2018年04月07日

2018年3月のまとめ


●総評:
 リソース不足とイベント過多をよく耐え抜いた、耐え抜いただけだったけど。

●まとめ
・読み→書きサイクル簡素化の確立
・イベントに次ぐイベント、リソース不足に次ぐリソース不足の危機
・「アンナチュラル」
・ワークショップ「日本の古地図ポータルサイト」
・”日本”の”古””地図”を「日本の古地図」から解放する
・送別会幹事というレファレンス業務
・突如始まるビール談義、または転職について
・いまのビールの分類体系は、マイケルジャクソンが作った
・「仁和寺と御室派のみほとけ」展(特に観音堂再現)
・アーカイブサミット京都リプライシンポ@デジタルアーカイブ学会
・仁和寺(リアルの方)
・中等教育学校
・定例会@高野麦酒店
・裏庭マンホール施行
・赤おにの本気@解析室
・蔵書は増えることに意味があるのではない、蓄積を活用するフェーズが本番
・シンポジウム「「国際日本研究」と教育実践」@NBK
・エルビス・ジュース(ブリュードッグ)
・90年会第1話「僕らだって、ヒーローだ」(表現制限の妥当性への疑問と、制限下の創作の可能性という希望)
・京都クィーンの会@ぜぜかん→バンガロー
・セーフティーネットについて
・限りある肝臓を本当に美味いクラフトビールにためだけに使おうキャンペーン
・シンポジウム「新たな文化芸術創造活動の創出」@立命館ARC
・御所
・るりお
・即席報告会
・ビア小町
・疏水分線(桜さがしとしての)
・NBK10年のまとめ (丸10年勤めました)

●月テーマ制
・「読み→書きサイクル簡素化の確立」
 →なんとなく出来たかなと。
・「ドイツに着手開始」
 →手つかず。4月から本気出す。
・「いま忙しいから、忙しくなくなった後のことの準備をいまのうちにしとく」(持ち越し)
 →何したらいいかわかんなかった…

●4月の月テーマは
・「OCLCまとめ」
・「ドイツを具体化」
・「そもそもレポート課題とは何か」
 、の3本です。

 なお裏テーマは「雑魚はかたしはらえ」「有酸素運動」。
posted by egamiday3 at 21:26| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年04月01日

NBK10年のまとめ


 ※この記事は”エープリルフール・フリー”(つまりウソとかではない)です。

 この年度末(2018年3月末)をもって、現職に就いて丸10年が経ちましたことを、ご報告致します。
 あ、転職記事とかではないので、4月からは11年目を迎えることになります。

 30代半ばから40代半ばという時期にひとところに腰も腹も据えてみると、何ができるものなんだろう、と考えながらふりかえると、できたこと、できなかったこと、やっておきたかったこと、まだやれそうなこと、やるつもりでtodoリストに入れてたけどいつのまにかふわっと消えてて、まあやんなくてもいいか的なことなど、いろいろ思いは巡るわけなんですけど、とりあえず、どんだけのことできたかなという記録を残す感じで。

・システムリプレイス1回目 (2009-2010年)
 前任者がお膳立てした仕様書その他を引き受けて、入札〜導入を担当したもの。内容的にかつ手続き的にわけがわからんことばっかりなうえに、そもそも他人から引き継いだものというわけわからなさのディスアドバンテージもあり、という種類の苦労をしたものの、その道に強い同僚がいてくれてたおかげと、全体的に大した変更もない感じだったのとで、幸いにして辛さはなかったという感じ。

・外書館(第2資料館)完成 (2010-2011年)
 新しい建物が一つ建って、面積が1.5倍に増えたという事件。フロアプラン作成とその所内調整、施設設備プランとその所内調整、これも施設担当者ほか各方面からの教えとご協力でなんとかかたちになったもの。これに加えて、蔵書26万冊(当時の全蔵書の過半数)の再配置&大移動をプラン&指揮するという”大物パズル”に取り組む日々でしたが、なんていうか、たぶんこの手の”パズル”が好きな気質なんだと思います、じゃなきゃできてない。

・温度湿度計測 (2011年頃から)
 外書館完成を機に、館内各フロア・各室の温度湿度環境の計測・監視と管理をちゃんとしないとヤバいだろう(実際ヤバいことがあった)、という感じになって、それまで対処療法的にしかやってなかった温度湿度計測を、2011年頃から全館対象&定期的に、2012年頃からは毎日やるようになった、というやつ。
 さほど大きくないトピックながらなぜ取り上げたかというと、これ毎日やるの結構手間は手間なんですけど、やってみると各フロア・各室の実態を職員各自が身をもって理解できるようになり、何かと敏感になって対策行動をとるようになったりして、窓やカーテンのケア、除湿器・空調のケアをこまめにするだけでなく、紫外線対策や害虫調査の開始にもつながったりする。さらには、保存環境と資料への影響を気にするようになると、劣化フィルムの媒体変換や配置場所の変更なんかにも及ぶようになる、という感じで、いろいろいい方向に転がる起点になってたんじゃないかと、いまにしてみれば。
 「継続は力なり」って”蓄積”よりも”展開”のほうで力なりだったりするかもしれないですね。

・転籍 (2011年)
 仕事としてやったことではないですが、ここに挙げたほぼすべてのプロジェクトに影響するファクターのひとつとして。

・『本棚の中のニッポン』執筆・刊行 (2011-2012年)
 これも仕事としてやったことではないですが、この職場とこの職において、自分の力の及ぶ範囲でできたことがあるとするなら、これもその大きなひとつなので。
 これがあったからこそ、仕事をする上で何かと話が通りやすく協力が得られやすく、仕事がやりやすくもなり、仕事をどうしていくかの指針にもなり、仕事が増えることにもなり、という感じでした。という意味で、ありがとう>自著。

・資料館3階改装・貴重書庫増設 (2012-2013年)
 1フロアをまるごと改装して、空調入りの基調書庫や古典籍室等を増設したもの。温度湿度計測をはじめとする環境管理への取り組みと考え方が、地味に役に立ったひとつかと。何より、置けない本が置けるようになるというのは、とても心がすがすがしくなるもので、ちょっとやそっとの寄贈ではうろたえなくなりました。このときの蔵書移動は1.6万冊。

・大英博物館へ春画運び(2013-2014年)
 専門ではない分野・種類の資料を、専門ではない業界の方法にのっとって、接したことのない業者や個人の人々と接しながら、事故なく預かって事故なく外国へ運ぶという、最初から最後まで何ひとつ”やったことのない”ことばかりをやってたという、ミッション:インポッシブル過ぎるやつ。春画の先生や、ロンドンの学芸員や、ヤマト運輸の専門家や、古美術商の人たちに助けられつつ、わからないことは一から調べ、勉強し、聞いてまわって、なんとかする、という”リアルMLA連携”でした。(参照:http://egamiday3.seesaa.net/article/376964225.html

・映像音響館(第3資料館)完成 (2014-2015年)
 ウソでしょと思いましたけど、新しい建物がもう一つ建って、面積が当初に比べて2倍に増えたという事件。これもさらに、フロアプラン作成とその所内調整、施設設備プランとその所内調整。前回の外書館(第2資料館)がほぼ全フロア書架&図書を置けるだけ置く、というプランだったのに対し、今回の映像音響館(第3資料館)は視聴覚室・グループ閲覧室等の”機能を持たせる”使い方をすることになった関係上、機器・家具・什器の類の検討と調整に悩まされたという感じでした。このときの蔵書再配置&大移動は24万冊、これも大物パズル。
 ただ、実を言うと外書館(第2資料館)ができただけではまだ本の置き場所が不足していて、本のずらしや別置移動といった作業が日常茶飯事で非常にしんどかったのですが、えらくしたもんで映像音響館(第3資料館)ができるとさすがに日常的な図書移動はせずに済むようになり、これまたちょっとやそっとの大規模寄贈ではうろたえなくなりました。

・システムリプレイス2回目 (2014-2015年)
 なんと、よく考えたら、映像音響館完成対応と業務システムリプレイスとが同じタイミングで進行してたんですね。しんどかったはずだ。
 しかもこの時のリプレイスは、OPACが次世代っぽいやつに大幅にかわるやつで、わりと検討・調整がかかった気がする。

・EAJRSでブース出展を開始 (2015年)
 それまでEAJRSへの参加は毎年継続できていたものの、教員による発表がメイン、事務方はそのサポート的な位置づけでした。それが、2014年ルーヴァン大会に参加したときに、出版社・ベンダーによるブース出展とワークショップがおこなわれるようになっている。そしてそこに公的機関であるアジア歴史資料センターさんも参加している。だったらうちとこも、これに乗らない手はないですよね、事務方主体で具体性・実効性のある広報活動ができるんだし、というんで、諸調整して翌2015年のライデン大会から実現させたもの。いまでは「リソースプロバイダーワークショップ」というかたちで、歴博さんや国文研さんなどの国内のたくさんの公的機関も参加くださってます。

・中断していたCEAL/NCC参加を再開 (2016年)
 北米でおこなわれているCEAL/NCCへの日文研からの参加は、2008年まで毎年おこなわれていたはずなのですが、不運にも途中でお取り潰しされ中断の時期がありました。その再開のため、水面下/表面上で数年かけてくりかえし提案・調整して、時間はかかりましたがなんとか2016年トロント大会から再び参加できるようになった、というもの。これがのちのOCLCにもつながった、のかな。

・OCLC WorldCatに目録登録&WorldShareILL参加開始 (2017-2018年)
 かねてより、海外ILL受付の実績が少なく、受付方法もふわふわしてて確固たるものがなく、海外機関や海外司書に懸命に広報してみてもいまいち手応えが得られず、ということが長年続いていたのを、もうハーバードから帰ってきて10年経とうとしてるのにまだILLひとつ解決できてないっていうのをある意味”キレ”たかたちになって、いいよわかったよ要は早稲田さんみたいにOCLCに直で入れってことでしょうよ、っていう勢いで紀伊國屋さんや各種関係者に教えと協力を請うたところ、諸々のタイミングと各方面のご理解が重なって、かなりスムーズに実現したので、ありがとうございます、あとはほんまに実務レベルでのILL受付対応をこなすフェーズです、ていう感じ。

 もちろん、大項目として挙げたこれらだけでなく、中小規模のあれこれ--土曜開館、デジカメ・スキャナ対応、NDL研修・JAL研修・同志社実習の受入、ガイダンスや蔵書点検のルーチン化、NDL送信サービス、展示室・機器室・企画室等の各室整備、機関資料の確保、各種各地での登壇・会議出席--は枚挙に暇なく、その度ごとに教えと協力を請い、調整してるという感じ。また、外書館・映像音響館レベルではないにせよ、数万・数千冊単位の図書移動も、集密/固定書架の館内随所での増設も、ほぼ毎年のように発生しており、その度ごとに中小規模のパズルに頭をひねってるという感じです。

 何事によらず、ご理解・ご協力くださった/くださっている各方面のみなさまに、あらためて御礼申し上げます。

 2008年4月、最初来たときは当然ながら、まさか10年(以上)勤めることになるとは思ってもいなかったわけですが、リアルに同じ部屋の同じ机につきながら、諸々の業務・事業に取り組み、諸々の資料・人・国・機関に触れ、タスクをtodoリストに入れたり出したり右から左へ受け流したりしているうちに、10年になりました。

 ふりかえって思うこととしては、できることはやったらいいし、できないことや難しそうなこと、コストパフォーマンスの悪いことは、無理にがんばってやることもない。ただ、がんばる必要もないけど、あきらめる必要もない。
 やりたいんだったら、とりあえずやってみる、ダメならどうすればできるかを考える。うん、やっぱりがんばる必要もないし、あきらめる必要もないですね。
 正直、実際にやるかやらないかはあんまり重要じゃないし、何が何でもやらなきゃって、やること自体を目的化(特に短期的に)してしまうと、あんましろくなことにはならないんじゃないかなと思いますね。そもそもそんなカリカリしてやったことが良い方に転ぶか悪い方に転ぶかは、結果出るだいぶ先までわかんないわけだし。
 それよりは、やりたいか(意思・志向)、やるべきか(意義・需要)、どうすればできるか(算段・問題解決)のほうがむしろ重要で、そこが醸成できてればあとは調整とタイミングの問題だから時間がかかってもよければそのうちやれることもあるんじゃないかな、ていう。
 そんなこんなしてるうちにそれなりのタイミングで、出せる結果が出せればいいな、というのが、これまででもありこれからでもあります。

 そんな感じです。

posted by egamiday3 at 20:39| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月29日

福田安典『医学書のなかの「文学」』を読んだメモ

福田安典『医学書のなかの「文学」』
医学書のなかの「文学」: 江戸の医学と文学が作り上げた世界 -
医学書のなかの「文学」: 江戸の医学と文学が作り上げた世界 -

「医学書を知らなければ鑑賞どころかまずは理解できない作品が確かに存在する」「悪ふざけ気味のもじりによって、堅苦しい医学書が一転して粋な洒落本へと転じている」「戯作でいうところの「見立て」」
「医学書をタネとすることが作者、読者にとってある種の快感があった」
「医療に従事していない人間が、単なる「読み物」として「医学書」を楽しんでいたという前提を認めなければならない」
「医学と文学という対立構造、医学書と読み物という取り合わせへの違和感などの先入観をまずは外して、近世期の作品のいくつかを読む必要性」
「『医書談義』のような作品は医学書と読み物との二つの顔を持つ作品で、その必要性を感じる人間にとってみれば実用書、必要性のない人間にとれば単なる読み物である。現代の人文系書物と自然科学系書物という対立概念を無意味化させる書物」
「生きる希望や指針を与えてくれる「読み物」は実用書、それが医学書であったにしても遊び心を刺激するのみの書物は文学書という住み分けも可能であろう」

「初期洒落本の作者・読者は知識人であって、彼ら仲間の「楽屋落ち」的諧謔味の強い…そのメンバーに都賀庭鐘のような医学に通じた人物がいた」

「『教訓衆方規矩』はその人気の医学書の形態をまねることで、人目を引こうとしている」「医学書に擬態する文学作品たち」
「かたや文学書、かたや医学書の大きな違いがあるのかもしれない。しかし、表現や知識には共通性が認められる。それはどうやら作者の共通性の問題ではなく、読者も巻き込んだ共通性」
「発売直前に医学書の扮装をした『加古川本草綱目』」「この書名は「能楽質」から新時代に迎えられそうな『加古川本草綱目』に変えられて出版された」

「□の中に適当な「漢字」をはめこめば誰でも医案を作ることが出来る…(医学天正記、武道伝来記など)他医の力量不足を挙げてから自身の功績を、「漢文」の「書付」で喧伝するという型式が一致する」

「竹斎」
「その滑稽性は医学に通じていなくても、特に曲直瀬流を知らなくても感得はできようが、曲直瀬を知っていればその読書の愉悦は倍増するであろう」
「そういった咄を、流行に敏く、又曲直瀬家に通じる道冶が、謡、狂言、既成の笑話、はやりの狂歌や書簡体、『伊勢物語』等の諸文芸を、これでもかと動員して、曲直瀬の事蹟をからめて一篇にまとめたのが古活字版『竹斎』であった。…「竹斎」を単なる庸医の笑話から、幽かな雅趣を漂わせる物語に仕立てたところに作者の筆の冴えが感じられる…これほど滑稽で気の利いた作品はなかったであろう」
「当初の御伽の医師の医学知識を盛り込んだ「語り」は、「書き物」となり、その「書いた物」は滑稽、芸能と結び付く「文学書」となった」「その後に、このヤブ医の「書いた物」は堅苦しい鎧と大義(「滑稽」と「教訓」)をまとう」

「医学書と読み物との間には実は何もなく、ただ現代の学問が作り上げた「異領域」という幻想があるだけなのかもしれない」

(コラム「医学書のある文学部研究室から--いかなる手順で医学書を繰ったか」)
(´-`).。oO(この企画がさすが、ていう)
「このコラムを読んでその気になった若きライバルたちに、本書及びその方法論そのものを思う存分に叩いていただき、この世界の魅力を大いに喧伝していただきたい」

(あとがき)
「最近になって…「古典」は単に文学だけに非ずとの風潮が生まれたようである。…その挑戦の一つが国文学研究資料館古典籍共同研究事業センターの設立である。…その共同研究の一つが「アジアの中の日本古典籍--医学・理学・農学書を中心として」…共同研究の方法論と成果、この画像のネット発信がそろい踏みすれば…これからは医学書や本草書を用いた新たな研究の潮流が予想される」

posted by egamiday3 at 23:52| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月18日

『リポート笠間』No.63 特集「日本文学研究と越境、学際化、国際化 : 2017年の現在地」を読んだメモ

『リポート笠間』 No.63 特集「日本文学研究と越境、学際化、国際化 : 2017年の現在地」
http://kasamashoin.jp/2017/10/63112730.html

●「学際的研究ということ」(浅田徹)
・「いくら「学際的」イベントを組んでも、研究者に新しい発想が生まれなければ意味がない。刺激を求め、類例を求めてあちこち渡り歩くことが必要だ。…「学際的研究」は、自分がやることであって、他人にしてもらうことではない。」

●「英語での学会発表が気になる日本文学研究者のために」(勝又基)
・「英語での学会発表デビューにおすすめな方法は、パネルのパネリストになることである。パネルというのは米国の学会での標準的な発表形式で、2時間弱を一つのグループで発表することである。標準的な流れは、オーガナイザーが趣旨の説明をし、パネリスト四人程度が口頭発表を行い、ディスカッサントが発表者に代表質問を行い、さらに会場と質疑応答を交わす、というもの。」
・おすすめ学会: ASCJ(日本アジア研究学会)、AAS(米国アジア学会)、AAS・in・Asia、AJLS(アメリカ日本文学会、北米の大学が持ち回りで、通例十月末?十一月初旬に開催)、EAJS(ヨーロッパ日本研究協会、書物への関心が米国に比べてヨーロッパでは高い)
・できれば英語原稿は自力で。「日本語とちがってゴマカシが聞かない。英会話の先生に論理の飛躍をズバリと突かれることもある」
・Youtube「Harvard Horizons」。ハーバード大の大学院生が話し方やパワーポイントの作り方を指導されたうえでプレゼンする。
・「The Journal of Asian Studies」の書評「Book Reviews」。「手頃な長さで、海外における日本学の研究動向も学べる」

●「相互理解のための日本文学研究―日本文学研究の国際化の方角」(小松(小川)靖彦)
・コソベル・プロジェクトについて。(☆もうちょっと知りたい)
・日本文学研究の国際化が「日本文学の特質(特殊性)の解明≠ノ止まるならば、日本文学研究の「国際化」は、世界的にはローカルなものに止まるであろう。ロンドンでの在外研究期間中に、日本と海外の研究者による日本文学の学会開催や共同研究などがあったが、その成果がロンドンに伝わることはなかった

●「これからの学問と科研費―科研費審査システム改革2018・再論」(藤巻和宏)
・「「学際」「越境」等を標榜し、より広い視野で研究することがよしとされる傾向は以前からあり…一方で、研究者は一分野の専門家として養成され、確固たる専門性が求められる。とはいえ、その「専門」とは…無理やり近代的な枠組みで整理…次はその枠組みを解体しましょうとばかりに学際性を謳う…不器用で試行錯誤の繰り返しに見える営為」
・「防衛省による安全保障技術研究推進制度」「この制度は理工学や情報学のみならず、いずれ人文社会系の学問へも範囲を広げてくるだろう」「これからの我々の行動、言論、思想、そして研究の積み重ねが、学問の将来を大きく左右させる」

●「井の中の蛙、大海を覗く―中国人民大学の窓から」(小峯和明)
・(中国の日本文学研究)「業績はあくまで中国内部に回収されるもので、日本語で書いて日本で刊行されたものは評価の対象にならない…日本語で論文を書くことに鍛錬されたのに、それがかえって母国では活かされない」
・「日本文学の学術刊行物で国際的に評価される媒体がほとんどない…今までいかに学界が内向きでやって来たか」
・「中国では英語教育が徹底していて、日本古典を専攻しても、実際は日本語よりも英語の方が得意だという院生もいた」
・「柔道は今や国際スポーツと化して、日本のルールはすでにローカルとなってしまった。日本文学・文化研究もいずれはそうなるのではないか。というより、もともとローカルだったのが、国際化の進展によってローカルであることがより顕在化」
・「海外の研究者の業績が外国語で公刊されても、日本ではその著者と関わりのある特定の人間しか知らない…それまでの研究水準をはるかに上回る重要な研究であるが、邦訳がないため日本では充分対象化されていない。知らない間に海外の日本学が進展し、日本で日本語だけで研究している学界が置き去りにされる事態が進みつつある」「最先端の研究を掌握し得ていない研究の末路は火を見るより明らかだ」
・『日本文学研究の展望を拓く』全五巻(東アジアの文学圏、絵画・イメージの回廊、宗教文芸の言説と環境、文学史の時空、資料学の現在)

●「ハイブリッドな「日本文学を読む場」へ向けて」(河野至恩)
・「国・地域を越えて移動しながら学ぶ学生が増えている…ヨーロッパ域内で移動しながら学ぶ学生、東アジア出身の学生が北米やヨーロッパなどで学んだ後に日本に来るなど…アメリカで研究者としてのトレーニングを積んだ者が、こうしてアジアの研究ネットワークに関わること」
・「日本(語)で書かれた文学作品が、世界各地の様々な場所で、日本語のみならず様々な言語の翻訳で読まれるとき、読者がそこにどのような価値を見いだすか、という問題…幅広い関心から日本文学を「世界文学」として読む読者がいる。それらの様々な読者に、テクストを届け、テクストを解釈する材料を届けること」
・「日本国内の研究者も、欧米の人文学でどのような議論が展開されているか、そこに日本文学のテクストがどのように接続できるのかをよく考え、自らの研究のなかでその接続を行っていくことが重要」
・「実は、このようなハイブリッドな場は、多くの場合、既に海外の日本研究の拠点で実現されていると思う。私個人の経験からしても、様々な研究の関心と様々な能力・適性・知識を持つ人々が集まり、そのなかから異分野間に思わぬ関係が生まれて、創造的なものが生まれうる環境が生まれているケースをよく見る」

●「人文学としての日本研究をめぐる断想」(将基面貴巳)
・「人文学一般に広く見受けられる問題的状況のひとつは、このような「学問のプライベート化」(privatization)」
・「一企業も国内・国際社会の一部であるかぎり、その企業活動は、ただ単に営利を最大化するにとどまらず、その企業が生み出す製品やサービスを通じて、国内外の社会・文化生活に望ましい貢献をし、その営利活動の結果生み出された富も、関連財団の活動や公的施設への寄付などのかたちで、社会に還元されることが期待されるはずである。それと同様に、学問も、学問的な真理の探究と、そうした活動を主に支える大学の活動を通じて、国内外の社会に対して、学問が果たしうる固有の仕方で貢献すること(経済的貢献だけではない!)が期待されるはず」
・「真理の探究という学問的精神の根幹こそは、市民社会における良心、批判精神の担い手としての役割を大学に負わせるもの」
・「歴史研究は、現代との対話を通じて、なんらかの意味において知る価値のある史実を提示する責務を担っている。しかし、それは、現代における諸問題に直接的に解決策を示すためではなく、むしろ過去に成功した解決策に頼ることの知的怠惰を戒め、自分の頭で考えて現代固有の課題と対決することを教えるもの」
・「専門外の読者にとって、現代という文脈において自分の研究がいかなる意義を持ちうるか、について考えをめぐらしつつ研究をすすめる必要がある」
・「大学院生としての学問的トレーニングが共同研究チームの末端を担うだけに終始するなら、卒業時に学位こそ得ることはできても、そもそも自分が、自分の生きる時代との関わりにおいて、その研究を行う根本動機と意図とは何なのかを自問し、沈思黙考する機会はほとんどないままで学生時代を終えることを意味する」

posted by egamiday3 at 22:58| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月17日

2018年1-3月期のドラマ感想(たぶん追記予定)

 2018年1-3月期に見たドラマについて、まだ終わってないのも多いんだけど、昨日の『アンナチュラル』の最終回を見たら、あ、これ今期ひと区切りついたな、と思ったので、感想のまとめ。

●『アンナチュラル』

 見始めは、1話ごとに謎解き解決の法医学ものだから「そりゃおもろいに決まってるだろう」なやつその1、くらいにしか思っておらず、あとは、地味でチャラチャラしてないちゃんとした石原さとみが見れていいな、くらいの感想だったんだけど、見てるうちに、あれ、これだいぶおもろいな、と思い始めて、それでも何がだいぶおもろいのか自分でも分かっておらず当初の「そりゃおもろいに決まってるだろうなやつ」バイアスが長いこと邪魔してたんだけど、このブログ記事(「ドラマ『アンナチュラル』の脚本があまりにも巧妙すぎて驚きが止まらない」 http://www.jigowatt121.com/entry/2018/03/03/134945)を読んで、ああ、自分で言語化できなかったことを代わりに言って分からせてくださる人がいた、ってなって胸がスッとしたので、有能な”解説者””批評家”というのはあらまほしきことだなあとしみじみと思いました。
 この『アンナチュラル』と『99.9%』は、社会派か人情派か謎解き派かコメディ派かのキャラ分けを越えて、なんというか”怒り”を上手に描いてくれてるな、っていう感じがしたなと。(人によっては、泣ける、哀しみ、を感じるところ)
 あと、もう40分過ぎて残り時間少ないのに、これ今回で解決するの?2話連続パターンか?と思ってたら、しっかりバスっと終わる、っていうのがたびたびあってすげえなって思った。最終回も、終わんないじゃないかと思ってた。謎解きがしっかりしてるのに謎解きに固執していないところが、バスッとさなのかな。
 あと、毎回大小さまざまな”裏切り”が何回も起こるのが、もぉっ、てなる。
 あと、CiNiiらしきものとオープンデータの活用。

●『99.9%』II

 1話ごとに謎解き解決の法廷ものだから「そりゃおもろいに決まってるだろう」なやつその2。これも、”怒り”を上手に描いてくれてるなと。
 あと、1-2話の夏感。
 佐田家。

●『隣の家族は青く見える』

 他人が同居してる家族感が好きなので見てたやつ。
 こちらは”怒り”ではなく”わかりあい”を上手に描いてくれてるなという感じ。みんな違ってみんないい、けど、一緒に住んでる、ていう。という意味では、実は水泳教室のチーフ?の熱弁が何気に一番印象に残ってる感じ。
 あと、やっぱり日本のドラマには高畑淳子が必要なんだよ、ていう。

●『海月姫』

 瀬戸康史の美形さばかりが周囲では取り沙汰されてましたが、いや、あれは「天水館メンバーの演技合戦」が一番の見どころだろう、と思って、他人が同居してる家族感が好きなので見てたやつ。
 あと、リアル建築保存案件。
 あと、さすが日本のドラマに江口のりこがいてくれて良かった、ていう。

●『anone』

 さすがの脚本。濃い。固い。痛い。あたたかい。しんどい。物理的にしんどい。さすがのとんでもない脚本。
 1話目見ただけでは、これが何のドラマなのかさっぱりわからないうちに、終わって、でもおもろかったという感想が出る、とんでもなさ。
 展開のはやさと振り回しっぷりが、前半は「1-2話見逃すと筋が追えなくなる」レベルだったのが、後半はもはや「毎話見てても、2-3話見逃したくらいでも、あまり変わらないんじゃないか」くらいのレベルだった。
 地味でチャラチャラしてないちゃんとした広瀬すずの人も見れた。
 あと、さすが日本のドラマに江口のりこがいてくれて良かった、ていう。あの人が出ると、話をどっちにも持って行けるのがすごい。
 これも、他人が同居してる家族感が好き。

●『BG』

 キムタクさんのドラマというだけでどうしてもハードルを上げて見てしまうけど、冷静に思い返すと実は毎回ちゃんとおもろかったんじゃないか、という気もする。
 徹底しておっさん扱いされるという意味で新鮮なキムタクさん。
 あと、キムタクさんのドラマは脇が豪華になるの法則がちゃんと出てて、そこ。木村拓哉と山口智子の口げんかin2018とか、どんなご褒美だと。 

●『トドメの接吻』

 時間ものはできるだけ見るようにしてるという理由だけで、最初どうしようもなくチャラくてウザい話でしかなかったのを、ただただ時間ものとして見るためだけにひたすら我慢して見てたら、後半になってすぅっとおもしろくなり始めたので、あれっと思い、最低画質録画ででも我慢して見てて良かったな、という感じ。『リピート』が最初良さげに見えてて結果最後までほぼ何も起こらないに等しかったのと対照的というか。たぶん後半になって「誰が何のためにリピートするのか」が描かれるようになった、からかしら。話自体は特にどうということはなく、これが時間ものでなかったら『もみ消して冬』のように何をどう見たらいいのかわからなくて早々に切ってたことでしょう。

●『また来てマチ子の恋はもうたくさんよ』

 ちょっとおもろい→だんだん狂い出す→ひたすら狂う→待てもうちょっと分かるようにしてくれ、で終わり。
 さすがの脚本としか言いようがない。

●『わろてんか』

 後半になって、創作論・演技論・メディア論・昭和芸能史、みたいな話になり始めてから毎話見るようになった感じ。広瀬アリスの人が上手いなという脇で、松尾諭の人の「しゃべりの下手な奴」という演技が、絶妙に”しゃべりが下手”で、すげえなって思った。


posted by egamiday3 at 10:31| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする