ、と思った。
・あと、ボストン美術館本館の日本コーナーは、こういう美術史の通史みたいな感じじゃなくってもっといろいろ工芸品とかもあるから、ぜひおいでになってみてください。

posted by egamiday3 at 20:39| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年04月30日

Ustream試験放送(#002 D志社ナイト@京都 20130426)の記録

 
 2年ぶり2度目のUstreamラジオを、半ば勢いではありましたが、やってみましたという記録。

 Ustream 試験放送(仮)
 #002 D志社ナイト @京都

・2013/4/26 20:30頃から (約1時間半ほど)
・Ustream http://ustre.am/BxYV
・サイト https://sites.google.com/site/shikenhoso/
・ハッシュタグ #shikenhoso
・当日のtogetter http://togetter.com/li/493842
・当日のアーカイブ(一部分・15分のみ) http://www.ustream.tv/recorded/31978943

・演者
 ゲスト・パーソナリティ: yuki_o ・ min2fly
 (ホスト・ディレクター:egamiday)
・トピックス 不定

・放送場所 D志社大学司書課程資料室
・機器 H先生提供の集音マイク+ノートPC
・映像 なし

 以下、記録・反省点など。

・1週間前に開催された「京都・MALUI名刺交換会」にて、酒の勢いによって、とりあえず来週1回やってみよう、ということで決定。(ちなみに第1回(2011年8月)も、酒の勢いによって「とりあえずやってみよう」という感じで決定した。)
・なお、通称として「egamiラジオ」が相当程度に定着しつつあるものの、名称は未定。
・また、その通称の定着具合に反していまだにたったの2回しかやっていないことに対し、え、そうなの?という怪訝そうなコメントが数件寄せられている。

・今回のラジオで伝えたかったこと(そして、伝えられたこと)は、次の2点。
・1、パーソナリティおふたり(yuki_o・min2fly)の人となり。すでに充分に名の知られた存在で、ご自分でたくさんのコンテンツをネットなりリアルなりであますことなく発信していらっしゃるおふたりで、それはブログやtwitterや講演や著作などで触れられるし、なので、じゃあここでは「おふたりが持っているコンテンツ」というよりは「コンテンツとしてのおふたり」=「人となり」に、お話をうかがいながら触れることができないだろうか、描けていけないだろうか、ということを考えてみる。特に、京都にやってきて、D志社の教員という立場に降り立って、やっと1カ月くらいといういま、若葉萌ゆる季節のような「いま」の話を聞くことで、何かしらが描けないだろうか、という。
・2、D志社司書課程資料室という場の有り様。会場としてお借りしたのだけど、その場を作り上げようとしていらっしゃる先生、ギャラリーとなってくださった学生さんたち、それらの人たちが集まっている様子、空間としてかつ集いの場としての雰囲気や、お互いの関係性。そんな、かたちにも言葉にもまだなっていないような「”場”」が持つ魅力のようなものを、コンテンツとして伝えられないだろうか、という想い。

・これら2点はどちらも、たぶん、定まった”かたち”を持っているわけじゃないし、明瞭な言葉では表現できそうにないし、コンテンツとしてはすごくふわふわした実体のないもの。なんだけど、まちがいなくそこには”魅力”があるし、その魅力をわかってくれるだろう受け手も少なからずいるはず、ということがわかっている。それがわかってるんだったらじゃあ、”かたち”はないけど”魅力”はある”コンテンツ”に、かたちを与えて”受け手”に伝えるのが、すなわちメディアというものなんだろう、と。かたちのないコンテンツに、(今回で言えば)ラジオというメディアを持ちこみにくる意義、というのはそこにあるんだろう、と。
・なお、以上2点を「伝えたかったこと」というふうには書いてるけど、企画時からそういうことを伝えたいと明確に意図していたわけではまったくなく、なんとなく放送していくうちに、あ、自分はほんとは今回こういうことを伝えたいとなんとなく思っていたんだなあ、ということを意識するようになり、意識がそっちにシフトしていった、という感じ。ひと言で言うと「結果オーライ」。
・あと、パーソナリティのおふたりのほうは「何かしらの定まったトピック」を伝えたかったのかも知れない、というのは今後の課題。
・そういった意味で言うと、ギャラリーで参加してくださった学生さん、積極的で、みな自分の中に何かしらの「かたちのないコンテンツ」を持っていそうなみなさんが、自らメディアを獲得してそのコンテンツを外界に伝えていく、そういうことが期待できるんじゃないかと思うし、お話をうかがってみるとこれはどうやら実際に期待できそうだな、ていう。

・このラジオの試みは、実際に第1回目もそうであったように、例えば「MLA連携についてアピールしたい」とか「時事のトピックについて議論を届けたい」というような「具体的なコンテンツをアウトプットしたいからそれを目的にやっている」という企画でもなんでもなくって、むしろ逆で、「話したいことがある人・ありそうな人に、話して伝える場を提供する」ほうが目的でやっている試み、です。
・かつ、自分的には、その試みを通して「メディア(ここではラジオ)とは何だろうか」ということを考え、知見を蓄積する。そして、最終的には「メディアを掌握する」こと。そういう野望の過程の”試験放送”です。

(参照(↓なんだかんだで同じようなことを前回も書いている))
・Ustream試験放送(第1回MLA連携ナイト@京都 20110820)の記録(その1): egamiday 3   http://egamiday3.seesaa.net/article/223145618.html
・Ustream試験放送(第1回MLA連携ナイト@京都 20110820)の記録(その2): egamiday 3   http://egamiday3.seesaa.net/article/223256292.html

posted by egamiday3 at 19:03| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする